死にたくない私の悪あがき   作:淵深 真夜

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 ――夢の話をしましょう。

 意味なんかないわ。
 ただの、絶望しながらも夢を綴り続けた作家の真似事よ。

 そもそも、夢に意味なんて求めてないでしょう?
 意味なんてない。見たいから見ただけ夢。

 ただそれだけで始まった、懐かしくて淡い過去(ゆめ)の話をしましょう。




94:夢の始まり

 短い黒髪を懐かしいと思いながら、それが何故懐かしいのかという考えには思い至らない。

 過去と未来が交錯するちぐはぐな記憶と思考に何の違和感も懐かず、クラピカは横たわるソラに言った。

 

「ソラ。お前のその眼は、緋の目と同じようなものなのか?」

「? ヒノメ? 何それ?」

 

 互いの自己紹介……といっても名前を名乗るだけだったが、それを除けば最初のまともと言える会話はこれだった。

 今思えば、まともと言えるかどうかはかなり微妙なところであり、そしてその会話もやはり歪みなく気が抜ける返答で終わった。

 

 この場合、ソラの方には珍しく非はない。

 自分を助けた後にぶっ倒れてた相手へ起きて早々、「大丈夫か?」と体調を案ずるよりも先に訊くことではないし、彼女の様々な事情を考えたら「何それ?」以外の返答など出来る訳もなかった。

 

 しかし、当時の人間不信真っ只中なクラピカからしたら、唯一信じてもいいと思えた理由を「何それ?」扱いはかなり癇に障った。

 思い返せば思い返すほどに当時の自分は本気で何様なのか、首を絞め上げながら問い詰めたいほど傲慢な思考だが、他者を思いやる心が擦り切れていた当時のクラピカは全く自分の無礼さを自覚しないまま、横たわるソラに失望の眼差しを向けて言葉を続けた。

 

 ……失望していながらも、彼女から肯定の言葉を期待して縋り付いていた。

 当時の自分の傲慢さは、寂しさを隠すための虚勢でしかなかった。

 信じてもいいのではなく、信じたかった。

 信じて、頼って、甘えたい人が欲しかったから、クラピカはさらに問うた。

 

「……緋の目はその名の通り、緋色の目のことだ。

 クルタ族は知っているか? クルタの場合は緋色だが、お前の目と同じように色が変わる。お前も、そのような体質だから逃げ隠れているのではないのか?」

 

 クルタ族ではないことは、初めからわかっている。

 けれどあまりに同胞の面影を色濃く持つ眼だったから、もうこの世で自分一人しかいないと思っていた「眼の色が変化する者」だったから、クラピカは相手が自分と同じような一族であり、そしてこんなスラム街の片隅で倒れるほど衰弱している理由も、自分と同じようなものだと思い込んでいた。

 

 これに関しては、ソラも悪くないがクラピカはもっと悪くない。ソラ側の事情など、世間知らずも人間不信も関係なく想像できる訳がないのだから、クラピカの推測の方が自然である。

 自然なのだが、クラピカは自分の推測は根本からして間違えていることを、横たわったままのソラがややポカンとしながら聞き返した言葉で理解する。

 

「……は? ……私の目、色が変わるの? ……何で?」

「…………はぁ?」

 

 まさかの、色が変わること自体を自覚していなかったことが明らかになり、クラピカから失望すらも吹き飛んで呆れたような、戸惑うような声が上がる。

 その声と顔を見上げて、ソラのポカンとした顔が変化する。

 

 まだ起き上がれるほど回復していなかったので非常に弱々しかったが、それでも確かに笑って彼女はクラピカの頬に手を伸ばした。

 クラピカよりはマシだが、酷くかさついて汚れた指先で彼の頬を愛しげに撫でながら、今度は唐突な笑顔とその手の温かさに戸惑うクラピカへ、彼女は申し訳なさそうだが確かに笑って言った。

 

「ごめんね。君と同じじゃなくて」

 

 ソラはクラピカ側の事情など、ほとんど何もわかっていなかった。

 だけど、彼が自分の「眼」に対してとてつもなく執着していることだけは、そしてその執着の理由だけは察することが出来た。

 自分の意味も価値もなく、それでも「死にたくない」とだけ望んで得てしまった眼に、意味を、価値を、ソラが生きることを望んでくれる理由を見出したことだけはわかった。

 

 だから、ソラは謝った。

 彼が面影を見て、欲したものとは色が違うこと、彼とは違って後天性であること、……彼がこんなにも怪しさしかない相手でも縋り付いてしまう程、抱えた孤独の理由に共感が出来ないことをソラは謝った。

 

 その謝罪に、今度はクラピカの方がポカンと呆気に取られる。

 

 ソラの予想外な謝罪によって思考が一旦リセットされると、彼女に対して抱いていた「同類かもしれない」という期待、そんな期待が外れた失望やその失望による苛立ちといった感情も一緒にリセットされてしまう。

 そして再起動によって取り戻した冷静さが、自分を助けてくれてそのまま倒れた相手にどれほど理不尽なことを言ったり思ったりしているのかを理解してしまったクラピカは、頬を撫でるソラの手を振り払って、やはり理不尽に怒って言い返した。

 

「あ、謝るな! お前が何で謝らなくちゃいけない!?」

 

 どう見ても完全な逆ギレをかますクラピカに、ソラは振り払われた手を引っ込めて事もなげに言い放った。

 

「いや、申し訳ないよ。だって『いいよ』って言ったのに、助けるどころか気の利いたことすら全然言えてないからさ」

 

 その返答に、もう一度クラピカは目を丸くしてソラと向き直る。

 照れ隠しで、意味などない意地で眼を逸らして彼は見ていなかった。

 自分がソラの手を振り払った時、彼女の眉根は痛みをこらえるように歪んだことなど、クラピカは知らない。

 

 向き直った時には、彼女は少し困りつつも、何もかも許すように笑っていた。

 

 あまりにも優しい笑顔にまたしてもクラピカは呆けながら、何故こんな笑顔を自分に向けるのか、こんな笑顔を浮かべることが出来るのかが理解出来ず、その疑問が自然と零れ落ちる。

 

「……お前は、本気で言っているのか?」

 

 クラピカの問いに、横になったまま不思議そうにソラは首を傾げた。

 それだけで、その問いの答えとしては十分だった。

 本気で、泣いて縋り付いたクラピカの「助けて」という懇願に応じる気であること。それは改めて問われるとは思っていなかったほどに、彼女にとって当たり前のことだと理解すればするほど、余計に訳がわからない。

 

 だから、さらにクラピカは重ねて問う。

 

「……何故だ?」

 

 クラピカの解釈が間違っていない証明に、ソラはもう一度首を傾げて「何が?」と問い返す。

 彼女は何もわかっていなかった。

 何故、つい先ほど出逢ったばかりの、それも助けてくれた相手ではなく自分が助けた相手、それなのに理不尽な八つ当たりばかりしている子供なんかの「助けて」という懇願を、当たり前のように、改めて訊かれるとは思わないほど自然に、その懇願に応えて実行しようとしているのか、その理由を求めているということをソラはわかっていない。

 

 だから、訊いた。

 

「……何故、お前はオレを助けるんだ?

 オレとお前は……ついさっき会ったばかりで……お前がこんな所で衰弱してる理由がオレと全然違うのなら、オレを助ける理由なんかないだろ?

