「そろそろ、次の行動に移したい」
「そちらはもう、準備は終わったのですか?」
「勿論ですとも。人員も確保できたし、私としても前回よりもかなり馴染んできた。それにもう、
「なるほどね。いやはや、仲間の処理というのも大変でしょう」
「手間はかかるよ。しかしこれを怠ると伸び伸びと動けないもんでね。まあ、今回のはあっち側に非がある分、楽だな」
「ふむ。では、この期日にて始まるようにしておきます」
「よろしく頼むぞ」
「面会だ。入れ」
唐突に頭上のスピーカーから男性の声がした。これは考えるまでも無く監獄長のものだ。ベッドで横になっていたアセイラムは起き上がり、面会室までの通路を進む。
ぺたぺたと自分の足裏と地面がつく音だけが響く。ひんやりと、そして静かな空間の先に彼はいた。
「こんにちは、イナホさん」
「どうも」
伊奈帆は相変わらずの無表情のまま軽く会釈する。アセイラムは設けられた椅子に座る。決して新しくないその椅子は座る度に軋む音がした。
「今回も何かの聞き取りですか?」
「聞き取りというか、ちょっとした確認のために」
「はあ」
「とは言っても僕個人としての知りたいことがあったので、上の許可を取ってきてないんです。だから、これは秘密にお願いします」
「はい。ふふふ」
アセイラムは手で口を隠しながら笑う。"姫"と言われるだけあって所作の所々にちゃんと教え込まれたのだろうと伊奈帆は感じる。けれど、今なぜ笑っているのかはわからない。
「どうしましたか」
「いえ、ごめんなさい。イナホさんって無断で行動するようには見えなかったもので」
「僕はアセイラムさんが思うような完璧な人間じゃありませんよ。無茶だってします。やる度に怒られますけど」
「へぇ、そうなんですね。……それでですね、イナホさん。こんな状況で言うのも変だと思うのですが……」
アセイラムは視線を下に落とし、両手を重ねて握っては離すを繰り返す。何か言いにくいことなのだろうかと伊奈帆は様子をうかがう。アセイラムは少し頬を赤くしながらもまだ視線を泳がす。そして決心がついたのか、顔を上げた。
「あの、ですね。もし構わないのであれば、私のことを"アセイラムさん"じゃなくて、"セラムさん"と呼んでもらってもよろしいでしょうか」
「……ええ、構わないですけど。でも急にどうして」
「え!?ええと、ですね。その、その方が短くて呼びやすい……じゃなくて。親しみを感じるというか、私としても嬉しい、というか」
「はあ」
「この、"セラム"というのは先日お話しした協力者の方が考えてくれたんです。あだ名、というのでしょうか。これは私が親しみやすい方、信頼できる方に呼んでもらいたいのですが……」
「わかりました、大丈夫ですよ。……と、話が逸れましたね。手短にいきます」
伊奈帆は自信の鞄からメモ帳を取り出す。挟んでおいたペンの頭を1回ノックしてからアセイラムの方を見る。
「
「はい、そうです」
早速自分の提案した呼び名で呼んでもらえた嬉しさから、つい口元が緩みそうになりつつ伊奈帆の問いに答える。
「片目を隠して、歯をむき出しにしたようなフォルムの」
「はい、そういうものでした。1回見せてもらったことがあって、その時はびっくり……」
ここまで割と機嫌が良く、弾んだ声で話していたアセイラムもここで口が止まった。一瞬思考が止まり、そして再び動き出す。
アセイラムは以前こう話した。自分がヴァースから抜け出してきたときに1人協力者がいた、と。彼は自分の思想について理解し、様々な手助けをしてもらった。そして今現在彼がどこにいるのかわからない。その彼を伊奈帆たちに探してもらうべく髪型や身長など大まかな情報を渡した。だが
「もしかして、見つけたのですか!?」
勢いよく立ち上がり、手を机につきながら前のめりになる。特殊ガラスギリギリまで近づいているアセイラムの顔を、しかしまったく見ること無く伊奈帆はペンを走らせている。
「その協力者の名前は?」
「っ……。スレイン・トロイヤードです」
自分の疑問には答えてくれないと察し、アセイラムは渋々椅子に座り直す。
「その人物ですが、その名前は本当の名前ですか?偽名とかの可能性はありますか?」
