その日、比企谷八幡は自ら命を絶った。   作:羽田 茂

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幕章
こうして、私達の青春ラブコメは幕を閉じる。上


 部活を休みにした金曜日から、土曜、日曜、月曜日と、三日間の休みを挟んだ火曜日。

 

「雪ノ下、今すぐ生徒指導室に行くように」

 朝登校し、教室に足を踏み入れた瞬間、担任が私にそう言った。

「…?」

 生徒指導室と聞いて、真っ先に出たのは平塚先生の顔。

 また愚痴か何かかしら……。いい加減相手を見つけて欲しいわ。どうしてあんなに格好良いのに結婚できないのかしら。

 原因は分かりきっているのだけれど、そう思わずにはいられない。

 

「…分かりました。では、すぐ向かいます」

 

 事務的にそう応えて、鞄を席に置こうと教室に入る。

 すると、慌てた様子で担任が言う。

「すまん。言い忘れていたが、鞄も全て持って行ってくれ」

 

 

 私はその言葉に首をかしげる。

 周りを見ても、私以外のクラスメイトはごく普通に鞄を鞄入れに仕舞って、ごく普通に友人間で会話している。

 誰一人としてその様にしていない。

 

「…それは、何故でしょうか」

 

 理由もなしにそんな事を言われても、納得できるはずが無い。

 これじゃあ、まるで私が何かやらかしたかのようではないか。

 

 私の質問に、担任は苦虫を噛み潰したかのような表情になった。

 

「……行けば分かる。来て早々悪いが、早く生徒指導室へ向かってくれ」

 これ以上何も言う気は無いということね。

「……はい、分かりました」

 

 私は踵を返し、教室から出て行く。つい溜息が溢れた。

 

 はぁ……平塚先生も朝から何なのかしら……。まぁ、どうせ奉仕部関連の事だと思うけれど…。

 ………奉仕部?

 頭に浮かんだ名詞に、ぴたりと足を止める。

 

 もしコレが奉仕部関連だったとしたら、比企谷君と由比ヶ浜さんもいるかもしれないわね。比企谷君が……。

 

 ………。

 

 ………早く行きましょう。人を待たすのは褒められた行為じゃ無いわよね。そもそも私は部長であるわけだから、比企が…いえ、部員より早めに行くのは当たり前の事よ。

 

 私は早歩きで廊下を進んで行く。

 

 突き当たりを曲がれば、目の前は進路指導室だ。

 私は高ぶる気持ちを抑えつけ、ルンルン気分で廊下を曲る。そしてそこには、

 

「平塚先生」

「……やあ、雪ノ下」

 

 私に気付いた平塚先生がひらひらと手を振る。

 

「おはようございます。それで、一体何の用件でしょうか」

 

 私がそう質問すると、途端平塚先生は顔を俯かせた。

 長い髪が微かに垂れ下がり、その顔に陰影が落ちる。

 

 普段の平塚先生では想像も出来ないその暗い表情に、昂っていた気持ちが一気に冷めていった。

 平塚先生が合コン、結婚関係で落ち込んでいる姿を見る事は多々あったが、今回の彼女の姿からは、明らかにそれとは違う何かが感じられたからだ。

 

「……平塚先生?」

「すまない雪ノ下……話は後だ。……入れ」

 

 彼女はそう言って、生徒指導室の扉を開け、中に入っていった。

 私もそれに続き入室する。

 

「ゆきのん!」

「由比ヶ浜さん」

 入室すると、突然由比ヶ浜さんが抱き付いてきた。これが彼の言うゆる百合という奴なのかしら。前聞いたときは不快に思ったけれど、今はあまり不快に思わなかった。

 由比ヶ浜さんを引き剝がし、改めて進路指導室を見渡すと、見知った顔がいくつかあった。

 戸塚君、葉山君、戸部君、三浦さん、川崎さん、海老名さん……私の面識の無い人もいる。

 しかし……その顔ぶれの中に比企谷君の姿は無い。それを少し残念に思った。

 

 

「雪ノ下。来てもらったばかりで悪いが、ここにいる生徒達全員を奉仕部へ誘導してもらって良いだろうか。見ての通り、この人数では狭くてな」

 確かに、あまり大きい面積とはいえない進路指導室は、生徒によりぎゅうぎゅうになってしまっており、みんな狭そうにしている。

 

 

