死にたくない私の悪あがき   作:淵深 真夜

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111:宝石師弟

 日が昇ってからも、ビスケは花壇の縁に腰掛けて眺め続ける。

 ビスケはずっと眺めていた。眺めるだけだった。

 

 ソラが、彼女の墜落死を防ごうと足掻くのを、墜ちてくる彼女を受け止めようと足掻き続けるのをただずっと見ていただけ。

 

 何の協力もしてやらなかった。アドバイスも与えず、彼女が空中に現れていることにソラが気付いていない時に指摘してやることもなく、……けれどビスケはずっとそこにいた。

 肌寒い夜の野外で、居眠りするでもなく、ひたすらに不機嫌そうな顔で一晩中ソラの悪足掻きを眺め続けた。

 睡眠不足はお肌の大敵だから、よほどのことがない限り睡眠はしっかり取る主義であるビスケが、徹夜でソラのバカげた行動を眺め続け、そして今も続けている。

 

 そんな自分の行動を、ビスケ自身が「あたしは何をしてんのよ? 何がしたいのよ?」と自問するが、答えは返ってこない。

 その苛立ちを元凶に、信じられないことに昨夜から休息を取っていないバカに、ソラにビスケはぶつける。

 苛立ちの元凶だが、苛立ちのぶつけどころとしては正当なのか八つ当たりなのかも、ビスケにはわからない。

 

「あんたは本当に、一体何がしたい訳?」

 

 ビスケの問いに、ソラは泥だらけとなった顔を上げる。

 その顔も、夜空色の瞳も、きょとんとしたままただ見上げている。

 何故、ビスケからそんなことを訊かれているのかをわかっていなかった。

 

 質問の意図すら理解できていない顔だった。

 

 その顔に、どこまでも会話が成立しているようで、意思疎通が相変わらず出来ていないことを思い知る。

 噛み合っているようでいつの間にか致命的なまでに話題や視点が何故か妙にずれる相手に、もはやビスケは苛立ちすら湧かない。

 ただ、深々と疲労の色が濃い溜息を吐きだして、もう一度尋ねる。

 

「何で、そこまでして彼女を助けようとしてるのって訊いてるのよ。

 あんた、今の自分の格好を見てみたら? 砂場で遊んでるやんちゃな子供でも、もう少しましな格好よ」

 

 ビスケの二度目の問いにまだソラは答えず、ただ気まずそうに笑った。

 その笑みは答えにくい質問をされたから、答えたくなかったから笑って誤魔化そうというものではなく、ビスケの問いではなく後半に関しての苦笑であることは、今日でもう四日目となる付き合いで理解出来るようになってしまった。

 

「確かに、酷い恰好だよね。けど、いつどこに落ちてくるかわかんないから、ちょっと着替えや休憩は難しいな」

 

 ビスケの思った通り、ソラはビスケの問いには答えず自分の格好のひどさを苦笑して認める。

 触れられない、墜落死するしかない彼女を何度も何度も抱き留めようと、受け止めようと夜の間ずっと走り回って飛び跳ねて、スライディングで何とか落下位置に滑り込んだり、ビスケに却下された能力者であるビスケ投げつけを実行しようとしてビスケに殴られたりを繰り返したソラの全身は、ビスケの言う通り泥遊びをした子供と同じか子供の方がマシな有様である。

 

 そしてそれは、日が昇っても変わらない。諦めない。

 一般患者や医者たちからこの上なく不審な目で見られてドン引かれても、それでも彼女は諦めずに足掻き続ける。

 ビスケと自分にしか見えない、墜落死を繰り返す彼女を救おうと足掻き続ける。

 

 その足掻きに対してもう苛立ちも生まれないと思っていたはずなのに、そんなことはなかった。

 自分の質問に答えない。恍けているのではなく、彼女にとってはビスケの質問が本気で理解出来ないからこそ、答えていないことも質問されたことすら忘れているという事実にムカついて、ビスケはソラの眼前に腕を組んだ仁王立ちで、吐き捨てるように言った。

 

「何の意味があんのよ?」

 

 質問の体をした否定。

 

「相手に悪意がないのはわかってる。だから、助けたいと思う気持ちはわからなくはないわよ。

 でも、今まで会ったこともない相手の為に、あんたはどうしてそこまですんのよ」

 

 ソラのしていること、したいことを全部否定する。

 

「何で、あんたは『クラピカ』よりも彼女を優先してんのよ。あんたにとって大切なのはもうとっくの昔に死んだ赤の他人の幽霊じゃなくて、あんたが助けた弟じゃなかったの?」

 

 諦めろと告げる。

 

「訳わかんないのよ。死者の念を殺すとか言っときながら、そこまでして死者の念を助けようとしてるのも、弟よりこっちを優先するのも」

 

 彼女はとっくの昔に、もう死んだ存在だから。

 何か訴えたいことがあるのかもしれない。それを知れば、彼女は救われるかもしれない。

 

「いい加減、自分のしていることを虚しく思わないの?

 いくら足掻いても、あんたが助けたいと思っている人はあんたの手をすり抜けて、地面に激突して、ひしゃげて潰れて何度も死ぬのを繰り返し見続けて、それでも諦めないのはお人好しというより、ただ単に頭がおかしいだけよ」

 

 けど、現実は非情だ。

 救ってやろうと躍起になっているソラでは、彼女に触れられない。

 ビスケの見立てでは、おそらくは墜落死を繰り返す彼女自身に悪意は一切ないのが、この場合は裏目に出ている。

 

 どこまで意図的なのかは不明だが、彼女の念能力は悪意がなく、誰も巻き添えに傷つける気はない、むしろ強く傷つけたくないとでも思っているのか、姿こそは見えるが具現化はしていない。

 だから何かしらの条件が揃って彼女を一度見てしまい、取り憑かれても、彼女の墜落に巻き込まれて取り憑かれている本人や彼女が激突した地面が傷つくことはない。

 

 触れないのは、ソラや今まで取り憑かれた被害者たちは“凝”だけが無自覚・無意識に出来ているだけ、もしくは他に何らかの条件が揃っているから見えてしまっただけの、念能力者視点で言えば一般人にカテゴリされる人間だからであって、オーラを全身に纏う“纏”や、腕にでも“凝”が出来たら……、オーラでならオーラそのものである彼女に触れられる可能性はある。

 だから、ソラが初めに言い出した「ビスケを落下位置にブン投げて、ビスケにキャッチしてもらう」は、本気にしたくないただの悪ノリで言い出したと思いたい発想なのだが、ソラ自身の足掻きよりは成功する可能性が実はずっと高い。

 

 が、これも結局は「可能性」の域から出ていない話。

 相手に攻撃する意志などがあれば、見えているし向こうからの攻撃は可能だがこちらは攻撃不可という能力は、有り得ないと言い切れる。

 念能力はそこまで万能でも反則でもない。そんな能力があったとしたら、そう見えているだけで絶対にどこか決定的な弱点や欠点がある。そういう風に制約を定めないと、そこまで反則的な能力は作れない。

 

 だからこちらからの干渉が不可という能力の大概は、リスクが大きくて厳しい制約を課したからではなく、もっと単純に「無害だからこそ干渉不可」なのだ。

 向こうから攻撃などの直接的な干渉が出来ない、無害といえる存在だからこそ、こちらからの干渉も不可はあまりに単純な等価交換。

 だからこそ、ベテランのビスケでもそこに付け入る隙はない。

 

 ……そんな話は、とっくの昔にした。

 なのに、それでもソラは「ふぅん」とだけ言って諦めない。

 

 ビスケが「能力者なら触れられるかもしれない」を低くて確かめるまでもない可能性として切り捨てているように、ソラは「能力者でも触れられない」という話もただの可能性としか思わず、諦めない。

 

 能力者ではない自分でも、触れられることを。

 能力者ではない自分が、能力者になることを。

 自分の行動が、誰にも触れられずに墜落する彼女に触れられる、彼女を助けることが出来る「条件」を満たすことを信じて、諦めない。

 

「ねぇ。あんたは一体、何がしたいの?」

 

 そんな条件がそもそもあるのかすらわからないというのに、ソラという少女はどれほど泥まみれになって、体に巻いていた包帯がほどけ、絆創膏もはがれ、痛々しい傷をむき出しにしても、生々しい傷を増やしても、それでもその名にふさわしい青空のような笑顔で答えた。

 

「そういう風に思われたいからかなぁ」

 

 あまりにも狂った理由を、晴れやかな笑顔で言い放つ。

 

 * * *

 

「私の頭がおかしい、狂ってるって思われるのは別にいいよ。事実だし。

 でも、私は頭がおかしいけどそのおかしさのベクトルは、ビスケさんが言ったように『お人好し』っていう方向に振りきれてほしいんだ。そういう狂人でありたいんだ」

「……あんたマジで何言ってんの?」

 

