その日、比企谷八幡は自ら命を絶った。   作:羽田 茂

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その日、彼と彼女らは大きくすれ違う。

 

 

 比企谷君が体調不良で部室を出て行ってから、40分ほど経った。

 

 師走ということもあって暗くなるのは早く、空にはすでに橙色が混ざり始めている。

 彼が居なくなってから部室の中には、澄み渡る冬の空気と裏腹に、居心地の悪い空気が流れていた。

 

 依頼は何も来ておらず、私達は思い思いのことをしている。

 私は本に目を落とし、由比ヶ浜さんは携帯をいじる。

 けれどそれは自然とそうなったというわけではなく、まるでそうする事を。日常を再現する事を強要されているかのようだった。

 由比ヶ浜さんの席とは大きく距離が空いており、まるでそれが彼女との溝の深さを表しているかのようだ。

 

ふと、由比ヶ浜さんが携帯電話を見ながら呟いた。

「あ、いろはちゃんからメールだ」

「そう」

 特に言うことも無いので、本から目を離さず短く返す。

 それだけで会話は止まり、再び鼓膜を震わすのは本を捲る微かな音と、携帯電話のボタンを押す音だけとなった。

 

 

「ねぇ、ゆきのん」

 再び流れ始めていた息苦しい静寂に気不味さを感じていると、突然由比ヶ浜さんが真剣な声音で私を呼んだ。

 

 私は彼女の声音に驚く。

 言い方は悪いけれど、彼女は修学旅行以来から上辺だけを取り繕った、中身の無い空っぽな会話ばかりしていたから。

 いえ、人事のように言っているけれど私も同じだ。上辺だけを取り繕った会話ばかりしていたのは私も同様だったのだから。

 

 私はいつからこんなに弱くなってしまったのだろうか。

 この関係を壊すのが怖くて、いつもと変わらない自分をあの日から演じ続けている。それが、彼の言う欺瞞だと分かっているのに。

 

「なにかしら」

 

 私は読んでいたページに栞を挟み、そっと本を閉じる。

 顔を上げると、由比ヶ浜さんと目が合った。

 

そこにはさっきまでの弱々しい少女はいなかった。

 その表情は硬く、瞳は少し潤んでいる。そして、唇を戦慄かせながら言った。

 

「ヒッキーが倒れたって…」

 

 ………え。

「な!?そ、それは本当なのかしら!?」

比企谷君が……!そんな……。でも、最近の彼は………。いえ、今はこんな事考えてる場合じゃ無いわねッ。

 

「確か、メールは一色さんからのものだったのよね?では、今比企谷君は生徒会室に?」

「う、うん」

 

「ではッ早く行きましょう」

不安がどんどん胸で膨らんでいくのを感じる。私は早足に部室から出て行こうとした。

 

「ま、待ってゆきのん!」

そんな私を静止する声。

 肩を由比ヶ浜さんに掴まれ、足を止められる。

 

こんな時に一体何よ!?……速く、行かなくては……!

 

 口から思わず冷たい言葉が出そうになる。

しかし、私は由比ヶ浜さんの表情を見てそれを呑み込んだ。

 

その目は潤んでおり、その真っ直ぐな瞳に私は動けなくなる。

「一体……な「あのね。ゆきのん……」

 

由比ヶ浜さんが私の言葉を遮った。

彼女はそこで一度言葉を区切り、深く息を吸い込む。そして……、

 

「私ね……。ヒッキーのことが好き!!ううん、………大好きなの!!」

「は?」は?

 突然の告白。突然爆弾を落とした。

 頭の中が真っ白になってしまい、私はその場に立ち尽くす。

 そんな状態の私を気にせず、彼女は私に顔をずいっと近づけ言う。

 

「ゆきのんもヒッキーのこと好きなんだよね?」

「は?」は?

