国府津機関区、とある機関士の手記
寒空の朝に、気持ちのいい声が透る。
「おはようございます! いってらっしゃいませ!」
ここは尾羽駅改札口。声の主は駅員の綱島太郎だった。
急遽始まった発鉄声出し挨拶運動。この少々喧騒に過ぎる声出しも、その一環だった。
乗客を見送った綱島は、踵を返して便所清掃へと向かう。
すべての始まりは便所から。これが越谷の師、十合元長官・元復興特別総局長の教えである。
十合元長官は、全国のありとあらゆる国鉄駅の便所を巡り、その清潔さ、整備の行き届き方でその駅、その管理局の現場の状況を把握していたという。
そして万が一掃除が不十分であろうものなら、容赦のない雷が責任者に直撃することとなる。
むろん、それが原因でクビが落ちることはない。改善のためには、責任者の首はつながっていなければならない。それも十合イズムであった。
越谷も、十合イズムの影響を古くから受けている。
全ての始まりは便所から。それは、越谷の教訓でもあった。
そんな越谷は、他人を叱責することが大の苦手である。どちらかと言えば、やさしく説き伏せるような、そんな人間性の持ち主だ。
そして、偉そうに誰かにあれこれ言うよりも、自分から行動する方が好きだ。
であるから、今まさにこの尾羽駅の便所で、越谷自らモップとバケツと雑巾を手に掃除を始めているのである。
「よいしょっと。洗面器の汚れは心の乱れ~」
どこかで聞いたそんな文句を口走りながら、せっせこせっせこ雑巾で吹き始める。
「ああ、社長! だめですよ!」
悲鳴のような声を上げて、綱島君がやってくる。下っ端の仕事をトップに代わられたとあっては、下っ端の名が泣く。
「おお、綱島君だね。だいぶきちんとしているじゃないか。だが、少し甘いかな」
「すみません! 今すぐやります!」
「はは、まあいいさ。がんばってくれ」
越谷にとって、現場の見回りはある種の日課になっていた。
越谷は、二枚あるうちの一枚を綱島に渡し、なおも掃除を続けた。
「えっと、社長?」
「まあまあ、一緒にやろうじゃないか。一緒にやった方が早く終わるだろう」
ニカっと笑いながらそんなことを言われてしまったら、もうどうしようもない。綱島は雑巾を受け取ると、今までにないぐらいの速度と正確さをもって掃除を始めた。
「おお! いいねえ。若さを感じるよ。どれ、私も」
越谷もまるで競うかのように雑巾を掛けていく。雑巾の次はモップ掛け。洗剤を撒いて、水をかけて、ゴシゴシゴシゴシ……。
越谷は上機嫌に鼻歌を歌っているが、綱島にとっては気が気ではない。
胃が縮みあがるような作業の末、なんとか掃除を終わらせた時には、綱島は疲弊しきっていた。
「うむ。やはり、全ての始まりは便所から、だな。とてもきれいでいいじゃないか。ご苦労様」
それだけ言い残して越谷はとっととよそへ行ってしまった。
綱島は、へなへなとその場に崩れ落ちた。
「はい、お待ちどう様でした南港行です~」
大宮ははきはきとした声でがらんどうの車内に呼びかける。乗客は越谷ただひとりだ。
列車は以前の6両編成から2両編成に短縮され、代わりに本数は2倍に増えた。
この電車は尾羽駅前駅を9時36分に出発する南港行である。
その前の電車は以前なら30分発の山本行であったが、現在においては35分発の環状線内回り行だ。これは尾羽駅前駅から出発して環状線内回りに乗り入れ、その後また尾羽駅前駅に戻ってくる列車である。
運転台の方向が一周を通じて変わらないため、運転台付きの車両(制御車)が片側にしかついていない編成で運用される。
最後尾の貫通路は南京錠で施錠されていて、乗客が落ちないように配慮されているほか、最後尾であることを示す反射板も取り付けられていた。
36分。電車が発車する。そして、先行するその不格好な電車を見つめながら、ゆっくりと電車は走っていく。