「それと、幾つか長机を運んでおいてくれ」

「長机をですか?」

「ああ。少なくとも今日一日……もしかしたら数日程奉仕部で過ごしてもらう事になるだろう」

 平塚先生がみんなに聞こえるように言う。

 すると、この話は彼等も初耳だったのか、一斉に平塚先生に驚いた顔を向けた。

 

「授業はどうなるんですか?」

「て、いうか。どうして連れてこられたかの説明まだなんですけど」

「数日って、いつまでですか!?」

「奉仕部ってどこ……ていうかそれ何なんすか?……部活?」

 

 生徒指導室の中を、矢継ぎ早に質問が飛び交う。

 それに先生は大きく嘆息して、『パンッ』と手を叩く。

 

 その大きな音に、騒めいていた室内が静かになる。平塚先生は首をぐるりと動かし、それを確認してから再び口を開く。

 

「何故、どうしてという質問には解答できない。まだ私にはそれを言う権限がない。ただ、出席状況や授業については安心して良い」

 

 その言葉に、ところどころから、小さく安堵の声が聞こえる。しかし、同時に疑問の声も上がっていた。どうやら権限という言葉が引っ掛かっているようだ。

 それもそうだ。中身は分からないが、生徒指導としても大きく動きすぎている。にも関わらず、詳しい説明は一切無い。

 もしこちらに非があるのだとすれば、教師側ももっと高圧的に来るはずだ。しかし、そのような様子は一切無い。

 

 皆が違和感を感じる材料はたくさん出てくる。

 

「他に質問は」

 しかし、平塚先生がそう一言言うと、すぐに皆が口を閉じる。

 

 そんな私達の様子に、平塚先生は数秒瞑目した後、

「それじゃあ、私はもうすぐ会議があるので失礼するよ」

 と早口に言い、扉を開けて外に出た。

 

 そして、扉に手を掛けたまま、

「では雪ノ下、由比ヶ浜。後は頼んだ」

 と薄い笑顔で言った。その痛々しい笑顔が、私の中にあった追求の言葉を呑み込ませた。

 

「…………分かりました。後の事はお任せ下さい」

 

「ああ、助かる」

 そう言うと、彼女は私達に小さく手を振り、今度こそ出て行った。

 カツンカツンというヒールの音が遠ざかっていく。

 

「それじゃあ、私達も移動しましょうか」

「……うん」

 由比ヶ浜さんも、元気の無い平塚先生を気に掛けている様子だ。

 

「大丈夫よ、平塚先生の事だから次に顔を出したときはケロッとしている筈よ」

 心にも思ってもいない事を口にする。

 

 すると、由比ヶ浜さんはきょとんとした顔をした。

 しかし、それも一瞬の事ですぐに優しい表情になり、私の目をジッと見てくる。

「な、何かしら……?」

 それに、気恥ずかしいような、居心地の悪いような気持ちになり、思わず目を逸らした。

 

「うんん、なんでもない……ありがとうゆきのん!」

 ありがとう……?何故お礼を言うのかしら。

 

 そう私が質問するよりも早く、

「それじゃあ、そろそろ仕事しなきゃね!」

 と、強引に話を打ち切るように由比ヶ浜さんが言った。

 

 

 

 

 

   ×   ×  .×

 

 

 

 

 キンコンカンコンと、本日二度目の休み時間を知らせるチャイムが鳴り響く。

 

 それを合図とするように、静かだった部室内にざわざわと喧騒が広がっていく。

 一つの長机と三つの椅子しか無かった奉仕部室内は、この二時間程度で随分変わった。

 長机は3つまで増えており、一つの長机につき4〜5人程度の生徒が座っている。

 だだっ広いと思っていた室内が、少しだけ狭くなったように感じた。

 

「ゆーきのん!」

 隣から私を呼ぶ声が聞こえ、そちらに顔を向ける。

 

「何かしら」

「なにも〜」

 そう言いながら、彼女は私を横からぎゅーっと抱き締めてきた。……あったかいわ。

 ……ではなくてッ。

「由比ヶ浜さん、ちょっと良いかしら。一つ聞きたいことがあるのだけれど」

「なに〜」

 べったり張り付かれたまま、間延びした声で返される。

「ここにいる人達、私以外全員F組の生徒よね?」

「うん、そうだよ?」

 そう、朝生徒指導室に呼び出されていた生徒は私以外全員、由比ヶ浜さん、比企谷君と同じクラスの人達だった。

 

