その日、比企谷八幡は自ら命を絶った。   作:羽田 茂

5 / 12
しかし、比企谷小町の想いは兄に届かない。

 

 

 

 

 

目を覚ますと肌寒い空気が頬を撫でた。それに俺はぶるりと体を震わせ、布団を一度寄せ集め体を縮める。

 

「朝か……」

そう一言だけ呟くと、すぐにのそのそと布団から這い出して伸びをする。すると、身体の節々が軋むように痛んだ。

 

それに「ハァ…」と溜息を漏らすと、ボンヤリとした白い煙が口から出た。うう、寒ぃ…痛ぃ…。

今日もまたあの痛みを感じなければいけないのかと思うと朝から憂鬱な気分になる。……死にたい。

 

俺はお腹の部分の衣服をつまみ上げ、改めて自分の傷の状態を確認してみる。

 

いつもは朝っぱらから傷を確認するようなマネはしない。

寧ろ忌避すらしている。しかし、今日は何故かそうするべきだと、そうしなければならないのだと、謎の義務感を感じたのだ。

 

改めて見た皮膚の色は、赤黒く変色しており、至る所から血が滲み出ている。ところどころに紫檀色や紅掛花色のまだ完全に赤に染まっていない痣も中にはあり、それがまた視覚的な痛々しさを強調させていた。

 

俺はその痣が痛まない程度に、そっと指を走らせる。

すると、沸々と身体の底から何かが滲み出るような、不思議な感覚を覚えた。不快感はない。

 

「…壊れる前に…か。」

ふと昨日俺が言った言葉を呟く。

 

長くは保たない。なら出来るだけ早くアクションを起こさないとな。まぁ、今日すぐにというコトは無いだろうから、また近日といったところか。

そんなことを考えていると、部屋の外から、一定のリズムで近づいてくる足音が聞こえてきた。

 

この足音…小町か……ッ!!

 

即座に衣服をつまんでいた手を離し、傷が見えないように服装を直す。

その数瞬後、バタンッ!と勢いよくドアが開かれ、そこから予想通り愛しのマイシスターが顔を出した。

 

「グッドモーーーーニングお兄ちゃん!」

 

「もうちょっと静かに起こしにこれねぇのかよ」

「いやぁーごめん、ごめ……え?」

 

少しずつ小町の表情が驚愕に染まっていく。目は見開かれ、口はポカンと空いている。

マジでどうしたんだ?

 

「あんだよ?」

「いや?……ほ、本物?……本物のお兄ちゃん?」

「何で疑問系なんだよ。どっからどう見ても本物の、お前が大好きな愛しのお兄ちゃんだろ?」

 

どうしたんだ妹よ、ついにただでさえ残念な頭が更に残念になってしまったのか、と心配していると、未だ驚愕の熱が冷めていないのか、目を見開いたままの小町が言った。

 

「いや、だって。お兄ちゃん……そ、その顔……。……自覚…無いの?」

そう言うと、小町は走って俺の部屋を出て行った。

 

てか、顔?俺の顔が何だ?

さっきの小町の反応が気になり、自分の顔に手を当てていると、

バタバタとした音が部屋に近づいてきた。

顔を出したのは勿論小町だ。ただ、その手には今、少し大きめの手鏡を持っている。小町はその手鏡を俺の前に突き出してきた。

 

鏡に自分の顔が映る。

「……ッ!?」

そして、その鏡に映った異常な光景に俺は驚愕した。

笑っているのだ、俺の顔が。しかもかつて見たことない程、爽やかに。そのあまりの光景に、コレが本当に自分なのかと疑ってしまう。

「何だよ……コレ……」

至近距離にいる小町にも聞こえないくらいの声でそう漏らす。

コレは直るのか ……?もし、直らなければどうなる。

その想像に鳥肌が立ち、背中から嫌な汗が流れる。

 

すぐに俺は自分の表情筋を元に戻そうとする。

すると、随分あっさりと、元の腐った目をした仏頂面顔に戻った。

 

……よかった、アノ顔が解けなかったら、マジでどうしようかと思った。

だがいつからだ?いつから俺は笑っていた?

