死にたくない私の悪あがき   作:淵深 真夜

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107:世界の醜さを私たちは知っている

 ソラの言葉に、ジャックは寂しげな笑みのまま頷いた。

 

「……な……ぜ……だ?」

 

 その返答に、何もかもを諦めたような笑みにアタランテは今にも泣きだしそうな顔で、震える声で尋ねる。

 

「……なんで、汝がそんな……そんな能力を……、どうして……どうして今、奴に汝がその能力を使おうと思ったんだ!?

 そんなにも……奴が憎かったからか? どうしても、自分の手で殺めたかったほどに憎かったから……殺したのか?」

 

 ジャックよりも幼い子供のように、納得のいかない事実に食って掛かるように、救いを求めるようにアタランテはジャックに問う。

 

 納得がいかなかった。

 ソラの言う通り、ジャックは純粋無垢ゆえに善悪すらない。「死にたくない」という願いを叶えるのに、可哀想だの助けたいだのという同情もなく、ただ自分と同じ願いに引き寄せられて……、それこそ最初に想定していた死者の念のように、条件さえ満たせば自動的に発動してしまう、悪はないからこそ罪深い死者の念そのもの、それがジャックの在り様だとは信じられなかった。

 

 だって、本当にジャックに善悪すらないのなら。

 純粋無垢で、何一つとして穢れていないのなら。

 ……人間として生まれるはずだったのに生まれてこれなかったからこそ、妖精のように永遠の無知で無垢な赤子であったのなら。

 

 今、こんなにも寂しげで悲しげに笑っている訳がないのだから。

 

 だから、アタランテは問う。

 答えを期待する。

 

 ジョンを生きながらにして堕胎手術のように切り刻み、人間の原型を無くすほどに潰して撹拌して殺したのは、母と自分の絆を最も卑劣でおぞましく残酷な手段で引き裂き、踏みにじろうとした復讐であることを……、ジャックは「人間」だからこそ許されないが誰だって背負ってしまいかねない「悪」を持っていることを期待した。

 

「……憎かった。許せなかった。大っ嫌いだった。

 私たちのお母さんを悲しませて、傷つけて、そして私たちに殺させようとしていたジョンが、私たちは大嫌い」

 

 アタランテの問いに、ジャックは静かに答えた。

 自分たちの足元、絞りかすとなったジョンを見下ろし、見つめて、アタランテの期待通りの、人間らしい答えを口にする。

 だから、アタランテの眼にわずかな救いを見たような光が宿る。

 

「悪」があるからこそ、わかりあえると思った。

「悪」があってこその「罪」だからこそ、償う術はあるとアタランテは信じていた。

 

 ……ソラは、何も言わない。

 ただ縋るように、支えるように、未だにアタランテを背中から抱きしめている。

 

 足元の血だまりを見つめていた顔が上がる。

 ジャックは、言った。

 酷く酷く悲しげに、寂しげに笑いながら答える。

 

 

 

「…………でも、それは殺した理由じゃない」

 

 

 

 

 アタランテの期待を、否定する。

 憎悪も嫌悪もあったことは否定しない。けれど、それと先ほどの行為に因果関係などないと。

 

「……私たちがあなた達に迷子のフリをして接触したのは、お母さんを助けて欲しかっただけじゃない。私たちは、私たちの為にあなた達を利用しようとしてた」

 

 ジャックの答えが理解できずに言葉を失うアタランテへ、ジャックはもう彼女が守り抜きたかった子供らしい無邪気な笑みどころか、母を殺そうとした敵に対する憎悪と憤怒さえも見せずに、ただただ悲しげに、寂しげに、酷く大人びた笑みを浮かべたまま話を続ける。

 

「……私たちを止めて欲しかったから、私たちはあなた達に頼った。

 いざという時は、あなたに殺してほしかったから……その眼なら、私たちを一人残らずに殺せるから……だから、私たちはあなたに縋ったの」

「!? 何故だ!? 何故、死を望む!? 何故、汝を殺さねばならない!?」

 

 ジャックの答えに絶句していたが、ジャックは自らの死を願っていたという告白に反応して、言葉が蘇りもう一度食って掛かる。

 今度の問いに答えたのは、背中のソラだった。

 

「……アタランテ。ジャックはね、もう穢れのない無垢な水子の集合体じゃないんだ。この子たちは、善悪の両義を手に入れた。……アバキさんが、あげたんだ。

 …………だけど、それでもこの子たちは人間にはなれない。この子たちは初めから死ぬことでこの世に生れ落ちた、死ぬことで『死者の念』という形で生を受けたから……、クジラがどんなに魚に似ていても魚ではないように、この子たちはどれほど人間に近づいても本質は変えれない。持って生まれた自分たちの在り様を変えられないし、捨てられないんだ」

 

 アタランテを背中越しに抱きしめて、諭すように、言い聞かせるように語る。

 諭し、言い聞かせているのはアタランテになのか、ソラ自身になのか、それとも両方なのか。

 

「この子たちは、『死にたくない』『生きたい』という願いに対して、自動的に反応して発動してしまう念能力そのものだけど、その能力が……殺すことで、人間としての悪い部分はもちろん、善とされる部分も余計な汚れとして搾り取って捨てて、自分たちと同じような(オーラ)そのものにして自分の胎に収めることが、その人が望んだ『死にたくない』を叶えてる訳じゃないことは、もうわかってるんだ。

 

 自分たちのしていることは、悪はなくともこの上なく罪深くて、誰も幸せになんかしないことはわかってるんだ。わかってるけど、この子たち自身でもそれを止められない。この子たちは……わかってるんだ。だから、自分の『生きたかった』『生まれたかった』という願いを捨ててでも、私に縋ったんだ。

 だって……そうしないとこの子たちはきっと、ジョンではなく()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ソラの言葉を、ジャックが死を望んでいるという言葉が聞きたくなくて、アタランテはソラに抱き着かれたまま耳を塞いでいたが、それでも聞いてしまった。

 理解してしまった。

「あの子たち」が誰であるか、考えるまでもなくわかってしまった。

 

 だから、アタランテの悪あがきに耳を塞いでいた両手が力なく落ち、そして涙をボロボロと零しながらゆっくりと首を動かす。

 動かして、見た。

 

 ジョンの最期を、残骸を目にして卒倒してしまった、彼の被害者だった子供たちを見る。

 

 もしも、自分たちがこの町に来るのが数日でも遅かったら、ジョンがこの子供たちに飽きて処分しようと行動していたら……、奴に殺される間際、この子供たちが「死にたくない」と願った時、きっとジャックは今日のように現れる。

 今思えば、ジャックの“円”が得意なのも範囲が広いのもこの能力柄だ。

 そして、ジャックは実体などない念能力そのものだから、“円”の範囲内ならどこでもすぐさまに現れることが出来るのだろう。

 

 ジャックは、子供たちの「生きたい」という願いを絶対に取りこぼさない。

 だが、その願いは願った者の希望通りには叶えられない。例え、それが間違いだとジャック本人が既に気付いていても。

 

「……どう……して……?」

 

 泣きながら、アタランテは問う。

 もう誰に問うているのか、わからない。

 わかっているのは、自分が望む答えなど神様だってくれないことだけ。

 

 ジャックもアタランテが何を問うているのか、何を知りたいのかなんてわかっていない。

 だからその言葉は、ただジャック自身が話していたいから語っただけ。

 懺悔のようなものだ。

 

「……私たちはいつからいたのか、どこで生まれたのかなんて思い出せない。私たちは、気付いた時には『ジャック』っていう名前で、この姿で、もう名前も覚えていない町の片隅にいたの。

 男の子の名前なのは、私はお母さんになるから女の子の姿じゃないとダメだけど、子供は男の人と女の人がいて初めてできるものだから、私たちの中に男の子もちゃんといるから、こんな名前なのかな?

