このすば*Elona 作:hasebe
慰安旅行を終え、春を目前に控えたある日。
あなたの血で汚れた店を綺麗に掃除しようとした女神アクアの善意の水害によって半壊した店と自宅が再建するとの事で、バニルに引越しの準備をしておくように忠告されたウィズ。
バニルの帰宅後、それまでの幸せいっぱい夢いっぱいなテンションから一転、見ていられないレベルで意気消沈していた彼女はしかしすぐに普段どおりに振舞ってみせた。
「……ご心配をかけてしまってすみませんでした。でももう大丈夫ですよ。別に二度と会えなくなるわけじゃないんですし、独りで暮らすのは慣れてますから」
ウィズは、あなたにそう言って笑った。それが空元気である事はバニルのように万物を見通す目を持たないあなたにも明らかであったが、下手に突くのも薮蛇だろうとあえて触れずにおいた。
仮にウィズが引っ越したくないと言うのならばそれでも良かったのだが、どうやら彼女にその意思は無いようで、早速引越しの為の荷造りを始める事になる。
たった数ヶ月とはいえ、すっかり自宅にウィズがいる事に馴染んでしまったあなたとしては一週間後と言わずもう少し、と思わないでもなかったが、いずれ引っ越す事が決まっているのならば早い方がいいだろうと、互いの為を思って荷造りを手伝うに留まる事になる。
引き伸ばしすぎてぐずぐずと仮の同居が長引くのも悪いだろうと判断したのだ。
だがその日の夜、ウィズは荒れた。
それはもう凄まじく荒れた。
■
「ほら、もっと飲んで飲んで! あははははは! あははははははははっ!」
その日は今までお世話になったお礼との事で、いつもより少しだけ気合いの入った夕食だった。
あなたも料理と酒を堪能し、後一週間でこんな生活ともお別れかと思うと残念な気持ちでいっぱいになっていたのだが、気付けばあなたの家はとてもではないが他人には見せられない悲惨な有様になっていた。
「ちょっといいとこ見てみたい! ほらイッキ、イッキ! あはっはははははは!」
その主な原因は、ご覧の通り絵に描いたような酷い酔い方をしてしまったウィズである。
あなたはここまで正体を無くしてしまったウィズを見るのは初めてだった。
決して彼女が下戸というわけではない。普段のウィズはちゃんと自分の限界を見極めて、無理をしない程度にしか飲まないのだが、今日はご覧の有様だ。どうしてこんな事になってしまったのだろうか。
一見するといつも通りのウィズにベルディアが戦々恐々としていた時点でかなり怪しいものがあったが、やはりウィズとしても引越しに何かしら思うところがあったらしい。空元気は所詮空元気に過ぎないという事だろう。意外とストレスを胸の奥に溜め込むタイプなのかもしれない。
飲みすぎは良くないとあなたが止めても私はリッチーですから大丈夫ですと水を飲むようにがぶがぶと酒を煽り続けた結果がこれである。どこかやけっぱちな空気を纏っていた彼女を無理矢理にでも止めるか、めぐみんに倣って爆裂魔法を使わせてすっきりさせておけば良かったと後悔するも後の祭。
ウィズが飲み干した酒瓶の数は既に二桁を超えている。彼女がリッチーとはいえ、いつ嘔吐してもおかしくはない。ノースティリスには女性のゲロゲロを回収して保管する事に人生を捧げている性癖持ちが存在するが、あなたは至ってノーマルなのでウィズが吐いたら掃除せねばなるまい。
現在この場にバニルがいないのが不幸中の幸いである。あのイイ性格をした大悪魔が今のウィズを見てどんな反応を示すかは想像に難くない。
ウィズと相性が悪い女神アクアは意外に面倒見が良く女神に相応しい慈愛を見せる時があるので、痛ましい姿となった今のウィズを見てもそっとしておいてくれるだろう。多分、きっと。
「ああそうらわらひいいこと思いつきました! ベッド! ベッドに行きまひょう!! ほらほらほらほら!!」
べろんべろんでぐでんぐでんなりっちぃは何を思ったのか、突然そんな事を言い出した。
どろりと濁った目を爛々と輝かせて力強くあなたを引っ張るウィズは、明らかに尋常の様子ではない。
