読者の皆様、こんな作品を読んで下さり、ありがとうございます。
黒鉄宮地下のダンジョン最奥部、安全圏は完全な正方形になっていた。入り口は一つのみで、エリアの中心には明かりを反射するほど綺麗な黒い立方体の石机が設置されていた。
ケイとアスナはその机に座るユイを無言のまま見つめていた。キリトとサチ、ユリエールとシンカーには一まず脱出してもらった。ユイが、この三人だけで話がしたいと願い、それを全員が受け入れて。
全部思い出した。
そう言ってからここまで数分、ずっとユイは黙ったままだった。それでも、ケイとアスナは追及する事はせず、ユイが自分から口を開くのを待ち続けた。
「ユイちゃん…。思い出したの…?今までのこと…」
だが、この空気に耐え切れなかったのか。いや、違う。ユイが浮かべる表情が悲し気で、不安に駆られたのだろう。アスナが意を決したように、ユイに声をかけた。
それでもユイは少しの間、沈黙を保ち続けていた。が、一度息を吐くと、ついにこくりと頷いた。
「はい。全部説明します。…ケイさん、アスナさん」
顔を上げたユイの口からは、先程までのようなパパとママではなく、他人行儀に二人を呼ぶ言葉だった。それを聞いて、明らかにアスナの表情が悲しげに歪んだのが見えた。
そんなアスナの表情にユイだって気付いていただろう。だがそれには触れずに、ユイは説明を始めた。
「ソードアート・オンラインというこの世界は、一つのシステム…<カーディナル>というシステムによって制御されています。カーディナルはこの世界のバランスを、自らの判断に基づいて制御しているのです。もともと、カーディナルシステムは人間のメンテナンスを必要としない存在として設計されました。二つのコアプログラムが相互にエラー訂正を行い、さらに無数の下位プログラム群によって世界の全てを調整する。モンスターやNPCのAIに、アイテムや通貨のバランス。その全てがカーディナルの指揮下のプログラム群によって操作されていました。…しかし、一つだけ、人間の手に委ねなければならないものがありました。プレイヤーの精神的なトラブル、それだけは人間でなければ解決できない…。そのために、数十人規模のスタッフが用意されるはずでした」
「GM…」
ここまで詳しくこの世界について知っている人物は、GM。それしか考えられない。アスナがぽつりと呟いた。
「ユイちゃん…。あなたは、ゲームマスターなの…?アーガスのスタッフ…?」
「違う」
ユイに向けられたアスナの問い。だが、それに反応を示したのはユイではなく…。
「ケイさん…?」
「アスナ、覚えてるか?ユイのステータスを見た時のことを」
ここまで話を聞いて、ケイの中では絶対な確信があった。思い出すのは、ユイのステータスを覗いた時の事。通常のプレイヤーなら、ネームが書かれていた欄。ユイもまた、そこに名前が書かれていたが…、ユイという二文字以外にもそこには他に文字が並んでいた。
「<MHCP>…。メンタルヘルスカウンセリングプログラムの略…だよな、ユイ」
「メンタルヘルス…」
何がなんだかわからない様子で呟くアスナと、何故、と問いた気に信じられない面持ちのユイがケイの顔を見つめる。
「実はさ…、俺もちょっと、カウンセリングというか…そういうのにお世話になった事があってさ。ただの勘だったけど、当たってたみたいだな」
まだ、周りから向けられる期待の大きさに押し潰されそうだった頃。両親にソレを打ち明け、少しは救われたがまだ精神がやや不安定だったケイ。それを心配した両親が、ケイに軽いカウンセリングを受けさせたのだ。
「プログラム…。AIだっていうの…?」
「プレイヤーに違和感を感じさせない様に、私には感情模倣機能が与えられています。…この涙も、ずっと浮かべていた笑顔も、何もかも…、偽物なんです…。ごめんなさい、アスナさん…」