 答えながら立ち上がり、体中についた土や草のきれっぱしを叩いて落としながらソラは答える。

 気休めにもならない。その行動も、答えも。

 だからビスケは答えられてもさらにいぶかしげに、そしてドン引きながらもさらに問う。

 

 その問いは、自分に理解出来る「人間性」を相手に求めているからか、それとも自分とは完全に何も理解し合えないと「化け物」だと思い知りたかったからなのかも、ビスケにはわからない。

 ただ、そのどちらの期待も粉々に砕かれたことだけは彼女の答えで理解出来た。

 

「別に深い意味も、裏の意味もないよ。そのまんま。

 私はさ、生きていたいんだ。私は死んでないのが不思議、っていうか物理的にも精神的にも私は一度どころか何度か死んだレベルの所から、ただそれだけ、いずれ必ず至る結末なのに誰もが持つ元始の願い……『死にたくない』の一心だけで生還しちゃったんだ。

 その後遺症で、私は多分この世の誰よりも『死』が怖いくせに、『死』というものを理解して、『死』に一番近い所にいる。だから私は、死にたくないのなら呼吸を忘れて置いてけぼりにしなくちゃいけないぐらいの速度で走って逃げ続けなくちゃいけないんだ」

 

 笑いながら、自分の望みを語る。

 そんなの、わざわざ言葉にしなくても誰だって持っている、当たり前でありふれた全てにおいての前提であるはずの願いを、その「当たり前」が失われた理由ごとソラは語る。

 それは迷子の子供が強がっているようにも、老人が遠い昔を思い返して懐かしんでいるようにも見える、幼さと老成が奇妙な調和を見せる寂しげな笑顔だった。

 

「そこまでして死にたくなかったくせに、私には生きていたい理由なんかなかった。だから、私は本来ならきっと最悪の怪物になってたと思う。

 何もしたいことなんかないくせに、死にたくないの一心でこの世全てを殺す……そんな怪物に」

 

 笑いながら、自分の有り得たIfを語る。

 そのIfを荒唐無稽だと笑い飛ばすことは、ビスケには出来ない。

 そんな怪物だと、ビスケは初めは思っていたから。そんな化け物だからこそ、あの偽旅団と戦っていたし、自分に向かってきたのだとも思っていたから。

 

「……そんな怪物を、人間の枠組みに留めてくれたのがクラピカなんだ」

 

 笑みの種類が変わる。

 寂しげで儚げな笑顔が、その名にふさわしい晴れやかな笑みに、幸福で仕方がないという笑みを浮かべてソラは語る。

 自分の救済を、幸福を、それらを守り通すためにしなくてはいけないことを、ビスケに訴えるように、自慢するように、誇るように語る。

 

「あの子がいたから、あの子が私なんかに『助けて』って言ってくれたから、あの子は私の事情なんか何も知らない、私のことなんか見ていない、私に喪った人たちの面影を見てただけに過ぎなくても、何の理由も意味もなく、ただ『死にたくない』だけで掴んで永らえた命に意味を見出してくれたから……、だから、今の私は『死にたくない』だけじゃなくて、『生きていたい』んだ。

 どんなに壊れても、狂っても、私がソラ(わたし)である限り、生きていたいから……だから、私は壊れても狂ってもいいけど、これだけは手離せない。

 

 ……殺すしか能がない私だけど、『殺したくない』『助けたい』という気持ちを、忘れることも、なくすことも出来ない。それを失ったら、もう私は……生きてなんかいない」

「あんたなんか初めから生きちゃいないわよ!!」

 

 思わず自分でも驚くほど唐突に、泣きそうな声でビスケは叫んだ。

 ソラの「生きていたい」理由を、その為にしなくてはいけない、手離してはならないものを全否定する。

 否定するしかなかった。何もかも気に入らなくて、ビスケは見た目通りの子供のように癇癪を爆発させて、ソラと同じくらい人目を気にせず、ここが病院の中庭であることも忘れて喚く。

 

「あんたは本当に本当に、大馬鹿者よ!! そんだけ死にたくない目に遭っておきながら、何であんたが誰かを助ける立場なのよ! 何で、助けを求められることを救いだと思ってんのよ!?

 

 仮にあんたにとってそうだとしても、あんたに助けられた奴はあんたがそうやって自分が生きる為とか言いながら、自殺志願同然の自己犠牲を見てどう思うかわかってんの!?

 何とも思わない奴なんかを助けて救われるのなら、勝手にして勝手に死ね!!

 そうじゃないのなら……それこそあんたは誰も助けず、死ぬべきなのよ……」

 

 ビスケの怒声に初めこそは驚いて目を丸くしていたが、ビスケが叫び、主張すればするほどソラは対照的に冷めていった。

 ビスケの言葉を「くだらない」「聞く価値もない」と判断して切り捨てているからこその温度の低下ではなく、それはまるで予定調和を眺めるように、退屈しているようにも見えるその無表情は、如実に語っていた。

 

 ビスケの言うことなど、とっくの昔に誰かに言われたか、それとも自分で既に気付いている。

 気付いた上で、それでも彼女はあの選択をしたのだと思い知らされて、ビスケの頭に血が余計に昇った。

 

「あんたの生き方も、手離さないものも、迷惑でしかないのよ!!

 自分の命を使い潰す以外に価値を見出せないのなら、今すぐに死ね!! あたしは、クラピカって奴のことなんか何にも知らないけど、あんたがその子やそれ以外の誰かの為に『助けたい』っていう思い以外全て差し出して、ボロボロになって、死にたくないのに死んでいくのを見て救われるわけがないことくらいはわかるわよ!!

 その子の『助けて』に本気で応える気があるのなら、あんたは『殺したくない』はともかく、誰でも彼でも『助けたい』なんて捨てろ!!

 生きていたいのなら、本当に助けたいのなら、その助けるべき人とそうでない奴を区別付けて、切り捨てろ!!」

 

 ソラが手離さないと決めたものを、手離せと叫ぶ。

 それを手離さないと、それこそ本当に守りたかったものを一番傷つける結末にしか向かわないから、だからビスケは恨まれることも泣かれることも、怒りによってあの「怪物」が再び現れて自分を敵と認識することすら覚悟の上で喚きたてた。

 

 だけど、どこまで行ってもビスケの言葉は一人相撲だ。

 

 ソラは一通り叫んで肩で息をするビスケを眺めてから、のけぞるようにして上空を、空を眺めて答えた。

 

「……わかってるよ」

 

 ビスケの思った通り、ソラはビスケの言い分など言われるまでもなくわかっている。

 自分のしていることは、自分を本当に守りたい人に一番残酷な傷を負わせるかもしれない自己満足に過ぎないことくらい、わかってる。

 

「ビスケさんの言いたいことも、怒る気持ちもわかるよ。

 だって、私が少し前までその『助けられる立場』だったもん。同じようによくブチキレてたよ」

 

 空を仰ぎみながら、眩しそうに目を細めて語る。

 その細めた目で、蒼天の彼方、天上の深淵に誰かを探すように眺めながら。

 

 正義の味方を目指した人と、「そんなのもわからないの?」と泣き笑いながら問い続ける人を探して、瞼を閉ざす。

 

「けど、ブチキレた立場だからこそわかることもあるんだ。

 ……『助けたいから助けた』なんて言われて、目の前で死なれたり、取り返しのつかない傷を負われるのは、確かにこの上なくムカつくよ。

 大切な人が知らない赤の他人の為に傷ついて行くのを見たら、『そんな奴は見捨てて、自分自身を優先してくれ』って叫びたくなるよ。

 

 けど…………本当に自分だけを優先するようになったら、私はその人に失望する。その人に見捨てられたら、私は絶望する。

 結局、私は相手の為に『傷つかないで』なんて願ってない。自分の為だ。相手が傷つくのを見たら、自分も痛いからやめてほしいと願ってるだけで、本当に相手が自分だけを守るようになったら、理不尽な身勝手だってわかってても、私は失望して絶望する」

 

 ソラの言葉に、「わかっている」という発言にまた「わかってるんなら、何でやる!?」という怒声を浴びせたくなったが、続いた言葉でその怒りの言葉をビスケは飲み込むしかなくなる。

 何も、言い返せなかった。

 

 ソラは自分で言った通り、わかってる。自分が昔は、少し前まではビスケの立場だったから、自己犠牲なんてあまりに一方通行な自己満足であることくらい、嫌になるほどわかっている。

 ソラはそんな自己満足の所為で未だの心の奥に亡霊が住み着き、その所為で魔法使い(クソジジイ)に喧嘩を売って、10回中100回ほど死ぬ羽目になったのだから。

 

