妙に歪な体をしていたのは当たり前だ。
遠目からではボルゾイのように細身の大型犬に見えたが、近くで見ればあれは決して犬ではないことが一目で知れる。
その程度にしか変質していないのは、救いでも何でもなくむしろひどく惨い。
あれは人間の女性の体を無理やり犬の形にかろうじて見えるように歪ませ、変質させたもの。
人間としての面影が色濃く残っているからこそ、もう人間ではないのに犬にもなりきれない、同一の仲間なんてどこにもいない、あまりにも憐れな化け物と成り果てた存在。
一目でわかった。わかってしまった。
ソラは資料に添付されていた写真をちらりと見た程度だったのに、それでもわかった。
あのおぞましい「犬」は、それほどまでにはっきりと「キヨヒメ」の面影を色濃く残して変わり果てていた。
「答えろ。お前たちはいったい、彼女に何をして何を奪った!?」
飢餓の果てに発狂して殺されて使役されている犬神と同じくらい、おぞましくて痛ましい憐れな存在に成り果てた犬神遣いを、キヨヒメを目の当たりにしたソラは、アトラムの胸倉を掴んで揺さぶって尋問する。
「!? し、知らない! あいつがそんな姿になっていることすら知らなかったのに、理由なんか知る訳ないだろう!!」
しかしアトラムは首を締め上げられて揺さぶられ、床に何度か頭をぶつけられても「知らない」と答える。
その答えにソラは眉間に皺を盛大に寄せて、さらに問い詰める。
「知らない? お前、不審死が起こる前にアルバに依頼したのはキヨヒメの幽霊を見たからじゃなかったのか?
あんな姿に変わり果てた妻を見たから、アルバに依頼したんじゃなかったのか!?」
「私が見た時は普通に生前通りの姿だった!!
そんな化け物になっていることを知っていれば、初めからお前のような武道派の除念師を連れて来いと協会に依頼している!!」
ソラの嫌味のような問いにアトラムは即答で叫び返し、思わずカイトが軽く目を見開いた。
あの犬がキヨヒメだったことは驚いたが、全くの想定外だったかと言えばそうではない。むしろ、嘘だと思っていた「キヨヒメの幽霊を見たから、ハンターに護衛を依頼した」という話に信憑性が出来たくらいだった。
自分の周囲で被害が起こる前に護衛の依頼をしたのは、キヨヒメに恨まれる心当たりがあるだけではなく、彼女の幽霊が生前の彼女のままの姿どころか、人間の原型を留めていない方がよっぽど救いがあるような変質を遂げた異形だったからだとカイトは解釈していた。
この期に及んでまだ見苦しく虚言を吐くのかと思ったが、アトラムは顔を青くして完全に恐怖で引き攣っている。否定の声もやけに上ずっており、さらに言うと寒さで歯の根が合わなくなっているようで、舌を噛み千切ってしまいそうなほどガチガチと歯を鳴らしていた。
どう見ても、未だに嘘をつけるほど冷静だとは思えない。
恐怖と混乱を極めているからこそ、意味のない嘘に固執している可能性もあるが、それならそれで整合性のとれた嘘などつけるわけがない。
自分が見たキヨヒメの幽霊は生前通りの姿をしていたからこそ、恨まれる心当たりはあったので早々に護衛の依頼をしたが、危機感はさほどなかったから優秀な念能力者を最初から強くは求めなかったというアトラムの言い分は、カイトの初めの解釈より筋が通っているし、ソラの言葉や問いに対して傲岸不遜だったプライドが崩れ去って恐怖のあまりにパニックに陥っている現状にも説明がつく。
アトラムは本当に、キヨヒメがあんなにもおぞましい変質を遂げていることなど知らなかったのだろう。
しかし、ならばまた謎が生まれる。
アトラムの言い分が事実ならば、キヨヒメは半年前までは人間の姿だったことになり、またしても奇妙な「空白」が生まれる。
アトラムが雇われてから、キヨヒメが死んだとされ葬式が上げられるまでの半年。
キヨヒメの死後から、キヨヒメの幽霊が現れるまでの1年半。
それらと同じように、キヨヒメが人間の姿を捨てて犬に変質してしまうまでの半年という「空白期間」に説明がつかない。
アトラムが最初に雇われていた時期の空白期間に関しては何もわからないが、キヨヒメの幽霊が現れるまでの1年半なら、ただ単に自分が利用されていたことに気付かず、愛する夫に死後も寄り添っていたキヨヒメが事実を知ってしまったのがそのタイミングだったと考えればいい。しかしそれならば、この時点で愛が憎悪に裏返って姿は人から犬に変質しているはずだ。
間違いなく、何かがある。
1年半もの間、何もしなかったキヨヒメがアトラムの前に姿を現したが即座に報復をしなかった理由も、半年という月日の間で人間の姿を捨てた理由が間違いなく、その時期にあることは確信できるのに、カイトにはそれ以上のことはわかららず、グチャグチャに絡まった思考の糸に苛立ち、頭を掻きむしって舌を打つ。
そんな弟子の様子を、一瞬だけジンは横目で見た。
その目は、ここまで来てまだキヨヒメの目的も、アトラムとアルバの罪も、この依頼の核心にたどり着けていない弟子に対しての失望でも呆れでもない。
むしろ、羨んでいるようにも見えた。
アトラムとアルバがしたこと、キヨヒメが奪われたものが何なのか想像できない、そんな発想が生まれない彼の心と、連想してしまうような奴らにまだ関わったことが無いことを、ジンはもしかしたら純粋に羨んでいたのかもしれない。
「……へぇ、そう。
じゃあ、質問を変えようか」
アトラムの言葉に、ソラの眼はまたさらに明度が上がる。
遥か彼方の天上でありながら、底知れぬ深淵のようなセレストブルーでアトラムを見据え、さらに胸倉を締め上げて、目をそらせぬように覆いかぶさるようにしてソラは訊いた。
「子供はどうした?」
アトラムとアルバの呼吸が、一瞬はっきりと止まった。
* * *
「何を奪った?」なんて質問は、愚かな希望に縋っているに過ぎない。
あの犬がキヨヒメだと理解した瞬間、それは真っ先に思い浮かんだ。
「……な、んのこと……」
「今更恍けんなよ。……お前とキヨヒメの間に子供……たぶん娘がいたんだろう? キヨヒメの念能力、『犬神』を受け継ぐ子がな。
そう考えたら、今まで謎だった変な空白期間はだいたい全部説明がつくんだよ」
だから、今更になっても悪足掻くアトラムの首をまた締め上げて言葉を封じ、ソラは淡々と語りだす。
わずかな希望を諦め、真っ先に思い浮かんだ最悪の可能性が現実であることを覚悟して、受け止めて、問い詰める。
「キヨヒメの念能力は、女系で継承する寄生型の念能力であることを知ってお前は、キヨヒメではなくその娘を利用しようと思ったんだろう?