果たしてこれはどうしたものか。気絶させるのが手っ取り早いのだろうが、こんなアホな理由で彼女に暴力を振るうわけにもいかず、あなたはベルディアに声をかけて助けを求めた。
「
駄目そうである。
「あーあーいいなーご主人はさーイチャコラしやがってよークソがっ! 俺ももっとさーモテたかったよなーマジでなーつれーわーマジでなー俺と代われーもしくは滅びろー今すぐ世界滅びろー! なー、マシロー! ……聞いてるのかよ……なぁ!」
ダンッ、と強くテーブルを叩く、腐ったドブ川のような目のベルディアは、大きな酒瓶を片手でラッパ飲みしながらやさぐれていた。ちなみにマシロは酒の臭いを嫌って早々にどこかに行ってしまったのでこの場にはいない。
ベルディアはウィズに負けず劣らず出来上がっており、こちらの話はまるで通っていない。まるで使えないペットだとあなたは舌打ちする。
あなたもウィズに付き合わされる形で結構な量の酒を飲んでいるが、今の所は前後不覚になる量ではない。なのでいっそ自分も二人のように酔い潰れてしまいたい所だが、そうなってしまった場合、本当に何が起きるか分からなかった。酔っ払いが揃った時のストッパー不在の恐怖をあなたはよく知るが故に。
ノースティリスではよくある事、の一言で終わる向こうならともかく、流石にこの世界では酔った勢いで喧嘩を始め、核とメテオと終末の乱れうちで周囲が更地になっていた、などというのは冗談や笑い話では済まないと思われる。
平和なのは大変結構なのだが、こういう所は若干窮屈だとあなたは嘆息した。だからこそ気分転換の為、定期的にシェルター終末に潜っているわけだが。
「……むー!」
おもむろに、ウィズは両手であなたの頬を押さえつけてきた。
ひんやりとした手の平が酒で火照った肌に心地よい。
目が据わっているのはさっきからだが、やけに機嫌が悪くなったように見える。
酔っ払いのテンションと女心は秋の空のようにころころ変化するものだと理解はしているのだが。
「もう! 今はベルディアさんじゃなくてわーたーし! わたしだけを見ーてーくーだーさーいー!」
あなたの頬をむにむにと弄びながら、小さな子供のように頬を膨らませて可愛らしい駄々をこねはじめたウィズを見てたまらなく微笑ましさを感じるのと同時に、これは本当に大丈夫なのだろうか、とあなたは戦慄した。
アクセルの住人が見れば別人、あるいは悪い夢だと断じそうなほどに今のウィズはキャラ崩壊が甚だしいが、それだけではない。
明日酔いが醒めて正気に戻っているであろう彼女と顔を合わせるのが怖すぎるのだ。
仮に今日の記憶が残っていた場合、ウィズは世を儚んで引き篭もるか失踪しかねない。
今はあなたでも何とか対処可能であるし、ちょっと悪酔いしただけの可愛いものである。しかしいざという時は、申し訳無いがウィズ本人の為にも本気で対処せねばなるまいとあなたは決心した。ぷりぷりと怒ったウィズに強引に引き摺られ、彼女の部屋に連れ込まれながら。
「夢の中で親父がよーしパパ爆発魔法の杖使っちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない」
もう見てらんないのはベルディアの醜態である。
■
「そこに座っててください。寝なくていいです」
促されるまま、普段ウィズが寝起きしているベッドに腰掛ける。
自分は一体何をされるのだろうかと、この世界に来て以来最大級の緊張感を感じながら。
せめて不死王の手だけは食らわないようにしておかねばなるまいと、衣装箪笥を漁るウィズの後姿を見ながら警戒する。
「じゃーん!」
あなたの警戒は刹那で木っ端微塵に砕け散る事になる。
振り向いたウィズがその手に持っていた、黒い三角形の布によって。
「前にゆんゆんさんのパンツ欲しがってましたよね? だから私のパンツをあげます! どうぞ受け取ってください! 日頃お世話になってるお返しです!」
パンツ。ウィズのパンツである。
しかも窃盗や殺害で手に入れた物ではなく、本人が直接手渡してきたパンツである。
自然にごくりと喉が鳴った。
――ブラボー!
