八幡の願い空しく、雪ノ下雪乃に強制招集をかけられた奉仕部一同。
八月六日、午前八時。
今日はハムの日だ。
……余談だ。
『十時半、市立図書館正面玄関前に集合』
今朝ついに雪ノ下雪乃から労働という地獄へ誘う招待状が届いた。
もしも俺が生粋のMだったなら『恐悦至極にござりますぅ』とかいうのだろうか。
知らんけど。
さて招集の内容である。
先日の広田裕樹少年の家庭教師の件。
あの時雪ノ下雪乃が広田少年の母親に告げた言葉。
『お母様、私に一日だけ、裕樹くんを預けて頂けないでしょうか。最後の授業を彼にしたいのですが』
今回はこの雪ノ下の勝手な申し出の手伝いをしろとのお達しだ。
まったく困ったものである。
そもそも雪ノ下が勝手に言い出したことに、俺が駆り出されるのが非常に腑に落ちない。
高校時分、奉仕部という枠組みで受けた依頼ならいざ知らず、雪ノ下雪乃自ら広田さんに申し出たことに巻き込まれる謂れが無い。
いつまでも部長気取りでいるんじゃねえよ、本気でそう突っ込みたくもなる。
それでも思うのだ。
かつての雪ノ下雪乃は自らこうした申し出をする人物では無かった。
高校時代の奉仕部。そのスタンス。それは、伸ばされた手を掴むだけだった。要するに、座して注文を待つだけの活動しか為されなかった。
思えば、このスタンスには随分と苦しめられたものだ。
解決はしない。するのは解決への道筋を示すことと、その手伝い。あくまで解決するのは依頼者本人だった。
『飢えた人に魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える』
今となっては誰が決めたかも判らないその理念、方針に、俺は随分と悩まされたものだ。
それが今は自ら提案し、実行しようとしている。
成長なのか変化なのか。
それとも奉仕部の呪縛から解き放たれたのか。
きっと俺は、それを見極めたいのだ。
一度は同じ釜の飯を食ったーー正確には同じオーブンで焼いた消し炭を喰らった仲間の、奉仕部の行く末を見ておきたいのだ。
だが、一方で気が進まないのも事実である。
不意に雪ノ下の名前を出した時の川崎の不貞腐れた顔。
それを思い出す度に左心房辺りが締め付けられる。
今回は断るべきか。
余談ではあるが、来週からは最終候補に残ったもう一方の男子中学生の家庭教師を担当することが決まっていたりする。
従って、俺は今回の召集を拒否しても何ら問題は無い。
残る問題は、その招待状が小町経由で来たという点だ。
まあ雪ノ下は俺の連絡先を知らない筈だから伝手を辿るのは仕方ないことだ。
実はこれが一番厄介なんだけどね。
「お兄ちゃん、約束は守ること。それがハーレムの第一歩だよ」
ほら、これだ。
約束した覚えはないんだけど。一方的な押し付けを約束と呼ぶのなら、世の中は約束破りのデスパレードである。
あと最後の一文、いらなくね?
ハーレムなんて想像上の家族形態、ラノベの中の絵空事なのだよ。
だいたい、川崎以外に俺を好きになる奇特な女子なんているわきゃ……。
うん、心当たりが無い訳でも無いけど、思い当たる節が無かった訳でも無いけど。
自嘲になるが、最近の俺ときたら、それはもう川崎にぞっこんなのである。
あの口唇にあの柔らかさ。不意に見せてくれる笑顔や甘える顔。
何より、川崎は必要以上に俺を蔑まない。
無論、不満は口にするし叱られもする。拗ねたり怒ったりもするが、それは俺の不徳の致すところだ。
また、幼稚な揶揄の応酬もするが、そういった軽口は叩くことはあっても、あくまでそれはコミュニケーションの一環としての言葉のキャッチボールだ。何処かの冷血部長さんの様に血で血を洗う銃撃戦ではない。
川崎の放つ言葉の端々からは俺の「個」を尊重してくれているのが有りありと伝わるのである。何というか、苦節十九年、やっと人として認めてもらえた気分だ。
眠る前、目を閉じると浮かぶのは川崎の顔。それは色鮮やかに瞼に浮かんでしまう。そんな夜、俺はきっと気持ちの悪い笑みを浮かべながら眠りにつくのだろう。
かなり毒されてるな。何なら洗脳されてると云っても良いくらいだ。
かつては向かうところ敵ばかりだった俺も籠絡されまくり、今はすっかり最強ぼっちの座から陥落している。
寝ても覚めても、何なら夢の中までもが川崎沙希なのである。
恥ずかしいしキモいから本人には絶対云えないけど。
うっかり夢中になって考えてしまったが、この先に待ち受ける奉仕活動を思うと、現実逃避も仕方が無いのである。
ま、小町に云われたら断れない。川崎には一報を入れておくか。
ついでに夜の約束を取り付けよう。そして川崎に癒してもらおう。
きっと夕方過ぎの俺は、疲労困憊コンパニオンガールだろうから。
つーか、決行日に連絡っておかしくない?