 けれど、わかっているからこそさらにその願いの本音もよくわかる。

 

 相手に傷ついて欲しくないというのは間違いなく本音だけど、そのさらに奥の本音は、自分の身勝手さを棚に上げた本音は、「相手が傷つかず、そのままでいてほしい」というものであることくらい、知っている。

 

 そしてそんな本音は、当たり前。

 自分自身だけを優先する人間よりも、助けて欲しい時に手を差し伸べてくれない人よりも、自分自身を犠牲にしても助けてくれる人が欲しい、そんな人であって欲しいと望み願うのは当たり前のこと。

 

 それは全部エゴだ。

 だけど、エゴだけどその願いが叶えば、全ての人間がそうなれば、自分自身もそういう人間であれたら、犠牲など生まれない、裏切られることない、辛いことがあれば必ず誰かが助けてくれる世界なら、「自分が傷つきたくないから助ける」という行為は、エゴであってエゴではない。

 夢のような、夢物語でしかない幸福な世界になる。だからこそ、エゴだとわかっていても、無理だと諦めているようで、誰もがきっと心のどこかで手離せずに夢見ている当たり前の本音。

 

 だから、ビスケも何も言えなくなる。

 

 全部全部、無駄だと思っているのに、無駄なあがきだと思っているのに、何の意味があるのかわからないのに、やめてほしいのに、やめてほしいのは無駄としか思えない、無意味にしか見えないソラの足掻きがあまりに痛々しいから、見たくないから否定しているだけなのに……。

 

「……だから、私はやっぱり手離せない。

 これはクラピカを侮辱する身勝手な不安であっても、私はあの子に失望されたくないんだ」

 

 そう言って、ソラはやはり晴れやかに笑う。

 ビスケの意見を何一つとして聞いてやれないことを申し訳なさそうに、少しだけ困った顔をしながら、それでも迷いなく笑う。

 

 迷いなく笑って、「ごめんね」と謝るから。

 

「この! クソガキ!!」

「ごふぅ!?」

 

 ビスケは完全にキレて、ソラの細くて薄い腹にストレートで拳を抉りこんできた。

 

 * * *

 

 現在のソラならあの予知能力じみた反射を見せてひらりと避けたかもしれないが、当時のソラはまだそこまで死を退ける為の詰将棋をしていなかったのか、それとも予測していても行動に移せるほど体は慣れていなかったのかは不明だが、とにかくビスケの唐突な暴行を防ぐことが出来ず、抉りこむストレートのクリティカルヒットをもらってしまった。

 キレつつも一応ソラは“纏”も出来ないことを覚えていたから、オーラは込めていないし元の姿でもない、少女バージョンでの腹パンなだけビスケは優しいし偉い。

 

 が、そんなビスケの優しさに当時のソラが気づける訳もなく、そしてさすがに素で頑丈とはいえ念能力者ではなかったソラは、ビスケの唐突な腹パンに数メートルほどブッ飛ばされて、そのまま地べたに転がって夏の終わりに道端に転がっている瀕死の蝉のように痙攣して悶絶。

 

 何でいきなり腹パンされたのかどころか、自分に何が起こったのかすら理解出来ないまま、割と本気で内臓を吐き出しそうなダメージに死にそうになっていると、ビスケがツカツカと転がっているソラの元までやって来て、ソラの眼前で足を踏み鳴らし、ソラを見下ろして言った。

 

「何、謝ってんのよ?」

 

 ソラの謝罪に、この上なく不愉快そうに鼻を鳴らして文句をつける。

 ビスケの腹パンによるダメージで、呼吸さえもままならぬソラは当然答えることが出来ないのだが、そんなソラの反応にビスケはまたさらに不愉快そうに舌打ちする。もはや、難癖や因縁を付けているチンピラのようだ。

 

 チンピラ同然のガラの悪さ、完全にやさぐれているビスケはもう一度、「お前を踏みつぶしてやろうか」と言わんばかりにソラの眼前で足を踏み鳴らして言った。

 

「謝るくらいなら素直にこっちの言うこと聞けばいいのに、好き勝手やっておきながら、何こっちを完全に突き放そうとしてるのよ?」

 

 咳き込みながらもビスケの訳の分からないブチキレによる追撃から逃げようともがいていたソラが、苦しげな呼吸以外はぴたりと止めて、藍色の眼がビスケを見上げる。

 ビスケのほとんどの問いや言葉に対して、「何を言っているのかわからない」「何でそんな当たり前のことを言っているのかわからない」と言わんばかりの顔をしていたくせに、今はちゃんと理解している、そう思える眼で見上げてくるのがまたビスケの癇に障った。

 

「クソガキ。ガキよ。あんたはね、ガキなのよ! いくつか知らないけどあんたはガキなのよ! 現実を知らない、知ってもまだ夢見てるバカなクソガキなのよ!!

 

 そんなクソガキが一人で足掻いて、何が出来ると思ってるの? 出来ることがあるとでも思ってるの? あんたよりもさらに弱くてバカで、あんたに頼るしかないガキは山ほどいるかもしれないけど、あんた自身も自分以外の誰かに頼るしかないガキなのよ!!」

 

 癇に障る。何もかもが、癇に障る。

 自分のこの姿を、訳がわからない根拠で偽装だと、実年齢ははるかに上だと気付いたことも。

 その実年齢を30代ほどだと勘違いしておきながら、ババア呼ばわりすることも。

 ビスケが自分よりはるかに年上であることに気付いておきながら、何の躊躇もなくビスケの手を掴み、引いて、助けたことも。

「生きていく術を教えて欲しい」と言いながら、彼女を助ける手段にバカすぎる提案をしておきながら、ソラは、このバカは、この少女は、この子供は――――

 

 

 

「『助けて』くらい、言いなさいよ!」

 

 

 

 一度も、言わなかった。

 泣きながら謝って、自分の眼を抉り出したいほど怖いものを見て、どうやって生きていけばいいかわからないくせに、自分一人では助けられないことを何度も思い知っているくせに、なのに一度もソラは言わなかった。

 ビスケにも、誰にも、求めなかった。

 

 助けを求めなかったことが、今までソラがやらかしてきたこと全ての中で一番ビスケは気に入らなかった。

 

「大人に頼りっきりの甘えたクソガキは死に絶えたらいいけど、自分一人で何でもできると勘違いしてるクソガキはそれはそれで大迷惑なんだわさ!!

 謝るくらいなら! こっちの言いたいこともしてほしいことも全部わかったうえで、それでも好き勝手したいのなら! そんならいっそ、『助けて』くらい言え! 

 

『助けて』って言われたことにあんたが救われたのなら、なおさら一体何に対して躊躇ってるんだわさ!? 今更、的外れな遠慮すんな!!

 見ててこっちが痛くなるのに、手出しを拒絶されたらこっちが余計にイライラしてムカついて迷惑だってことを理解しろ、このバカガキ!!」

 

 だから、ソラの「お人好しが振り切れている狂人でありたい」という狂った理由に対して怒鳴りつけていた以上に、完全にブチキレて、病院の窓がビリビリと振動するくらい、早朝からうるさすぎて大迷惑なのに抗議する勇気が患者も医者も誰も持てないぐらいのキレ具合を見せて、ビスケは怒鳴り続ける。

 

 甘えなかったこと、頼らなかったこと、助けを求めないことに対して、怒りを爆発させ続ける。

 

 その爆発を、怒りをぶつけられている張本人は、ようやくダメージが治まって来たのか、かすれた咳を一度してから口を開く。

 

「――――いいの?」

 

 藍色の眼を信じられないものを見るように丸くして、男女の判別がつかない大人にも子供にも聞こえる声が妙に幼く思えるほど、ただ不思議そうに問うた。

 

 その問いに、またビスケは鼻を鳴らして吐き捨てるように答える。

 

「よくないわさ。面倒くさいし、迷惑だし、ムカつくし、全然いいことなんか何もない。けど、今のまま『自分一人で大丈夫。ちょっと手伝ってもらえたらいい』って顔されて、一人で勝手にやらかされた方がはるかに面倒だし迷惑だしムカつくって話よ。

 面倒だし迷惑だしムカつくけどね、子供が大人に頼るのは当たり前なのよ!」

 

 しつこいくらいに何度も面倒で迷惑でムカつくことを連呼して強調しながら、当たり前だと言い張る。

 

 当たり前だから。

 だから、面倒で迷惑でムカつくけど、助けてやると言った。

 

 当たり前だから。

 自分が傷つきたくないのも、傷つくしかない人を見たくないのも、けれど……傷ついて傷つくしかなくて、自分の命を使い潰して誰かを、面識もない赤の他人、もう既に何もかも終わっているはずの死者を助けようと足掻くことに意味を見つけてやれなくても…………、「助けたい」と思う気持ちを「無意味」にしたくないのは、その想いや努力が「無意味」になる所を見たくないのは、当たり前のことだから。