――今夜は眠れないな!
――何なのだ、これは! どうすればいいのだ?!
――惑わされるな! ……惑わされるなと言っておるーっ!
――ウィズは胸も尻も最高でおじゃるな!
――好きですぅ! 付き合ってくだぁさい!
夢にも思わぬプレゼントに、酔いも相まってあなたの脳内で支離滅裂かつ狂気的な毒電波が乱れ飛ぶ。
軽く錯乱したまま、差し出されたパンツをあなたは反射的に受け取って懐に仕舞った。ウィズが酔った勢いで行動しているのは理解している。しかしウィズが泣かない限りは絶対に返すまいと誓いながら。
「いいですか? 絶対に避けないでくださいね? 絶対ですよ? 避けちゃ駄目ですからね?」
ジリジリと腰を低くしてにじり寄ってくるウィズだが、彼女は何をするつもりなのだろうか。
避けるなとしきりに言ってくるが、まさかそれは避けろというフリなのだろうか。
そんなあなたの疑問は数秒後に解決した。
他ならぬ、ウィズの行動によって。
「ドーン!」
何を思ったのか、いや、酔った勢いで行動しているだけで何も考えていないのだろうが、ウィズは勢いよくのしかかってきた。何に? もちろんあなたにだ。
後先考えずに突っ込んできたせいでウィズの頭部がみぞおちに直撃し、ぐふっと軽く咳き込む。
一瞬恨みでも買っていたのだろうかと邪推するも、ベッドに転がり頭部をあなたの足の上に乗せるウィズを見てそうではないとすぐに悟る。
「んふふふふー」
ウィズが言外にあなたに要求してきたのは、いわゆる膝枕であった。酔った勢いで加減が利かなかったようだ。
しかし膝枕などウィズやゆんゆんがやるならともかく、男で、更に鍛えているあなたの足では枕と呼ぶには到底役者が不足しているだろう。
硬くないのだろうか。
「すっごく硬いです。おっきくて太くてガチガチですね!」
硬いと言いながらも離れるつもりは欠片も無いようで、ウィズは大胆にもあなたの足に手を当てて撫でたり揉んだりしてきた。少しくすぐったい。幸せそうな表情で太股に頬ずりしながら手を這わせるその姿はセクハラに相違なく、人によってはご褒美なのかもしれない。あなたとしては微妙な所である。
だが少なくとも、あなたとウィズの立場が逆だったら完全にアウトな光景である事だけは確かだろう。
そうやって一頻りあなたの足を堪能したウィズは赤ら顔のまま、おもむろにあなたの手を取って自身の頭に乗せて来た。
「頭、撫でてください」
膝枕といい、お互い甘えたい盛りでもないだろうに、と苦笑しつつも言われるままに髪を撫で付ける。
ウィズのふわふわでさらさらの長髪は、何度触っても驚くほどに手触りが良い。
浴びるように飲んでいたせいで、吐息が酒臭いのが若干マイナスポイントだが、それはお互い様だろう。
「えへへ……えへへへへ……」
手櫛が髪を梳く感覚に、心地良さそうにふにゃふにゃと表情を蕩けさせ、ベッドの上で足をじたばたと暴れさせるぽわぽわりっちぃ。
特に止めろとも言われないので、そのまま撫で続ける。
「…………」
そうしてかわいいいきものと化したウィズを膝の上に乗せたまま、十分が経過した。
あなたの膝の上で一転して静かになってしまったウィズだが、眠ってしまったのだろうか。
小さく声をかけると、ウィズはその場で体勢を変え、ごろんと転がってあなたを見上げる形になった。
「……あなたも」
眦はとろんと下がってきているものの、まだ起きているようだ。
といっても、この分では寝付くのは時間の問題だろうが。
「あなたも、私と一緒にお引越ししましょうよぅ……」
半ば眠っている状態のまま、ウィズはそう呟いた。
髪を撫でるあなたの手がピタリと止まる。
「一人は……寂しいから、嫌です。今のままでいいんです。今のままがいいんです……。だから、これからもずっと一緒の家に住みましょうよ……。私、お掃除もお洗濯もお料理もちゃんとやりますから……だから……だから……」
