アルドノアグール   作:柊羽(復帰中)

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Episode.24 誤算

久保田は短くため息をついた。数々のモニターには現在時刻、各館にいる捜査官たちのGPS情報、また数人に付けてあるリアルタイムの映像が映し出されていた。GPSに関しては、事前に行われた作戦通りの動きをおおよそしていた。映像からも特にこれと言った変化は見られない。捜査官たちのライトなしではほぼ何も見えない闇の世界。本当にここに喰種たちが潜んでいるのだろうか、そういった一抹の不安も久保田の頭をよぎった。

 

モニターで現在の状況を確認しつつ、自身の持つタブレット端末で今までのアルドノアグールとの戦闘データやこの館の過去資料等々をチェックする。光源はモニターとタブレット端末のみの特殊車両内での久保田の顔は、陰によって過剰に険しさを引き立たせている。

 

「開始から30分か」

 

時刻はもうそれほどに進んでいた。作戦開始の合図を出して、今だ無線に連絡が来ていない。不振に思う気持ちも無いわけではないが、今目の前にあるモニターには慎重かつ順調に4つの館の捜索が行われているのだ。しかし、映像を見ているとしても、今だ喰種との戦闘がどこにも起こっていないとなると、体の内側からじわりじわりと焦燥感が出てきてしまう。はたして、ここに喰種もといヴァースがここに潜んでいるのか。そういった歯がゆい気分は他の捜査官たちも同じだろう。

 

「こちら作戦本部。本館の方は異常ないか?」

 

念のため、という思いから久保田はまず本館にいる川島准特等に無線を飛ばした。

 

『こちら本館班。特に異常は見当たりません』

 

「喰種の陰すらないか」

 

『ええ。変に生活感があったりなかったりで、正直不気味ですね』

 

「……他班からも連絡はないか?」

 

『ないですね。俺らのすぐ下に他の班がいるので、何かあったら気づきます』

 

「……そうだな、わかった。続けてくれ」

 

そういって無線を切ると、久保田は大きく舌打ちをした。座っていた椅子から勢いよく立ち上がってコンピューターが乗った固定デスクをおもいっきり蹴った。鈍い音と上に乗っていた機械類が揺れる音で、他に乗車していた2人の捜査官たちは咄嗟に縮こまりつつ久保田の方を見上げた。

 

「く、久保田特等?」

 

「……やられた」

 

「え……」

 

「こちら作戦本部から外部戦闘待機班全員に!作戦を変更し、それぞれ現場の班長等の指示で班を再編成。本館からの突入し、現在館内にいる捜査官たちを全員保護して脱出せよ」

 

部下の言葉には傾ける耳もなく、久保田は現在外で待機中の捜査官たちに無線を飛ばした。その発表直後、車内からでもわかるほどにまわりから混乱の声が聞こえてくる。

 

「久保田特等。これはいったい」

 

説明を求めようと外からも、そして2人の部下からも久保田に近寄ってくる。無線は混線となり、車内に班長役の捜査官が3人ほどドアを開けて入ってくる。当の久保田は苦い顔をして右の拳を額にあてて壁に寄っかかっている。

 

「やられたんだ。俺たちは、まんまとな」

 

吐き捨てるようにして言った久保田は苛立つようにしてまた舌打ちをした。

 

「やられた……って。中からまだ一度も異常事態の連絡すら来てない。ましてや、何一つ戦闘音も聞こえてこないんだ。そうであっても、何が起きているのか?」

 

「……そうだよ。それだ」

 

拳を広げて人差し指で外にいた班長の1人を指した。

 

「俺たちはまんまと()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

その真剣な顔の久保田を皆が困惑の目で見る。続けざまに久保田が説明を加えようとしたとき、外で捜査官たちの様子が一変した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドアの金具が悲鳴を上げた。一瞬の耳障りな音が済むと同時に捜査官たちの駆け入る足音が館内に響く。クインケを前に出して警戒しつつ部屋を見渡す。入り口と反対側、つまり西方面の壁に備えられた窓から屋敷外の森が見える。月明かりに照らされた夜による光以外に光源はない。ライトであたりを照らすがこれと言ったものは見当たらない。床に敷かれた赤のカーペットは1階のホールと同じ柄のものだろう。それ以外に机だとか椅子だとか、生活に使用するようなものがないのだ。無論、ここを手放したときに家財は持っていったと言えばそれまでだが。

