アルドノアグール   作:柊羽(復帰中)

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Episode.25 再来する狂者

「……ん、んん」

 

水中に沈んでいた自分の身体が水面に浮いてきたような、急に全身が空気や温度を感じた。ゆっくりと瞼を開ける。韻子は突然に入ってくる光に首を少し横に逸らして目を閉じた。再び開いてみると、そこには丸いライトが埋め込められた天井があった。いかにも近未来感を思わせる造りで、白い表面に一定間隔で金属製の枠組みが並んでいる。ライトがかなり明るいために、先程までいた闇に染まった館とは正反対の空間だった。

 

韻子は体をゆっくり起こして一直線に伸びていく通路を見る。壁が天井から外側に少し傾いてあるが、途中で金属の横一直線のフレームを挟んで今度は床に向かって内側に少し折れながら設置されている。つまりおおよそ八角形の形をしているのだ。そしてこのやけに広い通路は途中の道でいくつか分岐しているのが目視できた。明るいライトに白と銀色が共鳴するかのようにして、太陽の真下にいるような感覚にさえなる。

 

「そういえば……」

 

自分に起きた出来事。東館捜索中に突如現れた喰種。それは、以前現れた2番目のアルドノアグール――通称"騎士"と戦闘中に出現して討伐間近の騎士を連れ去った喰種だった。その時も見せた細長い赫子を幾重にも重ねた楯。それによって大苦戦を強いられた韻子たちは、水天寺特等の指示で一旦退散することとなった。そこで真っ先に韻子は出入り口のドアに向かった。古びた金属製の丸いドアノブを掴もうと腕を伸ばしていた……。

 

そこから突然体から感じた違和感。足場が急に後方へとずれた。それによって韻子は前のめりになった。そして驚くことに、その姿勢で見えてくるはずの床が見えなかった。()()()()()()()()。あるのは奈落の底。闇によって塗られた恐怖の空間が口を大きく広げていた。

 

「そうだ、私はあれで落ちて……」

 

韻子は長い廊下とは反対の方を向いた。そこに廊下はなく、幅いっぱいの黒い巨大な滑り台が設置されていた。ライトに照らされた艶やかな面は急に斜め上へと上がっていき、それに沿って天井も上方向に伸びている。その行方は遙か上方にあり、あの時開かれた穴からここまで通じているのだと容易にわかった。しかしそれよりも目に飛び込んできたのは……。

 

「え……え?」

 

韻子自身では気づいていなかったが、他にも2人が韻子と同じ穴に落ちていたのだ。その2人が滑り台付近の両壁にそれぞれ倒れていた。クインケは投げ出され、ぴくりとも動かない様子から気絶しているのだと思える。しかし双方の体からゆっくりとしみ出していた赤い液体を見た瞬間、韻子の体は一気に体温を奪われたような恐怖に襲われる。

 

「た、高杉一等!西山二等!」

 

直ぐさま2人の元へ駆け寄って名前を大声で呼びながら体を揺らしてみる。そこで初めて韻子はあるものに気づいた。それは滑り台から一定距離までぎらりと光っている大きい()()が、滑り台に向かって壁からせり出していたのだ。長さは手を伸ばして中指から肩までくらいある。その()()の数本には血がべっとりとついていた。韻子は恐る恐る首元に指をあててみると、やはり脈の動きを感じ取れなかった。2人とも死んでいるのだ。

 

「そん、な」

 

口はわなわな震え、体もが極寒の地に立ったのごとく震える。内側からむしばんでくる恐怖からか、まともに声も出せなくなった。立ち上がろうと思ってもうまく力が入らず、体を引きずるようにして2つの遺体から離れる。呼吸も乱れ、目には涙が溜まる。震える手で無線を操作して連絡を取ろうと思っても、通信不能となっていた。ここまで転がり落ちたために故障したのではない。通信がまったく繋がらないのだ。

 

「……いやだ、いやだ」

 

恐怖は止まることなく徐々に面積を増し、さらに韻子の体をむしばむ。目の前の光景。血を流した2つの死体。それがふいに歪み、光を含んで弾けたと思えば、これはあの時――フェミーアン討伐のとき――の……。

 

