雪原の希望   作:矢神敏一

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 この作品は帝都造営先生の「艦これAD2022開戦シリーズ」より、国家設定のみをお借りし、共同制作しております。
【帝都造営ページリンク】https://syosetu.org/?mode=user&uid=19074


はじめに

「日本の最果てで生きる ~二つの災厄を乗り越えた街、尾羽~」

 (白井敏則 久留里美里 三波純一 遠坂博文 著  北方談々新書)

 

 

 

 ここに、雪の白いヴェールに閉ざされた街がある。人はこれをオハと呼んだ。

 

 筆者は2015年の5月に、その尾羽を訪れてみることにした。

 

 かつてに比べ、尾羽への道のりは楽になった。

 1970年に開通した北海道及び樺太の高速鉄道に加え、両者を結ぶ宗谷稚泊トンネル(1975年開通)、更には北海道と本州を連絡する青函トンネル(1986年開通)によって、現在は東京から尾羽までの直通の列車が運行されている。

 

 東京駅から、寝台特急「雪原」に乗車する。東北行夜行が上野から出なくなって久しい。帝都テロ後に再建された丸ドーム屋根を見ながら、列車は東京を後にする。

 翌朝には札幌に到着する。そのまま北海道の恵まれた高規格線路を走り抜け、旭川、稚内、新大泊と続く。

 新大泊からはいよいよ樺太だ。樺太の経済・政治の中心地豊原を抜け、まだ白い樺太の大地を駆け抜ける。

 壮大な光景の奥に広がる夕日を眺めながら農繰来(現:農繰木)に到着。路線はここから北樺太鉄道に入り、終点の尾羽には夜半の到着だ。

 

 24時間超の旅路の果てに、日本の果てにたどり着いた。街並みは、もうすでに災禍の痕を感じさせない。

 筆者は関西の人間として、この地に来ると、どこか懐かしさと、そして胸から突き上げてくる慟哭のようなものを抑える事が出来ない。この地は、我々と一緒に立ち上がってきた街なのだと、駅前デパートにかかった「ありがとう」の横断幕が教えてくれる。

 

 

 

 この地を一躍有名にしたのは、1975年の樺太紛争だろう。革命戦争期のソ連樺太侵攻を思わせる、衝撃的な紛争だった。

 

 そして、この地を日本人にとって忘れられない街にしたのは、1995年の阪神・北樺太ダブル大震災だ。

 一月に神戸で起きたばかりの大震災と同じものが、5月末の樺太に襲い掛かった。

 

 1995年5月28日22時3分55秒、江見津付近を震源とするマグニチュード7.2、最大震度6強の地震が発生した。

 震度の割に被害は甚大で、大規模な土砂災害、広範囲の液状化、揺れで街ごと土に還ったところもある。灰燼に帰した故郷を報道ヘリから実況した女性アナのあの絶叫を、我々は今も忘れる事が出来ない。

 

 持てる国力の過半を関西復興に当てていた日本にとって、これはあまりにも衝撃的かつ困難な出来事であった。

 つまり関西と樺太は、ほぼ同じ時期に、未曽有の国難に直面することになったのだ。

 

この困難に際し、共に悲しみを負い、共に苦しんだ関西と樺太は、復興に向けて共に手を取り合い歩むことになる。

 

 その象徴ともいえるのが、今私の目の前に鎮座している、この特急である。

 

 283系。もとは大阪から紀伊半島へ抜ける阪和線特急「くろしお」に使用されるはずだった車両である。

 

 車両不足によって要員輸送が滞った樺太の為に、未だ混乱のさなかにある関西地方の中でも被害のなかった大阪方面から、救援として差し向けられた車両である。

 

 この車両が樺太に来た時のことは、今でも忘れない。車体側面に、横断幕が掲げられたのだ。

 

「共に歩もう KANSAI=KARAHUTO」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この車両は、今日5月28日をもって北樺太鉄道線から引退し、故郷大阪はNR日根野電車区へと戻るのである。

 奇しくも地震発生から20年の節目である。

 

 22時3分55秒。地震発生時刻と同時に鐘が鳴り響いた。街全体が動きを止め、黙祷をささげる。

 

 そして、22時5分、283系による最終列車は警笛高らかに尾羽の駅を5分遅れで去った。きっと、あの俊足ならば、終着駅に着くころには定時だろう。

 

