Fate/ Prototype Overturn   作:上木八

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Act2 Edelweiss

憧れている人がいた。

儚げな容姿に違わず身体が弱く、それこそ愛した草花の如く嫋やかな人。

それでいて芯は巨木の様に強く、子の前では弱さを絶対に見せなかった人。

アヒルの子のように向かうところどこへでも後を追った。何の理由もなく。

そんな自分を彼女――母は困ったような顔もせずただ頭を撫でた後、手を繋いでくれた。

大好きだった。愛していた。その母が自分の家族の次に愛し、慈しみを以て育てたのはこのガーデンに咲く花や木々。

もしかしたらその空間自体かもしれない。だから俺もこの空間が大好きだった。植物が好きなのも同じ理由。

 

 

―――真咲。

 

 

優しい声。応えるように駆けていく。半分ほど水の残ったアルミ製のじょうろを投げ捨てて。

がぼんと床に落ちる金属と零れ落ちる液体の音。派手に水が広がったかもしれない。付近の土がびちゃびちゃになるほどに。―――そんなこと気にも留めない。

ガーデンの中にも数種類ある食虫植物のうち、特にお気に入りのセラセニアについ数秒前まで水をあげていたことなど忘れていた。

嬉しかった。落ち着いたソプラノ声で名前を呼ばれること、それだけが。だから苔の生えた滑りやすい石床を注意することなんて思考からこれっぽっちもないほどすっ飛んでいて…

 

ずるり。右脚が床に引っ張られたようにつんのめってしまう。

情けない声を上げながら冷たい石との正面衝突を覚悟し瞼を強く閉じる。しかし、感じたのは頭部への冷ややかな衝撃ではなくて、微かに香るベルガモットと全身に感じる温もりで。

受け止めた体をそのまま包み込むような抱擁。

ふわりと舞う長い髪が広げる爽やかな柑橘の香り。そして、触れ合う肌から伝わる体温。

 

 

―――大丈夫?

 

 

心配の声と共に、回された左腕が背中をさするように撫でている。恐怖と焦りで早鐘を打つ心臓が徐々に元のリズムに戻っていく。

うん。と首を縦に振ると体を少しだけ離して、母は視線を右下に向ける。

真っ白な布に包まれ丸くなった小さな存在。自分の親指の第一関節くらいしかない瞳はガーデンを、世界を見ることなく閉じられている。

 

沙条綾香。その名を貰い今世に生を受けたもう一人の妹。

 

夢を見ているのだろうか。だとしたらどんな夢なのかな?

問いかけの代わりに、風の吹かないこの空間で少し耳を澄ませてみれば…聞こえてくる確かな生命の息吹。

 

わぁ。呆けたような声が温かい吐息と共に漏れていた。

こんなにも小さく、弱々しい存在だというのにしっかりと自分で呼吸している。

己の力で息を吸い、一生懸命に生きようとしている。ただ、当たり前ともいえる生命活動に感心していた。

幼かった故に自覚はないが、相当な間抜け面だったのだろう。母はふふ、と小さく笑い。

 

 

―――この子を…

 

 

―――()()()

 

 

―――あなたが守ってあげて。

 

 

微笑みと共に抱えていた命を、まるでプレゼントでも渡すかのようにそっと委ねられた。

想像していたよりも何倍も重い。思わず声をあげながら落としてしまいそうになる。抱える俺の腕の下で母がしっかりと受け皿のような形を両掌で作っていた事には気が付いていなかった。

もぞもぞと名を覚まさないくらいの振動を心掛け、何度か角度を変えながら落ち着いた体勢になる。その時にはもう額に冷や汗が浮かんでいた。

単純に自分の腕力が弱いとか、妹の体重が重いとかそんなものではない。―――確かな生命(いのち)()()をまだ細く頼りない幼き腕に自覚していた。

抱える腕の力を僅かに緩めてしまっただけで壊れてしまいそうな儚い生命(モノ)

母は今に至るまで二人分もの重みを幾度も感じ、愛と慈しみを与えながらあらゆる危険から守りながら生きてきたのだ。

だから―――母がその責任を任せるということの意味が幼い自分には理解できなかった。でも、無心に期待に応えたくて…ただ妹が可愛くて。それだけで理由なんて充分過ぎるほど。

 