 

 だから、「無意味」だと思い知る前に、その結論が出てしまう前に諦めてなかったことにして、結論を出さない限り可能性として存在し続けている量子論の箱の中に閉じ込めてしまいたかったから、何度も何度も「諦めろ」と言った。

 なのに、諦めないから。どんなにビスケがその箱の中に閉じ込めても、その箱の中には見たくないもの、開けた者を傷つけるものしか入っていないと言っても、ソラは開けてしまうから。

 その箱の奥に自分が見出した、あると信じて疑わない希望(エルピス)に手を伸ばすから。

 

 希望(エルピス)がないのなら自分の手で作り出そうと、もがき足掻くから。 

 

 だから、折れてやった。

 諦めないのなら、足掻き続けるというのなら、信じ続けるというのなら、「無意味じゃない」と言い張るのなら、せめて子供なのだから大人(じぶん)に助けくらい求めろと告げる。

 その助けは、わがままでありエゴであるけれど、当たり前のことだから。

 

 だから、手を差し伸べた。

 自分で殴って悶絶させた少女に、ずっと待っていたビスケはしびれを切らして手を差し伸べる。

 

 しかし、まだ少女はその手を取らない。

 腹を押さえていた腕で上体をやっと起こしたソラは、夜空色の眼をまだ丸くしたまま、それでも真っ直ぐにビスケを見つめて再び問う。

 

「本当に、いいの?」

 

 確認する。

 その言葉が、嘘ではないことを。

 この手を掴んでくれるかどうかを、問う。

 

 自分を追って墜ちて来てくれた、古の英雄のように。

 理想に溺れ死んでも手離さないと誓った、正義の味方のように。

 答えは永遠に出ない、けれど自分の盾となって死んだことは間違いのない姉のように。

 望んでなどいなかった、望むことすら思考に上がらないほど狭い世界にいた自分に、世界の広さを見せつけた、多くを認めた魔法使いのように――――

 

「本当に、助けてくれる?」

 

 自分を助けてくれるのかと、問う。

 その問いに、ビスケは答えた。

 

「当たり前よ!!」

 

 当たり前だから、今更何度も念押しに問われたらムカつくほど当たり前のことだから不機嫌そうに吐き捨てて、そしてもう手を差し伸べるのもバカらしくなったのでソラの左手を引っ掴んで持ち上げる。

 身長差からして本当に持ち上げることは出来ず、ソラは膝立ちの状態になり、ビスケと視線が並ぶ。その並んだ視線に、ソラの眼と同じくらい自分も真っ直ぐに見据えて、その夜空の奥の深淵に、あれほど恐れたセレストブルーの虚無に宣戦布告するように睨み付けて言った。

 

「“念”を教えてやるわさ。あんたの言う『魔術』とやらと“念”は別物に近いけど根本は同じだから、“纏”くらいならみっちりしごけば今日中にはマスターできるでしょ。っていうか、しろ」

 

 ソラに乞われても返事はしてくれなかった、強くなることよりも弱いままでいた方が賢いと言って、遠まわしに拒否していた“念”を教えるやるとぶっきらぼうにビスケは言い出し、ソラはまた更にきょとんと目を丸くする。

 そしてその眼は次第に細くなり、ソラはビスケに腕を掴まれたまま、無理やり膝立ちの体勢を取らされたまま笑った。

 

 泣き出しそうなぐらい申し訳なさそうな顔で、強がるように笑った。

 

 その笑みがまたと言うべきかまだと言うべきかビスケの癇に障ったので、ソラの左手を掴む握力がさらに増し、「何よ、その顔は?」とビスケは問う。

 ビスケの問いに、ソラはまた更に泣き出しそうになりながらも、答えた。

 助けを求めるように、弱々しく。

 

「――ごめん。ビスケさん、ごめん。ビスケさんは本当に良い人だから、本来なら見えなかった、私が八つ当たりで見るように言っちゃったから、意識させちゃったから……、だからビスケさんでも、ビスケさんが教えてくれた通りでも無理だったら、絶対にビスケさんは気にするから……だから……言えなかった」

 

 弱々しく、泣き声のような震えた声音でソラは謝った。

 頼らなかったことを、甘えなかったことを、助けを求めなかったことを謝り、その謝罪にビスケの苛立ちは戸惑いに変化して言って、今度は心底困った顔をして「あんたは何を言ってるの?」ともう一度問う。

 

 その問いに、ソラは答えた。

 

 そしてその答えで、ビスケは自分の言ってきたことが本当に見当違いの的外れだったことを、思い知る。

 思い知りながら、走った。

 ソラから手を離し、また空中に、病院の屋上よりも高くに現れて浮かび、墜ちる彼女の元へ、彼女の落下位置に今までのソラのように、ソラと一緒に走り出し、飛びこむように、滑り込むようにして彼女を受け止めようと足掻いた。

 

 ビスケの言葉は、指摘は、的外れだ。

 彼女の言ったことはほとんど全部、ソラは自分でもわかっている、わかった上で選んだ選択であるのだから、今更指摘しても彼女は揺るがないし譲らないから、言っても何の意味もない。

 

 言うまでもないことだった。

 

「生きていたいのなら、本当に助けたいのなら、その助けるべき人とそうでない奴を区別付けて、切り捨てろ」なんてこと、彼女は初めからしている。

 初めから、本当に助けたいけど、助けたいのが本心だけどソラは切り捨てていた。

 

 彼女を切り捨てて、初めからずっとソラはビスケを選んでいた。

 

 ソラは言った。

 ビスケが「良い人」だからこそ、初めから気づいていたが言い出せなかった、訂正できなかったビスケの勘違いを、泣き出しそうな顔で答えた。

 

 

 

 

 

「彼女は死者じゃない。生霊だ」

 

 

 

 

 

「最初に言えーっっ!! このバカガキーーっっ!!」

 

 そう叫びながら、オーラを纏ってビスケは彼女……墜落死を繰り返す死者の念としか思えない女性の生霊の落下位置に、その腕と体を滑り込ませた。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 心電図が小さい波を描く。

 もうすぐ患者の心臓が止まることを表すその波に、看護師は苦く込み上げるものを飲み込んだ。

 

 込み上げてきた苦いものは、患者の病を癒せなかったという看護師としての無力感だけなら、まだ救われた。それならばまだ、次こそは絶対に助けるという意志を込めたバネに出来た。

 ひたすら看護師の気分を沈ませる苦いものは、無力感だけではない。

 

 患者が死んでしまうことに対して、「良かった」と思ってしまったことに、彼女はこの上ないやるせなさを感じていた。

 

 もちろん、彼女は患者に死んで欲しかった訳ではない。

 患者はまだ20代半ばで、しかも幼い頃に発症した原因不明の悪性腫瘍の所為で、病院から10年以上出たことがないという境遇に同情しない訳がない。

 あまりに不健康にやつれているが、それでも損なわれないほど美しい女性だから、健康になればそれこそ輝けるような毎日になって、幸福になっていただろうと思っているから、何としてでも助けたかった。

 

 だが、彼女は、患者は、キリエ=フジョウはもう助からない。

 彼女は5年ほど前に、余命宣告を受けた。

 転移を繰り返してもう切れる部分は全部切って、他に転移が見つかったら後は臓器移植しか助かる術はないという所で見つかった腫瘍は、脳の深部。

 臓器移植がまだあまりにも簡単な、可能性のある希望に見えるくらい、絶望的な部分を病に侵された。

 

 その腫瘍は見つかった当時、というか今もそれは陰性であり、今すぐに命を奪う危険があるものではなかったのは、幸運だったのか不運だったのかはわからない。

 今は陰性でもいつ陽性に変わるかわからない、爆弾じみた腫瘍を脳に抱えているだけでも相当なストレスだろうに、その腫瘍は手術では取り除けないこと、そして陰性のままでも腫瘍が肥大化していけば脳を圧迫して知能や記憶に影響を与えた挙句、最終的には命を落とすことを告げられて、それでも希望を持って幸福に生きてゆくことは、その腫瘍が何もせずに消え去って完治すること以上に奇跡だ。

 

 これだけでも医療従事者として失格かもしれないが、安楽死という終末医療の選択がないこの国の医療を嘆くほど彼女にとっては絶望的なのに、患者の、キリエの不幸でこれは序の口と言って良かった。

 

 キリエは幼い頃に病に発症して、そのまま人生の9割がたを病院で過ごしている。学校に通ったこともなく、自分の家にもほとんど戻ったことはない。

 そんなあまりに狭い世界で生きてきたことと、キリエ自身が内向的で人見知りの激しい性格というのもあって、病院内ですら友人関係を作れず、彼女の人間関係は医者と看護師、そして家族しかいなかった。