 同情や共感ではなく、オレを助けようとするのは……オレの『助けて』に応じた理由はいったい何なんだ?」

 

 泣いて縋ってしがみついたくせに、クラピカはソラの「いいよ」という言葉を信じてなどいなかった。

 信じたくなかった。信じるのが怖かった。

 

 それはあの日、「外の世界」に夢見て親友と共に試験として訪れた町での出来事。

 ならず者に絡まれた自分たちを庇ってくれた、助けられなくてごめんと謝って、ぶちまけられたパイロの貯めていた金を拾い集めてくれた優しい人たちが、自分の眼を見た途端、怒りで緋色に染まって自分の歳も体格も倍近くはあったならず者に反撃した途端、手のひらを返して化けもの扱いされた時に負った傷。

 

 冷静に考えたら、あの人たちは眼の色が変わること自体に恐れたのではなく、大の大人でも手が出せない程の力を持ったクラピカに、そしてその力を感情にままに暴走させて暴れた自分を恐れていたことはわかっているし、恐れられて当然であるのも理解している。

 

 けれど、それでも……「どうして?」という思いがクラピカの胸の内で燻り続ける。

 

「赤目の化け物」と呼び、石を投げつけた老婆。

 パイロの金を拾い集めてくれていた時は、ならず者の方を疎ましそうに語っていたのに、クラピカが「赤目の化け物」だと知った途端、ならず者とは比べ物にならぬほど忌々しそうな眼で見た。

 

 そしてその老婆にしがみついて止めていた、孫らしき女性は泣き叫んでいた。

「こっちが殺される」と、クラピカの為ではなく自分たちの為、老婆の為に、石を投げるな、危害をくわえるなと泣いて縋り付いて止めていた。

 

 あんなにも優しく見守っていてくれた、見守ってくれていると思っていた人たちに、同胞と同じくらいに好きだった、好きになりたかった人たちに「化け物」扱いされた苦い記憶が、自分で縋りついていながら信じられない、信じたくないという矛盾した予防線を敷く。

 信じないことで、自分の期待が裏切られない、また化け物扱いされても傷つかないと思い込もうとした。

 

 なのに、ソラという人はその予防線をあまりにも軽々と踏み越えて、クラピカの心の一番柔い部分に触れる。

 

「…………お礼、かな?」

「………………礼?」

 

 化け物呼ばわりされた瞬間、どうしてそんな風に言われるのか、どうしてあんな目で自分が見られるのかが理解出来なかったが、その時以上にソラの返答は理解出来なかった。

 理解出来ない、納得できない、説明もされない、けれど受け入れるしかなかったあの時と違い、この理解出来ない返答の理由をソラは答えてくれた。

 

 緋の目を見るまで、普通の子供だと思われていた時に向けれていたものと同じ眼差し……、あの時の彼女たちよりもはるかに深い慈愛の眼差しで真っ直ぐにクラピカを見て、ソラは語る。

 

「んー……私さ、周りが年上ばっかりで助けられてばっかりだったから、誰かを助けたのって君が初めてなんだよね。それで、君が怖がらずに逃げないで私に縋って、頼って、『助けて』って言ってくれた時、私でも役に立つんだ、私は生きててもいいんだって思えたんだ。

 だから、そのお礼」

 

 お礼をすべきのは誰がどう見てもクラピカの方なのに、それなのにソラは「私に助けてと言ってくれた、頼りにしてくれたお礼」と言い切って笑った。

 その笑顔が、その理由がなおさらに理解出来なかった。納得など余計に出来ないものだった。到底、受け入れられるものではなかった。

 

 けれど、クラピカは…………

 

「……お前、変な奴だって言われてないか?」

「え? 言われてないと思った?」

 

 理解出来ない。納得出来ない。受け入れられない。

 けれど、それでも、だからこそ――信じたかった。

 

 理屈ではなく、そうであってほしい、そうでありたいという願いを、傷つかない為の予防線を張ることで、守り抜いていながら腐ってゆくしかなかった理想という願いを思い出した。

 正しく生きていれば、同じくらい善良な誰かが必ず助けてくれるという世界は、物語だけではなく現実にもあると信じていたことを、思い出してしまった。

 

 だからこそ、信じたくなった。

 どんな事情かは知らないし想像もできないけれど、自分と同じような眼を持ち、同じくらい衰弱していながら、自分が諦めて捨てたつもりだったものを大切に抱えている人であることを知ったから……信じてしまった。

 

 同胞に似た人だからではなく、そして自分に似ているからでもない。むしろ、自分とは似ても似つかない人だと思った。

 

 自分よりはるかに強い人だと思った。

 どれほど傷ついても人の善性を信じて手放さない彼女を「強い」と思い、その強さを欲した。

 

 ――ソラ=シキオリという人のことを、知りたいと思ったのはこの瞬間。

 

 助けを求めた相手に、まるで自分が助けられたように笑う綺麗な笑顔に惹かれた。

 ……自分で振り払ったくせに、あの自分の頬を撫でた体温が離れてしまったことを惜しいと思ったのは、きっとこの瞬間だった。

 

 緩やかに腐り果てて死んでゆくはずだった「夢」が、再び息を吹き返す。

 クラピカの閉じこもっていた「殻」が、ひび割れた。

 

 * * *

 

「……ろくなものはないが、少しは口にしろ。いつまでたっても回復しないぞ」

「あー……。ごめん、無理。遠慮とかじゃなくて、今はまだマジで固形物は無理。吐いて余計に体力消耗するから、甘えていいのなら水分だけよろしくお願いしたい」

「……わかった。……遠慮でないのならいい」

 

 ソラと出会って丸一日が経過したが、はっきり言ってソラとクラピカは全く打ち解けてなどいなかった。

 打ち解けるも何も、会話らしい会話をほとんど交わしておらず、むしろ最初よりどこか寒々しい距離が出来ていた。

 

 会話をほとんど交わしていないのは、ソラが未だに回復したと言えるような状態でないのがまず第一。

 話しかけたら無駄にべらべらとしゃべるが、どう見ても顔色は良くないのでその冗長な語りは具合の悪さを誤魔化していること、そしてその誤魔化す理由は自分に気を遣っていることくらい、クラピカは気付いていたからあえて特に何も言わず、そっとしておいた。

 

 しかしそれはソラに対する気遣いというより、そちらの方がクラピカにとっても都合が良かったからそうしてたに過ぎない。

 クラピカはソラを「同胞に似た人」という身勝手な身代わりとして見るのではなく、ソラという個人を好ましく思い、信じたくなったからこそ逆に何を話せばいいのか、何を訊いたらいいのか、どのように扱ったらいいのかがわからなくなってしまった。

 

 ただでさえ同胞は全て親戚という狭くて密接した特殊なコミュニティの中で生まれ育ったのと、そのコミュニティを一番最悪な形で失った人間不信も合わさって、元々上手いとは言えなかったコミュニケーション能力がゼロどころかマイナスになっていることも、ソラに対して散々やらかした理不尽極まりない言動で死にたいと思いながら自覚した。

 特に「遠慮のいらない身内」でも「表面上の付き合いさえ出来ればいい他人」とも違う、「信頼したい、信頼してほしい人」に対して、何をどう言ったらいいのかが本気でわからなくなっていることにクラピカは愕然とする。

 

 相手が自分にしてくれたように、してくれているように、思いやって気遣いたいのに、出てくる言葉はかわいげなど一切ない言葉ばかり。

 せめて彼女の消耗した体力を少しでも回復させたいが、こんなスラムの片隅かつソラ相手でもまだ完全には心を開いたとは言えないクラピカが、ソラでも食べれそうな栄養豊富な食事や、温かい寝具などを用意できる訳がない。飲み水を確保できているだけマシな方だ。

 

 眼を抉られそうなところを助けてもらったという時点で、一生を掛けても返しきれるかどうかわからない恩がある相手に、弱くて何も出来なくて何も持っていない自分に嫌悪して、また理不尽だと思いながら苛々してゆくのをクラピカは感じていた。

 

「……どうしたの、クラピカ?」

 