 

 

 283系が元の阪和線へ戻るに至った経緯を、現社長の綱島太郎氏はこう語る。

 

「地震発生から5か月後、一部復旧の目途が立ったはいいものの、肝心の車両基地が液状化を起こし車両が確保できない状態でした。その際に、当時の幸谷社長が当時の国鉄関西鉄道管理局より貸し出していただいたのが、この283系です。貸し出しの条件はひとつ。『復興したら還してくれ』。今がその時です」

 

 地震の影響で大幅に線形が変わり、元のまっすぐな線路から曲線を多く含む線形へと変更を迫られた。これにより最高時速も一時は大幅に下がった。

 そんななかで、紀伊半島の複雑な地形を攻略するために作られた283系は、さぞ活躍したことであろう。

 極寒地対策をしない状態で入線した車両のため、雪が降ると運用から降ろされた。それでも、夏の間の増える需要にしっかりと対応して見せた、この特急のすばらしさは、もはや語るまでもないかと思う。

 

 

 

 さて、長くなったが本題に入ろう。

 

 地震から20年、尾羽の中心部は完全に復興し立ち直りを果たしている。

 だが、街はずれに行けばまだ随所に復興がなされていない箇所がある。

 

 しかし、これは計画的なことなのである。

 

 この街は、災害や紛争などの災禍の度に形を変えながら生き残る。そういう風に設計されているのだ。

 

 その変革を担ったのは尾羽市内電車である「北部樺太開発鉄道」。通称、発鉄である。

 

 本土にお住いの読者には少し、聞きなじみのない名前だろうか? もしかしたら北海道や南樺太にお住いの若い読者も聞きなじみがないかもしれない。

 

 この鉄道は1970年3月21日から1976年4月23日までのたった6年1か月の間だけ存在した、日本最北の鉄道なのである。

 

 地方によくある、言い方は悪いが泡沫鉄道のうちの一つだ。最期は、経営難により幹線鉄道たる「北樺太鉄道」に吸収される形で解消している。

 

 その発鉄はしかし、この樺太全土やこの日本、ひいては世界に影響を与えた鉄道なのである。

 

 小さなところで言えば、日本初の本格的な第三セクター鉄道である。かなり特殊とはいえ、第三セクター鉄道の成功は地方自治体に大きな衝撃を与えた。

 

 しかし一番大きな衝撃は、尾羽全土を巻き込んだ都市計画だろう。

 

 かの大計画の存在を密かに伝えられた発鉄は、計画遂行の表の役者として道化を演ずるに至った。

 

 近年の情報公開に至っては裏の主役たる尾羽市の方にスポットが当たり、その実態をつかみ切れていない読者も多いであろう。

 

 本書では、尾羽が「自己再生・自己鍛造型都市」へと至った経緯を、忘れ去られた主人公「発鉄」の視点からご説明したいとおもう。

 

 

 

 余談であるが、筆者の一人はその発鉄の社員だった。そして、社長である越谷卓志氏と、そして共に尾羽の都市開発に大きな影響を及ぼした宇佐美陶治氏の下で働いていた経験がある。

 先述の通り、北部樺太開発鉄道は1976年4月23日をもって北樺太鉄道に吸収された。本書の取材を進めるにあたって、未だ街の人々が市内電車の事を「発鉄」と呼んでくださるに、非常に感慨深いものがあった。特にここに記しておきたい。

 

 

 

 閑話休題、編集者も含め全員が当事者である。どうか、なぜ尾羽が未だ健在なのか、そして、そこから得られた知見を、容易なことではないとは思うが、日本の未来への礎として頂ければ、幸いである。

 

 尾羽の、樺太の、そして、日本の前途に幸あれ。

 




 越谷卓志
 1928年8月21日生。
 父は文筆家の越谷太蔵。
 (現)東京・府中で生まれ幼少期を樺太で過ごす。両親の都合で東京へと戻る際に夜間定時制鉄道学校へ入学する。

(中略)

 24歳で出兵。民国への支援を主軸とした作戦に徴用鉄道員として従事。その時の活躍から「民国救国の英雄」との呼び声も高く、いくつかの勲章を賜っている。
 その後武蔵境事件や帝都テロを経て、棚ぼた的に西東京鉄道管理局の局長に就任する。
 1970年、北部樺太開発鉄道の社長に就任する。

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