「任せて」

 

そう言い切った時のことは何時如何なる時でも忘れることはないだろう。…だって―――母は笑っていた。

これ以上ってないくらいの満面な笑み。だというのにどうしてか、少しだけ不安になってしまうような…笑顔。

笑っていた。それだけは間違いない筈なのに…最初であって最後の涙を見せた時だったから。

幼い己が気が付く筈もなく、彼女自身己を強く見せることが上手だった故に知る由もなかったが、身体は以前よりも痩せ細り、綾香を抱えることが困難なほど衰弱しきっていた。

後に知ることになるが愛歌を生んだ時点で、受けていた魔術の加護が解けてしまったらしい。

生来より丈夫ではなかった故に三人目―――綾香の出産は大きな負担になることは両親共に判り切っていた。

だが、それでも彼女は綾香を生むという選択をした。

既に覚悟はできていたのだろう。そして、予想していたのだろう。

自らが居なくなってしまった後の顛末を。

 

自らの生命が間もなく尽き、終わってしまうことを。

愛する夫である男が…。沙条広樹が再び魔術師的な人間に戻ってしまうことを。

 

だから―――託されたのだ。

母親に代わり綾香を守り、慈しみ、祝福されて生まれてきたのだと識って貰う為に。

これは祈り、約束。何が有ろうとも決して破れぬ誓い。

そして、魂を永遠に縛り付ける茨の如き―――呪い。

 

数ヶ月後、医師の宣告した通り、母は亡くなる。

死の直前、その瞬間を悟り落してしまわぬよう息子に預けるまで、言葉も紡ぐ事のできない綾香を腕に抱えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ごとごと音をたてながら蓋を揺らす鍋からは酸味の強いトマトの匂い。自家製のクミンやバジル、ブラックペッパーもほのかに香る。

沙条家、昼時の厨房は五感を刺激する香りと天上側には湯気が立ち込めていた。

魔術よりも家事を好み、厨房の主でもあった母が亡くなってから、沙条家の台所事情は長男である真咲が受け継いだ。

厨房に立つ母の姿が好ましくて、幼い頃から自ら並び立って作業することは日常茶飯事だった。

加えるなら同年齢の男子の基準から少し外れているが、レシピ本を好んで購読していたこともあり、料理という作業を苦に感じることは無かった。

唯一、母と自分の二人から一人になったことで一抹の寂しさを時折感じるくらい。

しかし、幾らかの年月を経るとやがて愛歌が加わり、厨房に立つ人間が再び二人となったことで寂しさと呼べる感情は知らぬ間に消えていた。

 

時々鍋の蓋を開け、お玉杓子(レ―ドル)を底から掬うように回していく。角切りにされたベーコンやジャガイモ、ニンジンが浮き沈みしながら朱色の液体を踊った。

食器が見えるようにと戸棚にはめられたガラスは湯気で曇ってしまっている。が、家にある食器の位置はおおよそ把握しているので問題はなかった。真咲が当然なら愛歌も必然の事。

 

あらかじめに用意しておいた計量スプーンで鍋の中身を一口分程度掬って口に入れる。正直、自分好みにしては少し辛さが足りない。それでも味付けはもうこれで終わりだ。

コンロの火を止め、保温のためにもう一度蓋をする。いつも通りのいい感じだ。

一段落したところですぐ脇で主食の調理をしている愛歌を窺う。

ぽつりと置かれた透明の耐熱容器。中身は九割方無くなっていたがバターとオリーブオイル、すりおろされて香りを増したにんにくの跡が僅かに残っていた。

所謂ガーリックソース。作ったであろう本人はオーブンと暫くにらめっこ。

およそ160度の熱に晒されているフランスパンを愛歌は待っている。一切の妥協もない最高の焼き加減を。

なんということもない日常の一場面。しかし、それだけで絵になるのはやはり愛歌という存在故だろう。

我が妹ながらその様子は年相応に…いや、それ以上に愛らしく見える。

少々気持ち悪いな。そんな風に内心己を恥じていると。ちょうど焼きあがって愛歌は小さく声を上げる。

 

「できたっ」

 