「え、いや……。その名しか聞いていないので、私はそれしか知りません」
「なるほど。ではその人物の家族構成などは知っていますか?」
「……、えっとですね。両親ともにもう亡くなっていると聞いていますが」
軽く頷きながらペンを動かす。アセイラムはその姿を見て心の奥の奥から、少量の不安が滲み出てくるのを感じた。今日もいつも通りのポーカーフェイスもやけに怖くなってくる。質問が始まってから顔を上げてくれない彼が、急にわからなくなる。
マスクのことについてわかっているということは、少なくともスレインの姿を確認できたのだ、とアセイラムは考えた。なら何故、名前や家族構成をわざわざ聞き出す必要があるのだろうか。身元から探ろうというのであればまだわかる。しかし、
「次にセラムさんについてです。貴女のその思想、人と喰種とがわかり合える世界を作るという、それは誰かの影響を受けたのですか?」
「……え?え、ああ。これは元々、先日お話しした私の祖父が言っていたのです。祖父はそんな世界になることを目指していました。私がまだ8歳とかそのくらいだったでしょうか」
「祖父……。でも、今ヴァースを指揮しているのも貴女の祖父ですよね」
「ええ……。それも、10年前のあの日から変わってしまったんです。まるで性格が変わってしまったかのように、何も話してくれないんです」
祖父というワードでやっと伊奈帆は顔を上げた。彼の中で気になっていたアセイラムが持つ考えの元となった存在。それがアセイラムの祖父だった。しかしこれはさらに疑問を増やす存在に早変わりしてしまった。
「セラムさんがさっき言ったことですが、貴女の祖父は人と喰種の和平を願い、そんな世界を目指していた、と。具体的になにか活動を行っていたんですか?」
「えっと……。そういった話はその頃に話してくれたのですが、うまく思い出せません。私の祖父と古い友人たちで小さな組織を作ったのが始まりとか、なんとか」
「そうなんですか。その組織全員がセラムさんの祖父と同じ思いで集まったのですか?」
「多分、そうなのでしょう。そこで何をやっていたかはわかりませんし、そのメンバーももう殆ど亡くなってしまっています」
小さく頷いてから伊奈帆はメモすると、メモ帳を閉じた。ペンを所定のリングにはめて鞄にしまい、席を立つ。
「これで終わりです。ありがとうございました。もしかしたらまた来るかもしれませんが、その時はよろしくお願いします」
「あ、あの!」
別れ際の挨拶をドアに向かいながら終えようとする伊奈帆をアセイラムは止めた。先程のように手を机について声を精一杯出した。後々監獄長に怒られることなの今眼中にない。聞いても答えてくれなかったこと、つまりスレインは今生きているのか。
それを伊奈帆も察していた。アセイラムに背を向けたまま口を開いた。
「先日、情報が入りました。片目を隠した喰種が出現、その現場にいた捜査官3名が死亡しました。勿論、その喰種の手によって」
「え……!?」
「14区で確認された映像。現場に5人の捜査官と2人の喰種の死体があった。それに貴女と協力者の姿が映っていました。殺したのは協力者の方ですね。そして一週間前、フェミーアン討伐の日です。貴女と協力者はある捜査官のチームに追われていたでしょう。そこで貴女を気絶させて協力者だけが戦った、そう言ってましたよね。その協力者は後にそのチームの班長であり、僕の恩師であった人物を殺しました」
「……!!!」
彼が淡々と話したその内容にアセイラムは絶句した。力が抜けたように椅子に無造作に座り込む。彼女の目は見開き、わなわなとした様子だ。
「そして、貴女が助けてくれた。その重傷は、その協力者によるものです。つまり、あの日僕は貴女の協力者と戦ったのです」
「そん、な……」
「ここで言うのは、と控えていましたが、やはり伝えておくべきですね。セラムさん、貴女が会いたがっている協力者は、僕にとっては復讐の対象であり、僕の敵です。頭の片隅でもいいので、覚えておいてください」
振り返ってアセイラムに放った言葉は、あまりにも鋭くて、アセイラムに深く突き刺さった。その痛みに苦しむ顔を見ることなく、伊奈帆は部屋を後にした。
