まさか義体人生最大の危機が、こんなところでやってくるとは思わなかった。
撃たれた痛み自体はもう消えている。けれども突きつけられた銃口が余りにも冷たくて、その場から動くことを良しとしなかった。
流れ出る血は立派な赤色で、久しぶりに見た自分の血が緑色とかじゃなくてよかった、と的外れなことを考えていた。
「なんで……殺したの?」
リコの事を自分勝手だと糾弾するのは簡単だ。
自分だって殺そうとしたくせに、
お前の代わりに手を汚してやったのに、
いや、そんなことを言っても何にもならないことくらいわかっている。リコは戸惑っているだけだ。悪いのは俺だ。
原作の彼女は少年を殺すことで、自分の中で折り合いを付けていたのだ。
義体としての自分を認め、ジャンに服従することを選んだのだ。
そのプロセスを、彼女の覚悟を踏みにじった罰が今のこの状態だ。彼女が果たすべき儀礼を邪魔した俺が自業自得だったのだ。
「……命令に、従っただけ。目撃者は殺せと言われた」
口内に溜まった血の味を感じながら何とか絞り出した。
お前のためにやった、とは言えなかった。彼女の瞳に宿る憎悪の光を見れば、口が裂けても言えなかった。
「なんでっ!」
リコが引き金を引く。咄嗟に首を動かした。奇跡的に外れた弾丸がこめかみを掠った。腹部だけでなく、顔の右半分も真っ赤に染まる。
耳元の無線からは、何かの異常を察したのか、アルファルドの呼びかけが続いていた。けれどもそれに答えている余裕はない。
「なんでブリジットがころしちゃうの……」
まるで駄々をこねる子供だと思った。
けれどもその人間くささに喜んでいる自分もいた。憎悪の次にぽろぽろと涙を零し始めたリコを見て、俺は思わず笑みがこぼれた。
なんだ、人形娘なんかじゃないじゃないか。
再度、リコが銃口をこちらに向ける。今度は外さないよう、ぴたりと額に付けられた。いくら炭素繊維で出来た骨格に置き換えられていようとも、この距離で撃たれれば即死は免れない。
「リコ」
「五月蝿い」
呼びかけは拒否される。でもそれで良かった。命乞いはしない。
リコが初めて見せた人間らしさに比べれば、怠惰に生きてきた俺の人生なんてちっぽけなものだ。俺を殺して満足するなら、それでいい。
「ごめん。でもその顔、とても綺麗だよ。あなたはつまらなくなんてない。あなたと過ごしている時、私は楽しかった」
リコは何も言わなかった。
ただ強く、強く銃口が突きつけられる。
目を閉じる。その時を待って、最後の言葉を零した。
「ごめん、アルファルド――」
1/
最後の時は、いつまで経ってもやってこない。
不意に銃口の圧力が消えた。
打撲音が聞こえる。
瞳を開けた。銀髪が翻っている。
俺はその影を知っていた。
エルザだ。
エルザ・デ・シーカだった。
2/
エルザという少女について知っていることは少ない。
誰かと積極的に関わるようなことはなく、担当官のラウーロという男が彼女の全てだ。ラウーロを愛する余り、原作では悲劇の心中を遂げてしまうのだが、今はそんなことはどうでもいい。
そんな人との関わりを全くといって良いほど持っていなかった彼女が今、俺の目の前でリコを殴り飛ばしている。
不思議なことに、ラウーロにしか興味を持たないはずの彼女は、その瞳を憤怒に染めてリコに掴みかかっていた。
「絶対に許さない!」
エルザの拳がリコの横っ面を再び捉えた。俺は何が起こっているのかわからないまま、リコが取り落とした拳銃を拾った。
血でぬるぬると手を滑らせながら、サプレッサーを取り外す。
そしてそれを天井に向かって数発発砲した。
けたたましい銃声が廊下に、ホテルに木霊する。
「な、なんの騒ぎだ!」
誰かがドアから顔を覗かせて叫ぶ。叫びは伝播し、何事かと野次馬たちが廊下に集まってきた。
俺はこっそりと銃をうち捨て、腹を押さえたままその場に倒れ込む。
野次馬たちに囲まれて、また好奇の視線にさらされてエルザとリコの動きが止まった。
「大変だ、従業員が撃たれているぞ!」
「誰か救急車を!」
まさか先程の銃撃をこの場にいる少女たちが行ったとは誰もが考えず、慌てた宿泊客たちが駆け寄ってくる。エルザとリコも衆人環視の元で暴れることの愚くらいはわきまえているのか、大人しくその場で座り込んでいた。
「大丈夫か、しっかりしろ」
客の一人に紛れ込んで、アルファルドが俺の隣についた。無線から異常を嗅ぎ付けて、階下から駆けつけてくれたのだろう。
彼は俺をそっと抱き起こすと、耳元でこう囁いた。
「よくやった。君の機転に公社が救われた。公社の救急車両がまもなく到着する。それまで耐えられるか」
「……痛みはありません。ただ、酷く疲れたので、ちょっと休みます」
言って目を閉じる。呼吸を浅く繰り返し、息を整えた。
腹に手をやれば血が止まっていないことがわかる。けれどもアルファルドが着ていたジャケットを使って、直ぐに傷口を縛り上げてくれた。
「汚れますよ」
「余計なことは気にしなくて良い」
ありがとうとは素直に言えなかった。
こんな時でも憎まれ口しか出てこない自分が憎らしい。でもアルファルドはそんな俺に怒ることなく、静かに頭を撫でてくれた。
「頑張れ」
最後に聞いたのはそんな言葉。気が緩んだせいか、強烈な眠気がやってきて、それに抗うことができなかった。