 

「お兄ちゃん?」

何の反応も返さなかった俺を不審に思ったのか、心配そうに小町が俺を覗き込むように見る。

 

下手に小町に不信感を募らせるのは悪手だ。この状況を誤魔化さなくてはいけない。

 

「どうだ、小町!びっくりしたか?」

俺はわざと大きめの声を出しながら、小町にそう言った。

 

「え、え?」

未だ困惑気味の小町に捲したてるように言葉をぶつける。

 

「いやぁな、昨日雪ノ下と由比ヶ浜にニヤけ顏が気持ち悪いって言われてな。

俺自身は普通に笑顔を作っていたと思っていたから結構ショックで、それで今日から笑顔の練習を始めたんだ。うん。

にしても小町、驚きすぎだったぞ。鳩が豆鉄砲を食ったような顔して、そんなに俺が爽やかな顔してたのが驚きだったか?

お兄ちゃん普通に傷ついちゃうよ?おっと、もうそろ朝飯食わなきゃヤバイな。

いつもはこんな早く登校しなくてもいいんだが、今日はいろいろ……そう、いろいろあってだな!

だから、ほら、早く飯食うぞ!」

 

「………分かった、早く食べよう」

顔を上げ、小町の顔を見る。その目には憂慮と決意の色が混じっている。

 

「あと、朝御飯のとき、話があるから」

 

そう言葉を残し、小町は部屋から出て行った。

ドアがゆっくりと音を立てながら閉まる。静寂。部屋の中の温度が少し下がった気がする。

 

近くにあった枕に、顔を埋める。

どうしてあんな風に喋った、少しも俺らしく無い。俺はあんな風じゃ無かっただろう。

どんだけテンパってたんだよ、俺。

 

「……馬鹿が」

自分に向けてそう呟く。

 

だが後悔しても遅い、

小町は基本アホの子だが、普通に聡い。

勘付かれた何てもんじゃ無いだろう。小町からすれば、今の俺は真っ黒だ。必ず踏み込んでくる。

昨日の朝のように、俺を探るような物言いは何度もあった。だが俺がその言及を躱していたから、事無きを得ていた。

だが今日はそういかないだろう。

 

 

小町のあの、決意の色が混ざった目。ソレが頭に浮かんだ。

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

階段を下り、一階のダイニングへ向かう。

そこにはすでに小町が座っていた。

俺は小町の向かい側の椅子に腰を下ろし、目の前にある飯を食い始める。

 

いつもあるはずの小町と俺の間での会話は無く、

ひっそりとした、それでいてどこか厳粛な空気が流れている。

掛け時計の、秒針を刻む音と食器の擦れる音。普段だったら気にも止めないような小さなその音が、この時はイヤに大きく部屋中に響いている感じがした。

 

ふと、小町の方を見る。

その表情は、垂れ下がった髪が邪魔して伺うことができない。

俺は再び自分の食器に目を向けようとした。

 

そのとき、小町の食器が一際大きな音を立てた。不快感を催す高い音が、部屋に響き渡る。

それを合図にしたように、部屋中の空気が更に張り詰めた気がした。

 

小町が箸を皿の上に揃えて置き、顔をこちらに向ける。

その顔には、俺に対してこれ以上の逃避を許さないという、小町自身へ向けられた強い意志を感じる。

 

どこか居心地が悪くなり、小町から顔を逸らすと、小町が口を開いた。

 

「ねぇ、お兄ちゃん」

 

その一言だけで、先程張り詰めていた空気が更に張り、気温が数度下がったような錯覚に陥る。

 

「何だ」

 

「小町に今お兄ちゃんが何を悩んでるか教えて」

小町は言葉に少しの捻りも加えず、直球で今自分の知りたいことを尋ねてきた。

 

「ソレは言えない」

 

遠回しに、自分は悩んでいるということを肯定する、俺らしくない台詞。

いつもの俺なら言葉を濁し、逸らし、勝手に完結させ会話を打ち切っただろう。

だがそんなことを今の小町にしても無駄なような気がした。そしてきっとその予感は当たっている。

 

「どうして?」

「どうしてもだ、理由なんかない」

「理由がないんだったら教えてよ」

 

分かってはいたが、今日小町は一歩も引く気はないようだ。

 

そんな小町と俺との間で、しばらく押し問答が続く。

 

それに少しずつ苛立ちが積もっていった。その所為だろうか

 

「うるせぇよ」

 

