死にたくない私の悪あがき   作:淵深 真夜

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105:愉快犯

「っっっああああぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!」

 

 

 アバキがジャックに馬乗りになり、その細い首に両手を掛けて絞め殺そうとしているのを目撃した瞬間、アタランテのこめかみあたりにうっすらとあった黒いシミが爆発的に広がり、アメーバのようにうごめきながら彼女の顔の半分近くを染め上げる。

 そのシミと連動するように、アタランテの感情も爆発する。

 

 彼女には、見えていない。

 自分の顔と同様に、アバキの顔にもうごめいて形を変える不気味な黒いシミがあることに、彼女は泣きながら、謝罪しながら、何かに怯えるように正気を失って錯乱しながら娘の首を絞めていることにも、ジャックは首を絞められても苦しそうどころか無抵抗で平然としていることにも気付かない。

 

 見えているのに、爆発した感情がそれらを見て思うこと、わかることを全て塗りつぶす。

 膨れ上がって心を占める感情のままに、アタランテは動いた。

 

「貴様は何をしているっっ!!」

「それはこっちのセリフだボケーッッ!!」

 

 オーラを練り上げ、アタランテは何も持たないまま弓矢を構えるようなポーズを取り、そしてその照準を何の躊躇いもなく、そこにいるのはアバキだけではなくジャックもいることを認識できていないのか、そのまま増幅したオーラを撃ち出そうとし、ソラが何とかアタランテの前に出て叫びながら放たれた高密度のオーラを“硬”状態の右手で弾いた。

 

 直死でアタランテの撃ち出したオーラの矢を殺さなかったのは、めまぐるしく回転して加速して弾き出す未来予知じみた死の夢想が、それは悪手だと判断したから。

 ソラがしなくてはいけないことは、アタランテの攻撃からアバキとジャックを守ることだけではなく、アバキを止めることも含まれているのだから、ソラはアタランテの攻撃を弾いたことで崩れた体のバランスを無理に取ろうとはせず、むしろその勢いを利用して左手を軸にしてぐるりと回転し、その回転を反動に足で思いっきり自分の背後にいたアバキを蹴り飛ばす。

 

「あぐっ!」

「っけほ! お母さん!!」

 

 ソラにかなり遠慮なく蹴り飛ばされたアバキは、そのまま壁に激突して気を失う。

 アバキの手が首から、体の上からアバキが離れた瞬間、一度だけ咳き込んでジャックは母親の元に駆け寄る。

 そこに、自分に危害をくわえた母に対する憎悪はもちろん、怯えどころか戸惑いすらない。彼女はただ純粋に、母を案じて駆け寄った。

 

 なのに、アタランテは叫ぶ。

 

「ジャック! その鬼畜から離れろ!!」

 

 ジャックの行動とアバキの様子からして見当違いもほどがあることを叫び、彼女はもう一度弓に矢をつがえる動作をし、オーラの矢を放つ。

 気を失った、ジャックが案じて駆け寄ったアバキに向かって躊躇なく。

 

 それを今度こそソラは、“纏”程度のオーラしか纏っていない右手で、アタランテのオーラの矢を切り裂いて無効化する。

 念能力者として有り得ないことをされたというのに、アタランテはそのことを疑問に思わない。

 ただ、アバキを庇ったソラを憎悪に燃え盛る眼で睨み付けて咆哮した。

 

「邪魔だどけ!! 何故、邪魔をする!!」

「……聞こえてても意味ないと思うけど、ちょっと頭冷やしてよく見ろ!

 アバキさんが八つ当たりや邪魔だからって理由で、ジャックを殺そうとしてるように見えたか!? 泣きながら、謝りながら首絞めてるのを見てまともな精神状態だと思えるのか!?

 っていうかもはや“凝”してなくても顔のシミが見えるだろ!! もうアバキさんは良いから、今すぐに鏡見ろ! 同じシミがあんたにも浮かんでるっつーの!!」

 

 ソラが今までしなかった指摘をダメもとでしてみるが、ソラの思った通りアタランテはソラの話など聞いていない。

 いや、聞こえてはいるが何の意味もない。ソラの言葉もありのままの事実も、彼女の頭や心には届かない。

 届く前に、増幅されている感情によって染まり、答えが事実とは別物にねじ曲がる。

 

「黙れ!! 母親なら、本当に子供を愛しているのなら何があっても、何をされても、どんな理由があっても守るべきだろうが!

 子供に手を掛けた時点で、そんな奴はもう親じゃない! 獣にも劣る鬼畜だ!!」

 

 それはおそらく、初めからアタランテが抱いていた本音。

 理性では「親も人間なのだから、子供を疎ましく思う時もある。それに付け入る相手が外道で、親も被害者だ」と思って抑えつけていた、理屈ではない無茶な綺麗事、理想論であるとわかっていても捨てられなかった不満が肥大化されて理性を食い潰し、アタランテの思考を一色に染め上げている。

 

 どのような事情も、今のアタランテは考慮しない。守りたい子供自身の意思すら見えていない。

 子供を傷つける親という、最も許しがたいものを見てしまったアタランテはその怒りと憎悪に支配されている。

 今の彼女にとっては、アバキはもちろん自分の邪魔をしたソラも、何よりも許しがたい敵でしかない。

 

「ちっ! タイミングが最悪だったみたいだな。ごめんね、ジャック。このバカは私が何とかするから、君はアバキさんを連れて逃げて」

 

 子供を害する親に対する憎悪と、自分の理想に対する妄執そのものと化したアタランテに舌打ちしながら、ソラは背後のジャックに指示を出すと、ジャックは気絶したアバキを抱きかかえて泣きながら「ごめんなさい」と謝った。

 

「……ごめんなさい。私たちがちゃんと初めから説明して頼まなかったから。ちゃんと話してもないのに、あなたなら私たちを……お母さんを助けてくれるって思ったから……。だから、もう大丈夫だと思って私たちは油断してた……」

「うん、わかってる。君は悪くないよ。こんなのは出会い頭の事故だから気にすんな」

 

 ジャックの謝罪にソラは笑って、ジャックは何も悪くないと慰める。

 会話をちゃんと聞いていれば、ジャックの言っている意味はよくわからずとも、ジャックを悲しませたのはソラではないことくらいわかるはずなのに、今のアタランテにはそんなこともわからなかった。

 

「子供を泣かせて、何をへらへら笑ってる!?」

 

 完全に言いがかりのいちゃもんなのだが、アタランテにとっては揺るぎない事実を叫んで再び矢をつがえ、撃ち出してきた。

 それをソラだけではなくアバキを抱きかかえているジャックも避け、壁に大穴を穿たれる。

 そしてその大穴からジャックはアバキを抱えたまま、飛び降りて逃げた。

 

「!! ジャック!!」

 

 ジャックに対しては一方通行だが未だに心から安否を案じているアタランテは、彼女を追って自分が穿った壁の大穴へと駆け寄る。

 だが彼女がジャックに追いつく前に、彼女も壁穴から飛び降りる前にソラが立ちふさがって、オーラを込めた右腕で重いボディーブローを遠慮なくぶちかまされた。

 

「ちょっと寝て、頭冷やせ!!」

 

 しかし、ソラの拳がアタランテの腹にめり込んでも、手ごたえは肋骨がひび割れる程度しかなかった。

 

「!? あんたも強化系か!」

「まだ邪魔をするか貴様は!!」

 

 先ほどからの攻撃手段からして放出系かと思ったら、どうやらアタランテはソラと同じく自分本来の系統よりも、隣り合う相性の良い系統をよく使う強化系だったらしく、ソラの予想以上に装甲が硬く気絶には至らないどころか、怒りのあまりに脳内麻薬の分泌がヤバいのか痛みすらろくに感じていない。