 クラピカの苛立ちを察して、ソラは寝返りを打ってクラピカに尋ねる。

 男にしても女にしても美しい稀有な美貌に色濃い隈を落としながらも、それでも彼女は朗らかに笑って言う。

 

「眠いのか? 私は大丈夫だから、君も少しは休みなよ。私の看病ばかりして休んでないと共倒れになるから、君も遠慮なんかするな」

 

 言いながら、ソラは自分に掛けられていた毛布とも言えない粗末な布をクラピカに渡そうとして来たので、それを乱暴に、押し付けると言った方が正しい勢いでクラピカは押しとどめる。

 

「…………遠慮などしていない! お前はオレのことよりも自分のことだけ考えてろ!」

 

 言ってすぐにまた自己嫌悪するとわかっていながらも、爆発した感情のままにクラピカは声を荒げる。

 かろうじて一応言っていることは、彼女に対しての心配や気遣いに取れるセリフに留まって、本音は何とか胸の奥に飲み込むことが出来た。

 

 だけど、自分の顔は間違いなく本心を隠しきれていない。

 ソラの夜空色の瞳に映るクラピカの顔は、怒っているのではなく今にも泣き出しそうなあまりに情けない顔をしていた。

 

 その顔を見て、また更に自己嫌悪が積もる。

 怒っているのなら、まだ良かった。理不尽ではあるが、ソラ自身が自分を大切にしないことに対して怒っているのなら、それは本心から彼女を心配している証明であるのだから。

 

 相手に恩義を感じているのに、その恩を返したいと思っているのは本当なのに、クラピカの本音は、恩返し以上にしたいことは、この目の前の今だ起き上がることが出来ない、むしろさらに衰弱していっているソラに縋り付いて甘えることであることを思い知らされる。

 

 自分のことを顧みずクラピカのことを気遣ってくれたこと、毛布を当たり前のようにクラピカに渡そうとしてくれたことが、泣きたくなるぐらい嬉しかった。

 実際に疲れているとか眠いとか関係なく、その言葉に甘えたかった。いや、遠慮など本気で失くしてしまえば、一人で寝るのではなくソラと一緒になって眠りたかった。

 

 そこにソラから毛布を奪う訳にはいかないという気遣いなど、一切ない。

 ただクラピカは、幼子のように誰かの体温に包まれて、何の心配もいらないという安心感の中で眠りにつきたかった。一年前に失った、永遠にもう取り戻せない、手に入らないと思っていたものが手に入るかもしれないと、図々しく期待してしまった。

 

 そんな幼児返り同然の願望も、ソラに縋るだけ縋って何も返せない自分自身も、そして理不尽だとわかっていても自分を甘やかそうとして来るソラも気に入らず、だからと言ってこれ以上の逆ギレと八つ当たりは、また更に自己嫌悪を肥大させていくだけであることもわかっているからクラピカは何とか口をつぐみ、まだ半分くらいは中身が残っているペットボトルを引っ掴んで、「水を汲んでくる」とだけ言ってその場から離れた。

 

 クラピカは気付かなかった。

 頭に昇った血を何とか下ろそうとすればするほど、自分の情けなさばかりを思い返して周りを見ても聞いてもいなかったから、気付かない。

 

 自分の背後で、ずるりと粘着質な何かを引きずるような、もしくは粘着質な何かそのものが這いずっているような音がしたことも。

 弱々しくも、「クラピカ」とソラが彼を呼び止めたことも気付かないまま、パイプがひび割れて飲料水として使える水が漏れ出ている場所まで歩いて行く。

 

 ソラが、眼の色を言葉通り変えて起き上がり、壁にもたれかかるようにしながらも自分の後を追ったことなんか、知らなかった。

 

 * * *

 

 既にスラム街でなくともクラピカぐらいの歳の子供が出歩くべきではない時間だったが、もう浮浪児としてそれなりの月日を過ごしてきたクラピカは、スラム街は夜中だろうが早朝だろうが真昼間だろうが治安は変わらないことを学習している、下手すれば街燈も整備されていないからあたりは真っ暗なので、ならず者や犯罪者から見つかりにくし逃げやすいくらいだ。

 

 しかし、警戒心をいつもより大分おろそかにしていたのはあまりにもうかつだった。

 いや、この場合はいつもと同じかいつも以上に警戒していてもあまり意味はない。

 

 そんなことも知らないで、クラピカはペットボトル片手にノロノロ歩きながら溜息をつく。

 彼女から離れたら少しは気分転換になるかとも思っての行動だったが、苛立ちこそは納まったが後悔と自己嫌悪は納まった苛立ちの分だけ大きくなるだけだった。

 

「……オレは、いつまでたっても学習しないバカだな」

 

 頭に血が上りやすい自分の性格を自覚していながら、その性格ゆえにトラブルを起こしたり大きくしたりなど数えきれぬほどあるというのに、全く改善できていない自分が嫌で嫌で仕方がない。

 ……その性格を母親似だ自分似だと言って笑ってくれる両親も、短気なだけなのに「どこまでも真っ直ぐに貫ける強い芯を持ってる」と言ってくれた親友だってもういないことを思い知らされ、余計に自分自身を殺したい気分になる。

 

 どうして、自分一人だけ生き残ってしまったのか。

 どうして、同胞も両親も親友も自分の側どころか、この世のどこにももういないのか。

 

 どうしようも出来ないことばかり、答えなどわかりきっているのに納得できない、したくないばかりにクラピカは何度も何度も誰も答えてくれない問いかけを続けながら、夢想する。

 

 もしも、無期限で外に出ることを許されたのが自分ではなく、パイロだったら。

 生き延びたのが、パイロであったらという夢想。

 

 ソラと出会ったのが自分ではなく、自分とは違って理不尽な目に遭っても耐え忍び、他者を思いやることが出来るパイロだったら……。

 

「……パイロだったら、少しは安心して休ませることが出来ただろうな」

 

 呟いて、脳裏に浮かんだのはソラの朗らかで優しい、けれどあまりにも弱々しい笑顔。

 もう既に彼女と出会って丸一日近く経っているが、彼女はほとんど眠っていないことをクラピカは知っている。

 

 初めの気絶だって、1時間足らずで意識を取り戻した。それから、彼女はほとんど寝ていない。

 何故か彼女は、寝ようとはしない。眠そうであればあるほど、無理やり瞼をこじ開けていた。

 寝たかと思えば、5分足らずで飛び起きていた。起き上がる気力もないはずなのに、飛び起きては荒い呼吸で周りを見渡して、眠りにおちる前の光景であることを、これが現実であることを確認して安堵していた。

 

 明らかに酷い悪夢を見た時の反応だったので、さすがに自己評価が最低値のクラピカでも「自分を信用してないから、警戒して寝ないんだ」という勘違いはしなかったが、それならば余計に自分が何をすべきなのか、どうしたら彼女が少しでも安らかに眠って、体力を回復させることが出来るのかがわからず、無力感に苛まれる。

 

 どんな悪夢を見ているのかすら知らない、それを訊いてもいいのかどうかすらわかっていないのに、パイロなら自分と違って何とかできるという期待は、普通にパイロからしても買い被りのいい迷惑なのだが、思考がどんどん自分を責める方ばかりに向いているクラピカはそんなことにも気付かず、俯いたままずっと思っていたことが唇から零れ落ちた。

 

「…………何で、オレは生きてるんだろうな」

 

 クルタ族が虐殺され、自分一人だけが生き残ってしまったと知った時から抱いていた、抱いてしまった疑問にして、この同胞がいない世界から逃げ出したいという願望。

 

