【朝朝テレビ ドラマ「燃える女」 1965年4月放送開始】
「……でありますが、実際に異常時に実施した際にはやはりあまりにも危ないと報告されています。かの有名な朝倉軌道でさえ実施した事がない方式を採用するのは正気とは思えません」
会議室に声が響き渡る。
現業からの叩き上げである越谷にとっては懐かしくもあり、そして興味深いものの連続だった。
そして今、最も越谷の興味をそそられた話題が、「車掌という役職の是非」についてだった。
ワンマン運転、というものがある。これは運転士のみが乗車し、運転士が車掌業務を兼ねるという方式だ。車掌を廃することで人員費用を削減でき、効率化になる。
当鉄道では資金難により車掌を規定数雇う事ができない。そこでこの「ワンマン方式」を採用し事なきを得ようとしたわけである。
これに今回の会議で異を唱えたのが、車掌係の小林主任だ。彼は会議で堂々とワンマン運転のことを「安全に重篤な危険を及ぼす行為」として非難した。彼によれば、ワンマン運転により運転士の責務が増大し、結果として注意が散漫になり危険行為を誘発する、ということだった。
「ですので、運転課車掌係……いえ、運転課としては我が鉄道のワンマン運転推進に強く反発します」
「そうか、報告結構。だが、君の提案が通ることはない。お疲れ様」
幸谷が小林の結論をすげなくあしらう。瞬間、嫌な緊張感が場を支配する。
「どうせそう言うと思っていましたよ。統括本部長サマは安全軽視の支配人階級の方ですからねえ。室内でぬくぬくとペンを転がしてる人間に現場の危機意識が伝わるはずはない」
「そっくりそのまま言葉を返すよ。現場の人間ごときが経営の機微をわかるはずがないだろう?君は指示に従い列車を動かせばいいだけ。口をはさむな」
「列車をどう動かし、どう運用するかを最終的に判断するのは現場だ。室内育ちのアンタさんが何をどうわめこうが、現場が『安全でない』と判断したら列車は動かない。それをご理解ください」
「それは怠慢の言い訳か?働きたくないなら働かなくていいんだぞ。車掌職を廃止するだけだ」
「車掌だけじゃない。運転士も、指令も、駅員も、整備士も。運転に携わるすべての人間は、この危険な運転を許容しない!」
「何を!」
「おい、もういいだろう」
越谷が割って入る。
「幸谷君、落ち来なさい。小林君もだ」
「しかし……っ!」
「小林君、私だって現場からのし上がってきた人間だ。君の危機感はすごくよくわかる。必ず、解決しよう」
越谷はとにかく小林をおさめようと譲歩の姿勢を見せる。
「ですが!」
それを聞いた幸谷の鋭い声が、越谷の発言を咎める。越谷は短く手で制した。
「だが、知っての通りこの鉄道には金がない。火の車がそろそろ燃え尽きそうな所まで来ている。君の提案を受け入れるのにも限度があるんだ。わかるか?」
「……当然」
「今日のところは引き下がってくれ。申し訳ないが」
小林は、喉元まで出かけた言葉を、ぐっと飲みこんだ。そして、精一杯の渋面を作りながら言った。
「いずれ改善されると確約してくださるんですね?」
「ああ、善処する」
「ならば」
小林は尻切れトンボに返事をすると、そのまま去って行った。
「彼は?」
「主任車掌の小林です。一応、車掌係では長ですね」
会議が終わった後、かの車掌について幸谷に聞いてみた。
「出自は?」
「警備会社で勤務していたようです。その前は軍人だったとか」
「軍人?」
「ええ。なんでも、空挺だったそうですよ」
「空挺か。こりゃ私よりも優秀かもしれん」
「まったくご冗談を。しかし社長、あんな約束をしたことは看過できませんね」
幸谷の顔が厳しくなる。
「ああ、だろうね」