両目からぽろぽろ零れるユイの涙は、すぐに光の粒子となって蒸発していく。アスナが一歩ユイに歩み寄り、手を差し伸べるがユイは首を振って拒否をする。
「けど、何故記憶を失ってたんだ?AIにそんな事が起こるのか…」
心の底から浮かべる笑顔を見せ、悲しければ涙を流す。そんなユイが、ケイにはAIと信じる事は出来なかった。たとえ、予想してたとしても。信じる事は出来なかった。
ケイは絞り出すように、ユイに問いかけた。
「二年前…。正式サービスが始まった日、何が起きたのかは私にもわからなかったのですが、カーディナルが予定にない命令を私に下したのです。全プレイヤーへの接触の一切禁止…。具体的な干渉を禁じられた中で、私はプレイヤーのモニタリングを続けました」
ユイの言葉はさらに続く。少しずつ、拭いきれない悲しみと苦しさが籠ったその声に、ケイとアスナの表情も少しずつ歪んでいく。
SAO、デスゲームが始まったあの日がどんな状況だったか、ケイもアスナも知っていた。ほとんどすべてのプレイヤーは恐怖、絶望、怒りに支配され、一部の者は茅場晶彦の言葉を信じる事ができず、自らHPをゼロにした。ユイはそれら全てを、ずっとモニタリングし続けていたのだ。ゲーム開始から少し経てば、ある程度プレイヤー達に落ち着きが訪れ少しはましになったとは思うが。それでも毎日死者は出て、それを目の当たりにした者は恐怖で精神を壊す。
ずっとずっと、ユイは二年もの間、見続けてきたのだ。プレイヤーが狂気に包まれる様子を。
「でも、ある日の事でした。いつものようにモニターしていると、他のプレイヤーとは大きく異なるメンタルパラメータを持つプレイヤーに気付きました。そして後日には、またもう一人、同じように他とはメンタルパラメータが違うプレイヤーを見つけて…。二人は度々一緒に行動していて…、今まで採取したことのない脳波パターンを見たのです。喜び…安らぎ…、でも、それだけじゃない。この感情は何だろう…、そう思って私は二人のモニターを続けました。会話や行動に触れる度、不思議な欲求が生まれました。…あの二人の傍に行きたい。直接、私と話をしてほしい。少しでも傍にいたくて…、私は、一方のプレイヤーが暮らすプレイヤーホームから一番近いコンソールで実体化し、彷徨いました…」
「それは、あの二十二層だった」
ケイが言うと、ユイは頷いた。
「ケイさん、アスナさん…。私、ずっと、お二人にお会いしたかった…。森の中でケイさんの姿を見た時、すごく嬉しかった…。アスナさんと出会った時も…、すごく嬉しくて、でも…それと一緒に怖くもあって…。おかしいですよね、こんなの…。私、ただのプログラムなのに…」
涙を溢れさせて、ユイは言葉を紡ぐ。プログラムなのに、感情を抱くなんておかしいと。
今、流している涙もただの偽物なのに…それはおかしいのにと。
「ユイちゃん…。あなたは本当のAI…、本当の知性を持ってるんだね…」
「…解りません。私が、どうなってしまったのか…」
声を震わせながら、アスナが囁くように言うと、ユイはそう答えた。首を傾げるユイを見て、ケイは小さく息を吐いてからユイに歩み寄る。
「もう、ユイはシステムに操られるだけのプログラムじゃないだろ。…自分の本当の望みを、口にできるはずだ」
「…私は」
ケイが言うと、ユイは俯いてしまう。
「ユイちゃん…」
「…私は!私は…、ずっと一緒にいたいです!パパ!ママ!」
アスナが呼ぶと、ユイは何かを振り切るように頭を振ってから、腕をケイとアスナに向けて伸ばした。
「ずっと一緒だよ、ユイちゃん」
「あぁ、ずっとだ。ずっと…、俺とアスナ。ユイの兄さんと姉さんも一緒に」
溢れる涙に構わず、アスナはユイを抱き締めた。ケイもアスナとユイの傍らまで歩み寄って、アスナの背中を撫でながらユイの頭に手を乗せる。
