死にたくない私の悪あがき   作:淵深 真夜

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120:「悪魔」とは

 それはソラにとって一生の不覚。

 

 自分が突きつけた、トモリの「後ろを振り返る癖」から想像ついた彼女の「恐れ」を指摘したタイミングで、自分の腕にひやりとした何かが絡み付いたのに気付き、とっさに意識と視線がそちらに向かってしまった。

 殺気や敵意がある何かだったら、ソラは自分の身にそれが触れる前に気付けた。

 気付いていたのなら、トモリから眼を離さないまま裏拳で迎撃していただろう。

 

 気付けなかった。殺気も敵意もなかったが、それでもこの状況で自分に触れることが出来る距離にまで近づいたことが信じられずに、トモリより優先してその正体を確かめてしまったのがまず第一の不覚。

 

 そして自分の腕にしがみついている掌より一回りほど大きな白い塊が、昨日ノストラードの屋敷で見た詐欺師やライト=ノストラード、そして能力者本人に憑いていた「悪魔」だとに気付いた時、やはりトモリを優先せずにソラは視線をそのままマンションを見上げる野次馬たちに向けた。

 

 どういう意図で、自分をどのような結末に導く為にこの「悪魔」がついたのかはソラにとってはどうでも良かったから、「悪魔」を殺すことを後回しにして探す。

 ソラの推測通りなら、この「悪魔」にはさほど放出系の要素はない。能力者から切り離された状態で遠距離にいきなり出現させることが出来るタイプの能力ではないと思っていたから、探した。

 

 この「悪魔」の生みの親を。

 その少女の傍らに彼がいる可能性が極めて高かったからこそ、最優先したのは今どこにいてどのような状況かを把握すること。

 クラピカが「ブロンド殺し」と関わる前に全てを終わらせたかったから、始めたことだ。初めから、ソラの優先順位はクラピカが第一でブレていない。

 だが、この時ばかりはブレるべきだったと後悔する第二の不覚。

 

 ソラの腕にしがみついて出現した「悪魔」から、ほんの数秒の間を置いてもう一体現れたことにソラは気付けなかった。

 同時ならば、対面だったのからソラの方が先に気付けた。

 

 トモリの背後にべったりとへばりついた、ソラや詐欺師や父親やネオン本人に憑いていたものとは比べ物にならない大きさの「悪魔」に、ソラはタイミング悪く気付けなかった。

 

 気付いた時には、トモリは悲鳴を上げていた。

 しゃがれた病気の老人らしき声に助けを求められたトモリは、狼に見つかってしまった時計の中の子ヤギのように……、追いつめられて逃げ場などないことを理解してしまった絶望の悲鳴を上げてそのままあまりにも自然に、流れるような動きで踏み出し、駆け抜ける。

 

 ソラにではなく、背後に憑く「悪魔」にでもなく、マンションから跳躍して飛び降り、他の建物の屋上や街路樹を飛び移って一目散に、真っ直ぐに向かってゆく。

 自分と同時に悲鳴を上げた、自分と同じ絶望を叫んだ少女の元へ。

 

 ただ、聞きたくないからというそれだけの理由。

 それだけだからこそ、大義も言い訳もない、余分なものなど何もないシンプルすぎる理由だからこそ、その身は軽い。迷いなどない。

 

 第三の不覚にして最大の失敗は、一瞬で今までの理性を被っていたシーツと一緒に捨ててしまうことが出来るほど、ソラが追いつめていたから。

 ソラが追い詰めながら、トドメはソラではなかったから。トドメを刺されたのに、追い打ちのように掛けられた悲鳴が、何よりも聞きたくない声が上がったから。

 

 だからトモリは、「獣」となって真っ直ぐにも苦手に向かって駆け抜けた。

 追いすがったソラの手が届かぬほどのスピードで。

 

 その三つの不覚が合わさって、ソラの一生の不覚となる。

 

 

 

「クラピカアアアァァァァァァッッッッ!!!!」

 

 

 

 

 ソラの絶望の叫びと同時に、とっさにネオンの前に飛び出して盾となり、肩から下腹に掛けて袈裟切りの要領で切り裂かれたクラピカの血が噴き出した。

 

「悪魔」はそれを見て、けたたましく嗤いながら消えてゆく。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 自分が庇ったネオンにもたれかかるように後ろに倒れる。

 気休めのつもりで被っていたウィッグは脱げ落ち、ネオンはクラピカを支えきれずそのまま一緒に倒れ込んだ。

 

 防刃チョッキはやはり気休めにもならなかった。

 オーラを纏って“堅”状態にはかろうじてなれたが、緋の眼にはなれなかった。

絶対時間(エンペラータイム)」でもなければ、クラピカのオーラによる防御力は強化系能力者の攻撃を防ぎきることなど出来ない。

 体が上下に二分どころか内臓が露出しない程度に抑えただけ、クラピカは具現化系能力者にしては優秀だ。

 

 けたたましく、「悪魔」たちが嗤っている。

 運命を覆せなかった自分たちを、自ら予言通りの行動を取ったクラピカを嘲笑う。

 

 その嘲笑が頭に血を昇らせるが、すぐに切り裂かれた傷からその血は流れ、零れてゆく。

 それでも、クラピカはゆっくりと……体感時間としてはあまりに長い時間をかけて後ろに倒れ込みながら、自分やネオン、そして「ブロンド殺し」の少女に憑く悪魔を睨み付け、声にならない声で叫んだ。

 

(うるさい! まだだ! まだ終わってなどいない!!)

 

 もう終わりだと嗤いながら溶けるように消えてゆく「悪魔」に啖呵を切る。

 終わってなどいない。まだ終わらせない。死んでたまるかという意志の元、彼は目に力を入れて意図的に視界を緋色に染め上げる。

 染め上げようと……していた。

 

「来いよ! クソジジイ!!」

 

 涙が混じった湿っぽい声だった方がずいぶんと救われるほど、涙も出せないほどの絶望をそのまま声にした絶叫の直後、彼女は叫んだ。

 その声にはかろうじて「許さない」という意志が見て取れた。

 

 逆に言えば、それ以外の感情が読み取れないほど硬質な声音。

 それ以外の感情など、怒りや憎悪すらも置き去りにした殺意だけがそこにある。

 

 天上の美色と共に。

 

