このすば*Elona   作:hasebe

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第62話 デッドリーポイズンスライム

 草木も眠る丑三つ時。

 アルカンレティア中が死んだように静まり返っている中、ある一軒の高級宿の一室だけが夜を忘れたかのように眩しく明かりを放っていた。

 その一室の中からはパラパラという紙をめくる音、そしてカリカリという執筆の音だけが聞こえてくる。

 そして紙をめくる音はベッドの上で寝そべったまま本を読み耽っている男……あなたが。執筆の音は今もなお毒の解析を行っている女……ウィズが発していた。

 

 男女が旅行中の深夜に二人っきりだというのに、あまりにも色気の無い光景である。

 汚染騒ぎでそれどころではないとはいえ、ウィズの作業の邪魔をしたくないからと、現在はめぐみんが泊まっている部屋でめぐみんと一緒のベッドで眠っているゆんゆんが今のあなた達を見れば嘆息する事間違いなしだろう。

 とはいってもあなたとウィズはそういう関係ではないので、ベッドの中で甘い睦言を交わすのを期待されても困るだけなのだが。

 

 ちなみにあなたが現在横になっているベッドは昨日ウィズが寝るのに使ったものなのだが、ちゃんと従業員がベッドメイキングをした後なので、残念ながら枕やベッドに顔を埋めても彼女の匂いが残っていたりはしない。

 

 

「……あのう」

 

 

 ゆんゆんから借りた、最早何冊目だったか忘れた小説を読み終えて次の物に手を出そうとしたあなただったが、ウィズに声をかけられてベッドから体を起こす。

 純白のバスローブに身を包んだ彼女は夕食、そして風呂の後からずっと作業を続けていたのだが、ようやく終わったのだろうか。

 

「いえ、まだです。……ですけど、もうこんな時間ですし、あなただけでも今から寝ませんか? なんでしたらそのまま私のベッドを使ってくださっていても構いませんから」

 

 毒の解析を続けるウィズがおずおずと提案してきたが、あなたはウィズが寝たら自分も部屋に戻って床に就くとだけ返して再度横になった。

 気が散って作業の邪魔だと言うのならばさっさと出て行くつもりだが。

 

「深夜に一人で作業というのは凄く寂しいので、個人的にはこうしてあなたがいてくれて凄く嬉しいくらいなんですが……それでもその、こうして私なんかに付き合わせてしまって申し訳ないといいますか……。あなたは人間なんですから、ちゃんと寝ないと明日に響きますよ? 私はリッチーなので二三日寝なくても大丈夫ですから。いつもは生活リズムの関係で夜に寝てますが、本来アンデッドは夜の方が調子がいいくらいですし」

 

 邪魔でないのなら何も問題は無く、そもそもこれは自分が好きでやっている事なので気にしないで欲しいとあなたは簡潔に告げる。

 実際問題、一日や二日寝ない程度であなたのポテンシャルは全く下がらない。リッチーであるウィズと同様、一般人とは体の作りが根本的に違うのだ。

 そして先日はちゃんと睡眠を取っているので、現在のあなたのコンディションは睡眠可能といったところだろうか。要睡眠ではない。

 

「もう、仕方ない人なんですから」

 

 友人が絡んだ場合のあなたの尋常でない頑固さはウィズもよく知る所である。故に彼女は苦笑しながらもそれ以上説得を続ける事無く、再び作業に戻った。

 

 

 

 

 そして、それからどれだけの時間が経っただろうか。

 ふと、ウィズがぽつりと小声で呟いた。

 

「……月が綺麗ですね、とか言えたら良かったんですけどね。言ってくれる方でもいいんですけど」

 

 何事かとあなたが視線を向ければ、彼女は作業に没頭していた。今のはあなたに向けられたものではなく、自然に口から漏れ出ただけの独り言だったようだ。

 言葉の意味は分からなかったが、独り言とは得てしてそういうものだ。釣られるようにあなたは窓の外を見やる。

 しかしながら今日は新月。残念ながら月は見えなかった。

 

 

 

 

 

 

 翌日の朝。

 

 あなたやカズマ少年一行が宿泊している宿の一階には大きな食堂が設置されており、宿泊客は皆そこで食事がとれるようになっている。

 そして互いが宿泊している部屋は別だが、半ば成り行きであなた達とカズマ少年達は食事を一緒に食べるようになっていた。一人より二人、三人より七人の方が楽しく食事が出来るのであなたもウィズも不満は無い。ゆんゆんもめぐみんと一緒で嬉しそうだ。

 

「えー……先日の温泉の件ですが、調査の結果、毒の出所が分かりました」

 

 そんな朝食の席で、あなたとゆんゆんから若干遅れて朝食の席に現れたウィズがそう言った。

 

「もう分かったのか?」

「はい。時間も機材も足りなかったので百パーセントと断言こそ出来ませんが。……結論から言ってしまうと、温泉に混ぜられた毒はデッドリーポイズンスライムの毒である可能性が非常に高いです」

 

 ウィズはそのままあなたの隣の席に座った。

 

「……すまんウィズ、今なんて言った?」

「デッドリーポイズンスライムです。それもかなり高レベルのものですね」

 

 豪華な食事に顔を綻ばせるウィズとは対照的に、清々しい朝食の席は一転して重苦しい沈黙に包まれている。

 折角の食事が不味くなるので、食後に言ってほしかったとあなたはやんわりと抗議すると、ウィズは頭を下げて謝罪した。

 

