八月十三日。
家庭教師のバイトを終えた俺は、何の気なしに懐かしいラーメン屋へと車を向けた。
あれ以来あまり食欲は無いし、別段食べたかった訳ではないが、このまま帰るには何と無く寂しかった。
あれから川崎沙希とは会っていない。連絡も取っていない。
それを察したのか、時折小町が申し訳無さそうに顔を歪めてくる。
だが元より小町を責める気はない。
あの日、俺は雪ノ下雪乃に告白された。
小町はその雪ノ下の決意を知っていたのだろう。だからこそ直前まで俺に誕生会の件を云えなかったのかも知れない。
それでなくては、小町の苦渋に歪む表情の説明がつかない。
小町は板挟みだった。
雪ノ下の依頼を受けた直後、俺が川崎と仲を深めたことを知った。
その時点で雪ノ下の決意を知っていたとて、一度賛同した身としては小町はどうすることも出来なかっただろう。
それを抜きにしても、やはり原因は俺だ。
川崎と交際を始めたことを早くあいつらに報告しなかった俺が悪い。
最寄りのコインパーキングに愛車を停め、懐かしい街並みを歩く。
至る所に見慣れない店が増えているのは時の流れなのか、はたまた俺の記憶違いか。
ラーメン屋の前には数人の行列があった。
この熱帯夜に熱いラーメンを食べる為に並ぶとは恐れ入る。
斯く云う俺もその一人なのだが。
数人が店内に消えた頃、行列の中ほどに見知った顔を見つけた。
自称若手教師。
その実体は、独身アラサー行き遅れ女教師。
平塚先生である。
どうしよう。
帰るべきか。
見つかれば厄介なことになるかもしれない。いや、今までの経験からすると厄介なのはほぼ確定である。
それで無くとも今は知り合いには会いたくない。
雪ノ下を傷つけ、川崎を傷つけ、それでも知り合いの前では何事も無かったように振舞ってしまうだろう自分が、本当に嫌で醜く、滑稽に思える。
しかしである。
店先に架かる
久しぶりに湧いた食欲だ。
しばし熟考。
結論。迷いは身を滅ぼす。
「おう、比企谷じゃないか。久しぶりだな」
アラサーさんに見つかってしまった。
* * *
「いやぁー、こういう店は一人では入りづらくてな」
俺は
と云っても、なんら如何わしい店では無い。
ちゃんとした、立派な洋食店だ。
「さあ何を頼もうかな。比企谷も遠慮するな、今日は私の奢りだ」
何か一言くらい嫌味でも云ってやろうかと思ったが、目の前で写真入りのメニューに目を輝かせる少女の様な顔を見たら、その気も失せた。
「じゃあ、これを」
あまり見ずにパスタっぽいメニューを指で示す。ラーメンの夢が潰えた今、麺類ならもう何でもいい。
「カルボナーラだけでいいのか?」
「ええ、麺類が食えれば何でもいいです、もう」
半ば投げやりな俺の確認を取った平塚先生は、手を挙げて店員さんに合図をする。
「お決まりでしょうか」
そして、ここから世にも恐ろしい怪奇現象が幕を開けた。
「えーとぉ、チーズの盛り合わせとぉ、海老のガーリックオイル炒めとぉ……」
先生、何故語尾を伸ばして丸めるのでしょうか。
無駄な抵抗(アンチエイジング)なのでしょうか。
それとも、店員さんがちょっとイケメンだからでしょうか。
甘ったるい喋り方で、つらつらと注文を告げていく先生の姿は、もう怪奇現象以外の何物でもない。学校での姿を知っていれば尚更だ。
しっかし。
カキの何とかグラタンに、前菜三種盛りに、ハンバーグに……どんだけ食うんだよアラサー。
「アペリティフはいかが致しましょう」
ア、アペリティフって……なに?
知らない子すぎて見当もつかないんですけど。
「とりあえずビ……えっとぉ、あっ、ロリアンがあるぅ。あたしこれ好きなんだぁ♪」
今、とりあえずビールって云いかけましたよね?