 クラピカを切り裂いた腕を再び上げ、今度こそ消し去りたい「音」の発生源を始末しようとしたトモリの目的も、クラピカより近くにいたのにとっさに動けなかったセンリツの後悔も、そしてようやく自分がしたこと、この「悲劇」は自分がいたからこそ起こったことだと理解して、倒れたクラピカを支えきれずに座り込んだネオンの絶望も、その殺気に、「死」そのもののセレストブルーに蹴落とされ、呼吸さえも忘れた。

 

 呼吸も出来ないのに、心臓だけが足掻く。「生きたい、生きたい、死にたくない」と訴えるが、ただ生存本能を訴えるだけで「逃げろ」という警鐘すら鳴らさないのは、もう手遅れだと本当はわかっているから。

 もう、逃げ場などない。恩赦もない。

 

 この青い死神にとって、自分たちはみな同罪。

 

 死罪以外有り得ぬという判決が既に下されている、自分たちがいるのは断頭台の前だと思い知らされる殺気をぶつけられながら、トモリと同じようにマンションから近場の建物と街路樹を使って最短距離で公園前まで降りてきたソラが、木から飛び降りながらギロチン代わりに奇跡の生き残りを振り下ろ――――

 

「世界を、穿――――」

「……っっソラァァッッ!!」

 

 言葉と同時に血を塊で吐き出す。

 それでも、咳き込む時間も呼吸さえも惜しんで、クラピカは叫んだ。

 

 死神を、人間に戻すために。

 ソラがどんなに壊れても守り抜いたものを、守る為に。

 

「……っ何、してるんだ、……このっ、大馬鹿者!!」

 

 こんなこと言う資格などない。大馬鹿者なのは自分であることはわかっている。

 緋の眼になれば、「絶対時間(エンペラータイム)」を使えば、治癒能力が、ホーリーチェーンが使える。

 使っても全快する前に意識を失いそうなほどの怪我だが、応急処置くらいにはなる。何より、ここで寿命を削るという自分で課したリスクに怖気づくほうが、自分の寿命を今日この瞬間だと決定づけているだけだから、使うことに躊躇いはなかったのに。

 

 なのに、クラピカは自分の治癒よりも叫ぶことを選んだ。

 あの日の、ハンター最終試験のように。

 

 大切なものを取りこぼしてしまいそうなソラに手を差し伸べて、こちら側に留めることを選ぶ。

 

「……クラ……ピ……カ?」

 

 振り下ろしかけた手から力が抜け、宝石剣は光の粒子となり消えてゆく。

 地面に着地した時のソラの眼は、もう既に至高の青ではない。蒼天から徐々に明度が下がり、代わりにみるみるうちに涙があふれ出し、頬を伝って零れ落ちる。

 

 それを見て、クラピカは場違いなほど穏やかに笑った。

 

 自分の意思で緋の眼になれるように訓練したが、彼の瞳の色が変わる原理は「気が昂ぶり、興奮した時」であることに変わりはない。クラピカが行った訓練は、旅団や人体蒐集家への憎悪を思い返しても、それを顔や言動に出さず、頭の中に冷静な部分を残しておけるようにするという精神的なものだ。

 

 だから、緋の眼になること自体は簡単だ。旅団を思い出せば、あのヨークシンで偽物とはいえ見た同胞の形見を、ホルマリン漬けの眼球を思い出せば、時間は十数秒ほどかかるがいつだって視界を緋色に染め上げることが出来た。

 なのに、その簡単であるはずの事が今は出来ない。

 

「……クラピカ。クラピカ! クラピカ!!」

 

 泣きながら、人間らしい感情をむき出しにして、未だ「死神」にぶつけられた殺気によって金縛り状態のトモリもセンリツもネオンも目に入らず駆け出して、駆け寄って、自分が差し出した手を掴むソラが、クラピカの中の緋色の憎悪を蒼天の安堵に塗り替える。

 

 憎悪で心を燃やすことなど、出来なかった。

 

「ごめん! クラピカごめん! 私の所為だ! 私が、人の心を踏みにじる真似をしたから! 何の権利もないのに、人の心に土足で踏み入って、傷に塩を塗るようなことをしたから!!」

 

 自分の為に彼女が本来なら最も嫌うであろう手段を使ったことも、自分が傷ついたこと、死ぬかもしれないという不安で、あれほど大切にしていた人間としての最後の理性を捨て去ることも、そして捨て去っても自分の声で取り戻してくれることも、場違いだとわかっていてもクラピカの心を満たすから。

 

 彼女の全てが、自分を誰よりも何よりも大切であることを表してくれていることが嬉しいから。

 

 ソラを悲しませたくないのに、自分を失うかもしれない不安で泣くソラがどうしようもなく愛おしくてしかたないから。

 

 だからクラピカは、生きることを諦めてなどいないけれど、それでも彼は彼女がくれた穏やかな幸福を振り払って、5年前の絶望と憎悪を思い返すことなんて出来なかったから、今、出来ることを探して選び取って実行する。

 

「ごめん、ごめん……。助けるから……。絶対に、君を死なせないから!!」

 

 泣きながら、クラピカの手を握ってウエストポーチから宝石を取り出してクラピカの傷を治癒するソラに、多量の出血で朦朧とする意識の中、クラピカは言った。

 

「――許すから……」

 

 その言葉に、泣きながら、震える手で宝石を取り出していたソラが一瞬目を丸くさせた。

 その表情にクラピカはかすかに笑って、今にも夢さえ見れない意識の奥底、「 」へとか細くとも確かに繋がる深淵に落ちかけながらも続ける。

 

「……私は……君を許すから……全てを……許しているから……だから……もう……泣くな」

 

「自分の所為だ」と言って泣くソラに、「君の所為ではない」と罪そのものを否定するのではなく、その罪を許すと伝える。

 なかった事には出来ないと、言ったから。

 たとえクラピカを傷つけたのはソラではなくても、現状はクラピカ自身が勝手にやったことの末路でしかなかったとしても、この結果を作り上げる要因としてソラが大きく関わっているのなら、どれほど些細でもソラにも罪はあるのだろう。

 

 その罪を、彼女の良心に見合うだけの罰をソラは自分で自分に科すから。クラピカから見れば不当なほど重いものを背負う。

 だから、そんなものを背負わなくていいと伝えた。

 

 クラピカ一人が許したって、ソラは少なくともトモリに対しての加害者であることは消えない。

 トモリが凶悪な連続殺人鬼であっても、彼女の心を傷つけ、追いつめていいという理屈はどこにもない。

 望んでいた訳ではない暴力を振るわせた元凶であることは、永遠に変わらない。

 

 それでもクラピカは伝える。

 許す。

 

