何に気を付ければいいのかが不明な看板
昭和43年 樺太庁佐保市 駅前啓発運動
「首尾はどうかね。久留米君」
越谷は社長席から暗闇に向かって話しかけた。
「芳しくありません」
物陰からにわかに久留米が現れた。越谷はさして驚くそぶりも見せず、話をつづけた。
「とりあえず説明を聞きたい」
「了解しました。では」
久留米は隣の席、つまりいつもは幸谷の席であるところに腰掛けた。
「先日の脱線事件以来、敵は目に見える動きをしていません。ですので、しっぽさえもつかめていない状況です」
「にらみ合いということか」
「ええ。しかし、長期戦にはならないでしょう」
まるで矛盾した結論を告げられ、越谷は少し混乱する。
「なぜだい?」
「尾羽において、敵が最も活動しやすい時期は冬だからです」
「冬が?」
越谷は少し意味が分からない。そんな越谷に久留米が丁寧に説明してくれた。
「冬の尾羽は雪に包まれます。一部業種などは冬季の操業が困難で、冬季は営業を取りやめる工場、倉庫などが存在します。すると、その空き倉庫・空き工場はいいアジトにできます」
「……そうか、倉庫が話題に上ることが多いのは、そう言う訳か。では、夏になると?」
「ダミー企業でも用意していない限り、発見されて追い出されるでしょうね。ダミー企業を用意していたとしても、樺太の同業なんてほとんどが顔見知りですから、不審がられて通報されるのがオチでしょう」
「なるほど。冬が主たる活動時期とは、ソ連人らしいな」
まるで冬将軍だ、と越谷はつぶやいた。
「しかし、なぜ奴らは尾羽を根城にするんだ? 別に北海道でもいいだろうに」
「理由はいろいろあります。例えば、流氷伝いに歩いてこれる中で最も警戒の薄い場所である、というのも一つです。しかし、理由はそれだけではありません」
「なんだね?」
「……社長。そこに防災ロッカーがありますよね。開けてみてください」
防災
形状は、普通の、仕事場によくあるような細長いロッカーだ。暗証番号式のようで、番号は0000のままだ。
ノブに手をかける。力を籠めると、暗証番号は設定されてないようで普通に開くようだった。
「おっと、その前に。何が入っていると思います?」
久留米がロッカーのノブにかけた越谷の手をそっと握り、挑戦的な笑みを浮かべる。
そう言われても……。越谷は困惑する。
「防災……? 除雪器具でも入っているのかね」
防災、つまり災害を防ぐ、災害時に損害をより軽微にする。
では、尾羽における災害とは? こんな辺境の地で地震は起きないだろうから、地理的要因を加味したうえで「雪害」と捉えるのが妥当であろう。
であれば、除雪用の排雪具など。その他で事故や火災対応に向けての消火器や担架が入っていそうなものだが、そこまで大きなものは入っていそうにない。せいぜい入っていて簡易担架や救急箱だろう。と、越谷は論理的に考えるわけである。
そんな越谷を、久留米は目線で笑う。
「さぁ、どうでしょう。どうぞ」
目線で促されてロッカーを開ける。瞬間、越谷は腰を抜かしそうになった。
「なんだこれは!」
ロッカーから転がり出てきたのは、無骨に黒光りする黒鉄の得物。越谷にとっては、ある意味で見慣れていて、ある意味では見慣れていないものだった。
「しょ、小銃じゃないか! それに弾薬まで!」
小銃。紛れもなく軍用の、低コストに敵を薙ぎ払うことに特化された銃である。
越谷は小銃を持ち上げる。現役の時とはまるで構成が変わっているが、それでもわかるものはわかる。これはセミオートの小銃で、近代的で凶悪なものだ。越谷は身震いを覚える。
「
「サンパチ? サンパチだって? 嘘つけ、こんな近代的で、しかもセミオートなものがサンパチであってたまるか!」
こんなサンパチがあれば民国戦線で苦労することはなかった……。いやいやそうじゃない。なぜこんな火力の高そうな銃がここにあるのか。
「ああいえ、明治三八式歩兵銃ではなく、これは昭和38式小銃です。正式名称は清洲工業M38カービン……。正式愛称は清洲カービンです。樺太庁警察制式小銃です」
「庁警制式だって? なんでこんなものが鉄道会社にあるんだ!」
ちがう、だからそんなことを聞きたいんじゃない。これが明治三八年式か、昭和38年式かは関係ない。なぜここに、この場所にこれがあるか、が最大の問題だ。
