【国鉄西東京鉄道管理局 立川駅操車係標語】
「でさあ、大宮君はどうするの?」
ぷかぷかと煙をくゆらせながら、
二人とも共に運転手であり、今は休憩時間だった。三田はかなりの愛煙家で、三田がいるときは詰所は煙で一杯になる。
「どうって、なにが」
「回ってきた署名」
「ああ、あれね」
言われて大宮は、ついこの間回ってきた署名のお願いに関する資料を出す。
「車掌課からのお達しでしょう?正直困るんだよね。お上に従っとくか、仲間を助けるか」
「打算的だねえ」
「女なんてそんなもんよ」
三田は笑う。大宮は、この
「ま、署名ぐらいしときましょうや。桐谷さんがいるかぎり大丈夫でしょう」
大宮は迷うことなく署名した。その内容に特に思うところがあるわけではなかったが、親しい先輩が行っている署名活動ということもあってなんとなくしてあげたい気持ちになった。
「おやっさんが居れば大丈夫か」
三田は大宮から紙を受け取ると、流れるように署名した。
「しっかし大宮ちゃん、ここに署名しちゃったらウエに目を付けられるよ~。あのツンツンエリート眼鏡に」
「まあ……、しょうがないじゃないですか」
「いいの~? もしおやっさんが東京に帰っちゃったら一気に首切り最前線よ。それとも、今のうちにあのエリート階級様にゴマすっとく?」
「やめてくださいよ……。縁起でもないし、たとえそうなってもそこまでしてまで職場に縋りつきたくないですよ」
心底嫌そうに大宮が答えると、三田はケタケタ笑った。
「まあでもさあ、大宮ちゃんその歳で子持ちじゃん? しかも独り身で。つらいでしょ?」
「まあ、ですけど……」
大宮の脳裏に、一人娘の不安そうな顔がよぎる。確かに、娘のこれからを考えるとあまり不安定な状況にはなりたくない。
「はあ、この際さあ、大宮ちゃん」
「はい、なんですか」
一転真剣な顔で顔を寄せる三田。大宮は不意を突かれてドキっとしてしまう。
「結婚しちゃう? 私ら」
「はあ?」
そこから出た言葉に、大宮は逆に冷静さを取り戻した。
「いや、ちょうどいいかなって」
「いやいや三田さん。そんな関係でもないじゃないですか」
「うん、まあね。それに大宮ちゃんには他に好きな人いるの知ってるし、本気じゃないわよ」
「な!?」
大宮は立ち上がる。急いで立ち上がったもんだから、テーブルの縁に腹を打ち付け上に置いてあった灰皿がひっくり返る。
「あ、あああ、ああああああ」
「ったく大宮ちゃーん。そんな慌てないでよー。朋子ちゃんでしょ?朋子ちゃん」
「なあああ!?」
こぼした灰皿を片づけていた大宮は、その場で転び灰を下にぶちまけた。
「ああ、ああああ、あああああああ」
「もう、大宮ちゃーん。けど、朋子ちゃん可愛いもんね。佐々木朋子、24歳、運転手。うん、やっぱかわいいよねえ。やっぱ大宮君も可愛くて若い娘の方が好きかあ」
三田は笑いながら片付けを手伝う。流石にからかいすぎたと反省したが、面白いものが見れて満足だった。
「もう!もう!」
「あはは、ごめんなさいって」
だいたい佐々木さんは自分より年上ですし……。と、大宮は反論になっていない反論をつぶやく。ふてぶてしく制服の灰を落とすと、灰を片付ける三田を手伝った。
「でもね、大宮ちゃん」
灰皿を机に戻して灰を適当に寄せると、三田は真剣な顔で言った。
「はやく、お母さん見つけた方がいいわよ。なんだかんだ言って、女親にしかできないことは多いんだから。特に女の子は」
それだけ言い残して、三田は部屋を出ていった。それを、大宮は少し考えこんだような顔で見送った。
「って、三田さん! ジッポー! ジッポー忘れてますよ!」
いつものように仏壇に手を合わせる。
「行ってきます」
小さくつぶやいた。
「あなた、今日は?」
後ろから家内に声を掛けられる。
「夕飯には帰るよ」
そう答えながら靴を履くと、玄関の戸を開けた。
「そう、行ってらっしゃい」
「ああ、行ってきます」
宇佐美陶治は、今日もいつも通りに家を出た。
宇佐美の仕事は、今現在においては“街を視る”こと。都市開発部の部長として、街をよく観察しなければならない。
宇佐美は開業予定線区の沿線を歩く。今日は団地の方へ行ってみようと思った。