* * *
午前九時。
とりあえず集合場所である図書館の玄関前に着いた。
これで任務の半分は達成である。あとは帰るだけだ。
かのピエール・ド・クーベルタン男爵は云った。
参加することに意義があるのだと。
ならば、ここにこうして馳せ参じただけでも多少の意義があり、その功績は今すぐ帰ったところで消えることはない。
以前よくこねくり回した屁理屈である。
しかし暑い。
汗が玉になって流れ落ちる。その玉が落ちたコンクリート打ちの地面に目を落とすと、瞬く間に汗の黒点は小さくなって消えた。
なぜ待ち合わせ場所を図書館の中に指定しなかったのだと、雪ノ下の思慮の足りなさに対して今さらながらに疑問を感じるのである。
あー、だるい、暑い、帰りたい。
ある意味「夏の三原則」だな。
「はあ、夏休みくらい休ませろよ……」
この暑さだ。思わず愚痴も汗も零れるというものだ。
隣にはそんな愚痴一つ零さない健勝な奴もいるが、きっとそれは特殊な例だろう。こいつ、空気を読むのは得意だったし。
きっと空気読みの特技を極めると、熱気すら中和出来るのであろう。
でなければ、こいつの笑顔の説明がつかない。
「まーまー、ゆきのんの頼みだもん。ヒッキーも文句言わないの」
相変わらず由比ヶ浜結衣は元気である。
ちらと目を向ける。すぐに視線を逸らす。
いかん。こいつは兵器だ。男を惑わす最終兵器だ。
駅のホームで「セックスしよ」なんて笑顔で云える破壊兵器だ。
本日の由比ヶ浜結衣の服装は、オレンジ色のノースリーブの上に地肌が透ける薄手の水色のサマーニット、そしてデニムのミニスカートという、目にも涼しげな出で立ち。
雰囲気そのものは高校時代と変わり映えしないものの、その実非常に似合っている。
ここまではいい。ここから先が、こいつの最終兵器たる核心だ。
何よりも目を引いてしまうのは高校時分よりも更に成長したと推測せざるを得ない二匹の巨大スライムと、それを左右に分かつかの如く肩から斜め掛けされたショルダーポーチである。
パイスラッシュって卑怯だと思いますっ。
い、いかん。思わず目が……。
万乳引力に抵抗して視線をバタフライさせていると、その視界の隅に凛とした立ち姿が見える。
今回の原因、元凶であり首謀者。雪ノ下雪乃だ。
「あ、ゆきのんやっはろー!」
ああ、大学生になってもその挨拶なんですね。
「こんにちは由比ヶ浜さん」
ああ、大学生になっても俺は安定の無視ですか。
「……こんにちは、比企谷くん」
良かったー、辛うじて存在は知られてるみたいだ。
しかし何だよ、今の一瞬の間は。
そんなに俺に挨拶するのに覚悟が必要なのかよ。
比企谷菌はパンデミックではないのですけどねえ。
何はともあれ、発端である雪ノ下雪乃が現れた。
こういう言い方するとドラクエのモンスターみたいだな。
当方まだレベル1なのでラスボス級はお引き取りください。
まあ中身は別にして、外見はモンスターとは真逆だ。
どちらかというと精霊っぽい。
清潔感溢れる白の半袖のシャツに走るのは細いブルーのストライプ、下は淡いピンクのロングスカート、いやブリーツスカートってヤツか。
こちらは高校の時と変わらぬ安定の貧……慎ましい感じである。
やはり天が与え賜うのは二物までか。
ーーどっかの服飾評論家みたいだな俺。
もう、ふんづけてやるっ。
斯くして総武高校卒業以来、久しぶりの奉仕部全員揃い踏みと相成った訳だが。
改めて今回の案件を考えると気が重くなる。
あのやる気も自覚も無い他力本願な中学生、広田少年にやる気を出させるなど、考えるだけ無駄な気がする。