「ワンマン運転の安全性は証明されています。それにもし問題があるのであれば、それを建設的に解決しなければなりません。当鉄道は労組や組織の硬直化と決別し刷新された斬新で進歩的な仕組みを取り入れ、日本の鉄道の模範となるべきなんです。きちんと彼の意見を否定しませんと、禍根を残します」
「ああ、もちろん。もちろんだとも」
「社長。社長にとっては現場の人間の意見を否定するのは抵抗がおありかもしれませんが、しかしここはあえてやっていただかないと」
「分かっているさ。だが、少し様子を見てみよう」
幸谷の話を遮る。幸谷は越谷の考えをわかっている。だから反抗する。
「現場の意見を尊重するんですか」
「そうじゃない。ただ、現場があそこまで騒ぐのだから何かしらの理由はあるだろう」
「わがままですよ。ただの」
「かもしれないね」
「聞くんですか?現場のわがままを」
幸谷は非難の声色を隠さない。
「それはここから見極める」
「ですが……」
「いいじゃないか。とりあえずは君の思い通りに行く。気に入らなければなあなあにして押し通してしまえばいい。君は得意だろう?」
「……」
幸谷は押し黙る。越谷はそれをいいことに話を変えた。
「さて、私はこれから市長と会ってくる。君は?」
「同行します。場所は?」
「市長室だ。だからえーっと」
「9階ですね」
「ふう……。会議室よりはマシだな。時間もない。行こう」
越谷は予定にかこつけて、この話を完全に有耶無耶にしたのである。
市長室に入ると、目の前におおよそ63には見えない男がどっしりと構えていた。体は細身だが、雰囲気で圧倒してくる。そこには有無を言わせない力があった。
「よろしくお願いいたします。古橋市長」
その男は、この街の市長だった。
「どうも、越谷社長。市長の古橋です」
そう頭を下げると、市長は話を切り出した。
「さて越谷さん。どうですかな?この街は」
「良い街だと、率直にそう思いました。私の故郷によく似ている」
「故郷、と言いますと……」
「敷香です。ソビエトに焼かれました」
敷香。越谷と、そしてその幼馴染である宇佐美の故郷だ。そして、かの戦争で侵略され、そして消えた。
それを聞いた市長は、ややあってから納得した表情を見せた。
「ああ、英雄殿は樺太の出身でしたか。なるほど、それでそのご活躍ですか」
「それも、私の中では大きかったとは思います」
越谷は適当に相槌を打つ。
「中国戦線での大活躍は聞き及んでいますよ。中華民国救国の英雄。日本中、いや、ともすれば世界中が知っている。いやあ、いつか武勇伝をお聞きしたいものですが、今日は仕事の話と行きましょうか」
秘書がお茶を出してくれた。茶柱は立っていなかった。越谷はそれに手を付けずに話をつづけた。
「では、何をお話いたしましょうか」
「とりあえず、越谷さん。あなたにはこの街の事を深く知って頂きたい。例えば、この街の置かれている状況、地歴政治、その他諸々……。この街についてはどれくらいご存知です?」
突然のクイズに、越谷は困惑しながら「教科書レベルです」と答えた。それが精いっぱいだった。
それを聞いた市長は、申し訳なさそうな笑みを浮かべながら、満足そうにうなづいた。
「ああ、お気になさらず。教科書に尾羽が載っているという事実をご存知である時点でなかなかなものですよ。ちなみにその教科書とは?」
「娘の社会科の教書です。日本のエネルギー産地一覧、などと書いてありましたねえ」
「まあ、その程度の認識で結構でしょう。教科書にそれ以上の情報は期待しませんや。それにテストでそんな問題も出ませんでしょうに。やれ今の教育は社会科をめっぽう軽視する。いけませんなあ。この日本の新潟と秋田に油田があることさえも知らない」
「その新潟と秋田の油田群を抑え、堂々の湧出量一位に君臨するのがこの尾羽油田、でしたな」
越谷が小学六年生の娘の教科書の内容をおさらいする。それだけで市長は喜んだ。
