少し昔の話をしようと思う。
俺が義体として目覚めてそう時間も経過していない、義体ビギナーだった頃の話だ。
00/
社会福祉公社の資料室には古今東西、あらゆる分野に関する分野、資料、ガイドが揃えられている。
歴史学から始まり、音楽、政治、文学、現代社会学と取り揃えられていない領域を探す方が難しい。
では何故そこまで無作為に、無秩序に、手当たり次第に網羅されているのかというと、「彼女」たちの教育に必要だったからだ。
かの施設が運用する義体は見かけ上はただの年頃の少女であり、それが人造の紛い物であることを外見で判断することは困難である。
社会福祉公社はその性質を最大限活用するべく、義体たちに一般人へ擬態するよう教育するのだ。
上流階級のテーブルマナーから立ち振る舞い。
中流階級の人々が道端で行う仕草や会話。
下層階級の人物たちの行動パターンや思考回路。
それらの全てを担当官によって叩き込まれてから、彼女たちは人狩りの機械として世界に解き放たれるのだ。
人として完璧に化けることが出来るようになってから、彼女たちは外の世界を知る。
――ここに一人、義体として覚醒してからまだ一月ほどしか経過していない少女がいた。
彼女は他の義体たちに比べて、不器用で、無教養で、やや反抗的な義体だった。
言葉遣いこそは丁寧だったが、担当官に向ける視線は鋭く、自棄になって講義を放棄することもままあった。
公社の上層部はそんな義体の「条件付け」を書き換えることを主張し続けていたが、担当官の男はそれを撥ね付け続けていた。
彼は決まって、こう口にした。
――お前たちは性急すぎる。その条件付けが彼女の長所を殺すのだと何故理解できない?
上層部は男を厳しく叱責した。
――ではその長所とはなんだ? 結果の出せない高額な人形を我々は造りだした訳ではない。
売り言葉に買い言葉。男は上層部に食って掛かった。
――そこまで成果が欲しいのなら、次の運用テストでお前たちにそれをくれてやる!
01/
廊下を一人歩いていたとき、ヴィクトル・ヒルシャーはどこかの部屋から酷く歪な長音の音色を聴いた。
何事か、と耳を澄ませ、音の元へ足を向けてみれば見知った男が頭を抱えて椅子に腰掛けているのが見えた。
「――アルファルド」
男の名を呼び、部屋に踏み入れて初めて、もう一人の人物の存在を知った。
椅子に腰掛けるアルファルドの対面に立つ黒髪の義体、ブリジットだ。
「ああ、ヒルシャーか。丁度良かった。バイオリンのコツを教えてやってくれないか」
若干憔悴したような、いや、実際に憔悴しているのだろう。
目の下に隈をこしらえて、無精ひげを生やしたその風貌に、以前の優男の面影はもうない。
「バイオリン? 何故だ?」
そこまで疑問を口にして、ヒルシャーはブリジットの表情を見た。
そしてしまった、と後悔する。音色を聴いて好奇心で足を伸ばしてしまったことと、アルファルドに声を掛けたことだ。
「……私が、上手く出来ないからです」
彼女の表情の色は屈辱と恥辱。
目尻に涙を溜めて、唇を噛みしめながらブリジットは目の前のスコアを睨み付けていた。
「出来ないことは無い筈だが――。そういった知識や技能はあらかじめ書き込まれているはずだ」
ヒルシャーの疑問に、アルファルドはかぶりを横に振りながら答えた。
「どうもこの子はそれを上手く引き出せなくなっているらしい。スコアの読み方も、バイオリンの持ち方も、弦の弾き方も理解しているし、知っているのに実行に移すことが出来ないんだ。バイオリンだけじゃない。ダンスも体操も格闘技も、ペンを使って作文すら出来ない」
「ビアンキはなんと?」
義体のケアを担当している男の名を出しながら、ヒルシャーはさらに疑問を重ねた。
「正常、だそうだ。また原因も不明。今週末までにある程度の改善を見せなければ”再検査”だと」
ブリジットの手前、アルファルドは言葉を濁してみせたが、彼が何を言いたがっているのかヒルシャーは即座に理解していた。
つまりこのままではブリジットは「出来損ないの義体」の烙印を捺されてしまい、条件付けの書き換えという無為に寿命を削るような治療を受けるハメになってしまうと、彼は言っているのだ。
強固な条件付けに対しては反対の立場を取っているヒルシャーは、思わず顔を顰める。
「どうにかならないのか」
「週末の運用試験で何かしらの成果を見せれば取り敢えずの条件付けは回避される。だが……」