「す、すみません。もしかして私、空気読めてなかった感じですか?」

「いや、俺そのなんちゃらスライムってのがどんなのか知らないんだけど、スライムっていうくらいなんだから雑魚だろ? 何でこんな微妙にお通夜みたいな雰囲気なんだ? ……一人だけいつも通りだけど」

 

 ジャムを塗ったパンを食むあなたの方を見ながらカズマ少年がそんな事を言った。新鮮なベリーで作られたジャムと焼きたてのパンはとても美味しい。バターもあるが、ウィズはどちらがいいだろうか。

 

「私もジャムで……」

「スライムが雑魚だと? おいカズマ、お前は誰からそんな与太話を聞いたのだ?」

「カズマは本当におかしな所で常識が無いですよね」

「確かに小さいスライムは弱いですが、ある程度の大きさになったスライムは強敵ですよ? 物理攻撃が殆ど効きませんし、魔法にも強く、悪食で何でも食べます。一度でも体に張り付かれたら消化液で溶かされるか、口を塞がれて窒息させられちゃいますから気を付けてくださいね?」

 

 ダクネスと紅魔族二名の指摘でカズマ少年の顔が青くなった。

 ノースティリスでもスライムは初心者殺しとして有名だ。以前も言ったがあなたもしっかり惨殺された。

 酸の体は武器防具を劣化させ、ダメージを受けると酸を撒き散らすので遠隔で封殺するというのが装備の整っていない初心者のセオリーである。ところでコーヒーに入れる砂糖は。

 

「二つでお願いします……ところで皆さんの話に加わった方がいいのでは……」

 

 別に無視はしていないしちゃんと聞いている。

 あなたはただ食事を優先しているだけだ。毒の正体については先にウィズから聞いていたので今更という面もある。

 

「このようにスライムは強力なモンスターだが、中でもデッドリーポイズンスライムはその名の通り、極めて致死性の高い毒を持っている事で有名だ」

「仮にアルカンレティアの各地の汚染が全てこいつのせいだとしたら、直接触れたら即死すると思ってください。私の爆裂魔法なら消し飛ばせるでしょうが」

「そ、即死ってマジか……触っただけで?」

 

 重苦しい空気に包まれたテーブルで一人食事を進めるあなただったが、あっという間にパンが無くなってしまった。ウェイターに声をかけてお代わりを要求する。

 突然興奮し始めためぐみんが激しくテーブルを叩いて立ち上がった。

 

「そこの頭のおかしいの! いい加減に少しは空気ってものを読みなさい! 一人で能天気に朝ごはん食べてる横で真面目な話してる私達が馬鹿みたいじゃないですか!!」

 

 そうは言うが、折角の美味しい食事なのだから、温かいうちに食べるのが筋というものだろう。腹が減っては何とやらというし、話し合いなど食べ終わってから好きなだけすればいいのだ。

 そんなあなたの反論に、めぐみんは舌打ちしてスープを啜り始めた。

 

「おのれ、いつもはやりたい放題やっている癖にこんな時ばかり正論を……」

「え? ねえめぐみん、今のって本当に正論だったの?」

「否定は出来ません。……む、高級宿の料理なだけあって中々イケますね」

 

 あなたに続いてめぐみんが食事を始めた事により、張り詰めた空気が弛緩し、他のメンバーも思い思いに食事を始めた。

 

「確かにマジで美味いな。流石高級宿」

「まあ大丈夫よカズマ。死んでも私がついているわ。でも捕食だけは食らっちゃ駄目よ? 捕まって体を溶かされちゃったら、幾ら私でも蘇生出来ないから」

「捕食……いやちょっと待て、おかしくないか? なんで俺がそのスライムと戦う事前提になってんの? 折角滅茶苦茶強いのが三人もいるんだから、戦闘はあっちに全部任せようぜ」

「ええっ!? なんでウィズさん達だけじゃなくて私も頭数に入ってるんですか!?」

 

 突然の無茶振りにゆんゆんが半泣きになった。

 

「なんでって、ゆんゆんはレベル37なんだろ? ぶっちゃけ俺達四人の誰よりも高いぞ。それにどっかのなんちゃって魔法使いとは違って色んな事が出来る本物の魔法使いだし」

「おい、そのどっかのなんちゃって魔法使いが誰の事を指しているのか詳しく教えてもらおうじゃないか」

 

 

 

 

 

 

「おはようございます。先日はそちらのアークプリースト様に大変お世話になり、我らアクシズ教徒一同、感謝の言葉もありません。少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」

 

 昨日も会ったトリスタンが、食事を終えたタイミングであなた達に声をかけてきた。

 傍らに護衛の信者と思わしきバケツヘルムの僧兵を引き連れている。

 言うまでも無く彼らは女神アクアに会いに来たのだろう。カズマ少年も察しているようで、女神アクアを彼らの前に突き出した。

 

「私はいいわよ、それでどうしたの?」

「アクシズ教徒総出で各地の宿に聞き込み調査を行った結果が出ましたので、その御報告に参りました」

「早いわね! 早いのは良い事よ! 一刻も早くこんな迷惑な事件は解決しないとね!」

 

 嬉しそうに頷く女神アクアに護衛の僧兵が最敬礼を行い、トリスタンはとても嬉しそうにニッコリと笑った。

 

「ありがとうございます。そう言っていただけると皆で各地の温泉に押しかけ、アクシズ教の名の下にこの宿とアクシズ教の秘湯以外の全ての温泉を強制的に封鎖させた甲斐があるというものです」