アルファルドが何か慌てたような声をあげるが、今は少し眠りたかった。
目が覚めたとき、少しでも何かを覚えていることを期待して。
3/
「ブリジットとリコの条件付けを強化することが決まった。エルザは今回のことを決して口外しないよう、ラウーロに厳命させる」
「……暴走したのはお前のリコだ。何故、ブリジットが巻き添えをくらう」
銃創を腹にこしらえたブリジットと、エルザに殴り飛ばされたリコは、二人して社会福祉公社の医療棟に入院していた。
二人とも昏睡麻酔を掛けられ、並んだベッドに横たわっている。
そんな彼女らを防弾ガラス越しに見つめる二人の担当官は、静かに応酬を繰り返していた。
「ならば逆に問うが、ブリジットが今回のことを覚えていることに何かメリットはあるのか? 味方に殺されかけた事実を覚えていて何になる」
アルファルドは何も言い返せなかった。
追い打ちを掛けるようにジャンは告げた。
「まだまだ義体はわからないことが多すぎる。俺もお前も、もっとあれらの扱い方について学ぶべきだ」
4/
リコは目を覚ました。
咄嗟に、自分の手足が動くがどうかを確認した。
いわばそれは、彼女にとっての日課のようなもの。自分の麻痺が治ったことが夢でないことを確かめるために必要なプロセス。
自分の意思通りに動く手足を見て、彼女は「よかった」と笑った。
ふと、隣に並べられたベッドを見る。
綺麗に折りたたまれた毛布と、シーツが残されたベッド。
誰かがそこにいた形跡は残されていないが、それでも誰かの存在を感じさせずにはいられないベッドだった。
どうして自分がこんなところに入院しているのかはわからなかった。ただ、自分の足で立ち上がって、自分の手で隣のベッドに触れたとき、何故だか涙が滲んできた。
理由なんてわからない。どうしてだかわからない。
いたたまれなくなって、その場にいることが辛くて、彼女は自分のベッドに戻った。
すると枕元に、ハンカチと黄色い包み紙に覆われたキャンデーが置かれていることに気がついた。
「?」
いつ何処で手に入れたのか、全く思い出せない二つの品物。
けれどもそれを手にした瞬間、滲んでいた涙が溢れてきて、胸に抱いて声を漏らした。
彼女の小さな嗚咽は、リコの覚醒に気がついた医師たちが病室にやって来るまで続けられた。
5/
目を覚ましたその日に退院した。
任務の途中にテロリストに撃たれて入院したらしい。
らしい、と伝聞形なのは修繕に使った薬物の副作用で、記憶が曖昧になっているからだ。
まあ、記憶の混濁なんてここに来てからは割とあることなので、そこまで気に病むことはなかった。
俺はアルファルドから受け取った退院祝いの品を持って、義体棟の渡り廊下を歩いていた。日差しが少しだけ差し込むそこはひんやりとしていて気持ちが良い。
ふと、目の前から歩いてくる人影が見えた。
挨拶をしようと、声を掛けそうになるが、人影の正体を見定めた時点で言葉を飲み込んだ。
綺麗な銀髪を三つ編みにした、俺より頭一つ小さい人物、エルザ・デ・シーカだったのだ。
彼女は自身の担当官であるラウーロ以外には興味を示さない、本当の意味で義体らしい義体だ。どうせ俺が声を掛けたところで返答なんか期待できないし、余計なやっかみを抱えたくもないので、会釈を一つだけ交わしてすれ違おうとした。
そう、すれ違おうとしたのだ。
「えと、エルザ?」
戸惑いの言葉は仕方がないと思う。何故ならエルザの小さくて白い手がしっかりと俺の服の裾を掴んでいたから。
彼女はこちらを一切見ないまま続けた。
「退院したの?」
「え、ええ。おかげさまで」
それから十秒くらいだろうか。彼女は何も言わなかった。ただし、服の裾は掴んだまま。
気がつけば、彼女がこちらを見ている。彼女の青い瞳が真っ直ぐこちらに向けられる。
「――次は私を助けてね。ブリジット」
意味は全くわからなかった。
けれどもエルザは伝えたいことは伝えた、と言わんばかりにあっさりと裾を手放して歩き去ってしまった。
一人渡り廊下に残されて、どうすれば良いのか途方に暮れる。
――次は私を助けて。
俺の記憶が正しければ、彼女の余命というのはそう長くはない。
彼女は愛したラウーロが、担当官が自分を見ていないことに絶望して心中をしてしまうからだ。
もしかして「助けて」とはそれの事を言っているのだろうか。というか、俺はエルザに助けられたのだろうか。
何がなんなのかわからないまま、トリエラやクラエスが待ち受ける部屋に足を向けた。
でもどうしてだろう。
何か大切なことを忘れている気がしてならなかった。
6/
退院祝いはちょっと苦めのチョコレートケーキだった。甘いものが苦手なブリジットでも食べられる、彼女定番のお菓子だ。
クラエスが紅茶を入れ、トリエラが切り分けた。
病み上がりということで、まるでお姫様のような扱いを受けたブリジットは戸惑いながらも二人の好意に甘えた。
普段はつっけんどんな態度を取る癖に、こういう時は擦り寄ってくるところが何処か猫みたいだと、クラエスは笑いながら皮肉った。
「で、ブリジット。アルファルドさんからのケーキ、お味はいかが?」
トリエラに促されて、ブリジットはケーキを口に含んだ。彼女はしばらくそれを咀嚼すると、うーん、と一瞬首を傾けて、ややあってこう言った。
「あれ? このケーキ、こんな味でしたっけ?」