その日、比企谷八幡は自ら命を絶った。   作:羽田 茂

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比企谷八幡は暗澹に情を裂き、身を裂き。生を裂く。

「ん……」

体育館から聞こえる部活動の声で目が醒める。

どうやら放課後まで寝てしまっていたらしい。

……ん?放課後?

え、マジで?その時間まで誰も俺のことに気付かなかったの?

確かに体育館裏ってあんま人こないけどさぁ……。だからここに来させられてたんだけどさぁ………。

マジで今まで誰も来なかったのかよ。なに?ここ人除けの結界でも貼られてんの?

 

「ゔ……(さみ)ぃ…」

 

そう呟き、腕をさする。

うっわ…指先痛てぇ……これ霜焼(しもや)けですむかなぁ…。

 

しかし、俺はそこから動こうとしなかった。

ここから動こうという気が起きないのだ。

 

いっそ誰かが見つけてくれればいいのに。

 

そんな考えが脳裏に浮かぶ。

そのことに口元が吊り上がるように歪んだ。唇の皮が裂け血流れる。

 

自分からアイツらを遠ざけておいて、こんなことを思うだなんて何て矛盾だろう。結局俺も文化祭のときに逃げ出した相模と一緒じゃないか。

誰かに見つけて欲しくてここに座っている、だだのかまってちゃんだ。

 

いい加減覚悟を決めろ比企谷八幡、俺に許されるのは堪えることだけだ。それ以外の選択肢など最初からない。

誰かに助けを求めることも、望むことも。希望を持つ事さえ俺が……俺自身が許さない。そう決めたはずだろ比企谷八幡。

 

 

もう何度目になるか分からない、自らへの戒め。鎖と楔。

 

罪科(つみとが)のような夕暮れが世界が赤く照らしている。

 

口元から出ていた血は止まっていた。

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

昼休みのリンチでボロボロの身体を、壁にもたれ掛からせるようにして、ゆっくりゆっくりと奉仕部の部室に向かう。

着けば俺は、痛む身体を無理やりにでも動し、いつもの八幡を……お道化を演じなければならない。

まぁ、部活動中は基本自分の椅子に座っていればいいだけだから、あまり体の苦にはならんのだが。……体にはな。

 

……ツライな。

 

少しずつ部室が見えてくる。

 

 

俺は扉の前で一度立ち止まり、そして朝と同じように深呼吸をする。

 

スーハー……スーハぁあああアアアアアアああああ!!!!やったろうじゃなーいのおお!!しゃらい!!かかってこいやぁ!!

やっぱくんな!! なんかデジャブ!!

 

……んむ。

ここんとこ教室、奉仕部に入るときいつも同じこと考えてる気がするな。

そろそろ新しいのを考えた方がいいのだろうか?

 

スーハー……スーハーぁああ!、戸塚ぁあ!!いい匂いだよぉおおッ!!とか?

普通にキモいね。うん

でも戸塚が可愛いのがいけない。全く、俺をこんなに夢中にさせるなんて。イケナイ子猫ちゃんだ☆

 

頭の中を戸塚でいっぱいにしながら、奉仕部の扉を開ける。

 

「うーす」

「あ、ヒッキー!やっはろー!!」

由比ヶ浜が笑顔でこちらに挨拶を飛ばす。

 

「あら、比企谷くん。今日は遅かったわね。」

雪ノ下が短く俺に言う。

 

 

俺はそれに「おう」と返し、自分の席に座り、背もたれに深く寄りかかる。

……あーー極楽、地獄。…極楽なのか地獄なのかはっきりしろよ俺。てか地味に語呂よかった気がするな。

 

最近は雪ノ下から罵倒の言葉が飛んでこない。

その変化を少し寂しく感じなが……ら……。あれ?もしかして俺、知らない間に調教されてね?一体俺はいつの間にM谷君になったのだろう。

そう思いながら、チラと雪ノ下に視線を向ける。

彼女はすでに手元の文庫本に目を戻してしまっており、遅刻をした俺に、叱言の類一つ飛ばす事すら無かった。

 

そのことに俺は、まるで彼女との間に大きな断絶ができてしまったような錯覚を感じる。

現実では数歩ほど歩けば届く距離にいるはずなのに、今その距離は途方もなく遠いように感じられ、不快感が胸を濁らせる。

 

 

灯籠の光。揺れる竹林。

 

「あなたのそのやり方、嫌いだわ。」

「もっと……人の気持ち考えてよ!!」

 

あの時、二人が俺に向けて言った拒絶の言葉。あの時、俺が二人に言わせてしまった言葉。

間違いなく、それが引き金だった。

 