キヨヒメがどんな性格の女だったかなんて私は知らない。でも、単純で利用しやすい人だったとしても、自己がはっきり確立してる成人女性より赤ん坊からこの家に監禁して、人間らしい価値観に触れさせないで暗殺の道具として育て上げた方が、使い勝手がいいのは明白だもんね」
ソラの言葉に、ただでさえ引いていた血の気をアトラムはさらに引かせ、アルバも青い顔色で冷や汗をだらだらと流しながら、一歩後ずさる。
しかしそれ以上は動けない。カイトが、ライフルに変形したままの
「逃がさねぇよ。俺はまだほとんど何もわかってないが、お前も共犯だってことくらいは最初からわかってるんだよ。
そろそろ、肚をくくれ。もう逃げ場なんかないことくらい、『あれ』を見ればわかるだろうが」
ライフルを突き付けながら、カイトはチラリと窓の外に視線をやる。
未だにアルバの結界の効果で犬神たちは屋敷を認識できずに周りを浮遊しているだけで、その数もソラの反則的な無双のおかげでだいぶ減っている。
しかし、数を減らされたことよりも自分の怨敵の味方をしていることがキヨヒメの逆鱗なのか、犬神たちの殺気は当初とは比べ物にならない。
ソラの追及から逃れても、アトラムはもちろんアルバもキヨヒメは逃がす気などないことくらい、考えるまでもない。
それでも、彼らは自分から犯した罪の告白をする気はなく、どちらもソラやカイトから目をそらして黙秘を貫く。
身勝手な自己弁護でしかない懺悔など不快でしかないので、二人が何も語らないことに関してはソラもカイトもどうでもよかった。
ただ、時間稼ぎに過ぎない逃避をさせる気もさらさらなく、ソラは何もかもを見通して引きずり出しそうなほど深く美しい瞳を見開き、言葉を続ける。
「だから、キヨヒメの妊娠判明から出産までの半年間、そこのアルバの暗示系の能力を利用して、誰にも『最近、キヨヒメを見ていない』ことを意識させないようにしながら、監禁した。
お前にとって娘は自分の子供じゃなくて道具でしかないから、戸籍なんて絶対に与えられない、キヨヒメが妊娠したという事実すら他人に知られたら不都合な情報だったんだろう?」
ソラの「子供はどうした?」という問いに対するアトラムとアルバの反応で、その存在はソラの言いがかりじみた空想ではないことに確信を得たが、カイトには何故「子供がいた事」で今まで謎だった空白期間に説明がつくのかが理解できていなかった。
しかしソラの問いかけの体裁だけを取った推測で、彼の絡まっていた疑問や疑念の糸がほどけていく。
嘘は少なく、シンプルであればあるほど露呈しにくい。
死産だったと偽造すれば、どんなに巧妙な偽造でも偽造だからこそ複雑な嘘が積み重なり、小さな失敗もその嘘を露呈させるきっかけになる得る。
それなら初めから「子供など存在しない」ということにした方が、つく嘘はただ一つだけなのだからさまざまな意味で都合がいい。
アトラムが自分の娘を、書類上ですら一瞬たりとも生かさず存在を抹消した理由など、きっとその程度。
キヨヒメの姿が見えなくなってから彼女の死までの半年間という「間」は、ただ単に彼女が妊娠を自覚して夫に報告してから、出産までの期間だろう。
キヨヒメが死んだのが出産直後だとして逆算すれば、彼女が監禁された時期は妊娠三ヵ月程度。妊娠初期で自覚もなかったのだから、一目で妊婦だとわかるほどの腹ではなかったのは確実。
検査薬で妊娠を知ってすぐ夫に知らせて、その直後からキヨヒメを監禁してしまえば、アトラムの息がかかった者以外誰も彼女が妊娠していたことなど気付けるわけがない。
「……か、監禁していたのなら、それこそ死んですぐに復讐に来るだろう!」
「うん、だから実際は監禁というより上手いこと言いくるめて軟禁してたんでしょ?
能力的にお前よりキヨヒメの方が戦力は確実に上なんだから、キヨヒメに真の目的を悟られて敵認定されたらそこでもう終わり。だから、『お腹の子にもしものことがあれば大変だから何もするな、出歩くな、ずっと横になってろ』とでも
そんな風に言われたら、過保護だと思っても悪い気はしないだろうから自主的に引きこもってくれたんじゃない?」
カイトにライフルを突き付けられていたアルバが、締め上げられて呼吸だけで精一杯なアトラムの代わりにか、それともただ単に自分の罪から見苦しくまだ逃げる為か、真っ青な顔色でソラの推測を否定するが、ソラは嘲笑うように薄く笑いながら即答で自分の推測に修正と補足を入れる。
その修正された内容に、顔色をさらに青くさせて黙り込んだのがあまりに饒舌な肯定で、キヨヒメが死ぬ前の半年間という空白期間の謎は完全に解体されたが、何もスッキリなどしない。ただひたすらに、胸糞が悪くなるだけの真実だった。
「……キヨヒメが死んでから、幽霊が現れるまで1年半も間が開いたのは何でだ?」
アルバの喉笛に銃口を突き付けて、不快な言葉しか吐かない口を塞いでカイトは問う。
こちらの謎も、胸糞も後味も最悪であることくらい考えるまでもなく初めからわかっているが、だからといって目をそらして、初めから何も知らなかったことにすることは出来なかった。
毒をくわば皿までというよりただ単にヤケクソでしかない心境、ただの同情と憐みでしかない余計なお世話でしかないが、このもう雇い主だとは思っていない男達の顔面をキヨヒメの代わりに思いっきりぶん殴るエネルギー源にするつもりで、カイトは問うた。
「別にその期間に意味は特にないと思うよ。たまたまそのタイミングで、キヨヒメは娘の育て方や扱いがおかしいってことに気付いただけなんじゃない?
偏見かもしれないけど、流星街出身のキヨヒメが出生届やら定期検診やら、そういう常識を持っていたのかどうかは怪しいし、こいつが自分で甲斐甲斐しく子育てするとは思えないから、自分に逆らう訳がない奴をベビーシッターにして世話は丸投げだったんじゃない?