ユキが必死に壁を作ってもフェミーアンの赫子によって無残に破壊されていく。崩れた破片の隙間から見えてくる人影。それはこちらに大きく開いた手を伸ばしてくる。月明かりで照らされたその顔は黒くてハッキリ見えなかった。しかし、表情が結局マスクでわからなかったとしても、自分を明確な標的として迫り、確実に殺そうとしてきていることだけはわかっていた。その恐怖が、その光景が目の前に映し出されて、韻子は最早パニック状態になりかけていた。

 

「いやだ、いやだ。怖いよ、怖いよぉ」

 

両手で頭を抱え込むようにしてうずくまった。目から涙がこぼれ落ちる。韻子のかすれかすれの小さな声でさえも、何一つ音のしない空間には十分すぎるくらいに聞こえる。

 

今、韻子はひとりだ。仲間は誰もいない。冷たく、静寂で、恐怖にあふれた空間に、たったひとりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊奈帆は一呼吸してから、改めて前方に伸びる通路を睨む。

 

先程西館からここに落とされた。衝撃で気を失っていたところを一緒にいた起助に起こされた。持っていた小型時計は壊れていてしまっていて時刻がわからない。さらにここまでに眩しいと感じたことのないほどの明るい空間。そしてここから落ちてきたのだとわかった黒い滑り台の側で、あからさまにこういったときのために設置されたと思われる()()によって何名か息絶えていたこと。目眩でもしてきそうな連続して飛び込んできた情報に伊奈帆は少々整理に戸惑った。

 

今現在ここにいるのは伊奈帆の他に起助、佐々木、そして一緒に西館担当で編成された捜査官3名。敵はうまくこちらの班を分けてきたようだ。

 

「無線は……ダメだな」

 

佐々木は分断された西班に無線を飛ばしたが繋がる気配はない。

 

「無線は壊れていないようだけど、ノイズが邪魔してる」

 

「なら、こちらはこちらで動くしかないですね」

 

捜査官の1人が小さく深呼吸してクインケを握りなおす。

 

「今の状況により佐々木上等が指示を出してください」

 

「わかった」

 

伊奈帆の顔、そして全員をしっかりと見て佐々木は頷く。そして6人は慎重に歩き出す。

 

目の前に伸びる通路は直進していくと二手に分岐している。一方はそのまま真っ直、もう一方は左に曲がる。前者は何かの部屋があるようで灰色のドアが見える。しかしそれに何かしらドアを開けるためのドアノブなり指を入れる隙間が見当たらないのだ。その代わりにこちらから見てドアのすぐ右の壁に小型機器が設置してある。つまりここに専用のカードかを使わないと開かないようだ。諦めて残されたもう一方へと進む。

 

曲がるとまた部屋らしき空間が見えた。見えたのは、つまりそこにはドアがなかったからだ。中に入ると、そこには大量のコピー証紙やらセロテープ、ガムテープ、さらにはビーカーやスポイトなど実験器具まで棚に並べられていた。その部屋は伊奈帆たちが入ってきたのとは別に、左右に2箇所出入り口があった。そちらもドアらしきものはない。

 

「ここは用度室ということか」

 

6人はあちこちを少し見まわる。しかしここに変わったものはおいていないようだ。

 

「こんなものを見ると、この地下施設は何か研究でもしているのか?」

 

「そう、みたいですけどね。でもこれらはだいぶ古い」

 

佐々木は手を顎に当てて目を細めて部屋の品々を見る。伊奈帆も佐々木と同じ見解だったようだが、コピー用紙が入った段ボールの山にゆっくりと近づく。目をこらしてみると、そこにはびっしり埃が溜っている。

 

「誰もこれを動かした形跡はない。他にも、あそこの棚にも埃が溜っていました」

 

「ここに置かれてからだいぶ年月が経っている、そういうことか」

 

「ええ。ここの他にもこういう部屋があるかもしれませんが、しかし真新しい施設に見えるのに置いてあるものが古いとなると、やはりおかしい」

 

「確かに伊奈帆の言うとおりですね。かなり古い屋敷の地下にこんなものが造られてて、さらにここですらかなり古い施設ってーことになる」

 