アルファルドの視線に促されて、ブリジットはバイオリンを演奏した。
だが元の曲が何であるか判別不能なほど音を外しており、決して音楽とは言いがたいような有様だ。
「ピアノも、チェロもバイオリンも駄目か。外での徒手格闘も全体の最下位どころか一般人並み。せめて何か1つ、少しばかり秀でた才能があれば良かったのだが……」
アルファルドの苦渋に満ちたつぶやきは、歪んだ悲壮な旋律に掻き消されていった。
02/
知識は確固たるものとして存在しているのに、身体が言うことを聞いてくれない。
それが俺の今の状態だった。
自分が義体となったその瞬間から、知識として刻み込まれた数多の記録のことは自覚していた。
けれども”前”の自分の存在がイレギュラーで邪魔なのか、それらを実際に行使することが全く出来なくなっていた。
例えば今でもそう。
どんな指使いと力加減でバイオリンを操れば良いのかは理解しているのに、身体は思った通りに動いてくれない。
どこか靄が掛かったような、フィルター一枚を挟んだかのような違和感が常に感じられるのだ。
直接身体を操作するのではなく、ブリジットというラジコンを操作している感覚と言えばわかりやすいのだろうか。
とにもかくにも、義体として覚醒した俺は戦闘どころではない致命的な不器用さを各所に披露し続けているのである。
「……時間だ。ペンを置きなさい」
腕時計を静かに見つめていたヒルシャーが口を開いた。
与えられた万年筆から手を離し、レポート用紙を一枚彼に手渡す。
俺の隣に腰掛けていたヒルシャーの義体――トリエラは実に三枚のレポート用紙を提出していた。
原作でもそれなりの器用さと要領の良さを誇っていた彼女だからこそ、こういった作文事は苦手ではないのだろう。
「うん、良く書けている。表現に問題はないし、論理は整然。百点満点だよ」
褒め殺しの高評価がヒルシャーの口から語られる。けれどもそれが俺の書いた物に対するものではないことくらい考えるまでもない。
彼はトリエラの提出したレポート用紙を机の上に置くと、次に俺のそれを手に取った。
そしてたっぷり数分。
トリエラの三分の一の分量しかないのに、数倍の時間を掛けて彼はそれを読み込んだ。
「……スペルミスが多いようだね。あとここの表現とここの言い回しは少しおかしい。赤で訂正しておくから後で復習しておくように」
そう言って彼は朱書きをレポート用紙に刻みはじめた。
やがて帰ってきたそれは、元の文の原型が存在しないくらいには、真っ赤な添削ぶりだ。
「語彙力は本を読めば身につくし、スペルミスも改善される。文字の流麗さはひたすら練習だろうな」
見事な駄目だしを受けた俺は溜息をつくまもなく、精一杯今の自分の境遇を呪った。
03/
アルファルドの仕事机の側で、ヒルシャーはブリジットにやらせた作文のコピーを広げていた。
その赤色の多さにアルファルドは思わず目頭を手で覆ってしまう。
「すまないな。君に見てもらえれば少しばかりは改善するかと考えたんだ。何せ人に文字で何かを伝える生活なんて殆どしてこなかった」
同僚の手を徒に煩わせてしまったことを彼はまず謝罪した。
だがヒルシャーはそんなアルファルドの仕草と言葉を手で制した。
「いや、悲観するにはまだ早すぎる」
そう言って、彼は持っていた青のボールペンで数カ所、ブリジットのレポートにアンダーラインを加えた。
言い回しもスペルも、それこそ単語の語法すら正しくない、ヒルシャーが理解に最も時間を傾けた部分だ。
この部分の意味の理解に戸惑ったからこそ、彼はトリエラの数倍の時間をブリジットに費やしていた。
「僕が出したテーマは欧州の政治社会学についてだ。語ろうと思えばいくらでも語ることの出来る、ある意味で初心者向けのテーマを彼女たちに提示した」
ヒルシャーはボールペンの先でとんとんと、青のアンダーラインを叩く。
「トリエラはたっぷり三枚の分量でイタリアと諸外国の政治状況について論じて見せた。一方、ブリジットはこのイタリアのそれしか論じていない。最初はそれしか知らないのかと思ったんだが、どうやらそれは違うようだった」
アルファルドはいまいち要領を得ないといった表情で、ヒルシャーの言葉を待った。
そしてヒルシャーは周囲に職員が誰もいないことを確認して、そっと告げた。
