ブリジットという名の少女【Re】   作:H&K

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第八話「もう一度わたしを【Re Try】」

 薄暗い廃工場の中をブリジットは走る。

 獲物が落としていった血の跡を、強化された嗅覚を使って辿っていく。

 彼女の頭は獲物を殺すことしか考えられない。手にしたSIG SAUER P226は心強い味方で、背中に差したアーミーナイフこそ正義だ。

 獲物は直ぐに見つかった。奴は傷を庇いながらコンテナの陰で怯え震えている。ブリジットはその様子を確認すると息を潜め静かに笑った。

 酷く吐き気がする夏の夜。

 

 彼女は初めて人を殺す。

 

 

1/

 

 

 目が覚めた。

 嫌な夢を見た。この世界に来て初めての任務の夢だ。その時の興奮が伝播したのか、体中が汗で濡れていた。

 首だけを動かし、枕元の時計を見る。時刻は朝の4時半。起き出すにはまだまだ早すぎる時間帯だったが、これ以上眠れる気もしないので、そっとベッドを抜け出した。

 二段ベッドの下段が俺、上段はクラエス。対岸の一人用ベッドはトリエラのものだった。

 彼女たちの様子をこっそりのぞき見れば、二人ともまだ眠っていた。

 これは好都合といわんばかりに、俺は部屋からこっそり抜け出す。向かったのは義体専用のシャワールームだ。

 一応、深夜に任務から帰還した義体のために、24時間開放されている。

 いくつか並んだシャワールームは当たり前だけれどもどれも無人で、その内の端っこに身を滑り込ませた。

 

 

「はあ……」

 

 ちょっと熱めのお湯をかぶれば、なんとも言えない息が漏れた。

 身体が温まったからか、昨日打ち付けた背中が疼く。アルファルドに急かされて受けた精密検査では異常なし、と出たがこんなものなのだろうか。

 ふと、シャワールームに備え付けられた鏡を見た。

 そこには長い黒髪を無造作に垂らした一人の少女が映っている。

 控えめに見ても美人な、柔らかそうな身体の女の子だ。この白い皮膚の下に炭素繊維で出来た骨と、人工筋肉が隠されているとは到底思えない。

 肌の質感も、口から零れる溜息も、全部本物なのに。

 

 かたん、

 

 とその時、二つか三つ隣のシャワールームに誰かが入ってくる音が聞こえた。

 俺が部屋から抜け出して三十分ほど。つまり時刻は5時くらいか。こんな時間にシャワーを使う人物が誰も思い至らず、背筋に寒いものが走った。

 まさか不審者ということはないだろうが、決して居心地がいいものでもない。

 俺はシャワーの蛇口を捻り、水を滴らせたままシャワールームを出た。脱衣所は無人だったが、誰かが残した着替えが洗濯かごに残されていた。

 一瞬、洗濯物を見れば誰かわかるか、と思ったが実行する寸前で踏みとどまった。

 一応は品行方正な義体で通っているのだ。疑いを掛けられるような行為は慎みたい。

 

「ふう、あら、先客はブリジットだったの」

 

 身体を拭き、服を身につけていたら声を掛けられた。その時になって、本当に服を漁らなくてよかったと思った。

 何故ならそこに立っていたのはここ最近、一番顔をあわせ辛い義体であるエルザ・デ・シーカだったから。

 万が一、彼女にそんな現場を見られていたら、ただでさえ微妙な関係がますます拗れていただろう。

 

「ええ、ちょっと寝汗が酷くて」

 

 言って、裸体のままのエルザから目線を外す。

 気恥ずかしいのと、顔が赤いのを誤魔化すためだ。

 

「――そう。私はさっき任務から帰ってきたの。あさっての任務の下見に。……たぶん今日伝えられると思うけれど、あなた、私とペアを組むことになったわ」

 

「そうなんですか。頑張りましょうね。折角の二度目のペアなんですもの」

 

 声色は平静を装うが、内心は動揺に塗れていた。原作のこの時期にエルザが関わる大きな作戦など聞いたことがない。

 この時点でこんなにも原作と乖離するものなのかと、焦りと恐れしか沸いてこなかった。

 そんな俺を知ってか知らずか、エルザは特に何でもないように次のようなことを言ってのけた。

 

「あなたって意外と薄情者なのね。二度目じゃなくて三回目なのに」

 

 それは持っていた着替え全部を落とすほどの衝撃を、俺に与えた。

 

 

2/

 

 

「ちょっと、ブリジット。顔色真っ白だよ。大丈夫?」

 

 あれからどんな道順をたどって、義体棟の部屋に戻ってきたのかはわからない。ただ部屋に戻ってみれば、既にトリエラとクラエスは起きていて、彼女たちは俺を見るやいなや駆け寄ってきて心配そうに声を掛けた。

 

「いえ、ちょっと調子が悪いだけです」

 