 一人だけ生き残った自分を責めに責めぬいて、涙も慟哭する声も枯れ果てるほど泣いて、その答えは得たはずだった。

 同胞の無念を晴らすため、外道どもの慰みものになっている同胞を取り戻すために自分は生きている。

 自分に残されたこれからの人生は全て、復讐と同胞の眼を取り戻すためにあるという結論を出したはずなのに、その答えが今、酷く揺らいでいる。

 

「助けて」という懇願に、「いいよ」と応えられてしまった。

 1年前までパイロと抱いていた、1年前に奪われて壊されて失われたはずの「夢」をもう一度、彼女に見てしまった。

 彼女と……ソラと一緒なら、パイロとの約束を、「楽しかった?」という問いに「うん」と答えられるような、幸福な旅路に至れるのではないかと思ってしまった。

 

 ……その「夢」は、今はもう自分をどんな苦難からも立ち上がらせ、後押ししてくれるものではない。

 むしろ、ただ一人生き延びた、それも先に長老が八百長を働こうとしていたが故に起こったトラブルとはいえ、そのトラブルの所為で本来なら不合格だったはずなのに、パイロの策で合格をもぎ取ったからこそ生き延びたことに対する、背負いきれないほどの罪の意識をさらに重くさせるものと化している。

 

 目を閉じれば、空っぽの眼窩に人の原型を留めていれば良い方なほどに壊された同胞たちが、口々に生き残りを、クラピカを責め立てる。

 

「何でお前だけ」

「嘘をついて試験に合格して逃げ延びやがって」

「卑怯者」

「お前が幸せになるなんて、許さない」

 

 それは同胞の亡霊ではなく、クラピカ自身の声であることだってわかっている。

 自分が逆の立場なら、その生き残りが旅団にクルタ族を売った裏切り者ではない限り、生き延びてくれたことを喜び、いっそクルタ族のことを忘れて幸福に生きることを望みこそすれ、復讐の為に自分の幸福を全て捨ててその手を汚して生きていくことなど絶対に望まない。

 同胞の全員が全員、クラピカのように思うとは限らないが、それでもクラピカが特に喪失感に耐えられない、奪った奴らを許せないほど大切な人たちは、もういない自分の為にクラピカの生を縛ることをよしとする人たちではない、そんな人たちだから喪ったことが耐えきれないからこその罪悪感だ。

 

 幸福を得てしまえば、自分はその罪悪感に耐えきれず死を選ぶかもしれないのに、しかし自分の不幸に邁進する生き方が本当に大切な人たちを悲しませる生き方であることもわかっている。

 自分が1年前に出した答えなど、生き延びた罪悪感からも、生きているのに幸せになれない罪悪感からも眼を逸らす為だけのものであることなんか、初めからわかっている。

 だからこそ、クラピカはソラと出逢ったことで、「夢」を取り戻してしまったことで、身動きが取れなくなってしまった。

 

 生きてゆきたいからこそ、どうやって生きればいいのかがわからなくなってしまい、その場に立ち尽くす。

 

 こんな袋小路に嵌って出れなくなるくらいなら、いっそ同胞たちと同じ結末を至りたかったという最低な逃避を夢想してしまった。

 

 その夢想が、(うろ)が、呼びこんだ。

 

『じゃあ、わだじにぢょうだい?』

「え?」

 

 女の声がした。

 スラム街という土地柄、女の住人は少ないがいないことはない。だから、物乞いだと思った。

 物乞いだと思ったのなら、人間不信中かつ何かをやれるほどの余裕なんかクラピカだってないので、いつもなら無視して足早に立ち去るのだが、思わず振り返った。

 

 それは、水の中でしゃべるように酷く濁って不鮮明な、あまりにも奇妙な声だったから思わずとっさに振り返ってしまった。

 

 振り返った先は、夜闇に眼が慣れても5メートル先ほどしか見えない。

 人影らしきものは見えず、クラピカは薄気味悪そうだが「気のせいか」と結論付けてまた歩き出そうとした時、びちゃりと自分の足首を後ろから湿った粘着質な「何か」が掴んだ。

 

「!?」

 

 目を見開き、もう一度振り返る。

 今度は視線を、足元に向けて。

 

 自分の足を掴み、そしてそのまま縋り付くように絡みついて這い上がろうとしているものをクラピカは、見た。

 

『いらないのなら、じにだいのなら、いぎでいげないのなら、いぎるいみがないのなら、わだじにぞのがだらをぢょうだい?』

 

 溶け崩れかけた泥人間のような、しかしそれは泥ではない、強烈な腐敗臭に空っぽの眼窩とむき出しの歯の奥、口の中から白い蛆がうごめくそれは、もはや性別など判断できぬほど腐り果てた肉であることを、クラピカは一拍間を置いて理解した。理解してしまった。

 

「!? っっっっっっっっ!!」

 

 上げかけた絶叫をとっさに手で口を押えて堪える。

 声を上げたくなかったのではない。腐った腕をクラピカの口に伸ばしたから、まるで自分自身をクラピカに食わせようとしているその行動に、本能が反応して防いだだけだ。

 

 クラピカはこの自分に縋り付いている腐乱死体にしか見えないものが何なのか、自分は今一体どういう状況なんかが理解できないまま、必死に口と鼻を手で押さえながら、しがみつく死体を蹴りつけて引きはがそうとするが、相手はもはや半液状になっているので、いくら蹴っても泥のような肉がべちゃりと辺りにぶちまけられるだけで、クラピカから本体らしき死体が離れることはない。

 

 そしてパニックに陥ってがむしゃらに蹴り続けるクラピカは、そのま死体がを汚泥のような腐った肉にクラピカを取り込むようにしがみつかれて、そのままバランスを崩して転倒してしまう。

 転んで背中と後頭部を地面に打ち付けたが、それでもクラピカは口から手を離さない。

 

 それを忌々しそうにカタカタと歯を鳴らして、腐乱死体はクラピカに覆いかぶて言う。

 

『わだじは、いぎだい。じにだくなかっだ。でも、ごろさでた。わるいごどなにもじでないのに。いぎだかったのに。じにだくなかっだのに。だがら、ぢょうだい。ぢょうだい。ぢょうだい。ぢょうだい――――』

 

 覆いかぶさって連呼する死体の話で、ようやくこれが本物の死体ではなく幽霊であることをクラピカは理解する。

 理解すると同時に、思い出した。

 自分が根城にしているスラム街の廃墟が、何故自分以外の浮浪児もおらず、そこで寝起きしても「縄張り代」などのいちゃもんをつけて金を取ろうとするならず者もいないのか、その理由はあの廃墟はいわゆる「出る」で有名だったからであることを思いだした。

 

 十数年ほど前、この辺りの治安が悪くなり始めたが真っ当な住人もまだ住んでいた頃、あの廃墟で強盗殺人事件が起こり、住人の女性は浴槽で溺死させられた挙句にその死体は浴槽に沈められたまま何カ月も放置され、発見された時はどろどろに溶け崩れていた。

 それ以来あの廃墟に足を踏み入れると、女の幽霊が自分を殺した強盗殺人犯だと思い込んで襲い掛かり、どこまでも追ってきて必ず自分と同じように溺死させるという噂があった。

 

 そして実際に、水などない場所で溺死している変死体が、あの廃屋内や廃屋周辺で数年に1,2回程度だが発見されていると聞いていた。

 

 しかしクラピカは幽霊なんか信じていなかった、そんなものが存在するのなら幽霊で良いから同胞に会わせてくれとまで思っていたので、その「出る」という話を全く気にしていなかったし、あそこを根城にしてだいぶ経つが今まで一切おかしな出来事はなかったので、やはりデマだと思って忘れていた。

 

それが今、事実だったと思い知らされる。

 