「うん、そうだね。やっと面と向かって話せるよ」
「やっと……?」
スレインはアーデルの言葉に疑問を持った。眉をひそめながら首をかしげる。
「どういうことだ。そもそも、あんたはいったい何なんだ。ここは多分、僕の中だ。それなのに何故ここにいるんだ。僕が作り出した
「まぁまぁ、落ち着けって。一つ一つゆっくり話すからさ」
湧き出る疑問をアーデルにぶつける。それをアーデルは止めて落ち着かせようとする。その表情はあの頃のように、柔らかく笑っている。
「まずスレインが知りたいのは多分、どうして僕がここにいるかだよね」
スレインは特に口を開かない。それによってアーデルは続けろとくみ取った。
「そもそも、さっきスレインが言ったとおりでここは君の中だ。奥の奥の、また奥に存在する精神世界とでも言おうか。そんな場所で何故僕がいるのか、その理由としてスレインの妄想と挙げられるだろう。さっきまで見ていた過去の記憶の延長として、スレインが無意識に作り出した、僕が言うのもアレだけど忌み嫌う存在」
「……違うのか?」
「結果から言って、違う。僕は君の妄想で作り出された、
スレインは余計に困惑していた。目の前には死んだはずのアーデルが立っている。あの頃と何一つ変わらない様子で存在している。けれど、たった今説明している彼の目からは、少量の嘘さえ見当たらない。真っ直ぐに向けてくるのは、真実のまなざしだった。とにかく彼は嘘を喋っているようではないとスレインは考えた。しかし、だからといって、
「はは、僕がここにいる理由というか、どうやってここにいるかわからない様子だね。そりゃそうだ」
心の中を覗かれているようで気味が悪くなり、咄嗟にスレインは視線を外す。
「そんなこと、見てればわかるよ。……そうだな、今までのことはスレインと通して見てきた。だから君は知っているはずなんだ」
そう言うと、アーデルは下ろしていた左手を胸あたりまで挙げる。力を入れず自然の状態の掌は少し指が曲がっている。全身からその手へと、一気に黄緑色のオーラが駆け巡る。その色は何故か落ち着くような、そんな何かをスレインに与えた。と同時に、目を大きく見開くほどの衝撃を受けていた。
「そんな……、まさか」
「あぁ、そのまさかだよ。僕は、君のところで言う、アルドノアグールだ」
黄緑色のオーラを纏ったアーデルの瞳は、大抵の喰種とは違う、オレンジ色をしていた。
「スレインが見てきた限りじゃ、アルドノアグールはごく少数しかいないって認識かな。でもそれは違うんだ。おそらく想像以上に今は増えてるんじゃないかな」
「増えてる……?それに、あんたが使えているということは、昔にも他にいたのか」
「ああ、いたよ。確定人数は僕も含めて……。いや、彼らも含めるのか?まぁ、アルドノアを持つというので分類するなら、7人」
スレインにはアルドノアは限られたほんの数人しかいないと思っていた。アセイラムとその祖父。両親に関しては早くに亡くなったショックのためか、あまり話さなかった。
「だけど、それは確定人数だろ?ってことは」
「うん、僕の知らないところでその数は増えていたんだ」
「……その言い方だと、まるで"アルドノアグールを管理していた"みたいに聞こえるんだが」
「ま、実はそんなところなんだよね。僕がいた研究チームはそういったことも行っていた。アルドノアはメインの研究対象だからね」
「その研究チームっていったい何なんだ?昔は母さんにさえ教えていなかっただろ」
アーデルと初めて出会った日。彼が何を研究しているのか気になったスレインは問うたが、秘密だと言われてしまった。その正体こそがアルドノアだったのだ。確かに、スレインも見てきたような恐ろしい力。あんなものを世間にばらまいては混乱を招くだろう。では、それを秘密にして裏で研究する組織は、いったい何を目的としていたのか。
「そうだね。勿論このことについても言うつもりだったんだ。僕が参加していた研究チーム。僕は途中からだったけど、その時にアルドノアって命名したんだよ。それまで名前つけてなかったって……、ああ、また脱線した。まずこれを立ち上げたのはスレインも知っている人物……えっと、アセイラムちゃんの祖父の……」