「ちょっと待てお前ら何やってんの!? というかあの後そんな事やってたのか!?」

「中には観光資源である温泉を禁止されたら街が干上がってしまうだの、ウチの温泉は安全だから、などと文句を言ってくるエリス教徒や私達の聖戦を迷惑行為と断言して捕まえようとする邪悪な騎士や衛兵がいたのですが、飲んだら死ぬかもしれないレベルの毒に汚染されているかもしれない温泉を無理矢理飲ませようと……もとい、飲んでみろと根気良く説得したら皆涙を流して喜んで閉める事に賛同してくれましたよ」

「それは一般的に説得じゃなくて脅迫って呼ばれてる行為だからな!?」

 

 朝からキレッキレのカズマ少年はさておき、昨日別れ際にトリスタンが言っていたアクシズ教徒の結束の力は凄まじい物だった。しかしアクシズ教徒が信仰する女神アクアがこの街に降臨している以上、狂信者である彼らならばそれくらいはやってのけるだろう。

 それに死人が出てからでは遅いのだから、事件の解決までの少しくらいの間の不便はぐっと飲み込むべきである。

 

「一応聞いておくけど、まさか本当に温泉を飲ませたりはしてないよな?」

「勿論ですよ。アクシズ教の教義のひとつに、我慢はしない。それが犯罪でない限り、望むままに自分のやりたいようにやればいいというものがありますから。せいぜいがアクシズ教の最高責任者のアークプリースト、ゼスタ様が泣いて嫌がるエリス教徒の女騎士に口移しで綺麗な水を毒温泉と偽って飲ませようとしたくらいの可愛いものです。その後ゼスタ様はわいせつ罪でしょっぴかれましたが」

「普通に犯罪やってんじゃねえか!」

「エリス教徒への嫌がらせと軽犯罪は合法! エリス教徒への嫌がらせと軽犯罪は合法です!」

「そうよそうよ! 今トリスタンさんが凄く良い事言った!」

 

 アクシズ教徒の最高責任者によるセクハラ行為、そしてダブルスタンダードとしか言いようのない価値観に、女神アクアとあなた以外の全員から全く同じタイミングで「うわぁ……」という言葉が漏れ出た。一目見てドン引きしていると分かる。

 

「すまない、私もエリス教徒なのだが……」

「でもダクネスはそういうのが好きなんでしょ?」

「…………」

 

 ダクネスは何も言わずに女神アクアから目を逸らした。

 アクシズ教の闇を垣間見た気分だ。世間一般で言われている、近寄りたくない、関わり合いになりたくないというアクシズ教団の評価もむべなるかなといったところだろう。

 ウィズがエリス教徒でなくて本当に良かった。

 

「エリス教徒がセクハラされて泣いたのは別にどうでもいいわ。むしろもっとやりなさい。私が許すから。……それで、聞き込み調査で何が分かったの?」

「はい、事件の前後から、各地の温泉で浅黒い肌の、短髪で茶色い髪の男が目撃されているようです。現在我々はその人物を重要参考人として捜索中です」

「ちょっと早計すぎるんじゃないのか? まだ犯人と決まったわけじゃないんだろ?」

 

 カズマ少年が至極最もな疑問を投げかけたが、トリスタンは眼鏡をクイ、と上げた。

 

「我々も別に端からその男が犯人と決め付けているわけではありません。ただ、その人物が目撃された温泉が軒並み汚染されているようですので、ちょっと話を聞かせてもらおうとしているだけですよ。この街にも嘘を見抜くベルの魔道具はありますからね」

 

 トリスタンはああ言っているが、言葉通りに受け取るべきではないのだろう。

 実際怪しいのだから当然だが、最悪話を聞く前にアクシズ教団にボコボコにされかねない。

 

 さて、そんなアクシズ教団に親近感を覚えているあなただが、あなたはノースティリスでは癒しの女神の信徒の中で最も寵愛を受けている、つまりゼスタと同じく最高責任者ともいえる立場だ。

 しかしノースティリスでのあなたはセクハラ行為ではなく邪魔者を皆殺しにするという実力行使に訴えるタイプだったので、ゼスタとは違う。仮にあなたがゼスタの立場だった場合、神意に背く愚か者達にみねうちが猛威を振るっていた事だろう。死人や泣く者が一人も出ない、誰の良心も痛める事の無い極めて平和的な手段である。

 

 

 

 

 

 

「なあ、これからどうするんだ? 毒の正体もアクシズ教団に教えて、しかも犯人っぽい怪しい奴も分かっちまって、とっても喜ばしい事に本格的に俺達がやる事無くなった感じなんだけど」

 

 ウィズが突き止めた毒のサンプルと資料を何かの参考に、と渡されたトリスタンは足早に去って行き、女神アクアは封鎖された温泉を浄化しに出かけてしまった。

 宿に残されたのは浄化に縁の無い荒事担当が六人。

 

「だからさ、当たり前のように低レベル冒険者の俺まで頭数に入れるのは止めろって。そっちと違って普通に死ぬから。自慢じゃないけど俺は本当にアッサリ死ぬから」

「本当に自慢になってないぞ。まあ低レベルの割に狡すっからい悪知恵と強運でピンチを切り抜けるのがカズマなのだがな」

「……ふう、やれやれ。そんなに往来でスティールを食らいたかったのかよララティーナちゃん。そこまで全裸になりたいって頼まれたんじゃ流石の俺も断れないわ」

「じょ、冗談だよな? いつもの性質の悪い冗談だろう!? あとララティーナって言うな!」

 