子育てに全然関わらない父親なんか珍しくもないから、そりゃさすがに1年半も外に出さない、限られた人間としか関わらせないっていう環境はおかしいって気づくだろうけど、逆に言えば世話自体が真っ当にされてるんならそれぐらいの期間を設けなくちゃ、環境のおかしさにはたぶん私だって気付けないよ。
……あぁ、もしかしたら娘の誕生日を祝ってやらなかったことがきっかけでおかしさに気付いて、そこからこいつの前に現れるまでの半年間は、『まさか自分の娘を道具扱いする訳がない』っていう期待を諦めるまでかかった時間なのかもね。これなら、キリが微妙に良いのか悪いのか半端な期間の理由がつく」
今度はカイトに視線を移して、さらりとソラは推測を口にする。
特に根拠はない妄想に近い推測だったが、アトラムもアルバもソラの言葉に反論しないで、ただ往生際が悪く目をそらして口をつぐむ。
例え焼け石に水でしかないことでも、少しでも弁解や恍ける余地があればそれを100倍に誇張して語ることなど呼吸同然な輩であるこの二人が黙っているということは、ソラの推測はそのような余地がない程度に当たっているのだろう。
何も語らない、黙っていれば嵐が過ぎ去るように何もかも終わってくれると子供のように思っている訳ではないだろうが、そうなること期待している愚かでずるい男にソラの視線が戻ってくる。
そして彼女は未だ馬乗りになったままだが、アトラムの胸倉を締め上げるのをやめる。
アトラムは呼吸が出来ぬほどではないが、いつでも窒息どころか首を折れるとでも宣言するような力加減の締め上げから解放されて一息つくが、まともに息をつけたのは本当に一瞬だけだった。
優しく、ソラはアトラムの顔を両手で包むようにして、逸らしていた顔を、目を自分の方向に向きなおす。
胸倉を締め上げていた時とは打って変わってあまりに優しい、アトラムでも十分に振り払えるような力加減と動作だったが、彼は動けなかった。
振り払うどころか、首の向きを頑なにそらし続けるという抵抗すらできなかった。
自分の頬や首を撫でるソラの指の動きが……、不規則な線をなぞるようなその指の動きが異様に怖かった。
下手に抵抗して動けば、それこそ自分は死に至ると本能が警鐘を鳴らし、アトラムは素直に応じて向き直る。
自分の命を断頭台に引きずり出す、ギロチンの刃そのものの深すぎる青い眼が、アトラムを虚無的に映して淡々と問う。
「……で、ここからが肝心な話だ。
もう一度、訊く。……子供は、娘はどうした?」
アトラムは、答えない。
目はそらせない。答えなければ、自分の命が危ないことくらいわかっているが、答えても自分の命はないことも嫌になるほど理解できているから、見苦しかろうが愚かであろうが、稼げる時間など数分数秒に過ぎなかろうが、ただ少しでも長く生き延びるために沈黙を守る。
ソラはそんな悪あがきを憐れむように一瞬見てからまた横目でアルバも見てみるが、彼も全く同じ反応しかしない。
その反応に諦めたような深いため息をついて、仕方なしにソラはまたしても自分で「幽霊として現れてから今まで半年間で、キヨヒメの姿が変質した理由」に関する推測を口にする。
「……キヨヒメは、半年たってもまだお前を諦めきれなかった。もしくは、お前の目的を実はよくわかってなかったのかな?
キヨヒメは自分が現れて頼むなり脅すなりしたら、お前が娘を真っ当に育ててくれるって期待したんだろうね。
でも、お前にとって娘は道具でしかなかった。誰にどう言われても、それ以外の使い道なんか考えも求めもしなかったから、キヨヒメがただ邪魔だった。だから、またアルバを使って、キヨヒメから今度は娘を隠した。
娘から引き離されて、この屋敷から追い出されたキヨヒメがお前の関係者を犬神で殺したのは、その関係者が娘の存在を知ってたのに何もしてくれなかった、お前と同じように利用しようとしてた相手だったから殺した復讐だったのか、八つ当たりと脅迫のつもりで無差別適当だったのか、そこらへんはわかんないけど、ぶっちゃけどうでもいい。
……なぁ、アトラム。お前さ、自分の関係者がキヨヒメの犬神で殺されてるって知った時、どう思った?」
キヨヒメが死んでから幽霊として現れた1年半という「間」の謎が解明されたのなら、キヨヒメがアトラムの前に現れた理由を知ったのならば、キヨヒメの姿が人間から犬に変質した理由も、察することが出来た。
最愛の娘に人間らしい人生を与えず、自分以上に酷い道具として一生を遣い潰そうとする夫に対しての怒りと憎しみが意図的なのかそうでないのかはわからないが、彼女を人から獣に変えたのだろう。
そう、思っていた。
けれど、ソラの想像は、推測はそこで終わらなかった。
一番近くで彼女を、変質したキヨヒメを見たから、彼女の「眼」を見たソラだからこそ、わかってしまった。
彼女のアトラムに対しての憎悪は、
また、カタカタと全身を小刻みにアトラムは震わせるが、何も答えない。
それでも、ソラは問い続ける。
「……幽霊のキヨヒメが犬神を操ってるということは、娘に
さすがに赤ん坊に念能力の行使は期待してなかったから、少なくとも物心がつくぐらいまでは利用できなくても仕方がないと思ってたけど、もしかしたら自分の計画は前提からして間違っていたんじゃないかって不安になったんじゃない?
ねぇ? そう思ったのなら、お前はどうする?
道具でしかない、ただただ泣き喚く以外何もできない赤ん坊の娘を、お前はどうした?
お前が求めた価値を持っていない可能性が高いと判断した娘を、お前はどうした?
キヨヒメの念能力を受け継いだのか受け継いでないのかわからない、まだ赤ん坊の娘にお前らはいったい何をした?」
ソラの問いに答えはない。
けれど、カイトは強く歯を噛みしめてライフルの銃口をさらに強くアルバの喉笛に押し付ける。
「お前ら……!!」
それだけを言って、言葉に詰まる。
怒りにまかせて叫びたいのに、怒りのあまりに何も言葉が浮かんでこない。
実の娘を初めから道具として使うために産ませて育てた男が、望んだものを……「犬神」を受け継いでいないと知って、娘をちゃんと人間として育てようと思うことなど期待できない。
代わりに、受け継いでいないと確定した訳ではないがその可能性が高いのならば、自分は何もしていないくせに1年半も「子育て」という無駄な時間を使ったことや、キヨヒメに自分の身内を殺されたことに対する怒りを、娘に八つ当たりでぶつけることはあまりに容易く想像がついた。
そこまで大人げがない行動は取らなかったとしても、受け継いでいない可能性が高いと判断したのならば、「物心がつくまで能力の行使に期待はしない」という長期的な様子見はしないだろう。
アトラムはともかく、アルバも何故ここまでキヨヒメを恐れているのか、その理由をカイトはようやく理解する。
彼は、キヨヒメが娘を出産するまで周囲から隔離し、幽霊のキヨヒメを娘から引き離したというだけの共犯ではない。
おそらくこの男はアトラムの依頼で、まだ生後1歳半の赤ん坊の精孔を開いて念能力者として覚醒させた。
本当に犬神を受け継いでいないのかどうかを確かめる為、そして受け継いでいないのならば他の能力を覚えさせるために。
ゆっくりと精孔を開かせた可能性は考えられなかった。