そもそも広田少年本人に、自分を変えるつもりなど微塵も感じられないのだから。
ああいう輩は、自分自身で気づかない限りは行動を起こそうとしない。ソースは俺。
小学校の頃、何故自分がいじめられるのか、何故無視されるのかを徹底的に考えたことがあった。自己啓発の走りみたいなものだ。
結果的に出した結論は『人と関わるから』である。
いじめも無視も、相手があって成り立つ。謂わば人間関係の一形態ともいえる。
故に、他人と関わらなければ人間関係そのものが無い訳で、いじめも無視も解消される。
ま、結果は全然違ったけど。
要するに、自分の現状は自分で悩み抜いて打破するしか無いのだ。
今回の依頼は、雪ノ下の申し出によっての案件だ。言い換えれば雪ノ下雪乃の依頼とも言える。
雪ノ下雪乃の我儘とも言える。
もう部員でも無く高校生でも無いのに強制参加させられた俺は完全なとばっちりだ。
由比ヶ浜?
こいつは喜んでるから別にいいや。
さて今回の案件に対して、雪ノ下はどんな計画を練ってきたのかな。
早速伺ってみましょう。
「計画? そんなもの無いわ」
はあ……呆れた。
「無計画かよ」
お得意の冷たい視線で俺を一瞥、雪ノ下雪乃は事も無げにつらつらと語る。
「仕方ないでしょう。何も思いつかないのだから。でも、そう云うからにはあなたは何らかの策を練ってきたのよね?」
それ、無い胸張って云う台詞じゃないよね。自分の事を棚に上げ過ぎて、そのうち棚が落ちるぞ。
それに自分の事を棚に上げるのは俺の十八番、専売特許だ。
だから堂々と告げてやる。
「俺をなめるな。もちろん無策に決まってるだろうが」
あの生意気なガキと母親をどうこうできるスキルが俺にあると思うか。
なめんな。
「はあ、もう呆れるのを通り越して幻滅、いいえ殲滅したい気分だわ。他人を否定するのなら代案を出すのが道理だと思うのだけれど」
それ違くない?
案を持たない奴に案を出したからって、それを代案とは呼ばないぞ。
わかってらっしゃる?
会って五分で一触即発の状況。あっという間に対立構造の出来上がり。
こんな状況で良くニコニコしてられますね、由比ヶ浜さんは。
さすが懐が大きい。
うん、すごく大きい。もう歩く度に前後左右にたゆんぽよん。
「……視線が下品なのだけれど」
あ、あれ。バレてる?
視線の動きは完璧に偽装したつもりなのだが。
「うん、ヒッキーの目、えっちぃよ」
あらぁ、ご本人にもバレていらっしゃる。でも、キモいとか云われなかっただけマシか。
由比ヶ浜も成長しているのだろう。
「ば、馬鹿。そんな強調されたら嫌でも目に入るだろうが」
「いや、だった……?」
「だからそう云うことじゃなくてだなーー」
どう対処すべきか解らず困惑している視界の隅で「今に見てらっしゃい」とか呟かないでもらえますかね雪ノ下さん。
あと「作戦成功」とか呟いた由比ヶ浜さん。何が成功なのでしょうか。
「ーー策を弄している暇は無さそうね。もう来たわ」
その言葉で我に返り、雪ノ下の視線の先を追う。
前方数十メートル、明らかに嫌々と云う顔で現れたのは今回の案件である問題児。
「夏休みくらい休ませろよ……」
ごく最近どこかで聞いたことのあるような台詞を引っ提げて、だらけたお顔の広田裕樹少年のご登場だ。
「あなたは今まで充分休んできたでしょうに。十三年間ほど」
今こいつ十三歳だろ。人生休みっぱなしって、そりゃいいや。
それが罷り通るなら羨ましいことこの上ないね。