つまりアペリティフってのはお酒のことか。
ロリアンって響きがアレだけど、未成年の俺には関係無いな。あっ関係あるのかロリアンだし。無いな。
俺はただの妹思いだし。
「あとはぁ、カルボナーラっ」
きゃるんっ、とか聞こえそうだな、おい。
まだ平塚先生だから何とか直視出来るものの、面白い見世物には変わりはない。
ほら見てください。推定二十代前半のイケメン店員さんが顔を真っ赤にしてぷるぷる震えてますよ。牛乳を口に含んでたらもうアウトですよ。
「くっ……い、以上で宜しいでしょうか」
「はぁいっ……あっ、ダァリンはこれでいい?」
あれ、何故だろ。
ぶりっ子してる平塚先生の涙目が話を合わせろと叫んでいる。
「あ、ああ。それでいい」
努めて低い声音で一言。
それで平塚先生はご満悦の顔になった。
何なんだよこの教師……。
肩を震わせながら一礼したイケメンさんは、厨房に駆け込むなりブハァッと噴き出すのだろう。
今俺は、自称若手アラサー独身教師が結婚出来ない理由を垣間見た。
「流石だな比企谷。まさに目と目で通じ合うってヤツだな」
いちいち古いです。今は古文の授業ですか。
「ありをりはべりいまそかり」ですか。あんた担当は現国でしょうが。
思わず溜息が漏れる。
「ただのアイコンタクトでしょ。つーかさっきのは何ですか」
「だってぇ……やっぱりこういう店にはアベックで来るもの、でしょっ?」
また古文ですか。
先生の時代ならいざ知らず、アベックなんて云いませんよ。だからといって、最近の言い方なんてまあ解りませんよね。先生も、俺も。
そんな若者の流行語に疎い俺たちは素直に「二人組」もしくは「徒党」と呼称すれば良いんです。先生は現国の教師なのですから。
しかし……。
「まだやってるんですか。疲れませんか」
「……疲れる」
そうごちて俯く先生はお世辞抜きで可愛らしい。
気取らずにそのままにしてればいいのに。
「じゃ普通にしてください。いつものままで充分魅力的ですから、先生は」
「え」
「えっ」
あらら、何か地雷でも踏んだのかしら俺。つーか平塚先生の場合、地雷が多過ぎて回避不可能まであるからな。
しかし俺を見る平塚先生の表情は危惧した形相ではなく、少女のような可憐さを纏っていた。
「……ほ、本当?」
ほむん。これはこれで恐い、な。
「ええ、俺はたまにしか嘘は吐きません」
アラサーの目から出た怪光線が俺を貫いた。
* * *
食事を終えた後、平塚先生はワインを傾けている。アペリティフっていうのは食前酒という意味だったらしい。
だったら今先生が手酌で飲んでる三本目のワインは、何リティフなのだろう。
つーか、ちょっと飲み過ぎじゃないですかね。
「で、比企谷」
ほら、もう目が胡座かいて座ってますよ。
もう帰った方がいいんじゃないですかね。
「はい、そろそろ行きますか?」
この人、泥酔したら面倒臭そうだからなぁ。
つーか先生、まさか車で来てるんじゃないだろうな。
もしそうなら、どうしたらいいんだ。
あ、そういえば運転代行っていうのがあるらしいな。それってどうやって頼めばいーー
「キミに何があった」
……は?
何云ってるのこの人。もう泥酔しちゃってるの?
「……いえ、特には」
確かに色々あった。だがもう卒業生だ。高校を離れた駄目ぼっちの為に手を煩わせる訳にはいかない。
詭弁だな。
単に話したくないのだ。
話せば思い出す。それは苦痛を伴う行為だ。
「嘘を云うな。ならば何故そんなに悲しそうな顔をしている」
「俺はだいたいこういう顔ですけどね」
グラスのワインを一気に呷って、たんっ、とテーブルに置いたなり、先生はじっと俺を睨んでくる。
「……キミの妹、小町くんが珍しく電話をくれてな。泣きながらキミへの謝罪を語っていたよ」
はあ、この人は。
もう事情を知っているのか。
……小町め。もうプリンもアイスも買ってやらん。それ以外は、応相談だ。
「分かりました。話しますよ……話せることだけですけど」
俺は自分以外の個人名をイニシャルでぼやかしつつ、五日前の件を語った。
「ーーふむ。事情はわかった。その辺のことを小町くんは話してくれなかったのでな」
この酔っ払い教師め、カマ掛けやがった。
小町はしっかりと守秘義務を守っていたのか。
一瞬と云えども疑って済まなかった。
お詫びとして帰りにアイスでも買ってってやろう。
「しかし、よもやそんな事態になっていようとはな」
腕を組んで唸る酔っ払い、もとい元顧問の口角がにやりと上がった。
「だが、登場人物がイニシャルでは感情移入が難しいな」
まずい。これは非常にまずい流れだ。
俺のことだけなら良い。しかし少なくともあと二人、川崎沙希と雪ノ下雪乃が関わっている。
