「そんな約束、した覚えないですけれど、ね」
越谷が詰所から出ると、久留米が立っていた。気が付かないうちに雨がしとしとと降り始めていて、犬走のコンクリートがうっすらと湿っていた。
「聞いていたのか」
トタンの屋根に雨粒が落ちる。その音に隠れるようにして越谷は話す。
「最近の収音機は優秀なんです」
久留米は優しく笑う。無邪気な笑みだ。越谷は苦笑いするしかなかった。
「まあ冗談はさておき、どうでしたか?」
「首元に痣があったよ。そして、酷く男におびえていた」
越谷は思った通りの事を伝える。久留米は得心したような表情を見せた。
「もしかしたら私の読み通りかもしれません。彼女は男に脅されているか屈服させられている状況下にある。という可能性が強い、と言えるんじゃないでしょうか?」
断定せずに彼女は次々と言葉を並べ立てていく。越谷は違和感を覚えつつも、それを肯定した。
「ああ、そうだと思う。さて、海情としてはどうするつもりだい?」
「うーん、ともかく、彼女は保護の方向性であるような気がします。なぜなら、彼女は場合によっては協力者になってくれる可能性もありますし、また現在進行形の被害者である可能性もありますから、そうなれば彼女は保護すべき国民です。しかし……」
久留米が言葉に詰まる。そして、慎重に言葉を選んでつづけた。
「最悪、彼女の被害者性が証明できなければ、残念ながらそれらの考慮はされないでしょう」
“表面”のまま諜報を語る久留米に戸惑いつつも、越谷は返事をする。
「そうか……」
久留米は更につづけた。
「大事なのは、予防です。これで彼女が協力を辞めてくれれば、万事解決します。荒事もしなくて済みますしね」
その一言に、越谷は寒気がする思いだった。
「久留米君、風邪でもひいたかね。それか、少し疲れているんじゃないか?」
「いえ……。どうしてそう思われたのですか?」
「変じゃないか。君が『荒事を避けたい』なんて言い出すのは」
そう言うと、久留米はきょとんとした。
「何故ですか? 荒事がない方が、良いことじゃありませんか」
「ま、まあそれはそうだが」
正論である。だからこそ越谷は違和感がぬぐえない。話し方と言い、思考と言い、言葉に表しかねる不整合感に越谷は戸惑いを隠せない。
「三田君の身辺はどうなるんだ? よく日本の調査組織はそういった無辜の被害者を保護しないと批判されているが、海情として保護などは……」
「おっしゃる通り、組織的には行わないんじゃないかと私は思います。しかしながら、彼女は守られるでしょう」
久留米は微笑んだ。
「約束、事後承諾ですがお受けしますよ。久留米千佳子が彼女を保護します」
「それはありがたい。私をウソつきにさせないでくれよ」
「問題ありません。
今度は断定形だ。だが、その言葉尻にやはり越谷は強烈な違和感を覚えるのである。まるで、久留米が二人いるような、そんな錯覚にとらわれる。越谷は確認するように問いかける。
「久留米千佳子は君だろう」
「ええ、私です。ですが……」
久留米は、何かを言いかけて首を振った。その代わり、哀しそうな顔を見せた。
「久留米千佳子は、彼女が置かれている境遇を許しません。今言えるのは、ただそれだけです」
そう言うと、久留米は髪の毛をひとつに束ねた。
「そう。
“B面”の彼女が現れた。これではっきりした。これは、彼女の恐るべき二面性だなんてちっちゃな言葉で表されるべきものじゃあない。越谷は湧き上がってくる感情を抑えきれない。
「いったい、君は……」
君はどうして、一体君に何がったのか。そこまで出かかって、越谷は感情と共に昇ってくるその言葉を喉元で押しとどめた。
「いや。何でもない。ただ、もし君が話したくなったら、その時は聞かせて欲しい」
君のソレは、一体何なのかを。
越谷の言葉に、久留米はそっと答えた。
「ええ、お話しますよ」
雨が彼女を濡らす。髪の毛から頬を伝う雨雫をぬぐって、彼女はつぶやいた。
「全ての敵を倒した、その後で」
雨は、どんどん強くなっていく。久留米はその雨の中を、傘もささずに歩き去った。
夜の操車場。目の前に貨車がある。
その貨車は黒色。透き通った樺太の夜空と同じ色をしている。
貨車の名前は、ワキ8000。車体には白い文字でワキ8563と書かれている。
ワキ8000。樺太用に設計された特急貨物・特急荷物用客車である。