 

 家族仲は良好だった。裕福な家の為、入院費や手術費に関してはほとんど心配しなくて良いとはいえ、それでも娘の原因不明の病は健康な他の家族の心を蝕むには十分すぎたはずだが、少なくとも医者や看護師から見てキリエは疎ましがられることはなく、だからといって両親が「健康に産んであげれなくてごめん」と罪悪感によって卑屈になりすぎてもいない、兄弟は病弱なキリエばかり優遇されていると思って妬みもせず、逆に見下しもせず、気遣いながらも慕っているといった理想と言っていい家族関係に見えた。

 

 その家族を、キリエは脳に腫瘍が発見された数か月後に喪った。

 自分の見舞いに来る最中、飲酒運転のトラックと正面衝突して、キリエは家族を全員一度に喪う。

 

 前述の通りキリエの家は裕福で、死亡事故もキリエの家族側に非は一切なく、逆に加害者側が悪質極まりなかったので、保険金や賠償金も相当出た。

 そしてキリエの家族にはかなり遠縁の親戚しかいなかったが、この親戚も善良な人間だった。

 世間知らずのキリエから莫大な財産を奪い取ろうと思えば、赤子の手をひねるより簡単だっただろうに、彼女の財産に手を付けることなく弁護士や税理士を探して手続きをしてもらい、キリエの入院生活が困らないようにしてくれた。

 

 だが、親戚が善良だったのは間違いないが、キリエに対して愛情はなかった。

 今まで会ったことがなかったどころか、キリエの家族がキリエ以外全滅して初めて、フジョウという親戚の存在を知ったぐらいに縁が薄かった相手なのだから、そこも責められる謂れはない。

 その親戚は十分、キリエに対して親身になってくれたと言える。

 

 例え彼女の見舞いに来る理由は財産関係の手続きの為だけでも、その手続きを済ませたらもう二度と訪れることがなくても、それは冷酷でも何でもない。

 

 だからこそ、キリエは誰も責めることが出来ず追いつめられたのだろうと看護師は考える。

 

 自分から家族を奪ったトラックの運転手は同じく死亡しており、その家族が涙ながらに全財産を慰謝料としてキリエに差し出して病室で土下座されたら、もう気が優しく、そして弱いキリエでは責めることなど出来ない。

 同じように、自分の代わりに面倒な法的手続きを全部してくれた親戚に、寂しいからこれからも見舞いに来てくれというわがままが言える子ではなかった。

 挙句の果てに内向的、受動的、遠慮がちな性格の彼女は医者や看護師に対しても同じく、話し相手になって、友達が欲しい、寂しいというささやかすぎるわがままを、望みを伝えることも出来なかった。

 

 病院という白い牢獄の、さらに狭い病室という檻の中しか知らなかった、家族以外に話し相手も甘えられる相手もいなかったキリエにとって、家族を失うということは自分と外を繋いでいたパイプも、自分の抱え込んでいた病に対する恐怖を吐きだす場所も失ったということ。

 何も手に入らない、何の刺激もない退屈な世界で、家族が遺した、家族の命の対価として支払われた金銭を食い潰しながら、近い将来必ず死ぬとわかっていながらベッドの上で、その瞬間までただ生きるということ、生きているだけということがどういうものなのかは、健康で家族以外にも友人知人の繋がりがある周りの人間には、想像もできない。

 

 本人に何の非もないのだから、死刑囚よりも惨いことしかわからないその生に、耐えられるほどキリエは当然強くなどなかった。

 だから、キリエは飛び降りたのだろうと看護師は考えている。

 

 ある日突然、何の前触れもなくキリエは自分の病室、家族が来てくれた時すぐにわかると嬉しそうに笑って言っていた病院の最上階である自分の病室から、飛び降りた。

 

 しかし、キリエは死ねなかった。家族の元に逝けなかった。

 手足やアバラの骨どころか脊椎も折れて一部潰れ、半身不随が決定する程の傷を負ったが、それでも病院という場所柄、早急に緊急手術が出来たので一命を取り留めてしまった。

 そして、それからキリエは目覚めない。

 

 意識が戻らない理由は不明。

 頭を打ったような傷は外部からもレントゲンからも見つからなかったが、キリエの余命宣告の原因は脳の腫瘍なのだから、そこは深く考えてもおそらく意味はない。

 もしかしたら、起きたくないから起きないだけかもしれないと、看護師は思っていた。

 

 起きても、誰もいない。死を待つだけでしかない。

 自分と唯一関わってくれる医者も看護師も、キリエが大人しくてわがままを言わないのをいいことに、回診をしたら普通なら少しは交わす雑談もろくにせずさっさと次に回って、彼女がここまで追いつめられていたことに気付きもしなかったのだから、もはや何の期待もしていないだろう。

 

 だから彼女の度重なる手術と病気の再発で、ただでさえ弱っていたか細い心臓が限界を迎え、鼓動がどんどん小さくなっていくのは、看護師にとってキリエに残された唯一の救いに見えて仕方がなかった。

 そしてそんな救いしかない彼女が憐れで、彼女の体どころか心さえも癒せなかった、ここまで追いつめられていることに気付きもしなかった自分の無力感に打ちひしがれながら、せめてもの贖罪にか彼女はキリエの死を見届けようと思った。

 

 それが、新人の頃からキリエを看てきたのに何も出来なかった自分が出来る唯一の贖罪だと思ったから、誰も見舞いに来てくれなかった、誰もいなかった、孤独な少女の最期をせめて看取ってやろうと看護師は無言で、今にも止まりそうな間の長い心電図の音を聞きながら、ただキリエを見下ろしていた。

 自分しかいないと思っていたから、もう何もできないと思っていたから、一人きりで何もせず、ただ見ていた。

 

 医師と看護師以外、誰も訪れるはずがないその病室の扉が開くまで。

 

「!? ……誰?」

 

 振り返り、看護師は戸惑いながら問う。

 入ってきたのは、おそらくはキリエより少し年下と思える怪我人。自分と同じように彼女を看ていた医者でも看護師でもない。もちろん、キリエの財産管理などをしてくれた親戚でもない。

 正真正銘、今初めて見る赤の他人だと言い切れた。

 

 一度でも会ったことがあるのならすぐにわかる。絶対に忘れないし、思い出す。

 そう言い切れるくらい顔立ちが整い、なおかつ男か女かどころか子供か大人かも判別しづらい不思議な容姿の持つ稀有な美人だった。

 シンプルなTシャツとスラックス姿だが、右手にはギプス、肌の見えるいたるところに包帯や絆創膏だらけの怪我人な為、場所柄不審者だとは思わない。普通にこの病院の患者だと思った。

 

 が、キリエの環境からして、彼女を訪ねてくる者はいないと言い切れる。いなかったからこそ、今の最期だ。

 だから看護師は事故か何かで運び込まれた患者が間違って、あるいは面白半分で入って来たのかと思い、本当は違うのだが「この病室の患者は面会謝絶ですよ」とでも言って、とにかく出て行ってもらおうかと思ったが、唐突に現れた怪我人は看護師を無視して歩を進め、淡く微笑んで言った。

 

「初めまして」

 

 その声はまた外見にふさわしい性別不詳の声音だったが、看護師はあまりに柔らかい微笑みで、なんとなく相手が女性であると判断する。

 そしてそのセリフで、やはり相手はキリエと面識などないと確定する。

 自分に言われたとは思わなかった。何故なら彼女はすぐに、言葉を続けたから。

 

「間に合って良かった。……会いに来たよ。キリエ=フジョウ」

 

 柔らかな微笑みが少し歪む。

 言葉通り、間に合ったことを安堵するように、けれど残り時間があまりに短いことを惜しみ、悔やむように、彼女は泣きそうな笑みになる。

 もしかしたら自分の見立てよりもずっと幼い少女かもしれないと、看護師は思う。それぐらい、幼げな笑みだった。

 

 今にも泣き出しそうな笑顔のまま、少女は看護師の横をすり抜けて、キリエのベッドのわきにまで歩み寄る。

 それを、止めることなど出来なかった。

 相手がおかしなことを言っている、部屋に入ってきた時点ではそうは言えなかったが、もうこの時点では不審者扱いしても文句は出ないと冷静に判断しながらも、看護師は黙って見ていた。

 有り得ないと思いながらも、期待してしまったから。

 

 黒髪にギプス、傷だらけの少女はキリエの顔を見下ろして、やはり泣き出しそうな笑顔のまま言葉を続ける。

 

「……ごめんね。遅くなって。初めから、ビスケさんにあなたは生きてることを教えておけば良かった。

 ……恨んでいいよ。私があなたを切り捨てなければ、本気であなたをどんな手段を使ってでも助けたいと思っていれば、もっと早くにたどり着けたのに、私は自分の為にあなたを切り捨てた。