 

「ここにもいない……か」

 

部隊長は低い声で呟く。奥にも2つドアがあったが、捜査官たちが近づいて開けてみたところ、バスルームとウォークインクローゼットだとわかった。勿論、その中に喰種の存在は確認できない。だがここで安心はできない。奥にも一部屋あるため、一旦部屋を出る。そしてすぐに奥の部屋のドアの前に立つ。同じくして部隊長と他1人がドアを挟むようにして構え、一気に開く。が、ここも同じく暗闇に包まれただけの部屋だった。先程の部屋よりも広く、部屋の片隅には足が1本で長い丸テーブルがいくつも置かれていた。ライトで照らすと埃がびっしりと積もっているのが見えた。そしてそれと対角線上、つまり部屋に入って目の前に見える部分にキッチンのような設備が置かれていた。もう錆びがそこら中にあるガスコンロ、その横にある2メートルほどある作業スペースに、汚れていたりヒビが入っている冷蔵庫が3つ。つまりここは厨房だとわかった。

 

「ったく、流石豪邸だけあって設備は当時にしてみればいいのばっかなのな」

 

起助が手で冷蔵庫を軽く小突く。これらはかなりの時間手入れがされていなかったと考えられる。それはいつ捨てられてかわからないが、しかしかなり前からこういった設備が備えられていると容易に想像できる。こんな家が建つのだから、当然とも言えるが。

 

「2階にはいない、か。……いやしかし、先程のはどこからだ?」

 

訝しみながら部隊長は腕を組む。他の捜査官たちも不安げな様子だった。まさに彼らが突入しようとしたとき、あんなホラー映画でも見たかのような、あの叫び声が聞こえたのだから。

 

「方向からして、あっちか」

 

佐々木が記憶を思い起こして聞こえてきた方角に体を向ける。自ずと他数人もほぼ同じようにしていた。

 

「南東方向……。東館か、本館」

 

「何か崩れた音もしたよな」

 

伊奈帆は手を握って口に当てながら考えている。起助は頭をかきながら伊奈帆を見る。

 

「そちらも本部から何か連絡が来てもおかしくないのだがな……。それに1階の班はどうなっただろうか」

 

部隊長は階下の部隊と無線で連絡を取ろうとした。しかし……。

 

「……応答しない」

 

「まさか、全滅したのか!?」

 

「そんな簡単にやられるのか」

 

「それはおかしい。先程の叫び声以外に、何も聞こえなかった」

 

捜査官たちがあれこれと不安に駆られる中、部隊長は動いた。

 

「これより1階の捜索を行う」

 

 

 

 

 

 

 

 

上ってきた階段を降りる。潜入のために割って入ってきた窓から変にぬるい風を受けた。降りて右には2つドアがある。そのどちらもが空いたままになっている。第二部隊が入っていった証拠だ。その2つはそれぞれ違う部屋につながっている。しかしそれは単純な作りで、向かって左側のドアから入ると、廊下は一直線に伸びている。途中で左側にドアが3つあり、それぞれ個室となっている。廊下を進んだ先に大きい部屋に出る。実はそこには右側のドアからでもたどり着ける。つまり左右対称の構造なのだ。

 

部隊を半分に分けて同時に入っていく。伊奈帆と佐々木を含めたもう片方の班を副隊長がまとめる。クインケを構えながら右の道を進む。手前に見えてきた1つ目のドアは開いていた。中を確認してみるが、誰もいなかった。暗闇がたたずむその部屋の天井には電球があった跡はあるが電球そのものがないために電気はつかない。こじんまりとした部屋にはやはり家具は置いていない。ただ地面にぽつんと赤いカーペットが敷いてあるだけだった。こうして奥の2部屋も見てみたが特に何も見つからず、ついに奥の大部屋に辿り着いた。ここのドアは閉まっていた。副隊長が濁った金色のドアノブを回してドアを開ける。軋んで開いた先からはぼんやりとだが光が見えた。その光源は蝋燭だった。部屋をぐるりと囲むようにして壁に取り付けられている。全員が部屋に入ってあたりを見回していると、反対側からもう片方の班が入ってきた。

 

「なんなんだ、これは」

 

部隊長が顔をしかめてぐるりを見る。誰もがこれを疑問に思った。そしてそれは同時に恐怖をも感じた。ここは誰かが残していった館。今現在誰も使っていないと思われていた館。それを喰種たちが裏で使っていた。つまりこれは喰種たちが用意した物だろう。何のために?そしてなぜここに?

