その日の定例会議はとくに大した話題もなく終了した。
一週間後に控えた、五共和国派の大量摘発の作戦を確認し合ったのみで、それ以上の話題が議場に上げられることはなかった。
配布された資料と、自身のメモを綴ったノートブックを抱えて、アルファルドは作戦二課が拠点を構える棟の廊下を歩いていた。
久しぶりにブリジットを街に連れ出してみるか。
議員の暗殺で負傷した彼女は、しばらくの間社会福祉公社の敷地から出ていない。それは余りにも可愛そうだと考えた彼は、誰に聞かせるでもない独り言を呟いていた。と、その時。背後から誰かに呼び止められる。
大方ヒルシャーあたりか、と振り返った先には何処か暗い雰囲気を纏った男、ラウーロがいた。
1/
「あれから、そちらの義体はどうだ?」
義体担当官が利用することのできる資料室がある。
その部屋の一角に備え付けられたテーブルにアルファルドとラウーロは向かい合って座っていた。
問いを発したのはラウーロ。彼は普段から顔に貼り付けている険しい表情を崩さないまま、アルファルドを見据えた。対するアルファルドはさて、どうこたえたものか、と口元を手で覆う。
「ホテルの件は全て忘れている。あの子が無事だったのは君のところのエルザのお陰だ。本当に感謝している」
アルファルドはホテルでの一件を思い出す。
義体二体を主力とした、満を持した暗殺任務。けれどもそれは義体の不安定さ故か、それとも条件付けの危うさ故か、リコが突如暴走し、味方であるブリジットを誤射するという悲劇を招いてしまった。
誤射を行ったリコはもちろん、作戦運用上の観点からブリジットまでが記憶操作された事件はまだ記憶に新しい。
「課長はブリジットとリコ、どちらの戦力も失いたくないと結論づけた。一体160万ユーロの費用を計上している人形だ。そう簡単に切り捨てられるモノではない」
ラウーロの物言いにアルファルドは眉を顰めるが、咎めるようなことはしなかった。
何故ならそれは、覆りようのない事実だからだ。
「だがブリジットまで記憶操作されたのは意外だった。あれだけの機転を利かせたんだ。その経験をリセットするのは腑に落ちない」
「……最終的には俺がそう要請した。ジャンは決定事項のように条件付けの強化を伝えに来たが、課長から俺が決めるように告げられたんだ。もしも記憶をそのままにしていたら、あの子はリコに襲われる幻影に怯えることになる。それならば今のうちに忘れさせてやる方が良かった」
そう、ブリジットの記憶抹消は、アルファルドが決定したものだった。
できるだけブリジットには余計な負担を与えたくないと考えているアルファルドだが、今回ばかりは背に腹を変えられなかった。
ジャンが告げたとおり、味方に撃たれた記憶など足枷でしかない。
誰かに襲われることに怯え続けなければならない人生など、与えたくなかった。
「そうか。相変わらず義体との距離を間違えた男だ」
それだけを吐き捨てて、ラウーロは席を立った。彼にしてみれば、本当にブリジットの調子を確認するためだけだったようだ。
普段の調子からは考えられないような行動をとったラウーロにアルファルドは驚き、その疑問を素直に口にしてしまう。
「珍しいな。お前がそんなに人のことを気にするなんて」
アルファルドの言葉を聞いて、ラウーロはそのしかめっ面をさらに顰めた。
「人に興味がないわけではない。義体に、自分では何一つ決められない義体に興味がないだけだ。それに――お前の人形の調子を聞いてくれと頼んできたのはエルザだ。奴は俺と違って、随分とお前のところの人形にご執心だぞ」
2/
「アルファルドさん、二階のバスルームでエルザが目標を捕捉しました! これから援護に入ります!」
大量摘発の前半戦は屋内家屋の突入作戦だった。一階からエルザがドアを壊して突入し、ブリジットが建物の屋上からラペリングで突入した。
いつも使っているHK416ではなく、取り回しを考えてMP5クルツを構えた彼女は窓ガラスを突き破って室内に飛び込む。粉々に砕け散ったガラスの上を転がりながら、中にいた男たちを掃射した。壁一面に血の花が咲き、動くものがブリジット以外いなくなる。
撃ち尽くした弾倉を交換した彼女は耳元の無線に意識を集中する。
『よし、君が踏み込んだ階から二つ降りれば二階だ。急いで向かってくれ』
五共和国派の幹部の摘発作戦はここまで順調だった。
まさか屋上から義体が踏み込んでくるとは考えていなかったようで、ブリジットは易々と階下を攻略していく。
すんなりと二階にたどり着けば、男の一人を後ろ手に拘束したエルザが、階下に向かってサブマシンガンを応射していた。
「エルザ! 応援にきました!」
「そう、ならこっちをお願い」
落ち着いた様子でエルザが男を縛り上げたまま後退する。エルザの応射が終わったことに安心し、下から顔を覗かせた男の一人に、ブリジットの弾丸が突き刺さった。
エルザはそんなブリジットに自身が装備していた予備の弾倉を手渡す。何事か、と振り返ったブリジットにエルザは少し厳しめに言葉を発した。
「前に集中して。あなたのクルツと私のMP5は弾倉が共通でしょ? 私にはたぶん、必要ないからあなたがつかって」
「――? わかりました」
エルザの意図がよくわからないまま、ブリジットは階下への応戦を続ける。
それを見届けたエルザはさらに一歩下がって、男を縛り上げた。決して拘束が緩まないように。余計な反撃を食らわないように。
ただ、足下に転がっている死体までには注意が及んでいなかった。