 

 第二の爆弾。

 私は言葉の意味を読み込むのにたっぷり60秒ほど掛かった。

 自分の顔が赤くなっていくのを感じる。

「え…あ、ゆ、由比ヶ浜さん。」

 彼女の名前を呼ぶだけでもつっかえつっかえになる。そんな自分を一度落ち着かせるために、再び深く呼吸をしてから、口を開き、

 

「由比ヶ浜さん、貴女は一体何を言っているのかしら。私が比企谷君を好き?冗談だとしても質が悪過ぎるわよ」

そう早口に捲したてた。しかし。

 

「ゆきのん顔真っ赤だよ」

「…ッ!!」

 私はバッと両手で顔を覆う。

 その指摘のせいで羞恥心が沸き上り、更に自分の体温が上がった気がした。

 

 

 

「ゆきのん、そのままでいいから聞いて」

そんな私に、由比ヶ浜さんが語り掛けるように言った。

 

「私ね、この部活のこと好きなの。ゆきのんとヒッキーがいるこの部活のこと」

 

「……でも、修学旅行から雰囲気悪くなって…そしたら、なんだか本音で話しづらくなっちゃって」

 

「ずっと、ヒッキーのいう……ギマン?とかそういう感じの会話ばっかりしてた」

 

「………そうなっちゃったの……私にも責任あるから……」

 

 

 

 そこで由比ヶ浜さんは言葉を一度区切り、自分の胸にそっと両手を置いた。少しだけ鼻が赤くなっている。

 

 

「……あのね。私押し付けちゃってたんだ」

 

「全部の責任ヒッキーに。方法は最低だったけど……でも依頼を解決したのはヒッキーだったのに」

 

「なのに私…ヒッキーにひどいこと言っちゃった。もっと人の気持ち考えてよ、って」

 

「馬鹿だよね……わたし。自分のこと棚に上げて、ヒッキーの気持ち何も考えてなかった……」

 

「告白のとき一番傷付いてたのはヒッキーだったんだって、少し考えればすぐ分かることなのに……!」

 

 

 そこまで言った彼女の顔は今にも泣き出しそうで。私は掛ける言葉を失う。

 

 

「ゆきのん、ヒッキーは問題を解決するとき、いっつも自分を犠牲にしてるよね。それって、すっごく苦しいと思うの」

 

「依頼が終わっても、ヒッキーいつもケロっとしてるから、そんな気にしてないんだろうなって勘違いしそうになっちゃう時もある……けど」

 

「……たぶんヒッキーはそういうの全部抑えつけてるだけなんだよ、強がってるだけなんだよ……ッ」

 

「ヒッキーは優しいから……!依頼が終わったあとも、絶対そのこと引きずっちゃってると思う……」

 

 

 

「だから心配だったの……」

 

「そうやって……自分の気持ち抑えつけ過ぎちゃってッ、体調崩さないか……」

 

 彼女の瞳からは、涙がぼろぼろと溢れていた。

 

「由比ヶ浜さん……」

 

「わたし……気付いてたのにッ……最近ヒッキーがどこかおかしかったの……。なのにっ……。なのに私、何も言わなかったの。ヒッキーに何も…聞かなかったの……。それで…、ヒッキー倒れたって……」

 

 泣きながら彼に謝罪する彼女の背中に手を回し、そっと抱きしめる。

 ああ……なんで彼女はこんなに強いのだろう。

 

「大丈夫よ由比ヶ浜さん、自分だけ背負いこむ必要はないわ。私にも責任はあるもの。私もあの日、彼にひどいことを言ってしまったわ……。彼の気持ちなど…何も考えずに……ッ。……そもそも………私は貴女とは違って、比企谷君の変化に気づくことすら出来なかった」

 

 きっと彼女が気付くことができたのは、空気を読む能力も合わさっていたというのもあるだろう。しかし、それも彼女が彼のことを深く見ていたからこそ気づくことができたのだ。

 

 結局、私は自分のことしか見ていなかったのだろう。彼女のように、あの日から目を逸らさず比企谷君を見続けていなかった。勝手に拗ねて、勝手に嫉妬して……。

 

 自己嫌悪に私が頭を俯かせていると、由比ヶ浜さんがぐっと私の肩に手を置き、まるで私を突き放すかのような形で抱擁を解いた。しかし、その手は私の肩から離れておらず、依然私の肩を力強く掴んでいる。

 そして、彼女は私の目を見据えもう一度問いかけてきた。

 

「ゆきのんも……ヒッキーのこと好きなんだよね?」

 

 二度目になるその問い。意図はまだ分からないけれど、一度目とは違い、その質問は誤魔化してはいけない大切なものだと感じた。

 

 比企谷君。私は彼の事をどう思っているのだろう。友達?いや、違う。以前彼に友達になって欲しいと言われたことがあったが、その時私は彼がその言葉を言い終える前に断ってしまった。まぁ、そんなことが理由で彼とは友人ではないと言っているわけでは無いのだけれど。