 

「嫌な予感がします」

 

「本部に状況報告をしたほうが」

 

手で口元を覆う伊奈帆に一瞥をくれてから佐々木が部隊長に申し出た。彼も頷いて無線を操作する。その様子をちらりと横目で伊奈帆は見た。冷静な表情のようで内心は焦りで普段の動きよりも機敏さが欠けてしまっていると感じたのだ。

 

『どうした』

 

「後続の第二部隊と連絡がとれません。西館奥の大部屋に現在いるのですが、火が付いた蝋燭があるんです」

 

『いや、しかし彼らのGPSはまだ反応を示しているぞ』

 

「そんな……。いや、まさかこの西館に地下施設などありましたか」

 

『地下……か?』

 

そして耳元から資料を見ているのか、微かに紙のすれる音がする。皆はまわりに警戒をしつつ久保田の言葉を待つ。そんな中、伊奈帆ははっとしたように目を見開いて手を口元から離した。

 

『やはりここには記載されていないぞ』

 

「いや、しかし……。彼らと連絡がとれないのに、なぜGPSが生きている?」

 

『やはり考えられるのは、どこか隠された通路か何かか』

 

久保田もまったくといった様子で低く唸る。捜査官たちの何人かはそれとなく部屋を色々調べていた。壁を軽く叩いてみたりカーペットの端をめくってみるがそんな簡単に秘密の通路が出てくるはずもなく。

 

「その彼らのGPSはどこをさして動いているかわかりますか?」

 

部隊長が久保田と連絡をとる中、起助は先程とは異なった様子の伊奈帆に気づいた。

 

「どうしたんだい、伊奈帆」

 

すると幽霊に遭遇したかのようにゆっくりと俯いた顔を上げる。伊奈帆は左手を耳元にやるとマイクのスイッチを切った。そしてそれを起助にも促すように指をスイッチに向ける。疑問に思いながらも起助も同様にスイッチを切った。これで無線の先の久保田と会話をすることはできなくなった。

 

「おい、どうした」

 

起助は理解出来ないその行動に不信感を持った。そして伊奈帆だから、以前からずっと知っている冷静な彼だからこそ、その行動に何かしら意味があるのだと感じた。

 

「……やられた」

 

「え?」

 

真剣そのものの伊奈帆から零れた、囁くような言葉はすぐに理解出来なかった。

 

「ジャックされているんだ。この端末すべて、おそらく今ここに動員されている捜査官たち全員の」

 

そのポーカーフェイスから悔しさが滲んでいるようだった。伊奈帆の言葉によって理解した起助も、すぐに事の重大さに体中に電流が走る。

 

「ジャックって……。まさか、無線が繋がらない部隊のGPSが出ているってことは、僕らを翻弄させるために」

 

「それはどういうことだ!?」

 

起助が理解したことを改めて確認するための言葉が遮られ、二人の方に副隊長が早歩きで向かってきた。

 

「界塚一等、ジャックされているとは、それは本当なのか」

 

「何……?まさか、ジャックされているからGPSが」

 

副隊長の反応によって一気に部屋全体に情報が広がった。皆一斉に伊奈帆たちの方を向いて驚きつつもそれで納得できるといった様子だ。それに対して伊奈帆はやってしまったと言わんばかりに目を細めていた。そう起助には見てわかった。部隊長も目を見開いて謎の現象の事実を理解したという顔をしている。

 

と、その時だった。軋む音がするような古びたドアが勢いよく閉まり、そのドアを隠すようにして下から部屋の壁と同等の素材の板がせり上がってきて、そのドアを2つとも隠してしまった。それと同時に部屋全体が小刻みに揺れ出した。

 

「く……。僕が迂闊だった。まんまとやられた」

 

突如訪れた異変に捜査官たちは慌て始める。すぐにドアを破ろうと大柄の捜査官数名が息を合わせてタックルをするが、ぴくりとも動かない。伊奈帆は珍しく舌打ちをして顔を俯かせる。