「ああそうです、そうですとも!ここは尾羽。日本の石油の頂点。そして石油だけでなく石炭も合わせ、日本のエネルギーを根底から支える、まさにここは日本のエネルギー貯蔵庫だ」
「聞き及んでいます。さすがですね」
適当に相槌を打つ。いつの世も、自らのアイデンティティを素晴らしいと思うのは人の性であるし、越谷はその人間的な行為は責められたものではなくむしろ称揚されるべきものだと考える。
どこにでもいる、田舎町の首長だ。越谷はふと、今は亡き故郷のにくっきオヤジ達を思い出した。
「だが、越谷さん。それはあくまでも建前だ」
瞬間、空気が変わる。目の前の男のそれは、もう田舎町の隣家のお節介オヤジではない。
「……対ソ北方軍事要塞、ですな」
越谷が言うと、市長は首肯する。
「その通り。この尾羽は、文字通り日本の北の果てに、そしてソ連との国境線に存在する」
「海を隔てて、ですな。だが、この凍てついた海を守る空母は……」
「一隻もいない」
夏季にしか使用できない海に、持ってこれる空母はない。つまりそれは、そう遠くない敵本土からの攻撃に、耐える決め手がないということ。
「その為の不沈空母。それが尾羽」
「ええ、私も理解しています。この街は決して
幸谷のつぶやきに越谷が言う。
「結構。流石は英雄様だ。よくわかってらっしゃる」
「市長、私は産まれもっての
「分かっています、分かっていますとも。私だってあなたをからかっておどかして忖度させようってんじゃない。そんな阿保でくだらないことは馬鹿面ひっさげた中央のモンにやらせておけばよろしい」
市長はゆっくりタバコに火をつけた。
「軍を抱えていることを、軍の下であるとの鉄道であるということをしっかりと考えろ、ということですか?」
幸谷が畳みかける。市長はゆっくり紫煙をくゆらせると、つぶやくように答えた。
「逆でさァ」
「逆?」
「越谷さん。鉄道は血液だ。血液がまともに動かなくちゃ都市はまわりゃあせんですよ。血液が軍の事ばっか考えてちゃあ、まともに酸素が行き渡りませんでよ」
「つまり……」
「ほどほどにしてくんせえ。この街はまだまだ、だれに何を言われようと大きくならにゃいかんのですよ。軍を支えるんだってェ言うならですよ、きちんとその”城下町”をしっかり立てなきゃァいけませんよ。これは、織田信長の時代から変わらん事です」
「城下町なき軍郷は、確かに心許ありませんね」
「越谷さん。今は街を大きくすることだけを考えたい。誰がどこで何をしようとだ」
市長は、越谷をまっすぐ見据える。
「お願いしますよ」
越谷は、暫しの間市長の目を見つめ返した後に、これだけを言い残した。
「市長、都市の発展は鉄道の本望ですよ」
「さて、これで一段落かな」
越谷は市長室から隣の会議室に移動し、次の海軍高官との面談に備える。そして今やっと、資料の整備が終わったところだった。
「久留米くん、すまないね」
「いえ、慣れていますから」
彼女はにこやかに笑った。
越谷は、本当に優しい笑い方をする人だなあと思った。妻がいなかったら、手を出していたかもしれない。いやいや、彼女は28歳だ。越谷は今年で49。戦争さえなければ子供でもおかしくない年齢だ。さすがに許されないだろう。
越谷の思う彼女の魅力は、何と言ってもその優しい雰囲気と顔だち、そして地に付きそうなほど長い髪だろう。半面、前髪はそこそこ短く、その優しげな顔がはっきりと見える。どことなく、その年よりも落ち着いて見える。初めて会った時も思ったが、筋肉が表に見えてこない。しかしながらそれは引き締まってないということではなく。すらっと美しく伸びた身体は腰にのみ女性らしさを見出せるが、それがかえって官能的だった。
陸軍に女性が入るとたいていゴリラのようになる――と越谷は聞かされていた。失礼な話である――らしいが、海軍だと筋肉はそこまでいらないのだろうかと越谷は思う。