俺と交際していたなどと知れたら川崎沙希の評価が下がりかねないし、俺に振られたなんてバレたら雪ノ下雪乃の沽券に関わるだろう。
無かったことにするのが彼女たちの為だ。
故に、このラインだけは死守しなければ。
「いや夏目漱石の『こゝろ』もKとか出てくるでしょうに」
「馬鹿者、あれは名作中の名作だ。キミの痴情の
いや『こゝろ』もほぼ痴情の縺れですけどね。特に後半の遺書の部分は。
「まあ、キミの話に出てきた『K』という人物が誰なのかはさて置き……最近川崎沙希と仲が良いらしいな」
ほろ酔いなのか、少し頬を朱に染めた平塚先生は、俺を抉ってニヤリと笑う。
「さ、さあ……どうでしょうか」
馬鹿っ、俺の馬鹿っ。
思いっきり動揺を見せてどうする。吃るな口ごもるな愛想笑いなんかするなよ俺っ。
小さく息を吐いた平塚先生は、柔らかな視線を向けてくる。
「話したくないのならいいさ。無理には聞くまい」
「……助かります」
「それでキミはどうする。雪……その告白された相手に乗り換えるのかね」
乗り換えるってあんた。総武線の快速から各駅に乗り換えるのとは訳が違うんですけど。
つーか雪って何だよ雪って。この人本当は全部知ってるんじゃないのか。
「そんなこと……出来る訳無いでしょう」
「だろうな。キミは不器用でたまに不気味だが、基本は実直な男だからな」
不気味は余計ですよ、結婚に不器用なアラサー教師さん。
「では、君はどうしたい」
「今の俺が何かを望むことは無いです。強いて挙げれば川……『K』の幸せを願うくらいですかね」
ふふんと鼻を鳴らしながら俺を見るその目は教師の目だ。さっきのイケメン店員さんに教えたい。
これが教師、平塚静だと。
「しばらく見ないうちに生意気な口を訊くようになったな。だが……」
テーブル越しに先生の手が伸びてくる。
「十年早いわっ」
ぎゅむんっと頬の肉を摑まれる。
「いでっ、でぇっ」
「想像してみろ比企谷。川崎にとっての幸せとは何だ。キミにとってはどうだ」
ついに川崎って言い始めちゃったよ、この酔っ払い。
しかし……考えたことも無かったな。これじゃ振られて当然か。
川崎沙希にとっての幸せとは何なのだろう。
大学を出て、良い企業に就職して、良い相手と交際し、良い相手と結婚。
……うむ。抽象的過ぎる。
だが、きっと俺はそれを叶えてやれない。
能力的にも難しいだろうし、何より別れることは決定しているのだから。
「か……『K』と俺の幸せが共存することは、もう無いですよ」
「本当にそうか? キミの十八番の決め付けでは無いのか?」
俺は……答えられない。
何故だ。
分からない。判らない。解らない。
言葉に引っかかるのは、喉につっかえた小骨の如き感情。
だが、その小骨の正体がわからない。
後悔か。未だ整理出来ない気持ちか。
それとも喪失感なのか。
「キミは存分に足掻いたのか。もうやれることは残っていないと胸を張って云えるか」
やれること、か。もう無いな。強いて挙げれば、川崎の最後の望みを叶えてやることくらい、か。
だが、それすら本当に川崎が望むことなのかもわからない。
もしかしたら、もう俺と会うことすら嫌気が差したのかもしれない。
* * *
「車を回してきますので、この方を少し見ていてください」
イケメン店員さんに頼んで店を出て、コインパーキングまで歩く。平塚先生は店内で気持ち良さそうに酔い潰れている。
足掻く。
そんな事、考えもしなかった。考えた処でしないと思うが。
足掻けば足掻くだけ川崎に迷惑を掛けることになり、更に苦しめてしまうだろう。
ならば潔く散るべきだ。
だが、今日平塚先生と会ったのは幸いだったのかもしれない。
話を聞いてもらっただけでも少し楽になった。
本当、こんなに良い教師は他に知らない。
もしも機会があるのなら、俺は平塚先生を恩師と呼ぼう。
多少暴力的でも、行き遅れでも、飲兵衛でも、この人は俺にとってはただ一人の恩師だ。
さあ、恩師を迎えに行くか。
店の前に愛車カプチーノを着ける。
店員さんに手伝ってもらって、助手席の低いシートに先生を寝かせてもらう。
「えーと、お会計は……」
「先程こちらのお客様から」
……え?
どういうことでしょうか。
「先生、もしかして……起きてますよね」
「ううんっ、ひきがやぁ……」
寝言らしき言葉を吐く平塚先生と、一瞬目が合う。
騙された、やっぱりこんな教師は恩師なんかじゃない。
「ーー先生。じゃあお先に失礼しますので降りてください。ご馳走様でした」
平塚先生の腕を引っ張って助手席から降ろそうとすると、急にしっかりとした口調に戻って慌て出した。
「えっ、あ? 嘘、嘘だから」.