 言っていることからして、噂と違ってクラピカを自分が殺した者だと思い込んでいる訳ではないようだが、一番嘘であってほしい部分だけは事実であると現状が表しており、クラピカの思い出した情報も理解も救いにならない。

 むしろ、噂が本当ならば何で今頃になって急に自分が襲われているんだ!? という疑問が膨れ上がって、余計にクラピカをパニックに陥らせる。

 

“念”の知識どころか、心霊体験などしたことが無かったクラピカにとって知る由もないことだが、今までクラピカがガチの幽霊屋敷で寝泊まりしていても平気だった訳は、人間不信で誰も何も信じず、目を開けていても周囲など見ていなかった、ひたすらに自分の内側だけを見つめて、過去の平穏を惜しみ、その平穏を奪った輩への憎しみを滾らせていたクラピカは、「死にたくない生き返りたい」と訴え続ける幽霊など気に掛ける余裕などなく、眼中になかったからだ。

 

 偶発的に生まれた「死者の念」による幽霊は、“念”に関しての修業を生前していないのだから、どれほど強力な“念”であっても実体がないのもあって、対象と波長が合っていないと、「ここに何かがいる」ということに相手が気付いていないと何の効果もない場合がほとんど。

 この「死者の念」も、精孔は開いていないが才能豊かな者だったのか、才能を凌駕するほどの生への執着かはわからないが、間違いなく相当強力で性質の悪いものなのだが、存在にすら気づかないで相手にしていないクラピカには、いくら「死にたくない。生き返りたい」と訴えても無駄。

 

 クラピカは孤独や憎悪という大きな虚を抱えていたが、それらに決して付け込まれない、付け込みようがない、どこにも隙間などない「殻」で自分を覆い、その内側に自らの心を閉ざしていた。

 だから、自分の存在を認知すれば逃れる術など無い「死者の念」も、手が出せなかった。

 

 だが……、その殻はひび割れてしまった。

 その殻の中からまだ出てゆくことなど出来ない臆病者で弱い自分が、ひびの隙間から外を覗き見てしまった。

 焦がれた「夢」を、その隙間から見てしまった。自分の内ではなく、外に目を向けてしまった。自分以外の誰かを、何かを、「外」を認識してしまった。

 

「生きたい」と強く思ってしまったからこそ、罪悪感による「死んでしまいたい」という虚をさらけ出してしまった。

 

 その虚を、付け込む隙を、死者は見逃しはしなかったというだけの話。

 

『ねぇ、なんでいぎでるの? じにだいくぜに。いぎでるいみなんがないぐぜに。わだじはいぎだいのに、なんでおまえが、じにだいおまえがいぎでるの? じにだいなら、いだないならぢょうだいよぉ』

 

 腐汁と腐肉を滴らせながら覆いかぶさって、クラピカが生きていることを責め立てる死者。

 その言葉に生理的なもの以外の嘔吐感も込み上げてくるが、吐き出すために手を口から話してしまえば間違いなく自分も溺死させられる。

 もはやこれは、生き返る為に相手の体を殺してはいけないという当然の前提すら理解できていないことは、理屈よりも本能で感じ取っていた。

 

 しかしクラピカのパニックを起こす頭の片隅が、冷静なのかこれもパニックの一種なのか比較的筋の通った思考を働かせる。

 

 この死者の言う通り、自分がこのまま生きてどうする? と自身に問う。

 

 生きている意味などもう見つけられない、復讐だって本当にしたいのかしたくないのかもわかっていないくせに、いっそ1年前にみんなと同じように死にたかったと思ってしまう自分なんかが生きてどうする? と自分が問いかける。

 

 それなら、生きたいと望む人にこの体を明け渡した方がいいのではないか?

 この幽霊だって、死者だって本当に生き返ることが出来たら、体を明け渡せたら正気を取り戻して、他に被害も出ずに誰もが幸せに終わることが出来るのではないかという考えがよぎる。

 

 それは真にクラピカの思考から生まれた考えなのか、目の前の死者によって誘導されたものなのかも、クラピカにはわからない。

 

 ただ、自分が生きるよりその方がいいのではないかと確かにその時は思った。

 思った。…………けれど――――

 

 

 

 

 

『『クラピカ』』

 

 

 

 

 

 二つの声が、二人の声が聞こえた。

 

『『楽しかった?』 ――って僕が訊くから、心の底から『うん』って答えられるような。そんな旅をしてきてね!!』

 

 親友が、心配や不安を押し殺して、クラピカなら必ずどんな苦難も乗り越えて「夢」を叶えてみせると信じて笑い、約束を口にする。

 

 その約束に、「うん」とは答えられない。

 だってまだ何も始まっていない。何も始められない。始めることすら奪われたから。

 

 だから、クラピカから出てくる言葉は、みじめで、情けなくて、それでも……それでも「夢」を諦めきれないからこそ、諦めたくないという願いそのもの。

 

 

 

「………………たす……け……て……」

 

 

 

 まだ死にたくない。自分の体を、生を他人に明け渡したくない。

 生きている意味を見出せないくせに、死にたいと何度も何度も願ったくせに、それでもクラピカは自分で塞いでいる手の中で求めた。

 

 もう一度、見てしまった「夢」を口にすると、親友と共に自分の名を呼んだ人は笑って言った。

 

『いいよ』

「クラピカに何してんだこのヘドロお化けがぁーーーっっ!!」

「!?」

 

 脳裏に浮かんだ親友と「夢」の笑顔ごと、死者は蹴り飛ばされた。

 

 この辺りのことを思い返すたびに、クラピカは頭痛を感じながら思う。

 ここまで即行で実行しなくていい、と。

 

 * * *

 

 ソラは半液状の死者の胴ではなく頭を容赦なく蹴り飛ばしたので、いくらクラピカが暴れても振りほどけなかった死者がブッ飛ばされて、やっとクラピカは自由の身になる。

 幸いなことにあの死者の体は実物ではないからか、死者が離れたら全身に染み込んでいた腐った汁や肉が消え失せて、匂いもなくなる。

 

 それでも不快感はなくならない。むしろやっと離れたことでほんのわずかに取り戻した余裕が、パニックによる麻痺で自分は何にしがみつかれていたのか理解していなかったものを理解してしまい、今度こそ嘔吐が込み上げる。

 しかし、吐き出す前にクラピカは腕を引かれた。

 

「クラピカ!!」

 

 衰弱した体に鞭を打ってクラピカを追い、出せるだけの力を出して走って蹴りつけたソラは、そのまま自分の勢いを殺しきれず派手にすっ転んだ。

 だが、自分が転倒したことすら気にかけず、転倒したことすら気付いていないかの如く、即座に起き上がって彼女は地面に座り込んだままクラピカを引き寄せて、何の迷いも躊躇もなく、しっかりとクラピカを抱きしめる。

 クラピカが何に襲われていたか、何にしがみつかれて覆いかぶさられていたのかを知っているくせに、何の嫌悪感もなく躊躇わず、彼がここにいること、生きていることを確かめるように泣きながら強く強く抱きしめ続ける。

 

「……良かった。クラピカ……無事で良かった……。間に合って良かったぁ……」

 

 まさかの腐乱死体の幽霊という、何重もの意味で物理的に蹴り飛ばせるものなのか? というものを蹴り飛ばしたという事実を理解し切れていないクラピカは、そのままされるがままに抱きしめられ続けた。

 込み上がっていたはずの吐き気も忘れ去ったし、言いたいことがあったはずなのに、その言いたかったことが何も思い浮かばない。

 

 どうしてここにいる? も、起き上がれなかったくせに大丈夫なのか? も、何で幽霊を蹴り飛ばせるんだ!? も言えないし、疑問に思うべきだということすらわからないまま、クラピカの両手は無意識に縋り付く。

 ソラの背に両手を回し、自分もしっかりと抱き返した。

 

 意地で、照れ隠しで振り払った体温を、今度こそ手離さないようにクラピカは縋りつく。

 

『い……だい…………いだい………いだいいだいいだいいだいいだいいだいいだいいだいいだいいだいいだいぃぃぃぃぃぃっっっ!!』

 

 しかしその穏やかな時は数秒で終わってしまう。

 ソラに蹴り飛ばされた死者は、蹴り飛ばされた勢いでありえない角度に首が折れ曲がった顔を向けて、苦痛を訴える。

 

『じゃまずるな、じにだいぐぜに、いぎでるいみなんがないぐぜに、いぎででもむだなくぜに!!