 

 では、私は比企谷君とどうなりたいのだろう。友達……?いいえ、友達になりたいかと言われたら、その答えは今でも『NO』だ。でも理由は以前とかなり異なる。だって、私が今彼と望む関係はーーー。

 

 短く息を吸い込み、由比ヶ浜さんの瞳を今度は私から見据え、

 

 

「ええ、私も比企谷君が好きよ」

 

 

 

ーーそう彼女に言った。

 

 

 その言葉に由比ヶ浜さんが「うん、知ってたけどね」と返す。その表情はすっきりとしている。

 

「ゆきのん……私思ったんだ。今、生徒会室に行っても…私達はヒッキーに何もしてあげられない。ううん、それどころかヒッキーに気遣わせちゃって余計疲れさせちゃうかもしれない……。ほら…!、私今目元とか真っ赤になっちゃってるし!」

 

 彼女の自惚れでもなんでもなく、比企谷君が今の由比ヶ浜さんを見たら、ひどく心配するだろう。

 ああ、今だったら由比ヶ浜さんが、私に今何を言いたいのかが分かる。

 

「あの……だから……。だから、ゆきの……「由比ヶ浜さん」

 

 彼女の言葉を遮るように、私の言葉を被せる。ごめんなさい由比ヶ浜さん、コレは私のただの我儘。自己満足。

 でも、ここから先の言葉は私が言わなくちゃいけない。

 そうじゃないと、ずっと立ち止まって由比ヶ浜さんに甘えたままになってしまうと思うから。

 

「紅茶、冷めてしまっているだろうし入れ直すわね。比企谷君が帰ってきたら笑顔で出迎えてあげなければいけないことだし」

 

 コレが私の奉仕部をやり直すための言葉。そして覚悟よ由比ヶ浜さん。

 

 私の言葉に、彼女は数秒きょとんとしていたが、しばらくすると、「うん!!」っと、満面の笑みで頷いた。

 由比ヶ浜さんが望んでいたことはただの仲直り。大きく、こじれてしまっていた私達の関係の修復。

 今私達に必要なのは彼を迎えに行くことじゃない。それをするのは彼を迎え入れる準備をした後のことだ。

 取り繕った言葉なんかじゃ駄目なのだ。彼が心に抱え込んでしまっている闇を溶かすためには、本物の言葉が必要なのだ。

 だから、彼女は私に打ち明けたのだろう。

 

 比企谷君が好きだと。そう打ち明けることで少しでも本物に近づこうとしたのだ。

 

 だから、彼女は私に問い質(ただ)したのだろう。

 比企谷君をどう思っているのかと。その事実を共有し本物に近づこうとしたのだ。

 

 方法は強引で、因果も因縁も関係無い。もしかしたら比企谷君はそんなこと望んで無いのかもしれない。

 それでも、

 必死に繋ぎ止めようとした。必死に守ろうとした。必死に元に戻そうとした。その気持ちは本物だから。

 

 私は由比ヶ浜さんのカップに紅茶を注ぎ終わったあと、自分の分を注いで席に座る。

 すると、彼女は自分の席と紅茶の入ったカップを、私の席の近くまで移動させてきた。

 その距離がとても懐かしく感じ心地よい。心が弾む。

 まったく、我ながら単純なものだと思う。

 

 修学旅行以来ポッカリと空いてしまった大きな溝が、埋まっていくように感じて、つい頬が緩んだ。

 

「ねぇ、ゆきのん。ヒッキー早く帰ってくるといいね。そしたら、全部元通りになるよね!」

「いえ、元通りにはならないわ」

 

 そう嬉しそうに言った由比ヶ浜さんの言葉を、ピシャリと切る。

 

 由比ヶ浜さんの顔が少し白くなる。

 大丈夫よ由比ヶ浜さん、貴女が恐れているようなことは言わないから。そう思いながら私は言った。

 

「だって、私達は恋敵(ライバル)でしょう?」っと。

 柄にも無い頭の悪そうな台詞を口にする。そして私は挑発的な笑みを浮かべ、由比ヶ浜さんに向かってニヤリと笑った。

 

 彼女はしばらくキョトンとした表情になっていたが、すぐ彼女も私と同じ、挑発的な笑顔を作り、

 

「私だって!!ゆきのんに負けないんだから!!」

 

