千葉ラブストーリー   作:エコー

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八幡の誕生日の夜、雪ノ下雪乃に告白された比企谷八幡。
寄り添う二人を目撃した川崎沙希。

噛み合っていたはずの二人の歯車は、欠け落ちていく。


願い

 

 八月八日の夜である。

 比企谷家での誕生会の後。

 

「川崎!」

 

 未だそぼ降る雨の中、俺は走っていた。

 

「……川崎」

 

 目に映るのはシャツターが下りた店先。その軒に架かる庇(ひさし)の下、川崎は立っていた。

 

「なに、してたの」

 

 答えられない。

 正しくは、どう答えたら良いか整理がつかない。

 

「雪ノ下と何してたのかって聞いてるんだよ!」

 

 川崎沙希の叫びは雨の音を掻き消し、町並みに響き渡る。

 

 凡そ初めてみた、川崎沙希の激情の発露。

 ばしゃばしゃと水溜りに足を突っ込みながら歩み寄り、川崎は俺の肩を掴んだ。

 川崎の指先が肉に食い込む。

 

「答えて!」

 

 俺を見据えるその双眸は怒りを宿している。

 

「……すまん」

「謝んないでよ……ちゃんと説明してよ……」

 

 シャツターの軒下に川崎を促す。

 見ると、Tシャツは飽和状態まで水分を吸って、その下のピンク色まで透けていた。

 このままだと川崎が風邪引いちまうな。

 

「川崎、説明するが……聞いてくれるか」

 

 弱く頷く。

 

「実はーー」

 

 雪ノ下雪乃の告白、それからの顛末を出来るだけ正確に伝える。

 勝手に話してしまって雪ノ下には申し訳ないと思う。だがこいつの目には、俺と雪ノ下が抱き合っていたように見えた筈だ。

 今の俺には何より川崎が大事だ。細大漏らさず伝えさせてもらう。

 

 誤解は解けない。何故なら既に解は出てしまっているから。

 そんな風に思っていた。

 だけど、この誤解だけは解かなければいけない。

 例え解けないにしても、その為の努力は惜しみたくは無い。

 こいつなら、川崎沙希なら話せば解るんだ。

 俺は過信してしまっていた。

 

 状況説明が終わる頃には、雨は止んでいた。

 

「……そう」

 

 俺の言い訳めいた説明の後、川崎は泣き出した。

 その姿を、とっくに自分の処理能力が破綻した俺は、何も出来ずに見ている。

 

「雪ノ下の処に戻らなくていいの……?」

 

 何故だ。何故そんな悲しいことを云うんだ。

 そりゃ雨の中に置き去りにしてきた雪ノ下に対しては申し訳なく思う。罪悪感もある。

 だけど、それよりも川崎なんだ。

 何故伝わらない。何故理解されないんだ。

 俯いたまま涙を拭い、川崎沙希が呟く。

 

「……もうね、わかんなくなっちゃった」

 

 何が解らない。今説明しただろ。

 

「雪ノ下と抱き合う比企谷を見て、ああ、やっぱりこれは、あたしの横恋慕なんだなぁ……って」

 

 勝手に決めるな。俺は。

 

「比企谷ってさ、優しいから……だから、こんなあたしを受け入れてくれたんだよね」

 

 違う。そんな感情を抱くほど俺は思い上がっちゃいない。

 ーーいや、川崎の目には、そう映ったのか。

 

「やっぱり……比企谷と雪ノ下ってお似合いなんだよ。悔しいけど」

 

 その結論はおかしい。

 何でそうなる。

 どういう論理でその言葉を導き出したんだよ。

 だけど……。

 そう思わせてしまったのならば、それはきっと俺の責任なのだろう。

 

「あたし一人で舞い上がっちゃってさ、ほんと、馬鹿じゃないの、あたし……」

 

 舞い上がっていたのは俺も同じだ。

 いや、俺はもっと酷い。全ての事柄に対して調子に乗っていたのかもしれない。

 川崎沙希と付き合い始めて、世の中すべてを手に入れたような気分に陥って、すべてが上手くいくものだと思っていた。

 吐き気がするくらい気持ち悪い、自信過剰っぷりだ。

 何より、人の気持ちを考えきれなかったのだ。

 目の前で泣きじゃくる川崎が何よりの証拠だ。

 

「でもね」

 

 川崎の声音は低く、冷たい。

 

「あたしは……同情は要らない」

 