よごぜよごぜよごぜよごぜよごぜよごぜよごぜよごぜよごぜよごぜよごぜよごぜよごぜっっ!!』

 

 自分たちがどういう状況だったのかをその怨嗟と妄執の声で思い出したクラピカが「ソラ! 逃げるから掴まれ!!」と叫んで、ソラよりもだいぶ小さな体でありながらソラを抱えて逃げようとする。

 しかしソラはクラピカの肩を掴んで自力で立ち上がる。

 そしてそのままクラピカの前に、自分が立つ。

 

 彼を守るために、死者と向き直って睨み付ける。

 

 ミッドナイトブルーの明度が上がり、蒼天へ。

 蒼天からさらに遠くの果てなき天上を示す美色に、セレストブルーの眼が死者を映して言った。

 

「……生きてても無駄? はっ! 自己紹介も大概にしろ。

 まともに死ねたくせに、悪あがきですらない八つ当たりで自分を本当に殺してやれなくなったお前こそ、生き返って何になる?

 生き返る為に奪いたいはずの体をぶっ壊すのは、もう生き返れないのが無理だってわかってるから、生者に八つ当たりの鬱憤晴らししているだけで、もうお前にとって『死にたくない』は、その八つ当たりを正当化させる為だけの言い訳だろうが!!」

 

「直死の魔眼」を得てソラはまだ一週間もたっていないが、元々ソラは世界の違和感を、有り得ざるものを捕えるに適した「淨眼」というさほど珍しくない魔眼を保有していたのだから、幽霊なんか物心がついた時から見飽きている。

 だから、それが本当に生き返りたがっているのかそうでないかなど、一目でわかった。

 

 本当に生き返りたがっているのなら、もっとなりふり構わない。クラピカが「外」に目を向けるようになって、自分の存在を認識できるようになった瞬間に襲い掛かっているのが自然だ。

 何より、体を奪いたいのならクラピカよりソラの体の方が、認めたくないがあそこから逃げ延びたことからして認めざるを得ない事実、「 」へと繋がる体に作り替わった、無色透明に限りなく近いこの体の方が絶好の器であるはずなのに、クラピカをわざわざ狙ったということは、生き返りたいから体をよこせは口実でしかない。

 

 この死者は、初めは違ったのかもしれないがいつしか本末転倒を起こして、生者を自分のように苦しませて死に至らしめることに快楽を見出した、同情の余地などない存在だ。

 

 だからこそ、ソラは遠慮する気などない。

 

『だまれ……うるざい! だまれっ!!』

「ソラ! 余計なことは言わなくていい!! 早く逃げろ!!」

 

 ソラの言葉が図星を突いていた証明のごとく声を荒げる死者と一緒に、クラピカもソラの挑発行為をやめて逃げろと、危ないことはしないで欲しいと訴える。

 しかしソラは、こういうクラピカの頼み事は今も昔も聞いてはくれない。

 

「余計なことじゃない」

 

 クラピカがソラを庇って前に出ないように、死者に突っ込んで行かないように左手で制しながら、右手を前に突き出して、騎士が剣でも突き付けて構えるようにして彼女は言った。

 

「クラピカ。何を言われたのかは知らないけど、あれの言うことは忘れろ。絶対に真に受けんな。

 君は生きてていい。生きていて欲しいんだ。私は君が生きて、幸せになって欲しい。君の幸せを妬み、憎む人はいるかもしれないけど、幸せになって欲しいと望み願う者がいるってことを、頼むから忘れないで。

 

 ……クラピカ。私が君を助けるよ。

 君を助け、君の幸せを阻むもの、邪魔するもの、奪うものは誰であっても、何であっても、君自身の罪悪感でも、君にこんなにも辛い運命しかくれない神様であっても殺してやる」

 

 死者は絶叫しながら、ソラの言葉を掻き消すような声を上げてクラピカとソラの元へ飛び込んで来る。

 自分の言葉を否定する、絶望を否定して希望を抱いて語るソラがそれほど気に入らなかったのだろう。

 

 しかしどれほど声を上げても、ソラの声は、言葉はクラピカの耳に届いた。

 死者の悪あがきとも言えない、見苦しい絶叫に掻き消されることなく、むしろそちらの声の方がクラピカの耳には届かない。

 

 何も怖くなかった。

 自分を殺しかけた腐乱死体が再び襲い掛かって来ても、もう何もクラピカは怖いとは思わず、ただ見ていた。

 その跳びかかってきた死者をソラが一閃で上半身と下半身で二分するところを、地面に上半身が落ちる前に左目の眼窩にソラの繊手が埋まった途端、腐乱死体は靄のように形を失くして消え去ってゆくのも。

 

 そして、一瞬で終わった「幽霊退治」に笑ってソラは言った。

 

「こんな風に、ね」

 

 自分が親友と夢見た物語より荒唐無稽なことをやらかした人は、自分の求めて望んで手離せずにいた夢の通り、晴れやかな笑みを浮かべていた。

 

 * * *

 

 あの悪夢のような死者が本当に夢の様に消え失せて、ソラの体がぐらりと傾ぐ。

 

「!! ソラ!!」

 

 忘れかけていた、まだ起き上がることも辛いぐらい彼女は衰弱していたことを思い出してクラピカが慌てて倒れかけたソラを抱き留める。

 そのまましばらくソラは乱れた呼吸を整えるのに精いっぱいだったので、クラピカも呼吸が整うまでその背を気休めにしかならないと自覚しながらも撫で続ける。

 数分で呼吸は正常なものに戻りクラピカは安堵するが、呼吸がマシになったら今度はソラはいきなり目を見開いて、クラピカの両肩を掴んで自分から引きはがした。

 

「!?」

「ごめん! クラピカごめん!!」

 

 いきなりの拒絶に傷つくより先にソラが謝りだすので、クラピカは訳がわからず目を白黒させる。

 ソラの方もソラの方で何やらパニックを起こしているようで、また過呼吸になりそうなぐらいワタワタしながら、地面に座り込んだままひたすらクラピカに謝るだけでその謝罪の理由は語らず、余計にクラピカは訳がわからない。

 

「落ち着け、ソラ! 何故、お前が謝らなくてはいけないんだ?」

「だ、だって……嫌でしょ? こんな……こんな……」

 

 埒が明かないのでクラピカが直接尋ねたら、ソラは隈の濃い両目に涙を溜めて言い淀む。

 そこまで言い淀まれて、言葉にすることを躊躇われて、ようやくクラピカはソラの言動の理由を察することが出来た。

 

 またしても助けてもらったのに礼も何も言えなかった、言わなかったクラピカをこのお人好しは恩知らずと思うのではなく、もうすでに死んでいる死者さえも殺す異能を持った自分をクラピカは恐れているのではないか、そんな誤解をしていると思ったクラピカは「ソラ! 違う!!」と否定の言葉を上げる。

 が、恐れてなどいないと主張する前にソラが言った。

 