「本来義体というのは下された命令しかこなせない。トリエラも欧州の政治について論じろ、と命令したからその通りに作業をこなしてきた。僕たちが与えた情報を組み合わせて論を組み立てたんだ。けれどもブリジットは違う。彼女は僕たちが与えた情報を一般化して、自身の考えを述べているんだ。例えるならそうだな――トリエラは与えられた積み木を使って素晴らしい城を組み立てたんだが、ブリジットは積み木そのものを観察して、全く新しい木材から城を削り出そうとしたんだ。これはどの義体にもない彼女だけの特徴であると同時に、彼女の非常に高度な知能の証明だと僕は考える」
ヒルシャーの考えを受けて、アルファルドはブリジットの記したレポートを読み込んだ。
確かに単語の使い方に誤りは多く、語彙も決して多くはない。けれども彼女なりに、必死に彼女自身が考えたことを、公社が与えていないような論理を駆使しながらレポートに文字を刻んでいた。
「アルファルド。この結果は2つの可能性を指し示している。1つは条件付けの失敗だ。公社が与えた情報に従わず、普通の人間のような思考回路を保持したまま彼女が義体になってしまっている可能性だ。そしてもう1つ。彼女は条件付けを受けながらその産まれながらの知性を失うことなく、僕たちの想像を軽々と飛び越えるような、新しい考え方が出来る義体という可能性――」
一拍おいて
「そのどちらに傾くかは、アルファルド。君の彼女に対する立ち振る舞い次第だと僕は思う」
04/
ブリジットに銃を持たせることに抵抗がなかったわけではないが、義体教育の一貫としてそろそろ訓練しなければならないことをアルファルドは理解していた。
だからこそ実際に手に取らせることはなくても、せめて他の義体が銃を扱っているところを見学させようと、公社に備え付けられたシューティングレンジに彼女を連れてきていた。
使用する人物がある意味で限られているので、まだまだ真新しさが残されている施設である。
足下にはゴミ1つなく、綺麗に磨き上げられた傷1つない事務用机がいくつかフロアの隅に設置されていた。
時折聞こえてくる銃声に視線を巡らしてみれば、いくつか並んだブースの内2つで先客が訓練を行ってるのがわかる。
ブースの近くで待機している担当官を見やれば、ジョゼとラバロという二人の担当官がそれぞれの義体の訓練を見守っていた。
二人の内、アルファルドに近かったラバロが視線をこちらに向けて口を開く。
「……随分と手こずっているようだな」
義体教育が上手くいっていないことを見抜かれているのだろう。ラバロはブリジットを一瞥してそう告げた。
アルファルドもそれを強く否定することが出来ないまま、「見学をさせてください」と頭を下げていた。
ラバロは特に言葉を返さなかったが、視線だけは近くの壁に立てかけられていたパイプ椅子に向けられている。
何となく意図を理解して見せたブリジットが二人分の椅子を用意して、ラバロの近くに広げた。
「ブリジットはここに座りなさい」
着席の許可を得て、彼女は静かにブースの中を見つめる。
ストック付きのマシンピストルを器用に操作して、的を撃ち抜いていく義体がそこにいた。長い黒髪をポニーテールにまとめ、GISの特注のキャップを被っている。
「クラエスだ。糞真面目だが、不器用でもある。お前たちからも何か助言があるのなら言ってやってくれ」
クラエスと呼ばれた義体は、弾倉を1つ完全に撃ち尽くしてアルファルドたちに振り返った。
ラバロはただ一言、「つづけろ」と命令を下す。
彼女は頷きを1つだけ返すと、直ぐさま弾倉を再装填、ストックを肩に押し当ててセミオートの設定で引き金を引き続けた。
「……文句なしの命中精度だ。やはり条件付けの技術ですか?」
アルファルドの問いに、ラバロは答える。
「いや、彼女自身の積み重ねだ。最初の頃など命令に融通が利かなさすぎて、意味もないのに一日中撃ち続けていたこともあったがな。”7ヤードで必中出来るまで帰ってくるな”と告げれば本当にそうしていた。だが少しばかりは自分で考えるようになって風向きが変わった」
――自分で考える。
ラバロがそう口にしたのを聞いて、アルファルドはブリジットの方をちらりと盗み見た。
見学しろと命令されたとおり、彼女の漆黒の瞳は常にクラエスの動向を追い続けている。どれだけクラエスの技能を盗むことが出来ているのかは未知数だが、それでも命令そのものは完遂している。