「うるせーよ。そんで雪乃、今日は何すんだよ。またいつもと同じ授業か」
「別に決めてはいないわ。ただ図書館で読書するだけよ」
「ふーん、ま、いいけど」
意外だった。
雪ノ下雪乃は、多少行き過ぎな面もあるにせよ凡そ礼儀作法に厳しい常識的で高潔な人間だ。
その雪ノ下が、中学生のクソガキに呼び捨てにされて普通に受け答えしている。
こういうところも、以前とは変わったのかもしれない。
「目が気持ち悪いわよ、ゾンビ谷くん?」
前言撤回。
こいつはこいつのままだ。
「由比ヶ浜さんも比企谷くんも、今日は読書よ。いいかしら」
「ああ、俺は構わない。涼しい図書館での読書なら一ヶ月くらいなら続けられる」
「夏休み終わるよ!?」
懐かしい遣り取りの中で思考を巡らせる。
こいつは図書館で何をする気なのか。
雪ノ下は無策と云っていたが、まるっきり策が無い訳でもあるまい。元々計画性の塊みたいな奴だし。
ふと雪ノ下を見る。
やはりそうだ。無策と云う割には悩む様子は無い。むしろ清々しいまでに普通だ。
そうなると益々雪ノ下の考えが読めない。
図書館に連れて来たということは、まず広田少年に読書をさせてこいつが何に興味を示すのかを確認するつもりなのだろう。
そこから先が見当がつかない。
読書くらいでこの捻ガキが更生するとは思えないからな。
そんな思考を展開しつつ、由比ヶ浜に相槌を打つ。
「ヒッキーのはただ引きこもりたいだけじゃん」
「うるせえ。俺は、俺の中では希代の読書家なんだぞ。ま、お前のビッチ脳じゃ読書なんて無理だろうけど」
「馬鹿にし過ぎだし。あたしだってもう大学生なんだよ!?」
ぷんすかと頬を膨らませる由比ヶ浜を揶揄っていると、ふと奇異な視線を感じる。
視線の主は問題児、広田少年。
広田少年は、俺たちの遣り取りを繁々と見つめていた。
「雪乃たちは、友達なのか」
あ、こら、バカっ。
「ーー失礼なことを云わないで欲しいわ。確かに由比ヶ浜さんは唯一無二の友人、いえ親友と云っても差し支えは無いのだけれどこの目の腐った男に関しては知り合いという言葉すら怪しいものよ。事実彼の妹経由で連絡先を教えたにも関わらず卒業以来一度も連絡を寄越さない。そんな男は知り合いにも数えたくは無いわ。人として数えるのも躊躇してしまうわ。まあ、もしかしたら余りにも使用頻度が少ないものだから鶏頭の貴方は携帯電話の使い方も忘れてしまったのかも知れないわね。だとしたらごめんなさい。次からは狼煙を上げるか伝書鳩を飛ばすことにするわ、トリ頭くん」
すげえ……いつもより余計にマシンガンぶっ放してるよ雪ノ下さん。
つーか途中から俺の悪口だよね。
一気に捲し立てた雪ノ下は多少肩で息をしつつも満足気に笑みを浮かべる。
由比ヶ浜はそんな雪ノ下にペットボトルの紅茶を渡しながら抱きつく。
「はいっ、ゆきのん」
「あ、ありがとう由比ヶ浜さん。でも少し暑いのだけれど……」
何だこの謎のコンビネーションプレイ。お前は雪ノ下のマネージャーかよ。
奉仕部時代よりもゆるゆりが進行してんじゃねえか。
「ま、聞いての通りだ。こいつらは友人関係だが、俺は違うそうだ」
「そんなこと、無いんだけどな……」
蒸し返すな由比ヶ浜。語尾に余韻を残すなよ。思わず「友達なのかな」とか邪推しちゃうじゃねぇか。
「トリ頭くんはさて置き、とりあえず行きましょう。ルールや条件は歩きながら説明するわ」
ルールや条件って何だよ。
本を開かずに読めとか云うの?
このはし渡るべからずなの?
トリ頭くんにはとんちは無理難題ですよ?