「なら、どうして私だけ、他のクラスの人に混ぜられたのかしら」

「うー、それは……」

 口に出した疑問に、由比ヶ浜さんは口をへの字に曲げ、むむっと難しい顔をした。

 

 

 授業中……といっても自習だったけれど、その時間私はずっとここに呼ばれた理由を考えていた。

 私がここに呼ばれた意味……その答えに辿り着くには、必然的に他の人達がここに呼ばれた意味も考えなくてはならなくなる。しかし、幾ら思案しても、その解が見えて来ないのだ。

 

「川崎さん、三浦さん、戸塚さん達だけならば、奉仕部に依頼をした人物、または奉仕部で関わりがあった人物が中心に集められたという可能性もあったのだけれど……」

「うん、ヒッキーがいないもんね」

 私の言葉を引き継ぐように、由比ヶ浜さんがポツリと言う。

 そう、その可能性は誠に遺憾ながら……誠に遺憾ながら比企谷君がいない時点で除外されている。

 

「そうね……だとすれば、比企谷君が呼び出されていないのはおかしいわよね」

「あ、それなんだけどね……。今日ヒッキー学校に来てないみたいなの。朝ヒッキーの席見たけどいなかったから。ヒッキーって普段朝は机に突っ伏して寝てるし」

 そして、最後に朝寝てるヒッキー見たのっていつ以来だったっけーと首をひねりながら付け足した。

 彼女のその言葉に私は落胆を隠すことが出来ない。

「そうなの……」

 残念だわ……、折角の平日なのに……。そう言えば、平塚先生は当分はここで過ごす事になるかもしれない、と言っていたわよね。

 もしそうなれば、また三人で奉仕部で過ごせるのは当分お預けということになるわね……。

 私はぷふーと空気を吐き出す。

 

「ゆきのん、そんなに落ち込まないで」

 由比ヶ浜さんが私の眼を見ながら、語りかけるように言う。

 その表情は聖母マリアに届き得るのではと思ってしまうほど慈しみに溢れ、優しいものだった。

 でもね、

「……あの、由比ヶ浜さん?そこまで落ち込んではいないのだけれど」

 いえ、確かに残念だとは思ったけれど。少し顔に出てしまったけれど。……けれど、そんな顔をされる程では無いわよ……?

「あなたは結婚したら、間違いなく夫と子供を甘やかすタイプね……」

「う…っ、言い返せない」

 そこは少しくらい言い返して欲しかった。そう思い、額に手を当てながら溜息を吐く。

 

 そんな私の様子を見て、「うっ」と由比ヶ浜さんが唸る。そして、わたわたと手を上下に動かしながら、

「そ、そういえばゆきのん!昨日突然学校休みになったよねー!」

 と、明らかに不自然に、急な話題転換を謀った。

 ここで掘り返すのも無粋よね……。まぁ、今回はその話題に乗ってあげましょう。

 

「そうね。朝6半時くらいに連絡網がまわってきたわ。それにしても妙よね、昨日は台風も何もなかった普通の平日だったのだけれど、どうして突然休校になったのかしら」

「うん、私も思った。それに、総武校以外の学校は、ちゃんと学校あったんだって」

 

 気の抜けたような顔で「不思議だよねー」と付け足す由比ヶ浜さん。

「そうなの?」

「うん、なんか昨日ね。同じ中学のクラスメイトに会ってねー」

 ちょっと待ちなさい。仮にも自宅学習となっていた筈よ。

 と、言っても。それを実際に守れている生徒がどれだけいるのかという話になるが。

「それでねー、綺麗なネックレス付けてたー」

 

 急激な話題転換が起こり、特に生産性のない、とりとめの無い会話が続く。

 

 結局その後も、昨日1日、家で何をしていたのか。という日常的な話題が続いた。

 そして、その途中で授業開始のチャイムが鳴った。

 

「チャイムなっちゃったねー」

 放送から流れる音に、シュンとした顔をする由比ヶ浜さん。

 

「そんな寂しそうな顔をしないでちょうだい。また次の休み時間があるじゃない。集中して取り組めば50分なんてすぐよ。たった50分そう考えれば良いじゃない」

「うー……。ねぇ、ゆきのん。もう少しお話しちゃだめ?」

 

 私の言葉に、由比ヶ浜さんは目をうるうると潤ませながら懇願(こんがん)する。

「ダメよ」

 鋭い眼光を向けながら、それをバッサリと切り捨てる。

 そして、今だに周りで騒がしくしている人達にも、同じ様に鋭い眼光を飛ばした。

 