「ごめんね! 汚れてるし臭いのに、抱き着いたり抱き着かれてたりして迷惑だったよね!!」

「違っっ!? 何の話だ!?」

 

 違うことは違うのだが、実は全然察していなかった斜め上の理由を言われた所為で謎が増して、思わずクラピカは突っ込みを入れる。

 するとソラはやはり今にも泣きそうな顔のまま、そして星と月しか灯りのない夜闇の中でもわかるほど顔を赤らめて、ぽつぽつとさらに語る。

 

「……だって……私、お風呂どころか体を拭くってことすら出来てなくて……そんなの気にする余裕もなかったけど、君に助けられて余裕が出来たら、それが気になって気になって……」

「……………………お前……本っっ当にバカだな」

 

 気持ちはわからないことはないが、今そこを気にするか? という所を気にしていた女に、心からの感想をクラピカは口にした。

 この当時の感想は「バカだ」の一言で尽きるのだが、思い返すと別の感想も生まれてくる。

 

 彼女は初めから、十分に「少女」であったことをクラピカは思い出す。

 

 しかしそのことに気付けないほど子供だったクラピカは、ソラのあさっての方向に向かっている心配にただ呆れきっていた。

 

「そんなことを気にしたり嫌がったりするほど、オレとお前の身なりに違いがあるのか? オレの方がよっぽど汚いだろうが。……それとも、ソラがオレに触りたくないってことなのか?」

「そんな訳があるか!!」

 

 なので呆れつつフォローのつもりの言葉を掛けるが、途中で被害妄想が生まれてそれを口にすると、被せ気味でソラは否定する。

 

「そんな訳ないだろ! 私はむしろ、君に触れられない方が絶対に嫌だ!!

 …………でも……君は…………私に触れられるのが、好きじゃないだろ?」

 

 身を乗り出して熱弁されてクラピカは呆気に取られるが、その後に続いた寂しげでな言葉にはまた別の意味でポカンと目を丸くした。

 初めは「また訳の分からない勘違いを……」と思ったが、それは根拠などない勘違いではないことに気付く。

 

『あ、謝るな! お前が何で謝らなくちゃいけない!?』

 

 自分が、彼女に何をしたかを思い出した。

 あまりに優しく、温かだったあの体温を初めに振り払って拒絶したのは、自分の方だったことを思いだして泣きたくなった。

 

「違う!!」

 

 泣きたくなって、けれど泣きたくなんかないから、同じ間違いを繰り返したくなかったから、クラピカは叫ぶ。

 そして唐突なクラピカの叫びにびっくりしているソラの手を両手で掴んで、握りしめた。

 

「違う! オレだってお前に……ソラに触れていたい! もっと傍にいたい! 離れたくない!」

 

 情けない本音を、本心を口にすればするほど、罪悪感が自分の胸の内を締め付けてひどく痛む。

 恩を何も返せない、無力で無能な自分を思い知らされて死にたくなる。

 

 けれど……それでもやはり、手離せないと思い知らされた。

 

「……ソラ……オレは……君に助けてもらってばかりで何の恩も返せてない。それどころか、甘えてばかりだ。それが嫌で嫌で、意地を張れば余計に自分がみじめになるとわかっていても、君の優しさを拒絶する救いようのない愚か者だ。

 ……君と一緒にいたら、君がオレを助けてくれればくれるほどに、オレはきっと耐え切れなくなる。自分の無力さと、無能さに耐えきれなくて、ただでさえわからない生きている意味を失くしてしまいそうなんだ……。

 

 ……でも、それでも……オレは君と一緒にいたい! もう独りは嫌だ! 独りきりで生きるのは嫌だ! 君と、ソラと一緒が良いんだ!!」

 

 自分で閉じこもっていた、自分を閉じ込めていた殻が破られる。

 殻の中で見ないふりをしていた、いつか腐って消えてしまえばいいと思っていた……捨てることが出来なかったものが殻を破って、溢れた。

 

 どれほど情けなくても、どれほど罪悪感が苛む身の程知らずな望みであっても、それでも手離せない。

 

 この体温も、この人も。

「助けて」という願いに、「いいよ」と答えて、そして本当に助けて欲しい時に来てくれた。応えてくれたこの幸福だけは、手離すことなどできない。

 

「夢」が、手離せない。

 

 だからクラピカは力いっぱいソラの手を握りしめて、希う。

 

「ソラ……。オレは……強くなりたい」

 

 助けを乞うのではなく、未来を語る。夢を、語る。

 

「オレは……君の傍にいたい。ずっと一緒にいたい。もうこんな情けない思いはしたくない、みじめな思いもしたくない。君に助けてもらうために傍にいるのではなく、一緒にいたいからいると言えるだけの……君に恩を返せるぐらいに強くなりたい。

 ……強くなって……生きてゆきたい」

 

 何もしたいことすら思い浮かばない、死んでしまいたい、死という終わりに逃げ込みたいほどの罪悪感が消えないけれど、それでも生きることを選んだ。

 生きたいと、望んだ。

 

「……そう」

 

 クラピカの望みを聞いていたソラは、初めこそはあまりに唐突で今までの言動とは真逆のことを言い出したクラピカに困惑していたが、彼が何を望んでいるか、どんな未来を夢見ているかを知るにつれて、丸くしていた目が優しげに細くなる。

 

 そして柔らかな微笑みを浮かべたまま、ソラはクラピカが掴んでいない方の手を彼の後頭部に回して、そのままこつんと熱でも測るように、どちらも眼が逸らせぬように額を合わせて言った。

 

「……私も、君と生きてゆきたいよ」

 

 強くなりたいというクラピカに、「なれるよ」や「頑張れ」といった彼の望みを応援すると同時に、彼の生き方を縛りかねない言葉は何も言わず、ただ自分の望みも同じように口にした。

 

 同じ夢を見ていると、言ってくれた。

 

 その言葉が、夢が、同胞の面影を見た時と同じようにクラピカの涙腺を決壊させて、枯れたと思っていた涙を再び溢れさせる。

 しかし今度は、泣いて縋り付かなかった。

 

 縋り付かず、クラピカは泣いたまま笑った。

 1年ぶりに、笑った。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「今思い返すと、クラピカは最初の心霊体験がめちゃくちゃハードだな」

 

 一通りクラピカにとって最初の、そしてソラもこちらの世界にやってきて最初の心霊体験兼幽霊退治を話し終えてからまず最初にソラが言ったことは、今更過ぎる感想だった。

 

「……クラピカ。よく気絶しなかったよね」

「あいつが変な所に度胸があるというか、図太いのは昔からかよ」

 

 さすがにソラはその当時のクラピカの細かい言動や様子は、クラピカからしたら黒歴史とまでは言わなくても相当恥ずかしい過去であることくらいわかっているので話していない。

 その所為で、大人でも失神ならまだ良い方、失禁しても責められないようなえげつない心霊体験をしておきながら、割とケロッとしていたように思える話になってしまったのだが、何故かゴンとキルアは普通に納得していた。

 実際、クラピカのメンタルは打たれ弱いが神経は割と図太いので、ソラも否定はしなかった。

 

「ちょっと待て。突っ込むところはそのクラピカって奴のことじゃないだろ。こっちに突っ込め。腐乱死体を何の躊躇もなく蹴り飛ばしたこいつの方を先に突っ込め」

 

 そのかわり、ゼパイルから突っ込みが入った。

 彼はクラピカのことを全く知らないので、もちろんクラピカの為じゃない。ただ一番の突っ込み所がスルーされてたから、自分で突っ込んだだけだ。

 

 ゼパイルとしては後半の、幽霊瞬殺はまだいい。“念”のことを魔法や超能力という風に解釈しているので、ここまで非常識で反則的ならいっそ納得できるのだが、半液状の腐乱死体の幽霊を一体どうやったら心情的にも物理的にも蹴り飛ばせるのかが本気でわからない。というか、わかりたくない。