酔いが回っているせいで呂律はあやふや、声も途切れ途切れだったが、それでもあなたにはウィズの声がハッキリと聞こえていた。
だがあなたは黙して答えず、ただ寂しがりやの友人の頭を撫でるのを再開する。
「……しを……りに……しないで……」
そして、そのままウィズは深い眠りに落ちてしまう。
酔い潰れてしまったのかベルディアの声も聞こえない、静かな夜の中。
マシロのにゃあ、という鳴き声が聞こえた。
■
それから数日が経過し……ウィズが引っ越す日がやってきた。
「ご飯沢山作っておきましたから、ベルディアさんと一緒に温めて食べてくださいね」
荷物を全て運び終え、少しだけがらんとなった
何も無くなった自分の部屋に入った時、ウィズはもう自分の居場所はこの家には無いのだと実感してしまった。
徒歩で遊びに来れる距離にある場所とはいえ、まるで楽しい夢が覚めてしまったような寂寥感を覚える。
「お風呂にはちゃんと入って、しっかり身体を拭いてくださいね? もうすぐ春とはいってもまだ肌寒いんですから、寝る時はちゃんと毛布を被って風邪をひかないように……」
まるで母親か祖母のような物言いですね、と内心で自嘲。
見れば彼も苦笑しており、少しだけ顔が熱くなる。
「……今まで、本当にありがとうございました。たった数ヶ月でしたけど、私、あなた達と暮らした日々の事、一生忘れません」
長々と玄関に居座るのも悪いだろうと、後ろ髪を引かれる思いを何とか断ち切って、今までお世話になった友人に向かって、深く頭を下げる。
居候が終わっただけで、自分達の友人付き合いが終わったわけではない。
そう必死に自分に言い聞かせながら。
「……帰ってきちゃいましたね」
女神アクアによって半壊し、更地になっていたウィズの店は以前と同様……いや、それ以上に立派な建物となっていた。
明らかに値段以上のお仕事である。
再建についてはタイミング悪く発生した豪雪の影響で随分と延期してしまったので、その詫びを兼ねているのだろう。
「ただいま……っていっても、誰もいないんですけどね」
新築の自宅の扉をあけて、誰に向けるでもなくただいまと挨拶をする。
たったそれだけの事なのに、どうにも違和感を感じてしまっている自分に苦笑いを浮かべるウィズ。
同時にもう自分がお帰りなさい、と言う事は無いのだろうな、と痛感した。
ウィズはそのまま家の中に送られていた荷解きを始め、近所への挨拶回り、店のレイアウトや開店日を考えるなど、何かから目を背けるかのように作業に没頭する事になる。
そして、いつもよりずっと遅めの夕飯時。
ウィズは食卓の前で唐突に途方に暮れた。
彼女が作った夕食は三人分。
自分と、ベルディアと、彼の分である。
ウィズは皿を並べ始めた段階でようやく気付いた。
もう、食事は自分の分しか用意しなくていいのだと。
「作りすぎちゃいましたね……まあ明日以降のご飯にしましょうか」
本当に度し難い、と思わず自嘲の笑みを浮かべる。
完全に無意識で作っていたのだ。何もかも忘れ、作業に没頭していたせいだろう。
「いただきます」
二人はいつも沢山食べてくれたから、作り甲斐があったな、などと思いながら食事を始める。
カチャカチャと、ただ自分の食事の音だけが鳴る、静かで孤独な一時。
「やっぱり、一人で食べるご飯はいつもより美味しくないですね……」
数ヶ月ぶりに一人で囲む食卓は、酷く冷たくて味気ないものだった。
料理は失敗していないし、作り立てで冷めてもいない。
だというのに、どうしても食が進まない。
これから毎日こんな風だと考えただけで、どうしようもなく胃が重くなる。
以前の自分に戻っただけだというのに。
「……ごちそうさまでした」
結局、一人分を半分も食べずにウィズは夕食を終えた。