 違う。それは違う。

 少なくとも俺にそのつもりは無い。

 同情で一緒にいた訳じゃない。同情なんかで付き合えるかよ。

 だから勝手に解釈して勝手に纏めないでくれ。

 しかし。

 しかし川崎は、俺の感情を同情と結論付けた。

 それは……川崎の好意を知った俺が、その感情に合わせていただけと云う意味に解釈出来る。

 それは、食い違いや齟齬とは違う。もっと別の何かが強く影響していると思えた。

 それが俺には解らない。

 解らない以上、俺は何も云えない。

 黙って川崎の声を聞く。それだけしか出来ない。

 そしてその声は、言葉は、俺が思い描いてしまった、俺が一番聞きたくない言葉へと一歩一歩、確実に近づいていく。

 

 ああ、もう駄目だ。

 心の中で覚悟が出来てしまった。

 何を云われても己の罪として甘んじて受ける、その覚悟が。

 

「だから……諦める。あんたとは別れる」

 

 最後通告。

 

「もう……さよなら、しよう」

 

 目の前が真っ暗になった。

 覚悟を決めたくせに、さよならという言葉だけが脳内に反響する。

 

 頭を振り、意識を覚醒させ、川崎を見つめる。

 

 ーー!

 

 俺は何も言えなかった。

 川崎沙希の顔を、真っ直ぐ見つめる決意の目を見てしまったら、何も言えなくなってしまった。

 

「でも、最後に……もう一つだけ、我儘な依頼を聞いて。最後だから」

 

 依頼……か。

 

「あんたが言ってた東京ラブストーリー、見たんだ」

 

 俺もまだ見てないのに。いつか二人で見ようと思っていたのに。

 

「あれって、カンチとリカ、最後は別れちゃうんだね……」

 

 きっと主人公たちの名前なのだろうけれど、俺は知らない。

 俺の知らない、川崎だけが知る、ドラマの結末。

 俺たちの結末。

 きっともう、覆らない。

 それは完成されてしまったから。

 

「だから、最後は……せめて最後だけは、ドラマみたいに綺麗に終わりたい。あたしにとっては……あんたが初恋だから」

 

 もう、戻れないのだろう。

 川崎に告げられてしまった。

 俺は受け入れてしまった。

 もう、戻れない。

 

「……わかった」

 

 覚悟を決めた。川崎沙希の真剣な眼差しを見たら、そうせざるを得なくなってしまった。

 

 こうして俺は、誕生日の夜に大事なものを失った。

 

 何が誕生日だ。何がおめでとうだ。

 めでたいことなんて一つも無い。

 雪ノ下を傷つけ、川崎を傷つけた。

 

 それ見たことか。

 この世に神なんて存在しない。存在するのは人の運命を弄ぶ悪魔だけだ。

 じゃなければ、何故雪ノ下は俺に想いを告げた。

 何故川崎はそれを見ていたんだ。

 説明がつかない。偶然にしてはタイミングが最悪過ぎる。

 

 本当に最悪だ。

 だがまだ気づいていなかった。

 本当に最低なのは、今の俺なのに。

 

  * * *

 

 川崎と別れた帰り道。

 俺は、あの後川崎が告げた言葉をひとつずつ反芻していく。

 

 川崎の発言は大きな矛盾を孕んでいた。

 別れる。

 そう告げた直後の「依頼」。

 何故彼女は、終わらせようとしながらも改めての終わりを望んだのか。僅かの延命措置で何がどう変わるというのだ。

 わからない。

 考えても考えても理由が見つからない。

 見当がつかない。

 終わることは、確定してしまったのだ。

 

 ポケットに押し込んだスマホの鳴動に思考が遮断された。

 送信元はーー川崎だ。

 

 こわい。

 メールを開くのが怖い。正直見たくない。

 見たら、読んでしまったら。

 本当にすべてが終わる。

 足は、水溜りの中で止まっていた。

 

  * * *

 

『最後に旅行に行こう。そして、再会したあの場所で終わろう」

 

 実家に戻った俺は、追い縋る小町を振り切って自室に篭ってスマホを見つめていた。

 タイトルに「依頼」とだけ記されたそのメールの短い文章を何度も読む。

 

 意味がわからない。

 

 何故川崎は旅行を提案してきたのだろう。別れを切り出したばかりなのに。

 普通ならば、もう顔も見たくないだろうに。

 わからない。

 整理かつかない。何度メールの文面を読み返しても川崎の感情が読み取れない。

 