 ……ごめんね。私たちは自分のことなのに、ほとんど私たちのことはわからないの」

 

 鈴の鳴るような可愛らしい声で、他愛のない話のように語る。

 自分が何から生まれたのかを、自分の在り様を、自分が人間ではない証明を淡々と語り続ける。

 

「私たちが知ってる自分のことなんて、名前と『生きていたい』って願いと、それを放っておけないって事だけ。

 そして、私たちと同じ『生きていたい』『死にたくない』って願いはどうしたら叶うかだけは、初めから全部知ってた。……それだけしか、私は知らなかった。

 

 …………お母さんに会うまで、私たちは何にも知らなかったしわかってなかった」

 

 酷く大人びた笑みで淡々と、しかしアイスブルーの眼には涙を溜めて、今にも泣き出しそうな瞳で語り続ける。

 何もしてなくても目覚めていたからこそ見つけて、手に入れた幸福にして破滅を。母親(アバキ)との出逢って得たものを、ジャックは静かに語る。

 

「私たちが見える人は今までにもいた。けど、ほとんど皆が大きくて私たちの姿と同じくらいの歳の子ばっかり。歳が低ければ低いほど、私たちが具現化なんかしなくても見えたみたいで、私たちと遊んでくれたよ。

 ……でも、みんな『お母さん』が迎えに来たら帰っちゃった。……私たちはそれが、何なのかわかってなかった。

 あの子たちには迎えに来てくれる人がいるのに、どうして私たちを迎えに来てくれる人はいないのか、私たちは一人じゃないのに独りぼっちみたいに感じるのは何でなのかわからなかった。……寂しいって感情なんか知らなかったのに……お母さんは私たちに言ったの。

『寂しくない?』って」

 

 それは、アバキにとってはあまりに何気なく、意味もほとんどなかった言葉。

 ただ、ジャックに昔の自分を重ね見ただけのこと。

 ジャックの為ではなく、自分の為にしか過ぎなかった。

 

 死者の念だと気付いていなかったジャックを心配して保護しようとしたのも、誰とも関われないで独りぼっちのジャックに何度も会いに行って遊んでやったのも、そして……ジャックの「一緒にいたい」という願い……「お母さんになって」と伸ばした手を掴んだのも、それは全部自分の為。

 だからこそ、何よりも誰よりも真摯に向き合ってくれた。

 

 救うことで自分を救いたかったから、救われたいと願っていたからこそ、アバキは真摯にジャックと向き合って、「母親」になった。

 

 だからこそ、ジャックは知ってしまった。

 自分の在り様が、どれほど罪深いものだったのかを。

 

「……私たちはただ生きていたかったから、生まれたかったから、それしかなかったから、何にも知らなかったしわかってなかった。

 寂しいって何なのか、幸せって何なのか、『お母さん』って何なのか、『生きる』って何なのか全然わかってなかった。わかってなかったくせに、全部これでいいんだって思ってた。

 ……生きる上で必要なもの全部を、『汚れ』だと思って搾り取って捨てて、真っ白になったもう誰でもないし何でもない(オーラ)をお腹に収めて私たちと一緒になることが、『お母さん』になることだって、寂しくなくなることだって、『生きる』ことだって思ってた。

 

 でも、違った。全部違った。私たちは『お母さん』なんかじゃなかった。私たちが捨てたものが全部、『生きる』って事だった。それはもう全部わかってるのに、全部お母さんが教えてくれたのに、私たちにくれたのに!!

 

 ………………なのに、私たちはやめれないの。こんなことをしてるって知ったら、お母さんに嫌われる、怖がられるってわかってるのに、私たちだって本当はしたくないのに……私たちは『死にたくない』って声を放っておけない。だって私たちが生まれたのはその願いがあってこそで、その願いを叶えるために生まれたのが私たちだから。

 だから……だから…………私たちのやり方は間違えているのに、これしか出来ない。その声を聞くと、もうそれ以外のことは考えられなくなるの。

 私たちは……何を知っても、何をもらっても、……お母さんがいても私たちは……『ジャック(死者の念)』でしかないの」

 

 泣き出しそうな顔で、けれど泣くのを堪えているというより泣くことも出来ない顔で、自分に泣く資格などないことに絶望している瞳でジャックは微笑んだ。

 人間の少女そのものの姿をしていても、純粋無垢ではなく人間らしい汚れを……両義を得たとしても、ジャックは死者の念(ジャック)でしかない。

 自分の在り様を変えられない。

 

「……多分、本当は私たちがもう『生きていたい』って思わなくなったら、『死んでしまいたい』て思えば、私たちは何もしなくても自分で死ねる。私たちは『生きていたい』の一心で繋がって生まれたから、私たちが生まれた意味を否定して捨ててしまえば、もうその繋がりはほどけて私たちは何もできない弱くてそのうち消える魂の残骸に戻る。

 ……それが一番いいってわかってる。わかってるのに…………ごめんなさい。

 やっぱり、私たちは死にたくないの。生きていたいの。自分で捨てることは出来ないの」

 

 両義を得てしまったから、身勝手なエゴを、それを汚い、醜いと自己嫌悪しながらも手離せないものを得てしまったから、だからジャックは泣くことも出来ずにただ懇願のように言葉を続ける。

 ……泣きながら自分に救いを求めるように見つめるアタランテではなく、その背で彼女を抱きしめながら顔を伏せているソラに、救い(終わり)を求めるように。

 

「だって、私たちはまだお母さんと一緒にいたい! ううん、ずっとずっと一緒にいたい!

 ……私たちはお母さんが大好きだから、私たちが本当に欲しかったものはお母さんが全部くれたから、……お母さんも私たちと一緒にいたいって言ってくれたから……お母さんが私たちのことを大好きだって言ってくれたから……。

 …………お母さんがいたから、私たちは自分たちのことを大っ嫌いになったのに、お母さんがいるから私たちは自分たちがどれほど罪深い怪物なのかを知ってしまったのに、私たちがされたことはどんなに酷いことだったのかも知ってしまったのに……。

 世界は――とても、醜くて。私たちはそのことを知っているのに――――

 

 …………なのに、それでも私たちは生きていたいの」

 

 それは、醜くて、身勝手で、だからこそありふれていて当たり前の願い。

 世界の醜さを知っているのに、自分の醜さをこの上なく厭っているのに、それでも手離せない。

 

 だって、そんな醜くて残酷な世界で見てしまったから。見つけてしまったから。

 醜くて残酷な世界の中でも輝けるものを、醜くて残酷な世界だからこそ輝く、暖かで優しくて愛おしくて美しいものを、家族というものを、愛というものを、幸福をジャックは知ってしまったからこそ、生きていたいという望みを手離せない。

 

 だからこそ、希う。

 

「……でも、私たちが生きるということは、私たちが誰かの願いを叶えるということは、私たちは私たちの為に、私たちと同じ願いを懐いた人を、一番酷い形でその願いを奪って壊して潰して捨てて殺すってことだから……。

 私たちは、いない方がいいのはわかってるから。

 

 だから、お願い。

 もう私たちを終わりにして。もう二度と、私たちが現れないように、私たちを全部、全員、もう二度と戻ってこれない一番深い所まで突き墜として溶かして消してしまって」

 

 自分の意思で手離すことが出来ないから、ソラに引導を渡してほしいと願った。

 

 * * *

 

 その願いに、あまりにも寂しそうなのに何もかも疲れ果てて諦めたように、けれどその両目に溜めた涙が「生きていたい」という願いを諦めきれていないことを表す、痛々しいジャックの笑みにアタランテはまた更に涙をこぼしながら、自分の背に抱き着き続ける……今にも無力感に打ちひしがれて膝から崩れ落ちそうなアタランテを支え続けるソラに、彼女も希う。

 

「……やめて……くれ」

「何を?」

 

 相変わらず顔を伏せたまま、ソラは訊きかえす。

 

「……殺さないで。お願い……ジャックを……あの子たちを……殺さないで」

 