 私が助けたかったのは、あなたじゃなくて私自身だ」

 

 意味が全く分からないことを語りかける。

 愛おしげに、慈しむようにキリエの肉が削げ落ちてこけた頬を撫でながら、唯一病に蝕まれていない艶やかな黒髪を指に絡めて、少女は何の言い訳もせず、ただ自分の非を認めて謝る。

 

「私が助けたかったのは私。あなたじゃない。私は全部自己満足でしてたこと。……だからあなたは、罪悪感なんか背負わなくていいから。

 そして、私が『約束』を守るのは当然のこと。あなたに何度も何度もぬか喜びをさせたんだから、それくらいはするよ」

 

 眠り続けるキリエに、もうすぐ何もかも終わってしまう、死に既に片足を突っ込んでいるどころか生に小指が引っかかっているような状態の彼女に、少女は「約束」を交わす。

 

「――覚えているよ。あなたのことを。キリエ=フジョウという人のことを。

 お墓参りは出来る保証はないから約束はしてあげれないけど、毎年この日はあなたを悼むよ。あなたのことは名前しか知らないから友達とは言ってあげれないけど、ずっとずっと覚えてる。……友達になりたかった人として、ずっと覚えているよ」

 

 心電図が、音を上げる。

 一定の、今にも止まりそうなほど長い間を開けていた心電図の波の間隔が狭まる。

 その反応に、呆然と少女をただ見ていた看護師が眼を見開き、キリエの名を呼ぶ。

 

 瞼がピクピクとわずかだが動いた。あの日、飛び降りてからレム睡眠すらしていなかったキリエの眼球が、瞼の下で動いていることだけでも看護師にとっては涙が出るほどの奇跡だった。

 

 しかし奇跡はここで終わらない。

 瞼とそれを縁取るまつ毛が揺れる。そしてその瞼がゆっくりと、ゆっくりと上がってゆく。

 

 開ききることはなかった。

 だが、瞼の隙間から黒い瞳が見え、そして瞳もゆっくりと動き、捉える。

 看護師ではなく、少女の姿を、自分のことを覚えている、忘れないと約束した少女をキリエは確かにその眼で見たのだろう。

 

 瞼の隙間から今度は涙があふれ出す。

 そして、唇も瞼と同じように震えて開く。

 

 しかし、言葉は何も出てこなかった。彼女の病に侵され、そして眠り続けて衰えた声帯ではかすれた音を絞り出すだけで精一杯だった。

 それでも、何かを伝えようとしてキリエは一度大きく息を吸った。

 

 そして、吐きだす。

 ……命と共に。

 燃え尽きかけた蝋燭のように自分に残されていた最後の命を使い果たして、自分が出せる最後の輝きを精一杯に表して、キリエ=フジョウは花が散るように息を引き取った。

 

 言葉はやはり、何も出てこなかった。

 ただ、彼女は満足して安らかに逝けたことだけはわかった。

 

 だって彼女は、キリエは笑っていたから。

 何かを言葉にすることよりも、キリエは笑うことを選んだ。泣きながら、笑った。

 

 家族がいた頃のように、キリエは笑って逝ったから。

 

 だからソラも、笑って見送った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「ごめんね、お待たせ」

 

 キリエの最期を看取り、看護師が医者を呼びに行っている隙にソラはさっさと病室から出て行き、そして病院からも出て行た。

 そして病院の出入り口前で腕を組み、不機嫌そうに待っていたビスケに片手を軽く上げて呼びかける。

 

 ビスケは顔を上げて一度また不機嫌そうに鼻を鳴らすと、そのまま自分の傍らにソラが来る前にさっさと歩きだしてしまう。

 歩きながら、振り向きもせずに訊いた。

 

「……間に合ったの?」

「うん。ギリギリだった。ありがとう、ビスケさん」

 

 ソラの答えにビスケは何か言おうとして口を開くが、結局何も思い浮かばなかったので、ただ「……そう」とだけ答える。

 自分たちのしたことに何の意味があったのかは、訊けなかった。

 

 ビスケが低いと断じていた可能性が真実だった。

 キリエは自分の墜落によって相手を傷つけたくないのと、ただ単純に元から念能力者だった訳でもなければ、死者の念でもなかった……死者の念に限りなく近いが間違いなく生きていたからこそ「自分の死」というブーストがない能力者だった為、具現が未熟で生身の人間にも触れられず、しかしオーラを纏った相手に対しても不干渉にはなれなかっただけだった。

 

 だからビスケが“纏”状態で受け止めさえすれば、あまりにも簡単に助けることが出来た。

 彼女から話を、彼女が何者なのか、どうして死んでもいないのに墜落死を繰り返しているかを聞くことが出来た。

 

 ……あまりに簡単に解決したからこそ、この話は後味が悪い。

 

 キリエ自身も、自分がまだ生きている自覚はなかった。死んでないはずなのに、地面に墜落した後の彼女の末路がどう見ても死んでいる状態なのは、彼女自身が自分はこんな風に死んだと思い込んでいたから。

 そしてその思い込みはおそらく、悪いと思いながらもこんな念能力になってしまう程、わがままでしかない、あまりに多くの人に迷惑を掛けると自覚しつつも手離せなかった、彼女の「願い」故でもあったのだろう。

 

 ビスケは、キリエが悪意もなくただ何度も何度も繰り返す墜落死を他者に見せつけるのは、突き落されて殺されたのにその犯人どころか「突き落された」という事実すら判明せず、事故か自殺として処理されたからこそ、真実を誰かに知って欲しくて繰り返しているとでも思っていた。

 

 しかし事実は全然違う。キリエは間違いなく、自分の意思で飛び降りた。

 その理由を思い出し、ビスケは舌打ちして吐き捨てるように呟く。

 

「……悪意は本当に最初っから最後まで欠片もなかったけど、余計に迷惑すぎるのよ」

「まぁね。飛び降りる度胸があるっていうんなら、その前に『寂しい』『忘れないで』って泣き叫んでればよかったのにな」

 

 ビスケの呟きに追いついたソラが隣で苦笑しながら同意した。

 ソラの言葉通りだ。

 キリエは自らの意志で飛び降りたが、その動機は彼女を看ていた医師や看護師の推測とも違う。

 

 キリエは孤独に耐えられかったという点では正しいが、絶望して両親の所に逝こうと思った訳ではない。

 彼女の動機を思えば、キリエは死後の世界を信じていなかったのかもしれない。

 

 キリエは寂しかった。死ぬのは怖かったが、いつ死ぬのかわからないまま、だらだら生きているだけという生に嫌気が差していた。

 これらも事実だろうが、しかし投身の真の動機ではない。それらは、投身を決意する後押しになったくらいだ。

 

 キリエは言った。

 ビスケによって受け止められ、初めて彼女は自分が墜落死したとは思いこまず、助かったと認識した時、ビスケの腕の中でソラに「どうして飛び降りたんだ?」と訊かれた時、何度も何度も謝りながら、たくさんの人に迷惑をかけたことを本心から申し訳なく思いながらも、何度も何度も繰り返すほどに諦められなかった、自分の命を使い潰しても叶えたかった願いを答えた。

 

『……忘れないで、欲しかった。

 私が……、キリエ=フジョウっていう人間が生きていたこと、……この世界にいたことを、誰でもいいから忘れないで欲しかった』

 

 キリエは何か訴えたいことがあるからこそ、自分を認識出来た者に取り憑き、何度も自分の死を繰り返し見せているとビスケもソラも思っていたが、彼女にとって何度も何度も見せつけること自体が目的だった。

 悪意はない。だけど、惨たらしい死に様を繰り返し見せつけることが、どれほど相手の精神を苛ませるかもわかっていた。

 

 それでも、キリエは耐えられなかった。

 このまま、誰の心に良い意味でも悪い意味でも記憶に残らず、初めから存在しない幽霊のように死んで消えてくのが、今の孤独以上に耐えられなかった。

 

 だから……、彼女は飛び降りた。

 ひっそりと病室で医者や看護師くらいしか気付けない、静かに予定調和の死を迎えるのではなく、一人でも多くの心へ鮮烈に残るよう、惨たらしく、衝撃的に、激しく死ぬことを選んだ。

 

 ここで本当に死んでいれば、案外彼女は死者の念になることもなくそのまま、魂を還るべき深淵に沈めることが出来たかもしれないが、一命を取り留めたが半身不随となり、今度こそもう投身することは叶わず、彼女が最も恐れた「予定調和の死」以外の結末を失ったからこそ、きっとこの能力は生まれたのだろう。

 

「本当……酷いエゴ」

 

 もう一度、ビスケはうんざりとした口調で罵った。その罵倒に、ソラは訊き返す。

 

「それは、キリエさんのこと? それとも、私のこと?」

「両方よ。このバカガキ」

 

 ソラの問いにビスケは即答する。そしてそのまま、キリエとソラのわがままで掛けられた迷惑を怒涛の勢いで愚痴りだす。

 

「忘れて欲しくないからって、投身自殺を決行した挙句に(オーラ)だけでふらついて、見える相手に手当たり次第トラウマ刻み込むバカ生霊なんか相手に、何であんたは助けなかった、切り捨てた罪悪感を持ってるわけ?