この時、ケイもアスナも信じていた。ユイといつまでも一緒にいられると。たとえこのゲームがクリアされても、それまでに何としてもユイを現実に連れて行く方法を見つけ出して。絶対に────
「もう…遅いんです…」
だが、そんなケイとアスナの想いと裏腹に、ユイには解っていた。それは叶わぬ願いなのだという事を。
「なんで…」
「私が記憶を取り戻したのは、あの石に接触したせいなんです。あの石はただの装飾オブジェクトではなく、GMがシステムに緊急アクセスするために設置されたコンソール…」
まるでユイの言葉に反応したかのように、突然、黒い石が光を発する。その光から数本の筋が伸び、直後に光の筋が形どった長方形の表面に青白いキーボードが浮かび上がった。
「さっきのボスモンスターは、この場所にプレイヤーを近づけさせない様に配置されたものだと思います。私はこのコンソールからシステムにアクセスし、<オブジェクトイレイサー>を呼び出してモンスターを消去しました」
「っ…!そうか、くそっ!」
ユイがさらに続けるその前に、ケイは全てを悟り、動き出していた。ケイが駆けだすと、コンソールの前で立ち止まり、浮かび上がった青白いコンソールをものすごい勢いで叩き始めた。
「け、ケイ君…、何を…」
「ユイの記憶が戻ったって事は、カーディナルのエラー訂正プログラムが働いたって事だ!それに、さっきの焔の剣は権限を使って呼び出した!」
キーボードを叩き、画面から目を離さぬままケイは自身の中で出た結論を説明する。
「これだけやっちまったんだ!カーディナルに異物として注目されるのは自然だろ!!」
「っ!そ、そんな…!」
ケイへと向けていた視線を、ユイへと戻すアスナ。ユイは黙ったまま、アスナの視線を受け止めて微笑む。
「ありがとう。これで、お別れです」
「嫌!そんなのいやよ!」
お別れを言うユイに、アスナは必死に叫ぶ。
「これからじゃない!これから、皆で楽しく…、ケイ君と、サチとキリト君と…!他にもたくさん、ユイちゃんを紹介したい人はいっぱいいるの!皆…、とても良い人ばかりで…、それなのに…」
「…」
ゆっくりと頭を振るユイ。それを見て、アスナの瞳が揺れる。だがその直後、未だキーボードを叩き続けるケイが口を開いた。
「アスナの言う通りだ。まだユイに見てほしいものはたくさんある。ユイと話したい事もたくさんある。だから…、勝手に諦めてんじゃねぇ!」
次第にケイの声が荒くなり、込められる思いも強くなる。
(もう少し…、もう少しだ…!)
恐らくもう、いや、間違いなくカーディナルはユイを異物として認定しているだろう。消されるまでそう時間は残されていないはずだ。ケイは叩くスピードをさらに速める。
ユイがGM権限でアクセスしたばかりという事で、カーディナルのセキュリティは容易に突破する事は出来た。そこからは、時間の勝負────
「…よし」
画面に映るプログレスバーが右端まで到達した時、ケイは手を止めて安堵の息を吐いた。
後は、実行のボタンを押せば…それで。
「あ、あれ…?」
「気付いたか、ユイ。何とかお前のプログラム本体をシステムから切り離せた」
ユイが両掌を、丸くなった目でまじまじと眺める。それを見ながら、額に浮かんだ汗を拭ってユイに言葉をかける。そして、その言葉の意味を察したアスナがケイへ視線を向ける。
「それじゃあ、ユイちゃんは…!」
「いや、まだ安全とはいえない。確かにシステムからユイを切り離したが、それでもカーディナルが異物としてユイを認定しているのは変わらない」
カーディナルが、ユイを世界の異物と見ている以上、SAOのどこにもユイにとって安全な場所はない。これでカーディナルがユイを消去せずとも問題ないと見方を変えてくれればいいが、それはないだろう。
「そんな…、どうすれば…!?」
「だから、これから仕上げに入るんだよ」