冷たく凍り付いた部屋。

 

まさか、こんなことになるだなんて思ってもいなかった。

今考えれば、俺はあの時もっと慎重に動くべきだったのだ。

そうすれば、あの心地よかった空間を失うことは無かったのかもしれないのに。

 

俺にはもう、悔やむことしか出来ない。

そんなことをしても、なんの意味も無いのは分かっているのに。

それでもifという未練にしがみ付いてしまう。

 

温かく、心安らいでいた空間が、ずっと遠い昔のように感じる。

由比ヶ浜が喋り、俺が口を挟み、雪ノ下が返す。会話が止まった後の沈黙すら心地よかった空間。

きっと、もうそんな時間は戻ってこないのだろう。

 

今でも由比ヶ浜はよく喋るが、その会話には中身がない。まるで沈黙を恐れるように言葉を紡いでいく。

その姿が俺には、まるで暗闇に怯える幼子のように映った。

由比ヶ浜が話している時、雪ノ下は柔らかな笑みを彼女に向けている。

 

だが、俺は今までこんなにひどい笑みを見たことがない。

まるで、故人を慈しむような、もう戻らぬ何かを懐かしむような、そんな目だ。

 

その光景を見ていると、どろりとしたものが俺に溜まるのを感じる。

奉仕部をこんな風にしてしまったのは俺なのだと。その事実に罪悪感が湧き出てくる。

 

どうしてこんな事になってしまったのだろうか………。

いや、分かっているのだ。奉仕部がこうなってしまったのは、全て俺の…

 

「責任。…………そうだろ?」

 

………ッ!!?

 

突然聞こえた俺を嘲笑するような声。

その声に思わず、自分の状態を忘れて立ち上がる。

 

「ウグゥッ……ッ」

 

すぐに体に痛みが走り、俺は椅子に座り込んだ。

その一瞬の出来事に、二人が驚いた顔を俺に向けていた。

いまだ固まっている彼女達に問う。

 

「今、お前ら俺に何か言ったか?」

本当は聞かなくても分かっているのに。

 

「え…?ヒッキーには何もいってないけど?」

「どうしたのかしら比企谷くん、ついに頭でもおかしくなったの?」

 

やっぱりな、予想通りの答えが返ってきた。

 

「いや、何でもない。忘れてくれ」

 

そりゃそうだ、二人の声はあんなに低い男の声じゃないし、席自体離れている。耳元で聞こえるわけがない。

しかし、これはヤバイ。やっぱり近づいてきている。それもここ数日急激に。

 

ここのところ俺には声が聞こえてくる。いや、別に材木座みたいに中二病的な意味じゃなくてね?

聞こえてくるのは俺自身の声だ。

 

 

 

 

 

俺がこの声を初めて聴いたのは暴力が激しくなってきて、初めて意識を失ったときだ。

 

まぁ、そのときは凄く小さくて不明瞭なものだったがな。実際そのときはただの聞き間違いかと思っていた。

だがその声は、その後暴力を振るわれるたびに、少しずつ、ハッキリと聞こえるようになっていった。

そう、少しずつ。少しずつ。

 

ところが数日前、突然耳元で囁くような声が聞こえた。

 

今まで「ちょっと不明瞭だがどちらかというとはっきりした声」だったくせに、

突然「耳元ではっきり聞こえる声」にメガ進化したんだぜ?普通びっくりしたわ。びっくりし過ぎて、マジで気持ち悪い声出ちゃったからな。

蛇足だが、そのとき俺が出した声が気持ち悪いってことで、また腹を蹴られた。すっごく理不尽。うん知ってた。

 

まぁ…それはいい。今問題なのは、奉仕部でその声を聞いてしまったということなのだ。

俺が今までこの声を聞いたのは、決まって暴力を受けていたときだけ、それ以外の時間場所で聞いたことは一度も無かった。

だから、肉体的苦痛から自らが産み出した幻聴。そういうことにしていた。

 

だが、それが奉仕部で聞こえてしまったということは、

……きっとそういうことなのだろう。

 

俺は。奉仕部に。……この部屋に苦痛を感じてしまっているのだろう。

 

そのことを認識した途端、激しい嘔吐感が襲ってきた。

どろどろとしたものが内から溢れ出そうになる。

 

「……う″ッ」

……あ……気持ち悪い………。

 

いきなりすぎんだろ。心の準備くらいさせてくんない?