 嘘だ。身体の調子は悪いどころか、ここ最近では一番調子が良い。けれどもぐちゃぐちゃに混乱した頭が真っ白な表情を演出している。

 エルザは言った。お前と組むのは三回目だと。

 俺が覚えている限りでは二回。

 ということはつまり、俺は既に何回か記憶操作を受けていることになる。

 覚悟はしていた。入院をするたびに記憶の操作を恐れたりもしていた。けれども、前世ではただの一般的な日本人だった俺からすれば、今回のことは久しぶりに突きつけられた悪夢だ。義体だから仕方ないと割り切っていても、いざ自覚すれば耐えようのない吐き気がやってくる。

 

「そう? アルファルドさんに今日の訓練は休むって伝えようか?」

 

 トリエラが俺の背中をさすりながらそう言った。アルファルド、と聞いた瞬間、肩が跳ね上がる。トリエラは驚いたように俺から手を離し、こちらの顔をのぞき込んできた。

 

「……アルファルドさんとなにかあったの?」

 

 違う。何もない。

 いや、何もないように彼が振る舞っていることが恐ろしいのだ。

 もしも仮に、俺の記憶が改ざんされているのだとすれば、それはアルファルドが了承したということになる。

 作られた関係とはいえ、俺がこの世界で唯一頼ることのできる味方であるアルファルドが、だ。

 これは俺にとって足下を崩されるような、これまで前提としていた全てを突き崩されるような衝撃だった。自分が思っていた以上に、彼のことを信頼していたんだな、と苦笑すら漏れてしまう。

 

「本当にないんです。何も……」

 

 これ以上彼女らと話していたら余計なことを口走りそうで怖かった。だから彼女らを振り切って、訓練用の装備を引っ掴み、部屋を飛び出した。

 背後からトリエラとクラエスの声が聞こえるが、応答している余裕はない。

 

 これほど夢から醒めてくれと願ったのは、久方ぶりだった。

 

 

3/

 

 

 雨が降っていた。土砂降りというわけではないけれども、傘をささなければあっという間にずぶ濡れになるような、そんな雨だった。

 エルザから爆弾を突きつけられて二日目の夕方。

 俺とアルファルドはローマの外れにある廃工場の近くに車を止めて待機をしていた。

 フロントガラスを水滴が叩き、カーラジオがしっとりとクラシックを奏でている。

 

「作戦内容は事前のブリーフィングで伝えたとおりだ。ここに映っている三人の男を捕らえるんだ」

 

 アルファルドに見せられた写真を見る。もう何度も確認した顔ぶれなので、数秒そこそこで視線を外した。アルファルドも特に何かを告げることなく、写真を懐にしまう。

 

「……ここ数日の様子が変だと聞いている。何かあったのか」

 

 これも、何度目かわからないくらいされてきた質問だった。

 エルザと会ったその日の訓練でとんでもないロースコアを叩きだした後、怪訝に思ったアルファルドが問うたのが始まりだ。けれども俺はそれに何も答えてこなかった。

 馬鹿正直に、あんたを信じられなくなったと言っても良かったが、そんなことをしても何も意味がないことくらいわかっているので、沈黙を保っているのだ。

 だから今回の問いにも、小さく首を横に振ることで答える。

 

「……もしも何か異常に感じたらすぐに教えるんだ」

 

 作戦開始のアラームがアルファルドの腕時計から鳴った。

 こんなぐちゃぐちゃの頭でも、義体の頭脳というのは大変優秀で、すぐさま任務用の思考に頭脳が切り替わる。担当官とのいざこざも、自身に対する苦悩も切り離され、主人に言いつけられた獲物を駆り立てる猟犬へと変化するのだ。

 

「それでは行ってきます。あなたは私が合図したら一課の人々をつれて、拘束した男たちを引き取りに来て下さい」

 

 懐にSIGを収め、手にはHK416を携える。車を降り、傘をさせばいつの間にそこにいたのか、エルザが直ぐ側までやって来ていた。どうやらアルファルドの車の真後ろに、ラウーロが車をつけたようだ。

 

「ラウーロさんが一緒に向かえ、と」

 

 了承の意を返し、エルザと共に日が沈みかけた倉庫街に向かう。足下では水が跳ね、二人分の足音は雨音に掻き消されていた。

 

 

4/

 

 

「みてあそこ。見張りがいる」

 

 二人並んで、廃倉庫の屋根に上っていた。エルザが暗視装置を使って、敵の配置を教えてくれる。

 たとえ義体の強化された視力を持っていても、この悪天候の中では常人とそれほど変わらない。

 エルザから暗視装置を借り受け、示された方角を覗けば、確かに二人の男が倉庫の入り口で見張っていた。

 

「……あれくらいなら正面突破できなくはないですけど」

 

 けれども俺の提案は、あっさりとエルザに却下された。

 