片付けもそこそこに寝室に足を運ぶ。今の自分はさぞ酷い顔をしている事だろう。
部屋の明かりをつける事無く、ぼふんとベッドに倒れこんだ。
粗方荷物整理を終え、新しい自室は綺麗に片付いており、布団は温かいものの、気分はまるで真冬のように寒々しい。
いつからだろう。
あそこが自分の家だと、心の底から思うようになっていたのは。
これからもこんな日々がずっと続くと、何の根拠も無くそう思ってしまっていたのは。
その結果がこのザマである。
バニルや彼が悪いわけではない。値段以上の仕事をしてくれた大工達には感謝の言葉も無い。
強いて言えば居候の身である事を忘れ、能天気に日々を送っていた自分が悪い。
理解はしていたが、今は何も考えたくない気分だった。
「…………」
自身がどうしようもなく弱くなった事を実感する。かつての仲間達や昔の自分が今の自分を見たら何と言うだろう。
仲間達はともかく、他人に厳しく、自分にはもっと厳しかった、自分がまだ人間だった頃。
あれから自分でも別人かと思うほどに変わってしまっている以上、今の自分に中々に辛辣な言葉が飛んでくるであろう事は想像に難くない。
現役時代は勿論の事、ちょうど去年の今頃の自分であれば、一人で暮らす事など普通に耐えられた。同時に借金漬けでひもじい思いもしていたわけだが。
そして自分が借金に困らなくなったのは彼が宝島を見つけ、自分に助けを求めてくれたおかげなわけで。
思えば彼はいつだって自分に手を差し伸べてくれていた。
「……はあ」
考えれば考えるだけ、終わりの無い沼に嵌りこんでいる気がした。
意識を切り替える為に臓腑に溜まった澱んだ空気を搾り出すように溜息を吐き、首にかかったままの指輪を指でなぞる。
少しだけ気分が軽くなった。気休めとはいえ、今はそれで十分だった。
「……いつまでもくよくよしてちゃいけませんよね。同じ街に住んでるんですし、別に会えなくなっちゃったわけじゃないんですから。こんな事じゃバニルさんにも笑われちゃいます」
今は胸にぽっかりと穴が開いたような気分になってしまっているけれど、それも直に慣れるだろう。
――――だって私は、今までだって、ずっとそうしてきたのだから。
■
……酷い悪夢を見た。
あなたは忌々しいとばかりに表情を歪め、大きく溜息を吐く。
寝起きはこれ以上ないほどに最悪だった。昨日の酒気は抜けているのに軽く吐き気すら催すほどに。
水差しからコップに水を注ぎ、一気に呷る。
ここまでの夢見の悪さは、地平と空を埋め尽くす無限の妹に囲まれた夢を見た時以来である。
キンキンの冷水で流しても喉と胸の奥にしこりが残ったような感覚に、あなたは声無き声をあげた。
まさかと思いながらも、一応念の為カレンダーを確認。
日付はウィズが酔って暴れた翌日のものだった。
件の夢が現実のものではなかった事にほっと人心地付いたものの、とびっきりの悪夢を見た気分だし、実際に悪夢であった。
非常に確度の高い未来予想図、とでも言えばいいのだろうか。
まるでこのままいけばまず間違いなくこうなるだろう、という一種の予知にも似た生々しさを感じた。
それにしたってアレは無い。ウィズはあそこまで弱い女性ではないだろうし、幾らなんでも鬱々しいにも程があるとあなたはベッドから立ち上がりながら、鈍い重さを感じる頭を振って眠気を散らす。
いつもであれば心地よい二度寝に洒落込む時間帯だが、先の夢の続きを見るかと思うと再度ベッドに潜る気など微塵も起きない。
憂鬱な気分を洗い流す為、冷たい水で顔を洗ってくる事にした。
「あ、おはようございます」
洗顔の為に自室を出たあなたを出迎えたのは、いつも通りのウィズだった。
清潔感溢れる白の縦セーターの上にエプロンを付け、髪を一束に纏めた彼女の表情からは先日の大暴走の面影は見受けられず、本当にいつも通りだ。