今現在から得られる情報をまとめるとそういった結論に至る。およそ100年前に建てられた屋敷の地下に秘密裏に造られていた施設。ここはいったい何のためにあるのか、そもそもここの光源はどこから電気を引いてきているのか、などと疑問ばかりが膨らむ。ただわかることと言えば、ここは喰種が使っているということ。その喰種は対騎士戦で乱入してきたのと同じマスクをつけていた。そうなると、つまりは……。

 

「もしかして、アルドノアの研究でもしてた、とか?」

 

起助は部屋の奥まで歩いて行ってから皆の方に振り向いた。アルドノア、という言葉に反応して全員が注目した。起助は思いついたことをそのまま言ったばっかりに、皆の様子を伺いながら不格好な笑い方をしている。しかしそれは案外間違ってはいないだろうと伊奈帆は思った。

 

「アルドノアの研究……。そういっても良さそうかもね。まあ、ここで立ち止まっていてもしょうがない」

 

佐々木は軽く頷くと部屋の左右の出入り口を交互に見た。

 

「ここで二手に分かれるのはあまり良くない。だからどちらかに全員で進もうと思う」

 

「そうですね。人数も多くないですし、短距離でさえ無線が使えない」

 

無線の件については落下地点で既に使ってわかっていた。少しの沈黙の後、捜査官の1人が左の道を進もうと指さして進路は決まった。

 

その道は少し歩いて右に曲がっていた。道なりに進むと今度は3方向に分かれていた。そのまま直進するとまた部屋らしきところに行き着く。灰色のドアは金属製の縦長の取っ手が左右に一つずつ付いたものだが、片方が開いている。先程の部屋とは違って薄暗く、通路などの白光りとは違った黒と緑が混ざったような不気味な明かりが漏れていた。左右はどちらも一直線に伸びていて、右はかなり先まで伸びていて、部屋らしきところまでに左に4箇所ほど分岐している道が見えた。左は最初に見た部屋のように小型機器が取り付けられているためすぐに引き返した。

 

「入ってみますか?」

 

明らかに通路とは違う雰囲気を出している部屋を前に起助は言った。元々ここにいるとされる喰種、そしてアルドノアグールの殲滅のためにやってきた。それが今となっては敵の手にまんまとはめられ、圧倒的に状況として不利だ。殲滅よりも先にここから地上に脱出する出口を探している状態である。しかし、それと同時に、情報にはなかった地下施設に投げ出された。それはあの地上にあった屋敷よりかは後だろうが、ここもかなり前からあったと見える。そして、ここはいったい何の施設なのか、ここで喰種たちは何をしているのか。そんな未知なる場所に入れられてしまっては、少しでも何か情報を得たいとも思えてきている。

 

「ああ。もしかしたら出られるヒントがあるかもしれない。それに……」

 

佐々木も同じく知りたがっている。確かに脱出へのヒントがあれば十分だ。そして、濁した言葉の先には、やはり"アルドノア"についても何か情報があるのではないかと考えたからだ。

 

ゆっくりとドアの側まで近づき、クインケを構えながら一行は部屋の中に入る。館ほどではないが薄暗い空間で彼らは発見した。

 

「これは……!」

 

「なんだよ、これ」

 

皆が目を丸くしてその場で立ち尽くした。見えてきたのは、いくつも並ぶ巨大な円柱状のタンクだった。同じく円柱状の機械の上にそれは乗っかっていて、内装のライトのせいか黄緑色に染まった水がタンクの九割ほど溜り、下から湧き出てくる泡がぶくぶくと音をたてていた。タンクの上にも機械がついていて、そこから太いホースが高い天井へと繋がっている。その天井にはそれと同様のホースやら大小太細様々な管が縦横無尽に巡らされている。タンクは入り口から入ってすぐ横と部屋の真ん中、そして奥の壁際の3列にそれぞれ10個ほど連なっている。そのタンク一個一個ごとにデスクトップPCが、これまた大量のケーブルを繋げて机に置いてある。

 

「本当に、実験施設だったのか」

 

「でもいったい何を」

 

「それこそ、アルドノアじゃないんですか」

 

顔は唖然としたままの起助が部屋の奥へと進んでいく。泡が弾ける以外に何かの機械が稼働している音が全体に響き渡っているが、歩く度にかつんかつんと床と靴底が当たる音も近くからでなら聞こえる。捜査官が2人出入り口前に立って監視を行う。その間に他の4人がざっと実験室を調べてみる。広さは一般的な高校の体育館よりも上だろうか。天井もかなり高い。注意は怠らないようにして奥へ進んでいくが、どのタンクも水の他に入っているものはなかった。