 全裸に剥かれる危機に本気でうろたえ始めたダクネスの言うとおり、カズマ少年からはなんだかんだでピンチを切り抜けて上手くやれそうな雰囲気が漂っている。ただの勘だが。

 しかしながらやる事が無いのも事実である。

 手持ち無沙汰とはいえ、のんびり過ごしているというのもバツが悪い。ここはやはり、アクシズ教団と同じくその怪しい男を捜すのがいいのではないか。

 

「そうですね、六人でぞろぞろ動くのも効率が悪いですし、適当に分散して動きましょうか」

「やっぱそうなるのか……いや、いいけどさ。ソイツを見つけたらアクシズ教徒に通報すればいいんだろ? 言っとくけど俺は絶対に戦わないからな?」

 

 カズマ少年の、何が何でも荒事から遠ざかろうとする姿勢はいっそ清々しくすらある。

 先日温泉で彼に聞いた話では、ニホンはこの世界と比較しても圧倒的に平和で豊かな国なのだそうだ。ノースティリスに連れて行ったらどうなってしまうのだろうか。

 

 

 

 それから暫く話し合いを行った結果、まず徹夜の調査で多少なりとも疲労しているであろうウィズには新たに何か分かった時に情報を持ってくるであろうアクシズ教の為、そして保険と休養の意味合いを兼ねて宿に連絡係として残ってもらい、いざという時の為のテレポート持ちであるあなたとゆんゆんを分けてメンバーを組んだわけだが……。

 

「どうにも街全体がピリピリしてますね。まだ例の男も見つかってないみたいですし」

 

 あなたが組む事になったのは頭のおかしい爆裂娘、めぐみんだった。今日は頭が軽そうで何よりである。

 

「ちょむすけは出る前にウィズに預けてきましたからね。やけに懐いていたようでしたので心配はいらないと思います」

 

 そうして小一時間ほど犯人探しを行っていたあなた達だったが、箸にも棒にもかからない。

 手配されたのを察して隠れてしまったのか、例の男は温泉にも顔を出していないようだ。

 いっそ適当に占い師でも捕まえて占ってもらうというのはどうだろうか。

 

「…………占い師?」

 

 半ばやけっぱちにそんな事を言い放ったあなただったが、唐突にめぐみんが足を止めてしまった。

 どうしたのかと振り返れば難しい顔をしためぐみんは顎に手を当てて考え事をしていた。

 

「いえ、ちょっと以前ここに来た時の事を思い出していました。ゆんゆんが持ってきた予言のせいでアルカンレティアが大騒ぎになった時の事ですね」

 

 ちょっと待ってアレは私のせいじゃないから! というゆんゆんの切実な叫びが聞こえてきたような気がしたが、生憎この場に彼女はいない。気のせいだろうと無視して話の続きを促す。

 

「あなたは紅魔族の凄腕占い師の話は知っていますか? そけっと、という名前なのですが」

 

 ゆんゆんから聞いているとあなたは頷く。

 しかし肝心の予言の内容までは聞いていない。

 

「私もちょっと記憶が曖昧なのですが、予言は確かこんな内容だった筈です」

 

 ――アルカンレティアの街に、やがて危機が訪れる。温泉に異変が見られた時は、湯の管理者に注意を払え。その者こそは、魔王の手の者。

 

「こんな内容だったおかげで、アルカンレティアの各地で昨日も言ったところてんスライムによるテロが発生した際は温泉の管理者であるアクシズ教徒が魔族と繋がり、アルカンレティアを貶めようとしているのではないか? と疑われていました」

 

 しかし実際は違ったのだという。

 あなたとしても女神アクアを信仰するアクシズ教徒、それも温泉を管理するほどの敬虔な信者が魔王軍と結託するというのは想像し難い話だ。自身の目で彼らの在り様を見てしまっているから、尚更その話には違和感がある。

 それならばいっその事、魔王軍がアクシズ教徒に成り済まして騒ぎを起こすという方が余程現実感が湧くというものだろう。

 

「そけっとの占いの腕は私もお世話になったので、どれ程のものかというのはよく知っています。ですが今にして思い返してみれば、当時の事件は所々そけっとの予言とは合致していない気がするんですよね」

 

 推理するように杖をくるくると弄びながら、高い知力を持っている紅魔族随一の天才アークウィザードは言葉を続ける。

 

「ところてんスライムは街の人間にとって甚だしく迷惑だったと思いますが、じゃあ街の危機と言えるほどのものだったのかと聞かれれば正直首を傾げる程度のものでしたし。何より温泉の管理者……つまりアクシズ教団の人間に魔王の手の者がいたというわけでもなく。……なのでもしかしたら、ですけど。あの時のそけっとの予言は、今アルカンレティアに起きている事件の事を指し示していたのかもしれません」

 

 なるほど、確かにめぐみんの言うとおりなのかもしれない。

 街の資源である温泉に毒物、それも飲んだら人死にが出かねないほどのものが混入されているというのは十二分に街の危機と言えるだろう。

 

「どっかの誰かさんは昨日平気な顔して平らげた挙句、二杯目お代わりしようとしてましたがね。魔王軍もさぞかしびっくりするでしょうよ」

 

 実はあなたは昨夜、抽出されたデッドリーポイズンスライム(仮)の毒のサンプルを舐めようとしてウィズにこっぴどく怒られていたりするのだが、それを言う必要は無いだろう。自殺志願ではなく、ちょっと味が知りたかっただけなのだが。

 ……ところで話は変わるが、真面目なめぐみんというのは何故か違和感が酷い。どうすればいいのだろう。

 

「ぶっころ」

 