『忘れない、覚えておいてやる』宣言なんて、あの生霊相手で十分だったのに、わざわざ本体がどこにいるか探す羽目になるし……。隣国で良かったけど、本当あたしは自分の人の好さにうんざりするわさ」

 

 キリエに悪意は確かになかったが、していたことは悪霊と変わらない行為であり、同情の余地はあるがそこまで優しくしてやる必要などないと思えたのに、キリエの真実を知ってもソラはまだ足掻いた。

 キリエを、助けようとした。

 生霊だけではなく、本体に直接「忘れない」ことを告げたいと訴えた。

 

 その訴えを聞いてやった自分に愚痴る資格はないと自覚しているが、それでもこの後ハンター協会にキリエのことはもちろん、監視しろと言われていた相手を病院から連れ出したことをどう説明するか、その苦労を考えたら愚痴りたくもなる。

 

 ビスケのそんな気持ちをわかっているのかいないのか、ソラはやはり苦笑でビスケの愚痴を謝って軽く受け流す。

 

「ごめんごめん、ご迷惑をおかけしました。

 けど、結局墜落から受け止めたのはビスケさんで、私は何もしてないなーと思ったらさ、どうしてもせめてお見舞いだけはしてやりたくなったんだ。……私がビスケさんに何も言わなかった所為で、解決が遅くなったのならなおさら、贖罪代わりに何かしたかったんだ」

「だーかーらー、あんたが贖罪する必要性はどこにあるっていう訳!?」

 

 ソラのビスケだけではなくキリエに対しても罪悪感を懐いて謝る様に、ビスケはソラの足を軽く蹴りながら苛立った声を上げる。

 

「あんたは生霊だってわかってたけど、あんな理由で繰り返し飛び降りてたのも、もうすぐ本体も本当に死ぬってこともわかってなかったのなら、あんたが黙ってたことは別に悪いことじゃないわさ。初めに言って欲しかったけど、それは結果論よ」

 

 ソラは悪くないと、素直ではないが何度何度もビスケは念押しするように、言い聞かせるように告げる。

 けれどソラから帰ってくる返答は、「……うん」という弱々しい生返事だけ。

 

「……でも、私は助けたかったんだ」

 

 頭上をソラは仰ぎ見て、涙の代わりに弱音を零れ落とす。

 切り捨てたものを、諦めたくなかったという弱音の本音が、ボロボロと溢れ出る。

 

「私、キリエさんが生者だと初めは思った。だから、ビスケさんの腕を引っぱって、キリエさんの下敷きにならないように助けたけど……、頭の中ではさ、ちゃんと思いついてた。

 ビスケさんを引っぱるんじゃなくて突き飛ばせば、私が下敷きになってクッションになればキリエさんも助かったかもしれないって選択肢はあったのに、私は選べなかった。選びたくても選べなかったほど切羽詰まった状況じゃなかったのに、私は簡単な方を選んだ。

 とっさに選んだのは、自分を優先することだった」

「……それの何が悪いのよ。当たり前のことじゃない」

 

 ソラの弱音、出来たはずなのにしなかった事の懺悔を、ビスケは切り捨てる。

 罪なんかじゃないと、ソラの罪悪感を切って捨てる。

 

「それが本当に当たり前になってしまうことが、私は怖いんだ」

 

 しかし、どれほどその罪悪感に傷つけられても、ビスケが切り捨てようとしても、ソラはそれに縋るようにして離さない。

 

「わかってる。私の手は、全てを守れるほど大きくも長くもない。切り捨てなくちゃ、本当に守りたかったものも守れないことはわかってる。

 だけど……、私は『死にたくない』あまりに色んなブレーキを壊しちゃった。せっかく教えてくれた、人間として生きる上で一番大切な教えも守れなくなるほど、私は危なっかしい。

 

 ……怖いんだ。私は、死にたくないだけじゃないのに、生きていたいのに、なのにその生きる上で大切なものと、死ななくて済むものをはき違えて、切り捨てたらいけないものを気付かない間に手離してしまうのが怖いんだ。

 …………怖いんだ。ビスケさん、私は怖い。怖くてたまらない。私は今はあんなに会いたかったクラピカに、今も会いたくてたまらないからこそ会うのが怖い。……怖いよ。

 

 私は今の自分に何の自信もない。死にたくなかったから人を殺した私が、ただ死にたくないからあの子が私に見てくれた『ソラ』を、自分の手で殺しつくしてしまうことが、怖くて仕方がない」

 

 罪悪感を無くすことが怖いと、訴える。

 自分自身を優先するごく当たり前の生存本能による行動を、怖いと怯える。

 

 それを大袈裟だとは言えなかった。

 その当たり前が、誰もが持っているはずの当り前が、同じく当たり前のように誰もが持っているはずの人間性を食い潰して暴走していたのを、ビスケは見たから。

 

「だから……ビスケさん。私は強くならなくちゃいけないんだ」

 

 空を、街燈の灯りの所為でろくに星も見えない夜空を見ていた頭が下がり、ビスケを見つめる。

 真上の空と同じく、星などないはずなのに光源のわからない灯りが決して消えないミッドナイトブルーの眼がビスケを見据え、語る。

 どうなりたいか、どうしたいかではなく、どう生きるかを。

 望みではなく、ただの予定を語るようにソラは宣言した。

 

「キリエさんみたいに落ちてきた人がいても、余裕で助けられる人間になりたい。弱いままの方が傷つかず賢く生きていけるかもしれないけど、その賢さは私を生かしてくれた人が、クラピカがくれたものをきっと食い潰す。生きているんじゃなくて、死んでないだけになると思うんだ。

 

 だから、ビスケさんお願いだ。私にこの世界で生きていく術を……“念”を教えて」

 

 もう一度、希う。

 生きる術を。強くなる術を。“念”を教えてくれと、ビスケに頼み込む。

 

 その頼みにビスケはこの上なく不本意そうな顔をして、訊き返す。

 

「……それ、断ったらどうする気?」

「ビスケさん、絶対に雨が降る雨乞いってどんなんか知ってる?」

 

 ビスケの問いにソラは実にいい笑顔を浮かべて逆に訊き返す。傍から聞けば意味不明にもほどがある返しだが、幸か不幸かビスケは「絶対に雨が降る雨乞い」とはどういうものか知っていたので、ソラが何を言いたいのかは一発で理解出来た。

 なので、余計に嫌そうに顔を歪める。

 

「……OKするまで付きまとうって事?」

 

 ビスケの嫌そうに、確認というか諦めたように訊き返した言葉に、ソラはいい笑顔続行のまま親指を立てた。

 

 絶対に雨が降る雨乞いとは、「雨が降るまでその雨乞いの儀式をひたすら続ける」こと。

 無茶苦茶なことを言い出しているが、キリエが落ちてくるのを触れられないとわかっていても、一向に休みもせずに受け止めようと足掻き続けたこの女なら、間違いなく自分が根負けするまで本当に付きまとうのは、嫌になるほど想像がついた。

 

 だから、ビスケは肺の中の空気を全部吐き出す勢いで溜息を吐く。

 

 このどうしようもないほど壊れ果てた、愚かで幼くて弱いくせに、誰よりも何よりも強くあろうとする子供に諦めた。

 ……結局最後まで、「助けて」とは言わなかったから、だから「今」は諦めた。

 

「……あんたが言い出したことなんだから、挫折は許さないからね」

 

「助けて」とさえ言えば、教えてやるつもりだった意地張り。今回は自分の負けだと認めて、さっさと次の勝負に移る。

 迷惑ばかりかけるわ、比喩ではなく本気で頭おかしいとしか言いようがないわ、自分どころかネテロでさえも敵わないのではないかと予感させる、得体のしれない能力を持っているわと、関わりたくない要素しかないと言っていい相手と、関わっていくことを選ぶ。

 

 どうせ、関わっても関わらなくてもビスケは一生、忘れられない罪悪感を抱え込んだ。その罪悪感がふとした瞬間に自分を苛むのなら、関わらないことで余計に嫌な想像を働かせ、罪悪感を重くさせるくらいなら、関わることで軽減したい。

 ビスケが色々と諦めて、関わることを決めた理由なんてその程度。

 