「鉄道会社だけじゃありません。樺太、特にこの尾羽にはこの防災ロッカーがいたるところにあります」
あってたまるか。喉奥からはじけ出そうな悲鳴のような叫びを必死で食い止める。
「法的根拠は?」
喉から変な音を出しながら、かろうじて絞り出した。つっけんどんな言い方に聞こえるそれは、越谷の混乱の表れだ。
それに対し、久留米はまるで当然のことを当たり前に話すように、淡々としている。
「一応、猟銃名目での配備です。まあ、樺太に熊は出ませんが」
「熊狩りに小銃はいらんだろう! なぜそこまでして配備しているんだ?」
「自己防衛ですよ。有事の際、どれだけ強大な敵が攻めてくるかわからない。しかし、敵がどれほど精強であろうとも、市街戦においては市民の方に分があります」
「……市民も戦わせるのか」
「樺太では、それが市民の権利なんです。社長だってご存知でしょう。敵は市民だとか戦闘員だとか関係なく、まるで地を均すかのように殺戮を行う。であれば、たとえ大義名分を敵に渡してでも一矢報い防衛への希望をつなぎたい。尾羽はそう言う街です」
市民が武装している。それは、敵が市民を滅ぼしつくすことへの口実になる。
国際的な慣習では、市民は攻撃の対象としてはいけない。だから、市民も攻撃に参加してはならない。万が一、市民が攻撃に参加すれば、その瞬間から市民は軍人とみなされ攻撃の対象となる……。
このタテマエは我が国も使用したし、利用されもした。徴兵制への慎重論が時たま噴出するのはこのあたりを理由とすることも多いし、軍が戦時においても市民に対して自発的な行動を避けるように呼び掛けるのも、敵に市民攻撃の口実を作らせないためである。
だが、樺太人は知っている。今や敵はそんなことを気にしないと。
世界が二極化した今、正義なんてものは机上の空論に過ぎない。
バランス・オブ・パワーは、三勢力による「すくみ」の存在があったからこそ可能であったのである。今この世界には明確な敵か味方か、それしか存在しない。
正義をジャッジし、なおかつ第三者の立場から悪を罰するような勢力は、既に存在しないのである。
「なんとなく言いたいことはわかるよ。これは東京人には絶対に理解できない心情だと思う。どちらかというと、米国人なんかの方が理解してくれそうだね」
「まさしく、米国市民の理論です。残念なことに、樺太人の危機感の前に、日本的な性善説は意味をなさないでしょう」
「当然。性善説はドメスティックだからこそ成り立つのだ」
突然越谷から横文字が飛び出してきたので、久留米は目を丸くした。
「なに、私だって英語ぐらい話せるさ。そのほかにも、中国語や独逸語だって話せるんだぞ」
「失礼、意外でした」
久留米がそう言うと、越谷は破顔した。率直な物言いがあまりにも可笑しかったのだ。
「まあ、今の立場にあっては特に意味はないさ。とにかく現状は把握した。つまり、日常的に銃器が転がっているから、工作員が兵器を忍び込ませるには都合がいいということだな?」
「ええ。その通りです」
「なんてこった。樺太はいつの間にこんな風になってしまったのか」
思い出にある場所とはあまりにも違う。越谷はそう漏らした。
「変わりましたよ。人も、技術も、情勢も。もう樺太は、長閑な湿原地帯ではなく、静かなる火薬庫となりました。地中には石油と石炭が埋まっていて、地上には導火線があります」
困難なのは、わかっていた。しかし、ここまで困難だとは。育ちの故郷だからと甘く見ていた自分を、いまさらながらに反省した。
そしてなんだか急に、ここが自分の故郷ではないような気がしてきた。
「この、庁民武装状態を作り出したのは、宇佐美さんを筆頭とする昭和30年代入庁組、つまり復讐組です」
「復讐組?」
「ええ。正確には昭和28年度から昭和30年代を抜けて昭和40年度入庁までの世代を、復讐世代、その中でも昭和28年度入庁から昭和35年度入庁までの世代の中で樺太出身者を復讐組と言うんです。彼らは樺太庁独自の防衛計画を策定したり、地方自治をいいことにやりたい放題ですよ。私兵を擁している、なんて話が出てくるぐらいです」
「確か宇佐美君は……」
「昭和28年度入庁のエリート組ですね。復讐組のリーダー格にあたるグループです。復讐組の中では上下や出世コースの差異に関わらず、より強固な防衛案を提示できるものが評価されます。その中で一定の地位を保っている宇佐美さんは、なんというか、軍としても一目置かざるを得ない存在です」