ケイは、どうしてと言いたげな表情を浮かべるアスナに言いながら、微笑んでユイに手招きをする。ユイは疑問符を浮かべ、首を傾げながらもケイに歩み寄っていく。
「さっきも言ったが、ユイをカーディナルから切り離した。でも、それでもまだユイは安全とは言えない。こうしてる間にも、カーディナルがユイを消す準備をしてる可能性だってある。だから…、これからユイのコアプログラムをオブジェクト化させる。ゲームがクリアされたら、俺のナーヴギアのローカルメモリに保存されるようになってる」
「は、はい…」
解っているのか解っていないのか、読み取れない微妙な表情を浮かべながらユイは頷いた。
「…ユイ。正直、このゲームがクリアされても、また会えるまでかなり時間がかかると思う。けど、絶対に…また、会うからな。皆と会わせてみせる。約束だ」
言いながらケイは小指を立てて、右手をユイに差し出す。それを見て、一瞬キョトンとした顔を浮かべたが、すぐにユイも右手を出して、小指をケイのそれと絡ませる。
「待ってます。ずっと…、ずっと待ってます。だからまた、ママと、にぃにとねぇねと…、パパと会わせて下さい」
先程までの悲しみから出る涙ではない。心の底から嬉しいと思い、出る涙がユイの瞳に浮かんでいた。
「ケイ君、私も協力するから。だから…絶対…に…っ」
「あぁ」
また会える。それは分かっているのに、それでもアスナは、溢れ出る涙を止めることができなかった。
アスナがユイへと歩み寄り、小さな体を抱き締める。
「…オブジェクト化させるぞ」
アスナとアスナの胸の中にいるユイが同時に頷く。それを見てから、ケイは実行ボタンを押す。
「ユイちゃん…、またね?」
「また会おうな、ユイ」
輝きを発し始めるユイの体。それと同時に、着ている服ごとユイが透け始める。
アスナはユイを抱きしめたまま、ケイは少し離れた所で、また、と口にする。
輝きがさらに強くなる。ユイの体もさらに透けていき、ついにユイの奥にある壁がはっきりと見えてくる。
「はい!パパ、ママ!また…、また!」
その言葉を言い終えると────
アスナの腕の中にはユイの姿はなく、ユイを包んでいた光の粒子が少しだけ散っていた。
しばらくの間、その場から動くことができなかった。ユイが消えた場所で、ユイが立っていた場所で、アスナは何かを胸に抱くように両手を組んでいた。それをケイは何も言わずにじっと見つめる。
「…行こう、アスナ。俺達はもう、ここにいちゃいけない」
ずっと黙ったままだったケイだが、不意にそう口にした。
そう、自分達はもうここにいてはいけない。ここで立ち止まっていてはならない。この世界から出るためにも。また、ユイと出会うためにも。
「…うん、わかってる。ユイちゃんをあまり長く待たせたくないからね」
アスナは、立ち上がりながら言う。
「でも…、ケイ君。一つ、お願いしていい?」
「どうした?」
立ち上がったアスナを見て、懐から転移結晶を取り出したケイ。アスナが話しかけると、ケイは転移結晶を掲げようとする手を止めて、視線を向ける。
「…一日だけ。今日一日だけ、ケイ君の家に泊まっていい…かな」
「っ!!?」
アスナのお願いを聞いて、ケイは大きく目を見開いた。だがすぐに自身の勘違いを正して表情を引き締める。
あの家は、ほんの少しの間ではあるが、ユイの親として過ごした場所だ。
…今日だけは思い出に浸りたいという気持ちは、解らないでもない。
「…わかった」
ケイもまた、決してユイが消えたわけではないとはいえ、胸の中でぽっかりと穴が空いたような、そんな空虚感を誤魔化せる気はしなかった。
「「転移、コラル」」
転移結晶を掲げ、同時に帰る場所を唱える。ケイとアスナの体は光に包まれ…、光が収まった時、二人の姿はその場から消える。
二人が呼び出されたのは、六日後の事だった。