てか奉仕部が苦痛になってるって意識した瞬間、これって。俺メンタル弱すぎだろ、笑えねぇわ。

やべぇ……普通にキツイ。

 

「……悪い……ちょっと席外すわ」

 

そう言って俺は席から立ちあがる。

 

「……。どうしたのヒッキー。トイレ?」

 

立ち上がった俺に、由比ヶ浜が心配そうな顔を向けてくる。

自意識過剰だろうか。

 

耳鳴りが聞こえる。

空間が遠くなる。

 

何でだ?お前が居なくなるからだろ。

は?よく考えてみたら、お前は俺が居ない状態の奉仕部を知らない?

 

確かに、俺は俺が居ないときの奉仕部を知らない。だろ?あとは簡単だ。

 

こいつがお前にその事を聞くのは、お前がいない方が居心地がいいからだ。

 

そんなわけが。いや……でも。奉仕部がこうなった引き金を引いたのは……。

 

そうお前だ。でも……嫌だ。

 

嘘だ。そんな……そんなの認められな……

 

 

 

 

「ヒッキー?」

 

 

 

 

 

その声に意識が戻ってくる。

 

由比ヶ浜が不思議そうな顔で俺を見ている。その顔を見た瞬間、忘れていた吐気が再び襲ってきた。

 

「ウ゛っ…あ……いや、なんでもない」

 

吐気を抑えながらそう言って、俺は走ってトイレに向かった。

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

「…ウプッ……ーーウ゛ォエエ゛えッ!!」

 

トイレの個室。もう何度目になるか分からない嘔吐。一度吐いた途端止まらなくなったのだ。

胃の中は空なのに、止むことなく吐気が襲ってくる。

 

ああ……キツい。キツイな……。

もちろん吐気だけのことじゃない。奉仕部のことも。そして自分自身のこともだ。

 

 

手に入れたいものがあった。

 

何も言わなくても通じて、何をしなくても理解できて、何があっても壊れない。

自己満足を押し付けあうことができて、それを許容し合える関係。

そんな現実とかけ離れた夢物語。

 

いつからそれを欲していたのか覚えていない。何が理由で欲し始めたのかも覚えていない。

ただ、奉仕部の崩壊を機に、俺は自分がソレを深く欲していることを自覚し始めた。

 

きっとそれを本物と言うのだろう。

そんなものは無いのかもしれない。それでも、そんな関係を手に入れようとする信念が、過去の比企谷八幡にはあった筈だった。

欺瞞を切り捨て、馴れ合いというぬるま湯に浸からず、

それを探し求める。今はもう失ってしまった信念が。

 

今の俺はどうだろう。上辺だけ取り繕った部屋で、ただじっと静かにその時が終わるのを待っている。

あれほど……欺瞞を、馴れ合いを嫌っていたのに。

 

本物が欲しいのならば、俺は切り捨てるべきなのだろう、あの場所を。

だが、それが出来なかった。

それほど俺の中で大きくなっていたのだ、奉仕部は。

 

その奉仕部に、俺は苦痛を感じてしまった。

偽物の関係でも価値があると、そう信じていたのに。信じ込もうとしていたのに。

 

苦痛を感じた事実が、罪悪感となって俺を苦しめる。

ああ…いったい俺が信じていたものはなんだったのだろう。

そんな自分自身への不信感が積もる。それを引き金にするかのように、再び吐気が襲ってきた。

「うぷッ……オ゛エぇえ゛え゛ぇェェえ゛ええ゛エエ………ーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

嘔吐感が去り、個室から出て洗面所で手を洗う。

喉が胃酸のせいで焼けるように痛い。ヒリヒリする。

手を洗いながら、ふと鏡に映る自分を見る。

酷い顔だ。特に目とか腐ってるなんて生易しいレベルじゃない。なんかちょっと充血しちゃってるし。ヤベェな…知らない奴が俺見たら即通報レベルじゃん。いや、意識失うレベル?

俺はバジリスクかなんかかよ。そうじゃなけりゃバイオ兵器だ。……バイオ兵器……菌……ヒキガヤ菌……う…頭が…。自分で言っておいてアレだが、こじつけ感やべぇねぇな。

 

懐かしきあの日のトラウマを掘り返していると、ふと鏡の端に何かが映ったような気がした。

 

ん?なんだ?

 

俺はそちらに目を向ける。

 

瞬間ーー。

突然身体中が総毛立ち、身体中から汗が噴き出した。

そんな外側とは裏腹に、内側、口の中はパサパサに乾いていく。

 

唾液を飲み込み潤そうとするが、帰って来たのは喉に張り付く不快感だけだった。

高い耳鳴りが聞こえ、世界から音が消える。

 

俺の思考はそこで呑まれた。

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

自分以外の全てが暗闇に侵されたような感覚。何か蓋が剥されていく、そんな錯覚。

 

この違和感は何だ?いつからそこにいた?何故気付かなかった?何故気付けなかった?