それは精神を落ち着かせて、自分の精孔が一つ一つ開いていくイメージが出来るかどうかが重要なやり方だからこそ、まだ本能だけで行動する赤子に出来る訳がないのだ。
そもそも、アトラムからしたら少しでも早く利用したいし、利用できないのならばさっさと処分したいはずだ。
ならば、アルバが娘の精孔を開くために取った方法はただ一つ……。
自分のオーラをぶつけて、無理やり開かせた。
この方法は、健康で屈強な大人でも成功する可能性は低い。敵意や悪意がなくても、未熟なものが使えば対象の肉体は傷つくし、成功しても今度は精孔を開けられた本人がオーラをコントロールして“纏”をマスターしなくては、生命エネルギーが全て漏れ出しているので全身疲労を起こす。
しかし“纏”もゆっくり精孔を開くのと同じように、精神が乱れていては決して行えない。
赤ん坊相手ならゆっくり起こすよりは、こちらの方が成功する可能性は高い。本能でしか行動できないからこそ、溢れ出す生命エネルギーを体に留めないと死ぬことを本能が理解して“纏”を身に着ける可能性は確かにある。
が、逆に言えば“纏”を短時間で身につけられなければ、ただでさえ体力がない子供は生命エネルギーを失って、あっさりと死に至る。
……無謀なんて言葉で済まされない愚行だ。
そんなこと、念能力の存在を知っているだけで能力者ではないアトラムはともかく、アルバならわかりきっているはず。
アルバがその方法は愚行、蛮行としかいえないものであることをアトラムに指摘したのかどうかはわからないが、現状からしてアルバに同情の余地などない。
指摘しても、実行したからこそキヨヒメの恨みを買ったのはもはや明白なのだから。
雇い主に逆らえなかったなんて言い訳は効かない。
戦闘向けではないとはいえ、念能力者が一般人であるアトラムに勝てない訳でもなく、初めのキヨヒメ軟禁に手を貸したからこそ、お互いが同じくらいの弱みを握っているので、アトラムが娘にしようとしたことを止めることは出来なくても、自分がしたくなければ断るくらいは出来たはず。
なのにしなかったのは、彼にとってもキヨヒメの娘は別に成功して生き延びようが失敗して死のうが、どちらでもどうでも良かったということは、もうキヨヒメだけではなくこの場の全員が理解している。
だからか、ソラは何も答えないアトラムとアルバを見限ったように、また深いため息をついてから、アトラムから手を離して立ち上がる。
そしてそのまま、カイトにもジンにも何も言わずにスタスタと真っ直ぐな足取りで、外に一人で向かう。
「!? 何してるんだ!?」
自分達が転がりこんだ硝子戸を開けようとするソラの腕を掴んで引っ張り、カイトは怒鳴りつけるが、ソラはカイトの方を見もせず、掴まれた腕を振り払って言った。
「キヨヒメを止めてくる」
迷いのない、もはや元凶の二人はもちろん、ジンやカイトすら眼中にないと言わんばかりにソラはきっぱりと言い切ってまた硝子戸を開けようとするが、それをカイトは押しとどめ、胸倉を掴みあげて怒鳴りつける。
「バカか、お前は!!
お前がキヨヒメに同情するのはわかるが、『あれ』がどんな存在に成り果てたのかは、一番近くで見たお前が一番よくわかってるはずだろうが!!
『あれ』はもはや、憎悪と復讐心そのものの怪物だ!! こちらの言葉が通じるようなものじゃない、犬神に攻撃を仕掛けた時点で、俺たちがこいつらと同罪だと認識してる!!
……どんな事情があろうが、こいつらがどんな屑だろうが、人を傷つけた、殺した時点でもう俺たちは、『あれ』を救うことは出来ない。『あれ』は……、『キヨヒメ』という人間として扱うんじゃなくて、『怪物』として殺してやることが
ソラよりもカイト自身が自分に言い聞かせるように、苦渋に満ちた悲痛な顔で怒鳴り、訴えた。
昔、キツネグマの縄張りに入り込んでしまった子供を助ける為に、子供を傷つけたキツネグマを処分した日が脳裏に蘇る。
どちらも悪くない。どちらも救いたかった。
けれどハンターとしての立場がそれを許さず、ただ自分の子を守る為だったキツネグマを切り捨てた日、こちらも事情を知らなかったとはいえ、ただ無知だっただけの子供を殴り飛ばして、親がいないことを責めるように叱ってしまったあの日を思い出す。
自分の貫きたい「芯」と、自分が選んで得た「立場」が噛み合わず、酷く嫌な気分に陥った日。
その日と同じ、その日よりもさらにはるかに胸糞が悪くなる状況だから、思い出してしまったと思っていた。
「バカで、結構だ!!」
自分に胸倉を掴まれたまま、自分の髪を躊躇なく引っ張って頭突きをかまされるまで。
「!?」
胸倉を掴んだままだったので首をやや後ろにのけぞることしか出来なかったが、その分カイトの髪を勢いよく自分の方に引っ張って、見事にカウンターに近い形で頭突きを決められ、カイトの視界に星が散る。
その星の合間に見た眼は、よく似ていた。
あの日、最悪の気分だったのが最高の気分に変わった瞬間。
キツネグマの子供を、いくら威嚇されて拒絶されて傷つけられても手放さなかった、真っ直ぐに「自分が守る」という意志を込めて睨み付けてきた子供。
……ソラの涙を浮かべた青い瞳は、あの日のゴンとよく似ていた。
* * *
何もかもが唐突な女だが、さすがにこの頭突きは唐突にもほどがあったので、隠し事をほぼすべて看破されたがキヨヒメの所為で逃げ場もないから、ただ逆恨みの視線をこちらに向けていたアトラムもアルバも、何故かソラが彼らを責め立てている間中、我関せずだったジンも思わずポカンと呆気にとられた。
頭突きを決められたカイトは、さすがにソラは念を使っていなかったがこちらも念でガードなんて当然しておらず、思わず胸倉を掴んでいた手を離してその場に膝をついて頭を押さえる。
そんなまだチカチカと視界に星が点滅しているカイトの目の前で、カイトがそんな惨状になっている元凶が、床のフローリングをぶち壊すほどの勢いで足を踏み鳴らす。
「バカで結構だよ! っていうか、そうだよ! 私が一番近くで見たから、私が一番『あれ』が、キヨヒメがどんな状態かは一番よくわかってるよ!!
わかってるから、止めに行くんだよ!!」
「はぁ?」
完全に逆ギレしているソラをまだズキズキ痛む額を押さえてカイトが見上げると、ソラは急にテンションを落として、冴えわたるような青い目でカイトを見下ろしながら言った。
「……むしろ、あんたは何をわかってるんだよ? 何ならわかるっていうんだよ?
私はさ、見てきたよ。帰る場所も帰りを待ってくれてた人も失って、幸せになりたいのにそのことに罪悪感を持つぐらいに心を憎悪で蝕まれた子も、自分の憎しみがもはや責任転嫁の八つ当たりでしかないことをわかってるのに、それでも止められなくなるくらいに復讐に自縄自縛になった
…………だからさ、一目でわかった」
悲しげで、罪悪感が涙となってその眼を濡らしている。
けれど、あまりに真っ直ぐな意志が焔のようにその眼に輝きを灯す。
あまりによく似ている。同じ目をしていた。
あの日のゴンと同じ目をした娘は、静かに答えた。
「キヨヒメは……違うって」
キヨヒメを止めようと、守ろうと決めた理由。
「彼女は違う。私が今まで見てきた人たちとは……、憎悪や復讐心だけで動いてるんじゃない。彼女の目は、そんなんじゃない。
全然違う。私は、彼女と同じ眼を知ってる! だから、キヨヒメが本当にしたいことは何かはわかるよ!