 

「やられたとはどういうことだ!?ジャックされていたのはGPSじゃなかったのか」

 

部隊長が伊奈帆の元に駆け寄って肩をつかむ。彼の言葉に疑問と不安が混じりながら揺すっていたが、少し間があって伊奈帆はゆるりと首を横に振った。

 

「ジャックされているのはこの無線そのものです」

 

「なんだと……。この無線の内容を傍受されていたということか」

 

しかしまたもや伊奈帆の首は横に振られた。部隊長の顔に一層疑問が表れた。実際まわりの捜査官も、ましてや起助もそう思ったので首をかしげるしかなかった。

 

「ジャックというのは、もしかしたら言い方が間違っていたのかもしれません。つまり、僕らと本部とが()()()()()()()()()()()()ということです」

 

「……?」

 

「思い出してみてください。つい先程の無線のやり取りを」

 

「やり取り……」

 

部隊長が伊奈帆から腕を離して一歩下がった。そして焦りでぐちゃぐちゃに絡まった情報を整理して、先程の本部とのやり取りで聞こえてきた声を、音を引っ張り出す。

 

『どうした』

 

『いや、しかし彼らのGPSはまだ反応を示しているぞ』

 

『地下……か?』

 

そして久保田が事前に入手していた館の内部構成の資料を見るために彼の声が途切れた。その代わりに聞こえてきたのは、その資料を見ているからか、微かに紙のすれる音。…………()()()()()()()

 

「あの人は、久保田特等は、指揮を執るときに手元にある情報はすべて自身のタブレットにまとめるんです。あの人自身は紙の資料を好んでいないのは、前に何かで知ったんですけど」

 

「……!」

 

自身から引き出された記憶、そして伊奈帆から発せられた久保田の特長によって、部隊長は理解した。伊奈帆が言いたかったことがすんなりと体全体に広がったようだ。他の数名も先程の無線から聞こえてきた音を聞き取っていたため、理解出来た。他の捜査官たちも、彼らの話によって今置かれている状況が最悪なことを、徐々に感じ始めていた。

 

「そもそも、あれほどの爆発音、そして悲鳴……。あんなのが起きてすぐに本部から全体に状況確認をしていない時点で、本部に何かあったかとも考えられました。けれど、今のこれで、確信しました」

 

「じゃあ、さっきの無線って」

 

佐々木が唾を飲んで問うた質問に伊奈帆はこう即答した。

 

「アルドノアグール。そう考えてもおかしくありません。全てを飲み込むバリア、全てを切り裂くビームサーベル、赫子を無人戦闘機化……。何でもござれの超次元の力です。電波ジャックして特定の人物の声を真似るなど、不可能とは思えません」

 

伊奈帆の若干捨てるような発言に部隊長は両目を閉じて空を仰ぐ。自分たちはまんまとはめられたのだ。古い建物にただただ隠れていただけだと思っていた。それは大いに間違っていたのだ。そして部屋全体の揺れは一層強まり、突然止まった。するとどこからかカチリと何かが外れる音がして、それからほんの数秒経ってから部屋の床が東西をわけるように、床の中心を頂上にしたように山折りに床が傾いたのだ。彼らは当然予想できるはずもなく、為す術もなく、強引に二手に分けられて奈落の底へ落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

唯一の光源で照らすのは、野生の世界にとってはごくごく普通の光景なのかもしれない。

 

だだっ広い空間にはその光源は少し小さく、壁側へと行くに従って薄暗くなっている。さらに部屋の天井さえも高いため、空間自体が薄い黒を含んでいる。そこに肉食動物が草食動物を狩って食べているような、というよりもまさにその状態があった。肉を噛み千切って咀嚼する音。上品なレストランで必須のマナーなどお構いなしの、ぐちゃぐちゃにちゃにちゃといった音が空間内に静かに浸透していく。そして、喰うところが無くなれば、食事は終わる。

 

スレインは右手で口を拭うと、口に残ったかすをほき出す。以前から記憶していた情報はやはり正しいらしい。

 

「……不味い。喰種の肉はかなり不味いんだな」

 