 

 ジャックが自分から逃げ出した自覚もなく、自分がジャックを守らなくてはならない、ジャックに危害をくわえたアバキを殺さねばならないという考えに支配されているアタランテは、半分近くが不気味に蠢くシミに染まった顔と憎悪で滾った眼でソラを睨み付け、オーラをさらに増幅する。

 

「私の邪魔をするのなら、お前を先に殺してやる!!」

 

 完全にソラを敵認定して、アタランテはオーラを身に纏い、己の体を強化し、変質させる。

 獣のようなしなやかな筋力を、鋭い牙や爪を、空を掛ける翼を求め、それはアタランテ自身の体の代わりに役割を果たす。

 

「!?」

 

 膨れ上がったオーラに危機感を感じ、ソラはとっさにアタランテから離れ、そして目にしたものに言葉を失う。

 

 オーラが黒ずみ、アタランテの体を包み込む。アタランテを包み込んだオーラが、彼女の望みを叶える。

 アタランテの体を包むオーラは獣の筋力を、手足に鋭い爪を、顔には強靭な顎と牙を、そして腕を広げればそこに纏った黒いオーラが翼となる。

 もちろん、その軸となったアタランテの体は人のもの。獣そのものになるには無理があり、全身の神経が悲鳴を上げているが、そんなものは無視する。

 

 そんなものよりもアタランテにとって大切なものがあるから。

 守らなくてはならないものがあるから。

 その為に、殲滅しなければならぬ敵が目の前にいるから。

 

 だから、アタランテは己を魔獣に変えた。

 

神罰の野猪(アグリオス・メタモローゼ)!!」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ただ、子供を守りたかった。

 

 子供が両親に愛されて大切に育てられ、その子が親になった時、自分の時と同じ慈しみを我が子に与えるという循環が当たり前になることを望んでいた。

 そんな「当たり前」を与えてもらえなかったから、獣ですらあるはずの「我が子への愛」なく捨てられたから、だからこそアタランテは求めた。

 

 アタランテは獣に育てられた野生児だった。

 元はどこそこの尊い血族に連なる貴族だか何だか知らないが、とにかく御大層な家柄の令嬢としてアタランテは生まれたが、跡取りだけを求めていた父親は女児というだけでアタランテを無価値と判断して、母親に生後間もない娘を捨てるよう命じ、母親も夫の非道な命令に唯々諾々と従って山中に我が子を捨てた。

 

 未だに覚えている。

 自分に一瞥さえもしなかった父親の横顔と、「ごめんなさい」と謝りながらも夫に説得もしなければ、保護される可能性が高い孤児院前などに捨てることだって出来たのに、夫の言葉に忠実に従って生存が絶望的な山中に自分を捨てた母親を、やっと目が開いて耳が聞こえるようになったぐらいの赤子であったはずなのに、アタランテはしっかり覚えている。

 

 もしかしたらこれは物心がつき、人に保護されて実の両親と再会してから作り上げた偽の記憶かもしれないが、そうであってもアタランテの両親が屑であることに変わりはない。

 彼らは捨てた後に後悔して、探して見つけ出したアタランテを今度こそ娘として家族に迎え入れた訳ではないのだから。

 

 捨てられたアタランテは雌の山猫に育てられた。

 本来なら間違いなくエサとなっていたはずだが、どうやらその山猫は子を生まれてすぐに亡くして、山猫自身も子を失った悲しみを埋めたかったのだろう。

 

 アタランテにとって母は間違いなくその山猫だ。実子の代わりに過ぎなくとも、確かに愛されて育てられた記憶は今も確かに残っている。

 

 しかし、アタランテと山猫の母との日々は3年ほどで終わる。

 アタランテの眼の前で、母は人間のハンターによって撃ち殺された。

 

 もちろんアタランテと山猫を発見したハンターからしたら、山猫が幼児を食い殺そうとしているようにしか見えなかったからアタランテを助けるつもりで射殺したことくらい、当時はともかく今ならちゃんと理解している。

 山猫()を射殺したハンターは真っ当な善人で、感謝すべきだと理性ではわかっているが、母を眼の前で殺された絶望と憎悪、そして人間に保護されて実の両親と再会してからの日々を考えると、どうしてもあのハンターを逆恨みだとわかっていても憎んでしまう。

 

 実の両親がアタランテを引き取ったのは、自分たちの行いを反省したからではない。

 ただ単に、生まれたらすぐにDNA等の生体データ登録義務のある国だった為、アタランテ自身のデータは登録前に本人が捨てられて存在しなかったが、親のものはあったので割とすぐに実の親は探し出され、親も「我が子ではない」という言い逃れが出来ず、不幸な事故で生き別れとなった娘と感動の再会という茶番を行っただけ。

 

 そこからアタランテは12歳で家出するまで、ひたすら親の見栄の道具でしかなかった。

 

 獣として育てられ、そして愛されたアタランテにとって政略結婚の道具でしかない生き方など耐えられる訳もなく、彼女は自由を求めて家から飛び出し、そして元野生児の経験を活かして生き抜き、数年後に見事ハンター試験に合格してプロハンターとなった。

 

 初めは、自分の真の母である野生動物たちを密猟者から守りたいという思いで目指した職だったが、ハンターになったころには守りたい対象が変わっていた。

 元とはいえ山猫に育てられた野生児であるアタランテの死生観は、基本的に弱肉強食という獣に近いものだ。

 なので、野生動物にとって密猟であろうが合法な猟だろうが関係なくハンターは敵であるが、同時に殺されたら殺されたで自分が弱かっただけと納得して死んでゆく。ここで命を終えることを無念に思う気持ちや、何かしらの後悔はあっても相手を恨みはしない。

 だから、アタランテが「守る」と思うこと自体が野生動物たちや母の矜持を汚すことだと思ったから、もちろん密猟は許さないが当初ほど積極的に密猟者を撲滅させようとは思わなくなった。

 

 代わりに、「弱いから死んで当然」なんて獣の価値観を超えるほど守りたいと思ったのは、守り抜くと誓ったのは、どれほど困難な道であっても絶対にたどり着きたい最果ては、子供が愛され、守られ、幸福に生きるという世界。

 

 家を出て、山の中ではなく人の世界で自分の力だけで生きるようになってから、自分はまだ恵まれた子供であったことを思い知ったから。

 ストリートチルドレン、浮浪児、捨て子が、何も語らずともその存在だけでアタランテに思い知らせた。

 

 血が繋がらぬどころか種族が違っても、母の愛を与えてもらった。

 実の両親から愛されなくとも、一人で生き抜ける歳になるまで衣食住に困らぬ生活が出来た。

 それだけでも自分は十分すぎるほど恵まれた環境だったことを、何度も何度も思い知らされた。

 捨てられた赤子を何とか助けようとして、けれど結局自分の腕の中で紙のように軽い子供が息絶えるのを目の当たりにした絶望の中で誓った。

 

 自分のような子はもちろん、それ以上に悲惨な境遇の子供達を救おう。

 子が自分の親に愛され慈しまれて育ち、いつかその子が親になった時、同じものを我が子に与え返すという幸福な循環が当たり前になるように。

 それは神様や魔法という奇跡に頼らねばならぬほど、それらに頼っても叶う保証などない願いだとは思いたくなかった。

 むしろ何故これが当たり前でないことに憤りを覚えるほどだった。

 

 だから、アタランテは足掻き抜く。

 諦めることなど出来ない。諦めてしまえば、あの日殺された母は、今まで助けることが出来なかった子供たちは、それこそ何のために死んでいったのかがわからなくなる。

 