ヒルシャーに突きつけられた一枚のレポート。
そこに残されていたブリジットの可能性と希望。
いや、条件付けの失敗を示唆するものでもあるのだから、パンドラの箱といった方が正しいのだろうか。
公社の想定していないレベルでの、自主的な思考、判断、表現力をブリジットが宿しているという事実。
その事について考えたとき、ラバロの言うとおり良い方向に傾けば、ブリジットの未来を救う物になるのではないかとアルファルドは考えはじめていた。
だが良い方向へ傾けるのも、悪い方向に突き落とすのもこれからの自分の立ち振る舞い次第であることも理解していた。
理解はしているのだが、その舵取りの方法を見失っており迂闊に手が出せないような状況なのだ。
そんなアルファルドの苦悩を読み取ったのだろうか。
ラバロは銃声が途切れた合間に、彼の方に視線を向けることなくぽつりと零した。
「義体にはあらゆる経験をさせろ。経験をさせて、今の自分を作り上げた何処か特別な場所へ連れて行くんだ。そして父や母がそうしてくれたように、その場所での行いや思考を追体験させてやれ」
クラエスが再び弾倉を込める。最初の一発のため、引き金に指が掛かる。
「俺たちだけが彼女たちを理解するのではない。彼女たちにも俺たちを理解させるんだ」
迷いなく解き放たれた銃弾はターゲットの中心を穿つ。
それからしばらく。
アルファルドとブリジットの二人は静かにクラエスの射撃を観察し続けていた。
05/
状況が変化したのはそれから5分も経たないうちだった。
リズム良く放たれていた銃声に乱れが生じた。何事か、とラバロたちが視線を動かせば、隣のブースで射撃を続けていたヘンリエッタのハンドガン――SIGが弾詰まりを起こしていた。
スライドに刻まれた排莢口に空薬莢が挟まれていたのである。
だが銃を扱う者ならば誰もが一度は経験する状況であり、対処方法もそう難しくはない。
落ち着いて弾倉を抜き、スライドを手で引いて挟まれた空薬莢を取り出してやるだけだ。
しかしながらこの最悪のタイミングで、義体に対する条件付けの甘さが露呈してしまう。
義体は洗脳によって脳に刻まれたことは完璧にこなしてみせる。けれども逆に言ってしまえば教えられていないことは殆どと言って良いほど何も出来ない。
そして弾詰まり――ジャムの対処方法は余りにも基本的すぎて条件付けの一部には含まれていなかった。
「?」
手元の銃に何が起こったのか理解していないヘンリエッタは、疑問を浮かべたまま銃口を覗き込んでしまう。
それに素早く反応したのは、クラエスの担当官であるラバロだった。
小銃の暴発事故により足を負傷し、軍警察を退役せざるをえなかった彼は、誰よりも銃の予期せぬ動作に対して敏感な人物だった。
杖つきだというのに、素早く立ち上がった彼はヘンリエッタから銃を取り上げ、手にしていた杖でヘンリエッタを殴打した。
「お前死にたいのか!?」
「ラバロ!! やめろ!」
自身の義体が吹き飛ばされたのを見て、担当官であるジョゼがラバロに詰め寄る。
ラバロはそんなジョゼをヘンリエッタと同じように殴打した。そして逆に胸ぐらを掴み挙げて厳しい叱責をぶつける。
「黙れ! ろくに銃も扱えないような奴をここに連れてきやがって! SIGだからジャムらないと油断したか!」
彼の言い分は尤もだった。
例え信頼性に優れたSIGシリーズでも、不慣れな者が取り扱えば作動不良を起こすことはままある。
まだまだ銃の扱いが未熟であるヘンリエッタをここに連れてきたジョゼの失態だった。
だが彼もまた1つミスを犯していた。
従順な人狩りである義体の前で、担当官を害すればどうなってしまうのか、認識が不足していたのだ。
「ラバロさん! うしろ!」
騒ぎの様子を射撃を止めて見守っていたクラエスが悲鳴を上げた。
何事か、とラバロが振り返って見ればいつのまにかヘンリエッタがそこに立っていた。
彼女は大人一人分の大きさはある事務机を両手で持ち上げ、今まさにラバロへ叩きつけようとしていた。
「……!!」
己の立ち位置からではもう割り込めないと判断したクラエスがマシンピストルを操作する。
セミオートからフルオートへ設定を変更し、銃口をヘンリエッタに向けた。
義体同士の抗争という、最悪の事態に直面したラバロとジョゼの表情が固まる。ラバロが咄嗟にクラエスへ手を伸ばすが、彼女は既にラバロの制御下を離れていた。