「レ、レイガリア様が!?」
「あ、ああ、そうだ。彼には元々良く集まる友人が4人いて、あるときにアルドノアが生まれて、それで研究するために組織作って……」
アーデルがやや俯きながら説明する。つっかえつっかえ言葉を言い、途中で頭をかく。その様子にスレインは不思議がる。
「どうしたんだ……?」
「え、ああ。やっぱりダメだったみたいだ。全ての記憶を引き継げなかったみたい」
ぎこちなく笑うアーデルにスレインは本日何度目かわからないほどした動作、首をかしげた。
「さっき君が見てた記憶でとある人が言っていただろ?僕があの現場に駆けつけたとき深手を負ってたんだ。アルドノアが持つ異常な再生力をもってしても僕の身体は限界だった。それに戦闘によってアルドノア自体もかなり消耗していた。だから、本来僕そのものがいるようにできたのに、僅かな量じゃ記憶がこれほど曖昧になるなんて。これもある意味興味深い結果だ」
「お、おい。またわけがわからなくなってるぞ。あんたのアルドノアは……」
スレインが口にした言葉を遮断するように、何かガラスが割れるような音がした。勿論、スレインの精神世界だから何でも生み出せそうにも思えるが、今は彼ら2人の他に物ひとつ無い。スレインはその音がどこから聞こえてきたかなんて探さずともわかった。今、アーデルの右頬にヒビが入っている。
「なっ……!?」
「ああ、どうやら時間がないみたいだ。クソッ、継続時間も短いのかよ」
割れた頬に手を当てる。吐き捨てるようにそう言うとアーデルはスレインを真っ直ぐ見つめた。
「もっとゆっくり話したかったけど、それは叶わないみたい。ごめんね、最後まで要領が悪くて。今からスレインに伝えなくちゃいけない事を話すよ」
一歩、アーデルはスレインに近づく。きっと前までのスレインだったなら、近づくことを拒絶し逃げたかもしれない。けれど、このときは動かなかった。ただ、彼の話すことを聞きのがさんとしていた。
「僕が参加していた組織に、裏切り者がいたんだ。その人物によって僕は襲われた。そしてその前にも研究チームのみんなが次々と殺されていったんだ。最初はCCGによるものかと思っていたんだ。でも違った。その人物はさらに刺客を放ってスレインたちも襲わせたんだ。もっと早くに気づいていれば……なんて、今更何言うんだよって。とにかく、その人物は今でも生きている。そして何かを企んでいるに違いない」
「それ、その人物ってまさか……」
「ああ、あの研究チームの誰かなんだ。でもその誰かが今欠けちまっている」
先程以上に自分の記憶の欠落に苛立っているのか、拳を強く握る。だが、スレインにとっては違った。過去にその研究チームにいた喰種たち。その誰かが――目的はスレインにはわからないが――次々と殺していった。その喰種は今でも生きている。なら、
「レイガリア、様しかいないじゃないか!?その研究チームの創設者なんだろ?」
「ああ、それだけは確かだ。でも、あの日……!誰かと共に、その人物と戦ったんだ。それは誰なんだ……!!ロイさんなのか、それともオオバさん?アモスさん?……いや、悩んでもしかたがない。少なくとも、今ヴァースにいるのは彼しかいないんだ。何か知っているはずだ」
欠落したものを探す時間は残っていない。だがこれでスレインには色々と知ったこと、そして確認しなくてはいけないことが増えた。
「後は……そうだな、これだけだ」
そう言ってアーデルは左手をスレインの頭に乗っける。優しく置かれたその手には黄緑のオーラを纏う。
「これが、これのために僕はいるんだ。こんな状況だけど、やっと君に見せることができるよ。僕のアルドノア、言うなれば"自分や他者の思いを伝える"」
頭の中に何かが一気になだれ込んでくる。それに対しては全くの不快感はない。何の抵抗もなく入ってくるそれはきっと、アーデルのアルドノアなのだろう。
不意に、視界がゆがむ。するとすぐに何かが浮き上がってくる。色鉛筆で描いたような、淡いタッチの絵。でもそれはただの絵ではなかった。写真などから1ミリ単位で精確に写して描かれたような、いや、それどころかこれは……母さんの記憶?
