近衛日記(昭和43年出版)より引用 対米戦線開戦に対する山本五十六の発言とされる。昭和45年4月22日現在において詳細は不明。
「覚悟はしていたが、ここまでとは……」
改めてみる数字に、越谷は軽く眩暈を覚える。
「市長から呼び出されたそうですが、市長はなんと?」
「なんとかしてくれ、の一言だった」
そういうと幸谷も目頭を押さえるしぐさを取った。市長から何か指示なりがあったのであればまだ動きやすいが、それもなければ自由に動ける代わりに面倒くさいことになる。
「なんとかしてくれ」の言葉が、それを余計に面倒くさくさせる。宇佐美はめまいがする思いだった。
「しかし、これほどとはね」
改めて、目の前にある数字を見る。
工業線、新羽線、北尾羽線と、普通鉄道線は上々の運賃収入があることを指し示していた。
問題はその下の市街軌道線、つまり路面電車線である環状線、南港線、山本・温泉線である。
ずらりと並ぶ明らかにケタが少ない数字は、損益分岐点よりもはるかに低いものだった。
「軌道線のなかでも工場街へ行く黒井線や灰原線はまだマシだな。こちらは微かにではあるがきちんと分岐点よりも上だ。問題は、一番の稼ぎ頭だった環状線と南港線、そして山本線だよ。なんだこれは」
環状線は市の中心部をぐるりと回る路線。そして南港線は旧市街地と新市街地、そして街の少し外れにある尾羽駅とを結ぶ主要路線だった。
山本線は軍の人間が多く住む山本地区と市街地を尾羽駅を経由せず直接結んでいる路線で、軍の保養地として扱われることもある尾羽温泉にも行ける路線である。
「運賃収入の傾向から見ると、工員のみが鉄道を利用しているということかね」
「さあ、それを含め、一切見当がつきません」
桐谷はそんな弱音を吐く。幸谷もこれにはなんの茶々も入れずに賛同した。
「もとは市内線は軍の管理の下に一部を工場勤務者に通勤の足として開放していたものです。その時の具体的な統計を軍は握っているはずなのですが、どうやら発鉄に移管するのが相当嫌だったらしく、具体的なものは一つも残っていません。ですので、最初一カ月の動向を見て諸々を判断しようということでやってきましたが、ここまで予想値と現実が食い違っているともうどうしようもありません。宇佐美君、樺太庁からは何か見解はないのかい?」
「樺太庁としても、ここまでの誤差は予想外です。新羽線と工業線の数値が予想より好況と言うことは我々の都市計画に狂いがあったわけでもない、ということなので、ますますわかりません。本来ならばすべてがうまくいくはずの状況です」
「しかし現実はうまくいっていないわけだ。尾羽市街は共同住宅やなんかも建っていて、万単位で人口が集中しています。山本地区だって軍関係者を中心にかなりの人口があります。どんなにこちらに非があったところで、乗車率が2割を切るだなんてあり得ないんですよ。そうじゃないですか、社長」
幸谷のうめき声にも似た論述を聴きながら、越谷は考えを巡らせていた。そして一つの結論にたどり着く。
「……習慣がないんじゃないか? 公共交通を使うという」
「どういうことですか?」
「これは聞いた話なんだが、どうやら尾羽の人間と言うのは徒歩で移動することにあまり抵抗がないらしい」
「ああ、それはそうですね。樺太の中でも交通機関が未発達な北部はそういった傾向があるようです」
宇佐美が自説を補強してくれたことに安心したことで、越谷の語気は強くなる。
「そこでだ尾羽の人たちは公共交通を使用する、という発想がないんじゃないか?」
「あり得ますね。なんてったって、バス路線さえまともに整備されてない街です」
幸谷が街の地図を開きながら言った。