発砲は免れない。
その場にいた誰もがそう覚悟したとき、一人だけ違う動きをしていた者がいた。
たとえ三人の担当官が、過去に厳しい軍事訓練を乗り越えてきた戦闘のプロだとしても、所詮は生身の人間。
義体二人に挟まれた彼らが出来ることなど極限られたものだ。
けれどもそんな彼らを嘲笑うかのように、置き去りにするような瞬発力と速度で、彼女はヘンリエッタに飛びかかっていた。
そう、それまで静かに状況を観察していたブリジットである。
06/
そういえばこんな出来事も原作ではあったな、とヘンリエッタを組み伏せながら思った。
まさか俺に押し倒されると思っていなかった彼女は、電池の切れたおもちゃのように動きを完全に制止している。
驚きに満ちた表情でこちらを見上げながら、「先輩?」と疑問を零していた。
「ラバロさんは敵ではありません。クラエスの担当官です。私たちの仲間です」
そっとヘンリエッタの上から身体をどかし、彼女に手を差し伸べる。
義体の本能なのか、咄嗟に身体が動いてしまっていたがこれで良かったのだろうか。
「あなたとジョゼさんのことを考えて彼は厳しく当たりました。決してあなたたちのことを害しようとしてのことではないんですよ」
今更ながら冷や汗が沸いてきた。
こちらの世界で目覚めてから初めて、戦闘まがいの身体の動かし方をしたのだ。
これまで一度も誰かと殴り合ったり、取っ組み合ったりしたことのない俺からしたらまあまあ上出来の成果だろう。
ただ緊張で高鳴った鼓動だけが収まる気配がない。
「だから敵意を向けないで。いたずらに味方を傷つけないで」
三人の担当官の中で、いち早く我に返ったアルファルドが俺とヘンリエッタを引き離した。
続いてジョゼがヘンリエッタに駆け寄り、ラバロが銃を構えたままのクラエスに武装を解くよう命令した。
「よくやった。ブリジット、お手柄だ」
久方ぶりに聞くことの出来たアルファルドの褒め言葉に、反射的に頬が緩む。
条件付けの悪しき本能ではあるが、心地が良いのもまた事実だ。
「本当によくやった。君はやっぱり素晴らしい人間だった」
07/
数日後、ブリジットとアルファルドは二人してローマから少しばかり北に離れた山林にいた。
ブリジットはアルファルドが用意したウェアに着替えて、山道をすいすいと進んでいくアルファルドの後をついていく。
「……休日でもないのに、こんなところに来ていても大丈夫なのでしょうか」
「何、これも立派な俺たちの仕事だ」
途中、いくつかの休憩を挟みながら、二人はどんどん山道を外れて腰くらいの高さの藪が密集した森の中を進む。
やがて一時間も足を動かせば、小さなツリーハウスが備え付けられた大木に辿り着いていた。
「これは?」とブリジットが問うてみせれば、悪戯が成功した少年のような笑みでアルファルドは答えた。
「俺の親戚が管理してくれている狩猟小屋だよ。今日一日の使用許可を買い取ったんだ」
そう言って彼はするすると木を上り、ツリーハウスへと入った。
一体何なんだ、と心の中で悪態をついた彼女は、アルファルドに支えられながら狩猟小屋の中に足を踏み入れた。
そして思わず声を漏らしていた。
「……うわあ」
それはテレビの中や、何かの写真誌の中でしか見たことのないような、ブリジットにとって初めて見るような光景だった。
丸太で組まれた壁は木独特の温かみがあり、部屋の中央に吊されたランプが柔らかな照明を灯している。
2つ吊されたハンモックは丁度窓の方向を向いており、夜には山特有の綺麗な星空が見えるのだろう。
「気に入ってくれたか? 昔はよく父親とここにキャンプにきていたんだ。下の森で狩りをして、その肉をシチューにして食べていた」
背負ってきた荷物を広げた彼は、その中からガンケースを取りだした。
中には狩猟用ライフルが収められており、慣れた手付きでそれを組み立てていく。
やがて、スコープを本体にマウントし終わるとブリジットの手を取って狩猟小屋に備え付けられていたデッキに出た。
「あの、なにを?」
アルファルドの行動の意味をよくわかっていないブリジットは珍しく歯切れの悪い声を出した。
そんな彼女を見て、アルファルドは相変わらず悪戯っぽく笑って見せた。
「狩猟小屋にきたらすることは一つ。狩りに決まっているじゃないか」
08/