キヨヒメはもう正気なんかないに等しいけど、まだ彼女は何のために自分があそこまで狂ったのか、壊れたのか、その理由を忘れてない! 失ってなんかいない!!
でもそれは、この屑どもを殺した瞬間に失われるぐらいにギリギリだから!! だから、私が今、止めなくちゃいけないんだよ!!」
子供の癇癪のように叫ぶ。くしゃくしゃに顔を歪めて、それでも目に溜まった涙は零さない。
罪悪感の涙は、その眼に灯る火を消せない。
迷いはない。恐れもない。
ただ自分の罪悪感を薄めたいからなんて浅薄な動機からの言動ではない。
そこに己の罪悪感など何の関係もない。
ただ、守りたいから、救いたいから、そうするだけというあまりに単純でまっすぐな意志。
それはあの日の子供が持っていたのと同じ、カイトが貫きたい「芯」そのものだった。
「……お前は、『何』を見たんだ?」
あまりに鮮烈な、今となってはずいぶん遠い昔に見た輝きと同じものを見て言葉を失っていたカイトの代わりに、ようやくジンが口を出す。
廊下の壁にもたれかかって、気だるげに彼は言った。
「俺はカイトほど優しくはねーから、お前がしたけりゃどんだけ無謀なことでも止める気はねぇけど、こちらに巻き添えで火の粉を被せられる真似は勘弁してほしいからな。
ソラ、お前は何を根拠にそんなことを言い出してるんだ?」
「カイトほど優しくない」という言葉に、思わず名前を出されたカイトが「一体、どの口が言ってるんだか」とやや呆れる。
どう考えても、何も言えなくなってしまったカイトの代わりに悪役を買って出て、ソラの無謀な行動を止めようとしていることくらい、付き合いの長いこの弟子にはお見通しだった。
しかし同時に、この男は場違いなまでに旺盛な好奇心をここでも発揮させたことにもカイトは勘付いている。
そのことにも呆れながら何も言わないのは、カイトも気になったからだ。
ソラは、あそこまで狂い果てて壊れ果てたキヨヒメを見て、何故「違う」と言い切れるのか。
キヨヒメは、「誰」と同じ眼をしているのかを、カイトも知りたいと思った。
ソラはゴンによく似た眼のまま、視線をジンに移して即答した。
「私だ」
その答えに、またしても全員が言葉を失う。
目を丸くさせたジンに向かって、ソラはやはり真っ直ぐに、彼の息子によく似た、それでもやはり別物の眼、壊れて狂って常人には理解できない酷い歪みを抱えた眼で、射抜くように彼を見据えて答える。
「キヨヒメは、狂ってる。壊れてるし、もう手遅れだ。
でも、彼女は復讐なんか眼中にない。アトラムとアルバを憎んで恨みに恨みぬいてるけど、そんなの彼女の本当の目的からしたら、どうでもいい。こいつらが生きようが死のうが、キヨヒメからしたらどうでもいい些細なことだ。
……キヨヒメはね、ただ
こいつらを殺そうとしてるのは憎いからじゃなくて、こいつらを殺さないと娘を取り戻せないし、守れないからっていう結果論だ。
だから殺すことに執着して、でもそれが全然出来なくて、アルバの所為で娘が無事かどうかも分からなくて、娘を守りたくて守りたくて守りたくて、けどもうすでに手遅れかもしれないっていう不安が彼女をかすかに残った正気を壊して狂わせて、本末転倒を起こしかけてるのが今だ。
だから、キヨヒメを止めないといけない。忘れかけて、失いかけてるものを思い出させなくちゃいけない。
そうしないと、キヨヒメはこいつらを殺したって止まらない!
目的が復讐にシフトしてるのなら、こいつらを殺せば彼女は満足して消えたかもしれないけど、彼女は目的を忘れて、わからなくなっても失えていないのなら、こいつらを殺せば最低限覚えていた『殺さなくちゃいけない対象』が失われて、『手段』だけが残る。
そうなったら、『目的』のための『手段』でしかなかったはずの殺人を、思い出せないのに『そうしないといけない』っていう妄執に支配されて、無差別に繰り返す殺戮に……『災害』そのものになる。
……だから、彼女に思い出させないといけない。
例えそれが、娘がもうすでに手遅れだっていう最悪の真実に気づかせることであっても」
ソラの言葉に対して、ジンは片眉を不愉快そうに跳ね上げて一言で一蹴した。
「無意味だな」
カイトも、同じことを思った。
ソラの言う通りだとしたら、それこそ今すぐにキヨヒメを殺してやる方が救いだ。
キヨヒメの娘は、おそらくとっくの昔に死んでいる。
無理やりこじ開けられた精孔から漏れ出すオーラを“纏”で留めることが出来ず、衰弱死したのだろう。
そうでないのなら、アトラムもアルバも外道ではあるが決して愚かではない。
キヨヒメの目的が娘であることは初めからわかりきっているし、当初は普通の人間の姿で話も通じたのなら、その娘を材料に幽霊相手でも交渉なり脅迫なり出来たはずだ。
この外部に助けを求めなければ終わらせることが出来ない現状こそが、娘の生死の結果を告げている。
交渉や脅迫の材料は、もう存在していないのだ。
だからこそ、ソラの言葉としようとしていることは、無意味な綺麗ごと。
あそこまで狂い果てて、人間としての何もかもを捨て去ってまでして守りたかった娘が、既にあまりにも残酷な結末を迎えていることを知らせて、止まるなんて思えない。
止まったとしたら、それは絶望によるものだ。それならまだ、娘が生きている可能性を信じたまま、もう一度死んだほうがずっとマシ。
そう、カイトも思った。
けれど、ジンとは違って声には出せなかった。
無意味だと、彼自身も思いたくなかった。
「無意味じゃない」
無意味だと思わなかった。
少なくとも、ソラにとってそれは決して無意味ではない。
「『殺人』と『殺戮』は全然違う。
キヨヒメの目的が『復讐』にシフトするのはいい。そうすれば、彼女の行為は『殺人』の域から出ない。目的さえ達成すれば自然に止まるし、彼女も少しくらいは気が晴れるかもしれない。
けど、目的を忘れて失ったのに手段だけが残り続けたら、キヨヒメは自分自身のオーラを使い切るまで止まらない。これだけでも、意味はある。
……何より」
ツカツカとジンに歩み寄り、ソラは歪んでいながら、壊れていながら、狂いに狂いきっていてもあまりに真っ直ぐに澄んだ眼でジンを見据え、シンプルに言い放った。
「ジン。
お前は、ゴンのために人を殺せるか?」
「!?」
その質問返しに、ジンは眼を見開いてから…………笑った。
「……ははははははっ!!