だが初めて会った時彼女は陸戦隊だと言っていた。その事実が越谷を不思議にさせた。
「そういえば、君は海軍だったね」
なので、越谷は直接聞いてみることにした。
「はい。といっても写真撮影部隊ですけど」
「ああ、斥候なのか。あと記録もか?」
「はい。そんなところです」
越谷は合点がいった気がした。彼女の微笑みは聖母そのものであり、戦闘をこなすようには見えなかったからだ。後方でないのが不思議でならないが、それでも偵察なら全面的な戦闘の機会は少ないはずだ。
……もっとも、敵に見つからなければ、だが。
「入隊は写真中隊です。出身が写真学校だったもので」
「ほう、写真学校か。日芸とか?」
「いえ、東京写真学校です。出版業界とかも目指そうかなあと思ったのですが、やっぱり海軍かなあと」
「どうして海軍なんだ?他にもいろいろあっただろうに」
東京写真学校はそこそこ有名な写真学校だ。そこをきちんと卒業したのならほかにもいろいろな道があっただろうに。
「先輩の影響です。先輩が『お前の力が必要だ』って言ってくださって。憧れの先輩だったのでそのままついていっちゃいました」
「では海軍にあこがれていたわけではなかったのか」
「ええ。戦闘とかそういうの、苦手ですし」
垂れた長い髪がふらりと揺れる。甘い香りが漂う。蚊も殺せなさそうな雰囲気の通り、やはり彼女は荒事は苦手のようだ。
「出身は東京か?」
「いえ、稚内です。海と流氷がきれいないいところです!って、ここもそうですね」
「ここは流氷がキレイどころか、流氷に閉ざされてるからなあ」
彼女が微笑むたびに遠赤外線が出ている気がした。少し肌寒かった部屋が、あったかくなった気がする。
しかし、ふと越谷は思い出した。越谷が初めてこのビルに入った時、すごい形相で越谷を睨んでいた女性がいた。今から思い出せば、それは彼女だったように思うのだ。
「社長は国鉄から来られたと聞いていましたが、どんなことをやっていたんですか?」
「私か?私は国鉄西東京鉄道管理局というところの長をやっていたよ。丁度通勤五方面作戦の時期でな、中央線の再整備なんかをやっていたな」
「国鉄西東京鉄道管理局というと、最近できたところですよね。その前はなにをやっていたんですか?」
「その前進の組織である国鉄東京鉄道管理局の八王子管理所にいたよ。あそこは楽しかったな。毎日がお祭り騒ぎだった」
越谷は、何かがおかしいと思い始めた。嫌に詳しいし、そして嫌に追及してくる。
なぜ目の前のほんわか美少女はわざわざ知っていること(若しくは知らなくてもいいこと)を聞くのだろう。
「八王子管理所、ですか」
彼女の表情が、少し消えた。
「確か、帝都テロの際襲撃を受けていましたね」
「ああ。悲しい出来事だったよ。同僚が何人も死んだ」
「社長、知っていますか?他の管理所はそこの職員が放棄して自主的に赤軍に加担していたんです。でも、八王子管理所は赤軍になびくものがいなかったため、占拠する際に赤軍は襲撃という形をとらざるをえなかった」
「ああ、当然知っているさ。あれは国鉄の在り方を大きく変えたからな」
そして、越谷も当事者だからだ。
「でも私、疑問なんです。なぜ、赤軍は八王子管理所を襲撃したとき、簡単に占拠できたのかと」
久留米が立ち上がる。その顔は、笑顔が能面の様に張り付いたいびつな表情をしていた。
「何が言いたい」
「我々は思うのです。中に内通者がいたのではないかと」
彼女はその長い髪をひとつに束ね始める。
「そうか。その可能性は高いかもしれないな」
何が言いたい。
「ええ。そして思うのです。その内通者があなたでない可能性はどこにもないと」
越谷は言っている意味が解らない。つまり、彼女は越谷を疑っているのか?