小屋から少し離れた茂みの中で、ブリジットとアルファルドは身を寄せ合っていた。
おっかなびっくりといった風にライフルを構えるブリジットは「やっぱり無理です」と弱音を吐く。
アルファルドはそんなブリジットの耳元でそっと励ますように囁いた。
「大丈夫。皆最初は初心者であり初めてだ。俺も父から狩猟を教えられたとき、全然明後日の方に銃を撃っていた」
「そういうことじゃないんです……」
けれども励ましに効果はなく、ブリジットはその場でますます萎縮してみせた。
そう。
社会福祉公社に於いて、まだ一度も射撃訓練もしたことがないブリジットが、人生で初めて銃を扱おうとしているのだった。
もちろん前の世界でそのような経験があるはずもなく、義体らしくない緊張感でライフルを持つ手は小刻みに震えていた。
「ほら、見えるか。あそこに群れからはぐれた牝鹿がいる。鹿の弱点は心臓だ。前足の付け根あたりを狙うと良い」
アルファルドが小さな双眼鏡で確認するような距離でも、ブリジットは肉眼でハッキリとそれを視認できた。
だからといって、容易に仕留められるかどうかは完全に別問題であるが。
「やっぱり駄目です。アルファルドさんが代わって下さい」
ライフルを押しつけようとするブリジットを制して、アルファルドは続けた。
「駄目なこと何てないさ。別に外したって構わないじゃないか。君は”はじめて”なんだから。これからどんどん、新しいことを学んでいけば良いんだ」
はじめて――。
その言葉を聞いたとき、ブリジットはふと身体が軽くなるのを感じた。
「君は義体だから、公社によってたくさんの知識や技能がすり込まれている。けれどもそれは完成型なんかじゃない。君は人としてまだまだ成長できるんだ」
靄が、オブラートが一枚一枚剥がされていく。
義体として刻み込まれていた能力が少しずつ開花していく。
「俺と共に成長しよう。ブリジット。二人でフラテッロになるんだ」
ライフルを握り込んだ。
震えはもうない。
スコープを覗き込み、無防備な牝鹿の前足の付け根に照準を合わせる。呼吸のリズムは一定で浅く、深くの繰り返し。
だがやがて、そのスパンは徐々に長くなっていき無呼吸の時間が数秒だけ訪れた。
「撃て、ブリジット。新しい君への祝いの門出だ」
09/
結果から言ってしまえば人生初めての弾丸は牝鹿を仕留め損なった。
螺旋を描いて飛び立った鉛玉は、鹿の心臓ではなく肺を撃ち抜いていた。
パニックに陥った鹿が逃走を図る。
ブリジットはすぐにボルトを引き、次発を装填。
鹿の進行方向よりもかなり前に銃口を向けた。
「ブリジッ――」
狙いはもっと手前だ。君は焦りすぎている。
そうアルファルドが口走ろうとしたとき、牝鹿は精一杯の力を振り絞って、かなりの距離の跳躍を見せていた。
本来の鹿の逃走距離としてはかなり大ぶりな一歩目。
並のハンターならそのイレギュラーな動きで、無駄な二発目を撃たされていた、そんな動き。
けれど彼女は、それだけの大立ち回りをしたにも拘わらず生きたまま地面に足を付けることが叶わなかった。
銃口から立ち上る硝煙の香りが、身を寄せ合った二人の鼻に届く。
「ははっ。なんだ、上手いじゃないか」
アルファルドが信じられないといった調子で、乾いた笑いを漏らす。
距離にして凡そ150メートル。
飛び跳ね回る鹿を撃ち抜くには余りにも遠すぎる距離。
けれども彼の視線の先では、確かに崩れ落ちた牝鹿が一頭、存在していた。
隣に視線を向けてみれば、自分でも驚いた、という風にブリジットが目を丸くしている。
アルファルドは「これが義体の本来の力か」と口走りそうになって、「いや」と否定をした。
彼は今の数秒の出来事である確信を抱いていた。
「――ブリジット」
初弾で仕留めきれなかったことを咎められるのかと、ブリジットが身を小さくする。
だがアルファルドはそんなブリジットの肩をやや強めの力でかき抱いた。
「これは君の才能だ。君だけにしかない、君が誇るべき才能だ!」
バイオリンの演奏も、作文も満足にこなせなかった。
格闘技もてんで駄目で、あと一歩で失敗作の烙印を捺されそうになっていた。
そんな己の義体が見せた、天賦の才とも言うべき才能に彼は興奮が収まらない。
「ありがとう、ブリジット。君は俺の杞憂なんかいつだって易々と飛び越えてしまうんだ」
10/
その週の末。
ブリジットの運用試験が社会福祉公社で執り行われた。