 とこれまたニヤリ、というかニッコリと笑いながら私に言ってきた。由比ヶ浜さんニヤリとした表情の作り方下手ね。

 

「ふふっ……」

「えへへ……」

 

 その表情がおかしくて笑ってしまう。そんな笑っている私を見て、由比ヶ浜さんも頬を緩め笑った。

 

「ヒッキー早く帰ってくるといいね。そうだ!ヒッキーが帰ってきたら、おかえりなさいって言って出迎えてあげよう!」

 

 

「ふふっ…それはいいわね。何だか新婚さんみたいで」

 

 

 私がそう言った瞬間、由比ヶ浜さんの動きがピタリと止まった。

 

「ごめん、……ゆきのん。そこまで考えて言ったわけじゃなくて……」

 

 彼女のその言葉に自分の顔が急激に真っ赤になっていくのを感じる。

 

 

 

 

 

 そんな私達の間には、再び暖かい時間が、流れ始めていた。

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

 どれくらい時間が経っただろう。随分長い間由比ヶ浜さんと喋っていた気がする。

 ふと外を見ると、夕暮れに少し夜空の色が混ざってきていた。

 私につられるように窓の方を見た由比ヶ浜さんがポツリと呟く。

 

「ヒッキー遅いね」

 

 そう呟いた彼女の顔には憂慮の色が混ざっていた。その顔を見て、私も心配になってくる。

 今からでも生徒会室に行ってしまおうかしら、と丁度そう思い始めていたとき。

 

 ピロンと由比ヶ浜さんの携帯電話が鳴った。音が鳴り終わるよりも速く、由比ヶ浜さんが携帯を取り出し、メールの内容を確認していた。

 画面を食い入るように数秒眺めたあと、彼女は深く溜息を吐いた。

 溜息と言っても暗いものではなく、安堵感からきているものだ。

 

「なにが書かれていたのかしら由比ヶ浜さん。私にも教えてくれると嬉しいのだけれど」

「あ、ごめんねゆきのん。えーとね、メールの内容は、ヒッキーが今コッチに向かってるっていうの」

 

 そのメールの内容に、私も肩から力が抜けていくのを感じた。

 ああ、本当に良かった。

 

「あ、そうだゆきのん。明日の部活休みにしない」

 

 ほっと息をついている私に由比ヶ浜さんがそう提案してくる。

 

「それは比企谷君の体調が心配だからかしら?」

 

 私の質問に、彼女は縦に何度も大きく首を振る。

 その大仰な仕草が何だか主人の心配をする仔犬みたいで可愛くて、つい「ぷっ」と吹き出してしまう。

 

 突然笑い出した私に由比ヶ浜さんは「なーに〜?ゆきのーん!!」と言いながら頬を膨らませた。

 その表情がフグのようで、また笑ってしまった。 ああ、楽しい。本当に楽しい。こんな気分は久しぶりだ。早く比企谷君は帰ってこないかしら。

 

 丁度そう比企谷君のことを思っていると、廊下の方から足音が聞こえてきた。

 その足音は、奉仕部の方へどんどん近付いてきているようだ。

 

 由比ヶ浜さんの目が輝き出し、彼女の顔が今日一番の笑顔になる。

 それが可愛くって、私は笑ってしまった。なんなら彼女に犬耳とブンブンと左右に勢いよく揺れる尻尾が見えちゃうレベル。そう私もつい頭の中で比企谷君のような言い回しを使ってしまう。

 そしてとうとう足音は奉仕部の扉の前で止まった。続けて扉がスライドし、ガラガラと音を立てながら開く。そして、

 

「悪い、遅くなった!」

 

初めて聞く、比企谷君の大きな声。

 

それに少し驚きながらも、嬉しさが込み上げてくる。

 私は腰を微かに浮かし、体を扉の方にまるごと向ける。

そして、「おかえりなさい」と、そう言おうとした。

 

が、入ってきた彼の表情を見た瞬間、喉元まで出かけていた、その言葉が出なくなる。

代わりに出たのは、「ヒュっ」という呼吸音のようなものだった。

 

 由比ヶ浜さんも私同様に声が出なかったのか、口をぱくぱくさせている。

その顔は驚愕に染まっていた。きっと私も今、彼女と同じような表情をしているのだろう。けれどもそれは仕方がないことだと思った。

 