 古めかしくて乱暴だがどこか気品のあった口調ではなく、子供のようにアタランテは拙い言葉でソラに懇願する。

 ジャックの願いに相反する懇願。

 ジャックの真の願いを叶えて欲しいと、縋りつく。

 

「お願い……。お願い……。

 だって……あの子たちは……生きていたいだけ……悪じゃない……被害者なんだ……犠牲者なんだ……だから……だから……」

 

 ソラの抱擁が緩み、アタランテは体を反転させて、ソラの胸に縋り付く。泣きついて、ただひたすらに子供のように自分の望みを、願いを、身勝手にソラへと乞い続ける。

 

「……私たちは被害者だったのかもしれない。犠牲者なのかもしれない。

 でも、加害者であることだってもう変えられない。私たちに悪はなくても、罪はある。だから、その償いをしなくちゃいけない」

 

 しかしアタランテの懇願は、ソラではなく背後のジャック本人によって否定され、拒絶される。

 ジャックからしたら、アタランテの切願はせっかく覚悟を決めたのにその覚悟を鈍らせて余計に終わりを辛いものにさせるだけだからか、その声音は冷ややかだった。

 

 それでも、アタランテの手は離れない。

 ソラにしがみついたまま、ソラに縋り付いたまま、滂沱の涙を流しながら、自分の身勝手さに死にたくなるほどの自己嫌悪を抱え込みながら、自分の無力さに殺したくなるほどの憤怒を滾らせながら、希う。

 

 神様でも聖女でもない、自分より年下で、自分の所為でたくさん怪我をして、自分がいなければこんな胸糞が悪い事件に関わらずに済んだ人に、願う。

 

「――助けて」

 

 殺さないで欲しいと。

 ジャックを救ってほしいと願ったアタランテに、ソラは静かに返答する。

 

「無理だ」

 

 アタランテの願いを、否定する。

 

「あの子たちに私が出来ることは、あの子たちの言う通りもう二度と戻ってこれない最果てに突き墜とすことだけ。……殺すことだけだ」

 

 自分は神様でも聖女でもないと、当たり前のことを口にする。

 絶望に歪みながらも、悪あがきのようにソラを見上げているアタランテに言い聞かせる。

 

「君の願いは、無意味だ。あの子たちは、救えない。私たちには、救えない」

 

 ソラは否定する。アタランテの願いを、望みを。

 その名にふさわしい、晴れやかな笑顔で。

 

 

 

「だってこの子たちはもう救われてる。この子たちを助けることが出来るのは、私たちじゃない」

 

 

 

 否定し尽くしながらも、拒絶はしない。

 アタランテの求めた救いを「今更だ」と笑い飛ばす。

 

 その答えと笑顔に、アタランテはもちろんジャックもポカンと目を丸くしてしばし呆気に取られていた時……。

 

「……ジャック?」

 

 あまりにも今更な「救い」が、現れた。

 

 望んでいなくても、目覚めているだけでいつか必ず手に入る、あまりにも醜くて身勝手なのに、あまりにもあたたかくて愛しい救済(こうふく)が、……当たり前のように迎えに来た。

 

 そう。

 それは全部当たり前のこと。

 

 

 

「………………お母さん?」

 

 

 

 母親が娘を心配して探し回るのも、娘を迎えに来るのも、それは当たり前のこと(愛情)

 アバキは泣き出しそうな顔で、……泣き出しそうなほど安心した顔で呼んだ。

 

「ジャック!」

 

 愛娘の名を呼び、駆け寄る。

 アバキの目には入っていない。ソラもアタランテも、倒れ伏している4人の子供も。

 ジャックの足元の血だまりも、人間の残骸にも気付かずに駆け寄る。

 

「!? 来ないで!」

 

 暴走したアタランテから逃げて、ステージの舞台裏にひとまず隠して横たえていたはずのアバキが、何故ここにいるのかが理解出来ず固まってしまったジャックが、アバキが駆け寄ってきたことで拒絶の声を上げる。

 拒絶しながらも、拒絶した本人が一番傷ついたような顔をした。

 もう寂しげな、諦めたような笑みはその幼い顔には残滓も残っておらず、ただひたすらに泣き出しそうな顔でアバキを拒絶する。

 

 近づかないで。

 気付かないで。

 どうか、何も知らないままでいて。

 

 そんな願い故の拒絶は、叶わなかった。

 ジャックの拒絶にアバキが戸惑いながらも立ち止まった時、しかし勢いで一歩足を踏み出して、踏みつけて音が鳴る。

 ビシャリという水音で、アバキは気付く。

 

 自分が踏みつけた鉄さび臭い水音は何なのか、ジャックの足元に何があるか、その残骸の正体は何であるかに気付き、明かりもない室内の薄闇でもはっきりとわかるほど血の気を引かせた。

 

 同時にジャックも本来なら通っていない血が見る見るうちに引いていくのを感じ取り、自分自身を抱きしめるようにして、アバキから逃げるように一歩後ずさる。

 後ずさりながら、声にならない声で願う。

 

 自分を見ないで。何も言わないで。何もしないで。

 拒絶しないで。

 

 拒絶してほしくないから何もかもを先回りして拒絶するジャックに、足元の血だまりに絶句していたアバキが顔を上げてジャックを見た。

 眉根を限界までひそめて見て、言った。

 

「ジャック! 大丈夫なの!?

 これ全部、ジャックの血じゃないよね!? 怪我はない!?」

 

 血だまりを、ミンチ状になった人間の残骸を何のためらいもなく踏みつけて最短距離でジャックに駆け寄り、そしてズボンが血で汚れることを厭わず、床に膝をついてジャックに目線を合わせて、まずはジャックの体に怪我や異変はないかを確認しながら問う。

 

 その言動にまたしてもジャックはポカンと目を丸くする。

 そして、唖然としたまま可愛らしい唇は言葉を紡ぐ。

 

「……大丈夫」

 

 その言葉に、皺が寄っていた眉から力が抜けてまたしてもアバキは泣き出しそうな顔で言った。

 

「良かった……。ジャックが無事で、良かったぁ……。

 良かった……よかっ……っっっううううぅぅああぁぁぁぁぁん!! ジャックごめんねごめんねえぇぇぇぇ!!」

 

 安心しきって泣きそうになりながらも、アバキはそのままジャックを抱き寄せ、抱きしめる。

 そしてついに涙腺を決壊させて、子供のように泣きながらジャックに謝罪し続けるので、ジャックが「どうしたのお母さん!?」と狼狽える。

 

「ごめんねぇぇぇ、ごめんねぇぇぇっっ!! 首絞めてごめん、ダメなお母さんでごめんねええぇぇっっ!!」

 

 しかしこちらも色々と感極まっているのか、号泣して謝りながらジャックを抱きしめ続けるので、ジャックはさらに訳がわからず助けを求めるように、アバキの肩越しにソラとアタランテを見た。

 その視線にこちらもアバキが登場してから呆然としてしまっていたアタランテが遠慮がちに近寄り、アバキの肩を叩いて「……ジャックが困ってる。少しは落ち着け。あと、さすがに場所を少し横にずれるだけでもいいから移動しろ」と声を掛けた。

 ちなみに、ソラの方はなんかずっと微笑ましそうな笑顔で見ているだけ。

 

 アタランテに声を掛けられて、ようやく娘以外の存在に気付いたのか、彼女は血だまりの肉の残骸の中で座りこんだままアタランテを見上げ、ジャックをさらに抱きしめて言った。

 

「お願い! ジャックは何も悪くない! ジャックが何をしたとしても、それは私の責任だから、だから責任は全部私が取るからジャックは見逃して!!」

 

 その答えに、もう何度目かわからないがまたしてもアタランテとジャックは虚を突かれて目を丸くする。

 ソラだけが、ただ笑って見ている。

 アバキが「ジャックが何かしたの?」と問いもせず、何の躊躇もなく「責任は全部、自分が取る」と言い切ったことに、ソラだけが何の疑問も懐いていない。

 