最高速度は樺太特例により160km/h。車体にはまるで天の川の様に、白いラインが引かれている。紛れもない、樺太用高速貨車の証だ。
今、EF69形電気機関車2両を先頭としてタキ51000が8両連なっている。その後ろに材木輸送用のトキ2500やビール輸送用のワキ3010、宅扱便用のワキ3500が連なる。そしてその次に、ワキ8563は連結されていた。
ワキ8563は高速の小口輸送用貨車である。それと同時に、特急荷物列車の荷物車も兼ねる、新世代型の汎用高速客貨車であった。
国鉄所有の有蓋車であり、また用途も小口輸送であるから、一般の工場や倉庫などには足を踏み入れることのない貨車である。
専ら、特急貨物にくっついていたり、若しくは客車特急列車や荷物列車にくっついて荷物輸送に従事していたり……。まさに気高い本線級の貨車である。
そんなワキ8563に向けて、闇夜に紛れて幾人かが歩み寄ってきた。彼らは腰にトカレフを備え、何やら大荷物を運んでいた。
リーダーらしき男が合図する。すると、一人の女が貨車のカギを開けて戸を開いた。中はがらんどうである。それもそのはず、女の情報によって、この日のこの貨車には荷物がないことを、事前に知らされていたのだ。
彼らは大荷物をワキ8563に詰め込む。そして、ゆっくりと扉を閉めた。
女が鍵を閉めようとする。その時、男が女の耳元に口を寄せた。
「しくじるんじゃないぞ」
女は、震えながら頷いた。
「よし、山里と梶井の班は南港根拠に戻れ。石橋と谷村の班は中央根拠に移動する。清藤は俺についてこい」
男たちは小声で指示を飛ばし合うと、そのまま女を置いてきぼりにしてどこかへ行ってしまった。
男たちが去ってくと、女は鍵を閉めてその場にへたり込んだ。安堵のため息か、胸を突き刺す痛み故の浅い呼気か。小さく白んだ空気がもわもわと口から立ち上る。
女は、いや、三田恵子は、暗闇の中で一人、葛藤と戦っていた。
男からの指令は一つ。この貨車の番号を書き換えること。
ワキ8563。この4ケタの数字の一番最後をペンキで塗りつぶす。すると、ワキ856になる。こうしてやると、軍用貨車のワキ800と見分けがつかなくなる……。と、彼らは踏んでいる。
三田の手元には、それを成しえるだけのペンキが用意されていた。この暗闇の中じゃ、警吏に見つかる心配もない。三田はハケに手を添えた。
だが、本当にそれでいいのだろうか。ハケを手に持ったまま、三田はずっと考えている。
頭の中で、久留米の言葉が、越谷の言葉が、そして佐々木や運転手たち、区長、主任、桐谷運輸部長……そして、大宮の顔が渦を巻く。
もし失敗すれば、いや、これをやらなければ、自分はもっと酷い扱いを受けるはずである。それは分かっている。
だが、もしかしたら……。心の中に芽生えた一筋の光明のようなものが、三田の手先を鈍らせる。
「どうせ、ワキ800とワキ8000じゃ、車体構造が違いすぎる。ごまかせっこないよ」
だから、もし失敗したとしても私の責任じゃない。三田は言い聞かせるようにつぶやく。
「私は悪くない、私は悪くないんだっ……!」
そのまま三田は、ペンキを線路にぶちまけた。もう後戻りはできない。
三田は逃げるように走った。肺一杯に冷たい空気が流れ込んできて喉が爛れる様に痛い。動悸がどんどん激しくなっていって、腰に力が入らなくなる。
眩暈がする。暗闇の中で、今いったいどこを走っているのかわからない。まるで漆黒に手招きされているかのように、後ろへ後ろへ引っ張られている気がする。
やっと見えた明るい場所で、三田は目の前の焼却炉に、ペンキを入れていたバケツとハケを衝動的に放り込んだ。その瞬間、汗がどっとあふれてくる。
「私は悪くない、私は……」
だから、誰か助けて。そんな声にならない声は、白い吐息とともに空に消えた。
荷物列車
各種旅客列車から独立して、荷物輸送だけに専務する列車。旅客扱いは行わないが、手続き上旅客列車として扱われる。
これらは荷の積み下ろしによる列車の運転時分への影響を抑えたり、また膨大となった荷物を適切に処理するために設定された。
荷物列車、または一般列車に併結される荷物車に供される車両は、その性格上旅客列車に準じた設計の車両が使用される。
これは高速対応が必要なこと、客車との併結を考慮しなければならないこと、一般の貨車に比べ輸送する荷物が軽量であることなどが理由である。