 それらがアタランテの夢の礎になる為の必要な犠牲だとは思わない。犠牲など出したくなかったのだから、本当なら母である山猫も、救えなかった子供達も生きて幸福になって欲しかったからこそ、アタランテはもう立ち止まることも退き返すことも出来ない。

 

 せめて、せめて犠牲になった者達の手向けとしてこの夢を捧げたい。

 アタランテが未来を生きる為にも、過去の傷を癒すためにも手離せない夢の為に、彼女は人をやめる。

 

 母から教えてもらったものを生かすには、守りたいものを守り抜くためには、自分の人としての願いを叶える為にはそれ以外の人の部分など邪魔でしかなかった。

 

 だからアタランテは、あらゆる獣の特性が宿った魔獣の皮と化したオーラを纏い、自らを魔獣に変えて敵と向き合う。

 

 人間としての理性を失い、しかし獣としての本能ではなく、人間としての感情のみで動くアタランテにはもうわからなかった。

 

 その「敵」と認定した者は自分に何と言って手を差し伸べて、ここに連れて来てくれたのか。

 アタランテの挫けかけた夢を、拾い上げて再び渡してくれた人であったことを、もう彼女は思い出せない。

 

 

 

 * * *

 

 

 

(まずい!!)

 

 アタランテの身を包む、アタランテを人外に変えるそれを見て、ソラの脳裏に継承が鳴り響く。

 ソラの狂気の産物、死にたくないという願いを叶え続ける為の狂った演算機構が弾き出す。

 彼女の能力は、自分の天敵だと。

 

 直死の天敵ではない。ソラの視界は相変わらず、狂い果てても逃げられない死の線と点が至る所に散らばっている。

 攻撃手段もおそらくこちらは接近戦用の能力。先ほどまでのオーラの矢より、自分の間合いにあちらから入ってくれるのなら好都合なくらいだ。

 問題なのは、アタランテのこの能力は変化系寄りの強化系能力であるということ。

 

 どう動くべきか、向こうがどう動くかをいくつも瞬時に想像し、己の死を夢想して、その死を退け続ける詰将棋と同時に浮かぶのは、特に意味などない、けど忘れないと誓った、自分自身を墓標にした蜘蛛の足の一本。

 

 ウボォーギンと同じく自分自身の体を強化する念能力は、アタランテ自身と切り離せない。直死を使えば能力だけではなく良くても大きな後遺症を負うであろう能力に、ソラは舌を打った。

 

 その舌打ちの意味も理由も、アタランテは考えない。気付かない。

 目の前の「敵」が何を思い、自分の前に立ちはだかっているのもわからぬまま、彼女は魔獣の皮(オーラ)で全身を包み、獣のように四つん這いになって今にも跳びかかろうと体をばねのように上半身を低くして代わりに腰を上げる。

 

 完全に獣の狩りの体勢に入ったアタランテと、それをこちらも野生の獣のように凄まじい眼力で、スカイブルーの目で睨み付けるソラの間に入った者を愚か者と呼ぶには非情だ。

 

「アバキ! ジャック!!」

 

 ただでさえアバキの絶叫、ソラとアタランテがいきなりドアを引っぺがして部屋に押し入る、アバキのジャック殺害未遂としか言いようがない状況から、一般人には不可視の矢でアタランテが錯乱しながら攻撃という訳のわからない状況が連発されて、部屋から出てきたやじ馬たちはパニックを起こして、逃げるなり立ち尽くすなりと辺りは騒然としていたが、その中の一人が、アバキと歳が近いであろう女性が何を思ったかいきなり部屋に入って来て、ソラとアタランテの間を横切ろうとした。

 

 ……何を思ったかなんて考えるまでもない。

 あまりの信じられない光景が連続して起こってしばし呆然としてしまっていたが、ようやく気が付いたのだろう。

 

 ジャックがアバキを抱えて、ホテルの5階から飛び降りたという事実に。

 

 ソラどころか正気を失っているアタランテでさえ、死者の念であるジャックなら大人一人抱えてそれぐらいどうってことはないとわかっている。アタランテが心配しているのは、ジャックを殺そうとしていたアバキを連れている点だ。

 しかしそんなことを知る由のない一般人、一座の仲間からしたらジャックはいきなり訳の分からない攻撃をしてきたアタランテから逃げようとパニックを起こして、アタランテが開けた大穴からアバキと一緒に落ちたようにしか見えない。

 

 だから、彼女からしたら友人とその娘を心から心配したからこその行動だ。愚行と言えばこの上ない愚行であったが、人としては間違いなく尊いものだった。

 

 しかし、我が子を裏切り、傷つけ、殺そうとした親への憎悪と、親に裏切られた子供を救わねばならぬという思いに支配されたアタランテには、ジャックだけを案じたのならともかく、アバキも案じたその女性は等しく「敵」だった。

 

「しゃああああぁぁぁぁぁ!!」

 

 もはや人の言葉すら思考から置き去りにして、獣の威嚇の声を上げながらアタランテは、まずは自分の前に躍り出た無防備で愚かな獲物に、魔獣の爪を振りかざす。

 

「! ひっ!?」

「ごめん!」

 

 ほぼパニクって部屋の中に入ってしまった女性は、アタランテの声でようやくここは自分が踏み入っていい世界でないことを理解して引き攣った悲鳴を上げると同時に、ソラが今までしてきた死を退ける夢想をほぼ全て捨てて、その女性を横手に突き飛ばすようにして前に打って出る。

 

 アタランテの爪は、“凝”を施した両腕をクロスして顔や首への致命傷は避けるが、完全にダメージを相殺しきれず、ソラの両腕は自分の血で染まる。

 その痛みを無視してソラはアタランテの間合いに入った瞬間、その血まみれの腕を伸ばしてアタランテの体にしがみつき、こちらも強化系であることを生かした馬鹿力で無理やり彼女の体をホールド。

 

「そんなに心配なら、あんたも落ちろ!!」

 

 そう叫びながら、何とかしがみついたソラを引きはがそうと暴れまわっていたアタランテがジャックが飛び降りた穴付近まで来た瞬間、ソラはアタランテにしがみついたまま足払いを掛けてバランスを崩させ、そしてそのまま自分ごと穴から落ちた。

 

 墜ちながら、ソラのスカイブルーだった眼を瞬間的にセレストブルーにまで明度が上がる。

 見つけてしまったから、怒りで眼に力がこもる。

 部屋の中を、自分たちを窺っていたやじ馬の一人。見覚えがあるのかないのかすらよくわからない、平凡な顔立ちの17歳前後の少年を睨み付ける。

 

 顔に見覚えがなくても、奴がジョンだというのはわかった。

 彼はソラの視線に気づいた様子もなく、メイクを落としてもメイクによく似た笑みを、楽しげで面白そうな愉悦の笑みを浮かべていたジョンがするりと錯乱する人たちの脇をすり抜けて去って行ったのを見て、墜落しながらソラは吠える。

 

「っっっくっそぉぉぉぉっっっ!!」

 

 本来なら戦わなければならぬ相手がのうのうと逃げるのを見てるしかない、戦いたくない相手と戦わなければならぬ今を悔やむ絶叫が、空中に響き渡った。

 

 その叫びの意味を理解できないアタランテは、うるさそうに煩わしそうに顔を歪めて落下最中にオーラを翼に変えて減速しながらソラを引きはがそうとしたが、結局ソラは離れることがなくそのまま転落して地面に叩きつけられた。