……あぁ、なるほどな。……そりゃ、確かに止めないといけねぇな」
アトラムとアルバは、ソラの問いの意味も、意図も、ジンがいきなり実に楽しそうに笑いだしたのかも理解できず、宇宙人でも見るような目で二人のやり取り見ている。
二人には決して理解できない論理の飛躍。
けれど、カイトは理解して「……あぁ」と師と同じように満足そうな感嘆の声を上げる。
ソラはキヨヒメのためだけに止めたい訳ではない。
彼女は、キヨヒメの娘のためにもキヨヒメが無意味に苦しまぬように、無意味に罪を重ねぬようにと願って、止めるのだ。
何故なら、キヨヒメの行動はどんな事情があっても、けっして許されることではない「殺人」であり、その原因が彼女の娘であることに変わりはない。
そんなつもりはなくても、キヨヒメのしていることは娘に「殺人」の大義名分を押し付けた責任転嫁だ。
だからこそ、止めなければならない。
自分の為の復讐ならともかく、それこそ八つ当たりですらない、もういない娘のために、その娘のことすら思い出せなくなるという本末転倒を起こして「殺戮」を行えば、罪にまみれるのはキヨヒメだけはない。
間違いなく被害者だったはずの娘さえも、キヨヒメは知らず知らずのうちに自分の罪を押し付けて加害者にしてしまうという、親として最もしてはいけないことを彼女はしてしまう。
キヨヒメの狂気は母親としての愛情から生まれたものだからこそ、娘は非など何もない憐れな被害者だからこそ、キヨヒメをこのまま殺すのではなく、失いかけている目的を思い出させることにソラは意味を見出して、選び取った。
そのことを理解すればもう、「無意味」なんて言えない。
例えそれが、キヨヒメにとってもっとも残酷な現実を突きつける行為であっても……、例えすでに原型など留めていないほどに壊れて汚れきったものであったとしても、キヨヒメの狂気の源泉である愛情は、間違いなく尊い、輝けるものであったのは確かだから……、それを思い出させることは決して無意味だとカイトは思えなかった。
だが、それでもジンは言った。
「……あぁ、確かに『それ』なら止めなくちゃいけねぇよ。『それ』ならな。
ソラ。結局お前のしようとしてることは無意味だ」
「はぁ?」
「!? ジンさん!?」
ソラの問いがよほどツボにはまったのか、まだ腹を押さえてくつくつ笑いながらジンは断じて、ソラは不愉快そうに眉間に皺をよせ、カイトも理解できずに思わず叫ぶ。
どちらの反応も無視して、ジンはやはり笑ったまま言葉を続ける。
「あー、っていうか何でお前が気づかねーんだよ? お前が知ってる『犬神』とこっちの『犬神』が微妙に違うからか?」
「はぁ?」
その言葉にソラは先ほどと同じ声を上げるが、その声と表情から不愉快さが薄れて困惑や疑問が代わりに浮かび上がる。
カイトも同じように、ジンの言いたいことが理解できず「どういう意味ですか?」と尋ねると、ようやく笑うのをやめたジンが髪を掻き上げて言った。
「ソラ、お前自分で言っただろうが。昼間、犬神がたぶん母系遺伝だろうって話した時に、『念能力の重要なのは思い込みや自己暗示』だって。
そうだ、念能力は能力者のメンタルが威力や効果に大きく影響する。思い込みや自己暗示が最大の武器であると同時に、最大の弱点でもある。
だから、能力精度を上げる為だけじゃくて精度が乱高下しない為に制約を定める奴も多い。
その場の気分次第で威力が変わる不安定な能力じゃなくて、条件さえ満たせばどんな状況や精神状態でも、最低限保ち続ける安定した強さを得るのが基本だ。
だからこそ、制約に融通は基本的に利かねぇよ。っていうか、そこが曖昧でガバガバなら制約の意味がねぇ。
特に、キヨヒメの『犬神』みてーな百年単位で継承されてきた能力の制約なら、それはもう完全に能力者本人の感情だの精神状態なんか関係ない、一定の条件さえ満たせば自動的に起動する完成された一つのシステムだ」
「うん、そりゃそうでしょ。それがどうし……!?」
ジンの話は念能力者、特にとっくの昔に自分個人の能力である“発”を会得しているソラやカイトからしたら、当たり前すぎる前提の話であり、余計に何が言いたいのかわからくなっていたソラが唐突に眼を見開いて振り返り、ガラス越しに浮遊する犬神とこちらを睨んで唸るキヨヒメを見つめて、呟いた。
「……キヨヒメ、どうやって『犬神』を未だ持ったままなの?」
* * *
ソラの呟きで、カイトも同じように振り返り、そして同じ疑問が頭の中を駆け巡る。
「そうだ。そもそも、キヨヒメが未だに『犬神』っていう能力を持ってることがおかしいんだよ。
『犬神』が寄生型の念能力なら、『死者の念』そのものである幽霊に引き続き継承されるわけがない。受け継いでた奴が死んで幽霊になるとは限らねーし、制約で無理やり幽霊に出来たとしても、じゃあその次は誰にどう引き継がせるんだ? って話になる。
『犬神』を受け継ぐ条件が母系遺伝じゃなかったとしても、他に条件があったとしても、キヨヒメが死んだ時点で『犬神』の継承は途絶えるのが自然なんだよ。
キヨヒメが死んで、犬神を受け継ぐ条件がなくなって制約が無効化された後で、キヨヒメ個人の能力として使役してる可能性はあるが、いくら死者の念でパワーアップしたとしても、あれだけの数の同じく死者の念である犬神を使役するのは、やっぱり無理がある。
あれは普通に犬神を扱うための制約と、『何百年も受け継いで使ってきたのだから大丈夫』っていう自己暗示も一種の制約になってバックアップしてるから扱えるもんだ。数匹程度ならともかくあの数なら間違いなく、キヨヒメの方が負ける」
ジンがカイトやソラが気付き、思ったことを代弁する。
そう。念能力そのものは能力者の精神性が大きく関わるからこそ、それを安定して使うための制約は曖昧なものでは意味がない。
何百年も続くものならば、その継承する条件は確固たるものであり、そしてさほど複雑でもないだろう。
伝言ゲームが長文であればあるほど、人数が少なくても歪んで伝わるように、継承のための制約もいつしか変質して、その所為で継承が途絶えるのならばまだいい方。
継承が途絶えた瞬間、犬神の飢餓と憎悪が自分たちに向かってくる可能性が極めて高いのならば、継承の条件は歪みようがないぐらいにシンプルにした方がいい。
「……キヨヒメは、指示を出してただけだった」
外に目を向けたまま、ソラはまた呟く。
このあたりが屋敷であることは理解しても、どうしても屋敷に入れない、認識できずにただ「返セ」という呪詛をまき散らしながらウロウロするしかないキヨヒメを見つめながら、誰に聞かせるでもなく続ける。
「……姿が変わり果てても、その『姿』を生かしはしなかった。
彼女は、『司令塔』でしかなかった」
「あぁ、そうだ」
ソラの独り言を、ジンが引き継ぐ。
「…………まさか……」
カイトも、禍々しい犬と人間の
……犬の姿になっているのは、犬神使いだからと勝手に決めつけて思い込んでいたが、よくよく考えたらそれは何の理由にもなっていない。