そもそも俺は鏡に何を見た?それが分からない。思い出せない。

 

まるで頭に靄がかかったかのようだ。

 

今俺の後ろにソレはいるのか?もしソレをもう一度見たら歪む。俺の何かが歪む。歪んでしまう。確信がある。見るな八幡。

 

見てはいけない。どうしてそう思うんだ?

思考を放棄しなければいけないのに。

 

絶対に後ろを向くな。どうしてそう思った?理由は何だ比企谷八幡?誰だ?

何をそんなに怯えている?早く見ろ。見ろ。

 

脳味噌がぐちゃぐちゃと音を立てながら、悲鳴を上げているような、優しい感覚。

 

見ろよ。見ろ。見るな八幡。見ろ。

止めろ八幡。見ろ。早く。後ろを向け。止めろ。俺を見ろ。

 

自身が何を考えているのかさえ分からなくなり、次第に意識が研ぎ澄まされるような、茫とするような。

神経を逆撫でするような感覚に吐きそうになる。

 

見ろ。見ろって。早く。見ろ。

 

胸を抑えつけるよにし、爪を深く突き立てる。

 

見ろ八幡。早く。早く。見ろよ。

 

視界に映るタイルが大きくなったり小さくなったりと、気持ち悪く蠢いている。

その様子は何故か俺に節足動物のコロニーを連想させた。

 

早く。早く俺を早く早く

 

恥の多い生涯を送ってきました。

一節が脳に浮かぶ。あの作品は何だったか……思い出せない。懐かしいな。

 

やく早く早く

 

左右の眼球が別々の景色を映しているのではと感じてしまい、林檎が磨り潰される、甘い匂い。匂い。臭い。

不快だ。酷く不快だ。

 

早くはやく

 

膝がガクガクと嗤い、俺は身体を支えることが出来なくなる。俺は歯を食い縛りながら洗面台にしがみつく。

 

早くはやく早く。

 

貴方達の息子は失敗した。貴女の兄は出来損ないだった。でもね、僕が悪いんです。全部。

 

早く。

 

脳味噌が卵白と卵黄のように、泡立って、スポンジが。潰れる。黄色い。吐瀉物。

 

早くはやく。

 

僕を見ろ。

 

早く……ーーーーー。

 

俺を見ろ」

 

…………。

 

 

…………。

 

 

…………。

 

 

…………。

 

 

「この臆病者。」

そう声が聞(そう俺は言った)こえた。

 

 

俺は勢いよく背後を振り返る。

しかし、そこには何もいない、ただ無機質なタイルの壁があるだけだ。

 

耳鳴りと共に世界に音が戻ってくる。

外から聞こえる部活動中の生徒の声。木々のざわめき。水道から流れる水の音。

そんな当たり前に、日常の一幕でしかないそれに、異常なまでの安堵感を覚えた。

 

しかし、荒く乱れた息は未だ直らない。

 

何も居なかった。何も無かった。何も起こり得なかった。

全部ただの思い違い。そうだ、そうなんだ。ただの気のせいだ。それで良いじゃないか。

 

ふと自分の言葉が蘇る。

「分からないという事は、ひどく恐ろしいことだから」

ああ…怖い。自分が怖い。分からないものは嫌いだ。大嫌いだ。俺は俺が大嫌いだ比企谷。

堰き止めていた涙腺が崩壊し涙が溢れ出す。嗚咽が()れる。無様だ。滑稽だ。

 

「ヒグゥッ……」

とんだピエロだ。とんだお道化だ。誰も理解などしてくれはしない。

俺の理解者は俺だけ。ぼっちだから、一人ぼっちだから。それでも俺には十分だった。十分だったのに。

 

「ア″ッ…ウ゛…」

なのに、今は自分自身すら理解者じゃないと、俺はそう気付いてしまった。

 

「やめろ、来るな。やめろ……やめてくれ……

暗闇が俺に伸びてくる。足元から、少しずつ、少しずつ俺を呑んでいく。俺自身が消えていく。

俺に囁き、嘯く。

 

「やめ″てくれよぉ……」

ついさっきまで怖かった声が今は恋しい。あの時もっと早く後ろを振り向くべきだったんだ。

 

俺は少しでもその場から離れようと、体を引き摺る。

出口は目と鼻の先にも関わらず、その2、3メートルが酷く遠く感じ、更に涙がボロボロと溢れた。

 