 

 ゼパイルの突っ込みは、真っ当なものだった。

 しかし真っ当だからこそ意味がないことを、レオリオがゼパイルに肩ポンして教えてやる。

 

「ゼパイル……。この女ならそれが通常運転だ。たぶん、実体のあるガチのゾンビでもやる」

「いや、さすがにあのレベルの腐乱死体の実物は蹴りたくないな」

 

 レオリオの言葉にさすがのソラも一応補足して拒否しておいたが、ソラの返答を子供二人は遠い眼で見ていた。

 その視線と彼らの心音でセンリツは色々と察したが、察しても信じられなかったのでソラを指さして二人に問う。

 

「……えっと……まさか既にゾンビと……」

「「対戦済み」」

 

 レオリオの言葉が真実であることを、二人は同時に告げる。確かにカストロのゾンビは死んで半日ほどしかたっていなかったので、腐乱死体とは比べ物にならないほど直接攻撃するのに抵抗感はないだろうが、それでもどっからどう見ても死んでいるグロいゾンビ相手に、ヒソカが拍手を送るほど芸術的なシャイニングウィザードをぶちかました時点でソラの言うことに説得力はない。

 

「お前は何者なんだよ!? ゾンビバスターか!?」

「うーん、否定できないのが我ながらちょっと悲しい」

 

 センリツの問いとゴン達の返答で再びゼパイルが突っ込むと、ソラは腕を組んで苦笑し、その返答に「ちょっとで済むんだ……」と思いながらもゴンはフォローのつもりの言葉と、そして自分の好奇心に対して正直な希望を言い出した。

 

「でも、本当にソラって昔から凄いんだね。ソラ、他にも何か幽霊退治の話をしてよ!」

 

 G.Iを自力購入するのではなく、バッテラのプレイヤー募集にかけることにしたゴンたちは、バッテラと直接コンタクトが取れるであろうオークションまですることが無くなってしまったのもあって、時間つぶしにソラの心霊体験なんだか、もはや幽霊に同情すべきなのかよくわからない話をねだった。

 

「他の話? 山ほどあるけど、一応ほとんど仕事で守秘義務にひっかるのが多いから話せるのはあんまり……あ、あったわ」

 

 ソラの方もクラピカは一向に起きないが、少しずつだが容体は落ち着いているのと、心配をひたすら続けるよりは何か話していた方が気がまぎれるのか、記憶を掘り返して話を続行。

 他の連中も同じくすることはなく、突っ込みどころ満載だが面白いことには変わりないので、彼らもソラの話を再び聞く体勢に入る。

 

「これも4年前、クラピカと一緒にいた頃の話なんだけど……」

 

 しかしまたしてもクラピカとの話だと知って、キルアの機嫌が若干下降する。下降はしたが、部屋から出て言って聞くのをやめたりはしないのは、先ほどの話ではあまり詳しくクラピカのことを話さなかったので我慢できるという判断と、その後に続けられた単語がやけに興味を引いたから。

 

「私たちが別れちゃう少し前の話なんだけど、クラピカと私は『妖精郷』を探してたんだよね」

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

「……ソラ。私に何かできることはないか?」

 

 背後の、自分の肩を掴んでゆっくりゆっくり歩くソラにクラピカは問う。

 ただでさえ衰弱している人に無理をさせたのだから、クラピカとしては抱えるか背負うかして帰ってやりたかったのだが、ソラが頑なにそれを拒否した。

 

 今思えばいくら女性でなおかつ衰弱しているとはいえ、10センチ以上の身長差があってでかい方が小柄な方に抱えられるのは、色々といたたまれなくて嫌だったのだろうと思えるが、当時のクラピカは自分の頼りなさ故にやんわりと拒否されたと思ってしまった。

 

 強くなりたかった。

 守られるために、助けてもらうために一緒にいるのではなく、一緒にいたいからいると言えるようになりたかったから、クラピカはせめてもの意地で自分を杖代わりにしてもらって、そしてさらに何かできることを求める。

 

 しかし、ソラの答えは優しいからこそ残酷なものだった。

 

「……君は、いてくれるだけでいいよ。それだけで私には十分すぎる」

 

 ただあの眼に同胞を面影を見たこと、あの眼に価値を見出したこと、死にたくないだけだった悪あがきに意味を見出したことで、どれだけ彼女が救われていたのかを知る由もないクラピカにとってその言葉は、やはり自分に気を遣った拒絶にしか思えなかった。

 だから唇を強く噛みしめて、弱い自分に泣きそうになりながら、それでもまた理不尽な拒絶をしたくなかったから、この体温をもう二度と自分で突き放すという後悔をしたくなかったから、クラピカは絞り出すように「そうか……」とだけ答える。

 

 それで、終わりのはずだった。終わると思っていた。

 自分のような理不尽な拒絶ではなく、自分を思っているからこその、優しさ故の拒絶だと思っていた。

 

「……だからさ、クラピカ。お願いがあるんだ」

 

 彼女がどれだけ、自分によって救われていたことなどわかっていなかった。

 けれど、あれが拒絶ではなく本心からの言葉であることだけはわかった。

 

「……一緒に寝てくれないか?」

 

 きょとんとした顔で振り返ったクラピカに、ソラは少し恥ずかしげにぽつぽつと話し出す。

 一人で寝るのが怖いこと、悪夢さえ見ない、何もない深淵に落ちていく夢ばかり見て眠れないこと、生きている証が、自分以外の誰かの体温や鼓動が欲しいと彼女は言った。

 

 クラピカを慰める為ではなく、クラピカの本心の甘えや望みに言い訳を与えているのではなく、彼女自身が本心から一緒に眠ることを望んでいた。

 

 自分と眠ることで安心できるという言葉に、クラピカの存在に確かな意味があるという言葉に、クラピカはまた緩みかけた涙腺を堪えて締め直して答える。

 

「……わかった。……一緒に寝よう」

 

 言って、もう一度笑う。

 1年前に故郷と同胞たちの命と一緒に奪われ、殺されたと思っていた笑顔は、殺されたわけではない、ずっとずっとそこにあったことを証明するように、今ではどうして笑えなかったのがわからないほど自然に浮かび上がる。

 

「一緒に寝て、そして……同じ夢を見よう」

 

 笑って、クラピカは言う。

 悪夢でもきっとソラがいれば、ソラと同じ夢ならば、今日のようにいっそ笑い話になる結末を迎える気がした。

 例え悪夢のままに終わっても、目覚めた先に彼女がいるのならそれはただの夢でしかない。

 

 ……現実には敵わない、儚くて淡い夢に過ぎない。

 

 クラピカの笑顔を見て、ソラも笑う。

 その名にふさわしい、クラピカがずっと見ていたい、守り抜きたい笑顔で笑ってそのまま彼女は軽い足取りでクラピカの隣を歩いて、手を繋ぐ。

 

 いつしか、衰弱してやつれ色濃い隈が出来ていたソラの顔色が良くなっており、身なりもそれなりに整えられていた。

 クラピカ自身も同じように、浮浪児には見えない程度の身なりとなっているが、クラピカは自分自身の変化も、ソラの変化にも気付かない。

 

 周りの風景も廃墟に落書きだらけの壁というスラム街から、木々が生い茂る山中へと変化しているが、そのことを何の疑問にも思わないまま二人は歩き続ける。

 

 

 

 

 

 夢が続いていく。

 

 

 

 

 

 夢であることすら気づいていない、淡い夢が続いてゆく。









一応言っときますが、次回の妖精卿の話にアルトリアさんは何の関係もないですよ。

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