 クラピカが持つ「被害者の権利」を使って、なかったことに出来なくても、永遠に消えないものであっても、それでも今の自分と同じように、場違いでもいいから与えたかった。

 

 穏やかな、心が満たされる幸福を彼女に与えたかったから、クラピカは選んだ。

 そのクラピカの選択に、ソラは――――

 

「…………言ってる……場合か……」

 

 いつもとは逆に、呆れたような怒っているような脱力しているような、ソラの言動に対してのクラピカのような反応をしてから

 

「…………ありがとう、クラピカ」

 

 泣きながら、それでも穏やかに笑った。

 

 その笑顔を目に焼き付けて、クラピカは意識を手離す。

 意識を保つことも出来なくなるほど、安堵してしまった。

 

 ソラの笑顔を見て、自分が死ぬわけがないと思ってクラピカは、「生きる」という意志を抱え込んだまま意識の底に沈んでゆく。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「な……ん……で?」

 

 クラピカが安堵したように、安堵したからこそ意識を手離すと同時に、トモリの金縛りが解けて呟いた。

 だが彼女は、クラピカやソラ、そして消し去りたかった声の出どころであるネオンに追い打ちでその腕を振るうことはなかった。

 

 しかし、理性を取り戻したわけでもない。

 彼女は血にまみれた両手で頭を抱え、ぐしゃぐしゃに長い髪をかき乱して叫ぶ。

 

「なんで……何で? 何で何で何で何でどうしてあんたは許してもらえるの!?」

 

 グチャグチャにかき乱して、髪を、頭を振り乱して泣きながら、狂乱する。

 その狂乱する様でセンリツとネオンの金縛りも解け、ネオンはともかくセンリツは動き出す。

 

「センリツ! 車を出して!!」

 

 言いながらソラはクラピカを抱え、ネオンの襟首を掴んで車の中に飛び乗り、センリツはソラの声に応じて運転席に飛び乗り、シートベルトをつけずにアクセルを踏み込む。

 トモリが何の躊躇もなくマンションから飛び降り、そのまま傍から見たら野次馬の一人でしかなかったクラピカに攻撃したことで、危機感のなかった正真正銘の野次馬たちも蜘蛛の子を散らすように逃げて周囲に人はほとんどいなくなっていたとはいえ、明らかに錯乱しているトモリを放置するのはハンターとしてかなりの問題行動なのだが、幸いながらトモリはそのまま他の誰かを無差別に攻撃することはなかった。

 

「何でよ!? どうして!? 何で、何で私ばっかり――――」

 

 そこまで叫んで、トモリは気付く。

 自分の頭に爪を立てて頭皮を抉るほど掻き毟っていた頭から手を離し、しばし呆けたように空を見上げていた。

 そして、ようやくやって来たパトカーに囲まれている時、ぽつりと呟いた。

 

「――――あぁ、そっか。私が殺したかったのは……」

 

 そこまで呟き、正気を失ったがそこに満たすのは狂気でもない、ひたすら虚ろな眼のままトモリは警察の包囲網を一足で飛び越えて、駆け抜けた。

 

 自分の背中にへばりつく「悪魔」が導く方向へ。

 ソラとクラピカに憑いた「悪魔」は、クラピカがトモリの攻撃を喰らった時点で彼らを嘲笑いながら消えていったが、トモリに憑いた人間大の「悪魔」は未だにトモリの背後におぶさり、しがみついて離れない。

 

 離れないまま、「悪魔」は告げる。

「悪魔」が教えてくれた、トモリが殺したくて、憎くて、妬ましくて仕方がなかった相手の元へ走り続けた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

 

 車の中でネオンはひたすら、自分の上着でクラピカの傷口を押さえつけて止血に協力しながらも、泣きながらひたすらに謝る。

 しかし、彼女の謝罪を聞いてくれる相手は車内にいない。

 

 そんな余裕はどこにも、誰にもない。

 

 ひとまずトモリからの追撃を避けるため、クラピカの治癒を最優先するために車に飛び乗って逃げ出したのはいいが、ハンターとして捕えるべき相手を放置し、一般人を危険にさらしてまで優先したクラピカの状況は最悪の手前。

 

 ソラの手持ちの治癒魔術を付加した宝石を全部費やしてクラピカの傷はひとまず塞いだが、ヨークシンやガスグラムランドで今まで溜めてきたストックの大部分を消費してしまった事と、ここ最近は治癒魔術を付加するのにちょうどいい宝石がなかなか手に入らなかった所為でストックが残りわずかだった為、クラピカの傷は最低限にしか治癒できず、今もじわじわと出血が続いている。

 

 それだけではなく、ソラの治癒魔術はクラピカのホーリーチェーンと同じような原理、自己治癒能力を強化させているものなので、治癒しただけクラピカの体力は失われる。

 宝石のストックがあっても、これ以上無理やり治癒能力を強化させて傷の治りを早送りしても、治癒し切る前にクラピカの体力が尽きるのが目に見えた。

 

「ソラちゃん、私も能力(えんそう)で治癒に当たった方がいい?」

 

 なので、センリツは一旦車を邪魔にならず人目につかない路地裏に止めて、一応提案してみる。が、提案しておいてこれはベストの対応とは言えないことはわかっている。

 センリツの能力は演奏と共にオーラを放出して、そのオーラは演奏されている楽曲に合わせた効果を発揮するかなり万能性が高いものなのだが、効果の範囲が広い分、効果そのものは強力とは言えないのに加え、楽曲の難易度と演奏時間の長さも効果に比例する。

 

 更に言えば、そもそもセンリツの能力では体力を回復させても傷の治癒自体は出来ず、出血を止められない。

 大きな出血は既に止めているとはいえ、血液そのものが戻らないのであれば、体力を回復させてもさせた端から血と一緒に流れ出るだけだ。

 短時間で一気に生命力(オーラ)を与えられるのならともかく、そうでないのなら彼の体力が持つことを信じて病院に向かうことに専念したら良いと、本当はセンリツもわかっている。

 

 だが、クラピカと同じくらい真っ青な顔色でウエストポーチを探って、今にも泣き出しそうな顔で、泣いてくれた方がよほどこちらの気が楽になるほど悲痛な顔で、もうないはずの治癒用の宝石を探すソラはあまりにも痛々しかった。

 

 だから、自分に出来ることは何かないかをセンリツなりに必死に考えて提案し、自分の提案自体は愚行であってもこの状況を打破する、クラピカを確実に救うヒントになりはしないだろうかという思いで口にした。

 