* * *
図書館に至るまでに雪ノ下が提示したルールは二つ。
本は、必ず皆のいる場所で読むこと。
本当に自分が好きな本、興味がある本を読むこと。
なんだそれ。
一つ目のルールは意味不明だが、二つ目は至極当然のことだろうが。
わざわざ図書館に来てまで嫌いな本を読む奴は相当の変態か捻くれ者だ。
よく考えたらどっちにも当てはまってしまいそうで自分が怖い。
マジ俺畏怖の対象だわ。
それぞれが本を選び、二階の閲覧室に戻ってきた。
雪ノ下が選んだ本は「若きウェルテルの悩み」の日本語訳だ。
え、こいつ何。
何か悩んでるの。
また姉や母親絡みか。
由比ヶ浜は雑誌のコーナーから偏差値の低そうな雑誌を数冊持ってきている。イニシャルで云うとJが二つ並ぶ奴とかだ。
ちらと表紙を見ると、昨年一部のファンから惜しまれつつも解散……もとい全員卒業したアイドルグループの元メンバーが丸い顔で笑っていた。
その下には『この夏おさえておきたい7つのアイテム』なんて、これまたスイーツ女子が好きそうな見出しが踊っていた。
幾ら読みたい本を読むといっても、図書館はコンビニの立ち読みとは違うと思うんですけどね。
俺は志賀直哉全集の中から「暗夜行路」を選んだ。
主人公の時任何某が、色恋沙汰や己の出生に悩み、苦しみ、結果すべて許すという内容だ。
既読の作品だが、図書館に滞在する数時間で読み切ることを考えると丁度良い文字数である。
こらそこ。暗い話とか云わない。
リア充がぼっちを極める名作なんだから。
広田少年はーーまだ本を選んでいる段階のようだ。
小説の中、主人公の時任何某が自分が祖父と母との不貞の子だと知った頃、広田少年が席につく。
手に持っているのは……数冊の図鑑と、考古学の本だ。
こいつはその方面に興味があるのか。どうでもいいけど。
再びページに目を落とす。
「おい、これなんて読むんだよ」
声の方を見遣る。
捻ガキ、もとい広田少年が開いたページのある箇所を指差している。
ちらと雪ノ下を見ると、視線を向けて小さく頷く。
その首肯の意味を推し測って、広田少年に言を放つ。
「ここは図書館だ。辞書の類も山ほどあるから自分で調べろ」
「なんだよそれ、お前は俺の家庭教師だろ」
「残念ながら俺はもうお前の家庭教師じゃない。そこの雪ノ下も同様だ」
雪ノ下を一瞥した広田少年は、不貞腐れるように無言で席を立つ。
……帰った、か。
帰るなら自分が出した本くらい片付けろよ。
しばらくすると、これまた山ほど辞書を抱えた広田少年が戻ってきて、今度は無言で辞書を引きつつ本に向かう。
雪ノ下は、そんな広田少年を見て少しだけ微笑んでいた。
* * *
壁の時計が正午を指し示した。
「少し、休憩しましょう」
雪ノ下の言葉で由比ヶ浜が背伸びをする。つーかお前、肩が凝るような本は読んでないだろ。
あ、肩凝りの原因は別のアレか。
睨むな雪ノ下。お前には無縁の話だ。
広田少年に目を向ける。
雪ノ下の言葉に気がついていない様子で、まだ本の世界に没頭していた。
「雪ノ下と由比ヶ浜は休んでこい。俺はもう少し読む」
何かを勝手に読み取った由比ヶ浜が微笑む。
「……わかった。ヒッキー、お願いね」
由比ヶ浜と雪ノ下が閲覧室を去るのを見届けて、俺は広田少年に話し掛ける。
「あまり根を詰めると疲れるぞ」
「うるせーよ、今いいとこなんだよ」
「ほう、どういう風にいいところなんだ?」
「今やっと、人類らしい人類が誕生したんだよ」
ふむ。人類や生物の進化を紐解いているんだな。
「じゃあアルディピテクスあたりか」
広田少年が目を見開いた。
「え? お前、知ってるの?」
「ああ、その名前くらいはな」
広田少年は身を乗り出す。
「じゃ、じゃあさ、その次に出てくる、アウストラロピテクスの中にも分類があるのは?」
若干広田少年の鼻息が荒い。興奮してるのかな。
原人で興奮とは、さてはお主、かなりの上級者だな。
