蒼の薔薇に立ち塞がった
――ゴキブリと。
しかし、普通のゴキブリでは無い。その異様さはアダマンタイト級冒険者でなくとも警戒するに充分。
二本脚で直立し、大きさは体高三十センチほどだろうか。顔は正面を向き、貴族然とした優雅な振る舞いで佇み、蒼の薔薇の様子を伺う。
鮮やかな真紅のマントを
その正体はナザリック地下大墳墓第二階層一区画、
蒼の薔薇は見たことも聞いたことも無いモンスターに油断の欠片も無く
一番最初に動いたのは
常人では反応すら出来ない速さだが、恐怖公はヒラリと真紅のマントでクナイを絡めとる。
「凄いマント」
ティアは自分達のクナイがマントを貫通できないことに驚く。単なる布では無いようだ、強固な金属糸で縫い上げられているは確実。
ゴキブリは一歩も動かず、攻撃もしてこない。力を感じさせる瞳で見つめるだけ。
蒼の薔薇は身体能力の高いモンスターにありがちな
手始めに、ガガーランが
その後、ガガーランと恐怖公との距離を見計らう
恐怖公の行動は蒼の薔薇の予想通り、先程と全く同じ。真紅のマントでクナイを絡めとっていく。無駄攻撃で
これは防ぐのは容易では無いと直感した恐怖公は、横へと水平に飛び退く。
この判断は
だが、人類の守護者たるアダマンタイト級冒険者チームが、伊達でないことの証明はこれから。
その行動を待ってましたとばかりに、肉薄する距離まで接近したガガーランが
地面から足が離れ、回避不能の恐怖公は
恐怖公は体を回転させ、
――その瞬間、鈍い音が響く。
ゴキブリの体は勢いよく地面に叩き付けられ、土煙が舞い上がった。小さな体はそこで止まらず、物凄い速さで門を通過し墓地にまで弾き飛ばされていく。
最初の攻防は蒼の薔薇に優勢な運びとなったが、ラキュースの表情は険しいまま。
「ガガーラン、どう?」
ラキュースと同様、墓地を注視するガガーランは武器を構え直す。
「悪かねぇ一撃だったが、まだまだ倒せねぇな。手ごたえからして、かなり頑丈だ」
言葉を交わす蒼の薔薇はその場を動かない。畳み掛けるチャンスを不意にする理由は、墓地がどうなってるか確認できていないため。罠や伏兵の奇襲を警戒したのだ。
そのため、今できることとして情報を伝え合う。こうやって少しでも情報を共有し、戦闘を有利に進めるのは冒険者にとって初歩の初歩。
土煙が治まり空気が透明さを取り戻す中、恐怖公は致命傷には程遠いとしっかりとした足で佇んでいた。マントに付着した土を、複数の前脚で丁寧に払いのけている。
払い終わり、綺麗な真紅の色を取り戻しマントに満足気に頷く恐怖公は、蒼の薔薇に近付こうとしない。侮れない相手と理解したのだ。
「ふむ、元気のある方々ですな。良い攻撃でした。次は吾輩の番ですぞ」
乏しかった敵意を鋭くした恐怖公が
蒼の薔薇は互いの背中を守るよう陣形を組み、敵襲に備えた。武器を構え、自分の目の前だけに注意を向ける。背中を仲間に任せる信頼の証。
「んだ、ありゃ?」
ガガーランは武器を構えてはいるが、コレの対処法が思いつかなかった。
家の隙間、歩いてきた道、墓地を囲む壁、ありとあらゆる場所から大小様々なゴキブリが無数に迫ってくる。小さく黒い物体が途方もないほど合わさり合い、一つの生命体になったと錯覚するが如く
数とは暴力の体現。四方八方包囲され、一部の隙も無いゴキブリの大津波。ガガーランは武器を構えたまま、その場を動かない。戦士では大津波に石を投げて食い止めようとするのと同義、自分ではどうすることもできないと悟ったのだ。
「全員前に出るな! 私が突破口を開く」
必死の叫びを上げたイビルアイは、恐怖公に効果
「
イビルアイは白い
恐怖公はその光景を
そして、恐怖公の予想は的中することとなる。
白い
「戻るのですぞ!」
恐怖公は慌てた声で、眷属を下がらせた。命令を聞き入れ、白い
「あの魔法は……人間が無傷のところを見ると、我等だけに効くといったところでしょうか? 少々やっかいですな」
恐怖公の強さの大半は、無数のゴキブリ召喚に割り与えられている。これが通じないとなると、かなり分が悪い。
近付いたら
「
イビルアイの叫びに蒼の薔薇はそれぞれ攻撃を繰り出す。
ラキュースは魔剣キリネイラムに魔力を注ぎ込み、エネルギーを溜め込む。充分な力が蓄えられると、刀身が眩く輝く。魔力を帯び
「我に眠りし混沌の闇よ!