「……汝はどこまで何をわかってるんだ? というか、どうしてここに来た? 何故、ジャックがここにいるとわかった?」

「……ジャックがここにいるってわかったからここに来た訳じゃないわ。

 ただ……、あたしに“念”を掛けた犯人はジョンだって気付いてたから、だからジョンがジャックに手を出さないように、ジャックがジョンに会ってしまう前に止めたかったから、ひとまずジョンが居そうな心当たりがあるのはここだけだから来てみただけよ」

 

 アタランテからしたら何もわかることがないので目を丸くしたままアバキに問うが、その答えに目がまた更に驚愕で見開かれる。

 アタランテだけではなくジャックも見開いて、怯えるように彼女たちは「……お母さん、気付いてたの?」と尋ねれば、アバキは再び視線をジャックに戻して罪悪感でぐしゃぐしゃに顔を歪めて語る。

 

「ジャックは何も悪くないよ。ジャックがあたしに気を遣って黙ってくれてたのはわかってる。

 気付いたのだって、ソラからあたしに“念”が掛けられてたって話を聞いてからだし。……ジャック以外で、私と関わった念能力者なんてジョンだけなんだから、ジョンを怪しく思って当然よ。むしろ、教え子だった奴に“念”を掛けられても気付けなかった自分の未熟さが嫌になるわ」

 

 ジャックは何も悪くないと言い聞かせて娘の頭を撫でながら、アバキは自分が踏みつける肉塊とも言えないほど細切れの残骸を、血だまりに視線をやる。

 その眼に憎悪や憤怒、嫌悪らしきものはない。あるのは、憐みだけ。

 

 憐憫だけを視線に込めて、アバキはぽつりと今更なことを尋ねる。

 

「……これは、この残骸はジョンなの?」

 

 その問いに、アバキの腕の中のジャックが怯えるようにその身を震わせる。

 アタランテも口を閉ざして、答えない。

 答えがわからない。

 

 アバキの様子からして、おそらくはこれがジャックの仕業であることをもう既に察している。

 だが、おそらくは察していてもアタランテが初めに「そうであってほしい」と願ったのと同じ、「アバキに危害をくわえたからその復讐として残虐な方法で殺した」と思っているのだろう。

 

 想像できる訳がない。

 アタランテには何故、ソラにはジャックの在り様を理解出来たのかが、説明された今でも説明されたからこそわからないくらい、ジャックの在り様は人間の在り様から外れている。

 

 だからこそ、救いがない。

 だから、何と答えればいいかわからない。

 嘘をついてしまえば、この惨状を起こしたのはジャックではないと言ってしまえば、起こしたのはジャックでもそれはアバキへの愛情ゆえだと話せば、アバキは今まで通りジャックと親子として生きていけるだろう。

 

 だが、その親子の幸福はジャックの在り様によって、死にたくないからこそ最も残酷な死を経て「ジャック」の一部となって生きる犠牲者が積み重なることで保たれる幸福だ。

 それは、ハンターとしても人としても、アタランテが望む未来の為にも、許してはいけない罪。

 

 だけど正直に話して、今度こそアバキがジャックを恐れて拒絶するのはもちろん、真実を知ってもジャックへの愛情が変わらないのなら、それこそ誰も救われない。

 誰も悪くなどない、「悪」などないのに、被害者で犠牲者であるはずなのに、幸福に生きるためには多くの犠牲者を生み出す加害者になるしかない親子に伝えるべき答えなど、アタランテは見つけることが出来なかった。

 

「そうだよ」

 

 アタランテには見つけられなかった。

 彼女だって、見つけた訳じゃない。

 

「それは、ジョン=ゲイシーのなれの果て。彼は生きながらに切り刻まれて全身を砕かれて撹拌されて絞り上げられて濾過されて、そうして無色なった魂は……そこにある。

 ジャックの胎の中に。そうやって、自分たちが生れ落ちた方法を再現することで、自分たちが唯一生きていた居場所に収めることで、『死にたくない』という願いを叶える。

 

 それがジャックという死者の念の在り様。もはやジャック自身の意志なんか関係なく、ジャックがジャックとして生まれたからには逃れられない『起源』。

 その子たちが存在して(生きて)いる限り、その子の近くで『死にたくない』という当たり前の願いを懐いた人を、その人の最も望まない方法で叶え続ける。ジャックという死者の念は、そういう存在」

 

 ソラは語る。

 相変わらず場違いな微笑みを浮かべながら、血だまりで抱きしめあう母子を眺めてアバキにジャックの在り様を、真実をありのままに語った。

 

 その答えにジャックは絶望したように、真っ白な顔色でただ唇を噛みしめて俯き続け、アタランテはとっさに「なんてことを言うのだ!?」と怒鳴りつけかけたが、わずかに残った理性が「私が怒る資格などない」とアタランテの怒りを抑えこむ。

 

 そしてアバキは……、ジャックをさらに強く抱きしめてソラを見上げて問う。

 

「それだけ?」

 

 挑むように、決意したように強い眼差しでソラを見て問う。

 ソラを見ているが、睨み付けている相手はきっとソラではない。それよりももっともっと遠くて大きな何か。

 自分が選んだ道で背負わなければいけない罪を見据えて、アバキは尋ねる。

 

「ジャックがこんなことをしてしまう条件は、ジャックの近くで『死にたくない』と願った人がいるかどうかだけ?

 そして、それはこの子の意思でやってることでも、そうしないとこの子が生きていけないからしてることでもなく、その条件が揃うと勝手にしちゃうことなの?」

 

 アタランテにはアバキの問いの意図がわからない。

 いや、本当は想像ついている。だけどそれは、アタランテ自身が抱く夢物語のような期待でしかないことも知っている。

 

 それはジョンの能力によって理性が消失し、身勝手に叫んで押し付けていた独善と同じもの。

 綺麗事で理想論、実現するには苛烈と熾烈極まりない道。

 

「……たぶんね。この子の能力は呼吸のように存在維持に必要なことというより、自分の常識を世界に当てはめてしまったものだ。定期的に能力を発動させる必要はないと思う。

 けど、この子の『自分の近く』っていうのは条件は“円”の範囲。念能力による本来は気配察知の為の技なんだけど、その範囲はこの町丸々ってぐらいの広さだよ」

 

 ソラは笑いながらアバキとジャックに近づき、二人を見下ろしながら答え、そして彼女も問う。

 ソラが見つけた訳じゃない答えを、問う。

 

「……それでも、あなたはジャックと生きていくの?」

「当たり前よ」

 

 アバキは即答する。

 自分が生きる上で選んだ道、その道で背負う罪、そしてその罪の先にあるものを見据えて。

 

 * * *

 

「……お母さん?」

 

 アバキに抱きしめられたまま、アバキの胸の中でジャックは震える声を上げた。

 その声に応えるように、安心させるようにアバキはジャックの背をあやすように叩いて答える。

 自分が選んだ道を、答えた。

 

「そもそもジャックが自分の意思でやったことでも、それはジャックを叱る理由になってもこの子をあたしが手離す理由にはならないわよ。この子が生きていくうえで必要なことだったら、なおさらに。

 あたしの所為でこの子がしたくもないことをしてしまっているのなら、あたしがいなくならない限りこの子が罪を犯し続けて不幸にしかならないのなら、あたしたちは離れるしかないのかもしれないけど、そうじゃないのならあたしはこの子が自分から離れない限り、絶対に手離さない!!」

 

 ソラに向かって、おそらくは彼女にとって覚悟と言えるほどのものではない、それこそ当たり前のことなのに信用されず改めて訊かれたことに苛立っているような調子で啖呵を切った。

 

「この子がジョンのように面白いからなんて理由でこんなことをしたのなら、何度だって叱りつけて絶対にやめさせるし、罪も償わせる。

 この子が生きる上で必要なことだったのなら……、あたしは絶対にこの子がそんなことしなくても生きていける手段を見つける。その手段を見つけるまでに、この子が出してしまった犠牲の罪はあたしの罪よ。

 あたしの娘を生かしたいというエゴによる犠牲なんだから、あたしが全部背負うわ」

 

 当たり前のことを語る。

 母親としての当たり前。

 悪いことをしたら叱る。そしてその償いをさせる。生きていくのに犠牲が出るのなら、その犠牲を無くすために努力はするが、最優先は娘。自分がどれほど身勝手と罵られても、重い罪を背負ってでも娘を生かすことを選ぶ。

 

 それは、聖母と言えるほど清廉なものではない。

 身勝手で醜い、人間らしい母親の言葉だ。

 

 それでも……、だからこそ彼女は――

 

「そしてこの子がしたくもないのに、条件が揃ってしまえば絶対にしてしまうことなら、あたしはその条件が揃わないようにしてみせる。そうすれば、この子は生きていけるんでしょう?

