いつのまにか風が止んでいた。
何処かで鳴いている虫の音が二人の耳に届く。
「遅いじゃないですか」
少しばかり非難したような声色。けれどもそれ以上に込められているのは確かな親愛の情。
アルファルドもそれを感じ取ったのか、やや迷ったそぶりを見せながらも、しっかりと答えて見せた。
「……すまない。君にあわせる顔がなかった……といえばそれは言い訳だな。傷ついた君を見るのが怖くて、逃げていたんだ」
「おかしな人ですね。私が怪我をするなんて、そう珍しいことでもないでしょうに」
「だからだよ」
言葉と同時、アルファルドが足を一歩進めた。
それは逃げられることも覚悟した、後ろ向きな歩み。
だが、不意に詰められた距離をブリジットは逃げなかった。
驚いたのはアルファルドだった。
「何かあったのか。随分と今日は……いつもと様子が違うな」
ブリジットの変化をどう捉えて良いのかわかっていないアルファルドは、言葉を一つ一つ選んで絞り出すように告げた。あたかも壊れ物の人形を扱うかのように、自身の言葉の刃で傷つけてしまわないように。
「まあ、いろいろと激励されたというか、もう少しだけ前向きに生きていてもいいと思えるようなことがあったというか……」
それに対するブリジットの返答は決して歯切れの良いものではなかった。けれどもその表情はどこか晴れやかで、アルファルドは毒気を抜かれたかのように息を吐いた。
詮索したいという思いはもちろんあった。
けれども、それはまだ時期尚早だと己の理性が告げていた。今感情的になってしまえばすべてが台無しになる。
そう感じて、アルファルドは一言だけ告げた。
「そうか……それならば、それでいい」
そして、どちらからともなく、二人して屋上に並び立った。
二人して夜の社会福祉公社を見下ろす。まるで二人しかいないかのように、人影の見当たらない静かな光景が眼下に広がっていた。
寂寥の眼下を見つめながら、二人は止めどない会話を続けた。
「ラウーロに言われたんだ。俺に命令されて死ぬくらいなら、君は処分されたほうがマシだと。その方が君にとっての幸せだと。頭を強く殴られたみたいだった。俺はできる限り君の幸せを願って振る舞ってきたつもりだった。でも今回の一件でそんな身勝手な幻想が抱けなくなった」
ぽつり、ぽつりと語られるアルファルドの独白にブリジットは耳を傾ける。
「任務に就くたびにぼろぼろになっていく君を見るたびに己の罪を見せつけられるんだ。情けないことに、俺はその覚悟がまだまだ足りていなかった。ラウーロやジャンのように君を道具として見ることもできない。かといって、ヒルシャーやマルコ―のようにパートナーとして見てやることもできない。こんな俺は君の担当官になるべきじゃなかった」
ブリジットの返答はしばらくなかった。
ただ眼下を静かに見下ろしたまま、何かを考え込むように黙り込んでいた。
長い長い沈黙が二人を支配する。
居心地の悪い静寂の中、アルファルドがついに愛想を尽かされてしまったか、と自嘲気味に笑った。だが、それが二人の沈黙を破るトリガーとなった。
「あなたってとても賢くて、それこそ私にイタリア語だけでなくドイツ語やフランス語、それに英語を教えるくらいには語学が堪能で、人文地理、自然科学にも造詣が深くて、とても理知的な人物だと認識しているんですけれども、意外とお馬鹿さんですよね」
何よりも、ブリジットの鷹揚な言葉にアルファルドは言葉を失った。
ちらりと彼女の横顔を盗み見てみれば、自身とは正反対の、何処か楽しそうな表情をしていた。
「見て下さい。この傷を」
そう言って、ブリジットは着ていた病院衣を腹から上に捲り上げた。真っ白な素肌の上にはガーゼが押し当てられ、包帯がきつく結ばれている。
あまりの痛々しさに思わず目を背けるが、ブリジットはアルファルドの顔を無理矢理自分に向き直させた。
「これは五共和国派の男に撃たれたものです。腕にある銃創もそう。頭の傷は鉄パイプで殴られたものです」
一つ一つ、彼女は今回の任務を受けた傷を説明していった。