 

そして部屋の一番奥まで来ると、2つ新たなドアを見つけた。ひとつは通路側の壁にあって、おそらくここへ入ってきたのと同様のものだろう。かなり広い部屋だから出入り口が2つ設けられていてもおかしくない。そしてもうひとつは指を入れて横に引くドア。黒一色のドアは部屋の薄暗さに紛れるようにして佇んでいる。

 

「ここも開けますか?」

 

起助はゆっくりと佐々木の顔をのぞき込むようにして様子を伺う。佐々木は起助の方を向かずに「クインケを構えつつ開けよう」と小さく言った。

 

斧型クインケを持った捜査官がドアに指をかける。その横で伊奈帆がクインケ――オーディン――を構えた。後ろで起助と佐々木も息をのむ。皆の顔を見て頷いた捜査官は勢いよくドアを開けた。すると……。

 

「奥も、ここと同じか」

 

ドアを開けた先には、まるでそれが鏡張りで伊奈帆たちがいる部屋をそのまま写しているかのように、同じ光景が広がっている。不気味な液体を蓄えた巨大タンク。3列になって佇むそれは、黒い霧が支配するような空間にあるだけで不気味に思えてくる。ずっとこちらを虚ろな目で睨んでくるような、冷たい視線を感じる。……視線?

 

ここで伊奈帆は、背筋を指でなぞられたような恐怖を感じ取った。体温が流れ出して下がっていくような感覚。どういうわけかは伊奈帆でも言葉で説明しがたい。しかし、()()()()()。論理的に説明できない、何かがこちらを睨んでいる、そういった感覚を肌で感じ取った。確実に、何かがいる。

 

伊奈帆は一瞬のうちにその感覚をさらに研ぎ澄ませる。この感覚、見えない何かの気配を探す。暗闇の中から手探りで慎重に、かつ素早く。そうして伊奈帆は辿り着いた。気配の居場所に。それは前でも後ろでも右でも左でもない。上、遙か上の天井付近に()()はいた。

 

「上だ!」

 

伊奈帆が叫んだが、ほんの少しだけ遅かったようだ。天井から槍のようなものがあっという間に墜ちてきて、ドアを開けた捜査官を頭から串刺しにした。飛び散った血は伊奈帆と起助の袖や足に付着した。

 

「出るぞ!」

 

佐々木が真っ先に動いた。むこうの出口にいる2人にも聞こえるように普段の彼からは想像できないほどの大声で叫ぶと、ドアを突進で開けて外に出る。捜査官を串刺しにした他に3本ほど天井から放たれたが、なんとか躱しつつ2人も通路へと出た。通路に出ると右の方に見張りの捜査官2人の姿が見えた。慌ててこちらへ走ってきている。しかし……。

 

「ああ!」

 

彼らの方を見ていた起助が叫んだ。驚きと同時に恐怖に染まった起助と同様に伊奈帆と佐々木も声を漏らした。

 

2人の後方に、明らかに桁違い身長の喰種がいたのだ。半分が黒でもう半分が白で塗られたマスクを被っている。そしてこのマスクに伊奈帆は見覚えがあった。

 

「あれは……騎士を持って行った喰種」

 

「2人とも!速く!後ろだ!」

 

伊奈帆の呟きをかき消すように佐々木が叫ぶが、巨体の喰種も見た目らしからぬスピードで2人との距離を縮めている。彼らが振り返って身構えてもあの喰種の巨体から繰り出される攻撃に耐えられるかわからない。そのサポートに行こうと佐々木が駆けだそうとするが、目の前を黒い鱗赫が飛び出てきた。頑丈そうな壁を砕いて刺さった。

 

「……!」

 

ぬるりと、そう形容した方が合うような、奇妙な動きでドアから姿を現したその喰種もまた、白と黒のマスクをしていた。この喰種の動きは、特徴的な長い手足によるものだと伊奈帆は気づいた。しかし、その意識は一瞬にして前方に移った。

 

「うわああああ!!」

 