 しかし残念ながら、ソラはセンリツの提案を聞いていなかった。

 無駄だと思って無視している訳ではない。本気で彼女の耳には届いていない。言葉として頭で理解していない。

 だがそれも、「どうしよう? どうしたらいい?」という弱音で頭の中が埋まって、外からの情報が入らない状態という訳でもない。

 

 センリツから見れば、ソラがウエストポーチをひっくり返して漁っているのは、治癒に仕える宝石はもうないとわかっているのに、それしか希望がないから悪あがきで探しているようにしか見えなかったが、そんな意味のない行動で現実逃避できるような精神など、この女はとっくの昔にどこかへ置き去りにしている。

 

 そんなことで眼を逸らせるほど、彼女にとって「死」は遠くない。そんなことで、ソラは「死」から逃げ出せない。

 見たくないのなら、生きていたいのなら、そんな意味のない現実逃避ではなく、現実を見据えて足掻き抜かなくてはこの女は呼吸さえもできない地獄にいるからこそ、彼女は現実から逃げない。どんなに夢見がちで荒唐無稽に思えても、そこに至るまでの建築的で現実的な方法を試行錯誤している。

 

 だからソラはセンリツが何か言った事すら気づかぬまま、探し出して選び出した宝石を握っていきなり言い出した。

 

「……私の魔力(オーラ)とこれを使えば、……いやでもオーラの系統が全然違うし、何より私はガチで体の作りも違うから拒絶反応とかがあるかも……繋ぎになる触媒は…………、クラピカごめん!!」

「「えっ!?」」

 

 何かブツブツと独り言を言い出したかと思ったらソラはいきなりクラピカに謝って、ネオンの手をむんずと掴んで引き離す。ネオンが止血の為に押さえていた、クラピカのまだ出血が止まっていない傷口に当てていた上着から。

 そしてその上着も取り払い、躊躇なくソラは持っていた宝石を傷口に押し当てた。

 

 傷口にごつごつとした原石ではなくカットされているものとはいえ鉱物を抉りこむように押し当てられたら、軽傷でも普通に拷問である。

 その追撃と言える痛みでクラピカの意識は戻ってはこなかったが、反射でか一度ビクンと跳ねて低い悲鳴が聞こえた時は、センリツはもちろんネオンも苛まれ続けた罪悪感を一瞬忘れて、クラピカに心底同情した。

 

「そ、ソラちゃん!? 一体何してるの!?」

 

 センリツが戸惑いながら尋ねるが、ソラの耳は未だに機能停止中。何も聞いてない。

 というか、たぶんこの女はセンリツとネオンが眼中に入っておらず、自分が今どこにいるのかもわかっていない。

 

「はい、ありがとう! じゃあ、また押さえつけて止血しといて!

 クラピカの血に、生命力のダイヤ……ダイヤはこの子の誕生石だから相性はいいはずだし……、よし! クラピカ! 即興だから保証なんかどこにもないけど、絶対に死なせないから死ぬ気で絶対に生きろよ!!」

 

 ネオンから手を離して雑な指示を出すが、その眼に映るのは青い顔色で今にも途絶えてしまいそうな呼吸をしているクラピカだけ。

 ソラはそんなクラピカに、強がるように、安心させるように、涙がにじんだ眼で無理やりおどけて笑いながら、彼の血にまみれた宝石(ダイヤ)を両手で握りしめ、祈るように呟く。

 

「――――死にたくない」

 

 宝石に魔力を通す際、魔術回路を開くためのスイッチ。最近は面倒になってわざわざ口にすることはなかったのだが、これだけは失敗出来ないから、失敗するわけにはいかないから、ソラは早く早くと焦る心を宥めながら、正しい手順で宝石に魔力を通す。

 

「死にたくない、死にたくない、私は――死にたくない」

 

 自分の行動原理となってしまった恐れを口にして、思い出したくない、思い出せないあの深淵が頭の端にかすめる恐怖に耐えながら、回路を開いて宝石に丁寧に自分の魔力(オーラ)を注ぎ込む。

 

「死にたくない…………生きたい、生きたい、生きていたいよ……」

 

 生きる理由も意味も価値も見出せていなかったのに、死にたくないの一心で生き延びてしまった自分が得た、生きていたい理由、生きていく意味、生きる価値である少年に希い、その願いを、望みを、祈りが宝石の中に充填されてゆく。

 

「――――生きて、クラピカ」

 

 自分の全てである言葉と同時に、宝石を握りしめていた両手が開く。

 クラピカの血に(まみ)れていた小石サイズのダイヤは彼の血を吸い取ったかのように、薄紅色に染まって煌めいていた。

 

 何が何だかわからず、謝罪も忘れて呆然とソラの言動を見ていたネオンがその宝石を目にしてあまりの美しさに場違いな溜息を吐くが、宝石を生み出した当の本人はネオンよりさらに場違いだった。

 

「「え?」」

 

 もう一度、ネオンとセンリツが声を上げる。

 

 ソラは自分の魔力を通し、魔力を充填したダイヤを何の躊躇もなく、サプリメントの錠剤でも呑むようにざらっと自分の口の中に放り込んだ。

 そしてそのまま、口の中に宝石を含んだままソラはクラピカの背に右手を差し込んで上半身を起こし、昏睡しているクラピカに――――

 

 

 

「「――――え?」」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 あたたかで心地の良いものが自分の中に満ちるのを感じ取り、クラピカの指先がピクリと反応した。

 しかし、魂は確かに夢さえ見れない深い深い深淵から(うつつ)にまで引き上げられたが、意識の方はまだその浮上に追いついていないのか、酷く思考に霞がかかって上手く働かない。

 

 意識と連動しているのか、体の方も関節が錆びついてしまったかのようにとてつもなく重く感じ、指先だけで精一杯。

 瞼に至っては、縫い付けられたか溶接されたかのように動く気配もない。

 

 なのでクラピカはぐったりと体は弛緩させたまま、意識も引き上げられるのをただ待った。

 魂を引き上げられた後に続いてゆっくりゆっくりと浮上しながら、自分を引き上げたその「心地よいもの」を飲み下し、ただ味わう。

 

 喉奥にゆっくりと滑り落ちるそれは真夏の最中、渇ききった体に与えられる水のごとく、自分が求め、必要としているもの。

 クラピカにとって極上の甘露を、「もっと欲しい」と本能的に思うのは当然のこと。

 だから何の躊躇もなく、ただひな鳥のように与えられるがままだったその甘露を、さらにねだるように舌先を伸ばす。

 

「んっ……」

 