1953年、すなわち昭和28年終戦まで。それは日本において近代史上初めての事態が起こった時代でもあった。
敵が本土に侵攻してくる。ずかずかと土足で踏み込んだ挙句に、市民を虐殺して回る。樺太人は未だにこのことを乗り越えられていない。
昭和28年は、樺太解放の年である。長い長い対ソ戦争の果てに、ようやく解放された
もう二度と敵にこの土を踏ませないように。そう立ち上がったのが、「復讐組」と呼ばれるグループである。
「日本の脆弱な国力で樺太防衛が成り立つのは、明らかに樺太庁の施策によるところが大きいです。陸海軍は樺太内において、庁に対してそこまで強くは出る事が出来ません」
おかげで、ソ連は通常戦力による樺太侵攻を諦めているフシさえあります。と、久留米は付け加えた。
「ですから、樺太の中心はやはり、諜報戦です。諜報による樺太の脆弱化によってしか、ソ連は樺太の侵攻を行うことができないのでしょう」
「では、諜報戦はこれから拡大の一途か」
「そう考えるのが妥当かと」
越谷は頭が痛くなる思いだ。
樺太での諜報戦は、そのまま武力行使へと直結する。
反政府勢力を使用した抗争や破壊工作には事欠かず、またそれを阻止しようとする当局との武力衝突も発生する。
諜報戦の拡大は、樺太においてはそのまま治安の悪化に繋がるのである。
「いい旅計画認可における三要件のうち、第一項目は尾羽の治安回復だ。どうだ、この際どこかひとつ大き目の拠点を潰せないか?」
「と、言いますと?」
「尾羽の治安回復は、公的な数字によっては証明しづらい。であれば、ここはアピール合戦になる。どこか一つ拠点を潰す事が出来れば、尾羽の治安回復という問題に関してのアピールになる」
尾羽の治安が悪い、という根拠のある数字はない。なぜなら、諜報抗争においてはその殆どが国防機密に該当する為、正確な数字は公表できないのである。
公的に使用が不可能な数字は、つまり存在しないことと同じである。
これは不利にも有利にも働く。
国鉄側も尾羽の実情を数字と言う動かぬものさしで計ることはできない。つまりこれは印象論に帰結する。
尾羽で何か事件が起きれば印象は悪くなるし、何かが解決したと報じられれば印象は良くなる。
それを活用しようという提案である。
「……現場の戦闘員としては、あまり首肯したくないですね。その理論は」
しかし、ここで久留米はすぐに受け入れることをためらった。政治的都合による諜報計画の変更は、時に大きな破綻をもたらす。
現場の最前線に立つ久留米としては、受け入れがたい。
今から無理にどこか潰せ、と言っているのではない。だが、ここはひとつこちらの話を聞いてほしいんだ。越谷はそう前置きした上で、久留米に要求を突き付けた。
「もし次に、公表可能な工作員対処行動があれば、できるだけ大きくドンパチしてもらいたい。全国紙の社会面に豆記事が出る程度の」
「……善処しますが、しかし私はウエからあまり暴れぬようにと言われている身でして」
久留米は、苦しい。本来ならば言われるまでもなく、思いっきり暴れたい。だが、今でさえ抑えられている状況で、これ以上暴れることは難しい……。
珍しく自制的な久留米に、越谷は焚き付けるように言う。
「頼む。君だって暴れ倒したいだろう。次尾羽で作戦があった時、新聞に載るような大事件を起こしてくれるだけでいいんだ」
「……。検討します」
これ以上、怒られたくない。久留米は言外にそう付け加えながら黙った。
「期待しているよ」
越谷も、それ以上は求めなかった。
(明治)三八式歩兵銃
明治38年から昭和18年ごろまで製造された、一般的な歩兵銃。38年式
簡便で当時としては優秀な設計であるものの、ボトルアクション銃の限界が露呈した銃でもあった。
現在では退役が進んでいるものの、払い下げ品や流出品などが一部で確認されており、相当数が使用されている可能性がある。
昭和38式小銃
昭和38年ごろから製造が開始された警察用セミフルオート小銃。
正式名称清州工業M38カービン。
軍用カービンを警察用に修正したものである。
弾倉は5発型。
軍用カービンなどと共通化が図られており、火力増強が簡便である。
樺太防衛建白書(北方談談社出版 昭和43年 白石トオル)