やっぱ演技かよ。元教え子の前で酔い潰れた振りをするなんて目的が解らないです。元恩師さん。
「……ちょ、ちょっと待て。キミは酔い潰れたうら若き女性を放置するのか」
本物のうら若き女性が聞いたら怒りかねないので黙っときましょうね。
つーか黙れアラサー大根役者め。
「それだけ弁舌が回れば自分でタクシーに乗れますよね」
「た、頼む。ほんの出来心だったんだよ。送ってくれよぉ」
どんな出来心だよそれ。その出来心で始めた小芝居に付き合わされる俺とイケメン店員さんの身になって欲しい。
「……夢だったんだ。男の前で酔い潰れるのが」
ちっさい夢だな。
いや、そうでもないのか。ワイン三本空けても酔い潰れない男って、そうそう居ないのかもしれないな。
「はあ、分かりましたよ。道の案内、お願いしますよ」
斯くして、平塚先生が俺の愛車に乗る二人目の女性となってしまった。
* * *
酒の力も加わってか平塚先生は上機嫌で、道中では鼻歌なんぞを歌っていた。
「ふふっ、可愛い車じゃないか比企谷」
「ありがとうございます」
「中々良いものだな。卒業生に乗せてもらう助手席も」
「というか、早く降りてください。もう着いてるんですから」
そう。此処は平塚先生の自宅マンション前である。しかも着いてから、かれこれ五分も路上駐車の状態なのだ。
「えーっ、もうちょっとだけぇ」
「ダメです」
「……ちぇっ」
口を尖らせて舌打ちですか先生。可愛いけどそれ以上にイラっとしましたよ。
「まあ、とにかくだ。今夜はありがとう、比企谷」
「いえ、俺の方こそご馳走になった挙句に色々聞いてもらっちゃって、すみませんでした」
頭を下げてお礼を述べると、くすっと笑う声が漏れた。
「キミも社交辞令を云えるようになったか」
「意外と本心かも知れませんよ」
事実本心だ。
よく「話せば楽になる」と云う。
あれは刑事ドラマの取り調べの落とし文句という認識しか無かったが、どうやら話すと本当に楽になるようだ。
そういえば、平塚先生と会ってからの俺はしっかりと思考が出来ていた様に思う。それは、話を聞いてもらうことである種の余裕が生まれたことを意味する。
しかも相手は年上。恋愛経験は常敗無勝かもしれないが、人生経験は遥かに勝る人だ。
この人で無ければ、話せなかったかもしれない。
今までは誰にも話せなかったことを聞いてくれた先生には、感謝しかない。
「では。送ってくれたお礼に、私の恩師の言葉を授けよう」
けほん、とひとつ。
『あきらめたら、そこで試合終了だよ』
……いや恩師って安西先生かいっ。
どんだけ少年漫画好きなんだよ。
* * *
家に向かう道中、幹線道路をUターンしてアクセルを踏む。
『あきらめたら、そこで試合終了だよ』
平塚先生、いや安西先生の言葉が脳内で繰り返される。
とっくに試合終了のホイッスルは鳴ってしまったのに、まだずるずると考えている。
何のことは無い筈なのだ。
また独りに戻るだけの話だ。
結論は出てしまったんだ。
そう自分に刷り込んできた。
なのに何故。俺の脳は思考をやめないのか。
心の何処かで、まだやり直せるとか甘いことを思っているのか。
浅ましい。醜い。
何かに希望を見出そうとする自分が滑稽で愚かで、どうしようもない屑だと思える。
あの時の川崎沙希の目を見たはずだろ。
あの決意の眼差しを覆すだけの材料なんて、俺にある筈はないんだ。
無駄だ。諦めろ。
言い聞かせても言い聞かせても、頭は回り続ける。
もう遅いのに。
とにかく俺は、出来ることをする。
川崎沙希の依頼を完璧にこなす。
だが、俺がすべきことは何だろう。
「考えるか……」
呟きは誰の耳にも届くことなく、排気ガスと共に夏の夜風に浚われた。
今回もお読み頂き、ありがとうございます。
ずっと重い展開が続いていたので、シリアスの中にコミカルな表現を入れ込んてみようと思いました。
ある意味冒険的な回でしたが、なかなかうまくいかないですね。
ご意見、ご感想などお待ちしております。
ちなみに、作中に出てきた「ロリアン」は山梨県の勝沼ワインです。
次回の投稿は、早くとも来週末になると思います。
ではまた、いつかの19時にお会いしましょう。