そう僕が思ったのは、それに過去の僕がいるからだ。それはもう映像になっていた。少しばかり古いアニメーションのように流れている。温かい、そう感じた。
無音のまま流れる映像には過去の僕と、おそらく実の父親が映っていた。彼の顔には白鉛筆で塗ったようなモザイクはない。僕にとって初めて見るような、でもどこか懐かしさを感じさせる。自然と口元が緩んでくる。
『ごめんね、スレイン』
空間の中に響くようにして母さんの声が聞こえてくる。とても悲しそうで、辛そうで。
『お父さんが死んじゃって。お母さんは悲しくて、それでも生活のために働かなきゃって忙しくて。スレインのことをほったらかしにしてた』
何で母さんが謝るのさ。
涙を流す母の顔を心配そうに伺う過去の僕が映った。それからすぐに母さんが働き始める。1日中息をつく暇もなく。
『お母さんが忙しいから、スレインは家事を色々やってくれたね。すっごく嬉しかったのに、感謝の言葉をかける機会が全然なかった。ひどい母親だね』
そんなことないよ。母さんこそ、僕を養うために働いてくれたじゃないか。
『あるとき、お母さんと同じ大学に通ってた人と再会した。彼に一時期心を寄せていたから、急に嬉しくなっちゃって。それから何度か会って、その度に惹かれていった』
うん。その頃から母さん、笑顔が増えたもん。
『そして、アーデルさんからプロポーズを受けた。とっても嬉しかった。同時に、私は受け入れてもスレインがどう思うか心配だった。でもそれはなんてことなかった。最初は緊張してたけど、すぐに打ち解けた』
はは、そうだね。
『私たちが一番懸念してたのは、勿論アーデルさんについて。"喰種"という存在を隠すべきか、隠すとしていつまで黙っておくか、とか。あの夜にバレちゃったのは予想外だったけど、すんなり受け入れてくれて、すごくホッとした』
だって、母さんが選んだ人なんだよ。それに、彼も嘘をつくような目はしてなかった。ガキのくせして色々見てたよ。
『アーデルさんとスレインと、楽しい日々がずっと続けばいいのにって、そう思ってた。あの日、お母さんは怖くなっちゃった。また、また失ってしまうんじゃないかって。そんなの嫌だって。きっとスレインだって怖かったのに、少しでも安心させてほしかったのに、逆にお母さんを励ましてくれたね』
当たり前じゃないか。母さんの気持ちは痛いほどわかったから。死んだ父さんと、重なったんだよね。
そして、あの襲撃。突然の衝撃で2人は転倒。破壊されたところから現れる黒い影。それから伸びる長い触手のような牙、鎌と言ってもいいだろうか。それがまさに過去の僕に迫ろうとしていた。ここで僕の記憶は途切れていた。つまり、これから先に移る光景は僕の知らない記憶。
『スレイン!!!』
母が叫んだ。過去の僕の方へと両手を伸ばし、襲撃者から必死に守ろうとしていたのだ。咄嗟に母が覆い被さるようにして転がり、僕は直撃を免れていた。その代わり、母さんに深刻なダメージが渡ってしまった。僕には、それを軽減したものを受けた。画面いっぱいに赤色の液体が飛び散り、耳を覆いたくなるほどの母さんの悲痛の声が聞こえた。
見ていた映像が再び歪む。それは徐々に大きくなり、当時に眩しいほどの光を放つ。それに僕は巻き込まれる形となった。咄嗟に閉じたまぶたを開けると、そこはあの日逃げてきたとある一室。僕らが襲われたときまで再び遡ったのだろうか。いや、違う。
『う……ああ、スレイン。
部屋にアーデルが入ってくる。全身血だらけの彼の足はおぼつかず、壁に手をあてておかないと前に進むことすら困難のようだった。自分の妻と息子のもとへゆっくりと近寄る。
『アーデルさん!い、いったい何が』
『……僕が迂闊だった。
アーデルの姿を見て血相を変えて近寄る人物。見覚えのある顔の男性は、確かこの場所に到着したときに状況説明してくれた、あの喰種だろう。
『あああ……なんで、なんで2人が殺されなくちゃいけないんだよ……!』
この部屋に元々いた全員が襲撃してきた喰種に襲われていた。奇跡的にも隠れていて襲われずにすんだこの男性の他十数名がここや他の階で手当など行っていた。が、部屋全体に飛び散った血。破壊されたテーブルや椅子。そして、横たわった身体。それはあまりにも惨い、地獄絵図だった。
『……が、ああ』