 あっという間に部室内がシン、と静かになる。

 そして、

「………?」

 

 皆が窓の方へ目を向けた。

 

 外から喋り声が聞こえる。それも一人や二人では無く、何人もの大勢の声だ。

 と、いってもわざわざ席を立つ程ではない。こんなものなら、選挙直前に流れてくる立候補者のアピールの方が……言ってしまうのはなんだけれど、まだ煩いし耳に残る。

 

 視線を机上に置かれた自習課題に向け直す。

 私のその様子に、他の人達もしばらくは窓の外に視線を向けていたが、しばらくすると彼等も視線を課題に戻した。

 

 カリカリとペンを走らせる音が、時計の秒針の音と共に、室内にひっそりと響く。

 

 先程の私の睨みが効いているのか、それともスイッチが入ったのか、誰も喋らない。

 誰も喋らないからこそ、外から聞こえる声達がヤケに耳に入る。それが気に触る。

 その所為だろうか、少しずつ声が大きくなってきているような気がする。

 

 走らせていたペンを止め、耳を傾けーーー。

 

 

 

 

『比企谷八幡さんはどうなったんですか!!?この問題について、学校側は、加害者はどう責任をとるんですか!!?』

 

 

 

 

 突然、声が私達の鼓膜を震わせた。拡声器を通したようなノイズが混ざった声が。

 

 ーーーーーーえ?」

 

 その中に混ざっていた名前に、頭の中が一瞬にしてぐちゃぐちゃになる。

 私は反射的に椅子から立ち上がる。

 椅子が後ろに勢いよく倒れ、ガシャンと大きな音が鳴った。

 

 反比例するように静まり返る教室。そんな空間で、自分の心臓の鼓動だけが異常なまでに速く、大きく聞こえる。

 

「ど、どういうこと……?なんで、ヒッキーの名前が?……か、加害者って?責任って……なに?」

 由比ヶ浜さんの絞り出すような呟きは、皆の心の声を代弁していた。

 

 一方の私は、未だに混乱が解けず、口を動かすことすら出来ない。椅子から立ち上がったままの体勢で固まっている。

 口の中が乾いていき、鼓動が速くなっていくのが自分でも分かる。

 

 そんな私達を無視するように、声が聞こえてくる。

 

 

『進学校でのイジメの発生、証拠の写真まであるーーー』

 

 ……嘘。

 

『被害者の自室からは血痕が採取されーーー』

 

 ………嘘よ。

 

『刃物を使ってまでの暴力……傷害事件ーーー』

 

 ………そんな、だって彼は……。そんなこと……。

 

『主犯の学生達の処分はーーーーー』

 

 何も……相談してくれてな……。

 

『比企谷八幡さんは行方不明となっているようですが、これはーーーーー』

 

 身体の芯が一気に冷えてゆく。

 

 これ以上聞きたく無い。

 私は耳を(ふさ)ぎ座り込む。しかし、その行為はまるで意味を成さない。

 勝手に鼓膜は振動して、数多の情報を脳に伝えてゆく。

 歯の付け根がカチカチと音を立てながら震え、目が潤んだ。

 

『イジメ』『暴力』『刃物』『行方不明』『血痕』『加害者』『被害者』

 

 そして、『遺書(いしょ)

 

 まるで幼稚園児用のジグソーパズルでもしているかの様に、最悪の結末を繋ぎ合わせ作っていく。

 いや、パズルですらない。バラバラなように見えるだけで、最初からそれは完成された一つの解答だったのだ。

 

 暗く陰鬱な妄想が、頭の中を黒い水で浸す。

 

 呼吸が荒くなっているにも関わらず、口から吐き出される息は、氷のように冷たく凍っていく。

 

 そんなとき、誰かが私の手を握った。

「由比ヶ浜……さん」

 私の手を握る彼女の顔は、今にも泣き出しそうだった。

 

「ゆきのん……行こうッ!!」

「ど……こに?」

 由比ヶ浜さんが叫ぶように声を張りながら、座り込んだままの私の手を引っ張った。

 

「ヒッキーの……ヒッキーの家ッ!!はやく…早く……ッ!!」

 

 ………比企谷君の家に。

 別に光明が見えたわけではない。

 その言葉しか(すが)り付くものがなかっただけだ。

 

「………行きましょう」

 脚に力を入れて立ち上がり、私達は廊下に出る。

 朝よりも廊下の空気が冷たく感じた。それに思わず身震いする。

 