「エルザ!」
たまたま振り返ったブリジットが叫んだ。彼女の視線はエルザの背後に及んでいる。
虫の息だった男が立ち上がり、ナイフを構えていたのだ。
「なんてしぶとい――!!」
距離が近すぎて銃が使えない。ならばせめて急所だけは外そうと、エルザは頭部を腕で隠した。けれども、ナイフがエルザの腕に突き刺さる寸前、獣のように男に飛びかかる影があった。
ブリジットだ。
「エルザから離れろ!」
体重がない分、ブリジットのタックルは非力だ。しかしながら的確に重心を狙ったお陰か、男の身体がふわりと浮いた。
ブリジットにとって誤算だったのは、むしろ男の身体が浮きすぎたことだった。
「待ちなさい!」
エルザがブリジットに向かって手を伸ばすが、もう遅い。彼女の手をするりと抜け去ったブリジットの身体は、男と共に二階の窓ガラスを突き破って、外に落ちていったのだ。
残されたエルザはただ呆然とその光景を眺めた。ブリジットが皆殺しにしたのか、階下からの銃撃はいつの間にか止まっている。先程まで鳴り響いていた銃声はぴたり、と止み不気味な静寂が建物を支配していた。
「……その向こう見ずなところは相変わらずなのね」
溜息を一つつきながら、エルザはそう零した。
3/
「それにしても驚いたよ。壁をよじ登っていたら男とブリジットが落ちてくるんだもん。ほんとびっくりした」
トリエラはそう言って、俺の背中に氷が入った袋を押しあてた。鈍痛が和らいでくのを感じて、俺は息を吐いた。
「でも助かりました。下にホロが無ければ打撲じゃ済まなかったでしょう」
そう、俺と男は運よく下の店に掲げられていた屋根のホロに落ちたのだ。これがアスファルトの上なら男ともども血の花を咲かせていただろう。
義体も受け身を取れなければ、高所からの転落は致命傷になり得る。
「折角クラエスがミラノから帰って来たのに、早速入院したらあの子がうるさいよ」
「まったく、クラエスせんせは小言が多いですね」
トリエラが声をあげて笑い、俺もそれにつられて笑った。こうして胸を上下させても嫌な感じはしないから、骨に異常は無いようだ。
「さて、一応レントゲン取った方が良いけど、ここじゃ冷やすぐらいしか出来ないから冷湿布でも貼っていく?」
「いえ、気持ち悪いから構いません」
脱いでいた服を手早く着こみ、机に置いておいたコートを羽織った。懐のホルスターに収まったシグのせいか、少し重い。
それに窓を突き破ったときのガラス片が傷つけたのか、至る所がボロボロに引き裂かれていた。こいつはもう御役御免だろう。割と気に入っていただけに、自分が二階から落ちたことよりもショックだ。
「ヒルシャーさんは?」
「現場検証と尋問。ジャンさんが来るまではあの人が一番偉いから」
俺とトリエラは設置された医療用テントから出る。テープで囲まれた五共和国派のアジトは警察関係者でごった返していた。白昼堂々、あれだけの銃撃戦を町中で行ったのだ。社会福祉公社は今回のことをテロリストの銃撃として処理するのだろう。
警察関係者はそのために用意された証人というわけだ。
俺は警察関係者の目にとまらないよう、そっと裏手に回ってアルファルドを探した。
負傷した俺を心配したトリエラもついてきてくれる。
「ねえブリジット。あれ」
アルファルドがいたのかと思い、俺はトリエラの指差した方向を見た。するとそこにいたのはエルザとラウ―ロのフラテッロだった。
「怒られてるのかな」
遠目から見ても、彼女が今日の失態を叱られているのが良く分かる。
ただ窓から飛び出したのは完全に俺のミスなので、もしもそのことで怒られているのならば申し訳ないと、いたたまれない気持ちになった。
「エルザがかわいそう」
だからトリエラの台詞に、俺は微妙な返事しか返せなかった。
ただそんな俺の内心などお構いなしに、執拗な罵倒と怒鳴り声がここまで聞こえてくる。
普段エルザがどれだけラウーロに懐いても決して反応することは無いのに、彼女が何かを仕損じるとああやって出来損ない扱いをするのだ。
そしてその積み重なりが、このあと待っている悲劇を引き起こすことになる。
「私、アルファルドさんを探してきます」
俺はトリエラにそう告げて、その場を去ることにした。
4/
ラウーロの叱責から解放されたエルザは、一人現場を歩いていた。
するとほんの少し前まで、同じ現場で命を預け合った少女の声を聞いた。
「本当に大丈夫です。痛みはもうありません」
別にやましいことはないのに、エルザは近くに駐車されていたワゴン車の影に身を潜めた。そして、少しだけ顔を覗かせて声の元を盗み見る。
「いや、駄目だ。このまえ手術したばかりなんだ。ちゃんと見せなさい」
言われて背中をアルファルドに見せているブリジットがいた。彼女はちょっと頬を赤らめながら服を捲っている。
「腫れなどはないが、帰ってビアンキに見て貰おう」
「だから大丈夫ですって。ホロの上に綺麗に落ちましたし、私は義体です。こんなことで負傷などしません」
自分たちとは全く違う、フラテッロの関係だとエルザは思った。
心が穏やかでなくなっていくのを、彼女はありありと感じる。
「いいや、違う。君は人間だ。俺は君を道具のようには扱いたくない」
エルザはその言葉に息を呑んだ。
自身とは違う扱いを受けるブリジットを見て息を呑んだ。
例えそれがわかっていたことでも。
今の段階の自分にはあまりに眩しすぎる光景。
彼女は、自身が抱いた嫉妬心が醜くて、それに耐えきれなくて、一人そっと、その場から立ち去った。