「さて、どう行ったもんだか」
団地とは、この尾羽に新しく造成された地にできた「新団地」と呼ばれる団地群の事である。
発鉄開業に伴い、これまでプレアデス重工専用線及び宅地造成用土砂運搬線として使用されていた路線を民需開放し、延伸することとなった。
その路線の終点が、その新団地である。
新団地へと向かう路線は、開業前なので当然ながらまだ運行していない。試運転の列車が動いていれば社員証を見せて乗せてもらえるのだが、都合よく動いてくれているだろうか。
宇佐美はとりあえず、南尾羽駅へ向かった。
「どうも~」
「あ、お疲れ様です」
南尾羽駅の駅員事務室に行くと、いつもの駅員が迎えてくれた。
「新団地行の列車、ある?」
「はい、ちょっとお待ちを」
駅員は引き出しから書類の束を出すと、パラパラとめくりだした。
「開業前で全部が全部臨時扱いだと、運転報の厚みが大変なことになっていけない」
駅員はボヤきながら運転報をぺらぺらめくる。
運転報とは、臨時列車やダイヤ変更などがある際に、運行管理課などから通達される報告の事で、これを見て駅員などが列車の正確なダイヤを把握するのである。
余談だが、本土4島の国鉄各線ではこの駅報が一般市民でも気軽に見れる場合があるという。よく本州では軍事列車を撮影している鉄道ファンの姿が見えるが、それはこういうところで情報を得ているらしかった。
もちろん、いくら民需開放とはいえこの鉄道の各路線はほとんどが軍用路線的性格を受け継ぐ、もしくは付与される。一般市民に気軽に機密情報に触れさせるわけにはいかない。
……。はずなのだが、なぜ鉄道ファンは軍用列車の正確な時刻を知って、撮影しているのだろうか。鉄道ファンの情報網は恐ろしい。
「あー、今日は午後だけですね」
「おお、午後だけか。わかった、ありがとう」
「新団地にはどうやって行かれるんで?」
「北鉄線で行くよ」
「ようがす。北鉄線は
「ありがとう」
駅員に挨拶をして、宇佐美は北鉄線のホームへ行った。
ホームへ着いたところで、茶色い機関車に牽かれた青色の客車列車がやってきた。
「あ、しまった。切符を買い忘れてしまった」
仕方がない。宇佐美はつぶやいて、列車の中で切符を買うことにした。
どうせならと、宇佐美は二等車に乗った。
車内に入れば、そこそこ豪華そうな内装が出迎える。古い車両は、二等車でも内装が洒落ているから好きだ。宇佐美は適当にその柔らかそうな座席に腰を掛けようとした。
「やあ、宇佐美君」
そんな時、声をかけられた。振り返って声の主を確認すると、それは社長だった。
「社長!いったいどうしたんですか!?」
「いやいや、私もいろいろと見て回ろうと思ってね」
「そうでしたか。私は今から新団地の方へ行きます。社長はどうされますか?」
「じゃあ、ご一緒させてもらおうかな」
「はい、どうぞどうぞ」
社長はお茶を飲みながらすっかりくつろいでいた。
「これは伊留真行だったな。新団地へはどうやって行くんだ?」
「伊留真から出る東留支線で
「40分!?これまあずいぶんと」
「まあ、こちらの人間にはこれぐらい普通でしたよ」
「そおかあ?うーん、確かに言われてみればそうかもしれんなあ。いやしかし、
宇佐美は、越谷が敷香のことを「しすか」と発音したのに衝撃を受けた。本来はこの呼び方が正しいのだが、今はもうこの呼び方で呼ぶ人間はほとんどいない。
宇佐美はびっくりして、自分の勘違いだろうと思った。
「社長は
「あ?ああ。君は
「ええ、そうです」
はて、自分が敷香の出身であることを一度でも社長に言ったことがあるだろうか? 宇佐美は違和感を覚えた。
そしてやはり、社長は
「
「ええと、
「
「あ、ええ。よくわかりましたね」
「大池のあたりか」
「ええ!?なんでわかったんですか?」
ぽんぽんと自分の故郷の場所を言い当てられて宇佐美は面食らう。
「川を渡ったところはあれだな、先住民学校があったところだったろ」
「ええ、杜がありました」
「空き地の隣にガミガミ爺が居たな。古村さんだったかな?怖いけどいい人だったなあ。あ、あと海は夏場でも悲しいくらい冷たかったなあ。浜にはよく座礁した船が転がってて、あぶねえから近づくなって古村さんに怒られたなあ」
