「それからというもの、女の霊がいろいろな格好をしてやってくるようになった。ある日は花魁、ある日は白装束、ある日は医者の手伝い、ある日は奉仕の女学生の恰好。そしてその日は……」
「三田恵子?」
久留米が越谷からその名前を聞かされたのは、貨物側線での戦闘のから一日がたったころだった。
「ああ。なんだか、不審な点があったらしい」
三田恵子、若い女性運転手。久留米は頭の中で二つの事柄がつながりそうになるのを感じて胸が膨らんだ。
だが、焦らない。
「事のあらましを、聞いてもよろしいですか?」
逸る気持ちを抑えて、頭を一度空にしてから越谷に聞いた。
越谷は、鷹揚に頷いた。
「ああ、もちろんだ」
環状線の港湾区間に、まるで枝毛の様に延びている路線がある。それぞれ黒井線と灰原線という。
この区間は発鉄成立以前から民間会社「尾羽臨海鉄道」によって軍から管理委託されていた区間だ。
尾羽臨海鉄道(以後、尾羽臨鉄)は「タツイ運輸」という満州及び北海道・樺太を中心に活動する財閥の系列である。
歴史的経緯から陸軍などと結びつきが強く、軍部からの信頼も厚かった。
昭和45年3月、当該線区は発鉄に運営が移管された。だが、一部業務は未だ尾羽臨鉄が行っている。
その業務のひとつこそが、この日、大宮と三田が行っていた業務である。
さて、そこに倉庫から黒井駅に延びた専用線がある。その専用線から、貨車が尾羽臨鉄の運転でやってきた。このように尾羽周辺の貨物を発鉄で輸送する場合、まず工場や倉庫は尾羽臨鉄に連絡を取り、発鉄の線路まで引き出してもらうのだ。
そうやってやってきた貨車をつなぎ合わせて一つの列車にする作業は、発鉄の管轄である。
使用する電車は路面電車用の5000系。本来ならば機関車で行うべき作業だが、たまたまそこに居た電車で代用することはよく行われていることで、おかしなことではなかった。
大宮は運転室から尾羽臨鉄の社員へ敬礼を送る。現場での両者の関係は良好で、尾羽臨鉄の作業員も警笛と手振りで応えてくれた。
さて、連結である。貨車の状態を確認して安全を確保してから連結を行う訳であるが、その役目は三田が自ら買って出た。
こういう身体を使う作業を、年長者の女性にやらせるのは、大宮としては気が引けたわけだが、しかし先輩の言うことであるので、それに従った。
大宮は運転席で三田の合図を待つ。
しかし、これがなかなか来ない。おかしい。もしや何か異常でもあったか。
例えば、ブレーキ管が損傷を起こしている。
ブレーキ管は空気で満たされている。この気圧が一定以上になることによって、ブレーキが
反対にブレーキ管内の気圧が低くなればブレーキがかかる。
これを、自動ブレーキと呼ぶ。もし、ブレーキ管に損傷などの異常があれば、気圧が低まり自動でブレーキがかかるからだ。
故に、もしもブレーキ管に損傷があるままに運転を行えば、全開ブレーキがかかった状態の貨車を無理やり引きずることになり、それこそ車両が全壊しかねない……。
例えば、先日久留米が撃ち抜いたのもこのブレーキ管である。あの時も管から圧縮空気が漏れ出し、列車に最大ブレーキがかかり、停車したのである。この時、もし機関士がそれに気が付かず加速を続けようとしていたら、ブレーキが壊れて暴走したり、過大な負荷を受けたモーターが発火したりの被害が出ていたであろう。
今回、同様の事例が発生しようとしていた可能性がある。
冗談ではなく危険なことであるので、大宮は最大限危険を回避でき得る手立てを取ろうと考えた。そのためにはまず三田と話をつけなければならない。
「三田さーん、何かありましたか?」
呼びかけるが、返事がない。
大宮は放っておこうかとも思ったが、そういうわけにもいかない。返事がないということは、三田に何かあったかもしれないからだ。