 めぐみんは迂闊な事を口走ったあなたの鳩尾をグーでぶん殴ってきた。

 ノースティリスの冒険者に近いめぐみんが相手だと、どうにもシリアスが長続きしないあなたであった。

 

 シリアスはさておき、半ば予想出来ていたとはいえ、この件が魔王軍による工作の可能性が更に高くなった事は困り者である。主にウィズのせいで。

 

「確かにウィズを今回の件で戦力にするのは難しいかもしれませんね」

 

 そう、ウィズは現役の魔王軍幹部だ。

 下手な事をすればそれは魔王軍への裏切りと判断され、人前で彼女の正体が暴露されかねない。

 ウィズの正体が晒された場合、あなたは非常に高い確率で世界中に核と終末と血の嵐が吹くと予想している。勿論犯人はあなただ。

 地味にあなたに頼られるのを待っているらしいウィズには大変申し訳ないのだが、今回も彼女の出番は無さそうだ。他ならぬウィズの身の安全の為にも。

 

 

 

 

 

 

 アクシズ教団の本部である教会の裏には、源泉の湧き出す山が存在している。

 そして軽く調べた結果判明したのだが、その源泉の管理をしているのはアクシズ教徒ではあるものの、しかしアクシズ教団ではなかった。

 

「……というわけで、私達は源泉の管理人という人に会いに来た冒険者です。冒険者カードもこの通り。分かったら道を開けてください。今ここにいる事は分かっているんです」

 

 教会から源泉へと続く道は初心者狩りなどの危険なモンスターが生息しているという事もあり、アルカンレティアに駐屯している国の騎士団により厳重に警備されている。

 そして警備の騎士にめぐみんが自身の冒険者カードを押し付けて通行の許可を得ようとするも、彼らはまともに取り合おうとはしなかった。

 

「すまないがお嬢ちゃん、ここから先は冒険者でも通行禁止なんだよ」

「そうそう、この先には温泉の管理を行っている人しか入れないんだ。アクシズ教団からネズミ一匹通すなって言われてるし、小遣いやるからそっちの保護者のお兄ちゃんと一緒に帰りな」

 

 明らかに子供扱いされている事を理解し、額に青筋を浮かべるめぐみん。

 デストロイヤーを消し飛ばし、魔王軍幹部のバニルすら爆裂魔法で仕留めた彼女にこのような物言いをする人間はアクセルにはいない。

 理由は単純。勇名以上に喧嘩っぱやい事で有名なめぐみんをガキンチョと馬鹿にしようものなら、得意の爆裂魔法が火を噴くとよく分かっているからだ。

 

「私は子供ではありません。爆裂魔法が使えます」

「……は?」

 

 頭のおかしい爆裂娘の宣言に顔を見合わせて苦笑する騎士達だが、めぐみんは本気だ。

 しかし一日一発しか使えない極大魔法をこんなアホなやり取りで使うべきではない。

 

 あなたはマジで魔法を使う五秒前なめぐみんに代わって名乗りを上げ、冒険者カードを見せた。

 あなたの名前はアルカンレティアの騎士にも知られていたようで、効果は抜群だった。勿論悪い意味で。

 

「こ、この冒険者カードは……頭のおかしいエレメンタルナイト!?」

「あの頭のおかしいエレメンタルナイト!?」

 

 お前らそろそろ大概にせーよ。

 そんな言葉を既の所であなたは飲み込む。

 

「アクセルのエースはアルカンレティアでも有名人みたいですね。他所で何やってるんですか」

 

 案の定めぐみんが食いついてきたが、あなたは何もやっていない。

 あなたに手を出したものが勝手に自爆し続けた結果、悪名が背びれ尾ひれを付けて勝手に膨れ上がっていった末がこの扱いである。

 

 

 

 

 常日頃からフレンドリーで親しみやすい雰囲気を周囲に撒き散らしているあなただが、どういうわけか拠点であるアクセル以外の冒険者達には敬遠されがちである。

 あなた自身も最近になって知ったのだが、腫れ物扱いされる理由は何もソロで高難度の討伐依頼をこなし続けているからだけではなかった。

 

 このような予想外の扱いの主要因は、あなたがこれまでに数十人もの盗賊の冒険者達を再起不能にしてきたから……という事らしい。

 らしいというのはあくまでも他者からの伝聞であり、あなたが直接冒険者ギルドに所属する盗賊達に手を下した事は一度も無いからだ。依頼で狩ってきた賊の数は百やそこらではきかないのだが。

 しかし再起不能にしたという言い方では、まるであなたが五十人以上の盗賊達を潰してきたかのような受け取り方をされてもおかしくないだろう。現にあなたはそんな目で見られている。善良な冒険者代表として、謂れの無い誹謗中傷には全力で遺憾の意を表明したいところだ。

 

 幸いにも、とでも言うべきか、今の所アクセルの街でそのような事件が起きた事は無いが、あなたにスティールを試みようとした盗賊の冒険者達がいたというのは以前にも記した通りだ。

 

 やけに数が多いのは、何度か集団でスティールを試みられた事があるからである。

 

 繰り返すがあなたは彼らに何もしていない。

 本当に何もしていない。

 頭のおかしいエレメンタルナイトの他、いつの間にか盗賊殺し(シーフキラー)とかいう異名を付けられていたとしても本当に何もしていないのだ。

 余りの被害者の多さにギルドは頭を抱えているが、まさかの犯罪者一歩手前の扱いに頭を抱えたいのはあなたの方である。確かに犯罪者扱いはノースティリスで慣れているがそういう問題ではない。