「いえ、この前みたいに二方面作戦で行きましょう。私が屋根伝いに倉庫へ向かうから、あなたは私が中で暴れ始めたのを確認して正面から突入して。その方が敵の注意を分散させられるし、籠城される心配も少なくなる」

 

 エルザの言うことは理にかなっていた。二人で正面から突っ込めば、何れは制圧できるだろうが時間も体力も要する。逃げ道を確保されていれば、そこから目標の男たちが逃げ出すこともあり得た。けれども二方面から奇襲を仕掛ければ、敵は俺たちの手駒を確認することが出来ず、混乱の中で状況を進めることができる。

 

「わかりました。気をつけて下さい」

 

 俺が答えるやいなや、エルザは倉庫の屋根を飛び移っていった。体重が軽いお陰か、その身のこなしは軽く、飛び跳ねる音も良い具合に雨音に紛れている。

 原作ではジャンが優秀な義体だったと評していたが、その記述に偽りはないようだった。

 

「さて……」

 

 エルザがいなくなったことで、少しばかり俺の緊張が解けた。

 ここ数日、彼女には得体の知れない恐怖を感じていただけに、その重圧から解放されたのは有り難い。

 HK416のチャージングハンドルを引き、安全装置を解除する。雨に濡れているのが少しばかり気になるが、それで動作不良を起こすような柔なライフルではないので、そこまで心配はしない。

 義体の並外れた身体能力を活かして、倉庫の屋根から飛び降りる。エルザより重たいせいか、彼女のような軽やかな着地はできなかった。けれども見張り二人がこちらに気付いた様子はなく、自分が思っている以上に隠密行動はできているようだ。

 

「恨みはないけれど、親愛もない。御免な」

 

 ライフルの銃口を物陰から見張りの一人に向ける。

 もう何百回、いや、下手をすれば千回単位で繰り返してきた動作だ。そこに昔のような迷いはなく、葛藤もない。

 初めての任務で抱えていた罪悪感はこれまで全て捨ててきた。

 銃声が雨音を切り裂いて鳴り響いた。それはエルザからの合図と同じ。

 見張りが何事か、と振り返ったとき俺は引き金を引く。夜の闇にマズルフラッシュが刻まれ、男の一人が糸が切れた人形のように倒れた。

 

「っ、おい!」

 

 もう一人の命もそう長くは続かない。

 続けざまに放った弾丸は男の胸を穿ち、彼の膝を跪かせる。反撃の芽はないと判断した俺はそのまま近づいて、銃口を男の眉間に押しつけた。

 

「こ、公社の犬か!」

 

 血の泡混じりの怨嗟には、銃弾で答えた。見張りが完全に潰えたことを確認すると、俺は倉庫の入り口から中へと侵入を果たす。そっと耳を澄ませれば怒声と銃声が中から伝わってきた。

 

「急がないと」

 

 一人で多人数を相手しているエルザが心配だ。いくらエルザが得体の知れない不気味な存在でも、見捨てて良いことにはならない。

 たぶん焦りもあったのだろう。

 雨音と銃声のコンチェルトの中を突き進んでいる中、ちょっとした物音を見逃した。

 気がつけば男が鉄パイプを物陰から振りかぶっていた。回避は間に合わない。咄嗟にHK416を振り上げ、鉄パイプを受け止める。

 

「ぐっ!」

 

 衝撃を殺しきれずに、床に突き転ばされる。寒気を感じ、その場から転げればそこに鉄パイプが振ってきた。

 

「死ね!」

 

 隙を見て起き上がれば、今度は鉄パイプのフルスイング。殆ど目で追いきれなかったが、闇雲に出した腕で何とか受け止めることができた。顔面の直ぐ横で止まったそれに寒気を感じながらも、何とか取り出したSIGで男の腹を二、三発撃ち抜く。

 

「くそっ……」

 

 倒れ込んだ男にさらに一発撃ち込み、殺したことを確認した。いくら炭素繊維でできた骨といっても、鉄パイプの衝撃は重たく、腕の自由が利かなくなっている。

 

「こんなときに限って……」

 

 ふと、先程から聞こえていた銃声が聞こえなくなっていることに気がついた。

 痺れたか、罅でも入った腕を抱えながら先を急ぐ。

 嫌な予感がした。

 エルザが暴れている割にはあまりにも静かすぎるのだ。いらぬ寄り道をしている間に、状況が変わっていた。

 息が上がりながらも、足をもつれさせながらも、倉庫の中をひた走る。もし待ち伏せがあればあっという間に殺されるであろう愚行。

 けれども今はそんなことを気にしている余裕がなかった。

 開けた場所に出る。丁度倉庫の資材置き場だった。昔はコンテナでも積まれていたであろうそこには何も残されていない。

 いや、残されてはいた。

 ただそれは何かに足を潰されて、床に這いつくばっているエルザだった。

 

 


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