 だが何とかソラを下敷きにすることが出来た為、オーラで全身をガードしていてもダメージを負ったソラの手が自分の体から離れた瞬間に起き上がり、アタランテは魔獣の皮によって人の域を超えた五感を頼りにジャックを探し求める。

 

 しかし彼女がジャックを探し当てる前に、ソラから一歩も離れぬうちに無様にアタランテは転ばされる。

 アタランテの翼によって減速していたとはいえ、5階からの転落ダメージを殺しきれず、むしろアタランテのクッションにされたはずのソラが、血の混じった咳をしながらもアタランテの足首を、アタランテの凶爪で血まみれとなった腕で掴んで離さないどころか、渾身の力で引き寄せて転ばせた。

 

「……何、一人で勝手に行こうとしてんだよ?」

「邪魔をするなと言っているだろうが!!」

 

 自分の足を掴んで、自分の邪魔をして、子供を救おうとする自分の夢の邪魔をする者に、アタランテは再びその爪を振るう。

 今度はソラの頭を殴りつけ、彼女の白い髪が、白皙の美貌が鮮血で染まる。

 

 それでも、ソラは手を離さずアタランテを見上げて言う。

 

「私が殴る分は残しとけって言っただろ?」

 

 アタランテにはその言葉の意味もわからない。どこで誰に言われたのかも、思い出せない。

 なのに、血にまみれても傷ついてもアタランテを離さない、自分の邪魔をしているはずの自分の敵を見た瞬間、魔獣の皮に包まれたアタランテの顔が確かに、泣き出しそうに歪んだ。

 

 思い出せないのに、それでもその言葉で確かに湧き上がる感情はあった。

 自分で傷つけておきながら、彼女の傷にアタランテの胸は確かに痛んだ。

 

 フードでも被るようにして、アタランテの顔をすっぽりと黒いオーラが隠しているが、そこから唯一見える口元が怒りではなく辛そうに、そして困惑するように歪んだのを見て、ソラは心の中で謝る。

 

(……ごめん、アタランテ)

 

 アタランテの反応で、確信を得る。

 アタランテに掛けられている能力は、ソラの直死で殺す訳にはいかない。

 これも強化系の念能力な為、その能力はアタランテ自身に寄生しているようなものだからこそ、ソラの直死で能力を殺して、アタランテ自身が死に至るのはまだマシな方かもしれない。

 下手すれば彼女は、生きているのに何も感じない思えない、生きているだけの屍に成り果てる可能性があまりにも高かった。

 

 だが、操作系ほどの強制力がない為、直死はもちろん真っ当な除念以外でも外すことが出来るものだった。

 ……しかしそれは、どれもこれも残酷な方法しかない。

 暴走する前ならともかく、今のように暴走している状態なら、そして時間の猶予がない今はそれしかソラには思いつかなかった。

 

 だから心の中で許されないことを知りながら、自分自身をまた絶対に許さない罪を背負いながらもソラは、選び取った選択肢の為に行動する。

 蒼玉の眼でまっすぐに、毛皮(オーラ)の奥のアタランテの眼を見据えてソラは言った。

 

「アタランテ。君は、何しに行く気だ?」

 

 自分の足を掴むソラの手を、アタランテは足で何度も蹴りつけながらその問いに、あまりに当たり前のことを尋ねられた苛立ちを露わに怒声で返す。

 ……酷く苛立ちながらも、ソラに対する攻撃が爪ではなくただ蹴りつけているだけ、先ほどより致命傷を負いはしないぬるい攻撃になっている自覚はない。

 

「ジャックをあの鬼畜から引き離し、助けるために決まっているだろうが!! いい加減離せ!! 私の邪魔をするな!!」

「鬼畜って誰のことだ?」

 

 爪で切り裂かれるよりはマシではなるが、それでも強化された脚力で蹴りつけられたら、こちらもオーラで防御していても十分にキツイ。

 それでも、ソラはアタランテの足にしがみついて離れず、彼女をどこまでも真っ直ぐに見上げ続けてさらに問う。

 

「鬼畜って誰のことだ? 君は誰からジャックを引き離す気だ? アタランテ、君が言う『助ける』とは何をすることなんだ?」

「ジャックからの信頼と愛情を裏切った、あのアバキという女に決まっているだろう!!

 貴様は、我が子を殺そうとした女の元に子供を残すことを何とも思わないのか!? あの子を……あの子たちを救うにはまずあいつから引き離すのが何よりの優先事項だろうが!!」

「君のものさしで他人(ひと)の救いを語るな」

 

 蹴りつけながら、自分の何よりの願いの為にしなくてはならぬ前提をアタランテは叫ぶ。

 しかしそのアタランテにとって呼吸に等しい、しなければならぬこと、虐げられる子供に対しての救済は一蹴された。

 

「自分しかあの子たちを救えないなんて、思い上がるな。

 救済なんて、ただ目覚めていればそれだけでいつか必ず手に入る。それに気付けるかどうかってだけだ。

 アタランテ。君のしていることは、君がしようとしていることは、ジャックに対する救済じゃない。君は君自身を救うために、他人の救済や幸福を踏みにじってるだけだ」

「っっっふざけるな!! 黙れ! 黙れ黙れ黙れ!!」

 

 真っ直ぐに見つめられながら、見上げられているのに憐れむように、非難するように、見下すのではなく見下す価値もないと語っている瞳で自分の言葉も行いも、今までしてきたこともこれから歩むはずの道も全て否定されたことで、アタランテは再び腕を、爪を振るう。

 

 さすがにその凶爪は、オーラを込めた両腕で再び頭部をガードして防ぎ、そのままソラは転がって一端アタランテから距離を置く。

 自分の足からやっとソラが離れたが、アタランテはソラを無視してジャックを探しに行かない。

 頭にあるのは、ソラに対しての憎悪。自分の全てを否定された憤怒。

 そして……まだ自覚できないほど小さい、憎悪と憤怒の影に隠れているけれど確かに生じたのは不安。

 

 頭に血が昇っている。憎悪と憤怒が理性を食い潰し、それ以外考えられなくしている。

 けれど、その憎悪も憤怒も確かにアタランテのものだから、誰に強制されたわけでもなく、アタランテの心が生み出したものだからこそ、本物の感情だからこそ誰にも、アタランテ自身にも防ぐことは出来やしない。

 

 憎悪と憤怒以外の感情が生まれることを、防ぐことなど出来ない。

 

 その生まれた不安を、血にまみれながらも起き上がったソラがさらに増幅させる為に揺さぶる。

 アタランテの本質が善良だからこそ懐きたくなくても懐いてしまう、自分を傷つけたことに対する罪悪感を利用してソラは、耳を塞いでしまいたいはずの指摘を続けた。

 

「そうやって、自分の聞きたいことと見たいものだけ見聞きして、都合の悪いことはシャットアウトする気か?