「え? あの、社長?」
「空き地で野球をしてたら、古村さんがお茶を持ってきてくれたことがあったなあ。あの人、怖いけど優しい人だったなあ」
宇佐美は呆然と越谷を見る。自分の幼少期の、自分しか知らないはずの記憶の数々がつらつらと語られていく。越谷は、にやりと笑って宇佐美に言った。
「君も当然覚えているだろう? 宇佐美
トウジキ、この名前で宇佐美の事を呼ぶ人間は、宇佐美の記憶の中では一人しかいなかった。
遠い遠い記憶の底から、急速に鮮やかな景色がよみがえってくる。
「まさか、兄ヤン……。卓志
「やっと思い出したか、このワレモノ坊主め」
あんぐりと口を開ける宇佐美を、越谷はいっぱいに笑った。
終点の伊留真に着くと、団地の現在の最寄り駅となる東留駅行の電車が丁度出るところだった。
一両編成の電車に乗り込むと、終点の東留までは一駅でたったの5分で着いた。
駅は、それは駅と呼んでいい代物なのかもわからないそれは、駅舎はなく、というよりそもそもホームがなく、なにもない空き地にただ線路の終わりがあり、その線路の終わりの近くに今しがた二人を運んだ電車がぽつんとたたずんでいた。
「これが、“駅”か」
「だ、そうだよ。なんでも団地建築の為に作られたものの、向こうの線路が開通してからは人員輸送も建築資材輸送も新羽線経由になったそうで」
「こっから団地までは歩いて40分、だったな。自動車だと5分くらいか」
「まあそんなところ。このだだっ広い土地は資材の積み下ろしの為。ホームがないのも、貨物扱い線と客扱い線を供用にしたかったからだそうだ」
「ははぁ、さてはケチったな」
二人は白い土が露出しているところを“道”と認識し、団地の方へと歩いて行った。
「しかし、驚いたよ。まさか兄ヤンとは」
「さすがに、40年も経っていれば気が付かんか」
「当然だよ。それにまさか英雄サマが兄ヤンだなんて。昔の兄ヤンを知ってる人間ならひっくり返るさ」
「ご挨拶だな。昔の俺は地域の子供たちを愛するヒーローだったろうに」
「えーっと、どっから話をすればいいかな。藪をつついて熊を出した話? それとも湿地に足を取られて沈んだ話? あ、女子の服を引っぺがして先生に磔にされた話か」
「やめてくれ、特に最後のは」
とんだ藪蛇、いや藪熊だと、越谷は笑う。
「……でも、あの時兄ヤンが居てくれたら、みんなは助かったのかな」
宇佐美は、ぽつりと言う。
「結局、何人生き残った」
「てー坊、たっく、ぴょん吉、もっちゃん、ヘンサム。全員死んだよ」
「……ゆー子は」
「死んだよ。僕の手を握りながらね。残ったのは腕だけさ」
「そうか」
敷香。そこは革命戦争期の日ソ国境線のすぐ近くの街。
ソ連侵攻と共に、何人もの樺太の市民が犠牲になった。
「
越谷には、言葉が見つからなかった。
もう、3・40年も前の事である。戦争の爪痕は既に消え、日本は樺太景気に沸いている。
それでも、あの戦いを樺太で経験した人間の、その苦しみは終わらない。
新団地に着いた。業者の出入りが激しく、賑わっているように見えた。
「引っ越しか?」
「第一次入居は今週中、開業初日にいっせーのーせで供給開始だそうだ」
ガラガラと台車の音が響き、えっさほいさと家財道具を運び入れている。
「この輸送は全部鉄道かい?」
「らしいね。内見の為だけに特別列車も走ったらしい」
完全に鉄道に依存した街である。鉄道ファンからしたら延髄モノかもしれないが、住むことを考えたら地獄だろう。
「街の周辺は、店は少ないな」
「基本的に尾羽の街まで出るからねえ。ここの路線だけは安定した収入が見込めそうだ」
「しかし、開発となると厳しいんじゃないか?」
資材の搬入や緊急時の事を考えても、一本ぐらいまともな道路が欲しい。
「直接尾羽へ出れる道路がないだけで、尾羽よりも近い土御や佐保に出る街道は用意されてるから。そこまで不便はないと思うよ」
とはいっても、ここにはそれなりの人口が住むことになる。規模が小さければ問題にならなかったことも、規模が上がれば問題になることは多々ある。