この時期のこの周辺は物騒である。三田ほどの美人であれば、何をされてもおかしくない。特に、あの奔放で少々あけすけな性格を知らないアカの他人であればなおさらである。
二重の意味で嫌な予感が胸をよぎった大宮は、列車を降りる決意を固めた。
この時、電車はパンタグラフを上げて通電した状態で、要するに「生きている」状態である。更に、電車は運転待機状態にある。このような状態の時の電車を突発的に無人にすることは推奨されない。だが、そうもいっていられない。
仕方がないので、電車を一時留置状態にして電車を離れる。具体的には手ブレーキを動作させ手羽止めを電車にはめる等の転動防止措置をとって、それから電車を降りる。一応確認を二重に行った。
最後にブレーキの空気圧を確認する。よくあるのが、無人状態の時にブレーキ管の空気圧が自然に変化して列車が自然に動き出す“転動”という事態である。大宮は、電車が通電している状態であれば、ブレーキを制御する機器が作動している状態を保てるため問題ないと判断した。
念のためもう一度車輪に手羽止めが扱われていることを確認する。この間にも、三田が戻ってくる気配はない。大宮はますます心配になった。
電車の後ろには、数十両の貨車があった。その横を小走りに駆ける。そして連結面に差し掛かる都度、連結の状態を確かめた。その他にも何か異常がないか確認して回った。
そうやって走っていくと、貨車の奥でなにやらごそごそと作業をする三田が見えた。大宮はホッとした。と、同時に何をやっているのか怪訝に思う。
大宮は後ろから三田に声をかけた。
「三田さん、どうかしましたか?」
すると、三田は飛び上がりそうなほどに驚いて振り向いた。
「キャッ! 大宮君か、びっくりさせないでよ」
その時、三田は何かを制服のポケットに突っ込んだ。
「三田さん、何かありましたか?」
「大丈夫よ。ちょっと気になったことがあったけど、何もなかったわ。って、電車降りちゃだめじゃない!」
大宮は怒られてしまった。だが、ちょっと不思議だった。
「大丈夫ですよ。電源は生きてるしCPは正常だし手羽止めもはめました。転動の可能性はまあ、ないですよ」
「え、ええ。そうよね」
それを指摘されると、三田は尻切れトンボの勢いになった。大宮は、自分の中で疑念が育っていくのを感じる。
「そんなことより、確認は大丈夫ですか?」
「え? ええ。大丈夫よ」
そして、三田はこう話している間もどうも落ち着かない。
冷や汗をかいているような、顔が青ざめているような、尋常ではない雰囲気を感じる。
「三田さん、大丈夫ですか?」
熱でもあるのだろうか。大宮が顔を近づける。
首筋が汗でじっとりと濡れているのが分かる。春とはいえこの寒い季節にだ。
「ちょ、ちょっと大宮君!」
三田は顔を赤らめる。そして大宮の胸板に手を当てて大宮を引きはがしながら、顔をそらした。
「そんなに近づかれたら、好きになっちゃうわ」
三田は微笑みを浮かべながら片目を瞑った。あんまりに唐突で、そしてあんまりにも蠱惑的であったそれは、大宮の注意を吹き飛ばすには劇的に効果があった。
「んなっ!?」
あたふたあたふた……。
手をバタバタさせて慌てる大宮に、三田は背伸びをして頭を撫でた。
「ごめんね、からかいすぎたね」
「あ、いえ……」
また遊ばれた……。大宮がそんな表情をしていると、三田は大宮の耳元に口を近づけた。
「でも、嘘じゃないよ」
大宮は、魂の奥深くから上ってくる感情を処理しきれずに地団駄を踏んだ。
「まあ、大宮君の色恋話は置いておくとして、冷静に考えてみれば三田君がおかしいわけだ」
大宮も揶揄われた一瞬こそ動揺したものの、やはりその異常さが胸に残ったままであったようだ。
そもそも、三田は少々特殊な気性の女性ではあったが、このように挙動不審な態度を取る人物ではなかったのである。