 誰も、この子の近くで『死にたくない』って思いさえしなければいいのなら、そんなこと思う前にあたしが全員助けてやるわよ!! それなら、誰も文句はないでしょう!?

 そうすれば、ジャックは誰も傷つけず、殺さず、この子は普通の子供のように生きていけるんでしょう!? この子達が望んだ、『生きていたい』が叶うんでしょう!?

 

 そうじゃないのなら、教えてよ!! あたしが何をしたら、この子達は生きていけるかを!!」

 

 綺麗事の理想論。身の程知らずな空論でしかない啖呵を切る。

 具体的にどうする? 本当にジャックが出す犠牲による罪を背負いきれるのか?

 そんな風に根掘り葉掘り問うて、現実を突きつけるのは簡単だ。そして、そうした方が誰にとっても良かったことはわかってる。

 

 わかっているけど、アタランテは何も言えない。言える訳がない。

 だってそれは、本心からアタランテが言って欲しかった、選んでほしかった、諦めて欲しくなかった答えなのだから。

 

「……その答えで十分さ」

 

 アバキの啖呵に、要約すれば「他にあたしが納得する方法があるって言うのなら、ジャックを幸せに生かす方法があるのなら言ってみろ!!」という言葉に、ソラは笑って答える。

 アバキの夢物語を、犠牲を出した上で自分が失いたくないから、自分たちの幸福を手離したくないからというだけで、出るであろう犠牲を踏みにじって足掻き続けるという答えを、肯定する。

 

 醜い、酷いエゴの塊でありながら、決して誰かの不幸を願っている訳ではない、誰もの幸福を心から望んでいるからこその答えを、清々しく笑いながら受け入れた。

 

 彼女だって、同じ答え懐いてこの町にやって来たのだから、それは当然の反応。

 

「十分ではない」

 

 だから、アタランテもやっと答える。

 自分が初めから手離せなかった、見つけていた答えをアバキに告げる。

 

「それが、一番だ」

 

 もう一度、両眼から大粒の涙を零しながら。

 獣のような鋭い輝きは、歓喜と安堵の涙がその輝きを包み込んで柔らかなものに変化させる。

 人間らしい慈愛に満ちた光を灯した瞳で、アタランテは笑う。

 

 その二人の笑みにアバキは少し照れたように笑い返す。

 この中で気絶している子供以外に、笑っていないのは一人だけ。

 その唯一であるジャックが未だに酷く戸惑いながら、母の腕の中で顔を上げて問う。

 

「……いいの?」

 

 ここにいていいのかと、尋ねる。

 自分たちはまだここで生きていていいのかと、アイスブルーの両目に涙を限界一杯までため込んで問う。

 

 何よりも肯定を望んでいながら、自分のしてきたことの罪を一番理解しているからこそ受け入れられず、泣くことすら罪人の自分に許された権利ではないと言うように堪え、期待などしないように、諦めがつくように、けれどどうしても諦めきれない望みのまま問う娘に、アバキはそんな風に全部背負わせるまで何も気付けなかった無力で無知で愚かな自分を悔やみながら、それでもジャックに安心させるように柔らかく微笑んで答えた。

 

「……あたしが、ジャックと一緒にいたいんだよ。

 ジャックは、いたくない? もうあたしみたいな、弱くて情けないお母さんは嫌?」

 

 訊きかえしたアバキにジャックは首を激しく横に振ってから、それでも簡単にアバキの答えを受け入れられない理由を語る。

 

「そんな訳ない! 私たちはずっとずっとお母さんと一緒にいたいよ!!

 ……でも、……でも……私たちは……お母さんの大切な人を……殺しちゃった。……『死にたくない』って言ってたのに、私たちのすることがその『死にたくない』を全然叶えてないことを知ってたのに……なのに、……なのに……私たちは……」

「ジャックほど大切な人なんかいないわ」

 

 しかし、アバキはジャックを再び強く抱きしめて即答した。

 未だ自分が踏みにじる血だまりを……かつては弟のように思い、可愛がっていた、信じていた、なにか一つでも間違えなければ、もしくは間違えていれば今の「ジャック」と同じ立ち位置にいたかもしれない少年のなれの果てを、憐憫だけしか込められていない眼で眺めながら。

 

「ジャック。あたしはあなたが思ってるほど良いお母さんじゃないし、良い人間でもない。

 あなたに優しいのもあなたが良い子だからだし、あなたが好きなのもジャックの方が先に私を好きになってくれたからよ。

 ……全部全部、あなたの為じゃなくて自分の為なの。ジャックがいたら、私は幸せだから……だから、私はかつて大切だった、あなたと同じくらい守ってあげたかった子だって、あなたを失う怖さと比べたら死んでも全然悲しくないし、その死体だって平気で踏みにじれる。

 ……あたしは、あなたたちの大半の母親とそう変わらない、自分の為に誰かの命を蔑ろに出来るエゴにまみれた酷くて醜い人間よ」

 

 ジャックを抱きしめながら、アバキはジャックが抱いているであろう自分に対する「母親」の幻想を否定する。

 自分は彼女を構成する水子の大半の死因を担った母親と同じ、自分の大切なものの為に他の何かを……それが誰かの命であっても犠牲にして、そしてそれを何とも思わない人間だと告白する。

 

 自分でもそんな人間だとは思っていなかったが、ジャックの足元に何があるのか、その残骸が誰だったのかを理解してもなんとも思えなかった事で思い知らされた。

 今ある憐憫だって、かつて可愛がっていた弟分に対するものというより、「ここまで残酷な死にざまをした人間に、憐みさえも懐かない人間にはなりたくない」という自己弁護や保身に近いものだと、アバキ自身も自覚している。

 

 だってアバキには、自分の娘がジョンを殺してしまったという罪悪感などない。むしろ娘に背負わなくていい罪を負わせたジョンに対しての恨みしかない。

 ジョンがどれほどの罪を犯してきたかなど関係なく、アバキにとっては自分や自分にとって大事なジャックを傷つけられたから怒っているだけで、そこに他の犠牲者を悼む気持ちがない時点で、アバキは自分自身を善人だとは思えない。

 

 だから、こんなの開き直りでしかない。

 弱くて、身勝手で、そのくせ諦めが悪い人間の開き直りによる悪あがきでしかないことなど百も承知で、強く強くジャックを抱きしめてアバキは懇願する。

 

「だから……一緒にいてよぉ。もう、あたしは嫌なの……。家族だと思ってた人が急にいなくなるのは……。当たり前だと思ってた毎日が、いきなりなくなるのはもう嫌……嫌なの……。

 ジャック、あたしは強くなるから。もう、自分よりはるかに才能がある奴を見たからって諦めないから、“念”を今度こそちゃんと学んで、強くなるから……もう、諦めないから。

 何度挫けたって、あたしはあたしの夢を諦めないで叶えてみせるからぁ……。

 

 だから、まだあたしの娘でいてよぉ……。お母さんでいさせてよぉ……。

 もう嫌、嫌、嫌だ!! ジャックがいなくなるのは嫌! ジャックも、座長やヒソカみたいに何も言わずにあたしの前から消えるなんて嫌!!」

 