「この計画の主導はウチか?」
「いや、行政……樺太庁だね。一応その時僕も計画に参画してた。その経験から言わせてもらうと、計算上はまあ大丈夫だろうし、鉄道がしっかりしていれば問題ないし、そのうち道路も整備する。だそうだ」
「まあその通りなんだろうが、鉄道不通時の対策やなんかはあるのか?」
「一応商店はあるし、食糧備蓄はあるし、燃料も大量に備蓄があるから困ることはないんじゃないかな」
なんとも心許ない備えである。
「それで大丈夫なのか?」
「卓にぃ、ここらで一番確実な輸送機関は鉄道だよ。いったん雪が降れば一般車はどのみち使えない。鉄道が止まったら、それこそ災害級だから、軍の応援を要請すべき事案だというのが樺太庁の考えだよ」
「なるほどな、そもそも長期にわたって不通になるような事態だったら、そもそも他もダメか」
そんなことを話しながら歩いていると、新団地駅に着いた。
「一応それなりに店舗はあるのか。だが、なんだか不思議な店舗だなあ」
その店舗は鉄道弘済会の店であるらしかったが、駅の売店と言うにはきちんとした建物になっているし、八百屋と言うにもきちんと壁で囲われて商品は棚に陳列されているし、スーパーと言うには小さかった。
「ああ、これは“コンビニエンスストア”だよ」
「コン……なんだって?」
「コンビニエンスストア。アメリカでは流行りなんだとさ」
「どんな店なんだ?」
「まあ、出来合いの総菜とか飲み物とか、なんでも売ってるようなところらしいよ」
「はあ~、最近はこういうのが流行りなのか?」
「それはどうだろう。少なくともこの形態のものは東京にはないそうだし、事業主は中小と鉄道弘済会だけだし。先進的ではあるんじゃないかな?」
コンビニエンスストア。耳慣れない言葉だ。だが確かに便利そうではあった。
「この“コンビニ”がこの街には至る所にあって、暫くの食事ぐらいならここで買えるようになっているんだそうだ」
「運営は弘済会が?」
「だねえ。儲かりそうだったら頼み込んで譲ってもらうかい?」
冗談交じりに宇佐美は笑う。
鉄道弘済会は、駅構内の売店を運営している団体だ。もちろん国鉄系……というより、鉄道殉職者遺族の働き口確保や傷痍国鉄職員などへの福祉を目的に作られた鉄道系福祉団体だ。
「しかし、弘済会か。樺太にも影響力はあったんだな」
「ま、鉄道のある所に弘済会あり、だよ。ありがたいことだ」
「それもそうだな」
少なくとも、新団地において住民が特段の苦労を強いられるわけではないことが分かっただけ安心する。
「そういえば、郵便やなんかはどうするんだ?」
「ああ、それはねえ、ここはちょっと面白いんだ」
そう言うと、宇佐美は改札口の方へ行った。
「見てくれ兄貴。ホームが1から4まであるだろう?」
「ああ、あるね」
改札口から見て左から1・2・3・4とあり、1・2番ホームは改札口から直接、3・4番ホームはいったん構内踏切を渡って向かう。
「だけど見てくれ。4番線があるだろ? その隣にもう一個ホームがあるんだ」
確かに4番線だけがホームが二つあり、線路を挟んでいる。さながら名古屋駅……いや、京阪神電鉄梅田ターミナルや武蔵野鉄道東上線の池袋駅と言った方が解りやすいか。
「あれはなんだ。降車ホームか?」
「あれは5番線。郵便・小荷物用ホームさ」
手招きされて入り口の方へ行ってみると、改札内からは直接出入りできないようになっていた。そして、改札の外からは自由に行き来できるようになっている。
「どういうことだ?」
「簡単なことさ。ここに郵便車と荷物車を常駐させておいて、その車両の中で手続するのさ」
だからこの街の郵便ポストは駅前の一か所だけ。そう付け加える宇佐美。確かにそれなら行政サービスに割く経費をギリギリまで節減できるだろう。
「どうせ住民は駅前に集まるわけだし、それでいいのか」
「そうそう。そんでもってそこの建屋には郵便受けがある。帰りにここによって郵便を取って家まで帰るのさ。小荷物用の台車も貸し出してるし、郵便・小荷物での不便は少ないはずだよ」
近代的を越えた仕組みで街が回るように設計されている。さながら実験都市のようだ。越谷はうすら寒いものを感じた。