未だ成果を見せることのない、彼女の醜態を確認するための儀式だったが、上層部の狙いは思わぬ形で外されることになる。
距離600メートルで高さ30センチの的を撃ち抜く試験。
一応、他の義体の成功事例はあるにはあるが、まだまだ調整不足なのか、決してその例は多くない。
そんな試験に挑んだブリジットを職員の何人かは嘲笑っていたが、いざ試験が始まると誰もが言葉を失い、目の前の光景から目が離せないでいた。
一発目 命中
二発目 命中
三四五六七八九十と命中し、キリがないからと、アルファルドは距離を800メートルに合わせるよう指示した。
そしてそれも立て続けにヒット。
一向に外す気配がないので、最終的には1000メートル環境下での狙撃が試みられた。
『落ち着いてやれば君なら問題ない』
耳元のインカムからアルファルドの声が届く。
応答の言葉は返さなかった。何故ならこの狙撃の可否こそが己が担当官に対する最大限のレスポンスであることを理解していたからだ。
ブリジットは静かにライフルのストックを握り込んだ。殆ど点にしか見えない標的に照準を合わせ、引き金に指を掛ける。
まさか、自分にこんな能力があるとは思っていなかった。
こんな才能に恵まれているなんて考えたこともなかった。
嬉しい、とは思わない。
この才能さえなければこんな糞みたいな境遇で生きていかなくて済むのに、という考えすらある。
けれども彼女は義体。
担当官の役に立つことに至上の喜びを感じ、担当官に褒められることを求め続ける哀れなお人形。
抗いがたき条件付けの本能が、ブリジットに喜びを感じさせ、ブリジットの人としての理性が仄暗い絶望を感じさせる。
心はこんなにもぐちゃぐちゃでどろどろとしているのに、彼女の思考は至ってクリアだった。
風を頬で感じる。視界の彼方で揺らぐ標的が小刻みに震えている。
これだけ距離が離れているのなら、その震え一つで狙撃の成否を運命づける。
引き金を引くときのブレ一つで、弾丸は良からぬ方向にすっ飛んでいく。
一度だけ、息を吸った。
身体が溶けた。
否、そう錯覚させてしまうほど、彼女の意識はライフルと一体化し、人らしからぬ集中力に埋もれていたのだった。
風が止む。
標的の震えが収まりはじめる。
いつ引き金を引いたのかは、ブリジット本人ですらよくわかっていなかった。
けれども銃声から数秒遅れて響いた甲高い金属音を聞いて、その場にいた全ての人が狙撃の結果を知った。
11/
俺は廊下を歩いていた。
アルファルドに運用試験の成功を大層褒められて、ご褒美のディナーに誘われた。
さらには彼行きつけの店がそれなりのドレスコードが求められるらしいので、硝煙と砂埃をシャワーで洗い流して、精一杯めかし込んでくるように”お願い”された。
そして義体たちの宿泊施設がある寮棟と本部棟をつなぐ渡り廊下。
夕日が差し込むそこで、杖付きの人影を見つける。
「……アルファルドのところの義体か」
「ブリジットです」
人影はクラエスの担当官であるラバロだった。
彼は俺の姿を見定めると、少しばかり罰が悪そうに視線をそらした。
だが、何かしらを思い至ったのかすぐにこちらをしっかりと見据える。
「伝えたいことがある。少し時間をくれ」
12/
「お前は不思議な義体だ。何故なら条件付けは確かに機能しているのに、時折その隙間をかいくぐるような行動を見せてくる。例えばクラエスとヘンリエッタが暴走したあの時だ」
ラバロは続けた。
「お前の条件付けの譜面は、アルファルドの安全確保を命じていた筈だ。何せ、そのようにお前たちは”つくられて”いる」
彼が語るのは、一週間ほど前の暴走事故の顛末。
俺がヘンリエッタを押さえつけ、諭した日のことだ。
「けれどもお前はアルファルドを守らなかった。悪い意味ではない。お前はあの場で、条件付けに逆らってまで最善の選択を取ったのだ。すなわち二人の義体を押しとどめ、怪我人を最小限にとどめた。――条件付けは万能ではないからな。その譜面の複雑さ故、時には誤った選択もしてしまう」
ラバロが何を伝えたいのか、俺はいまいち理解していなかった。
けれどその口調が余りにも重々しいので、俺は黙って耳を傾け続けている。
「お前は現場の状況を自ら判断し、何が最善なのか常に考えることの出来る自由意志を有している。これは他の義体には見られない、お前だけの特徴だった」