 味わえば味わうほど渇きは癒えるどころかより渇望してクラピカは、その甘露を一滴たりとも取りこぼしたくなかったのか、更に求めて舌を伸ばして貪る。

 いつの間にか重くて今までどうやって動かしていたかわからなかった腕が上がり、とっさに自分から離れようとしたそれをこちらもとっさに押さえつけて引き寄せ、逃がさない。

 

「!? んんっ……ふ……んっ!?」

「ちょっ!? クラピカさんもしかして起きてる!?」

「いえ、まだ意識は覚醒はしてないようだけど……、ちょっと起きて! って駄目だわ! このタイミングで起きた方が死ぬわ彼!!」

 

 聞こえてくる声は意味のある言葉とは認識出来ぬまま頭の中を素通りして、クラピカは心行くままにその甘露を舐め、啜り、味わう。

 

 いくら味わってもまだ足りないとクラピカの意識は訴えるが、体の方がさすがに甘露だけではなく酸素も求めて ようやく押さえつけていた腕の力が抜け、唇が離れる。

 その隙と言わんばかりに離れてゆく甘露を、うっすらと開いた瞼の奥、ぼやけた視界の中で見送りながら、視界と同じくぼやけた頭で惜しんだ。

 

 甘露だけではなく、あたたかなその温度と溶けてしまいそうなほど柔らかく感じた感触も、それら全てが心地よかったからこそ、惜しんだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「……クラピカー。意識戻った?」

「…………あぁ。……ソラ……か……」

 

 頬をペシペシと触れるぐらいの力加減で打たれ、頭の中にかかっている霞が晴れて行くのを感じながらクラピカは返答する。

 二、三度瞬きを繰り返してようやく視界のピントが合い、車の中で自分の上半身を支えるように抱きかかえて見下ろすソラの顔をまずは見上げてから、気を失う直前の記憶と今現在の自分の状況を探る。

 

 自分が今いる場所は自分たちが乗って来た車の中、窓の外の風景が公園や住宅街ではなく昼間でも薄暗い路地裏であることを確認し、おそらくは自分が気を失った後、「ブロンド殺し」の追撃を避ける為に車に飛び乗ってひとまず逃げ、そして誰の邪魔にもならず不審だと咎められることがない場所に止めて治療をしてくれたのだとクラピカは解釈した。

 

 その解釈は当らずとも遠からずである証明に、緩慢に腕を動かして具合を確かめた傷は、完治こそしていないが致命傷からほど遠いものとなっている。

 クラピカが「ここはどこで何があったか?」を訊かないのは、訊かずとも想像できていることを察しているのか、ソラも改めてここがどこで何があったかなどは話さず、やや早口で訊かなくてはわからないことを説明してくれた。

 

「ごめん、君の傷は完全に治しきれてない。治癒用の宝石が足りなかったんだ。

 けど代わりに、君に魔力(オーラ)を……じゃなくて君の生命力(オーラ)を増幅させて、ひとまず出血と治癒力を強化させた時に失った体力を戻しておいた。即興で作ってみた魔術だから成功して良かったよ。でもその為に触媒として君の血を使った。怪我を抉ってごめんね。あと出血した血は戻ってないから、無理すんな。それと宝石飲ませたけど、宝石に魔力を込めたと言うより宝石そのものを魔力にしたようなもんだし、宝石魔術の宝石って使ったら基本的には形が残らないもんだから、消化の心配はしなくていいよ」

「……最後のは……初めからしてないのだが……とにかくわかった。……迷惑をかけてすまない」

 

 初めの内はやや早口程度だったのが、徐々に間がなくなり矢継ぎ早にどうでもいいことまで話すソラに困惑しながら、クラピカは答える。

 よく見ると先ほどから自分と目を合わせないので、どう考えても何かを隠しているのだが、クラピカが知るソラはむしろ隠し事が上手いのと、自分に嘘をつかない約束を基本的には守ろうとしてくれているので、ここまであからさまなのは疑わしく思うよりやはり困惑の方が先立った。

 

 その困惑のままに、視線を彷徨わせてセンリツやネオンに向けてみると、ネオンは涙の痕跡らしき目の充血よりも顔を赤くして固まっており、センリツは非常に気まずそうで困り果てた顔をしていた。

 そしてどちらもクラピカが見ていることに気付いたら盛大に眼を逸らし、クラピカの疑問はさらに深まっていく。

 

「……ソラ。もしかして私は気を失っている間に何か……」

「ところで、ネオンちゃんだっけ? 君、あの子に何を視たの?」

 

 ソラの隠し事といいネオンやセンリツの反応といい、考えたくないし瀕死だった自分に何が出来るのか? とは思うが、彼女らの不審な対応は自分が元凶な気がひしひしとしたので勇気を奮って聞いてみたら、これまたあからさまにソラは話を強引に変えて、クラピカの問いをなかったことにした。

 

 その反応でなおさらクラピカは自分が何をしたのかが怖くなって、永遠に知らないままやずっと時間を置いて知るよりも一思いに今すぐに知ってしまいたいと思うのだが、ソラはよほどその話題を上げて欲しくないらしいので、クラピカの「……おい」という抗議は黙殺された。

 

 そしてクラピカのやらかしとは全く別の意味で思い出したくない話だった為か、赤かった顔が見る見るうちに青くなって俯いて黙り込むネオンを真っ直ぐに見たまま、ソラは言葉を続ける。

 

「……君の『悪魔』、あの子……『ブロンド殺し』にも憑いたんだ。しかも、私やクラピカのはクラピカが倒れた時点で消えたけど、あの子のはまだ憑いてた。君が視た未来は、あの子がクラピカに襲い掛かるって未来じゃなくて、あの子が主体の未来なんだろう?