 ソラの語った望みや不安なんか、知った事ではない。

 知った事ではないけど、結果としてソラの望みに加担してしまうのは、やはりそれは当たり前のことだから。

 

 強くなれたら、一人でも多くの人を守っていけるから。負うはずだった傷は、一つでも少なくなるから。

 自分を優先して、自分だけを救うために他者を切り捨てて蹴落とすよりも、ビスケだって全員が救われる選択の方がいいと思うから。

 それが当たり前だから。

 

 だから、こういう結果になったというだけの話だ。

 

 ビスケのぶっきらぼうな言葉に、ソラは笑う。

 助けを求めないまま、それでもビスケを求めて並び立ちながら、晴れ晴れしく笑って言った。

 

「大丈夫大丈夫、ビスケさんの正体は元師匠のクソジジイより化け物じみてるけど、クソジジイと比べたら女神レベルで優しいのはもうわかってるから。

 10回中100回殺されたり、人類滅ぼす為に存在してる犬や大蜘蛛相手に時間稼ぎさせられたり、魔法少女フェチの性悪腹黒人工精霊の生贄(おもちゃ)に私を差し出したりしない限り、私は逃げ出したりしないよ!!」

「あんた私をけなすか褒めるかどっちかにしろ!! っていうか、あんたはそのクソジジイとやらに何をやって何をやらさせてるの!?」

「クソジジイに関しては、最初の八つ当たりで殴りに行ったこと以外、私が純粋に被害者だ!!」

 

 相変わらず失礼極まりない暴言と、恥ずかしくなるほどの賛辞を同時に言いはなった挙句、思わず暴言による怒りを上回って同情するような目に遭ったことまでいい笑顔のまま暴露するソラにビスケが突っ込むと、ソラは逆ギレで言い返す。

 最初に八つ当たりで殴りにかかっている時点で、それ以外は自分が純粋な被害者であるという主張に説得力はないのだが、晴れ晴れしい笑顔が一転してガチギレで言い返されたら、ビスケはもはや何も反論出来なかった。

 

 もうこのやり取りだけでビスケが早速、「やっぱりこいつと関わらない方が良かったかも」と後悔を懐くが、その後悔の元凶は言い返したらすっきりしたのか、またすぐに晴れやかな笑顔でビスケに手を差し出した。

 

「まぁ、そんな訳でよろしくね。師匠」

 

 

 

 * * *

 

 

 

「ビスケってソラのこと大好きだよね」

「……はぁ?」

 

 ビスケの話が一通り終わって真っ先に、ゴンはケロッとした顔で言い放ち、ビスケは眉間にしわを寄せてこの上なく不満そうにゴンを睨み付けて声を上げる。

 その声の副音声は、「お前は何を言ってるんだ?」ではなく「訂正するなら今の内だぞ」であることにキルアは気付くが、ゴンは気付いても気付いてなくとも訂正などしないということもわかっていた。

 そして、キルアは照れ隠しの八つ当たりで殴られるのは御免だから言わないだけで、キルアの方もそれくらいわかりきっていた。というか、これでわからない奴がいたらお目にかかりたいレベルだとさえ思っている。

 

「ビスケ、最初っから最後までずっとソラの心配してるじゃん」

 

 キルアの思った通り、ゴンはビスケの反応が理解出来ないと言わんばかりに小首を傾げて、躊躇なくビスケが突かれたくない核心のど真ん中を突く。

 おそらくビスケは、自分とソラとの出会いであった出来事を丸っきり全部話した訳ではないと、キルアは考えている。

 ソラの弱音を具体的に話はしなかった。ソラを狂人だと確信しただの何だの語っていたが、その理由は話はしなかった。

 

 その理由は自分たちに気を遣ったのか、ただ単に自分が話したくなかっただけなのかまではわからないが、そうやって話を全部語っていた訳ではないのに、それなのにわかる。

 ビスケはとてつもなく素直ではないが、最初からずっとずっとソラを案じて、少しでも彼女が傷つかないように、自分が悪者になっても、自分が傷ついてでも、ソラが踏み外しかけている場所から引き留め続けてくれたことだけはわかったから。

 

 だからゴンは、素直ではないキルアと違って朗らかに笑って、真っ正直に言い放つ。

 

「クラピカと別れた後、ソラと出会ってソラを保護してくれたのがビスケで本当に良かったよ。たぶんビスケ以外の人だと、ソラは今のソラじゃいられない。ソラもなりたくなかったはずの、死んでないだけのソラになるか、それともソラが守りたかったものを守る為に、今よりもずっとずっと傷ついて、守りたかったもの以外何もないソラになってたと思う。

 それに、協会に目を付けられてるはずのソラが今はこんなに自由に動き回れるのも、ビスケがネテロ会長とかに『ソラは大丈夫』だって言ってくれたからでしょう?

 

 ……だから、ビスケ。ありがとう。ソラと出逢ってくれて。助けてくれて。ソラを弟子にしてくれて、ソラも、ソラが守りたかったものも守ってくれて、本当にありがとう!!」

 

 どストレートすぎるゴンの礼にさすがのビスケも逆ギレは出来ず、真っ赤になった顔を隠すように背けて「そ、そんなんじゃないわよ!!」と説得力皆無な否定をする。

 

「あのバカとの付き合いは腐れ縁よ、腐れ縁!! 助ける気も面倒見る気もなかったのに、最初に関わったのがあたしってだけで、協会も会長もあたしに全部押し付けてそのままずるずる付き合いが続いただけだわさ!

 そうじゃなかったら、何であたしがいくら美形とはいえ女で、出来や覚えが良い悪い以前に、ガチで体の作りが違う所為で真っ当な修行が出来ない、磨き甲斐のない奴を弟子なんかに……」

 

 ブツブツとゴンの言葉を否定する言い訳を続けるが、やはりそのセリフに説得力はなく、ゴンは微笑ましそうに笑って、キルアは「ババアの照れ隠し、キメェ」と言いたげな顔で自分を見ていることに気付いたビスケは、とりあえずキルアにアッパーカットを決めてブッ飛ばす。

 

 自分でブッ飛ばして綺麗に弧を描いて墜落するキルアを見て、ビスケは思う。

 

(……本当、磨き甲斐のない『流星』よ)

 

 ゴンがダイヤモンド。キルアがサファイア。

 目の前の二人の子供はまさしく宝石の原石だが、ソラは違う。彼女は宝石ではない。

 

 磨く必要などない。そんなことをせずとかも輝いている。自らの全てを削り、燃やすことで駆け抜けて、鮮烈な輝きを漆黒の空に彩る流星が、ビスケにとってのソラ。

 まるで、そうしてないと価値がないと言うように。そうやって自分自身を削りに削って、最後は何も残さず燃え尽きることを望んでいるようなバカ弟子。

 

 そのバカ弟子に、心の中で叱りつける。

 口にはしない。本当は認めるのも癪なのだからあの日、「助けて」と言うことを待っていた時のように、意地を張って言わない。

 ビスケにとってあの日諦めて負けを認めた意地張りのリベンジは、この叱責を口にせずともあの突っ走ることしか能がないバカが、止まるかどうかだから。

 

 だから、口にしないで叱りつける。

 

(……その辺の石ころだって磨けばそれなりに綺麗になるんだから、いい加減、自分を燃やして突っ走るのはやめなさいよ。

 ……流星じゃなくったって、あんたはあんたのままで輝けるかもしれないんだから)

 

 自らを燃やして駆け抜ける流星の正体は、石ころであることに変わりはない。

 けど、その石ころは宝石かもしれない。ビスケが今ここにいる理由である、ブループラネットのように。

 

 自分を燃やしていなくても、墜落しても、その石に、自分自身に価値はきっとある。

 

 そんな風に思いながら、そんなことは言えないまま、きっと言ってもあのバカはそう思ってくれている人がいるのに、駆け抜けるのをやめないことに罪悪感を懐くから。

 だから何も言わないまま、意地を張り続ける。

 

「痛ってえな! 何しやがるクソババア!!」

「誰がババアだ、誰が! 本当にあんたはソラとムカつくとこがそっくりだわさ!!」

「あー、確かに。キルア、何故か懲りずに人を怒らせることを言うのがソラと似てるよね」

「ゴンまで言うか!? あそこまで俺はバカじゃねーよ!!」

 

 燃え尽きる前に受け止める準備だけをして、ビスケはバカ弟子の生き様を見届ける。

 同じように流星の輝きに魅せられながらも、流星ではなくなっても価値はあると信じている者たちと一緒に。

 

 今はただ、騒がしく穏やかに自分たちを繋いだ流星について語りながら。






今回で宝石師弟の昔話編は終了。
次章は、シリアス要素が強い話続きだったので、1章丸ごとほぼコメディなソラの受難回です。

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