ちょっと焦げ付いたぶかぶかの白いミトンを装着し戸を開くと、籠っていた熱が一気に解放される。襲う熱気に愛歌は一瞬左のミトンで眼を覆った。

それでも一秒もしないうちに何事もなかったかのような振る舞いでガーリックトーストをトングで手際よく掴み、二つずつ。計四つの皿に乗せていく。

給仕が身に着けるような何の遊びもないエプロンだが、てきぱきと作業をこなしながらも優雅な仕草と愛歌の容姿が相まって、まるで理想のお人形遊びが顕われたようにさえ思える。

 

「ねえ。兄さん、味見してくれる?」

 

「ン…あ、一つ余ったのか」

 

細い指に摘ままれ差し出されたのは八つとは一回り小さなガーリックトースト。この大きさと厚さだったらラスクと呼んだ方が適切かもしれない。

見れば全ての皿には二つきっちりとトーストが乗せられていたし、何より几帳面さは沙条家随一の愛歌が間違えるなんてことはない。

均一な大きさに切っていたら発生してしまった端の部位だろう。しかしながら調理を間違いなくしているようで完成品と差異のない香ばしさとガーリックの匂いが食欲を誘った。

 

「ほら、あーんして」

 

「…恥ずかしいんだけど」

 

「別にいいじゃない。父さんも綾香もまだいないのだし。ほら、あーんして」

 

誠に不本意だが。内心思いつつも、まんざらでもない自分が存在するもの確かだった。

言われるままに口を開け、つままれたラスクを半分くらい、さくり。

ほんの一瞬だけ愛歌の指に唇が当たった。僅かだが、胸がどきりと高鳴って味の感想を忘れてしまう。

 

―――さくり。

もう一つ、気持ちのいい静かな咀嚼音。自分ではない。

真咲が半分齧ったラスクは愛歌の一口に消えてしまった。

さくさくと何度か反復して飲み込む。

 

「兄さんにとってはちょっとバターが多かったかしら」

 

微笑みながら小首を傾げてみせる。

摘まんでいた指の油をぺろりと舐める仕草が妙に扇情的に見えて思わず視線を逸らした。

 

「…とにかく、用意は終わったし。俺は父さんと綾香を呼びに行くからっ」

 

見ていられる筈もない。明後日の方向を向きながらぶっきらぼうに言い放って早足に厨房を飛び出す。

廊下を歩く途中で大きな鏡の洗面所を通り過ぎる。ちらりと一瞥しただけだったが、また愛歌が頭に浮かんで皺を寄せた。

鏡に映った自分―――我ながら冴えない顔に父譲りの焦げ茶色の髪。何も変化のない、いつも通りの沙条真咲。

飛び跳ねるかわいらしい二匹のうさぎが刺繍として施されたエプロンもいつも通り。だが、今だけは気恥ずかしい。

本格的に料理の勉強を始めた年の誕生日に愛歌より贈られた、手作りのものだという事実を嫌でも思い出してしまう。

 

「―――ふふふ、本当に可愛い人」

 

背中に受けた声に思わず振り向いてしまいそうになる。

一応は兄である人物に対して()()()などと、一体どういうことなのか。

言葉に乗った感情がどんな意味を持っているのかはわからない。

だが、愛歌はまるで見守る聖母の様な、それとも放蕩する妖精の様な笑顔で微笑んでいることは安易に予想できた。

三歳違いの妹に揺さぶられ、まるで弄ばれているみたいにも思えてくるが数年前からはただの日常に過ぎない。

一般的な家庭とは少し事情は違うのかもしれないが、沙条家ではこれが当たり前でありふれた家庭の一幕だった。

変わらない日常。だというのに―――ほんの少しの違和感と疑問を感じる。

あれは…いつからだったか。愛歌が兄である自分に対してまるで■■のような態度で…。

何故だろう。記憶に靄がかかっているように思い出すことができない。

何処かで魔術的な記憶干渉でも受けたのか。…なんて有り得ないか。

誰が、どんな意味を持ってするのか理由(わけ)が判らない。

雑念を捨てるようにかぶりを振る。早く父ともう一人の妹を呼びに行かねばならない。

 

二人とも―――特に()()はガーデンで花の世話をしながら昼飯(ランチ)を待ち遠しくしている筈だから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




つい先日ようやくドラマCD全巻聴き終えました。

綾香にとって人類にとっての悪なのだとわかりつつも愛歌の最後の声が切ない…。

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