2人の捜査官は断末魔の叫び声のように我を忘れて前と後ろを何度も何度も見まわす。ここは直線通路。前と後ろに喰種がいる時点で逃げ場はない。

 

「お前の相手はこっちだよ!」

 

起助が手足の長い喰種の気を引こうと自信の剣型クインケ――菊一文字――を振りかざす。伊奈帆もすかさず喰種に迫る。起助とのアイコンタクトで阿吽の呼吸の攻撃をお見舞いできたと思えた。

 

しかし、2人の接近にいち早く気づくともう一本鱗赫を出した。そしてその喰種からじわりと水色の霧のようなものが出てきた。それはすぐに喰種の2本の赫子に移った。水色のオーラを纏った赫子がうねり、そしてお互いがぶつかり合った。瞬間、2人の前に謎の気流が発生した。それは2人に襲いかかり、不意を突かれてしまった故に構えることも出来ずに後方へ飛ばされる。

 

「……そんな」

 

佐々木が駆け寄るなか、起助は先程の威勢のいい声とは真逆の、弱々しい声が漏れた。伊奈帆も険しい表情のまま喰種を見つめる。ゆらゆらと2本の鱗赫を揺らす喰種、その素顔はまったくもってわからない。しかし、手足が異常に長い故に最早喰種でさえない、また違った別の生物に見えてくる。

 

「あああああ!!」

 

通路に響いてくる悲鳴ではたと伊奈帆は視線を奥に向ける。そこには巨体の喰種の両手に握られてしまっている2人の捜査官がいた。体でさえ大きいのに、喰種の手はさらに大きかった。故に人ひとりをつかめるのか。マスクからくぐもってはいるが、姿そのままのゴリラが唸っているような声が聞こえる。捕まえられて上機嫌なのだろうか。両手を振り回して捜査官たちが余計に手足をじたばたさせて叫んでいる。

 

「クソッ!」

 

佐々木はクインケを構える。狙いを定めてイーグルアイの引き金をひいた。発射された弾はぶれることなく巨体の喰種の方へ向かっていった。しかし、それは到達することなく途中で破壊された。手足の長い喰種によってまた防がれたのだ。

 

一言も何も喋らないそれに不気味さと恐怖をじわりと感じた。そして、巨体の喰種が一段と大きいうなり声をあげた。

 

腕を前でクロスさせる。何が起こるかわからない2人の捜査官はいよいよ狂ったように叫ぶ。

 

「佐々木さん!!!助けてください!!!!」

 

「はやく!!!!助けて!!!!」

 

彼らの悲痛の叫びをどうしたらいいのだろうか。助けたくても、目の前にはアルドノアグールが不気味な立ち姿でいる。見たとおり、アルドノアを纏った赫子をぶつけることによって独自の気流を作りだし、あらゆるものを吹き飛ばせる。それは弾丸でさえ正面からねじ伏せるほどにもできるその力は、まさしく異次元の力。それを、どうして難なく超えることができるのだろうか。佐々木は、唖然とした顔で立ち尽くしていた。

 

「佐々木さん!!!!」

 

「界塚に箕国!!!お前たちもはや」

 

そこで、彼らの声は途切れた。きっと、はやく助けろ、そう言いたかったに違いない。そう言い終える前に巨体の喰種が腕をクロスから一気に横に振った。通路を揺らすほどの轟音がした。体で大の字を作った巨体の喰種は、未知の生物のような、低い笑い声を出した。喰種の両腕は左右の壁にめり込んでいる。そこから地下水が流れ出るようにして、赤い水が幾本も滝と化して出てくる。

 

3人は絶句するしかなかった。目を大きく見開き、圧倒的絶望に飲まれかけていた。立ちはだかる脅威に、目を背けたくても動かせなかった。まるで見たら体が石化してしまうメデューサのように。それか、こういった状況だからか、()()()()()()()()()()()()()()()()()、そう思ってしまった。

 

伊奈帆は考える。あくまで普段通りの呼吸に正そうと深く息を吸って吐く。口の中はまったくもって水分がない。砂漠のごとく乾ききった口内でぎりっと歯を噛みしめる音がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はたしてどのくらい歩いただろうか。2、3日は経ったような覚えはある。ただただ記憶をゆっくりと大切に引き出しながら歩いていると、そっちに関しての情報が薄くなるようだ。