脚がいう事を聞かず、腕の力だけで必死に前へ、前へと進む。

「イヤ…だぁ……」

1秒、一瞬が俺の心臓を潰さんばかりに締め付ける。

廊下の光が近付くたびに、安堵感は消えていき、逆に黒い水が俺を呑み込んでゆく。

しかし、それでも。それしか縋るモノが無いのだ。そんな無機質しか、縋るものは無いのだ。

 

這う、這う。這って。這う。

右腕を前へ出し、体をひきずる。

「ヒッ…ひぁ…出してくれ……ッ!俺を出してくれぇ……」

交代するように左腕を前へ出し、体を引き摺る。

 

ズリ、ズリ、と音が聞こえる。何処からその音が聞こえているのかが分からず、それが恐怖心に拍車をかける。

 

気付けば、廊下の蛍光灯の光が、確かに俺の上半身を包んでいた。

「あ、ああ……あ…」

その事に酷い安堵感。

 

「あ、ああッ!」

 

では無く、酷い孤独感が、喪失感が内を黒い水で満たした。

どうしてだ。なんで、こんな筈では無かった。戻らなきゃいけない。そうじゃ無いと、俺は、俺は。

 

俺、はーー?

そこで、自分の身体の更なる異常に気付く。

 

「待てよ、……待てよッ!…おかしい、だろ」

命令を止めた筈なのに、体は勝手に前へと進んでいく。

 

おい、俺のモノだろ。俺のモノの筈だろうが。どして何だよ。

 

ホント、″何でだよ〟

光が身体を包んでいく。

それは今の俺にとって、何物にも耐え難い、拷問の様に感じた。

 

身体が光に包まれる。それと比例する様に、手足が動かなくなっていき、それと同時に意識が遠のいていく。

ああ、もう。どうにでもなれよ。

 

「この臆病者」

 

誰が言ったのだろうか。

俺はその言葉を聞きながら、意識を底に落とした。

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

目を覚ましたとき、最初に目に飛び込んできたのは一色の顔だった。

なんだ、一色か。

……まったく、びっくりさせやがって。

俺は再び目を閉じる。

 

…………………。

 

…………………。

 

…………………。

 

って、ん?………一色?

再び目を開けてみると、そこには一色の顔……が……。

 

アイエエエエ!イッシキ!?ナンデイシッキ!?いや、マジでなんで?

「あ、…先輩?」

一色と目があった。どこか陰のある沈んだ表情。

「……おう、おはよう」

「………」

「………」

何この沈黙!気まずい!誰か助けて!!何でさっきから何も喋んねぇの!?

俺がそう思い始めていると一色がやっと口を開いた。

「先……ぱい…ですか?」

ん?なにこの娘、当たり前のこと聞いて。とうとうボケた?大丈夫?病院行こっか?もちろん頭の。

「お、おう……」

そんな脳内はおくびも出さずに返事をすると、一色の暗い表情に、少しだけ色が戻った気がした。

 

「………気分はどうですか先輩!?体調だいじょ「おい、一色」…なんですか?」

途中で話を遮られた一色が少しだけ眉を顰めた。

 

「いや、なんですかじゃねぇよ。」

男の子の夢のシチュエーションだけどね?いや、俺主観だと、さっきまですごいシリアスな展開だったと思うんだけど。まぁ、それはいい。今はそれよりも、だ…。

 

「なんで俺保健室じゃ無くて、生徒会室にいんの?てか……なんで膝枕されてんの?」

普通病人を運ぶとしたら保健室だろう?

「えー先輩、そんなに私の膝枕好きなんですかー?もう、そう思っているんだったら、そう言って……ハッ!まさか、そうやって膝枕して貰ってるから好感度高くて当然とか思ってるんじゃないですか、ごめんなさい。高いですけど、それだけで満足しないでちゃんと段階踏んでからもっと好感度上げに専念して下さい、ごめんなさい」

やだこの()話聞かない。

 

「いや、そういうの良いから」

何でコイツに会うたびに振られなきゃいけねぇんだよ。普通にダメージ受けてんだぞ。

「……てか、おい、脱線すんな。はぁ……。もう一度聞くぞ。 なんで俺は生徒会室にいんだ?」

「いやぁ、それがですね。先生方に資料の整理を手伝った帰りに、先輩が廊下に倒れてたから……」

……から?