アトラムやアルバを憎むことや娘を助ける為ということは、キヨヒメが人間をやめて犬に変わり果てる理由になりはしない。
犬のように、自分の手で、牙で、惨たらしく殺してやりたいという願望はおそらくない。
キヨヒメは全く、その姿を生かした行動など取らなかった。
彼女は死しても、そしてあんなにもおぞましい姿に変わり果てても、キヨヒメは犬神を指示して操る「司令塔」の役割しか果たしていない。
引き継がれないはずの犬神を、未だに操るキヨヒメ。
一定の条件を満たせば、自動で起動するはずの
司令塔の、犬。
……ここまでくれば、想像がつく。
ジンは言った。
「犬神は、正しく引き継がれてるさ。
だからこそ、キヨヒメは
壊れ果てても、狂いきっても、失えない輝けるもの。
人間の尊厳全てを捨てても、守るために今も守り抜く無償の愛そのものを語る。
「それこそ、ソラ。お前が言った『殺戮』はもちろん、『殺人』も犯さないように、犯すのならば、汚すのならば自分の手だけでと願って、キヨヒメは人間を捨てて犬になったんだ。
たぶん、キヨヒメ自身の系統は具現化系か変化系なんだろうな。
幽霊というオーラそのものの存在になったキヨヒメは、自分自身の姿を変えて、オーラの性質を変えて、『犬神』という能力の中に自分を取り込ませて割り込んだ。
キヨヒメは自分自身も『犬神』になることで、もう自分の手から離れた能力をコントロールしてたんだよ。
死んだことで念能力者としてスペックが上がっても、この『犬神』は除念しきれない。ただ外すだけだと外した直後に自分だけならともかく、現在の継承者が間違いなく犬神に襲われるし、何よりも一番の敵は犬神じゃねぇ。父親だ。
だから、『犬神』っていう念能力のシステムに取り込まれて、命令系統に割り込んでコントロール権を自分で握るしかなかったんだ。
そうしねぇと、そのまま道具として扱われるにしろ、なんかの拍子で能力が暴走するにしろ、何も悪くないのにその手が誰かの血で汚れるのは確実だから、キヨヒメは犬になった。誰も殺さないように、殺したのは自分だって言うために、守るために、守り抜くために人間をやめたんだ。
だから、断言する。
あれは、キヨヒメの能力じゃない。キヨヒメは、とっくの昔に『犬神』を失っている。
あれは、継承された『娘』の犬神だ!!」
最後の言葉は、ソラやカイトに向けたものではなかった。
ジンは、蒼白の顔色で余計なことを言わぬように、墓穴を掘らぬように懸命に沈黙を守り続けていた二人に顔を向け、力強く断言した。
キヨヒメの娘はまだ、生きている、と。
……しかしそれは、決して救いだけの言葉ではない。
『返シテ返シテ返シテ返シテ返セエェェッッッ!!』
娘の念能力の一部となったのならば、オーラを娘から供給されているキヨヒメが一番、娘の安否を理解しているはず。
なのに彼女は、屋敷の外で血走った目を見開き、娘を返せという怨嗟を絶叫し続ける。
彼女は今、娘のオーラを供給されて存在しているからこそ、アルバの結界によって娘から引き離されても、娘がどんな状態かはわかってしまうのだろう。
キヨヒメが目的を忘れ、失いかけるほどに壊れて狂ったのは、娘を助けたいのにすでに手遅れという可能性を恐れたあまりの現実逃避ではない。
娘は生きているが無事ではないという、あまりに残酷な現実を突き付けられ続けているからこそ、彼女は発狂したのだ。
……それこそ、目の前に餌を置かれた状態で生き埋めにされて、極限まで飢えさせられた犬のように。
「お前ら!! いったい何をしたんだ!?」
ようやく謎のほとんどが解け、最後に残された謎をカイトは叫んだ。
アトラムとアルバが、往生際が悪くだんまりを決め込んでいた謎も解けた。
だんまりを決め込んでいたのは、嵐が過ぎ去るのを待っていたのではなく、核心にソラがまだ気づかず勘違いをしていたからこそ、その核心に気付かれない為に、これ以上余計な情報を与えない為に勝手に勘違いを続けていってもらうために、沈黙を守り続けたのだろう。
こいつらからしたら、娘が死んだと思われていた方が都合が良かったのだ。きっと、犬神とキヨヒメを何とかした後はやはりいけしゃあしゃあと、「娘なんか知らない。そんなものは生まれていない」と言い張るつもりだったのだろう。
実際、彼らは未だに「娘」の存在に関して何も口を割っていない。
こちらが推測を口にしているだけで物証はなく、「そんな事実はない」と言われてしまえばこちらはもうほとんど手出しのしようがない。
ましてや、「娘が死んでいる」という前提が間違えているのだから、どう探っても証拠の掴みようがない。
ここまで理解しながら、カイトはわからない。
ジンもおそらくはわかっていない。想像できない。
娘の為に全てを捨てた母親が、その一番大事な娘という目的を失いかけるほどに狂わせた現実。
生きているのに無事ではないという状況が理解も想像も出来なかった。
「……それが、何だと言うんだ!?」
沈黙が破られる。
もはや黙り込むのも誤魔化すのも無理だと悟ったって自棄を起こしたのか、アトラムは今までため込んでいたものを爆発させ、床に拳を叩きつけて、蒼白だった顔色を赤くさせて喚き散らす。
「そうだ! 私はあの女に子供を産ませた! 私の邪魔ものを排除するための道具としてな!
それが何だと言うんだ!? 殺したのならともかく、生きているのならば他人の貴様らにとやかく言われる筋合いはない!!
わかったのならさっさとあの化け物を何とかしろ!」
「なっ……」
いっそ潔いくらいの開き直りに、思わずカイトは絶句する。
ジンは眉間の皺を深めて、「確かにとやかく言う筋合いはねーかもしれねぇが、親だからって子供を道具扱いする資格はもっとねぇよ! 子供は親の所有物じゃねえっ!!」と怒鳴った。
しかし、アトラムはジンの言葉に即答した。
「何を言っている? 道具かどうかはともかく、子供は親の所有物だろうが」
あまりにも当然のように、ジンに対して「そんなことも知らないのか?」と言わんばかりに憐みの視線をよこして彼は言い放ち、さすがのジンもこの返答には言葉を失った。
絶句しながらも、理解する。
アトラムは、自棄を起こしたのではない。
自分の主張が正当だと信じて疑わないからこそ、ジンたちの言動が理不尽な言いがかりにしか思えないから、怒りを爆発させたのだ。
「子供は親が庇護してやらなければ生きていけない、面倒で弱い愚かな生き物だ。そんなものに、権利だの尊厳だの与えるのはバカバカしい。そういうものは義務を果たしてからやっと与えられるものだろうが。
こちらが何かしてやらなければ簡単に死ぬ生き物など、所有物でも過大すぎる評価だ。少なくとも無機物は、こちらが何もしていないのに壊れたり迷惑をかけるということはないのだからな。
そして子供の義務は、親が望んだとおりの性能に育つことであり、私が娘に対して望むのは私に対して忠実で有能な道具としてだ。
親が子にどんな将来を望むかなど、個人の自由だろうが。他人である貴様らの、自己満足に過ぎないヒューマニズムを押し付けるな。吐き気がする」
「そうだ! お前が自分の娘に何をしようが他人の私には関係ない!