 

 スティールを仕掛けた理由については嫉妬や悪戯心、あるいは度胸試しなど色々あったのだろうが、それはあなたの知る所ではないしどうでもいい。

 いずれにせよ、上記のようにあなたにスティールを仕掛けようとした者達は揃いも揃ってスキルが発動する直前にあなたから逃げ出し、挙句の果てに再起不能になってしまうのだ。

 

 彼らが逃走する理由については前々から予想がついていたものの、あなたが王都で買い物をしていた際、ビキニアーマー一歩手前という痴女かと見紛う露出度の盗賊の少女に人気の無い裏路地まで誘われ、そこでおもむろにスティールを仕掛けられた時に確信に変わった。

 例によって少女はスティールの発動直前に逃げ出したわけだが、あなたはいい機会だと下手人の少女をその場で捕縛する事になる。

 

 結果、あなたはそのレベル30ちょっとの盗賊の少女から、まるでレベル1の駆け出し冒険者が終末に叩き込まれたような劇的なレスポンスをもらった。

 

 少女は赤ん坊のようにみっともなく泣き喚いて命乞いをするばかりで辟易とさせられたものの、軽く尋問し、更に無理矢理スティールを使わせて検証してもらった結果、彼らの反応はあなたが前々から予想していた、盗賊の持っている敵感知スキルが窃盗を見咎められるような間抜けはその場でぶち殺されても文句は言えないと本気で考えている自分に反応しているのだろうという推測を裏付けるものだったという事が判明した。全く嬉しくない。

 具体的には名状しがたい恐ろしいモノが自分を殺しに来る幻覚が見えたらしい。未来予知だろうか。

 実際盗賊がスティールを発動させて失敗した場合、あなたは反射的に犯人を殺すだろう。

 

 なおあなたから解放された時には茶色い髪が全部真っ白になる程度に憔悴していた――まるで数ヶ月単位でサンドバッグに吊るされ続けた冒険者のようであった――盗賊の少女だが、あなたの前に同じような事を繰り返していたらしく、膨れ上がった余罪により現在はどこぞの監獄にぶち込まれている。

 あなたとしては再起不能になった少女の仲間に絡まれたら面倒だと思っていたのだが、彼女の仲間はどこぞの討伐依頼の際に少女一人を残して全滅していた。

 その結果、以前は太陽のように明るく元気だったという少女はあなたのような善良な冒険者を騙して窃盗行為を行うようなロクデナシになってしまったわけだが、冒険者としては別段珍しい話でもない。きっと彼らは運が悪かったのだろう。

 

 

 

 

 ……とまあ、あなたがアクセル以外で敬遠されているのはこういう理由があるわけだが、流石にめぐみんに馬鹿正直に話すのは躊躇われる。

 

「全く、どうせあなたの事ですから昨日みたいな馬鹿な真似を他所でもやっているんでしょう? そんなだからこんな反応が返ってくるんですよ。自業自得です」

 

 めぐみんはそのようなつもりで言っているのではないのだろうが、元はといえば散々ソロ活動で暴れて目立ちに目立ったお前が悪いのではないのかと言われてしまえば、あなたにはそうですねとしか返す言葉が無い。

 

「……一応聞いておくが、本物なのか?」

「本物ですよ。だから頭のおかしいエレメンタルナイトの異名の所以を知りたくなければ今すぐ道を開けなさい。この男は人間が相手だろうと本気でやりますよ。何たって力尽きて身動き一つ取れない私がジャイアントトードに捕食される寸前まで放置して見守っていたり、毒入りの温泉を飲んで美味いと笑うくらい頭がおかしいですからね」

 

 あなたの威を借るめぐみんのゲスい笑みに騎士達は震え上がった。

 強行突破は決して嫌いではないが、誠意を持って話し合えば人は分かり合える筈だ。話し合っても無理だった時は仕方ないので諦めてもらう他無いが。

 

「死ぬぅ!」

「殺されぅ!」

 

 話し合いの大切さを三人に訴えるあなただったが、何故か騎士の震えが増した。今にも泣き出しそうだ。

 

「おやおや、何の騒ぎですかな」

 

 何が悪かったのだろうと首を傾げるあなただったが、山の方からやってきた人物の声に意識を戻す。

 現れたのは金髪の老人だ。彼が源泉の管理人だろうか。

 

 

 

 

 

 

 あなた達が源泉の管理人を探していたと話すと、老人は話を聞くべくあなた達を自宅に案内してくれた。

 アルカンレティアの中心から離れた静かな場所に建っているその家は中々に広かったものの、今は老人が一人で住んでいるようで、ガランとした印象をあなたに抱かせる。

 

 特に魔王軍との関わりを示唆するような怪しいものがあったりはしなかったが、部屋の中に写真が立て掛けてあるのを目ざとく発見しためぐみんが口を開く。

 

「お子さんですか?」

「息子と息子の嫁と孫だよ。何年か前にアクセルに引越してしまったがね」

 

 写真の中には老人と同じ金髪の男性と茶髪の女性、金髪の少年が写っていた。

 写真を見つめる老人は寂しそうに、しかし愛しそうに家族が写る写真を撫でる。

 

「気持ちはとてもよく分かります。お爺さんもこんな街からは引っ越した方がいいと思いますよ」

 

 この子はなんて失礼な事を言うのだろう。

 あなたがめぐみんの頭にげんこつを落とすと、中々に良い音が響いた。

 

「おごごごご……い、いきなり何をするんですかこの鬼畜男。私はお爺さんの為を思ってですね……」

 