 

スレインは15区に来ていた。あの場所から引き続きアセイラムと歩いた道をなるべく再現している。あのときは雨が降っていたと、これはハッキリ覚えていた。

 

しかしどんな道を進んでいたか、これは今まで一番曖昧なものだった。というのも、14区でコウとリクが殺されたためにスレインが暴走した。それを涙を流しながら止めたアセイラム。今でもその顔、声、スレインをつかむ力、それらは心の奥底に突き刺さっていて忘れることはない。そういったショックもあってふらふらと進んでいたため、記憶が微妙なのである。

 

「あぁ……」

 

幸いにも、スレインの記憶に該当する建物を遠くから発見した。それを目印にして道を進む。

 

そして辿り着いたのが、とあるビル。5階建てのそれには各フロアにどんな店なり事務所なりが書いてある看板がついている。それをスレインは見上げて記憶がじわりと浮かび上がってくるのを感じた。

 

「そうだ。僕はあのとき、これを……」

 

スレインが知らずして入ってしまった喰種の縄張り。そこの喰種数人ほどとの一触即発状態となった、あの場所。スレインが当時陥っていた、いわば殺戮を楽しむスレインとなって彼らを攻撃しようとした。しかし14区で見たアセイラムの悲痛の叫びで我に返り、攻撃を彼らから逸らしてあの看板にぶつけたのだった。

 

それから咄嗟に2人はその場から逃げ出した。スレインは振り返ってみて、記憶と合致するものを探してみる。ほどなくしてあの時飛びだして曲がっただろう角を見つけた。そこを折れて一本道を歩いてみる。雨水が溜ったところを何回も踏んづけて走っていった音がやけに耳に残っている。

 

しばらく歩くと右手にアパートが見えた。そこの1階は駐車場になっていて、住居スペースは2階から上である。その駐車場のところに隠れて、そして……。

 

あの時よりは空きスペースがなくなっていた。入居者が増えたか、元々このくらいいたがあの日は雨だった故に車で出かけていたか。いずれにせよスレインには関係ないことである。アセイラムと身を隠したスペースには今日も車は停まっていなかった。スレインは2人が座っていたところをただただ、見下ろしていた。

 

ここで、スレインはひとつ大きな決意をした。アセイラムの苦しみ、痛みを全て自分自身で受け止めよう。傷つくのは僕だけで十分だ、と。つまり、ひたすらにアセイラムが受ける痛みを自分が受け続ける。ずっと、命つきるまで。

 

「そう言えたのは、やはりまだ、自分に()()が残っていたからか……」

 

スレインは目を細めてそう吐き捨てる。自分はただ痛みを代わりに受けているだけ。それは自分が弱いから、それだけしかできないからだと言っているようなものなのだ。

 

「けど、今の僕は違う」

 

そう、あの頃の、からに籠るような自分じゃない。スレインはふっと目を閉じて、1回深呼吸する。そして再び目を開けて同じ場所を睨む。

 

「僕は、戦う。大切な人を守るために。もう何も失わないように」

 

声を低くして言い放った言葉は空中に弾けて浸透していく。しかしこれは、過去の僕、人間だった自分への反抗でもあり否定でもあり、決別でもあった。

 

スレインはアパートを出て、自分が歩んだ道を確かに踏んで進んでいく。

 

 

 

 

 

 

空は次第に赤く染まっていく。青は水色に、そして橙色、赤色となっていく。それはそのうち深い青になった途端に黒へと変貌する。

 

橙色の空の下、スレインはただひたすらに歩き続けている。数人ほど家族連れが楽しそうに帰って行くのが見えた。そろそろ家で晩ご飯の支度でもし始めるのだろうと勝手に想像する。そしてスレインは、自分の母が同じように夕方にキッチンで料理をしている姿を思い出す。きっとスレインがどんな道を歩んでいても、懐かしき記憶は消えることはないだろう。

 

ある地点でスレインは足を止めた。どこにでもあるような道。右手には建物がいくつか並び、奥の方には土手が見えた。登っていけば川が見えるだろう。そして左手には同じく建物が並ぶ。

 