 自分自身を救うために、自分を崇め奉られるために、既に救われている子の救済を取り上げて、踏みにじって、マッチポンプで自分は聖母面する気か!?」

「黙れっ!!」

 

 ソラの言葉を遮るように、アタランテは叫ぶ。

 しかしその叫びは、今までの叫びと比べて震えていた。

 

 自分の声音の変化にも気付かず、……気付かぬふりをしてアタランテは再び獣のようにソラへと跳びかかる。

 しかし周りに人はいても、喧嘩どころではない異常な戦闘に恐れをなして誰もが遠巻きで眺めるのが精いっぱいで近づきもしない、守るべき相手がいないのならソラはわざわざ真正面から彼女の攻撃を受け止めない。持ち前の予知能力じみた、本能による計算付くの動きでアタランテの攻撃を避けながら、言葉を続ける。

 

 ……決して本意ではない、ソラ自身もアタランテがこんなにも身勝手な思いを綺麗事で言い繕ってきた訳ではない夢を、「子供を救いたい。愛し愛されて育ち育てるという循環が欲しい」という願いが本心であることを知りながら、彼女の全てを否定する。

 

 そうしないと、アタランテを支配するおぞましい“念”が解けないから。

 こんな方法でしか彼女を開放できない自分の無力さを悔やみ、何の意味もなしていない自分の眼を呪いながら、ソラは言った。

 

「君のしようとしていることは、無意味だ」

 

 * * *

 

 犯人が生きた人間なら、犬神と似た能力によるものだと思った。

 そうでないと説明がつかないから。

 だから、能力者は操作系かもしくは操作系に隣り合う放出・特質あたりだとソラは見当づけていたし、アタランテもそう思っていた。

 

 それが最大の失敗だったと、今更過ぎる後悔がソラの胸を占める。

 

 相手も、一連の事件が念能力者の仕業だと気付かれたら、もっとも疑われる系統は操作系であることをわかっていたからこそ、見せつけた。

“念”に関して無知に等しいと思わせると同時に、系統を見せつけて容疑者から外れようとした思惑に、アタランテが見事にはまってしまったのはソラ側のミスだ。

 余計な前知識を入れて「犯人は操作系」という先入観を与えてしまったからこそ、彼女は水見式の結果を見て油断してしてしまったからこそ、犯人の毒牙にかかった。

 

(バカだバカだ私はバカだ!!

 完全なコントロールが出来てないのも、犯人が愉快犯である可能性が高いこともわかってたのに、何で想定できてなかった!!

 操作系じゃなくても、()()()()()()()()()()()()なら、強化系でも可能だろうが!!)

 

 アタランテの攻撃を避けながら、アタランテの憎悪と憤怒をさらに増幅させながらもじわじわと同時に湧き上がる不安をさらに揺さぶり、滲み出させながらソラは後悔する。

 

 ソラ自身も一瞬思い浮かんですぐに、「感情なんて実体がないものを強化・増幅なんて可能なのか?」と思ったが、よくよく考えればその理屈が通用しないのなら「犬神」という能力だって存在しない。

 実物・実体があるものしか操作できないのなら、肉体を失って魂というオーラそのものになった犬を操ることなど不可能なはずだ。

 

 そもそもオーラそのものが実体などない生命エネルギー。その人の感情が一番の影響を与えるという特性を持つ、魂と呼ばれるものと同一か、限りなく近いもの。

 そう考えると、実体があるものよりないものを操ったり強化させることに長けていた方が自然に思える。

 

 だから、「特定の感情を強化して増幅させる」という能力が存在してもおかしくはないという結論をソラは出した。

 ……アタランテとの会話で、彼女の人間嫌いと男嫌いぶりからして間違いなく好感を持てないはずの相手を好意的に語っていたことで、自分が酷い失敗をしたことを思い知りながら。

 

「君のしようとしていることは無意味だ。

 あの子は、ジャックは既に救われてる。そして救ったのは、君じゃ無くてアバキさんだ。アバキさんが、ただ特に理由もなく、救いたいとも思わずあの子が伸ばした手を掴んだからこそ、ジャックは誰にも付け入る隙なんかないくらいに救われてるんだ。

 君が今更何をしても、それは君の自己満足による横やりでしかない」

「黙れっ!! 貴様は、何を見てそんなことが言えるのだ!?

 あの女はジャックの首に手をかけた! 殺そうとしてたのに、殺されそうになっていたのに、それなのにジャックはあの女に救われて、どうして私が邪魔者になるのだ!?」

 

 ソラの言葉に食って掛かり、魔獣の腕をがむしゃらに振るいながら自分の何が間違えているのか、アバキのどこがジャックの救済なのかを問い詰める。

 問いながら、アタランテは記憶を呼び戻す。思い返してしまう。

 今はまだ、感情のフィルターが分厚くかかっていてありのままの事実が見えていない。

 

 アバキがどんな顔で、ジャックの首を絞めていたのか。

 ジャックは首を絞められて、どうしていたのかは全部、アタランテの望んだ通りにねじ曲がった記憶で再生される。

 だけど、人は自分自身に嘘はつけても隠し事は出来ない。

 フィルターによって隠れて、ねじ曲がった記憶の奥には必ず、どんなに眼を逸らしてもなかったことには出来ない事実がある。

 

 だからこそ、憎悪と憤怒で滾れば滾るほど、その奥の事実が不安を、罪悪感を滲ませる。

 その滲み出た感情がゆっくりとだが確実に、一枚一枚と分厚く重なったフィルターを本人も無自覚の内に溶かしてゆく。

 

 操作系能力者によって思考や体のコントロール権を奪われていたのなら話は別だが、ソラの推測どおりならこの能力はあくまで「相手の特定の感情を強化して増幅」させているだけで、ターゲットの行動の操作など全く出来ていない。

 感情を数値化し、頭に血が昇って理性が消失してもうそれ以外のことが考えられなくなる感情の閾値が100だとしたら、1程度にしか思わないはずの感情を100倍にすることで、本来ならキレないタイミングで瞬間沸騰させて暴走させているだけ。

 

 そして逆に言えば、この能力は感情を強化させるだけで相手に懐いて欲しくない感情を懐かせないように防ぐことは出来ないのは、アタランテで確認済み。

 彼女は奴のことを比較的好意的に語りながらも、「気に入らない」とも確かに思っていた。

 その嫌悪感は通常よりは小さくなっていたが消えていなかったことから、せいぜい強化した感情でその他の湧き上がる感情から眼を逸らすことくらいしか出来ないのだろう。

 

 アタランテの今現在、頭も胸の内も全て占める感情と思考は間違いなくアタランテ自身のものだが、同時に犯人にとって懐いて欲しくない感情や思考だって封じることなど出来やしないし、そして感情を強化して増幅させているオーラも無限ではない。

 強化系なら放出系も得意なはずなので燃費は非常にいいのが厄介だが、それでもいつか必ず彼女の頭に寄生するように掛けられた能力は、そこに残留しているオーラを使い果たせば消えるはず。

 だからソラは、アタランテの憎悪と憤怒を煽りに煽ってさらに増幅させてゆく。

 

「そんなのも言われないとわからないってのが、見えてた事実を捻じ曲げて気付けてないことが、君のしていることは自己満足っていう証拠だろ!」

「だまれぇぇぇっっ!!!!」

 

 そんなソラの意図などわからぬまま、ソラの意図通りにアタランテの憎悪は天井知らずに膨れ上がる。

 

「お前も、あの子を、あの子たちを切り捨てるのか!?

 法だの規則だの証拠だのというまどろこっしいものの為に、目の前で苦しんで、今にも失われそうな命を見捨てるというのか!?

 お前は知っているはずだろう!? お前が私に教えたんだろうが!! あの子たちはただ、生まれたかった、生きたかっただけの幼子だと!!

 その幼子を、何の罪もない善良で無垢な守るべき子供を、どのような理由があったとしても手に掛けるような者が救済だなんて認めるものか!!