 ドアがノックされた。

 大方小町だろう。

 すまん小町。

 心中で詫びつつノックを無視する。

 余裕が無い。思考が状況に追いつかない。頭で理解出来る筈の言葉が、まるで名も知らぬ異国の言語のように思える。

 それでも考えなければならない。

 長年、思考の海の中で生きて来た俺には、考えることしか出来ない。

 

 ノックは、何度も繰り返される。

 

  * * *

 

 時間は無情だ。

 どれだけ疲れていても、どんなに身体が重くても。

 心臓が律動を刻む限り、その生命活動が続く限り、平等に朝は訪れる。

 

 例えその胸に絶望を抱えていようともーー。

 

 一晩ずっと考えていた。

 川崎の言葉の裏を、真意を知るために。

 次第に思考は逸れて、後悔に陥った。

 俺の何がいけなかったのか。何を間違えたのか。

 思いつく限り考えた。記憶を辿れるだけ辿って、俺の罪を掻き集めた。

 導き出した結論は「慢心」だった。

 

 眠気を飛ばすために洗顔を済ませてリビングに行くと、神妙な面持ちの小町がソファーに腰掛けていた。こちらを見て、すぐに俯いた小町の目は赤かった。

 

「おう、おはようさん」

「あ、あの、ね……」

 

 云いたいことは大体察しが付く。

 昨日の件だろう。

 

「……ごめん、お兄ちゃん」

 

 目に涙を溜めて、小町は深々と頭を下げる。

 

「本当にごめんなさい」

「……気にすんな。俺が悪い」

 

 今回の責任は間違いなく俺にある。

 川崎のことは……時期をみて、折を見て二人に伝える。

 その言葉で逃げていた。

 最初に雪ノ下雪乃に再会した時、全て告げるべきだった。

 遅くとも、図書館に奉仕部が集まった時には二人に云うべきだったのだ。

 だがそれをしなかった。

 何故だ。その解は呆気ないほど簡単に出せた。

 心の何処かで、あの二人に告げるのを躊躇していたから。

 

 つまり他の誰でもなく、俺が悪い。

 

 小町は涙を浮かべ、声を詰まらせながらもこれまでの経緯を話してくれた。

 俺の帰郷を知った由比ヶ浜と雪ノ下が、小町に俺の誕生日を祝いたいと相談したこと。

 その中で、雪ノ下雪乃から俺に対する想いを打ち明けられたこと。

 由比ヶ浜は雪ノ下の想いの深さを知って、俺への想いを断念したこと。

 誕生会の後、俺に雪ノ下を送るように云ったのは、雪ノ下に告白の機会を作る為だったこと。

 

「あの後……雪乃さんから連絡もらったんだ」

 

 雪ノ下の言葉は、報告では無く謝罪だったと云う。

 何度も何度も電話口で、ごめんなさいと呟いたそうだ。

 

「もう、お兄ちゃんに合わせる顔が無い、って……」

 

 あの時、雪ノ下は気づいていたんだな。

 俺が雪ノ下を置き去りにして走り出した理由を。

 川崎を追いかけたことを。

 

「……そうか」

「沙希さんにも謝ってた。お兄ちゃんに、沙希さんに……すごく申し訳ないことをしたって」

 

 小町の顔が歪む。小さな握り拳が震える。

 そこに見えるのは後悔の念。自責の念。

 だが違うんだよ小町。

 お前は悪くないんだ。

 だけど、それを云ったところで慰めにしかならない。

 こいつは俺の妹だ。

 誰よりも俺を知っていて、俺は誰よりもそんな小町を見てきた。故にこいつが今、どれだけ自分を責めているかが計り知れる。

 だから、これ以上の責任を背負おうとするな。

 兄の為に妹が責任を負うなんて馬鹿げている。

 

「……もういいよ」

 

 小町の隣に腰掛け、その苦悩で満たされた頭に手を乗せる。

 

「……小町が言えばよかった」

 

 鼻声で呟く。

 軽く髪に手櫛を通すと、その嗚咽は鎮まっていく。

 

「……雪乃さん結衣さんから誕生会の話をされた時に、お兄ちゃんは沙希さんと付き合ってるって、いつもみたいな調子で言っちゃえばよかった」

 

 小町が俺の胴に抱きつくと、再び嗚咽が始まった。

 