心臓が掴み取られたかのような錯覚を覚えた。
ラバロの言葉は、俺の中身が異質であることを見抜いているようなものだったからだ。
出来るだけ表情を固定しながら、この場を切り抜ける方策に思考を巡らせた。
「今だってそうだ。雰囲気でわかる。お前は今、いかに俺の追求から逃れるのか思考している」
もう駄目だ、と思った。俺のような若造が敵う相手ではないことをたった今理解した。
あらゆる修羅場を潜り抜けてきた老兵からしてみれば、俺の擬態など道化染みた滑稽なものなのだろう。
「そう恐れるな。別に俺はお前をどうこうしようとしているわけではない」
内心の動揺を読み取ったのだろう。
彼は俺を安心させるような文言を口にした。けれども俺は警戒心を手放せないまま、一歩後ずさる。
「……俺からお前に伝えたいのはクラエスのことだ。彼女と俺は血の通った命令ではない約束をした。だがそれは絶対のものではないし、あの娘の将来には恐らく万難が待ち受けている」
足が止まった。
クラエスという名を聞くと、不思議と警戒心が薄れていった。
「お前だからこそ頼めることだ。自由意志という、義体の新しい可能性を宿しているお前だからこその。――どうかお前はクラエスの良き友人であって欲しい。融通の利かない、向こう見ずな頑固者だがその誠実さは本物だ。彼女が万難に心挫けそうなとき、せめてお前だけは彼女の手を取ってやってくれないか」
ラバロらしからぬ、その切実な調子に毒気を抜かれる。
そしてたった今、俺はこれから彼が辿る運命を思い出していた。
彼が語った「血の通った約束」
それはクラエスと彼が結んだ、命令ではない生きた約束だ。
すなわち――、
「眼鏡を掛けている間はおとなしい彼女でいてくれるよう、俺は願った。どうかその願いをお前に助けて貰いたいのだ」
咄嗟には返答できなかった。
それどころか「これからあなたは公社の暗部をリークするためにローマへ向かう。けれどもその途中、あなたの動きを嗅ぎ付けた公社が轢き逃げを装ってあなたを暗殺するのだ」と彼の運命を口走り掛けていた。
だがこの世界に絶望しきっている摩耗しかけた心が、「余計なことをするな」と寸前のところでそれを押しとどめてくれた。
「……いい目だ。なんでもすぐに即答する奴は信用ならないが、お前はそんな心配は無用だな。では後を頼んだ」
何も言葉を告げないでいたら、ラバロが歩みを再開した。
俺の横を通り過ぎ、渡り廊下から去ろうとする。
もしもこの時、ちょっとした勇気が俺にあれば彼のこの後の運命は違ったのかもしれない。
けれども俺はその勇気がなかった。
まだこの世界で生きていく覚悟がなかった俺は、ただ立ち去る彼を見送ることしか出来なかった。
日が暮れかけた渡り廊下。暗がりの中ただ一人取り残される。
結局のところ、俺の消息を心配したアルファルドに見つけられるまで俺はその場から動くことが出来なかった。
そして。
クラエスの担当官であるラバロは俺が知る歴史の通り、ローマ市街で轢き逃げにあい、そのまま帰らぬ人になった。
13/
あれから少しばかり時間が過ぎ、冬が近づいてきた頃。
俺はクラエスの家庭菜園づくりのため、ひたすら地面を耕していた。
彼女が記した図面の通り、公社から借りた庭に鍬を突き立てていく。
二時間ほど、そんな作業に明け暮れていたら、いつのまにかクラエスが隣にいた。
「何ですか?」
「これは感謝の印よ。あなたには感謝しているわブリジット。こんな私の我が儘を聞いてくれるとても優しい友人なんだもの」
彼女から差し出されたのは暖かい紅茶が入った水筒だった。
「ちょっと休憩しましょう」と告げるクラエスに従って、俺たち二人は庭に立つ大きな木の下にレジャーシートを広げた。
「ねえ、ブリジット」
冬の木漏れ日に目を細めながら、彼女は言葉を紡ぐ。
「私、こんな風に無作為に毎日を過ごすことが幸せなの。遠い昔、いつだかお父さんに教えて貰った気がする日々の過ごし方」
俺は何も言わなかった。
いや、言えなかった。
「その日々の中に、あなたのような良き友人がいるなんて、最高の幸せね」
14/
俺がクラエスに真実を告げる日がくるのかは、今のままではわからない。
けれど俺が俺の罪を彼女に告白したときの結末くらいはなんとなく予想できる。
たぶんきっと。
俺たち二人はある種の終わりを迎える。
彼女は俺のことを決して許しはしないだろうから。