2人が無残にも血だらけで横たわる前、アーデルは両手を地面に叩きつけ、涙を流していた。その時に聞こえた僅かな声に、アーデルは直ぐさま反応した。
『奈々子!?』
微かに目を開き、仰向けの状態の母さんはアーデルの姿を確認すると、震える手を伸ばした。
『アーデル……さん。ごめんね、スレインを……守れ、なかった』
『何を言ってんだよ!僕こそ君らを……ガハッ!!』
母さんが伸ばした手はアーデルの頬に優しく当たる。その手を握りながらアーデルは母さんに非はないと言おうとしたが、吐血で邪魔をされる。
『ごめんね、アーデル、さん。ごめんね、スレイン』
母さんは反対の腕、左手を隣にいる過去の僕に伸ばす。血で染まった手を握る。どんなに握っても握り返すことはない。息はあるが、かなりの傷を負っている。加えて
『……やむを得ないな。君とスレインを助ける術はアレしかない』
口にまとわりつく血を1回吐き出すと、アーデルは震える声でそう言った。その言葉に周りにいた生存者たちが驚く。
『それは……まさか!?』
『僕ら……いや、
『あの、"クインクス・フレーム"を使うんですか!?ですが改良品は全て持ち去られてしまって、ここにはプロトタイプしかありませんよ!』
『それしか方法はないん……ゲホッ!いいから、さっさと準備しろ!!』
アーデルの吐血が床を染める。必死に反対する男性も小さな悲鳴を上げながら、他数名と共に部屋を出て行く。駆けていく音が徐々に遠ざかり、部屋は再び静寂に包まれる。
『……私はいいから、スレインを助けて』
消えてしましそうな、小さな声。母さんは、いつの間にか涙を流していた。
『私はもう、ダメみたいだから。だから、スレインを』
『何言っているんだ!?君は……!』
『早く、スレインを元気にさせて……!いつもみたいに笑って、今日も学校楽しかったって言って、一緒に料理を作ってくれる、世界でたった一人、私の息子だから』
ただでさえ苦しい状態なのに、母さんは一際強く、声を張った。そして左手でゆっくりと、過去の僕の頭を撫でる。呼吸は次第に荒くなっていく。その様子を見てアーデルは残り少ない力を振り絞ってアルドノアを出し、母さんの頭にそっと手を置いた。これはつまり、彼の力である他人の思いを伝える、そのために引き出しているのだろう。
『ごめんね、もうさっきから何回も謝ってるのに、それでも足りないくらいなの。そして、ありがとうって、感謝の気持ちを伝えさせて。苦しくても、悲しくても、辛くても、スレインがいたから頑張れた。スレインがいたからお母さんがいるの。だからアーデルさんとも出会えた。でもね、もうお母さんはダメみたい。アーデルさんも……。スレインをもっと幸せにしてあげられてないのに、一人にさせてしまう。こんな親を許して、なんて言わない。でも、だから、どんなに辛くても……強く、強く生きて。これが私の、願い……』
最期に微笑を浮かべた母さんの瞳から、涙が一滴だけ流れた。撫でていた腕をぺたりと床に落としまま動かなくなった。アーデルは塞き止めること無く流れ続ける涙を母さんに垂らしながら、ただただ手を頭に当てていた。
『アーデルさん!準備が整い……』
再び男性が部屋に大急ぎで入ってくる。そして母さんが動かないこと、アーデルがアルドノアを出したまま泣きじゃくっている状況を見て、全てを察した。アーデルは涙をひとしきり拭い、男性にしがみつく。
『頼んだぞ……!必ず、僕の赫子をスレインに移植しろ。プロトタイプ故に、フレームを破って赫子が浸食し、必ずしも食性が人間のままを維持できない可能性がある。そうなったとしても……喰種の道を歩むことになっても、スレインをどうか見捨てないで、くれ。スレインを、強く、大切な誰かを守れるように』
ここでアーデルは糸の切れた操り人形のように、ぐったりと倒れた。男性は必死になってアーデルを逝かせまいと声をかけている。それが籠ったような、変に反響しているように聞こえる。段々と遠くなってきた。目の前の光景もそれに伴って遠ざかっていく。何かに後ろから引っ張られる感覚。それがこの上映の終幕だと告げた。
今更なんなんだろう。母さんの言葉を聞かされて、僕の知らない過去を見せられて。それを受けて僕はどうすればいいんだよ。何をすればいいんだよ。僕は……僕はッ!