「要するに、私に悪魔の証明をしろというのか」
今ここで証明することは、どだい無理な話だ。
越谷は次の言葉を待つ。いくらなんでも失礼で、いくらなんでも不躾すぎる。越谷は恐怖よりも、怒りが先に立った。
「そうです、証明です。あなたに、証明をしていただきたいんです。そう、この命をもってね!」
次の瞬間、彼女はどこに忍ばせておいたのか短刀を越谷に突き付けてきた。越谷は慌てて回避するが、大きく姿勢を崩す。
「何が目的だ!」
後ろ回りに受け身を取りながら越谷は叫ぶ。とにかく時間がほしかった。
「うるさい、証明しろ!オマエが潔白だということを!」
安直な罵倒と共に彼女は大きく刃を振り、それは越谷の首元をかすった。越谷はのけぞると同時に大きく後ろへ間合いを取った。
「いいだろう。来いよ。恐れなんか捨ててかかってこい。返り討ちにしてやる」
越谷の頭は、完全に20数年前の中国戦線に戻っていた。あの時の、命と命が否応なしにぶつかり合い削り取られていく緊張感とまやかしの高揚感が越谷を包んだ。
越谷は集中する。敵は目の前に見えている。だが、気配はそこに存在しない。相手の気配が見えない。だから、どこからどのように襲われるか見当がつかない。よって、間合いが図れない。
だから越谷は集中する。すべてに神経をとがらせる。すべてを感じ取る。
「英雄を、なめるな!」
越谷は正面に向かって手刀を切った。すると、まるで分っていたかのようにそこに彼女の手があった。
「甘い!」
突進を阻まれた彼女はいったん退き、そしてまた突進してくる。越谷は合気道の要領で彼女の内側に入り込み、投げ飛ばした。
彼女はどんな受け身を取ったのかすぐに体勢を立て直し、再度の突進を敢行する。その突撃はあまり意味のないように思えた。
しかし次の瞬間、越谷は悟る。それは越谷にとって絶妙に避けがたいものであると。
ええい、ままよ。越谷は避けられないならば自ら行くのみと、手を一本犠牲にする覚悟で刃に対し手刀を差し出す。
しかし彼女はそれを巧みにすり抜け、越谷にせまる。
喉元に刃が迫る。越谷は終わりを覚悟した。
「おい、やめんか久留米!」
その時、怒声が横から飛んできた。それと同時に久留米は自ら後ろに弾き飛ばされるように後ずさった。
「まったく、世話の焼ける奴だ!」
その声の主は、肩をいからせながら部屋に入ってきた海軍人だった。
「いや、どうも失礼」
髪を元に戻した久留米がお茶を淹れた。
「うちの阿呆がご迷惑をおかけいたしました。お怪我はございませんか?」
「ええ。なんとか」
越谷は混乱していてそう答えるのがやっとだった。
海軍人は二人。共に三軍委の人間だった。年老いた方が海原、そして若い方が大熊だった。
「そうですか。いや、中華民国救国の英雄には無用な心配でしたかな?」
「いやいや昔の事ですよ。革命戦争なんて……」
「何をおっしゃいます。革命戦争での大活躍、海軍にも届いております。そして兵役を終えられてからは国鉄に戻り、そこでも大活躍。そして帝都テロでは混乱の収束にご尽力いただきまして。八王子管理所が赤軍に占拠された際には、一番乗りで駆け付け、生き残った同僚を救助しながらの大立ち回り。貴方が率いるたった数人で八王子管理所を解放したと聞きます」
過去の所業を並べ立てられて、越谷は穴にでも入りたい気分だった。確かに越谷はいろいろなことをしてきたし、それなりに表彰されたりしたが、だがしかしそんな大それたことはした記憶がないのだ。
「なあ久留米、なんだってこんな英雄を襲おうと思ったんだ」
そういうと、久留米はフンと鼻を鳴らして言った。
「英雄が愛国者だとは限らない」
馬鹿なことを。海原はこめかみに手を当てて呆れかえってしまった。
その後、海原・大熊両名と越谷は明日の開通式の打ち合わせを軽くした後、認識の共有を行ってそれで用事は終わりだったらしく、そのまま帰っていった。
「で、久留米くん。これはどういうことだ?」
久留米はもう越谷の殺傷には興味がないらしく、短刀はすでに服の中にしまった後だった。
「言ったじゃないですか。八王子管理所内部に内通者がいた可能性がある。これはその調査です。当時八王子管理所内で無傷だったのは貴方だけ。そして、貴方は前社長である喜多川容疑者を強く推した人物に推薦されて社長に抜擢されたと聞く。であれば、嫌疑をかけられるのも当然かと」
横領その他ソ連に資金を横流ししていた容疑で逮捕された前社長・喜多川康志は、たしかにソ連(正確に言えばソ連の協力組織であるとされる共赤会)とのつながりがあったのは事実だ。
そして、喜多川康志をこの鉄道の社長に推薦した人物が越谷を推薦した、というのもまた事実のようだった。少なくとも越谷はそのことを聞いており、そしてそれを不名誉に思っているらしかった。