これが、いつ、誰につけられたものなのか。その傷がどういった意味をもつものなのか。
「個人的に一番痛かったのは背中の銃創ですかね。エルザを庇ったときに9ミリパラベラム弾がめり込んだんです。割と至近距離でしたから、着ていたチョッキを貫通していました。お腹の傷とは違って容易に切開もできなかったので、現場では放置していましたけど」
それを最後に、捲り上げていた病院衣を元に戻す。
想像以上に痛めつけられていた己の義体を見て、アルファルドはますます表情を曇らせていた。けれどもブリジットはそれを笑い飛ばした。
「自分が撃たれたわけじゃないのに、何痛そうな顔をしているのですか? それが馬鹿みたいだと言っているんですよ。これは私が受けた傷であり、あなたが受けたものではない。あなたが痛がる権利なんて存在しない」
ブリジットは尚も強ばるアルファルドの両頬を包帯に塗れた両手でそっと包み込んだ。
「命令して下さい。アルファルド。それがあなたの権利であり、義務です。あなたが私に命令してくれるから、私は戦える。私は戦う理由を見つけられる。あなたが背負うべきものは私に対する罪ではない。己の職務に関する、すべからく存在する義務です。それを違えないでください」
「……だが、傷ついた君を見るのが怖くなって、君から逃げ出した俺は君の担当官たる資格がない」
アルファルドの後ろ向きな反論に、「それこそ何を言っているんですか」とブリジットは呆れたように溜息を吐いた。
そっと頬を包み込んでいた両手に力が込められ、アルファルドの頬を少しばかり抓った。
「そりゃあ、三日も放置されたときはどうしようか、と思いましたけれど、こうして会いに来てくれたじゃないですか。それにあなたならラウーロさんに叱責されなくてもそのうち来てくれていたでしょう。……いつかの時みたいに」
それで話は終わりだ、と言わんばかりにブリジットは手を離した。
実際のところ、アルファルドの懺悔も後悔も完全に払拭されたわけではない。それでも、その二つを完璧に解決することはできないと、理解しているからこそ、ブリジットはやや強引に話を終わらせた。
「私は先に戻ります。その酷い顔、次の任務までにはなんとかしてくださいね」
病院衣を翻し、ブリジットは屋上から去って行く。
一人取り残されたアルファルドは転落防止の柵にもたれかかると、いつまでたっても、彼女の消えた扉を見つめていた。
「……気をつかわせたのか、それとも条件付けから来るプログラムなのか、永遠に答えを得られないことが辛いな」
ブリジットに抓られ、少し赤くなった頬を押さえる。
義体と担当官。まだまだわかり合えないことは多く、割り切れないことばかりの関係性。
それでも彼は、ブリジットの見せたほんの少しの優しさに縋ってみたくなった。
1/
空は晴天。時折そよぐ風が涼しくて気持ちがいい。
少し体重を左に預ければ、一緒にペアを組んだ少女がこちらを見た。
「ブリジット、重いわ」
ぶっきらぼうながらも、どこかご機嫌な声色。俺はそれが嬉しくて、今この瞬間にはそぐわないであろう笑みを零していた。
「いや、てっきり前回の失態でもうペアを組めないと思っていたから、つい、ね」
春の日差しに照らされたシチリアは海の青と建物の白が混ざり合った、カラフルな色彩をしていた。
とある建物の屋上に断熱シートを敷き、スナイパーライフルを構えて、今俺は寝そべっている。
隣には、俺と同じように傷から回復したエルザがいた。
「あなたの能力を考えたら不思議でもなんでもないわ。あなた以上にこの任務をこなせる義体なんて存在しないもの。もっと自信を持ちなさい。たった一度の失敗くらいで、あなたが捨てられることなんてありえない」
若干説教染みた言葉だったが、それは俺のことを案じているからだと思うと、エルザの声が心地よくて仕方がなかった。
ついこの間まで、己のありようで鬱々としていたのが嘘みたいだ。
「それとブリジット。あなた、いつもの胡散臭い丁寧言葉はやめなさい。今くらいフランクな方が、いろんな人に好かれるわよ」
「いや、それは努力してるんだけれども、どうしてもだめというか、むしろエルザだけ何故か大丈夫というか・・・・・・」