 私が! 私が手を伸ばしてやらねば! 私が手を汚してでもあの女から引き離さなければ、あの子たちのただただ当り前な望みすら叶わないというのに、何故貴様は私の邪魔をするんだ!?」

 

 魔獣の毛皮からわずかに見える口元から、頬を伝って顎から雫が滴り落ちるのが見えた。

 泣きながら、慟哭しながらアタランテは訴え、問いかける。

 ソラの言葉に憎悪しながら、憤怒しながらも、「どうして?」と問う。

 

 自分の味方だったのではないか、と。

 どうして自分の願いを否定するのか、と。

 

 憎悪と憤怒に押しつぶされて、塗りつぶされて見えていなかったはずの不安と罪悪感が徐々に無視できなくなってくる。

 

 ソラに煽られたことで、ブースト無しでも爆発するほどの感情をさらに増幅させられたことでアタランテに掛けられたオーラは消耗されてゆく。

 憎悪と憤怒が増幅されているからこそ、それと一緒に湧き上がる感情が、本当は自分の言っていること、していることが無茶苦茶であることをわかっているからこそ、ソラが正しいことをわかっているからこそ生まれ出る罪悪感も増幅してゆき、それはブースト無しでも無視できないほど大きくなっている。

 

 ……だからこのまま、アタランテの攻撃を避け続けるだけでも良かった。

 これだけ罪悪感が大きくなれば、ソラ自身の命の危険もかなり低くなっている。だから、煽りに煽った侘びとしてアタランテの増幅された感情の、ストレスの吐け口になって、掛けられたオーラが完全に消えるまで付き合ってあげても良かった。

 

 けれど、それをしてやるには時間がない。

 

 この騒ぎに奴が気付いていないのなら、まだ猶予はあった。しかし奴は、ニヤニヤ笑いながら観戦していた。

 アバキとアタランテが共通して関わった能力者など、限られているどころかソラを除けば奴しかいない。もう自分が犯人だと気付かれていることくらい、向こうも気付いているはずだ。

 このままアタランテの感情の発露に付き合っていればいるほど、犯人がこの町から逃げ出す為の時間を与える。

 

 もう誰が犯人かほぼ確信しているのだから、逃げられてもハンターとしての情報網や人脈を駆使して、そして金に糸目を付けなければ捕えることは容易い。

 だが、相手は何らかの目的があって事件を起こしていたのではなく、なんとなくの暇つぶしでしかなかった愉快犯。

 

 その捕えるまでの間、逃亡することに全力を尽くすことに能力を使われても十分すぎるほど厄介だが、それ以上にやりかねない最悪は、どうせ捕まるならという自棄を起こすこと。それがどれほどの被害になるかは、想像がつかない。

 そういう自棄を起こすタイプ、もしくは逃亡中でも獲物を見つけたら我慢できないタイプだと、ソラはわざわざ騒ぎを観戦しに来たことと、あの墜落間際に見た笑みで確信している。

 

 アタランテに能力を使っていなければ、ソラだって怪しんでも確証は得られなかったのに、奴はアタランテにも能力を掛けて、特定の感情を瞬間沸騰して暴走するように仕掛けた。

 誤魔化す為という意図はもちろんあっただろうが、自分に対する好意的感情よりも憎悪と憤怒をより強化して増幅させているのは、どう見てもアタランテが暴走してしまった後の、理性を取り戻した時の絶望を期待していたとしか思えない。

 

 悪趣味極まりない愉快犯だからこそ、早急に捕えなくてはいけない。

 だから、ソラは舞台に上がってやった。

 

「取り返しのつかないことをして欲しくないからだよ!!」

 

 アタランテの悲鳴じみた問いに、吐き捨てるように、血を吐く想いで答えながら彼女の振るう腕を避けずに捕えた。

 腕を捕えた瞬間、クルリと彼女に背を向けるように反転して、そのままアタランテの腕を掴んだまま姿勢を倒す。

 アタランテも何をされそうになっているのかに気付いて足を踏ん張り、掴まれていない方の腕を振るうが、無防備に見える背中が、背中越しでも見える自分が傷つけた頭の傷、両腕の傷が、憎悪と憤怒を増幅させているオーラに染まらず、罪悪感としてにじみ出て、振り上げた手を下ろすことを躊躇わせ、足には力が入らない。

 

 本当はわかっている。

 自分のしていることは、何もかも間違っている。子供の癇癪に過ぎないことをしていることくらい、わかっている。

 だから、アタランテはそのままソラに背負い投げられて、地面に背中を叩きつけられる。

 

 そしてそのままソラはアタランテを後ろから羽交い絞めにし、顎を掴んで視線を固定させ耳元で言った。

 

「……ごめんね、アタランテ」

 

 その謝罪に、何の意味もないことをソラは知っている。

 ソラは、アタランテの言う通り切り捨てたから。

 アタランテより、見たこともない、いるかいないかもわからない未来の被害者を助けるために、今の被害者である彼女を切り捨てた。

 

「アタランテ。見ろ」

 

 その愉快犯が望んだ舞台に、望み通りの役者として、アタランテに与える。

 アタランテに終幕を、絶望を与える。

 見せつける。

 

 

 

「…………ジャック?」

 

 

 

 そこには、いつからいたのか白いワンピースの裾を夜風にはためかせてジャックが立っていた。

 立って、アタランテを見ている。

 睨み付けている。

 

 今日の昼間、アバキに言動を責め立てた時のようにアタランテを睨み付けて彼女は言った。

 

「お母さんを殺そうとしたな」

 

 その言葉にアタランテは魔獣の毛皮を被ったまま、怯えるように体を震わせた。

 唇を小刻みに震わせて、彼女の方が幼い子供のように今にも泣き出しそうな声で紡ぐ言葉は、「違う……だって……だってあいつは……」という言い訳。

 

 あれだけ加熱していた憎悪と憤怒は、影も形もない。

 アタランテに掛けられていた能力は、能力が特定の感情を強化することで、その感情を何倍にも増幅するもの。

 決して、ゼロから感情を生み出す訳ではない。生み出すのは、アタランテ自身。

 だからその強化されている感情がゼロになってしまえば、ゼロにいくらかけてもゼロなのだから何の意味もない。

 

 出来ることなら、彼女がアバキをどこかに保護して戻って来る前に、アタランテに掛けられた強化のオーラを使い果たしてしまいたかったが、それは叶わなかった。

 だからソラは、残酷な引導を渡す。

 アタランテが眼を逸らさぬように、逃げられぬように抱え込んで、顔の向きを固定させて、見せつけた。

 

 昼間とは違って、怒りではなく憎悪を込めてアタランテを睨み付けながらジャックは、彼女の元へと歩み寄る。

 その眼に込められた感情にショックを受けたからか、アタランテの身に纏っていた魔獣の毛皮(オーラ)がボロボロと剥がれ落ちるように消えてゆく。

 魔獣から人に戻ってゆくアタランテは、もがき足掻くようにうごめくかなり薄くなったシミの浮かんだ顔で、唇を戦慄かせながらも、アタランテは自分の元にやって来てくれたジャックに一縷の希望を見出して、手を伸ばす。

 

「ジャック……。私は――」

 

 しかし、何も言えなかった。

 もう言葉を発することすら、許してもらえなかった。

 

 アタランテの伸ばした手は、ジャックの紅葉のような小さな手で冷たく払いのけられた。

 

 そしてジャックは、穢れない清らかな魂の集合体であるはずの死者の念は、実に人間らしい顔と声で言い放つ。

 

「お前なんて大っ嫌いだ!!」

 

 憎悪と憤怒、そして拒絶を叩きつけられた。

 

 * * *

 

 

 

「……あ……あぁ……ああああああぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!」

 

 

 

 救いたかった者から自分のしてきたことの全否定と拒絶にアタランテは、魂が引き裂かれるような絶叫を響かせて、そのまま気を失った。

 もう、彼女の顔に彼女の感情を本意ではない方向に捻じ曲げ、かき乱していた強化のオーラによるシミはない。

 ジャックの言葉に対しても憎悪や憤怒は確かにあっただろうが、それ以上の感情が心を占め、強化されていた感情はその感情を上回ろうと足掻きに足掻いたが、結局増幅させて塗りつぶすことは叶わず、オーラは完全に使い果たされた。