 頭を押さえて悶えながら涙目で睨んできたが無視する。

 アルカンレティアはこんなにも素晴らしい街だというのに、悪口を言っためぐみんが悪い。

 

「分からない、文化が違う……!」

「ふふふ。何、確かにここは騒がしい街だが、住めば都というだろ? 慣れれば楽しいもんさね。まあ息子達はエリス教徒だったのだが」

「どう考えても引っ越した原因ってそれですよね」

「息子には幼馴染の女の子がいたんだが、その子はアクシズ教徒でね。息子がストレスで円形脱毛症になる程度には色々なちょっかいを出してたもんだよ。女の子は今も独身だという話だし、きっと素直になれなかったんだろうな」

「どう考えても引っ越した原因ってそれですよね!?」

 

 その後、数十分ほど老人と会話を重ねたあなた達だったが、あなたの見る限りでは老人に不審な点は一つも無かった。

 彼の所作の一つ一つから冒険者、それもかなり熟練のものと思わしき気配が染み付いている事からおよそ一般人とは言いがたいが、それでも老人はごく普通の人間だ。

 

(どうやらこのお爺さんはシロっぽいですね。となると一体誰が……)

 

 ヒソヒソと囁きあうあなたとめぐみん。

 そろそろお暇しようと考え始めた所で、玄関のドアをノックする音が聞こえた。

 

「おや珍しい、またお客さんのようだ。すまんがちょっと待っていておくれ」

「いえいえ、お構いなく」

 

 老人が扉を開ける。

 何となしにあなたが玄関に目を向ければ、果たして老人を訪ねてきたのは()()()()()()()()()()()だった。

 

「すみません、こちらに源泉の管理人の方がいると聞いて伺ったのですが。貴方で合っていますでしょうか?」

「ええ、はい。そうですよ」

「そうですか、それは良かった」

 

 はてさて、これは運が良いのか悪いのか。思いも寄らぬまさかの賓客である。

 あなたが横の相方を見れば、緊張からだろうか、顔を強張らせためぐみんが冷や汗を流していた。

 心配無用とあなたが手の平でめぐみんの頭を優しく叩くと、彼女は手を振り払いながらムッとした表情で睨んできた。

 

「……別に怯えてなんかいません。子供扱いしないでください」

 

 ならばよしとあなたは笑い、おもむろに席を立つ。

 そのまま玄関に近付くと、男はあなたに愛想よく笑いかけてきた。

 

「おや、ご家族の方でしょうか? 申し訳ありませんが、私はこちらのご老人に用事がっ――――!?」

 

 はて、いきなり男の笑顔が罅割れた挙句言葉が途切れてしまったがどうしたのだろう。

 あなたはただ懐から聖水を取り出しただけである。

 それも只の聖水ではない。昨夜暇を持て余していた女神アクアに宿で一番高い酒と引き換えに全力を出して作ってもらった、到底値段の付けられない逸品だ。

 

 男の目がこれでもかと見開かれ、聖水に釘付けになっているが、これならば疲労も病気も呪いも慢性的な腰痛も肩こりも一発で吹き飛ぶだろうとあなたはニヤニヤと嫌らしく笑う。

 一方で人外、それも魔に属するものであればとっておきの猛毒になるだろうが。

 何せリッチーにも効果は抜群だとお墨付きを頂いているくらいだ。ウィズには絶対に使えない。

 

「…………」

 

 横からやってきためぐみんが老人の手を引いて後方に下がる。ただ事ではないと察したのか、老人は何も言わずにめぐみんに従った。

 それを気にも留めず聖水に集中したままジリジリと後退を始める男だが、そんな彼に向かってあなたはひたすらに笑みを深める。

 

「……なんだ、それは」

 

 言葉遣いが荒くなった。こちらが素なのだろうか。

 どちらにせよ、ヒトの皮を被った人外(バケモノ)に答える義務は無い。

 しかしまだ彼が温泉に毒を流すという許されざる蛮行の犯人と決まったわけではない。

 話はアクシズ教団の者達と聞こうではないか。無数のアクシズ教徒と嘘発見器が手ぐすね引いて彼を待っている。

 

「……見た所冒険者のようだが、俺が用があるのはそこの老いぼれだけだ。俺の事を黙っているというのなら、小娘共々この場は見逃してやらんでもないぞ?」

 

 おっと手が滑った。

 苦しんで死ね。

 

「問答無用か、このイカレ野郎!!」

 

 あなたが男の顔面目掛けて投擲した……もというっかり手から零れて男の方に飛んでいったポーション瓶だが、避ける事は不可能だと判断した男は右腕を犠牲にする事でそれを防御。

 

「――――ぐうっ!?」

 

 ポーション瓶が割れ、中身の聖水がぶちまけられると同時に男の手からボジュウ、という何かが溶けるような音と凄まじい刺激臭が発生した。

 

「ガアアアアアアアアア!!! 貴、様ァ! 何を使いやがった!?」

 

 血を吐くような叫びを発しながら、男は異音と異臭を発する右腕を自ら叩き切る。

 心地よい悲鳴だと酷薄に嗤いながらも男の潔さに心の中で賞賛を送るあなただったが、次の瞬間、眉を顰める事になる。

 そのまま重力に従って地面に落ちた腕は粘着質な液体に変化すると同時に飛び散り、玄関を一瞬でドロドロに溶かし始めたのだ。

 

「ぐ、糞っ、形が保てんだと……! この痛みと屈辱、決して忘れんぞ!!」

 