「道は綺麗で近未来的な設備もある。これは人が来るかねえ」
「来る、と少なくとも樺太庁は踏んでる。ここまで金を使わずに頭ひねったんだ。新しい結果が出るものと、期待しているよ」
極限まで諸経費をケチり、ミニマム化した街。
徹底的に既存の社会構造を無視し造り上げた街。
「これが、樺太のスタンダードになるのか?」
「何もない、歴史も物も人も何もない樺太だから出来る事ではあるよね」
「庁としては、どうなんだ?」
越谷は宇佐美の目を見据える。
「……。庁としても、まだこの街がうまくいくかどうかわからない。この街は確かに実験都市だ。成功すれば省力型の素晴らしい都市モデルになるだろうし、失敗すれば机上の空論だったで終わる。まだ、決めかねてるよ」
「なるほど、我々次第という訳か」
あまりにも、前例がなさすぎる。見よう見まねでやろうにも、お手本が居なければ仕方がない。
「じゃあ聞く。庁は失敗を望む? 成功を望む?」
「当然、成功さ。これさえ成功すれば、この国の人口増加問題を一網打尽にできる。と、言うことを口実にして樺太にお金が入ってくる。樺太の可能性を内外に示すのに、ちょうどいい実験体さ」
「なるほど。では、庁は協力してくれるとみて間違いないかい?」
「“この街の事なら”なんでもやるさ。そう、なんでもね」
「わかった。ありがとう」
誰かが言った言葉、「政界には敵か味方しかいない」。
これが事実とするならば、ひとまず樺太庁は味方のようだ。
それが、事実ならば。
まだ使われていないホームに電車が到着した。
「おうい、乗せてってくれよ」
「あ、はい」
ドアを開けてもらって中に入る。
電車は1000系。典型的な通勤電車で、西は関西、北は樺太までのそこそこ通勤需要が見込める所に配備される国鉄103系の亜種。
均一化された日本を体現するような車両だ。
だが、そのところどころに北国の装いを見せる。
「さっきの鉄道の抗堪性の話だがね」
越谷は思い出したように切り出す。
「どの程度の雪まで堪えることが出来るかね」
「一応試算では、冬季の運休率は10%以下だとしている。けれど、これに根拠があるかどうかは……」
「降雪時のマニュアルなんかは?」
「雪がない季節の方が珍しいぐらいだし、あるとは思うけれど」
外を見れば、まだまだ雪は残っている。
「東京の雪とは絶対に違うし、豊原の雪とも違うだろう。さて、これをどうするかだなあ」
「やはり心配かい?」
「冬季の運行実績が見当たらないんだ」
列車は発車した。揺れも少なく加速し、心地いい揺れが二人を揺らす。
「そりゃ当たり前だよ兄ちゃん。基本的に冬季は止めてたんだから」
「ああ、やっぱりそうか」
越谷は先日、降雪時の対処の参考にと軍時代の運行実績を調べていたが、冬季の部分だけごっそり資料が抜けていたのだ。
「正直、雪ばかりはやってみないことには。一応降雪時試運転はしたけれども、春口だしね。運用していく中で本当に大丈夫かどうかは、実際に通年で運転してみないことにはわからない」
そう、わからない。雪は、大自然は、何がどうなるかわからない。
架線凍結防止や除雪の為に高頻度運転をすべきなのか、それともダイヤ乱れを防ぐために間引き運転をすればいいのか。
除雪車の投入タイミングも、運行停止のタイミングも、誰一人としてわかっていない。
何もかもが手探りの状況で、事故だけは避けなければならない。
「ともかくこの辺りはもう一度桐谷君と話を詰めないとな。ああ、問題が山積だ」
「ひとうひとつ、潰していこう。大丈夫だよ。きっと」
「ああ、だといいんだがな」
真っ白のレールの上を、列車はただ走って行った。
敷香(樺太庁敷香市)
南樺太の都市。多来加湾に面しており、樺太東線の終点でもあった。また、樺太東線の延伸に伴い、敷香駅でスイッチバックする措置がとられたために、革命戦争期まで交通の要衝だった。
革命戦争により破壊され、その後再建されたものの樺太東線の本格整備に伴い短絡線が開通。敷香は樺太東線の本線から外れ現在では閑散としている。
なお、付近では金鉱脈が存在し、近年にわかに注目を浴びている。
【出典不明 社会科副教材とみられる】