「相変わらず、駄目か」
前の電車も、この電車も、2両程度の短い編成であるにも関わらず、やはり乗客の姿は見えなかった。
「ええ。ですが、乗ってくれた人の評判はいいですよ。また乗りたい、と何人か言ってくれましたし、定期的に乗ってくれる人も増えました」
挨拶運動のおかげですよ、と大宮は言う。
「挨拶運動が受け入れられたようでよかった。本当は、君たちに反抗されるのではないかと思っていたんだ」
そう言うと、大宮は笑った。
「確かに、命令したのが幸谷さんだったら、我々も少しは反抗したと思いますよ。でも、越谷さんと桐谷さんの言い出しとあらば、反対する理由はありませんよ」
「それはうれしいことだが、なぜだい?」
「当たり前ですよ。桐谷さんは、重役会議に出れない我々の代わりに、我々の意見を伝えてくれる。社長は、社長なのにわざわざ現場まで出てきて、きちんと俺たちのことを見てくれる。それがうれしいんです。だから、手伝ってくれと言われれば手伝いますよ」
越谷は、ホッと胸をなでおろした。自分のやってきたやりかたは間違っていない、そう言われた気がした。
現場を見て回って現業の声を聞く、というのは十合が無職浪人時代から続けていたことだった。
現場はどんな苦労があるのか、どんな喜びがあるのか、何を考えて、どういう論理を持っているのか。それを知ることが運営の一丁目一番地であると、固く信じて疑っていない。
からこそ、他者から見てそれが評価されているかどうか、というのは怖いところがあった。
途中の停車駅で、何人かの旅客が乗車してきた。二人は顔を見合わせてうなづきあうと、口をつぐんだ。
「前方よし、閉塞よし」
大宮は丁寧な口調で信号を確認しつつ、ハンドルをさばく。運転に詳しくない越谷でも、素晴らしいと思える運転だった。
しばらくしたところで、終点の南港に着いた。乗客はまばら。以前と比べて少しは乗客が増えたのではないかな、と越谷は希望的に見る。が、大宮の顔を見ると、そこまででもなさそうだ。
終点に着いた。
いつもなら扉を開けておしまい、であるが、大宮は席を立ってくるりと後ろを向き、数少ない乗客に頭を下げた。
「ご乗車、ありがとうございました」
数人の乗客が降りていく。そのたびに、頭を下げる。
そのうちの一人は、驚いたことに、PTAで出会った華僑系の親父だった。運転台後ろの料金箱に親父が運賃を入れたときに、相手の方がそれに気が付いた。
「アラ、大宮さんと越谷さんネ。仕事?」
「ええ。この間はどうも」
この親父は本当に乗りに来てくれたらしい。二人ともうれしくって、つい破顔してしまう。
「頑張ってるネ。乗ったけど、よっぽど便利ヨ。文句言うとこ無いネ」
「ありがとうございます。ご満足いただけてなによりです」
「色々言うアホいるけど、気にしちゃ駄目! 電車増えてこの前までより便利になったヨ、頑張って!」
「はい。有法子の精神で頑張ります」
そう言うと、親父は目の色を変えた。
「
笑いながら越谷の肩をバンバンと叩いてくる。越谷は、なんだか満州時代や革命戦争時代に、親しくしてくれた民国の人々を思い出してしまった。
「有法子なんてどこで教わったノ。日本人でしょアンタ」
「実は、華北に居たことがあります。総統にもお会いしたことがあり、この言葉は民国の友人から教えてもらいました。それに戦時は華南で従軍していました」
そういうと、親父はびっくりした顔を見せた。
「あんらあ、じゃあアンタたちは同胞も同じネ! こんどウチに来るといいよ、サービスするヨ」
「王さんのところのチャーハンは絶品なんですよ!」
大宮が目を輝かせる。親父は豪快に笑った。
「大宮くんもいつでも来るといいネ! 越谷さんも、みんな仲間ネ!」
仲間にも、発鉄電車に乗るように言っておくヨ!