「いや、その時点では明確に付き合い始めてなかっただろ」

「ぐすっ……それでも、だよ。沙希さんとお兄ちゃんがそういう感じになってるのは小町、知ってたもん」

「気にするな。時期をみて話すと云ったのは俺なんだからさ」

「でもさ、小町が言い忘れてたせいでお兄ちゃんは誕生会のこと知らなかったし。もし小町がちゃんと伝えておけば、こんなことには……」

 

 嗚咽が激しくなる小町の頭を軽く二回ほど叩く。

 

 こいつは……

 お節介で、調子に乗りやすくて、いつも俺の望まない方向へ事態を誘導する。おまけに訳の解らないポイントをつける。

 だが、此れ程までに兄の為に良かれと頭を悩ませ、涙を流してくれる妹を他に知らない。

 やっぱりこいつは、俺にとっては本当に兄思いの最高最愛の妹だ。

 

 だからせめて、俺の思いや後悔、今考えていることを伝えよう。

 

「俺はさ、全て上手くやろうとしてたんだ」

「うん、知ってる。お兄ちゃんすごく頑張ってたもん……」

 

 頑張ってる様に見えていたのか。俺は自然に振る舞っているつもりだったんだけどな。

 

「でも実際は……上手くやれてると思い込んでいただけ、だったんだと思う。思い上がっていたんだと思う」

「そんなこと……」

「まず、上手くやろうとしたことが間違いなのかも知れないな」

「でもそれは、沙希さんのことを真剣に……」

「ああ、俺もそのつもりだった」

 

 だが、あくまで「つもり」だったのだろう。

 自分自身、初めて感じる幸福の中で俺は冷静な判断力を失った。

 経験の無さや知識の無さを理由に、川崎が望むことを一般的な恋愛におけるそれとすり替えた。

 それでも川崎は笑ってくれた。

 でも実際は、慢心の中で上手く立ち回ろうとして、川崎に嫌われないような恋人役を演じようとしていただけだったのだ。

 つまりそれは、かつての俺が一番忌み嫌った……欺瞞だ。

 

 川崎が俺の表層、上っ面だけを見ていたのなら、それでも何事も無く過ごせていたのかもしれない。

 今回の雪ノ下の件も軽く流してくれたのかもしれない。

 だが、そうではなかった。

 川崎は俺の奥深くまで見ようとしてくれた。そこでは下手な誤魔化しは効かない。

 

 故に見抜いた。

 俺が俺自身を見せていなかったことを。

 彼女が俺の「本物」になろうとしていたのに、俺は彼女の「理想」であろうとしたことを。

 

 もっと本音で話すべきだった。本心を見せるべきだった。

 例え愚かでも笑われても、どんなに醜くても、そうするべきだった。

 何が理解されないだ。

 本音を語らない、本心も見せない。

 そんな奴は理解されなくて当然だ。

 今、はっきり解った。

 

 俺の最大の間違いは、川崎沙希に心を見せようとしなかったことだ。

 

「だから、川崎を悲しませたのは俺の責任、罪だ。雪ノ下を悲しませたことも含めて、な」

「お兄ちゃん……」

「心配すんな。これ以上小町が気を病むことはない。あとは俺の責任、俺の問題だ」

 

 俺は間違った。

 川崎の慟哭も、雪ノ下の嗚咽も、小町の葛藤も、全て俺の間違いから生じたことだ。

 

「……小町」

「なぁに、お兄ちゃん」

「恋愛って……難しいんだな」

「……うん」

 

 こんな俺に川崎は沢山の幸せを与えてくれた。

 一緒に車の中で過ごす幸せ。

 意外な一面を知ることが出来た幸せ。

 今の川崎沙希を形成する初源を知れた幸せ。

 何より、深く想われる幸せ。

 川崎沙希が与えてくれた数々の幸せ。

 なのに俺は、何ひとつ川崎に返せていない。

 これらに報いる為に出来ること。

 その道は川崎が示してくれた。

 ならば俺は、最後の願いを叶える為に全力を尽くすしか無い。

 

 川崎沙希の「理想」の別れを実現する為に。

 

 

 




今回もお読みいただき、ありがとうございます。

恋愛に慣れていない川崎沙希と比企谷八幡。
故に起きてしまった齟齬。
そして川崎沙希が出した結論は、別れ。

本文中で八幡は自分の間違いに気づきましたが、そこにも間違いがあることを知りません。
同時に、川崎沙希も自分の間違いに気づけないままです。
いえ、もしかしたら正解なんてものは存在しないのかも。

こんな話でしたが、ご意見、ご感想などお聞かせ願えたら嬉しいです。

よければまた次回、お会いしましょう。

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