魔剣キリネイラムから放たれた力は、漆黒の爆発を巻き起こす。無属性のエネルギーは、数多くのゴキブリを跡形も無く消し去っていく。
ガガーランも石を投げて応戦していた。
恐怖公は眷属が消されていく光景を眺めていることしかできなかった。
そもそも恐怖公自体、高い戦闘力を有している訳ではない。無数のゴキブリで探知魔法の阻害や、拷問に用いられたりなど戦闘以外で役立つ存在なのだ。
「ここはシルバーに任せますかな」
他に戦局を覆す手段はないと、前脚を左右に広げて最強の切り札を召喚する。
――現れたのは恐怖公よりやや大きい銀色のゴキブリだった。
色と大きさ以外ただのゴキブリに見えるがそんなものを切り札にする筈も無く、レベルは恐怖公の三十を遥か超える七十。英雄と呼ばれる者達がレベル三十前後なのだからその強さはもはや異次元。
銀色のゴキブリ『シルバーゴーレム・コックローチ』は攻撃が吹き荒れる戦場を悠然と歩く。
遠くから迫るシルバーを目にしたイビルアイは雷に打たれたような衝撃を受ける。
この銀色のゴキブリが放つ強者の風格は他とは桁違い。仮面の中の素顔から汗が滴り落ち、思わず後ずさりしてしまう。
「……逃げろ。……馬鹿こちらを見るな。あんな怪物に勝てる筈がない。あれは……ゴキブリの神だ。後ろを振り返らず全力で逃げろ」
「……あなたはどうするの?」
「気にするな、時間を稼いだら転移魔法で逃げるさ」
蒼の薔薇は互いを見合い、頷く。イビルアイがここまで言うのだ、自分達の力ではどうにもできない相手なのだろう。
これ以上の時間経過は愚の骨頂、悩んでる時間はない。
度重なる攻撃で数を大きく減らしたゴキブリの中を、蒼の薔薇は突き進んだ。
それに合わせ、向かってくるシルバーの進行速度が僅かに上がる。
「死ぬなら順番だ。長く生きた私が、若い奴を生かす。それがもっとも正しいのだろう」
遠ざかる気配に別れを告げ、生還が絶望的なゴキブリと対峙する。
「距離があるうちに防御魔法を唱えておくか。ふっ、無駄かもしれんが。
イビルアイは銀色のゴキブリを睨めつけ、全力戦闘の心構えをした。この相手に出し惜しみは不要と、初手から切り札の連続発動を決意する。
「
まずは当然この魔法。いくら力量差があるとはいえ、これは有効な筈だ。
――カサカサカサカサカサカサ。
シルバーは白い
平然と、迫り来る
「
防御魔法の発動と同時に腹部に衝撃を感じ、重力が横に働いたのか錯覚するほど大きく吹き飛ばされる。家の壁を何枚も貫通し、家具を弾き飛ばしながら何軒目かの家の中でやっと止まる。
イビルアイはよろけながらも無傷で立ち上がった。
「
自分の体で空けた壁の穴を通り抜け、夜空に飛ぶ。
元から勝算など無かったが、いよいよ絶望的。転移魔法を使えばこの状況からも逃げられるが、
イビルアイの特殊な目は暗闇を物ともせず、高い視力で地面を這いずるシルバーを見下ろす。
「
対象に砂を纏わり付かせ、行動阻害、盲目、鎮静、意識散漫の効果を同時に発生させる切り札の一つ。
――カサカサカサカサカサカサ。
「クソ! 当たらん! だが、こうやって飛んでいれば――
飛行するイビルアイにシルバーが取った行動は単純。下からジャンプしての頭突き。
下から跳ね上げられたイビルアイは空高く舞い上がる。今度は
(……そうか、私は死ぬのか……まぁ、あいつ等ならかなり遠くに逃げた筈だ。私の役目は終わったな)
重力に導かれ落下するイビルアイは目を閉じる。二百五十年も生きれば充分すぎると、微笑みながら目に涙を浮かべ
「………………?」
イビルアイは疑問に思う。既に地面へ叩き付けられている時間。いつまでたっても衝撃は訪れず、かわりに優しい感触が背中を
「大丈夫か?」
声をかけられ、ゆっくり目を開けるイビルアイが見たもの――自らを抱きかかえる漆黒
「私はモモンという。危ない所だったが、救えてよかった」
抱える両の腕から感じる力強さ、ヘルムから聞こえる優しい声。
イビルアイの脳裏をある物語が過ぎる。勇敢な
「わ、私はイビルアイといい、ます! あの、その――」
しどろもどろするイビルアイを尻目に、
「なんだ、あれは?」
モモンが疑問に思うのも当然だ。あんな生物がいるなんて誰も思わない。
ブツブツ何やら
こっちのゴキブリは終始こういった態度をとっており、余裕の表れだと確信するイビルアイは苛立ちを覚えた。
「……イビルアイ、立てるか? あいつの相手は私がしよう」
お姫様抱っこから立たされたイビルアイは少し残念な気持ちになるが、今はそれどころではない。
モモンがつけているのはオリハルコンプレート。確かに人間の中では強者だが、相手は
「待って! あのゴキブリは――」
「――問題ない」
モモンはイビルアイの忠告を
イビルアイは息を飲んだ。
モモンが自分をかばい立ち塞がった瞬間、どんな攻撃も弾き返す超頑丈な城壁が守ってくれる安心感が生まれた。
漆黒の戦士と銀色のゴキブリが対峙し、睨み合う。
「いくぞ! ……ゴキブリ!」
前に踏み込んだ。いや、そんな気がしただけだ、実際には全く見えなかったのだから。
モモンと
早すぎて、イビルアイは何が起きているか理解しきれない。
高音の金属音が数えきれないほど鳴り響き続けた。
「凄い……」
夢を見ているようだった。
自分を超える怪物から身を
股間の辺りから背中にかけて熱いものが駆け巡り、身を震わせた。
二百五十年動いていない心臓が鼓動した気がした。
確かめるように薄い胸に手を当ててみるが、当然動いてなどいない。それでも、そんな気がしたのだ。
頬を赤く染めるイビルアイは手を合わせ、祈るように涙目で見つめる。
「……がんばれ、ももんさま」