「アファレンシスとか、細かい分類までは知らん。だがアウストラロピテクスの後期の方では石器を使い出したらしいな」
問題児が目を見開く。
「すげぇ、ここに書いてあるのと同じだ……」
あ、合ってた。
良かったー、文系の俺に理系の質問するんじゃねぇよ。
「へぇー、大学生ってすげえな」
「別にすごくはない。勉強さえすりゃ誰でもなれる、お手軽な身分だ」
これに関しては異論反論あるとは思う。
だが、学力面や経済面など様々な問題があっても努力次第で解決は出来るし、調べれば色々な手段はある。
つまり、やる気次第だ。
「……オレでもなれるのか?」
「当然だ」
即答。事実だし。
だって由比ヶ浜でさえ現役で志望校に合格出来たんだもの。
悪いな由比ヶ浜。いつもこういう時の引き合いに出して。
正面、広田少年が俯く。
「……オレさ、考古学とかやりたいんだ。化石とか好きでさ」
次第に広田少年の目が熱を帯びる。
この際、恐竜とか化石なんかは生物学に分類されるんじゃないのか、などと無粋なことは云わない。
知りたいという意欲、学びたいと思う意思が大事だ。
広田少年は尚も続ける。
「……子供の頃さ、一度だけ母さんが恐竜展に連れてってくれてさ。でかくてカッコ良かったんだよ」
「ほう、その気持ち解らんでもないな。俺も自分が恐竜になって高い目線から周囲を見下す妄想をしたもんだ」
問題児が破顔する。なんだよ、年相応の顔も出来るんじゃねえかよ。
「ひっでぇ。違うよ、恐竜ってのは人類が誕生する前は地球の覇者だったんだぞ」
「そ、そうか」
うむ。
現在までの研究の結果、恐竜絶滅から人類誕生までは六千万年程の時差があるが、今の広田少年にとっては些末な事である。
学べば何れ解ることだ。
もっと云えば、恐竜の繁栄は二億年以上前から六千万年程前までだ。対して、人類って長く見積もって二万年くらいの歴史しか無い。
これらも学べば解る。
「そうだよ、お前は何にも解っちゃいない。何で恐竜が滅びたと思う?」
「そりゃお前、隕石が地球に落ちて……」
広田少年が身を乗り出す。
「違う! オレは違うと思う」
否定した根拠はお前の意見かよ。まあいいぜ、聞いてやろう。
「じゃあ、お前は何が原因だと思うんだよ」
俺の質問に、にやりと笑って一言。
「食糧の枯渇さ」
* * *
広田少年の恐竜絶滅論が佳境を迎えた辺りで雪ノ下と由比ヶ浜が戻ってきた。
「あー、もう。何でわかんないかなぁ!」
「ちゃんと筋道が立つ説明をしろよ。その時同時に海洋生物も絶滅してるんだぞ。外的要因があったと推測するのが妥当だろ」
「だーかーらぁ!」
バン。
音の鳴った方向を見る。
雪ノ下が机に本を叩き付けていた。
「他の人達に迷惑よ。議論が白熱するのは構わないけれど、もう少し声を絞りなさい」
「……はい」
それからしばらくは、各人それぞれの本の世界にダイブした。
由比ヶ浜だけはファッション誌の流行の波に呑まれて溺れていたけど。
女子は大変だね。
* * *
図書館を後にする頃には日が傾き、嫌味な程眩しい西日に思わず細める。
「ーー雪乃先生、じゃあどうして恐竜は身体が小さな爬虫類に進化したのさ」
「あれは進化と云うよりも、適応と考えるのが妥当では無いかしら」
図書館を出ても、広田少年の熱弁は相変わらずだ。雪ノ下もその弁舌に付き合って、持てる知識を活用しながら答えている。
今回。
広田少年には僅かの変化があった。
一つは、恐竜という「夢中になれるもの」を思い出したこと。
もう一つは、雪ノ下を先生と呼ぶようになったことだ。
この二つの変化が彼の今後にどう影響するかはわからない。
だが、きっと良い方に影響することだけは感じられた。
「おい」
「何だよダメ大学生」
「お前、自分のやりたいことを母親に話したことは無いのか」
「……ねえよ、そんなもん」
広田少年は語り出した。
広田少年の本当の父親は既に他界していると云う。弁護士である今の父親は母親が一昨年再婚した相手らしい。