 ……まだあの子の未来(ひげき)は訪れていないんだろう?」

 

 ネオンは何も答えない。

 ソラの問い……自分がトモリに何を視たかも、そして視たものに対して自分の思いも彼女はもう、今朝のように泣きじゃくりながら訴えはしなかった。

 もう、ネオンの中で諦観の結論が出てしまったのだろう。

 

 クラピカは一命を取り留めたが、「死」という予知は外れたが、彼が死ぬかもしれないほどの危険がある傷を負うという悲劇は避けられなかった。

 そしてその運命が避けられなかった理由も、元凶も全てが自分自身であることをネオンはわかっている。

 

 自分が何も言わなければ、クラピカは今日、少なくともこのタイミングでソラの元に向かいはしなかった。

 自分がついて行かなければ、クラピカは自分を庇うことなどなかった。

 

 悲劇を回避させる為にしたこと全てが、クラピカをその未来へと導いたことを思い知らされたから、もうネオンは何も語らない。

 彼女にとって自分の予知は、悲劇を回避させるための警告ではなく、悲劇を確定させる呪いでしかなくなってしまったから。

 

 だから、せめてもうこれ以上呪わないように、悲劇が確定しないように自分の能力と、自分が視た悲劇に対する反抗で沈黙を続けるネオンを、ソラはしばらく無表情で眺めていた。

 だがいきなりこの女は手を伸ばして、ネオンの肩にしがみついていた悪魔を一匹掴み、ネオンから引きはがす。

 

「あ、見た目は気持ち悪いけど感触はいいね。シリコンより柔らかくて弾力あって、なんか握って癒される系のボールみたい」

「……何をしているのだ、お前は?」

 

 そしてそのままブニブニと両手で好き勝手に「悪魔」を揉んで、見えていないネオンや弄ばれている「悪魔」どころか見えているクラピカやセンリツも困惑させるが、ソラは彼らの困惑を気にした様子もなく軽やかに無視して、「悪魔」を好き勝手にいじりながら言った。

 

「ねぇ、『悪魔』ってどういうものだと思う?

 私はさすがに本物の第六架空要素(あくま)にはお目にかかったことはないけど、偽物なら今までよく見て来たよ。

 本物でも偽物でも共通してる点は、神が全知全能なら、悪魔は人知無能の存在。そして本物と偽物の違いは、本物は人間の願いに取り憑き、その願いを歪んだ方法で成就させんとする、手の届く範囲にありながら決して理解できない淵であるのに対して、偽物は人の弱さを肯定し、弱さに寄生して育ち、願いを叶える人間の共存者なんだよ」

 

 ブニブニと恐れも嫌悪もなく、むしろ弄られている「悪魔」の方を困惑させてソラは語る。

 

「本物の方は何がしたいのかは、私にはわかんない。あれ、人間の体を使って受肉しようと働くくせに、苗床になる人間の精神が耐えられないから、周囲を巻き込んで自壊するのが通例らしいし。

 でも、偽物の方はよく知ってる。偽物はどんな形に曲がってねじれて歪んでも、さかさまになっても裏返しになっても、それでも……宿主たる人間の願いを叶える為に存在してるんだ。

 偽物の方の悪魔はね、人間自身が自分を不幸と絶望のどん底に追い詰めても、自分を救う為に生み出すんだ」

 

 ネオンの「悪魔」を……、本物ではない、彼女が生み出した「偽物の悪魔」を弄り、眺めながら淡々とソラは語る。

 矛盾しているようにしか聞こえない「悪魔」の定義に、ネオンはポカンと口を半開きにしてただ聞いていた。

 センリツの方も、ソラが何を言いたいのか理解出来ず困惑する。

 ソラの心音を踏まえても、ソラの思惑がセンリツには理解出来なかった。

 

 初めはネオンに対する皮肉かと思ったが、そうではない。

 ソラの心臓が奏でる音でまず初めに読み取れるのは、憐れみ。

 あのマンションの屋上でトモリに向けていたものと同じ憐憫を読み取るが、そのさらに奥には彼女には向けられていなかった感情が、薄くだが確かに存在している。

 何かを期待するような、楽しみにしているような穏やかな心音(メロディー)が、確かにセンリツの耳に届いた。

 

 センリツでもそれぐらいにしか読み取れない。

 なのに、クラピカはまだ眠たげに、具合悪げに半分閉じかけだった瞼をはっきりと開いて、「悪魔」について語るソラを凝視する。

 

 何かに気付いたように、心臓は一度大きく高鳴った。

 

「……そういう訳で、私はちょっくらあの子を追いつめた責任を取る為に、悪魔祓いしてくるよ」

 

 センリツのようにクラピカの鼓動から彼の心理を聞き取ったかのように、何がそんな訳なのか不明だがソラは「悪魔」の話を切り上げ、ネオンから引きはがした「悪魔」をぽいっと投げ捨て、自分のコートを脱いで丁寧に畳んでクラピカの枕にして車から出ようとする。

 

 ソラのマイペースで訳のわからない行動にネオンとセンリツは呆気に取られっぱなしだが、クラピカにはもはや慣れているのか、それとも彼にとってはそれほど脈絡がない行動ではないのか、車内で横になったまま「……どこに行ったのかわかるのか?」と尋ねた。

 

「ん~、あの子の言動とかあのキングボンビーがぶっ刺したトドメとかで、もうだいたいあの子に何があったかは察してるから、あの子が行き着くところもまぁわかるよ。

 ネオンちゃんが視たのって、たぶんあの子が()()()()()()()()()()()()()じゃない?」

 

 ドアを開けて車から出ながらクラピカの問いの答え、ついでにしれっと当然のように、ネオンが視た「未来」について言及してきた。

 その言葉に反応して、ネオンが顔を上げたタイミングで一瞬めまいが起こり、その2秒足らずのめまいの中で視た。

 

 マンションの屋上で、対峙しているソラではなく背後に怯えるように、後ろを気にしていたトモリを視た瞬間に視えた「未来」が、あの時見たものとは違って少しだけまた鮮明になったものが視えた。

 あの時は、トモリが誰に攻撃しているのか、誰をがむしゃらになって腕を振るってグチャグチャに切り刻んでいたのかはわからなかった。

 ただひたすらに、妬ましくて憎くて許せない相手であることだけしかわからなかった。

 

 なのに、今はソラの言った通りそのかろうじて人間だった面影が残る肉塊が、彼女の実兄であることを確信している。

 それはソラがあまりにも当然のように言い切るから、ネオンも思い込んでしまっただけかもしれない。

 

 だけど、それだけではない。未だに自分の能力の原理に懐疑的なネオンだが、思い込みであってもソラが言ったからだけが根拠ではないことだけはわかる。

 自分が得た確信は、元からネオンの中にあった最も高い可能性にあと一つだけ足りなかったピースをソラが補ってようやく形になっただけ。ソラに何かを言われる前から、この可能性に思い至るには十分な情報(ざいりょう)があったから、ネオンは視たのだ。

 

 だが、ネオンは形になった後のものしか認識できない。

 自分がどのようなピースを拾い集めていたのかを、理解出来ない。

 だから、彼女は唇を戦慄かせて「……何で、……わかるの?」と訊くと、ソラはあっけらかんと即答する。

 