「運んできました」

「成る程…そうかって。って、おい。じゃあ、それこそ何で保健室じゃ無くて生徒会室なんだよ」

まさか、考え無しに運んできたのか?もしそうならアホだろ。

 

「あーそれが。今日鶴見先生が不在で、保健室開いてなかったんですよー。って、まさか先輩私が考え無しに先輩を生徒会室に運んできたとか思ってましたか?」

失礼な、と言わんばかりに腕を組み、プンプン顔で俺を睨む一色。

思考を読まれ、俺はウ″っと言葉を詰まらせる。

そんな俺を見て、一色は「え″…マジで思われてたんですか……」と、ショックを受けたかのような顔をした。

「まぁ、なんだ。悪かったな」

謝罪する俺に鋭いジト目を向けてくる、後輩一色。

「ホントにそう思ってますか?誠心誠意心から?」

「あ、ああ。思ってるぞ。本当に悪かった」

 

必死に一色に向かって手を合わせ謝る。

すると、彼女は一度ふっと笑い、そのジト目を解いた。眉間に微かに寄っていたシワが消え、いつものあざとフェイスが戻ってくる。

 

そして、俺の頭をそっとひと撫でしてから言った。

「分かれば良いんですよ、分かれば」

「お、おう。悪かったな」

ジト目から開放された事に安堵を覚えると同時に、さり気なく頭を撫でられた事に、少し気恥ずかしい気持ちになる。

てか、マジなんで頭撫でたんだよ。あざといぞ後輩。並みの男子なら膝枕の時点で死んでるし、なんなら俺は死んでいるのかもしれない。

腹上死ならずの、膝上死。自分で言っといてなんだが語呂悪いし、人として普通に最低だ。反省、猛省。

 

「それと…あれだ。お勤め中迷惑かけたな」

「ほぇ?」

いや、″ほぇ〟って何だよ。普通に俺が何言いたいかくらい分かるだろ?

「ほら……俺をここまで運んだ事だよ。結構重かっただろ」

そう俺が言うと、一色が「ああ、そのこと」と、納得したような顔をした。

 

これでも、平均的な男子高校生レベルの体重はある。女子の一色にとってここまで運んでくるのはかなりキツイ肉体労働だったのでは。と、思っていると。

 

 「あ、それなら気にしないで下さい。運んだのは全部男子ですから」

不憫やで生徒会男子。

顔見知りである、生徒会男子の二人に頭の中で敬礼を送ると、ほろりと眼から塩水が垂れそうになった。一色いろは被害者のアイツらとは良い傷舐め会えそうだ。いや、やっぱ男に舐められるとか冗談じゃねぇからいいや。

 

「ところで先輩は、何であんなところで倒れたんですか?本当に心配したんですよ」

「ちょっと立ちくらみがしてな。まぁ、ちょっと疲れが溜まっているだけだから安心しろ」

「本当ですか?」

 何でお前がそんな不安そうな顔すんだよ。

「本当だよ」

 一色が俺の目をじっと見つめてくる。

 

「嘘です」

 

 そしてそう断言した。

先ほどまでと打って変わり、一色らしからぬ真剣な声音。

 

「私はどんなことがあっても先輩の味方ですから」

 信用出来ない。アイツらは俺から離れていった。

 

「だから……私を頼って下さい。お願いします。」

 それは無理だ。お前を巻き込むことになるから。

 

「分かった」

 そう俺が言ったとき、どこか一色は寂しそうな目で俺を見て、

「信じてますから……先輩」

 そう言った。

 

 

結局、その後は真剣な空気になる事もなく、一色と雑談をして過ごした。

その彼女と会話をしている間も、俺はずっとトイレで起こった事について考えていた。

 

 突然自意識が剥がれた。自分の思考に歯止めがかからなくなり、自分を見失いそうになった。

 一体俺はどうしてしまったのだろうか、と。

 

 さっき感じた、自分自身に対する恐怖が冷静になった筈の今でも(しこり)のように残っている。

 それが気持ち悪い。そもそも、俺の自意識が剥がれた原因は何だったのか。

 俺は鏡の端に何かを見た。確かに何かを見たはずなのに、それが思い出せない。見た後、俺を襲った負の感情。「怖い」

 あれは何だったのか。「怖い」自分自身の行動を制御出来なくなった。

背後を見てはいけないと、振り向いてはダメだと体に命じていた筈なのに。

「怖い」気付けば俺は背後を振り向いて見ていた。「怖いよ」あの感覚。

「怖い」俺の意識に無理矢理誰かが侵入してきたような感覚。

「怖い」「せん……ぱ…い…?」「怖い」俺は今自分が怖い。「怖い」分からない。

 視界がモノクロになる。

「怖い」「怖い、(ひとり)は嫌だ。」「………せ……ぱ…ッッ」(ひとり)は嫌だよな?