 由比ヶ浜さんに手を引かれながら、特別棟と本校舎とを繋ぐ廊下を抜ける。

 

 本校舎は、大混乱だった。

 

 授業中にも関わらず、騒がしい怒号が飛び交っている。生徒は野次馬のように窓にへばり付き、外を見ていた。

 歩きすぎる最後、どのクラスを覗いても、監督の教師はただ一人として付いていなかった。そのため、生徒は己の知りたいという欲求のままに行動している。

 

 靴箱玄関に向かう道すがらでは、

 

『すげぇ、アレテレビ局の車じゃね!?めっちゃカメラマン居んだけど!!』

『ウチの学校で傷害事件ってマジかよ、てかさ、ヒキガヤって奴死んだの?』

『先生達、めっちゃ頑張ってるわー』

『このまま当分学校休みになんないかなぁ?』

『これ進学とか響くんじゃない?マジ何やらかしてんの2F』

 

 などという声が絶え間無く聞こえてくる。

 彼等の会話はまるで、目の前に起きている現実では無く、遠い異郷の事を、フィクションを見ているようだった。

 そこに悪意は一切含まれていない。そこにあるのは、ただ残酷なまでの無責任と、中身のない器のように空虚な無意味さだけだ。

 聞いているだけで、気分が悪くなる。

 私は思わず口元を手で(おお)った。嘔吐感など無い。ただそうしなければという強い義務感があった。

 

 由比ヶ浜さんの歩くスピードが上がる。そして、私の手を握る力がグッと増した。

 彼女も一刻も早くここから離れたいのだろう。だが、鉛のように重い脚が、私達が足早に去ることを許さない。

 

 もし、今まで聞いたもの全てが真実だとしたら、私達は潰れてしまうかもしれない。

 きっと立ち直れない。

 ネガティブになった思考は、その上に更に暗い思考を塗り重ねていく。

 現実を直視する恐怖が、(まと)わり付いて離れない。

 由比ヶ浜さんの手を離さないように、キツくキツく握り返す。

 

 その時だった。

 

 私達の横を一人の生徒が凄まじい速度で通り過ぎたのは。

 揺れる亜麻色のセミロング。一瞬だけだったが、その髪の隙間から、必死の形相がチラと覗く。

 

「あの人は……確か……、一色さん…?」

 

 一色いろは。一年生にして、現総武校の生徒会長。

 彼女との面識はほとんどない。精々廊下で、たまにすれ違うことがあるくらいだ。

 ただ、それだけのものだったが、暗鬱(あんうつ)に歪んだその表情に、私は足を止める。

 

 しかし、それも一瞬の事で、

「ゆきのん!」

 と私をよぶ由比ヶ浜さんに、すぐ現実に引き戻された。

 

「あ…ごめんなさい」

「……どうしたの?」

 由比ヶ浜さんが心配そうな顔をしながら、私の顔を覗きこむようにしてくる。

 

「いえ……なんでもないわ」

 

 なんでもないと手を小さく振りながらそう答え、私は再び歩き出した。

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 学校の正門では、先生と報道関係者であろう人達とが、攻防を繰り広げている。

 大きなカメラを持った人間。テレビ局の車。

 

「人……いっぱい……。なら…」

 

 正面玄関から脱出するのは不可能だろうと考えた私は、彼等の視界に入らないように、ゆっくりと裏門へ回る。

 

 頭は恐ろしいほど冷え切っていた。

 いえ、冷静だと思い込んでいるだけで、全然冷静じゃないのかもしれない。

 だって、ほら。体がいう事をきかない。クラスメイトの静止を聞かず、気付けば走り出していたのだから。

 

 私はあの声から逃げたいだけなんでしょうね。

 あの声から。現実から。

 認めたくないんですよ。あんな言葉。あんな内容。

 

 だから、必死で否定材料を探している。

 

「小町…ちゃん」

 先輩の家に行けば。

 以前先輩が風邪を引いたときにお見舞いに行ったことがあった。だから、家の場所は知っている。

 

 裏門に着くと、そこには一人の教師が張り付いていた。

「平塚…先生」

 あまり接点があるわけではない。彼女は国語担当だが、それは2年生の話で、1年生の私にはあまり関係のない事だからだ。

 

 通して下さい。それがダメなら無理矢理にでも。そう私が言うよりも早く、

「行きたまえ」

 今にも泣きそうな笑みを浮かべ彼女は言った。

 いや、実際泣いていたんでしょう。その目元は赤く()れ上がって、眼は微かに充血している。

 