 なぜなら……彼の顔に張り付いていたのは笑みだったのだから。

それも、いつものような皮肉げな笑みではなく、涼しげで爽やかな笑みだ。

 

 今まで彼を見てきた人間からすれば、驚くなと言う方が無理がある。

 そんな別人のような笑顔を張り付ける彼を見た私は、軽いパニックに陥っていた。

 

そして、無意識の内に口が開く。

 

「比企谷君、明日は部活に来なくていいわ」

 

 言ってしまってから気付く、この言い方では誤解させかねないと。

 自分のあまりの物言いに、頭が急速に冷えていく。

 

「ごめんなさい、比企谷君。誤解させるような言い方をしてしまって。………コレはアナタの体調を心配してのことなの。一色さんからアナタが倒れたというメールがきたから。だから、明日は部活を休んでゆっくり休養して貰おうということになったのよ。他意は無いわ」

 

「うん、そういうことなのヒッキー!もう!ゆきのん!流石にさっきの言い方は誤解させちゃうよ?」

 

 由比ヶ浜さんがめっと私を叱る。流石に今回は私が悪いわ。冷静さを失うだなんて私らしくない。逆を言えば、それだけの驚愕を受けたということになるのだが。

 

 そんな私達に比企谷君は、笑みを浮かべたまま言う。

 

「ああ、そういう事だったのか。驚いちゃったよ。じゃあ、僕はこの後用事があるからこれで失礼するよ」

 

 何故かその笑い方に私は総毛立った。

 口調がおかしい。まるで彼じゃないみたいだ。一体誰なの?けれど、顔は、声は比企谷君で……。

 

 由比ヶ浜さんも、そんな比企谷君に明らかに違和感を感じ、混乱しているようだった。初めて見る彼女の警戒するような表情。

 

 私と由比ヶ浜さんが彼に違和感を感じている間に、彼自身はテキパキと帰りの準備を進めていっている。

 そして準備が終わると、流れるような動作で鞄を肩に掛け、部室から出て行こうと扉を開ける。

 

「あ……、ちょっと待ちなさい!!」

 

このままでは彼が帰ってしまう……!

 私は自分の混乱を押さえ込み、背中を見せる比企谷君を呼び止める。

 

「ん?何かな?」

 

 比企谷君の顔は廊下の方を向いており、その表情を窺うことはできない。

それが私の中の不安を掻き立てる。

 

「あなた……誰?」

「本物のヒッキー?」

 

私達の口から出たのは、そんな言葉。自分でも頭の悪そうな事を聞いているのは分かっている。

けれど、どうしても聞かなければいけない気がしたのだ。

 

 そんな私と由比ヶ浜さんの言葉に、彼は少し間をおいからケラケラと笑いだす。少しだけ横を向いた彼の口は歪んでいた。

 

それだけのことにも関わらず、私は自身がパラレルワールドにでも迷いこんでしまったような錯覚に陥った。

 

彼は一通り笑うと、ほうっ…と息を吐き、

 

「どうしたんだ?雪ノ下、由比ヶ浜。まさかその歳でもうボケたのか?」

 

そう皮肉げに言って部室から出ていった。

 扉がガタンと音を立てて閉まる。

 

 奉仕部には、彼が出て行った扉を茫然と見ている私と、未だに驚愕の色が抜けない由比ヶ浜さんが残された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今思えば私達は、あの時無理にでも彼を止めるべきだった。

 

 その違和感を問いただすべきだった。

 

 もっと踏み込むべきだったのだ。

 

 時というものを過信し、日常に溺れていた。

 

 

 

 

 

 でも、もう遅い。

 いくら後悔しようと、彼はもう戻ってこないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 比企谷君が行方不明になってから3年経った今。

 彼はまだ見つかっていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




此処まで前提としておいて欲しいもの。

『よくある感想』

《奉仕部の面々といい、八幡の様子がおかしいの気付けよ》
 コレは単純に八幡が周りを騙して日常を演じるのが上手すぎたので気付けなかったというだけです。
多少おかしな言動があっても、関係がギクシャクしてるから、で片付けられる程度のものでした。
この話は時系列としてイジメが始まってからかなり時間が経ってからのものです。
他の人物が違和感を感じるほど八幡の異常が表層化し始めてから……八幡の精神の受け皿が壊れた後の様子を書いております。
それまでは上記であった通り、周りの人達が異常に気付けないレベルの演技をしていました。
そういう事にして下さい。お願いします。



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