夢の中での非常に鬱々しかった様子はともかく、あれだけ泥酔していたのだ。昨日の事は何も覚えていないのかもしれない。むしろそうあってほしいと強く願う。
「あの……実は昨日の夕飯の後の記憶が無いんですけど、私、何も変な事しませんでしたか?」
あなたの予測を裏付けるようにウィズはそう言った。
あれだけ酒乱して大暴れしていたのだ。少しでも昨日の事を覚えていたならばもう少し違った反応になるだろうとあなたは安堵しながら、少し酔いが酷かったが、それでも変な事は何もしなかったと告げた。
「そ、そうですか? 良かった……酔った勢いで何かしでかしてしまったのではないかと……」
えへへ、と笑うウィズからあなたは違和感を覚えられないようにこっそりと目を背けた。
嘘はついていない。確かにウィズは昨日、何も変な事はしなかった。
ただ、この世界の住人であるウィズ本人や他の者からしてみればどうかは分からない。世の中には知らない方が幸せな事があるだけだ。
答えは四次元ポケットの中の黒い布地だけが知っている。
■
「…………ど、どうでしょうか?」
無表情で目の前に持っていった液体入りの瓶を揺らすあなたに、冷や汗を流しながら問いかけてくるウィズ。
あなたがその手に持っているのは中身入りのポーションの瓶である。
ポーションとはいってもこの世界で流通しているものではない。ましてやウィズが大量に仕入れ、あなたが全て購入し尽くした爆発ポーションでもない。仮にあれが全て爆発した場合、あなたの家一帯は確実に更地になるだろう。
ウィズの商才はさておき、これは軽傷治癒のポーションだ。ちゃんと鑑定の魔法を使って確認もしているので間違いない。
軽傷治癒のポーションとはその名が示すとおり、切り傷などの軽い怪我を癒せるノースティリスで扱われているポーションである。
ゴブリンシャーマンの持つ杖から魔力を抽出して生成された水薬……を錬金術のスキルで再現したポーションで、最も作成が簡単なポーションでもある。
効果については一般人ならともかく、冒険者にとっては殆ど気休めと言っていい。冒険者の中には渇きを凌ぐ為だけに携帯している者もいるので、まあそれくらいの性能だ。
あえて説明するまでも無いだろうが、このポーションはあなたがノースティリスから持ち込んだものでも、あなたが自作したものでもない。
ウィズがあなたから譲り受けた錬金術の道具を使い、一から作成したものである。
卒業試験というわけではないが、引っ越しと店の新装開店の前に一度これまでの成果を見せる事になったのだ。
鑑定で分かってはいるものの、一応念の為、効果を確かめる為に愛剣を取り出し、あなたは刃に軽く指を押し当てて小さな切り傷を付ける。
そのままあなたがポーションを呷ると、指の傷はたちまち癒えてしまった。
つまりこのポーションがちゃんと作られている証明であり、それを理解したウィズもほっと息を吐きながら血を舐めた指を拭く為の布巾を渡してきた。
「あの……あなたはこれ、売り物になると思いますか?」
なるだろう。ならないわけがない。
値段や同業者との兼ね合いもあるだろうが、それはあなたの関与すべき話ではない。
だが使う分には軽傷治癒や重傷治癒のポーションであれば、駆け出し冒険者が携帯しておく常備薬として申し分ない。少なくともノースティリスではそうだった。真っ当な商品にさぞバニルも喜ぶ事だろう。
ちなみにノースティリスの回復ポーションはこの世界のポーションと比較すると効力が弱い傾向にある。
こちらでは精々数百万から数千万エリスで販売しているが、瀕死の
だが、明確にノースティリスのポーションが優れている点が一つだけある。
ノースティリスのポーションはどれだけ時間が経っても、どんな劣悪な環境下で放置していても決して劣化しないのだ。