その再婚を機に母親は変わった。
息子を弁護士にするべく勉強を強要するようになって、ひどい時には部屋に監禁までされた。
義理の父親はその様子を見かねて母親に注意したらしいが、それでも母親の勉強に対する強制は未だに続いていると。
「オレはさ、弁護士なんかになりたくないんだ」
広田少年曰く。
法律は人が決めたものだからつまらない。対して、太古の世界にはまだ見ぬ発見が無限にある筈だと。
ならば、これからやる事は決まったも同然だ。
「それを、父親と母親にも伝えてやれ。お前の責任において、お前自身の言葉でだ」
自己責任。
十三歳の少年には荷が重い言葉なのかもしれない。
だが俺は真理だと思っている。
時間をどう使うか。
頭をどう使うか。
身体をどう使うか。
その結果、人生がどうなるか。
それはすべて本人次第なのである。
自分の人生の責任は、その身を以て自分自身が負うしか無いのだ。
広田少年は俯く。
「そだね。言葉で言わないと分からないことって、あるもんね」
神妙な面持ちで俯く広田少年に、雪ノ下が優しい声音を投げかける。
「その年齢で自分が好きな道を見つけられたあなたは、本当に凄いわ。私は……未だに見つけられないもの」
広田少年はまだ小さな拳を握り締める。
「雪乃先生……オレ、話してみる」
そう言い放つ広田少年は、数時間前よりも少しだけ大人に見えた。
「じゃあね、雪乃先生。それと、おっぱい姉ちゃん、あと八幡!」
けっ、俺は呼び捨てかよ。
あと由比ヶ浜、泣きながら胸を触るな。
二匹のスライムも泣いてるぞ。
茹だるような暑さの中、少しだけ成長した広田少年の背中が小さくなってゆく。
彼がこの先、どの様な人生を歩むのかは分からない。宣言通りに考古学者や生物学者を目指すのか、はたまた別の道へ進むのか。
それは彼自身が選択し、彼自身の責任において努力することだ。
今の俺たちに出来るのは、その小さな決意を背負った背中が見えなくなるまで見送ることだけである。
……いや本音を云えば早く帰りたいけどね。夕方なのにめちゃくちゃ暑いし。
* * *
結局、今回の達成条件は何だったのか。
今更ながらに疑問に思う。
結果として彼、広田少年は変化の兆しを見せた。ただそれが、雪ノ下の望んだ結果なのかは解らない。
そもそも問題って何だ。
あいつがやる気もなく他力本願であること。
今回だけでそれが解決、もしくは解消出来たとは思えない。今回は、単に広田少年の知識欲を刺激したに過ぎない。
「結局……今日は何だったんだよ」
主旨を示さずにざっくりとした疑問を呈する。
「最初に言ったはずよ。今日は図書館で自分の好きな本を読んだ、それだけよ」
強烈な違和感がざらりと胸の奥底を逆撫でする。
こいつは何を言ってるんだ。
広田少年の問題をどうにかする為に招集されたのでは無いのかよ。
「夏休みの一日くらい、みんなで図書館で過ごすのも悪くはないと思ったのだけれど」
「なら広田のガキを呼んだ理由は」
「あの子、見るからに図書館に縁が無さそうだったから呼んだのよ」
わかんねえ。全然理解出来ない。
くそっ、何だよこの気色悪いざらつきは。
「でも……あの子さ、ちょっとだけヒッキーに似てたよね」
俺の不穏な空気を察したのか、空気読みの達人こと由比ヶ浜は笑みを浮かべて言う。
その気遣い、無駄にはすまい。
「あ? 俺はお前をおっぱい姉ちゃんなんて呼ばないぞ、例え内心では思っていてもだ」
「思ってたんだ!?」
うむ。安心安定のツッコミだ。
「そ、そうじゃなくてっ……なんかさ、すぐ自分の世界に入っちゃったり、捻くれてたり」
そんなのは思春期全開の男子にはよく有ることだけどね。その最たる形態が中二病と呼ばれる症状である。
「そうね。性格は違うけれど……何となく似ているわね」
え、ちっとも似てないよ。俺の中学時代はもっとクールでダークで暗黒だったよ?