八幡?「ああ…嫌だ…」だよな?俺は臆病だもんな。

「見捨てないで」俺はお前を見捨てない。見捨てるのはお前だ。

見ろよ。俺を見ろ。(ひとり)が怖いんだろ?もういいじゃないか、

これ以上苦しまなくて。比企谷八幡。お前は十分耐えた。

頑張ったよ。だからさーーーー楽に………ーーーーーーーーー。

 

 

「先輩ッッッ!!!!」

 

 

 一色の叫ぶような声。

 

「え…あっ……いっしき?」

目の前に一色の顔がある。

「大丈夫ですか先輩!!?何度呼びかけても返事しないし……やっぱり……てっ、汗凄いですよ!?ホントに大丈夫ですか!?もしかして体調()!!?」

 うるさい。

「悪い……何でもない……」

「何でもないじゃないですよ!!さっきの先輩明らかに異常でしたよ!!?」

 うるさい。

「本当に何でもないんだ」

 うるさい。

「嘘ですよ!!!、だってッッ……!!!せんぱッッ「一色」……………ッ…………何ですか」

「悪い、ちょっと黙れ。頭に響く。″もう少しだったのに〟」

 自分でもびっくりするくらい、低い声が出た。

 

 それに一色は一瞬驚いた顔をした。だがすぐに、申し訳なさそうな顔をつくり言った。

「ごめんなさい。先輩は病み上がりなのに怒鳴ったりしてしまって」

「いや、俺もちょっと苛立って……その……悪かったな」

 居心地の悪い空気が漂う。

「あ…じゃ、悪い。奉仕部に戻るわ」

「……あ、あの先輩!!!!」

「何だ?」

 

「……どこにも行かないで下さい。」

 まるで捨てられた仔犬のような目で、一色は言った。

「あぁ?」

 もう一度体調について聞かれるのかと思っていたのでこの質問は予想外だった。

「どういうことだ?」そういう前に、無理やり背中を押され、俺は生徒会室から追い出された。

 

 

 生徒会室から追い出されるとき、一色が今にも泣きそうな顔で俺を見ていた気がした。

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

 今、私の膝の上では、先輩がひどく(うな)されています。うわ言のように何度も「やめろ」と呟きながら。一体先輩は何を拒んでいるんでしょうか。

 

 そんな先輩の姿を見ていると、胸が締め付けられるように苦しくなります。

 少しでも先輩の支えになりたい、その傷を癒してあげたい。でも、私がなにを言っても、先輩は絶対に弱音を吐いてくれないんでしょうね。先輩はそういう人だから。

 

 しばらく頭を撫でていると、先輩の目蓋(まぶた)が開きました。あ、やっと起きましたね先輩。

 

「あ!先輩、おはようございます!!まったくー心配したんですよー!!突然倒れて……「いろは」……どうしたんですか?突然呼び捨てにして。なんですか?く」

「お前さ…比企谷八幡のことどう思ってる?俺のこと好きか?」

私の言葉を遮るように、先輩が言葉を被せる。

 

「ふぇ?」

 

 その内容に頭の中が一瞬にして真っ白になった。

「な、なん、なな」

なんですか、口説いてるんですか?ごめんなさい。いつもの常套句。それが口から出てこなくなる。

 

え?先輩のことをどう思ってる!?てか俺のこと好きか?って……え!?……せ、先輩、そんな事聞くようなキャラでしたっけ!?ち、違いますよね!?

「な、な、突然なに言ってるんですか!?頭でもどこかにぶつけておかしくなったんですか!?」

 自分でもびっくりするくらい顔が熱い。きっと今の私の顔はゆでダコみたいに真っ赤になっていると思う。

「どうなんだ、答えてくれ……いろは」

「ヒゥッ!」

 先輩が真剣な表情をしながら下の名前を呼ぶ。その瞳のせいでさらに顔が熱くなる。

 先輩の名前呼び。普段は苗字のはずなのに、今は名前呼び。

 

これはアレですか?アレって?いや、アレですよ!!だってそうじゃないと、ありえないですもん!!あのヘタレチキンさんな先輩が突然私を名前呼びだなんて!!それに……あんな表情……!

 ……待って、落ち着きなさい、いろは。もしかしたら今日一日、名前呼びを奉仕部で強要されてる的なのかもしれないじゃない。むしろ先輩の性格からしてきっとそうに違いない。

 

『由衣……。』

『雪乃……。』

 

 由衣先輩と雪ノ下先輩のことを名前呼びする先輩。あ、想像してたらムカムカしてきました。

そのせいか少しだけ声にトゲが混ざる。

 

「なんですか?今日一日由衣先輩と雪ノ下先輩にでも、人を名前呼びするように強要されてるんですか?」

言い終えると、少しだけ虚しい気持ちになりました。

先輩が名前呼びされてるだけの、しかも妄想にイライラするだなんて……、なんか自分が大人気なくて悲しい気分になってきた。謝らないと。

 

「先輩、すいません!今のはたーー」

「何言ってんだ……今は、お前だけだよ。こんな風に呼ぶのは。」

「え?」

私の声を先輩が途中で切った。

 そして先輩の口から出たのは、先輩らしからぬ口説き文句のような言い回し。それに驚き、またポカンとした顔で先輩を見る。

 先輩が私の頬に手を添え、顔を近づけて言います。

 

「いろは、お前は比企谷八幡をどう思ってる?」

 

 近い近い近い近い近いです!!近いです!!どうして今日はこんなに積極的なんですか!!まるで別人みたいになってますよ!?