よく響く大きな声でそう叫びながら、親父は電車を降りて行った。
「越谷さん、そういえば最初に名を挙げたのは民国戦線なんでしたっけ?」
「ああ。民国防衛戦線の最前線にいた。民国人を見ると、他人事には思えないんだ」
あの時の労苦は無駄じゃない。そんな風に言われている気がして、越谷はますます自信を深めた。
「さて、ここでは数十分の停車だったね。いいよ、缶ジュースの一杯でもおごるよ……」
二人は、上機嫌なまま電車を降りた。
二人は凍てついた海を見ながら、ベンチに腰かけていた。目線の先では、海に降りて氷上遊戯にふける若者と、殺気立った態度でそれを捕まえんとしている当局の姿があった。
最初は当局側をおちょくっていた若者だったが、当局が空に向けて小銃を一連射すると、途端に静かになった。そのまま、まるで囚人の様にとぼとぼと歩き出し、めでたく詰所に吸い込まれていった。
「平和ですねえ」
大宮は呟く。越谷は、平和の定義がすっかりわからなくなってしまった。
「さて、今日も大宮君にこれを聞きたい。現場で今、何か困っていることはあるかね」
すると、大宮は珍しく待ってましたとばかりに話し始めた。
「ひとつ、あります。それは、仕事量が増えたということです」
越谷は、胸に鋭く痛みが走る。
「続けてくれ」
「列車の本数が倍増しました。ですので、必要な乗務員の数も倍増しました。今は、余裕時間やなんかを切り詰めて何とかしている状態です」
越谷は苦虫を噛みつぶしたような顔になる。
「……やはり、か」
越谷が増便案を渋る幸谷や桐谷に対して、知っていながら黙してたこと。それは、必要な人員の増加であった。
必要な人員が増加する。しかし、すぐに人員は補充されない。すると、どうなるか。
休憩時間や非番を削って、一人当たりの担当量を増やすことでしか対応できない。
現場に確実にしわ寄せがきている。本来なら、越谷は何としてでも阻止したかったことである。
「ええ。態度改善運動も相まって、少し余裕のなさが際立っているように思います。どうにかなりませんか」
「策はある。……が」
越谷の頭の中には、長年培ってきた経験から生まれ出る様々な施策がある。だが、それを行使すべきか、今まさに迷っているところだった。
「策の一つに、毎日柔軟にダイヤを変えていく、ということがある。環状線なんかは、ダイヤが乱れやすくて乗客がダイヤ感を持ちにくい。そういった路線において、例えば車両や乗務員が確保できない日は一部列車を運休していく、などの手段もある。又は、後方勤務の連中の中で鉄道免許を持っている連中を現場に回す、などの手段もある」
「……それは、実現するんですか?」
「厳しい」
越谷の表情がゆがむ。
これは、越谷にも経験があったことだ。
帝都復興に伴う中央線の大増発の時も、同じ問題が噴出した。あの時は、越谷に信頼があったこと、もともと越谷が現場出身であったこともあり、現場からは受け入れられた。が、事故が起きてしまった。
第一次・第二次お茶の水事故を筆頭とする、関東の鉄道
発鉄でも、同じことが起きるのではないか。越谷には不安がある。
「まあでも、しばらく頑張りますよ」
大宮はあっけらかんとした顔で言う。
「要は、社長がそのことを考えてるか考えていないか、ですよ。社長が悩んでくれているのはわかりましたから、もう少しこちらでも頑張ってみますよ」
「まったくもって申し訳ない。もし、状況が破綻すれば、現場判断で運休を作ってくれても構わない。桐谷君にそう通達しておくよ」
「わかりました。……社長、優先すべきはダイヤではなく、安全ですね?」
「ああ、そうだ。だが、挨拶運動や清掃運動などは続けて欲しい……。あれは安全の根幹にかかわるんだ……」
「社長が言うなら、そうします。我々もがんばりますから、社長も頑張ってください」
「ありがとう、ありがとう」
本当にいい部下を持った。越谷は鼻頭を赤くして、今にも泣きそうな顔だ。大宮はそれを見て更に笑った。泣かないでくださいや、社長。その優しい言葉が、更に嬉しかった。
ひとしきり感動した後で、ようやく越谷は平静を取り戻した。
「ほかに、何かあるかね」
越谷が促すと、大宮は少し考えた末にこんなことを言い出した。
「ちょっと違う話なんですが、最近三田さんの様子が変なんです」
尾羽駅前駅
尾羽駅前広場に存在する電停駅。
当初は欧米式に尾羽駅と連続した電停にする予定だったが、日本の改札方式の関係で断念された。
電停は構内で一周しており、いわゆるループ線になっている。
路面電車の終点としては決して珍しくない構造ではあるが、長編成を擁する列車の終端駅としては珍しい構造と言える。
なお、当駅構内で北鉄線。発鉄普通鉄道線と接続している。