うわぁ、俺の中学時代って真っ黒だぁ。
「だよね。だからゆきのん、あの子を放っとけなかったのかなーって……」
あーもう。
どうした空気読みの達人。
迂闊にそういうことを口走るとアレが来るぞ。
あのマシンガンのような言葉の弾幕が。
「ーーどうかしらね」
……おい。
違うだろ。いつものご自慢のアレはどうした。様式美って知ってる?
ーーっ。
だから良い笑顔でこっち見るなよ。
調子狂うんだよ。
「そーいえばさ、明後日ってヒッキーの家に集合でいいのかな」
……。
……。
……はい?
状況が掴めずにきょとんとしていると、雪ノ下が恐る恐るといった風に聞いてくる。
「あなたまさか、小町さんから何も聞いていないの?」
「な、何の話でしょうか……」
何だ。
何だよ。
一体どんな罠を用意してるんだよ。
早く。
早く教えろください。
「あの、その」
なっ、雪ノ下が顔を赤らめてる……だと?
そんなに恥辱溢れる罠なのか?
つーか恥辱が溢れてどうする。
「ゆきのん、頑張って」
意味の解らない由比ヶ浜の声を受けて、雪ノ下が息を吸い込む。
柔らかな風が舞い、そのブリーツスカートの裾を揺らす。
「あなたの、その……そう、誕生日を呪う会よ」
え、呪うの?
祝うんじゃなくて?
あっ、字ヅラは似てるよね。
つーか俺、明後日誕生日か。
「ゆ、ゆきのん……ちょっと違うよぉ」
駄目だ。何故かは解らんが雪ノ下がテンパってる。
まさかこんな現象を拝めるとは、猛暑日の外出もたまには良いかも……じゃなくて。
「せ、先月末に小町さんに伝えておいたのだけれど……その様子だと初耳のようね」
はいな。初耳でさぁ。
何なら聞かなかったことにしてもいいくらいだ。
理由は、面倒くさそうだから。
ともあれ。帰ったら小町をとっちめてやらねば。
まずは小町のプリンを黙って食ってやる。
「あっ、も、もしかしたらサプライズしたかった……のかな、小町ちゃん」
ふんっ。そんなことじゃお兄ちゃん誤魔化されませんよーだ。
すでに小町のプリンの命運は尽きているのだ。何なら冷凍庫のアイスの命も風前の灯である。
「単に小町の伝え忘れだろ。で、まさかそれは俺も出席なのか?」
やんわりと欠席の意思を表わすも、額に手を当てたお得意のポーズの雪ノ下に一蹴される。
「当たり前でしょう。主賓がいなくてどうするのよ」
「いや、日本人って主賓そっちのけでも盛り上がれるじゃん。花見とかクリスマスとか」
花見の宴席で真剣に桜を愛でるのを見たことは無い。
クリスマスにチキンやケーキ、リア充どもの奇行やそれに対するぼっち勢の恨みつらみは存在しても、そこに神は居ない。
見ると雪ノ下が頭を抱えて息を漏らす。
おやおや深い溜息だな。
きっと印旛沼よりも深いに違いない。
ちなみに印旛沼の水深は平均二メートル程だ。
「あなたに桜のような綺麗さや神様のような尊さは微塵も感じないのだけれど」
奇遇だな。それは俺も感じない。だが問題はそこじゃないぞ。
「モノの例えだよ」
「え、ケモノの例え?」
何でこのアホの子は要らないとこに「ケ」を生やしちゃうかな。ムダ毛処理はレディの嗜みよっ。
お分かりかしら、おっぱ……由比ヶ浜さん?
「由比ヶ浜さん、ケモノでは無いわ。比企谷くんの場合は『除け者』ね」
ちょっと。違いますからね。
周囲が俺を除け者にするんじゃなくて、俺が周囲を避けてるだけだから。
「ま、とにかく明後日は空けておきなさい。由比ヶ浜さんと……私のために」
あれれ〜?
誕生会って、主賓の為に催すんじゃなかったっけ。
来賓の為のものなのん?
やっぱ俺、いらないんじゃん。
今回もお読みいただき、誠にありがとうございます。
結局雪ノ下雪乃は何がしたかったのか。それは彼女の胸の中だけにあります。
次回以降、少々ネガティブな展開が出てきます。
鬱展開のタグは、この先の展開の保険です。
それを踏まえてお読み頂ければ幸いです。
ご意見、ご感想などお聞かせください。
お待ちしております。
ではまた次回お会いしましょう。