 

 絶望を上回ることは、どうしてもできなかった。

 

 ぐったりと死人のような顔色で、けれど気を失いながらも涙だけを流すアタランテの顔を見下ろし、ソラも泣き出しそうな顔でその涙を指先で拭って言った。

 

「……ごめんね、アタランテ」

 

 その謝罪に、ジャックは首を横に振った。

 

「あなたは謝らなくていい。悪いのは、初めから全部わかっていたのに何も話さなかった、あなた達に全部頼ろうとした私たちだから。

 ……ごめんなさい。この人だって、お母さんと同じで悪くなんかない。あいつの玩具にされてただけだってわかってる。私たちの為に怒ってくれたのも、私たちを助けようとしてくれたのも全部わかってる。

 ………………けど――」

 

 ジャックは自分のしたこと、しなかったことを、全ては母だけを守ろうとしてソラたちに何も言わぬまま利用しようとしていたことを謝罪して、全否定して拒絶し、絶望させたアタランテに対しても「悪くない」と語る。

 だけど、それでもジャックはスカートのすそを握りしめて、唇を噛みしめて、理性で抑えつけるべき身勝手な本音を口にした。

 

「わかってるけど、あれが本意じゃなかったことはわかってるけど……、それでも私たちはお母さんを殺そうとしたこの人を許せない」

 

 アタランテも母と同じく被害者であったことを理解しながら、母は許してもアタランテは、例え自分を救おうとしてくれていたとわかっていても許せないとジャックは言った。

 あまりに不平等で身勝手な断罪にジャック自身が自己嫌悪して俯いていると、その小さな頭に優しい温もりがポンッと乗った。

 

「許さなくていい。アタランテの言動は本意ではなかっただろうけど、間違いなく本音だった。彼女も、あまりにも身勝手で酷いことを間違いなく彼女自身の意志でやったのだから、君が許せなくて当然だ。

 というか彼女の性格からして、念による感情ブーストがなくても最初の一撃は普通にかましてそうだから、許せないのなら、怒りたいのなら怒っていい。その資格は君にはある」

 

 ソラは、ジャックがアタランテを許さないことを許して、傷だらけの腕でジャックの短い髪を撫でる。

 

「もちろん、アタランテを連れて来て面倒な事態を引き起こした私を怒ってもいい。

 許さなくていい。私たちはまだ、君に許してもらえるようなことをしてないんだから、許されなくて当然だ」

 

 アタランテだけではなく、自分自身も許さなくていいと言い放ったソラに、ジャックは目をまん丸くさせて不思議そうにソラを見つめる。

 そんなジャックの髪をさらにわしわしと乱暴に、力強くかき混ぜるように撫でながらソラは、自分の血にまみれながらも、味方を絶望に叩きつけても、それでも笑って答えた。

 

「ジャック、許さなくていいからどうか私たちに頼って。子供はな、大人に頼って甘えるべきなんだ。お母さんを傷つけたくなかったのはわかるけど、君が傷つくほどに気を遣う必要なんかない。真っ正直に大人に頼って甘えるのが、子供の特権なんだから。

 そして大人は子供に頼られた時、かっこつけることが特権なんだから遠慮なんかするな!」

 

 自分を許さなくていいと言いながらジャックの身勝手さを、ソラ達に何も話さなかったことは軽く叱っているが、利用しようとしていたことは許して、ソラは晴れやかに笑って言う。

 頼っていいと。それを自分も望んでいると。

 ジャックの罪悪感を殺しつくすその言葉と笑みに、ジャックの様々な負の感情がないまぜになって、強張っていた顔がゆるむ。

 

「……変なの!」

 

 そう言ってジャックはおかしげに笑い、ソラも気を失ったアタランテを抱えたまま笑うので、遠巻きに見ていたやじ馬たちは訳がわからずドン引いていた。

 そんなドン引きをこの女が気にする訳もなく、ソラはアタランテを抱えたまま宝石を取り出して傷の応急処置をしながらジャックに言った。

 

「あ、ジャック。悪いけど、元凶の愉快犯の居場所とか家ってわかる? まさかここまで派手な騒ぎを起こしておいて、即行で片付くとは向こうも思ってないだろうから、居場所さえわかればどこでもまだ追いつくから、って言うか絶対に追いついてやるから、わかるんなら教えて」

 

 ソラの頼みにジャックは「大丈夫。わかるしあいつはまだ町の外に出ていない」と素直に応じ、答えてくれる。どうやらジャックは“円”が得意らしく、諸悪の根源の現在地を正確に把握しているらしい。

 そのことに安心していると、ジャックはその居場所を答えながら、何故か少し躊躇いがちに両手を差し出した。

 

 ジャックの行動をソラが「何この手?」と尋ねれば、やはり決まり悪げに「……その人も安全な所に運ぶ」と答える。

 どうやら気を失っているアタランテも保護してくれるつもりらしいが、自分でやっておきながらすごく嫌そうに見える。

 本当に嫌がっているというより、「許さなくていい」と言われても、やはりアタランテに非はないも同然だということを知りつつ、自分は念による感情ブースト無しで身勝手な憎悪と憤怒をぶつけて、彼女に絶望を叩きつけたことに対し、罪悪感が強くあるからこその躊躇いに見えた。

 

 そんなジャックにソラはもう一度手を伸ばして、肩を掴んで引き寄せる。

 そしてジャックの耳元で、内緒話のように教えてやる。

 

「ジャック、言っただろ? 子供の特権は大人に頼って甘えることだ。だから――」

 

 ソラの言葉に、ジャックはまた目を丸くして「いいの? そんなことして」と訊き返せば、ソラは実にいい笑顔で「大丈夫大丈夫! アタランテならやってくれる!!」と気絶してる本人そっちのけの安請け合いをし出した。

 その安請け合いにジャックが唖然としているのをいいことに、ジャックにアタランテを押し付けるようにして渡して、ソラは相変わらず晴れやかに、何の心配もいらないと安心できる笑顔で言った。

 

「だから、ジャック。教えてくれる?

 君の知っていること、わかっていること全部と、君が私たちに何をしてほしいかを」

 

 あらゆる痛みを無視して、かっこつける。

 それが、自分に許された特権だから。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 ガスグラムランドの表通りから少し外れたら、この町の汚い部分がすぐに顔を見せる。

 見た目はこの上なく煌びやかで豊かな町だが、それは表向き、表面だけの話。

 

 カジノが最大の産業という時点で、治安の良さはあまり期待できやしない。

 観光客に見せる表の煌めきを維持するため、汚い部分はとにかく目立たない所に押し込めて臭いものに蓋。

 そんな臭いもの扱いされた町の一角、スラム街をソラは一人で歩く。

 

 もうそろそろ日付が変わる時間に女が一人で歩いていい場所ではないが、さすがにこの女を襲う勇気があるものなどいなかった。

 

 宝石魔術で最低限の止血程度しかしていないので、ソラの全身は自分の血で塗れているし、傷もまだ生々しい。

 傍から見れば満身創痍なので、あらゆる意味で美味しい獲物でしかないはずなのに、スラム街の住人は誰も未知のど真ん中を足早に歩く彼女にちょっかいを変えようとはしない。

 むしろ軽くモーゼの十戒状態で、誰もがソラを避けている。

 