「あの子と君がそっくりだからかな。だからこそ、あの子に憑いた『悪魔』もあんなキングボンビーサイズになったんだろうね。そこはさすがにマジであの子に同情する」

「……非常にわかりやすいが、気が抜けるからその呼称はやめろ」

 

 ネオンの問いに答えながら、ネオンが理解できるように説明する気はないのか、ソラの後半の言葉はほぼ独り言だった。

 そしてその独り言に、クラピカが横たわったまま律儀に突っ込む。彼が友情破壊ゲーの代表作に登場する、リアルファイトを勃発させる元凶を知っていたことが意外なのか、ソラは一度目を丸くしてからおかしげに笑った。

 

「うーん、わかりやすくていいと思ったんだけどなぁ。けど、確かにこの子の『悪魔』は貧乏神とはまた違うか。

 君のは、『ラプラスの悪魔』が一番近いな」

 

 クラピカの突っ込みにソラは腕を組んで口先だけ残念そうに言うが、すぐに自分でも合ってないと訂正して、別の「悪魔」を口にする。

 

「……ラプラスの……悪魔?」

 

 もはやソラの話について行けず、ただ言われたことをオウム返ししたネオンにソラは相変わらず笑って説明してやる。

 

「神話や宗教、ファンタジーなお話に登場する悪魔じゃないよ。この世界では別人なのか、そもそも提唱されてないのか知らないけど、私の世界ではラプラスっていう数学者のおっさんが言い出した『物理学による未来視』のことだ。

 簡単に言えば、原子の位置と動きを解明してパターン化させることが出来たら、未来は全てわかるんじゃないかっていう物理学における思考実験だったんだけどさー、これ、私の世界では『量子力学によって、原子の位置と運動量の両方を同時に知ることは原理的に不可能』ってことが解明されているから、この悪魔の存在はとっくの昔に駆逐(ひてい)され尽くされてるんだよ」

 

 楽しげに、おかしげにソラが笑って説明した「ラプラスの悪魔」は、今までのソラの話の中で一番わかりやすかった。だからこそ、何故ソラが今、そんなことをネオンに語ったのかがセンリツには理解出来ない。

 空論だった、妄想に過ぎなかったと言われたものと自分の予知能力を一緒だと言われたら、それは皮肉にしか聞こえない。

 

 ネオンもそう受け取ったのか、泣き出しそうな顔で、唇を悔しげに噛みしめてから言った。

 

「……私の予知は……、妄想みたいな意味がないものだって言うの!?」

「未来は視ることが出来ても、存在しないからこそ『未来(きぼう)』なんだってことだよ」

 

 しかし、それは皮肉なんかではない。そんなの、センリツのように相手の鼓動から心理状態を推測できなくてもわかった。

 ソラの澄み渡った青空のような笑顔を見れば、そんなの誰だってわかる。

 

 だからこそ、何もわからず困惑する。

 ソラの笑顔も、ネオンの悲鳴のような訴えに即答した答えの意味が理解出来ない。

 

「……ソラ。もういい。早く行け」

「おや、珍しい。君が私を止めないなんて」

「……止めても無駄だということを何度も思い知らさせているのはどこのどいつだ。

 第一……妹が兄を殺すなんて後味悪いことを聞かされて、止められる私でないことをお前もわかってるだろうが」

 

 何もわからない。ネオンはもちろん、心理を読み取ることが出来るからこそ、センリツが一番現状を理解出来ず困惑している。

 

 クラピカがソラの言動の意図を理解していることが、センリツには理解出来なかった。

 

「そうだね。じゃあ、クラピカ。無理しないで……」

 

 クラピカの言葉に決まり悪げに苦笑して、そのままソラは迷いなく彼女なりの根拠を持ってトモリの元へ向かおうとするが、クラピカに向ける言葉を途中で適切ではないと思ったのか、言い切らずに変えた。

 

「……いい『答え』が見つかると良いね」

 

 本来ならきっと共存などしないはずの感情が、慈しみと痛ましさがないまぜになった笑顔でソラが言うと、クラピカは覇気のない声音で、血が明らかに足らないのがわかる紙のような顔色のままだが、それでも穏やかに笑って答える。

 

「……『答え』なら、初めから出ていた。見つからなかったのは、その『答え』に至る為の式……問題のようだが、……ありがとう。君のおかげで、それも見つかった」

 

 その答えに、ソラは笑みを深める。

 痛ましさは完全に消え、慈しみも幼く純粋な歓喜に変質して、その名にふさわしい晴れ晴れしい笑顔を浮かべてソラは今から本人いわく「悪魔祓い」をしに行くとは思えぬほど嬉しそうに言って走ってゆく。

 

「そっか! なら、安心だ!!」

 

 お互いにしか理解しえないやり取りを呆然と眺めていたが、ソラの姿が見えなくなったあたりでクラピカの傷は完治した訳ではないことを思い出したのか、まだちょっと困惑したままセンリツはクラピカに「えっと……とりあえず病院に向かうわね」と宣言してアクセルを踏む足に力を入れようとする。

 

「……すまない、もう少しだけ待ってくれ」

 

 しかし、センリツがアクセルを踏み込む前にクラピカは止める。

 彼は一旦起き上がろうかと思ったが、センリツとネオンに咎められたことと自分でもさすがに無理だと思ったから、諦めて横たわったまま語りかける。

 

「――ネオン=ノストラード」

 

 横たわったまま、それでもネオンを真っ直ぐに見据えて彼は呼びかける。

 その呼びかけにネオンは怯えたように肩を震わせて俯き、「ごめんなさい」だけを呟き続ける。

 

 クラピカに責められると思って泣きながら卑屈に謝り続けるネオンに、クラピカはもう苛立たなかった。

 何故、自分は彼女にあんなにも苛立っていたのか、憎悪していたのかを理解したから。

 

 だから、クラピカが口にしたのはネオンを傷つける為の意趣返しでも嫌味でもない。

 だからこそ、センリツはなおさらに彼の言葉の意図が理解出来なかった。

 

「あなたの未来視は……『予測型』だけではない。もう一つ……『確定型』と呼ばれる未来視を補助に使っている。……あなたや私……ソラや『ブロンド殺し』に憑いた『悪魔』は、そちらの未来視を主に使った能力だ」

「……え?」

 

 唐突にクラピカが語ったのは、ネオンに気を使って伝えていなかった彼女のもう一つの未来視。

 確定型の未来視について彼は弱々しい声で、それでもはっきりとわかりやすく、理解せずに逃避することは許さないという意志を込めてネオンに説明した。

 