薄汚れた天井を仰ぎながらスレインは小さくため息をつく。首を数回回した後、ゆっくりと立ち上がる。眼下には、真っ赤な血が全体に飛び散り、今はぴくりとも動かない()()があった。先程まであった赫子も全て食い尽くした。赫胞が2つといえど、かなりの量はあった。そしてクルーテオの肉体も食してみたが、やはり口の中で不味さが絡み合って、とても美味いとはかけ離れたものだと感じた。

 

「無様だな。つい最近までは僕にすぐに暴力を振るって、そして数時間前まで拷問していたのに」

 

目を細めてスレインはクルーテオだったものを見る。

 

初めて出会ったとき。それはアセイラムと出会ったときにクルーテオが側にいた。アセイラムに忠実なる者といった印象を持った。しかし、それはもうどこにもない。ただただ感じるのは、憎悪だけだ。アセイラムのことなど毛頭愛していなかったのだ。自分のために、自分の地位のためだけの道具としてしか、彼の目には映っていなかったのだ。

 

自分を喰種の体にさせた自分の継父、アーデルへの憎悪はもう消えた。そして今、自分が愛するアセイラムを道具扱いしたクルーテオを、喰った。憎悪の対象が消え、今スレインの中に残るのは、不味い喰種の肉片でも、こびり付いて残った憎悪でもなく、アセイラムに会いたいという気持ちだけだった。

 

スレインは出口に向かって歩き出す。ボロボロになった半袖半ズボンに大量についた赤黒い血。それが素足にも飛び、彼が一歩一歩進む度に赤い足跡を付けていく。そして振り向くことなくその場を後にした。

 

今ここがどこなのか、それはスレインは既にわかっていた。先程の広い部屋も以前に見たことがある。そして今歩いているコンクリートの打ちっ放しの無機質な廊下も知っている。ここは20区にある喫茶店、という表向きの顔で、地下に造られたヴァースのアジトの1つである。ここは主にクルーテオが使っていて、尚且つ高台にあるという立地のために部屋数も多く、実験室も兼ね備えてある。

 

スレインは手下たちが普段寝ている部屋が固まるフロアまで行き、シャワー室に入った。銀色のノブをまわしてシャワーヘッドから水が拡散されてスレインに降り注ぐ。血と混じった水が排水溝に吸われていくように流れる。彼らは掃除もするが、頻繁ではない。そのため、排水溝から人の死に際の嘆きのような、そんな音がする。シャワー室から出て置いてあったバスタオルで全身を拭く。随分久しぶりだったとうすら感じたが、しかしそれは別に嬉しくもなかった。

 

同じフロアに服が常備されている。それは例えば潜入などの場合に使うことが多く、また一般的なものからどこかの国の軍の兵服など多種多様なものが揃っている。その中でスレインは黒を基調とした、しかし一般的に売られているようなシャツ等ではないものを選んだ。それは悩んで選んだわけでもなく、スレインが自然と手を伸ばしたものだった。黒の上下。普通の黒よりも黒。漆黒とも呼ばれるであろうそれは、すべてを打ち消してしまいそうな色。

 

選んだ服は丁度スレインにフィットした。動きに支障も無く、最後に色を合わせた黒のシューズを履く。近くにあった鏡で今の自分の姿を見る。

 

「……まったく、酷い顔だ」

 

そもそも、前回いつ自分の顔を見たかさえも思い出せない。鏡にはやつれていて、クリーム色の髪はぼさぼさに乱れている。目つきは以前の記憶よりもさらに鋭く、そして瞳は濁っていた。

 

「ちゃんとしないと、アセイラム姫に怒られちゃうな」

 

自嘲気味に呟いたスレインは、部屋から昔使っていた財布を引き出しから取り出す。母が買ってくれたもので、小学校の時からずっと使っていたものだ。中にはあの時に入れていた現金が入っていた。千円札が4枚と硬貨が何枚かほど。仄かに笑いながらそれを財布に戻してポケットにしまった。机に放り出してあったマスクを持ってベルト部分に引っかける。あの時、アセイラムと逃走を謀ったときにも羽織った黒のマントをつかんで階段を上がっていく。

 