それ故にこの世界のポーションが食べ物のように時間経過で劣化すると知った時のあなたの驚きと衝撃は凄まじいものがあった。一日二日で駄目になるというわけではないが、劣化するポーションというのは酷くカルチャーショックを受けたものである。
まあ四次元ポケットに突っ込むと腐った食物が元通りになるのと同じように、品質は復活したのだが。
さて、そんなノースティリスのポーションを作ったウィズだが、彼女は日々自作の錬金術の学習書を読み込んでいたので、軽傷治癒のポーション作成自体は全く苦労しなかった。ノースティリスではスキルを覚え立ての駆け出しでも作成可能な程度には作るのが簡単なので、ウィズほどの魔法使いであれば当然だ。彼女は既に下から数えて五番目の効力を持つ、癒し手のポーションの作成まで成功している。
しかし最も効き目の弱い軽傷治癒のポーションとはいえ、流石にウィズがこのポーションをあなたの持ち込んだノースティリスの
どこにでも売っている安価な薬草を磨り潰して抽出したものを、錬金術スキルと錬金術の道具を使いながら綺麗な水と混ぜるだけらしいのだが、これはあなたでは到底考え付かなかったし実際に教えられても今のあなたでは再現出来なかった。
ウィズ曰くこの世界のポーション作成を学べばあなたでも再現が可能だとの事だが、それを差し引いても紛う事無き偉業である。
「残った問題は時間経過による品質劣化の調査なんですけど、こればっかりは今確かめるのは無理なんですよね……」
作成と検証を終え、機材を片付けるウィズにあなたは声をかける。
先日から考えていた事の答えを友人に告げる為に。
「はい? 私に話したい事、ですか?」
曰く、ウィズと同じタイミングで自分もこの家を引き払って別の地に引っ越す事に決めた、と。
「えっ……えええええええええええええ!?」
絶叫である。
勢いよく詰め寄ってきたウィズはがっくんがっくんとあなたの肩を揺らす。
「な、なんでですか!? なんでこのタイミングでそんな大事な話を!? どこに引っ越すんですか!? アクセルには戻ってきてくれるんですか!?」
どこも何も、ウィズの家の近くに引っ越すだけである。
あなたの記憶が確かなら、ウィズ魔法店の隣の家は彼女があなたの家に居候している間に空き家になっており、まだ人が住んでいなかった筈だ。
「……へ? え、でも、それって何の意味が……」
あなたの発言に目を白黒させるウィズ。
あなたはここを所詮はこの世界における仮の住まいと定めているので、ウィズが出て行くこの家に愛着など湧いていないというのもあるが、一応意味が無いわけではない。
マシロの世話や、女神ウォルバクの風呂やゆんゆんの鍛錬などの件を考えると、互いの家が近い方が良いのは自明の理である。
バニルもウィズの家の近くに引っ越すようであるし、あなたが彼の抑止の一翼を担っているとギルドに思われている以上、あまり離れると何を言われるか分からない、というのもある。
「…………!!」
ぱあっと顔を輝かせるウィズを見て、あなたは思う。
色々言ったが、決してウィズがパンツを代価にあなたに引越しを依頼したと判断したのが直接の理由なわけではない。
そう、幾ら欲して止まなかったとはいえ、決してパンツは原因ではないのだ。
多分、きっと。
★《ウィズのパンティー》
不確定名、ぽわぽわりっちぃのぱんつ。
それはシルク製だ。
それは普通の下着だ。
それは使用する事が出来る。
泥酔したウィズが手ずから渡してきた、黒の下着だ。
普段は使わないとっておきの特注品で、不思議な魔法がかかっている。
装備品として運用可能な強度は持っていない。
~このすばパンツ辞典~
「あれっ? 下着が一つ無くなっているような……」
~魔法道具店の店主『ウィズ』~