 先輩の顔を直視することが出来なくなって思わず目を瞑る。乙女か。乙女だ。

 

「え…あぅ…それは……。メールでまた……」

 私の口から出たのは完全な逃げの言葉。完全な逃げるコマンド。先輩の言う戦略的撤退。

「だめだ。今、いろはの口から聞きたい」

「ひゃぅッ!」

 しかし先輩からは逃げられない。それどころか顔を「ずいっ」と私に近づけて言ってくる。

 ちょ、それ以上は!それ以上は駄目です先輩!近いです、近いです!吐息……!吐息が!!ひゃあああああああああ!!

 もう逃げるという選択肢はない。というか、逃げられない。

 ええい!一色いろは!!覚悟を決めるのよ!

 

「ひゃ、ひゃい。……わたひは……」

 口がうまく動かず噛んでしまう。

 

「わたしは……しぇん輩の……。先輩のこと……。」

 言葉がつっかえ、舌が乾いていく。

……でも、言わなきゃ。

 

「……大切……に思ってます。誰よりも。」

 言った。

 初めて本気で好きになった人にした、本気の告白。少しもあざとくない私らしくない真剣な告白。

 身体中の血液が沸騰したみたいに熱い。この部屋暖房効きすぎですよ、汗が止まらないじゃないですか。

「いろは」

 先輩が私に顔を近付けてくる。ギュッと目を瞑る。

「……はい」

 自分の鼓動がうるさい。

 先輩からの返事は。

 

「ご愁傷様」

「はい!!…………はい?」

 

 最初の「はい」は先輩の告白がOKだと思っていた「はい」。

 二回目の「はい」は先輩が何を言ってるのか分からなかったからの「はい」。

 予想斜め上の返答をされた私の頭の中は一瞬でぐちゃぐちゃになりました。

え……?ご愁傷様?どういう意味?は?振られた?いや、この流れで?は?

 私は瞑っていた目を開けて先輩の顔を見る。

 

 その瞬間、身体中が一瞬にして粟立った。

 

 私が返答をする前とは全く纏っている雰囲気が違う。さっきまであったはずの先輩の暖かい雰囲気が消えている。

暖かい、なのに冷たい目だと思った。あの目じゃない。私の知っているあの目じゃない。

真っ暗な瞳は光を反射することなく、そのまま全て飲み込んでしまっているんじゃないか。そう錯覚すらする。

 コレは私の想い人ではない。むしろ何故今まで気が付かなかったのか。いや、分かってる。先輩に名前呼びされた事に自分が思ってた以上に舞い上がっていたからだ。

 まるで別人のような先輩に恐怖が肺を充満し、頭の中がさっきとは違う意味で真っ白になる。

声が出ない。怖い。

固まっている私に、先輩は語りかけるように喋る。

 

「いろは、比企谷八幡は諦めろ。どうやらコイツはお前のことを結構気に入ってるみたいでな。だから特別に忠告しといてやるよ。ーー諦めろ。後悔することになる。」

 まるで、自分自身のことを他人のような言い方をする先輩。

どうして?どうしてそんなこと言うの?どうしてそんなことが分かるの?

 

「分かるさ、比企谷八幡は俺だからな。」

 思っていたことを読まれた。口には出していなかったはずなのに。

そのことに、恐怖心が加速する。

「顔に出てたよ。今も出てる。てかいつもお前らが俺にやってることだろ?」

 そう言ってソレはケラケラと笑った。

ケラケラと。ケラケラと。

そして、何の前触れも無く再び倒れ込み、私の膝に綺麗に収まった。

 

規則正しい寝息が聞こえてくる。

「…え、あ……え?」

まるで最初から何もなかったみたいに。

 生徒会室には未だ状況をしっかり飲み込むことのできない私と、あどけない表情で眠る先輩だけが残された。

 

 

 結局、先輩が目を覚ますまでの30分間ーー私はぐちゃぐちゃになった頭を、抱えるようにして過ごした。

 

 

 


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