 傷だらけであっても一般人が念能力者であり魔術師であり、そして死神そのものの眼を持つ女であることに気付いているからこその警戒ではない。

 気付けなくても、この女には近づいてはいけないことだけはわかる。

 この女に手を出してはいけない、この女には敵わないと思い知らされるだけの怒気を振りまきながら、ソラが歩いているからこそこの現状。

 

 今のソラに、ジャックに対して朗らかに笑っていた面影はない。

 

 ただひたすらに、ジャックを、アバキを、そしてアタランテを傷つけるだけ傷つけた相手に対する激しい怒りが爆発しないように押さえつけながら、ジャックから聞き出した目的地、「彼」の生家へと歩を進める。

 

 町の中心部からだいぶ離れ、まだここが「ガスランド」という名にふさわしい、天然ガス発掘の為のキャラバン宿営地だった面影を残すところまでやってきたら、そこにぽつんと一軒建つあばら家と言っていいほど粗末な家が見えた。

 

 同時に不快な臭いが漂ってきてソラの表情が歪み、左手で鼻と口元を覆い隠す。

 元々、スラム地区に入った時点で悪臭なんてそこらかしこでしていたが、ここは特にひどい。

 生ごみなどが腐った悪臭だけではなく、この地は元が天然ガスの発掘地なのもあって、使い道のなかった有毒ガスが漏れ出ているのではないかと心配になるほどに、強く、異様な臭いだった。

 

 それでも、ソラは歩みを止めない。

 生理的に近づきたくない悪臭の中に、何の躊躇も迷いもなく進んでゆく。

 

 家の明かりはついていない。

 時間が時間なのと、家も家なので、不在なのか就寝しているのかそれとも空き家なのか区別が全くつかないが、ソラは何の迷いも躊躇もなくその家にスタスタと近づき、鍵など無視してアバキのホテルの部屋と同じくドアをそのまま引っぺがして中に入った。

 

 入った瞬間、響いた。

 

「ひっどいなぁ。こんな夜更けにノックもなく、豪快すぎる不法侵入なんて。びっくりしちゃいましたよー」

 

 やけにのほほんとした、本当に驚いたとはとても思えない言葉より早く響いたのは、銃声。

 その音の元から発せられた弾は、“硬”を施したソラの右手が予知していたかのように動いて、弾き飛ばす。

 

 自分の眉間一直線に飛んできた殺意の塊を前にしても、ソラの顔に変化は一切ない。

 ただ相変わらず悪臭から鼻と口を左手で守りながら、爆発しそうな感情を抑えつけた無表情で、闇の中でも煌めくスカイブルーの眼で見ている。

 

 家の中の暗闇から、徐々に人の形が浮かび上がる。

 右手で銃を構えており、左手は何かを隠しているのか、背に隠して見えない。

 ピエロのメイクを落とした17歳前後の少年が、良くも悪くも特徴のない素顔を晒し、柔和な笑顔を浮かべてゆっくり近づいて来て言った。

 

()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 一直線な殺意を、いきなり家に押しはいってきた相手に対する正当防衛だと言い張る。

 銃声のタイミングからして、とっさではなく完全に狙っていたのは、ソラからしたら丸わかりだ。

 だからそんなくだらない挑発は無視して、ソラは言った。

 

「へぇ、まだ逃げてなかったんだ。まぁ、迎え撃つ度胸があるようには見えないから、腰が抜けて逃げそびれただけだろうけどね」

 

 彼女には珍しい、明らかな蔑みと嘲弄をその顔と声音に浮かべて逆に挑発し返すと、相手の顔もあからさまに引き攣る。

 

「……何のことですか? というか、何でいきなりあなたが俺の家に来てるんですか?」

「ここでそうやって恍けるから、お前は小物なんだよ。

 証拠がないとかほざくなよ。もうそんなのはどうでもいいから、とにかくぶん殴りたいと思わせるほどのことをお前はしたんだから」

 

「小物」という言葉に、また更に顔を引き攣らせながら彼は言う。

 

「ははっ、確かにこのタイミングで恍けても白々しいだけですね。

 ところで、ご参考までにどうして俺が犯人だと思ったんですか? あなた、あのアタランテって人と違って、初めから俺のことをかなり警戒してましたよね?」

 

 その反応にソラの顔から嘲笑が消えて、白けたような顔になる。

「小物」扱いを嫌がる時点で、プライドだけが無駄にある小物でしかないのだから、今更恍けるのをやめても余計に小物にしか見えなくなるだけだということもわからない相手に、もはや八つ当たりじみた挑発さえもする気がなくなってしまった。

 

 だから、白けた顔のまま白けた声で、憐れむように答えてやった。

 

「お前に対する警戒なんて、偏見による勘でしかない。お前のオーラに警戒した訳でもない。

 アタランテがお前に警戒してなかったのだって、お前の思惑通り上手く嵌ったからでも、警戒を忘れたバカだからでもない。私が余計な知識を入れて、先入観を与えてしまった所為だ。私のミスであって、お前のことなんか何も関係ない。

 お前なんて、私にとってもアタランテにとっても一瞬で忘れてもおかしくなかった、どこにでもいるモブキャラBでしかなかったよ」

 

 答えてやるのはそのくだらないプライドに縋るしかない憐みゆえだが、そのプライドを尊重してやる気などない。

 だからソラは、彼を……ジョン自身のことなど歯牙にもかけていなかったという事実を口にして、答えてやる。

 

「お前の『名前』だけなら、多分気付かなかった。『なんかどっかで聞いた覚えがあるな』程度で終わってた。

 けど、お前がピエロの格好をしてたから、簡単に連想できて思い出せたよ。そんで、偏見だとわかっててもどうしても結びつけて、警戒してしまったのが今になっては幸運だ」

 

「お前自身に価値などない」と語るソラに、張りつけた笑顔の仮面をぴくぴく痙攣させながらも引き金を引かなかったのは、ソラは何をもってして自分に警戒したのかが気になったからだろう。

 ソラは答えてやる。

 この世界は自分がいた世界とは、もはや平行とは言えないほど遠い異世界でありながら、間違いなく同じ本流から生じた世界であることを証明するような偶然を。

 

 

 

「……私の世界にな、お前と同じ名前の愉快犯(シリアルキラー)がいたんだよ。

 

殺人ピエロ(キラー・クラウン)』、ジョン・ゲイシーってのがな」

 

 

 

 ソラの答え、「殺人ピエロ(キラー・クラウン)」という名に彼は……同じ名を持つ愉快犯は笑顔の仮面を剥がれ落ちて一瞬きょとんとしてから…………嗤った。

 

 仮面ではなく、心から楽しそうに、愉快そうに、歪みきった醜悪な笑みを浮かべた。

 決して主役にはなれない道化であった自分が主役となった時の名に、喜びを露わにした。






アタランテの念能力は、宝具がそのまんま「神罰の野猪(アグリオス・メタモローゼ)」は変化系の応用で可能だったので、名前もそのまま持ってきました。
作中には登場しませんでしたが、「訴状の矢文(ポイボス・カタストロフェ)」は放出、「天穹の弓(タウロポロス)」は強化系で解釈できるので、これらも本家よりはもちろん威力は劣りますが使える設定。


今回の中編は、「子供」と「サーカス」がメインテーマだったホラー小説を読んで思いついたので、犯人におそらくその元ネタの小説でもモデルだったキラー・クラウンことジョン・ゲイシーを持ってきました。
……が、前回の後書きや活報でも書いたように私は今回の話の後半くらいまでジョン・ゲイシーをエド・ゲインと混同してました。なので、初期の彼の名前はエドでした……。

今のところ前回の話で誤字報告は来てないので、ちゃんと修正出来てたようで何よりです。


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