だからこれ以上私を巻き込むな、アトラム!!」
完全に自分も昔は親に庇護されて生まれ育った子供であることを棚上げしたセリフに、もはや何を言い返せばいいのかがわからなくなっていた所で、アルバが金切り声でアトラムの狂った主張に割って入った。
が、アトラムは開き直ることも出来ずに未だ怯えているアルバを鼻で笑って言い返す。
「巻き込む? 私はあくまで提案しただけだ。それに乗ったのはお前自身の意思でだろうが。私は脅しも強要もしていない。
貴様の買った恨みは貴様のものだ、アルバ。私に責任転嫁するな」
「そうだな。それに関しては超同感」
アトラムの一番神経を逆撫でする正論にアルバがキレかけたが、その前に割って入った声。
硝子戸の外を、キヨヒメを見つめ続けながらソラは淡々と言った。
「巻き込まれてなんかいない。これは、お前の意思で選び取った選択肢の結果なんだよ、アルバ。
そして、お前もだ。アトラム」
硝子に映るアトラムの顔が不快そうに歪むが、ソラはやはり見ていない。
彼女はただ硝子越しにキヨヒメを見つめ続け、言葉を続ける。
「お前の主張には突っ込みどころしかないけど、仮にそれが正しくてもお前の娘はお前だけの所有物じゃない。キヨヒメの娘でもあるのだから、キヨヒメが望んだとおりに育つのだってその子の義務だろう。
……そして、どちらの『義務』を選ぶかはその子の人間としての意思だ。そこに、お前が口出ししていい権利も筋合もない」
「死人が生者に干渉する筋合いや権利の方がないだろうが!! いいから貴様は止めるだのなんだの、バカバカしい綺麗ごとを言ってないでさっさとあの化け物を殺せ!! 雇い主の命令が聞けないのか!?」
アトラムは自分の無茶苦茶な言い分を肯定した上での反論に逆ギレで怒鳴りつけて命令するが、ソラはアトラムに背を向けたまま噴き出して笑った。
「何がおかしい!?」
「おかしいに決まってるだろ? 雇い主だからって何? 私は確かにお前に雇われているけど、そこのアルバと同じように自分の意思で雇われてここにいるのだから、逆に言えば自分の意思で好きな時に違約金を叩き付けてやめてやるさ。
雇い主と従業員の関係なんて、労働力と対価っていう等価交換で成り立つもんだから本来はイーブンだ。命令を聞いて欲しければ、それに見合った対価をよこすのが第一だろ?」
怒り狂うアトラムの怒声を飄々と受け流すように笑いながら、まずは笑った理由を語る。
確かに自分は今現在、アトラムによって首輪をつけられて手綱を握られた状態であるが、その首輪はアトラムではなく自分自身の意思でいつでも好きな時に外せるという、実に簡単な事実を突き付ける。
こんなにも簡単で当たり前の事実を、今までの生涯で一度たりとも気付けなかったアトラムが、決して愚かではないからこそ突き付けられたその事実、……ソラやジンやカイトが反旗を翻して敵に回るというリスクを理解して、また顔色を蒼白にさせて後ずさる。
今、この場では権力も金も何の意味もない。強者はソラ達の方で、自分は相手の慈悲で生かされている圧倒的弱者であることを理解してしまった。
もう完全に心が折られ、アトラムの頭の中を占める思考は、どれほど無様に取り縋って拝みこめば、自分は生き残れるかということだけ。
しかしその思考の答えを出す暇を与えるほどの慈悲は、この場の誰も持ってなどいない。
「そもそもさ、アトラム。
お前は、何を以て『死』を定義してるんだ?」
相変わらず背を向けたまま、ソラは問う。
しかし答えなど求めていない。問い返す間もなく、ソラは語る。
「肉体が死んだ程度で、生者に死者が干渉できなくなるんならそっちの方が救いだよ。
むしろ干渉できなくなるのは生者であって、死者はこちらが完全に忘れ去るっていう2度目の死を迎えない限り、いつだって一方的に、暴力的なまでにこっちに関わってくる。そのくせ、こっちの話は何にも聞いてはくれない、答えをくれないし、変わってもくれない。
私からしたら、あんだけ壊れ果ててもこっちの話が少しでも通じるのなら、キヨヒメはまだ普通に生きてるよ」
一度、目を伏せて静かに「死」に関して語る。
伏せた瞼の裏には、「答え」を見つけても未だ一方的に自分を蝕む少女がいた。
『そんなこともわからないの?』
「わかんないから訊いたんだよ」というソラの声を聞いてはくれず、いつまでもいつまでも泣き笑いながら問い続ける彼女と比べたら、キヨヒメなどソラからしたら可愛らしいものだ。
だから、眼を開けたソラは笑って言った。
右手に持った安っぽいボールペンを、再び強く握りしめて。
「だから悪いね、ボス。
私にとってはキヨヒメもお前も同じ『生者』ってカテゴリだから、もう変えようがない死者相手ならともかく、変えようがあるのならそっちを助けたいから、この依頼はキャンセルだ」
ようやく振り返ったソラは、清々しい笑顔でアトラムに死刑宣告同然のことを言い放ち、ジンとカイトはそれに同調して笑い、逆にアトラムとアルバを絶望に叩き落とす。
叩き落とされても、崖っぷちの縁に掴るように往生際が悪くアトラムとアルバが二人同時に「待て!」と叫ぶが、待つ訳がない。
ソラはその言葉を無視して、視線を再び硝子戸に向けて言った。
「あぁ、ついでに見ときなよ」
振りかぶった右手を、ボールペンを硝子戸に突き刺した。
大量生産品のボールペンでは分厚い硝子は砕けず、硝子にヒビが入っただけで逆にボールペンの方が砕ける。
硝子は突き刺せなかった。
けれど、別のものを深々と突き刺して彼女は言った。
蒼天にして虚空。
天上の美色、セレストブルーの眼で。
「これが、『死』だ」
屋敷を覆っていたアルバの結界は、あまりに容易く、儚く
丸々一か月も更新しなくてごめんなさい。
でも、一番難産だった部分が出来たのと、やっと時間が取れるようになってきたので、たぶん更新速度はマシになると思います。
……うん、たぶん……大丈夫……だと良いなぁ…………