体調が悪いのか、それとも何か言えない事情があるのか……。大宮はひどく心配して越谷に相談したわけだ。
越谷はこの話を桐谷と、運転課長の楠木、そして運転主任の近平に照会した。すると、三人とも異口同音に同じことを言った。
「最近の三田はおかしい」
越谷は三人に口止めと三田への不干渉をお願いし、さらに聞き込みをつづけた。
いつもの現場巡礼では、彼女に関わりのある部署の数人が彼女の挙動不審さに触れた。特に、直接かかわりのある尾羽運輸区長や南尾羽区長等が同様の証言をした。
また、一部の現業も構内で不思議な行動をする“女性社員”をよく目撃したという。
特に南尾羽駅では、軍鉄道時代にに女性駅員との人身事故が発生していたことから、その亡霊が彷徨っている……。という噂まで流れ出した次第であった。
久留米は一連の話を聞いて、疑念がほぼ確信に変わったような顔をした。
「運転課の三田さん、ですか。何か情報はおありですか?」
情報、とは、出退勤の記録や履歴書、勤務評価などである。
「ああ、すまん。何も用意していない。私から人事課に掛け合っておくかい?」
「いえ、それには及びません。あとで自分でやります。しかし……」
久留米は少し考えた後でこう言った。
「どうします? “処分”しますか。それとも、泳がせますか」
越谷は、しょぼんとした顔になった。
「出来れば、話を聞きたい。彼らは、彼女は私の社員なんだ」
「しかし、裏切者かもしれません」
「で、あってもだ。彼らがもし手の者であったとしても、それ以前に私の部下なんだ。双である以上、私は彼女を見捨てたくない」
英雄越谷が肩を落とした姿を見て、久留米は意外そうに言った。
「不思議です。貴方の友人を、貴方の“家族”を殺した者の仲間であるかもしれないのに」
「ああ、そうかもな。だが、それでも、だよ」
うなだれながらも、決意の籠った眼を見て、久留米は渋々ながら了承をした。
だがそれでも、久留米にはわからなかった。
「で、どうするんですか?」
人事部からもらってきた資料とにらめっこをしている久留米に、日田井がコーヒーを淹れながら話しかけた。
「そうねえ……。役所から取り寄せた戸籍やなんかとも照合しても、別に変なところはないわ。特に偽造してあるわけでもないし……。家族に関してはまた今度調査するとしても、資料上彼女におかしなところは見つけられないわね」
「となると……」
「考えられるのは、オトコ絡み」
久留米は出されたコーヒーをずるずると啜った。
「オトコ、ですか」
「ええ。虫唾が走るわ」
コーヒーカップを持つ手に力がこもる。日田井はその殺気に寒気がする思いがした。
「ごめんなさいね。でも、この件は私が片付けたい。もし……」
久留米は、コーヒーを一気に胃に流し込んだ。
「もし私の想像通りなら、本当に許しがたいわ。だから、慎重に行動するわよ」
「具体定には?」
日田井が問う。久留米は一瞬考えて、すぐに答えを出した。
「直接本人に会ってみましょう」
自動空気ブレーキ
いわゆる基礎ブレーキであり、現在の日本ではほぼすべての鉄道車両に使用されている。
通常のブレーキでは、ブレーキを指示する空気圧力が減少するとブレーキ力自体も減少するが、このブレーキで逆となる。このブレーキでは常にブレーキ管が加圧されており、それが減圧することによっててこを動作させブレーキを作動させる。
この構造がフェイルセーフであるため、旧態化した昨今でも必ず採用されるに至った。
このブレーキに使用するブレーキ管はBP管(ブレーキ指令)とMP管(元空気ダメ増圧)である。
電磁直通ブレーキ
応答性の低い自動空気ブレーキを補うために開発されたブレーキ。
SAP管を引きとおし、加圧することによってブレーキをかける。
フェイルセーフのため、自動空気ブレーキと併用されることが多い。
国鉄においては90系(初代)から採用が本格化した。