自分でも驚くほど低い、まるで怒気の篭ったかのような声が出た。

言ってから『しまった』と思ったが、もう遅い。

 

小町はその声にしばらく呆然としていたが、

しばらくすると、ワナワナと唇を震わせ、顔を真っ赤に染め、握り拳を作り思いっきりテーブルを叩いて立ち上がって言った。

 

「ねぇ、何で?」

 

普段の小町からは想像も出来ないほど低い声。

 

「何がだ?」

白けるように言う俺に痺れを切らしたのか、小町が怒気を含ませ、怒鳴るように言う。

 

「何でなにも教えてくれないのって言ってるのッッ!!」

鼓膜を震わせる大声。

 

小町はまるで俺を糾弾するかのように言葉を紡ぐ。

 

「お兄ちゃんはいつもそう、答えを自分の中だけで完結させてッ!!」

当たり前だ、世界は俺の、俺自身の主観だ。

問いは自分の中で完結させるしかない。

 

「もっと周りを見てよ!!今お兄ちゃんが傷つくのを見て心を傷める人達もいるんだよ!!」

 

きっとソレは奉仕部の二人のコトを指しているのだろう。

だが、俺は今その二人にすら深い疑念を抱いてしまっている。そして、その疑心は今、自分自身にすら矛先を向けているのだ。

今の俺はまるで、人の心を信じる事すら出来ない、かの邪智暴虐の王のように映るだろう。

しかし、俺を瞳に映し、内を探ろうとする人間など、精々探しても小町位だ。

 

 

「小町も今までは、そういう方法を見てもお兄ちゃんのことを理解してたから、何も言わなかったよ。

でもね、今回は見逃せない。そこまで傷ついたお兄ちゃんを見捨てられないッ!!」

 

そこまで言い終わると肩で息を吐きながら俯いた。しばらく深い呼吸を繰り返してから、小町はこちらに目を向けた。

 

その目には、先ほどまで含まれていた怒気などは含まれていない。俺に何かを懇願するような目。

 

 

「お願いだよお兄ちゃん……小町をもっと頼ってよ……」

小町が弱々しく。今にも消えそうな声で俺に言う。

 

それっきり小町は再び俯いてしまった。

 

ダイニングに俺が飯を食う音だけがこだます。

俺は最後に目玉焼きの黄身の部分を箸で裂き、それを口に含んで咀嚼して吞み込み終わってから、箸を皿の上に置く。

 

「なぁ、小町。ありがとな。そこまで俺のコトを想ってくれて」

 

「お兄ちゃん…?」

 

少し泣いていたのか、目元が微かに赤い。そして今俺に向けられている目は俺への期待を宿している。

そんな小町をどこか愛おしく思いながら言葉を続ける。

 

 

 

「でも、俺はお前に頼る気はない」

 

 

ごめんな小町。俺にお前の望む答えを用意する事は出来ない。

 

 

「どう…して………?」

冷たく突き放すような俺の答えに、小町は固まったように動かない。

 

しばらくすると、小町は唇を噛みながら絞り出すように言った。

 

 

 

「お兄ちゃんのバカァ……

 

 

もう……もうッ!!二度お兄ちゃんの顔なんて見たくない!!

どっか行っちゃえッッ!!!バカァあああ!!!」

 

絞り出すような声は次第に大きくなり慟哭に変わり、ダムが崩壊するように小町の目からは涙が溢れ出した。

 

「そうか…」

俺はそう呟くように言い、椅子から立ち上がる。

嗚咽を漏らす小町を、出来るだけ視界に入れないようにしながらダイニングと廊下を繋ぐドアを開けた。

 

 

「…どうして………」

ダイニングの方から、意識していなければ聞き逃してしまいそうなほど、小さい声が聞こえる。

 

 

 

 

 

 

 

 

俺は振り向かず、その言葉から逃げるように扉を閉めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




と、いうわけで6話でした。
過去編終了も近づいてまいりました、後二歩ほどです。

コレの前に、小町と八幡が仲違いしないものも書いたのですが、
そうしてしまうと、小町という拠り所が八幡に出来てしまうので、ボツにさせて頂きました。
どうでもいいですね。

あと2話ほど辛いものが続きますが、もう少しなので、それまで是非お付き合い頂けたら嬉しいです。

では、また次回投稿でお会いしましょう。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。