ここは、初めて捜査官と対峙した場所。14区でコウとリクを襲った捜査官との戦闘を撮していた防犯カメラによってスレインとアセイラムは見つかった。そして伊奈帆のアカデミー時代の恩師でもある足立との初対面でもあった。

 

「ここで……」

 

スレインは自信の右手を強く握りしめた。今は常に感じる、体全体に染み渡っている力。このアルドノアの力を初めて使った、というより無意識に使った場所でもあったのだ。これがもし発動されなかったら……。

 

 

 

 

 

さらに15区を超えて5区へと移った。空はもう黒に変わっている。街灯があちこちつき始めている。今見える月は、半分欠けていた。ここら辺も無我夢中で逃げていたため記憶が曖昧である。しかし、ここには印象的な場所がひとつあった。

 

あの川、そして橋である。歩道に設置されてある地図を頼りに歩いていく。ここでも、いやここが一番自分の記憶にべっとりとついた出来事があった。それが頭をよぎる度に深いな気分が首を絞めてくるような感じがする。顔をしかめて首元をさすっても、勿論なにもない。

 

そうして建物の角をまがると開けた場所に出た。前方にあの川が流れていた。白い看板が近くに立っている。"石神井川"と書いてある。辺りを見まわすと、左へ真っ直ぐ行った先に橋が見えた。おそらくあそこだろうと、スレインは思った。

 

辿り着いたのは、足立と伊奈帆と戦った場所である。あの時も夜だったため、これもまた過去の記憶を映像として見ているのかと錯覚してしまいそうだった。相変わらず人気はない。虫がどこかで羽音をたてている。

 

「……」

 

ふと、視界にあるものが映った。とある建物の隅の方、道路に引かれた白い線の内側に立てかけるようにして花が置いてあった。束が5本ほど置いてある。缶の飲み物がいくつか添えてある。

 

「そうか、足立……さんの」

 

近くに歩み寄ってスレインはしゃがんだ。たしか、ああ、そうだとスレインは思い出す。ここらへんで足立が力尽きていたのだ、と。スレインに発信器を付けて後を追い、激闘を繰り広げた。彼の戦闘スキルはなかなかのものだった。これこそ、スレインのアルドノアがなければ勝てなかった。

 

――アカデミーの教官の時も、今の所属のところでも、多くの教え子、部下、同僚、先輩がいる。守り守られ、助け助けられ、協力して倒す。お前ら、喰種をな。

 

彼、足立が言い放った言葉がふと思い出される。彼も、様々な経験をしてきたのだろう、とスレインは思ったが、すぐに思考は別の方へ回転しだす。

 

「こいつのがあるなら、あいつのも……?」

 

あいつ、伊奈帆である。彼との出会いはまさしく驚愕であるとスレインは今でも思う。自分でも半ば諦めていたアセイラムの希望、"喰種と人との和平を求める人"が実在したのだから。しかし、彼の理想はやはり人間の方に偏った考えだった。喰種のことを気にしているようで、何にも考えられていない。そう、結局は無理なのだから。捕食者と食料、または互いに殺す相手、簡単にいってしまえばそんな関係のどちらもわかってるはずがないのだ。人間から喰種の立場になってこそ、その問題点とその解決の絶望さを実感できる……。

 

「やっぱりそんなの見つけられるわけないよなー」

 

スレインが柵の向こう側を覗こうとしたとき、近くから人の声が聞こえた。咄嗟にスレインは建物の外壁の隙間に身を潜めた。スレインが隠れた場所とは違う道から喰種捜査官3人が歩いてきたのだ。白や薄茶のコートを羽織り、銀色のアタッシュケースを持っている。

 

「まぁな。そんな身体的特徴の情報じゃ無理無理。普通わからねぇよ」

 

「そもそもここらへんにいるのかすらわからんし」

 

見まわりなのか、彼らはゆっくりとスレインのいる位置を横切っていく。自分が起こした戦闘、そしてフェミーアンとの戦闘があったからといえば、それは当然だろうが。

 

「まあ、捕えた喰種から情報を引き出せたんだから、大手柄ってことかなぁ」

 

「そうかもね。ってか、その喰種って美少女っていう噂らしいぜ」

 

「ハハハ、お前モテないからって喰種に手を出すのかよ」

 