気づいたら僕は先程の場所にいた。目の前にはアーデルが立ち、左手を僕の頭にのせている。しかし視界は歪んだままだった。いや、アルドノアの影響で歪んでいるのではなかった。自分の頬を何かが流れる。涙だ。僕は泣いている。拭っても拭っても流れ落ちる涙に僕は驚いてさえいた。でも、本当は意地になっていた。僕の体を喰種に仕立て上げた張本人だと思っていた人物が今まさに目の前にいる。隠していた研究とは人体実験だったのではと、改造した後地獄で笑っているのだと、そう思っていた。
でもそれは違った。あんなものを見せられてはわからないわけがないじゃないか。
「……奈々子の思いと、僕の記憶。これが、スレインに伝えたかったものだ。やっと、目的を果たせたよ。遅れちゃって、ごめんな」
アーデルは優しく僕の頭を撫でる。僕はただ泣きじゃくる子供に戻ったように首を横に振ることしかできない。アーデルの体はもう、半分以上が光の欠片となって消えている。
「結局、君に使ったフレームは耐えられなかった。可能性とは思っていたけど、実際になってしまうと僕も辛かった。伝言係として存在する僕は胸が引き裂かれそうな思いだった。でも、スレインが一番辛かったよね」
「本当だよ……。母さんが作ってくれていたもの何一つ食べられないんだよ。戦闘訓練だって、おかしいほど辛かった」
僕は拳を強く握った。今までだったら辛い訓練のことを思い出しただけで怒りが込み上げてきただろう。でも、今はそれほど感じない。非常に不思議だ。
一際大きい音がした。見るとアーデルの足がもう消えている。急に怖くなりアーデルの顔を見る。泣きじゃくる僕とは違って、微かに笑っている。
「役割は果たした。だから消えるのは当然なんだよ、スレイン」
「でも……!」
「ほら、弱気になるなよ。笑えって」
アーデルは今度は僕の頭をクシャクシャに荒く撫でる。
「スレインにこの思いは伝わった。だから真っ直ぐ自分の進むべき道に向いてほしい。そのために強くなってほしいんだ。でも、少なくともあの時の君よりは強くなっている」
「本当に、そうかな」
「だーかーら!弱気になるな。自分を信じろ。お前には大切な、守りたい人がいるんだろ」
「……うん」
「だったら、もう迷わない。その大切な人のために強くなれ。お前が言ってた"傷つくのは僕だけでいい"、なんてのはもうやめろ。それは弱者だ」
「弱者……」
「大切な人を守りたいのなら、傷ついていてはダメなんだよ。大切な人を傷つけられたいのか」
「……いやだ」
「自分が傷ついているところを、その大切な人が見てて平気だと思うか」
「……思わない」
「なら、話は簡単だろう?」
アーデルはスレインの頭を軽くポンと叩いた。スレインは1回深呼吸する。
「"傷つけられる前に傷つけろ"。"殺られる前に殺れ"」
「そうだ、それでいい。僕には出来なかった。だからスレインには後悔してほしくないんだ。大切な人を守るために、危害を及ぼすのなら、たとえ人間でも」
「人間でも」
「喰種でも、だ」
「喰種でも!」
もう、僕の目に涙はなかった。きっとアーデルには、僕の顔は今度こそ"覚悟の決まった顔"に見えているだろう。
「頼んだぞ、スレイン。敵は人間にも、喰種にもいる。この世界に安全なんて、平等なんてものはない」
「わかってる。僕が、2人……いや、
もう上半身しかないアーデルを抱きしめる。彼が確かに存在している。生命の温かさを感じた。
「ありがとう、父さん」
「……ありがとう、スレイン」
光が強まり、一気に欠片となって飛散した。その中から黄緑色の光だけが集まり、火の玉と化した。ふわふわとこちらに近づき、僕の手に収まった。それはすぐに僕の体へと入っていく。体の芯から温まるような、そして同時に軽くなったような気もする。
もう覚えた感覚で赫子を出す。黒々としたダイヤモンドの表面が、剥がれ出す。皮膚で感じない風に舞うように上へ登っていく。きっとこれは、羽化なんだと思った。今までの僕は蛹。からに籠っているだけの、蛹。それを今、脱ぎ捨てる。成虫へと、羽を広げる。そして、これも知らないうちにわかるようになっていた。体の内側から外側へ一気に溢れ出す、この感覚。僕のまわりに黒に近い紫のオーラが現れる。
「僕は、アルドノアグールだ」