「あのな久留米君。私は八王子管理所が襲撃を受けたと聞いた時、まっさきに駆けつけてだな……」
越谷は其の疑惑を晴らそうと弁明を試みる。しかし、それに対しての久留米の反応は、意外なものだった。
「ええ、知っています」
「じゃあなんだ。私が手柄を得るためにわざと八王子管理所を襲わせたというのか?」
越谷は憤慨する。あの時、あの日、越谷は確かに同僚を失ったのだ。国鉄マンの越谷にとって、同僚は家族だ。
「いえ、私は貴方がアカに通じている人間でないことを知っています」
「……は?」
越谷は訳が分からなかった。先ほど久留米は「オマエの無実を証明しろ!」と言って襲ってきたはずだ。それなのに「越谷が潔白であることを知っていた」とは、矛盾している。
「ですから、
「では、なんで襲って来たんだ?」
「そうしないと海軍情報局が納得しないんで」
「
越谷は急に出てきた名前にびっくりする。海軍情報局と言えば共産系勢力を監視するために設置された海軍の機関であるということは、越谷も知っていた。だが、なぜ今それが関係しているのかはわからなかった。
「ええ。正確に言えば私の上司です」
「ああまて、君は広報の人間ではないのか?」
「はい。海軍情報局の職員ですよ」
久留米はあっさりと自分の本当の出自を明かしたが、あっさりすぎて越谷は思考が追い付かない。さっきっから越谷はずっと置いてけぼりである。
「私は海軍情報局に疑われていたのか……で、面倒だから始末しろと命令が来たわけか?」
「いえ、調査しろと言われました。私は調査するまでもなく知っていましたが、一応形だけでも調査しようかと思いまして」
「なるほど、あの暴行は調査だったのか。確かに『証明しろ』と叫んでいたからな。いやどんな調査だ」
調査で殺されてはかなわない。越谷は心底ほっとした。
「しかし、私の潔白を『知っていた』とはどういう意味だ?」
「ああ、それはあれです。社長がお世話になった議員さんに、私も助けられたことがあるんですよ」
「それは……」
「勤皇党の岩佐議員です」
「ああ、君は岩佐さんの関係者か!」
「あの方のお知り合いであれば、まあそんな疑うようなこともないかと思いまして。でも、ウエが納得しなかったんです」
なるほど、と越谷は納得しかけて、それがなんの理由にもなってないことに気が付く。
嫌疑にも潔白にも証拠どころか論すらまともにないわけで、そんなものを根拠に行動を起こす改めて
「おかげさまで報告書に堂々と『間諜の恐れなし』と書けます。ご協力感謝します」
「うむ。感謝されておこう」
越谷は鷹揚にうなずいた。別にふざけたのではなく、彼女の突進を避けた時に首を痛めたために軽くうなずくことができなかったのだ。
「あ、それと。私が海軍情報局の人間であるということは秘密になっています」
「わかった。他言はしないよ」
越谷はそう約束した。確かに、知られてはまずいだろう。越谷には当事者ということで教えてくれたのかもしれないが。
「秘密ということは要するに、みんなこの事を知っているという意味です」
「なるほど、公然の秘密というわけかまぎらわしいな!」
彼女はこの街に来て以降、こんなことを繰り返していたのだろうか。であればもうすでに大部分の人に知れ渡っているのだろう。
「はあ、明日は開通式だというのに、もう疲れてしまったよ」
「後程ウエの人間にお礼をするよう請求しておきます」
「はは、まあいいさ」
越谷と久留米の間を、明けていた窓の間から流れ込んだそよ風が通り抜けた。
「さて、この鉄道はどんなふうになっていくのかねえ」
少なくとも、波乱に満ちたものになるということだけは、確実なようだった。
八王子管理所
中央線東京~高尾間(後に千葉~大月)の全ての駅及びそのポイント、そしてすべての列車を総合管理する列車集中制御システム(通称:CTC)が設置されている場所。通常、八王子駅構内に設置されている。
1963年の帝都テロに際しては、この管理所のみ赤軍協力者が出なかった関係で襲撃の目標になった。当時勤務していた職員のほとんどが犠牲になっている。
テロにより軍・警察が混乱している中、当時非番だった者や命からがら逃げだした有志数人により奪還作戦が敢行され、犠牲を出しつつも成功する。
これにより、絶望視されていた帝都の奪還が、中央線経由の軍事列車によって可能となった。
犠牲者は巻き込まれた市民を含め192人。
その後、八王子管理所の所在を秘匿する為に場所は明らかにされていないが、敷地内に碑が建てられている。
『この鉄路に殉じた方々を想ひ、必ず安全に資すると誓う』(越谷卓志)