「現在尾羽は三社局のバス会社が参入していますが、そのうち現在も運行されている路線は二路線です」
幸谷が地図に線を引いていく。バス路線を示す線だ。だが、越谷は幸谷の言葉に引っかかる。
「……どういうことだ?」
「二路線を三者共同で運行していますね。南尾羽駅から尾羽駅、尾羽市街を経由して北にある寒果村へ至る路線、それから尾羽駅から西へ進み隣の小湾村へ至る路線です」
言い終わると共に、地図に線を引き終わった。バスは都心部から早々に閑散区へ入り、目的地へ一直線に向かっていく。途中で街中を移動する需要を見込んでいるような経路には見えなかった。
「どちらも共同路線で、なおかつ市外へ至る路線か。当然尾羽市民は使用しないんだろう?」
「尾羽交通事業者
越谷にとって耳慣れない言葉がたくさん聴こえてくるが、とりあえず越谷は自分の認識は現実から近からずとも遠からずの位置にあるであろうとの認識をした。
「ということは本当に、尾羽市民は公共交通を使用するということを知らない?」
「現時点ではそう推測を立てるしかないと思いますが、久留米さんは不満ですか?」
「ええと、本当にそれだけなのかなって」
久留米は首を縦に振らなかった。この中で一番尾羽に詳しいのは宇佐美だが、この中で一番鋭い嗅覚を持っているのは久留米だ。久留米がうんと言わないこと、不安になる。
「その、尾羽市民が鉄道利用に対して慣れていないことを含めて、開業一カ月間はいろいろと安定しないであろう、というのが当初の予想でした。そして、一カ月たちました。当初の予想だと市民はもう慣れているはずです」
「それが、そうならなかった。違うか?」
「本当に、本当にそれが理由でしょうか。いくら鉄道利用に慣れていないといったって、市民のうち相当数が以前は本土に住んでいた人間です。尾羽生え抜きの人間は17歳以下の未成年だけです。学生や若者が使わない理由はわかりました。しかし、17歳以上、もっと言えば30代の奥様方が鉄道を利用しない理由にはならないわけです。本土の人間なら、少なくともこの街に来るまでの間に鉄道を利用しているはずです」
「鉄道を長距離移動手段としてとらえている場合は? それなら“ちょいとそこまで”に鉄道を利用しない言い訳は立つ。君の出身は稚内だったろう。稚内でもそうなんじゃないのか?」
「それはそうですが、それは私が市街に住んでいたからと、鉄道が市街と市外を結ぶように創られているからです。もし稚内の市街に市電があったら、私は使っていると思います」
久留米が言い切ると、誰もこれを論破できなかった。
先の見えない議論に、越谷が真っ先に音を上げた。
「さて……これはどうしたものかな。解決策がまるで思いつかない」
「本当ですね。これではどうしようもありません。当座のしのぎとして、金策に走るほかなさそうです」
幸谷がそう言うと、瀬戸の目の奥が不気味に光った。
「それはお任せを。最低でも半年は持たせて見せます」
「対米戦争か。縁起でもないな」
越谷はそう言って苦笑いした。
「ああ、しかし今日は帰れそうにないな。どうしたものか」
「社長、何かあったんですか?」
「実は今日、娘の学校で昼から保護者会があってね。それに出席しなきゃならなかったんだが、こんな状況で早退するわけにもいかん。学校には断りの電話をかけておこう。……もう時間もないな。今のうちに少し失礼するよ」
越谷がそう言って受話器を取った。すると、幸谷がその手をそっと押して受話器を戻させた。
「……ああ、悪かったよ。外で守衛さんの電話を借りてくる」
「ああいえ、違うんです」
てっきりこの場で電話を掛けることを咎められたと思った越谷は怪訝な顔をする。
「違うって、何が」
「社長、保護者会に行ってください」
幸谷はしごくまじめな顔でそう言った。