 全然、ジャックの為ではない。完全に自分の為でしかないことを、子供のように泣きながら、子供に縋り付きながら、見苦しいくらいに「一人にしないで」とアバキは懇願する。

 

 それは聖母にほど遠い、あまりに身勝手で醜いエゴそのもの。

 だけど、だからこそ、自分の為だからこそ、自分の幸福の為だからこそ、どこまでも純粋に彼女は求めた。

 

 ジャックの罪ごと、ジャックという存在を求めてくれたから。

 生きていて欲しいと、傍にいて欲しいと、共に生きていたいという望みは、ジャックにとってはあまりに美しかった。

 大義などない、世界に犠牲を強いる醜いエゴだからこそ、この世の他の誰でもなくジャックだけを選んでくれた美しい愛そのものだった。

 

「……お母さん……」

 

 だから、ジャックは手離せない。

 ジャックも、他の誰もを犠牲にしても、この世界の醜さを何度も何度も思い知らされても、手離せない輝けるものに抱き着いた。

 

 手離そうと決めたはずの人に、もう二度と手離さないと誓って。

 どれほど困難でも、大好きな人とその人がくれた幸福を守るためにその道を歩むと決めて。

 その誓いと決意が、ジャックの涙腺を決壊させる。

 

「あああぁぁぁぁっっっ! お母さんお母さんお母さん!! やだよぉぉぉっっ! 私たちだってやだよぉぉぉ!! 離れたくない! ずっと一緒にいたい!

 いたい、いたいよ、いたいよぉぉぉぉっっ!!」

 

 

 母子揃って大泣きしながら、手離しがたい最愛のぬくもりを、そこにいることを確かめ合う抱擁をアタランテは幸福そうに眺める。

 

 わかっている。これは結末じゃない。終幕じゃない。むしろここから始まるのだ。

 あまりに過酷な、理想論を現実にするという道を歩むと決めただけでまだ歩き出してもいない。

 そしてその道を一歩でも間違えて、失敗して傷つくのは、取り返しのつかない犠牲となるのはアバキやジャックだけではなく、たまたま彼女たちの傍で「死にたくない」と願ってしまった人間であることくらいわかっている。

 

 ジョンのような自業自得はともかく、奴の被害者の子供のように何の罪もない人間が犠牲となる可能性の方が高い。

 ここで二人の歩む道を肯定することは、アタランテたちもこれからジャックが出してしまった犠牲の共犯であるということ。

 

 ハンターとして、人として、そしてアタランテの辿り着きたい夢の為にも、その犠牲を出すことは許されない。

 だから、アタランテも決める。

 二人の道のりを反対して止めることではなく、全面的に協力して守り抜くことを。

 共犯になどならない。綺麗事を、理想論を、夢物語を実現してみせると決意する。

 

 だって、アバキとジャックの今の姿こそが、アタランテが歩み抜いた道の先にあって欲しいものだから。

 二人の願いは現実味のない理想論であっても、どちらかを失う位なら世界の誰もを犠牲にして言いというエゴが本音であっても、その本音のさらに奥の本音は誰も犠牲にしないまま幸せになりたいという願いだから。

 

 ハンターとしても、人としても、そしてアタランテの夢にたどり着く為にも、その願いは叶えるしかなかった。

 

「……ところでソラよ。何故、汝はいきなり頭を抱え込んで座り込んでる」

 

 そんな決意を胸に抱きながら、アタランテは気を失っている子供達の治療を再開させつつ、再びアバキが号泣したあたりからいきなり何故か頭を両手で抱えて座り込んでいるソラに、困惑しきった視線を向けて尋ねた。

 

「……いや。なんかものすごく存在抹消したいのに忘れられない、最悪の意味でインパクトのある相手の名前が出てきたもんで」

 

 さらっとナチュラルに出てきた、自分の天敵の一人であるもう一人の「殺人ピエロ(キラークラウン)」の名を聞き流すことが出来なかったソラは、一人「ただの同名でありますように」と祈りながら、アタランテに訊いた。

 

「とりあえず、アバキさんにそいつとは絶対に再会しない方がいいって忠告した方がいいかな?」

「頼むから後にしろ」

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 9月の終わりごろ、ソラは一人で歩いていた。

 別に目的地も用事もない。ただ、天気が良くて涼しいから昼食前にブラブラ散歩しているだけ。

 そんな散歩の途中でケータイに着信が入り、ソラは人の邪魔にならない道の端で立ち止まって通話ボタンを押す。

 

 前置きなく、ソラは屈託なく笑いながら楽し気に話し始めた。

 

「あー、もしもしアタランテ、久しぶりー。何かあったの?」

《いや、ひとまず面倒事は一通り終わったから一応報告しておこうと思ってな》

 

 楽しそうなソラとは対照的に、電話相手のアタランテは淡々と応じる。

 

《ジョンの件に関しては、『奴の犠牲者が死者の念となって、奴を呪い殺した』という結論で納まったから、汝は最終報告の確認くらいはされるかもしれんが、後はもう何も訊かれんだろう。

 アバキも、今日で無事円満に一座を抜けることが出来た》

 

 そこまでアタランテが半月ほど前のグラムガスランドでの出来事による「後始末」について説明していると、もう一つの声が加わる。

 

《お母さん、『ボロが出ないようにするのが大変だった』って言ってたー。私たちがジョンの巻き添えで死んだってことにしちゃったから、なおさら悲しくないのに悲しいふりをするのが大変だったし、気を遣ってくれる仲間に申し訳なかったんだって》

 

 鈴の鳴るような声で無邪気にアバキに関しての報告と、アタランテの迫力のない「コラ、話の邪魔をするな」という叱責にソラは微笑ましそうに笑いながら、そちらの声にも応じる。

 

「ははっ、アバキさんには結構な無茶ぶりのつじつま合わせを頼んだからなー。でも、一座を抜けたのならこれからアバキさんはそっちで本格的な念の修業開始か。

 良かったね、ジャック。アタランテとしてはちょっと残念なのかな?」

《うん!!》

《……そんなことはない》

 

 ソラの言葉に、ジャックは電話越しでも喜色満面だとわかる返事をし、アタランテは説得力のない間をおいてソラの軽口を否定する。

 そんな二人の返答にまたソラは微笑ましそうに笑う。

 

「まぁ、とりあえず嘘ばっかな面倒事は終了か。お疲れ様、アタランテ。なんかほとんど君に押し付けてごめんね」

《気にするな。元はと言えば全ては私のわがままで始まった仕事なのだから、ジョンの被害者に対するフォローをしてくれただけで、こちらとしては十分だ。

 むしろ私が汝に迷惑をかけ過ぎているな》

 

 謝罪に謝罪で応じながら、アタランテは罪悪感そのものを吐き出すように深い溜息を吐いた。

 良くも悪くも直情型で嘘をつけるような性格じゃない彼女からしたら、ここ半月はジャックを守る為、ジャックによる犠牲を出させない為とはいえ、嘘偽りばかりを述べ続けたのはかなりの心労だったのだろう。

 

 ソラの言う通り、半月前のグラムガスランドでの事件による報告と後始末は、嘘で塗り固められている。

 ジョンの死因は、アタランテがソラに報告したように「ジョンの被害者が死者の念となって奴に復讐した」とソラとアタランテはハンター協会に報告した。

 

 これに関しては、奴の地下室の死体の数を見れば説得力は絶大なので、特に誰も疑問に思わなかった。

 ソラたち以外にも被害者で生存者の子供がジャックを目撃しているが、ジョン惨殺以降のやり取りを知らないのと、あまりに凄惨な死に方と今までの拷問によるトラウマでろくな証言が取れずドクターストップがかかった事は、彼らには悪いがソラ側からしたら幸いだ。

 