 予測型は今ある情報から一番起こる可能性を推測するものなら、確定型は「至りたい未来」という目標を立てて、そこに至る経緯を今ある情報から作り上げるもの。

 同じ「未来視」で括られてはいるものの、視るものが「結末」と「目的に至る経緯」という時点でこの二つの未来視は別ものだが、一番の違いはそこではない。

 

 予測型は、あくまで「一番起こる可能性が高い未来」に過ぎない。

 未来視がその未来を語った未来を回避するために奮闘しても、それは海に小石を投じても潮の流れを変えることが出来ないような足掻きに過ぎない場合もあれば、何もしてなくてもどこか遠くの蝶の羽ばたき一つでもうその未来には至らないと決定するほど、不確かなもの。

 

 そんな予測型に反して確定型は、その名の通り「未来を確定させる」未来視だ。

 目標を定め、その目標の為に自分がどんな行動を取るべきか、誰にどんな行動を取らせるべきかを視るのが確定型の未来視。自分で自分の未来を一本道に舗装して歩く為のもの。

 

 逆に言えば、その行動を取らなければその未来に至る可能性はないに等しい未来なのだ。

 

 予測型はその未来に関わる人間が何かしらの行動に出ようが出るまいが、その未来に至る保証が絶対でないのに対して、確定型は絶対だからこそ未来に関わる人間が何かしらの行動に出る必要があるもの。

 

 そのことを教えると、浅慮ではあるが決して愚鈍ではないネオンは理解する。

 ネオンだけではない、センリツも理解した。理解したからこそ、クラピカを咎めることが出来ないほどに理解出来ない。

 

 ソラのあの「悪魔」についての話の意味を、何を意図してわざわざ「悪魔」の定義、それも「本物」と「偽物」の違いまで語ったのかを理解したからこそネオンは眼を見開いて、ショックを受けているのか、今にも怒りが爆発しそうなのか、震える声音でその理解してしまったことを、ソラとクラピカが言いたかったであろう言葉を口にした。

 

「…………この……未来は……私が…………自分で望んで……作ったものってこと?」

「……あなたが一から望んで作り上げて誘導したものだとは思っていません。……ですが、わざわざ悪い未来の可能性を高めていることとあなたの意思は、無関係ではない。

 無意識でも、無自覚でも、確かにあなたの意思で数ある可能性の中からあなたが望んで選び、更に可能性を高めているものなのでしょう」

 

 ネオンの言葉を、クラピカは肯定する。

 

 否定されることを望んでいたことはわかっている。だが、その望みは叶えられない。

 自分でもわかっているはずだ。自分の行動がすべて裏目に出て、予言を成就させてしまったからこその今なのだから。

 

 ネオンが泣いて錯乱して、自分が視た予知を告げていなかったら、クラピカはソラがトモリの元に向かって交戦したことを、全てが終わるまで知らなかったかもしれない。

 自分がついていくと言わなければ、「近くでまた見れば予知が出来るかも」と思って外に出なければ、自分が悲鳴を上げなければ、トモリはわざわざネオンを襲いにかかりはしなかった。

 

 今になって思えば、ネオンがクラピカの死を望んでいたと思われても仕方がないことしかしていない。

 その自覚はあり、自分でもそうとしか思えない。

 けれどネオンは両手で頭を抱えて泣きながら、「違う」という言葉を繰り返す。

 

「ち、違う……違うの……待って……お願い……信じて……違う……違うの……あたしは……あたしは――」

「クラピカ! 何を言っているのかあなたはわかっているの!? お嬢様はあの時も、今もずっと本心からちゃんとあなたを案じて、自分の予知が外れることを願っていたわ!!」

 

 クラピカがあまりにも迷いも躊躇いもなく、ネオンのしてきたことを否定する言葉と心音が理解出来ず絶句していたセンリツが、ネオンの悲痛な「これだけは信じて」と訴える心音で自分が何を言うべきかを理解して、クラピカに猛抗議する。

 

 だがクラピカは、ネオンはもちろんセンリツに対しても悪びれた様子もなく、淡々と彼女たちの言葉に応じた。

 

「……あぁ。わかっているさ。自分が何を言っているのかも、彼女が本心から私を案じてくれていたのだって、疑ってなどいない」

 

 ネオンの善意を、「死んで欲しくない、助けたい」という真っ当な願いを全否定しているとしか思えない発言をしておきながら、彼女のあの涙も、行動も本心からクラピカを助ける為であったことを疑っていないという発言に、二人は気勢が削がれてまたしても言葉を失う。

 その隙にクラピカは少し疲れたように大きな息をつきながら、右手がまず右目に触れる。

 

「…………だが、本心が一つだとは限らない。

 ()()()()()()()()()()()()()? 予知が外れたらあなたの中の罪悪感が薄れて気が楽になる。予知が当たれば……あなたは完全無欠な『加害者』になることが出来たから」

 

 横たわったまま、語る。

 センリツでも読み取れなかった、無自覚なネオンの深い心の内にあった「本心」を、今度は左目に触れながら淡々とクラピカは語る。

 

「あなたは……自分の罪に何の言い訳もせずに背負えるほど、強くなどない。けれど真っ当な良心があるから、その罪悪感を捨てることも出来ない。

 その良心ゆえにここまで追いつめられて、ねじまがって歪み、最悪な方向に向かったのは憐れだと思うが……、結局のところあなたは『自分は加害者だ』という非を……自分の弱さを認めることで、その弱さを盾に、免罪符にして『罪』を受け入れても『罰』から逃げ続けているだけだ。……だから、あなたは『悪魔』を生み落とし、『悪魔』に憑かれた」

 

 語りながら、指先で取り外したものを手探りで車内の灰皿を探してその中に捨てる。

 ……黒いカラーコンタクトを捨てたことに気付いたセンリツが、「クラピカ! あなた何を!」と叫んで咎めようとするが、その前にクラピカの双眸が開く。

 

「安心しろ。ネオン=ノストラード」

 

 クラピカは、言った。

 どこまでも優しさなどないが、冷酷でもない。

 淡々とした他人事のように事務的な口調と声音で。

 

 

 

「お前は何をしようが、私にとって永遠に『加害者』だ」

 

 

 

 燃え盛るような緋色の眼で、ネオンを真っ直ぐに見据えて。






全員でシリアスやってるが、クラピカ最大級の黒(?)歴史製造。なお、本人は『まだ』自覚なし。
ソラが走り去っていった時、センリツとネオンは心の中で「ゴリ押しで誤魔化してなかったことにしていったよ……」と思いながら見送ってました。

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