「どうしてまた」
「保護者会に参加する父母に聞いてきてください。彼らは鉄道の主たる利用客になるはずだった人々です。彼らになぜ、鉄道を利用しないのか聞いてきてください」
幸谷にそう言われ、越谷はポンと手を打った。
「それもそうだ。では今から行ってくる。あとは任せてもいいかい」
「ええ、構いません」
そう幸谷が答えるや否や、越谷はかばんをひっつかんで出支度をすませた。
「では行ってくる」
そして越谷は部屋を出た。その時、幸谷の「よし、厄介払い成功っ!」という言葉が聞こえた気がしたが、それは無視して越谷は先を急いだ。
階段の採光窓から太陽が見える。越谷は、少しだけ先が見えた気がした。
越谷を見届けてから、幸谷は「厄介払い成功!」と叫びながら小走りにトイレへ入った。
さぁ私の天下だ。たとえ三日、いや三時間しかなかったとしても今ここの場においては自分が最高責任者である。
久しぶりの解放感に浸りながらチャックも閉めずにトイレから出ると、そこに美里記者が居た。
「きゃっ!」
出会い頭にぶつかりそうになった美里はいきなり現れた幸谷に驚き、そして閉められてないチャックに驚いた。
「申し訳ないっ!」
出鼻をくじかれた気分である。もっとも、厄介者がいないと言ってもどうせ明日には戻ってくるし、保護者会が終わったら「重大発見だ!」とかなんとか言いながら走ってくるだろうから、どうせ天下はすぐに終わる……いや、そもそも天下も取っていないのである。
幸谷が気分的に現実に引き戻されていると、美里が顔を覗き込んできた。
「どうしたんですか?」
「いえ、いろいろありまして。ちょっと難儀しているところです」
「ああ、収支の件ですね。大変そうじゃないですか。おっとご心配なく。我々は発鉄のプロパガンダに徹するつもりですから、都合が悪いことは黙っておきますよ?」
「なら、一つ頼みたいことがあります」
冗談を言ったつもりの美里は目を剥いた。越谷はそのまま美里の肩をはっしとつかんだ。
「少し調査を頼みたいんです。内容は……」
幸谷の言葉に、美里は目をまわしながら首を縦に振った。
幸谷は、にやりと笑った。
・尾羽軍用線群
北樺太、尾羽市内に存在する軍事専用線の総称。鉄道法上の第一種並びに第三種事業者は尾羽三軍委員会(陸軍より移管)。
旧尾羽駅(現:南尾羽駅)から市街地を通って港湾方面に向かう路線の他、市街地を迂回しながら各基地を結ぶ路線が存在する。
管理は鉄道聯隊の他、港湾・工場地帯区間は一部を尾羽臨海鉄道(株)が第二種鉄道事業者として運行する。
軍事輸送の他、軍需工場への通勤輸送、軍需工場からの非軍事産品の輸送なども行っていたことから、官民癒着が指摘されていた。
尾羽のインフラを一手に担っていたことから、尾羽市民からの信頼は厚い。
1970年4月22日を最後に廃線扱い。北樺太開発鉄道に移管された。
・尾羽臨海鉄道(株)
辰井財閥系運輸会社。現在の発鉄黒井線、灰原線及び周辺専用線等の入替・貨物輸送を第二種鉄道事業者として行う。
運輸系最大手の辰井通運系企業であるため姉妹企業が多く、農繰来臨海鉄道や敷香開発鉄道等も姉妹企業である。
1970年4月22日に発鉄へ一部業務を移管。会社自体は存続し、現在は貨物の取り扱いなどを軍や工場、北鉄などから委託される形で行っている。
・辰井通運
樺太においては最大規模を誇る通運会社。国鉄線においては駅構内における貨物取扱を委託されている。また、多数の専用線を管理している。個人や単一の法人では管理しきれなくなった専用線を買い取り管理していることから、「貨物輸送の砦」の呼び声も高い。詳細は312頁。
出典:樺太鉄道便覧(著作権法の兼ね合いにより一部抜粋)