 盛大に毒づきながら男は脱兎の如く逃走を開始する。切断した腕の先から盛大に液体を振りまきながら。

 男が振りまいている液体はやはり異臭と共に周囲を溶かし、更によく見れば右腕の先からは、早くも半透明の、スライムのような質感の新しい腕が生えてきていた。

 デッドリーポイズンスライム。

 ウィズが教えてくれた毒の持ち主が脳裏に過ぎる。

 

「ごふっ……」

「ごほっ……ちょっ、これヤバ……」

 

 逃走する男を追って毒と異臭の中を突っ切るあなただったが、家の中から苦しそうな咳が聞こえてきた。振り返れば玄関から異臭の元と思わしき紫色の気体が家の中に広がり始めている。

 あなたは毒は無効化する装備を身に着けているが、めぐみんと老人はそうもいかない。

 選択肢を誤ったかと悔やみつつあなたは家に駆け戻り、少しでも毒からめぐみんと老人を引き離すべく、二人を抱えて一目散に家から脱出した。

 

 そうして二人を無事に家の外に逃がした後で周囲を探るも、既に男の姿はどこにも無かった。

 スライムメタルでもない癖に随分と逃げ足が速いとあなたは舌打ちする。

 

「すみません、私が足を引っ張ったせいで犯人を逃がしてしまいました……」

 

 めぐみんと老人に、念の為にと各人に渡されていた毒消しのポーションを飲ませ、これはどう考えても自分の失態であるとあなたは深く謝罪した。

 めぐみんは自分が足を引っ張ったと言うが、どの道毒で老人が危なかった事には変わりないし、何よりあなたには水を毒で汚された怒りと恨みで目が眩んでいたという自覚があった。色気を出して聖水など使わず、いつものようにさっくり殺しておけばすぐに終わった可能性が高い。それを思えばどれだけ反省してもし足りない。

 

「ですが……」

「お二人とも、本当にありがとうございます。おかげで危ういところを助かりました」

 

 なおも食い下がろうとするめぐみんの言葉を遮り、老人が恭しくあなた達に頭を下げてきた。

 確かにあなた達が彼の命を助けた事になるのだろうが、あなたとしては正直気まずくて仕方なかった。

 

「アレは私を狙っていたそうですし、あの場にあなた達がいなければどうなっていた事か……いやはや、年は取りたくないものだ」

「……私は何もしてませんよ」

 

 あの男が源泉ではなく源泉の管理人である老人を狙った理由は不明だが、元を辿ればあなた達がここにいるのはめぐみんのお蔭である。礼なら彼女に言ってあげてほしい。

 

「そうだったのかい。本当にありがとうな、お嬢ちゃん」

「……家が毒と酸で滅茶苦茶になってしまいましたよ」

「なあに、命あってのものだねと言うだろう? 家はまた建て直せばいいさね。死んでしまっては息子にも孫にも会えなくなるしな」

 

 朗らかに笑う老人のとてもアクシズ教徒とは思えない、他意の無い心の底からの感謝の言葉に、めぐみんは深く帽子を被って赤い顔を隠した。

 

 

 

 その後毒消しのポーションで二人が大事無い事を確認し、逃がした責任を取るべく魔族を追おうとするあなただったが、老人はそんなあなたを引きとめてきた。

 

「ああ、それでしたら御心配なく。あの魔族の行方でしたら今も私が捕捉しております。今は東の方に人通りの無い道を通って逃走しているようですな」

 

 はて、どういう事だろう。

 そのような暇は無かった筈だが。あの短い時間の中で老人が何かをやっていたようには思えない。

 

「敵感知スキルですよ。お恥ずかしい話ですが、こうして源泉の管理者になる前はそこそこ名の売れた盗賊をやっていましてね。スキルを鍛え続けた結果、今ではアルカンレティア一帯なら私の庭みたいなものなのですよ」

 

 奇襲を食らってしまえばひとたまりもありませんが、と先ほどの事を思い出しながら苦笑いを浮かべる老人だったがなるほど、危険なモンスターの徘徊する源泉の山を長年一人で管理し続ける事が出来た理由にはこのような背景があったようだ。

 

 

 

 

 ――その数時間後、犯人の隠れ家はアルカンレティア中から集まった無数のアクシズ教徒達に完全に包囲される事になる。




Q:主人公にスティールが成功した場合ってどうなるの?
A:暴力を振るってはこないものの、非常に高い確率でその場で身包みを剥がされる事になります。ただし盗んだのがホーリーランスだった場合はネズミを前にした某猫型ロボットの如き勢いで興奮して殺しに来ます。ウィズさん縁の品だと犯人をサンドバッグに吊るしてこの先二度と泣いたり笑ったり出来なくします。愛剣ちゃんを盗むと主人公も盗人も死にます。

Q:窃盗スキルに失敗したら具体的にどうなるの?
A:作中でも説明しましたが、窃盗の失敗判定の際、敵感知スキルを持っていればスキルの発動直前に本気になった主人公が自分を殺しに襲ってくるという素敵で愉快な幻覚を見せて止めてくれます。敵感知スキルを持たずにスティール、あるいは幻覚を我慢してスティールしてミスると人間が相手だろうと普通に殺しに来るので気をつけてください。

Q:でも一回街の外に出るとかしてマップ切り替えしたら敵対状態は解除されるんでしょ?
A:ゲームじゃないのでセーブもロードもマップ切り替えもありません。街の外まで逃げても当然の権利のように追ってくるので安心してください。

Q:親父殿、この主人公はサイコパスにござるか。
A:左様。ノースティリスの冒険者です。

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