 もちろん、その子供のフォローはちゃんとしている。

 ジョンのオーラに長期間当てられていたのもあって、念能力者として覚醒はしていないが精孔が開きかかっていたのもあって、彼らはキヨヒメの娘を保護してもらった、信用できるハンターが経営している病院に今は入院しており、退院すれば彼らは同じくキヨヒメの娘を養育してもらっている、ハンター認可の孤児院に引き取ってもらう予定だ。

 

 唯一、パリストンが「今まで何年も無事だったのに、なぜこのタイミングで復讐されたのでしょう?」と訊いてきたが、ソラが飄々と「自分たちとの戦闘でオーラを消耗、両手も失って弱りきってる絶好のチャンスだったからじゃない? 生前が念能力者の死者の念ならともかく、一般人の子供の死者の念ならそれぐらい弱ってる相手じゃないと殺せないよ」と答えて誤魔化した。

 別にソラのこの返答自体は、ソラが今まで見てきた死者の念に関しての経験則によるものなので嘘ではなく、さすがのパリストンも死者の念に関しての知識はソラ相手では圧倒的に足りてないので、真意が見えないニコニコ笑顔で表面上は「なるほど」と納得して引っ込んだ。

 

 本心では間違いなく納得してないだろうが、終わったことにネチネチ執心するよりは、さっさと気持ちを切り替えて新しいことを始めるタイプなので、パリストンに関しての心配はもう何もしていない。というか、既に奴のことなどソラは忘れている。

 パリストンの分析通り、ソラはとことんパリストンを眼中に入れていない。

 奴の思惑をぶち壊して、悲劇の舞台を殺したことを何とも思わない。そんな事、ソラからしたら生きる上でしなくてはいけない当たり前のことだから、いちいち思うことなど何もない。

 

 ジョンに関しては、それで解決だ。報告が嘘だらけでも、奴が犯人なのと奴が死んでもう事件発生しないのは本当なのだから、何の問題もない。

 ソラの推測が正しければ、奴に「子供を愛してるからこそ殺してしまう」という呪いと化した感情強化の念を掛けられた人間は、おそらくジョン本人も把握しきれていないほどいただろう。

 だから奴の能力が死者の念となっていないかが、唯一かつ最大の懸念だったが、それもジャックの能力である「解胎聖母(マリア・ザ・リッパー)」が解決してくれていた。

 

 ジャックの能力というか存在自体が、天空闘技場での死者の念の上位互換どころか完成型と言える存在だ。

 彼女たちは自分の胎に取り込む対象の個人としての、人としての何もかもを肉体ごと切り刻んで砕いて搾り取って濾過することで、対象を穢れのない無垢な(オーラ)に変換する。

 つまりは死者の念の材料となるはずの負の感情は、全てオーラから分離させられた挙句にあの血やミンチと同じように捨てられて、オーラだけジャックに取り込まれたので、ジョンの死者の念が発生することは有り得ない。他に能力を掛けられていた者がいても、ジョンの死によってその能力は解けたはず。

 

 ジャックの意図せぬ能力発動は、結果としては一番厄介な懸念がきれいさっぱり消えたことが、自業自得なジョン以外にとっては最大の救いとなった。

 

 だが、問題はその後。ジャックとアバキについてだ。

 当たり前だが、アバキが出した答え、ソラとアタランテが肯定した答えは世間に認められる訳がない。

 ジャックの在り様を、能力を知られたら彼女たちはA級指定の危険生物(?)と認定されるのは間違いない。

 そして何より、アバキもアタランテもソラも、そしてジャック自身ももう二度と、百歩譲ってもジョンのような場合じゃない限りジャックの能力は発動させたくないし、したくなかった。

 

 だが、人が多ければ多いほどジャックの能力はいつ発動してしまうかわからない。

「死にたい」ではなく「死にたくない」で発動するので、本心ではない愚痴程度の気持ちに反応して発動がないのがまだマシだが、事故はいつ起こるかわからないからこそ事故である。

 不幸な事故がさらなる救いのない事故を呼び寄せるのを防ぐため、ジャックだけは早急に人の多いあの町から離すべきであるという判断に、ジャック本人も納得していた。

 

 だが、いきなりジャックが雲隠れしてしまえば、ジャックを普通の生きた人間の子供と信じている一座の仲間たちは心配して捜索願を出すだろう。

 事情は話せるわけがない。信じてもらえず笑い飛ばされるのは最良。下手したら、ジョンの所為でジャックに虐待まがいのことをしてしまっていたアバキが変に疑われてしまう。

 

 そして何よりも捜索届けが出されて懸念すべきことは、ジャックが他のハンターに関わってしまうこと。

 捜索が警察だけによるものならジャックならいくらでも逃げ隠れることが出来るが、ハンターが関われば体がオーラそのものなので、“絶”をしたら存在感が薄くなるのではなく本当に姿は消えるジャックを死者の念だと気付く者も出るだろう。

 そして気付かれたら、それこそジャックの在り様など関係なく、「死者の念」ということだけで危険視される。

 

 なので、ソラとアタランテとアバキの相談の結果、ジャックには悪いがジャックはこの事件に巻き込まれて死んだことにしてもらった。

 ジョンの死に方が死に方なので、それに巻き込まれて死んだのなら葬式も出せないのは当然。というか、念能力関連の事件は事実を公表すれば混乱を招くので、情報の大部分が秘匿される。

 情報がほとんど出ていないのなら、親であるアバキと、プロハンターであるソラとアタランテの証言を疑いたくてもその材料はなく、そしてソラとアタランテの死闘を見たのならジャックの遺体さえも返ってこない惨い状況も想像がつく。

 

 さらに言えばジャックが死んだことにすればアバキも、「ジャックを思い出して辛い」ということにして自然に一座から抜けられる利点があるのでこの案は採用され、ひとまずアバキや一座の人間、そして町からジャックを引き離し、そして引き離されたジャックはアタランテが修行場にしている人里離れた山小屋でジャックを隔離・保護することにした。

 元々、ちゃんと養子縁組などをしていた訳でもないのでジャックの死を偽装するのに何らかの手続きなどは何も必要としない。ハンターが関わる事件に巻き込まれたのだから、そこらの面倒な手続きはソラとアタランテがやったと語れば、普通の人間は疑わないし調べようもない。

 

 後はアバキが正式に一座から抜ける為に残りの公演を「娘を喪った母親」のフリをして、一座の仲間やお客さんからの慰めなどにものすごい罪悪感を抱え込みながらもなんとかこなして、ようやく本日、無事円満かつ誰にも何も疑われず抜けることが出来たようだ。

 

 これでもまだ、何も終わってなどいない。むしろ、ようやく始まりなのだ。

 

「私も私がやりたかったんだから、それは別にいいよ。というか、私は“念”教えるのに向いてないから、アバキさんの修業もアタランテに一任しちゃってるから、それ以外の面倒事は遠慮なく私に回しなよ」

 

 アタランテの謝罪にソラはフォローし返すと、「汝に任せた方が面倒事が多くなりそうだ」と素で答えられた。

 その答えに「ひでぇっ!!」と言いながら、ソラは爆笑する。どう考えてもこの女、自分のトラブルメイカー&ブースターっぷりを自覚しているが治す気がないのも知れて、アタランテは仕方なさそうに溜息を吐いた。

 吐きつつ、呟くように言う。

 

《……汝に頼りすぎると私は年上の、大人の特権すら保てなくなりそうで嫌だ》

 

 現に今、弱音を零してしまった時点でソラが語り、アタランテも子供の特権の為に守り抜きたい大人の特権が保てていない。

 かっこつけられてなどいない。こんなの、虚勢でしかない。

 

《……私は、かっこつけられる自信はない。人里離れた山の中にこもっているとはいえ、ジャックの能力がいつ誰に発動してしまうかが不安で仕方がない。アバキとジャックに改めて“念”の修業を付けてやっても、この子達の能力を封じたり止めることが出来る能力はもちろん、この子の能力発動の範囲を狭めることが出来る能力を編み出せるかどうかだって怪しい所だ。そんなことをしたら、ジャックの存在自体が消えてしまう可能性の方が高いしな。