喫茶店の休憩所の隅にあるドアから出る。そのまま通って裏口から出ようとしたところで、ふとスレインは足を止めて喫茶店入り口へと向かう。ドア付近に置いてある黒板のような看板に収納してある白のチョークで文字を書く。チョークを付けたときの音、線を引くときの音、はらうときの音。それすらも過去の自分、つまり人間だった頃の自分を思い出す。学校生活を過ごしたのなら誰でも耳にしたこの音。チョークがすれる音は、しかしスレインにとっては懐かしい音だ。書き終わり、チョークをしまって看板を外に持って行く。入り口前にそれを置くと、再び店内に入ってドアの鍵を閉める。そして店内の全ての電気を消し、裏口から出た。空は薄暗く、心なしか重力が少しだけ増したような感じがした。小雨が降っていた。外壁からせり出した屋根の下で看板が留める文字は「しばらく休業します」だった。

 

それからスレインはずっと歩いていた。アセイラムと逃亡したときの道のりを可能な限り記憶から引っ張り出してきて、それを指でなぞるようにしてゆっくりと辿った。しかし知らない道を1回通ったというだけではあまり記憶されないようで、何度も立ち止まっては考えたり勘で道を決めて進んだ。それでも、アセイラムが時々目を輝かせて看板や大きいビル等を指さして説明を求めてきたのはかなり記憶に残っていたため、ある程度の目印になっていた。

 

そして、ゆっくり進んだために数日が経ってしまったが、1つ目の目的地に辿り着いた。コンビニや店、住宅が道路沿いに並んでいる一角にある花屋だ。

 

――――わぁ、あんなに素敵な花がたくさんありますよ、スレイン。日の当たる窓に置いたら、とても綺麗でしょうね。

 

アセイラムが一際目を輝かせて見ていた。おそらくではあるが、アセイラムが幼少期に花は見たことがあるのだろう。流石にあの地下施設では花なんてものは置いてないからだ。

 

今日も雨が降っていた。大して強く降っていないが、人通りは全くない。それでもマントを深く被ったままでは……、と思ってスレインはマントを腕に掛けて店に入った。内装は白一色の壁でライトも心地よいほどだ。両サイドを色鮮やかな花たちが3段ほどにわけて陳列してある。ひとつひとつに名前と各説明が書かれている。

 

「いらっしゃいませ」

 

奥から30代の女性が出てきた。髪を後ろで束ねている。

 

「何か贈り物として選びますか?それとも」

 

「ああ、いや。そうですね……」

 

スレインは言葉を濁しながら少し店内を歩いてみる。自分の記憶、今度は過去に見た本から受け取った知識の棚を探る。そして出てきた答え、それと花々の中から見つけたものの説明文の一致でスレインは顔を上げて店員の顔を見る。

 

「この花をください」

 

 

 

 

 

2つ目の目的地に辿り着いたのは同日。1つ目も同じ地区、14区だったのだから当然だ。歩いて行くうちに見覚えのある懐かしい建物を通り過ぎた。その先はさらに、4人となったときの記憶が徐々に蘇ってきた。気軽に言葉を交わせた、彼らの悲惨な結末。それがもうわかっているからこそ、思い出したときの懐かしさと辛さは混じり合って、心に重くのしかかった。覚えている建物の角を曲がって、辿り着いた。もう使われていない廃墟ビル。その1階付近には、よれよれになって一部分が切れて地面に落ちている規制線があった。それを気にせず入り口付近にまで近づいて、先程買った花をしゃがんで置いた。

 

「本当はあっちの道のほうに置きたいんだけどさ、それだと誰かに蹴っ飛ばされそうだから」

 

スレインは弱々しく呟く。先程の店で綺麗に束ねられた花は小さな薄い紫の花びらをいくつも持っている。その花びらの色は、どこか哀愁さが滲み出ている気がした。スレインは目を閉じる。

 

「僕は必ず、必ず、大切な人を守る。そのために、僕は戦うよ。それが答えだとわかったんだ。大切な人を守る強さ、それにきっと2人の力も合わさっている。だから、ありがとう。行ってくるよ」

 

優しく丁寧に、ここにいるのだろう2()()に語りかけた。閉じていた目を開いて、立ち上がる。来た道を振り返らず、しとしとと振る雨をマントで浴びながら、スレインは進む。当てのない、しかし確かに存在する大切な人を求める旅路を、置かれた花――紫苑の花――は見守っていた。


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