「ちげーって!そう聞いただけだって。んで、名前は……」

 

「なんだっけ、アセイラム、だった気がする」

 

スレインは大きく目を見開いた。全身に電流が走ったような衝撃。自分の内側から内蔵や骨を全て取り出されてしまった、そういうような無気力感でスレインは膝を突いてしまった。

 

アセイラム姫が、CCGに捕まった……?と、頭の中でぐるぐると回り出していた。

 

「あー、そうだったそうだった。でもなぁ、一度見てみたいなぁ。美少女か否か」

 

「お前変わってんな。まぁ、今生きてんのかもわからんしな。そこらへん情報はこっちに降りてこないし」

 

アセイラム姫が、殺された……!?

 

しかしスレインは頭を強く振った。彼らは見るからにして下っ端くらいの者たちだろう。そして会話でもあったように、今生きているかはわからない。つまりはまだ生きているかもしれないのだ。

 

「ま、そんなもんさ。それに、喰種だから処分されてもしょうがないよな」

 

ぽん、と出たその言葉に、スレインは強く反応した。そして、スレインは悟ったようにして目を閉じてため息をつく。

 

そうだ、"しょうがない"と言うんだ。言えるんだ、()()()()()。人間だから、喰種の存在をないがしろにするのだ。それに、あのアセイラム姫を、人間をも仲間だと受け入れようとしてるアセイラム姫を……。

 

そうスレインが心中で叫んでいるときには、もう動いていた。取り出したマスクを付けて、闇夜に溶け込むように彼らの方向へ飛ぶ。空中で出した羽赫は、逆に闇夜を否定して切り裂くような白。その白はまず一人目を切り裂いて赤と化した。スレインの存在に気づくも間に合うこともなく二人目も屍と化した。

 

「くそっ、クソクソクソォ!!」

 

剣型のクインケを出した捜査官。この男が、しょうがないと発言していた。わざとスレインは残したのだ。

 

「お前は、喰種が処分されてもしょうがないと、そう思うんだな」

 

「ああ、そうだね。特にお前が極限の苦痛にまみれながら処分されてくれると嬉しいんだがな!!」

 

歯をむき出して目は血走り、息が荒くなっている。まるで狂った猛獣のようだ。スレインは臆することなく続ける。

 

「たとえ、人と話して、気持ちをぶつければ通じ合える、わかり合えると想っている喰種だったとしてもか?人を襲いたくても、自分が生きるためにやむをえず人を食う喰種だったとしてもか?」

 

「うるせぇよ!!!綺麗事ほざくなよ、人殺しがあああ!!!」

 

スレインの言葉など聞く耳を持たない様子で捜査官はクインケを振り下ろす。怒りのあまり単調な攻撃ゆえに、スレインはアルドノアを使わずして羽赫でいなす。

 

「そうか、綺麗事か」

 

そんなことを以前、自分自身も言った気がする。そう、あの時、この場所で。

 

スレインは伊奈帆との戦闘のことを思い出す。彼が言った発言をばっさりと切り倒した。それが、スレインには綺麗事に聞こえたからだ。

 

そう、これが答えだ。人の考えることと、喰種の考えること。それはある意味平行線。交わることのない永遠のもの。自分らの存在の方が優先されるのは、なんてことはないただの必然。それは、例外としてアセイラムや伊奈帆がいる。しかし、それは例外であって、大概は至って大概の答えをだす。人と喰種が和平など、やはりありえないのだ。どうあがいても、無理なのだ。だから……。

 

「アセイラム姫に教えることが、ひとつ増えましたね」

 

スレインはふっと微笑んだ。彼女と再会して、彼女と話せるタネがまたひとつ増えたことに、純粋に喜びを得た。その笑顔のまま、いなして体制を崩した捜査官の背中に羽赫を振り下ろした。

 

 

 

 

3人の捜査官の死体が見つかり、これまた偶然付けられていた防犯カメラによって、彼らを襲った喰種の特徴が全捜査官に共有された。そして後にアセイラムから新たに得た情報によって、その喰種がアセイラムと共に行動していた者であると判明。同時に、工藤や足立などの捜査官を殺害したとして、CCGで正式にレートと呼び名が付けられた。

 

名は、"眼帯"。Sレート喰種。


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