 ……師に嘘をついているのも辛い。本当は、私だって誰かに頼りたい。頼ってしまいたい》

 

 一度零してしまったら、堰が外れたように弱音がどんどん零れてしまう。

 電話の向こうで息をのむ気配を感じる。アタランテの弱音に、ジャックが罪悪感で黙りこんでしまったのだろう。

 ソラは、何も答えない。黙って聞き続ける。

 

《……初めからわかっていたことだが、私たちが選んだ道はどうやって進めばいいか全くわからない道だ。いや、道なのかどうかも怪しいな。まるで人の身で空を飛んでいる気分だ。

 ……きっと、墜落して(おちて)しまった方が楽なのだろうな。そうすればきっともう、夢など見なくて済む。そんなことはわかってる。初めから全部わかっている》

 

 アタランテはいくつもの嘘を積み重ねてまでして選んだものを、いっそ傷ついて手に入らないことを思い知って諦めてしまいたいという旨のことを語り続ける。

 それは間違いなく、アタランテの本音。

 

《――――だが、私はまだ翼を広げて飛んでいたい。届かぬ、見果てぬ夢だとは思いたくない》

 

 そしてこれも、本音。

 アタランテが張っているものなんて虚勢でしかないけれど、その虚勢を張る理由だけは本当。

 それはあの日、アバキを連れて壁の穴から飛び降りて逃げ出そうとしたジャックを追った理由と同じもの。

 

 アバキを殺す気で追っていたのは事実であり本音。けどさらにその奥の本音は、根幹はただただジャックを守りたかったという夢。

 その夢を守るために、叶えるためにあの日、アタランテはその身に纏った魔獣の毛皮で飛ぼうとした。

 

 自分の傍らで申し訳なさそうに俯いて黙りこんでしまったジャックの頭を撫で、笑ってアタランテは語る。

 弱音を吐きだしたことですっきりとした、混じりけのない本音(ねがい)を。

 

《わかっている。失敗すれば失墜する。道に迷えば辿り着けない。そんなの、あの日嫌になるほど汝とジャックに思い知らされた。

 けれど、私は落ちたがまだ私が守りたかったものは汝らが守ってくれたから、今度こそ迷わず、失敗せずに飛び立ちたい、飛び続けたいのだ》

 

 あの日、ただ自分のわがまま、独善の為に眼を逸らしていたものを突き付けられたことによって失墜したから、墜落して良かったと思えるから、だから今度は眼を逸らさず、その所為でその身は空を翔るには重い何かに背負ったとしても、それでもまだ飛び続けたいと告げるアタランテに、ソラは答える。

 

「飛びなよ。飛び続けたらいいさ。

 翼がなくても鉄とガスで武装すれば、人間が飛べることは飛行船が証明してるだろう? 飛行はとっくの昔に奇跡の位から引きずり落とされているのに、何を躊躇う必要があるんだ?

 何したらいいかわからないってことは、何でも出来るって事なんだから、それでいいじゃないか。君のすることを夢物語だと言って、嘲笑う奴の言うことは無視しろ。

 前例がないだけで夢物語だという奴は、今ある文明が初めからあるものだと思ってるのかね? 飛行船も携帯電話も100年そこらさかのぼれば夢物語だし、こんにゃく芋なんて劇薬が成分に含まれてるのに灰をどうのこうのして無効化させてわざわざ食うし、フグの卵巣だって科学者は食えないって言ってたのに食える方法を見つけやがったし、マグロの完全養殖も成功してるし、出来ない事なんかきっとこの世にはないよ」

《腹が減ってるのか?》

 

 アタランテの願いを、覚悟を、決意を肯定してくれているのはわかるが、何故か不可能を可能にしている実例の後半が食べ物関係ばかりだったのでまたしても素でアタランテは突っ込んだ。

 そしてソラもソラで「実は結構すいてる。そっちは何時か知らないけど、こっちは今昼飯時」と答えた。

 

 この女はどうして真面目な話や空気を平然とぶち壊すか……と思いつつも、時差を何も考えず電話してきたアタランテが悪いので、「それはすまなかった。真夜中でなくて良かった」と謝り、そろそろ話を終わらせようとする。

 

《とりあえず、私からの報告は以上だ。

 色々と迷惑と面倒を掛けたが、これ以降はそうないと思う》

 

 そう言ってアタランテが話を締めくくろうとするが、その前にソラは言った。

 

「……アタランテ。大人に頼って甘えるのが子供の特権だけどさ、……年上年下関係なく、お互いに頼って甘えるのが友達の特権だと私は思うんだ」

 

 ソラの返答にアタランテはしばし間を置いてから、クスリと笑った。

 笑って、言った。

 

《……そうか。

 ありがとう。けど、私はまだ頑張るつもりだ》

 

 アタランテにまだ弱音を吐いてもいい、頼ってもいいと言ってくれた。

 その言葉で嬉しげに笑いながらも、アタランテは答える。

 大丈夫だとは言わなかった。でもまだ頑張りたいから、ソラに頼らないと言った。

 ……飛ぶことにソラを頼りはしないと、決めたから頼らない。

 

《……だから、私が失墜してしまった時、どうかまた受け止めて欲しい。私がもう一度、飛べるように》

 

 飛ぶことにソラを頼りはしない。

 けれど、例え失敗して、失墜して、墜ちたとしてももう一度、翼を広げて飛べるように受け止めて欲しいと願う。

 

 共に飛んでほしいと願うより、飛ぶことを手伝ってほしいと言うよりも、それは相手の負担を強いていることくらいわかっている。

 だけど、それでもアタランテは飛びたいから、今はまだ遠すぎる夢に向かって飛ぶことを諦めたくないから、だからあの日、アタランテを失墜させても決して取り返しのつかないことにならぬようにアタランテを受け止め続けてくれた人に願う。

 

 そして、ソラは答える。

 

「君くらいの軽さなら、何度だって受け止められるさ」

 

 アタランテの願いに軽く応じて、電話を切る。

 

 アタランテの願いの身勝手さはわかっている。

 それでもその願いに応じるのは、アタランテの為ではない。

 

 アタランテが諦めずに飛び続ける姿は美しいだろうと思ったから。

 アタランテが飛び続けた先に得るものを、ソラも見たいから。

 

 結局はどちらも自分の為。

 けれどそんなの全部、全員がそうだ。

 

 ソラもアタランテもジャックもアバキも、きっとみんな一皮むけばジョンと変わらぬほど身勝手で醜いエゴの塊だ。

 誰が不幸になっても、どんな犠牲が出たとしても、自分の幸福の為に自分のエゴでしかない願いを手離さない。

 

 だけど、ジョンと違う所は一つだけある。

 これだけは、失ってはならない。忘れてはならない。

 

 ジョンは、誰かの不幸を望んでいた。他者の絶望こそが彼の目的だった。

 

 ソラもアタランテもジャックもアバキも、たくさんの嘘をついて、酷い犠牲が出る可能性を知った上で、その可能性が実現してしまっても、犠牲者を踏みにじったとしても手離さないと決めているけど、けれど誰も望んでなどいない。

 誰かの犠牲や不幸を、望んでいる訳ではない。どんなに荒唐無稽でも、真に望む結末は誰も傷つかず、失わず、絶望なんかせずに名も知らぬ人たちも幸福になるという終わりを望んでいる。

 

 世界は身勝手で醜いエゴに満ちていることを、誰もが知っている。

 だけどそのエゴだって一皮むけば、優しくてあたたかで美しいものがあることだって知っているから。

 

 だからソラは、歩き続ける。

 特に目的も何もない道の先に、絶対にたどり着きたい未来を夢想して。

 

 

 

 ソラは歩き始めた。

 大好きな人たちと幸福に生きるという夢の為に。






これにて「再スタートの9月編」は終了。
次回からは、ソラとビスケの出会い編を始めます。

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