思わぬ駄目だしに苦笑が零れる。さすがエルザ。ただでは褒めてはくれない、ちょっと気むずかしい子だ。
「ふーん、そうなの」
でも、俺の「エルザだけ大丈夫」という言葉が気に入ったのか、説教を袖にされた割にはいたく上機嫌に彼女は笑っていた。
『……ブリジット、目標の車がそちらに向かっている。ヘンリエッタが銃撃したが、フロントガラスは防弾だ。タイヤを狙えるか?』
と、無駄話に花を咲かせていたその時、耳からぶら下げた無線機から声がした。
我が親愛なる担当官、アルファルドだ。
どうやら彼も目標の車を追っているのだろう。運転手のラウーロに指示を飛ばす合間に、こちらにも連絡を寄越してくる。
「――あなたが信じてくれるのならば可能です」
返した言葉は偽りのない本心。
義体はそういう風に作られている。
担当官に愛されている限り、担当官に信頼を寄せられている限り、俺たちは戦い続けることができるのだ。
『俺が君を疑ったことは一度もない。やってやれ、ブリジット』
「はい、アルファルド」
ライフルの安全装置を外す。ハンドルを手前に引き、薬室に弾丸をセット。
既にポイントを合わせておいたスコープを覗き、目標を待ち伏せる。
「見せつけてくれるわね」
隣で観測手を勤めるエルザも、ばかでかい望遠鏡のような観測機を覗き込んでいた。
二人で一つのスナイピングシステム。
必要なのは互いを信頼しきるチームワークのみ。
「……私とアルファルドはたぶん、まだまだフラテッロにはなりきれていないんだと思う。でも、それでも、彼のことはもう少し信じてみようと決めたんだ」
車が見えた。赤いフェラーリが一台。猛スピードで幹線道路を突っ切ってくるそれに照準を合わせる。
隣で同じ獲物を見ているエルザが、俺の肩にそっと手を置いた。
「なら問題ないわブリジット。今のあなたは、昔のあなたより、だいぶお利口よ」
タイヤに照準のクロスが重なる。呼吸がほんの一秒ほど止まった。
エルザが肩を叩いた。
ほとんど無意識に引き金が引かれた。
撃ち出された弾丸が螺旋を描いて突き進んでいく。
2/
タイヤを片方失ったフェラーリが、スピンして街路樹にぶち当たった。
幸い歩行者の陰は見当たらず、余計な怪我人は存在していない。
黒いBMWから降りたアルファルドはSIGを一つ構えながらフェラーリに近づいた。衝突の衝撃でやられたのか、中の人員はうめき声をあげるだけで、抵抗するそぶりは見えなかった。
「アルファルドさん、下がってください」
同じようにフェラーリを追跡していたジャンとリコのペアが駆けつけてきた。
リコが助手席から男を引きずり出し、後ろ手に手錠を填める。
「これで五共和国派の裁判の証人はそろったのか?」
ジャンにそう問えば、彼は一言「ああ」と返すだけだった。
アルファルドがそちらを訝しんでみれば、ジャンの視線があるものに固定されていることに気がついた。
そう、視線の先にあったのは
「あんなところから撃ったのか」
距離にしておよそ500メートル。いや、600メートルはあるだろうか。
豆粒みたいな人影が二つ、高台の建物の屋上で動いているのがわかる。
アルファルドは人影の正体を知っている。いや、正体だけならジャンも想像がついているだろう。
「あれは公社が調整したのか?」
ジャンの問いにアルファルドは首を横に振った。
「いや、あれは彼女の天賦の才能だ」
「……そうか、羨ましい限りだ」
ジャンはそれだけ告げると、リコに指示を出すべくアルファルドから離れていった。
一人取り残されたアルファルドは人影の方をぼんやりと見つめる。すると、人影が――ブリジットがこちらに向かって手を振っているのが見えた。
「ああ、君はいつもそうだ。俺の信頼なんか飛び越えて答えてくれる。それがあまりにも眩しすぎて、俺は目をそらしてしまうんだ」
呟きは誰にも聞かれなかった。
アルファルドはその場で踵を返すと、ジャンたちが取り締まりをする現場に戻っていく。
己の義体に与えるべき、とびっきりの贈り物のことをつらつらと考えながら。