 私は平塚先生の言葉を聞いた瞬間、お礼も言わずに駆け出した。

 なんで通してくれたのか。深いことは何も考えなかった。

 

 通勤時間、登校時間が過ぎ、人気の少ない道を、ただガムシャラに走る。

 

 

「はぁッ……はぁ……ッ!」

 

 今ほど自分が運動部に入らなかったことを恨んだことは無い。

 息が上がり、乾いた空気を吸い込み続けた喉が、火で(あぶ)られたかのようなジリジリとした痛みを発している。酷使され慣れていない脚は、すでに悲鳴を上げていた。

 

 それでも走る。そうでもしなければ不安に押し潰されてしまいそうだから。

 

 私は信じたくないのだ。拡声器から飛び出たあの言葉を。

 

「ひぅッ!」

 足がもつれ、私はコンクリの地面に転倒する、手の平と膝を擦りむき、そこから薄く血が滲んだ。

「痛い………、……」

 それだけの事なのに、たったそれだけの事に、どうしようもないくらい泣きそうになった。

 漏れ出しそうになる嗚咽を、唇を噛むことで必死に殺しながら立ち上がる。息が切れ、フラフラとした足取りで歩を進める。

 

 記憶の中にある道筋通りならば、もう先輩の家は目の前だ。

「せん……ぱ…」

 無意識の内に口からそう溢れる。

 私は息を切らしながら十字路を曲がり。

 

「そりゃそう……です、よね……」

 

 脚から力が抜け崩れ落ちた。

 

 モノクロの警察車両。

 張られた黄色いテープ。

 それに群がるようにする野次馬。

 その口は醜く歪んでいる。

 

 当たり前だ。学校であんな事になっていたのに。

 ただ認めたく無かっただけ。

 

「……ヒグゥッ……あぁ……」

 抑え込んでいた、涙が、嗚咽が、突然止まらなくなる。

 周りからの奇異の視線など、少しも気にならなかった。

 

 もう……、もう充分だ。何もかもがどうでも良くなる。

 

 決壊した涙腺は絶えず涙が流れ落ち、乾いたコンクリートに黒いシミを作っていった。

「どうッ……してぇ……………どうしてッ……何も相談してくれなかったんですかぁ……」

 

 ああ、本当は分かっているのに。先輩は何も悪くないってことは。

 醜いよ、私。勝手に先輩の所為にして。

 

 あの日の放課後、何故先輩に踏み込まなかったのか。何故もっと早く、すぐ手を差し伸べなかったんだろうか。

 胸の中で行き場の無い憤懣(ふんまん)。自身への憎悪。意味のない後悔と自責(じせき)の念が膨らんでいく。

 

 胸に爪を突き立て(うずくま)る。

 

 今すぐこの衣服を、皮膚を破り、死んでしまいたかった。

 思いっきり噛み締めた唇から、赤が流れ出る。

 

 そんな意味の無い自傷行為が、更に自分自身への自己嫌悪を増幅させていった。

 周りに野次馬たちが集まってきているのを感じる。

 

 ああ、吐きそうだ。地面が揺れているような錯覚がする。

 意識がクラクラとしてき、本格的に嘔吐しそうになっていた、そのとき、

 

「いろはさん」

 

 正面から声を掛けられた。

 私は(かしら)を上げ、その声の主を見る。そして絞り出すように、

 

 

「小……まち……ちゃん?」

 

 その名を呼んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・一色いろははオリジナルストーリーあり。記憶喪失編で語ります。
・今回は上中下。または上下構成になると思います。
・記憶喪失編書き直すために今一度全消ししました。(詳しくは6月あった活動報告で)

どうも皆様お久しぶりです!
そして、遅くなりまして本当に申し訳ありません!

いや、やってやりましたよ。考査から帰ってきてやりましたよ。
はっはっは!……はい。

幕章は全て1話分に纏める予定だったのですが、こう…書き始めると、思いの外量が増える増える。
ホント、濃ゆい内容を1話4000文字とかで纏めてる人達って凄い!と思いながら書いてました。
あと、今回は誤字脱字が目立つとコメントを頂きました。そういったものは容赦無く言ってくださると悦び……喜びます。

どうでも良いですけど、ホーンテッドキャンパス面白いっす。
もう!儺と森司が可愛い!!二人のカップリングが最高に可愛い!じゅる。

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