トールバーナの中心街から外れた、農牧地が広がるのどかな地帯。そこにぽつんと一軒、二階建ての家があった。そこが、ケイが借りていた隠し宿、拠点にしている部屋だ。
「ふああああぁぁぁぁ…」
「っ!!!?」
部屋の中にある椅子に腰を下ろし、ミルクを飲みながら鼠のボスガイドブックに目を通していたケイは、風呂場の方から聞こえてくる蕩けた吐息交じりの声にびくりと体を震わせる。
(あ、そうか…。俺、今一人じゃないんだっけ)
アスナを部屋に入れ、風呂場に案内してからケイはいつも通りに部屋で寛いでいたのだが、そのアスナを部屋に入れていた事を失念していたせいで思わず驚いてしまった。
(ていうか、中の音は外に聞こえないように防音機能がついてるのに…。どうして風呂場には防音機能がついてないんだ…)
基本、部屋内部の音は外部に聞こえないように防音機能が施されている。それはプレイヤー個人のプライベートを他のプレイヤーに害されないようにという茅場の配慮なのだろうが…。それを配慮できるのだったら、風呂に入る人の事も考えてやることはできなかったのだろうか。
あ、鼻歌が聞こえてきた。
「…ん?」
現実の世界で聞いた事のあるフレーズを奏でる鼻歌に合わせて、足で床をトントンと叩きリズムを取っていると家の戸がコンココココン、とノックされる音が聞こえてきた。
(誰か来たのか?…こんな時間に?…あ、キリトか?いやでも誰もこの場所教えてないしな…)
自分を訪ねてくるような人、キリトくらいしか思いつかないが…、ケイはキリトにこの場所を教えてはいない。
…怪しい。居留守を使って相手が帰るまで粘るか?とも考えたが、再びノックの音。どうやら居留守が通用する相手ではないらしい。
ケイは一つ息を吐いてからガイドブックをテーブルの上に置き、椅子から立ち上がる。
扉まで歩き、ドアノブを倒し、見知らぬ外の相手を警戒しながらゆっくり扉を開ける。
「…何か?」
「あんたがケイ、か?」
「っ」
扉の前に立っていたのは、色こそ違うもののデジャブを感じるローブで身を包み、フードで顔を隠したプレイヤー。声からしてどうやら女性らしいが…、そのプレイヤーが自分のアバター名を言い当てた事にケイは警戒心をさらに上げる。目を鋭くさせ、扉の前に立つプレイヤーを睨む。
「何の用だ」
「あー、そう警戒するナ。おいらの名前はアルゴダ」
ケイが問いかけると、プレイヤーはフードを外しながら返事を返し、さらに自己紹介をしてくる。
「アルゴ…。っ、鼠」
「そッ。あんたも良く知ってる鼠のアルゴダ」
アルゴ。そのプレイヤー名は聞き覚えがあった。ていうか、知っていた。
先程まで行われていたボス攻略会議で、ケイ自身がその名前を口にしていた。
鼠のアルゴ。正しい情報を誰よりも早くプレイヤーに提供してきた有名な情報屋。
「で、そのアルゴさんがこんなとこに何の用?てか、どうやってこの場所を知ったんだ」
「おっと、情報元を聞くのはご法度ダ。で、本題だけど…ここにアーちゃんが来てないカ?」
この場所を知った方法を問いかけたが、アルゴはまともに取り合ってくれなかった。まぁ情報源を知られたら情報屋の必要性はなくなってしまうし、その対応は当然といえば当然なのだが。
とりあえずこの場所を知った方法は置いておき、ケイはアルゴの問いかけについて聞き返す。
「アーちゃんて、誰?」
「あんたとパーティーを組んだあの細剣使いさ」
「あー、アスナの事。アスナなら…あー…」
自然な会話の流れに乗り、「アスナなら今、そこの風呂に入ってるぞ」と思わず答えそうになってしまった。それはまずい、さすがにまずい。
「いや、あの警戒心強いアスナが来るわけないだろ」
「いや、会議場を二人連れ立って出ていったっテ女日照りのゲームオタク共が恨みがましく教えてくれてネ。もしかしてもう連れ込んだかなト」
「え、何その噂。てか、そんな事はしてません」
いつの間にかそんな噂が…。しかも地味に合ってるから質悪い。
「ふーン…。まあいいカ」
「…」
おとなしく引き下がってくれたアルゴに聞こえないように、内心で大きくため息を吐く。何はともあれ、SAOにログインしてからこれまでで最大の危機を乗り越えることができた。
「…っ!!!?」
「ン?これは…、鼻歌カ?」
と、思っていた。風呂場から漏れる、綺麗な声の鼻歌が聞こえて来るまでは。
その声はケイは勿論、アルゴにも聞こえていたようで。
「…ちょっとお邪魔するヨ」
「あっ、おい!」
ケイの脇を通り抜け、アルゴが部屋の中へ入っていく。
「お、部屋広いナ!賃貸情報も手掛けて一儲けしよっかナー。幾らなんダここ?イベントとか特殊条件はあリ?」
「え、いや…。と、とりあえずやめろー!」
部屋を散策するアルゴを追いかけるケイ。そして、彼女の肩を掴んで止めようとしたのだが…遅かった。アルゴは、ついにそれを見つけてしまった────
「ン?バスルーム…」
「あっ、そ、そこは!」
ある部屋の前でアルゴが立ち止まる。その部屋の扉の上に着けられている看板に書かれている文字は、<Bathroom>。バスルーム、つまり風呂。そして風呂には今、アスナが入っている。
ケイはしゅばっ、と体をアルゴと風呂の扉の間に割り込ませ、両手を広げる。
「こ、ここは今故障中なんだ!入るにはちょっと面倒なクエストをこなさなくちゃでな!そのままにしてるんだ!」
「…そうカー。なら仕方ないナー」
言いながらさすがに苦しすぎると自分でも感じたケイだったが、何とアルゴは素直に引き下がった。…と、この時のケイは思っていた。
「なんてネ」
「なっ…、ちょっ、まっ…」
振り返り、そのまま部屋の奥に行こうとしたアルゴが突如体をバスルームの方へと向き直して駆けだした。ケイはすぐにそのアルゴの動きの変化に反応し、ローブの裾を掴んで止めようとしたのだが、それではアルゴの勢いを止めることができず、手の拘束から抜け出してアルゴはバスルームの前に立つ。
それだけではなく、アルゴのローブを掴んで止めようとしたケイは体勢を崩し床に転んでしまった。
「さて、ご開帳―」
「…」
終わった。完全に終わった。床に臥しながら思う。
「…こりゃ驚いたナ」
「…」
アルゴの驚いている声が聞こえる。そんなアルゴが何を見たのか、もう終わったしどうでもいいやと感じていたケイは恐る恐る見上げ、バスルームの中を、見た。
「ぇ…」
「ぁ…」
中のアスナと目が合う。純白の下着を付けた…、それも装備途中だったようで、所々まだ下着が生成されてない部分があるのがさらにアスナの艶やかさを醸し出す。染み一つない白い肌、メリハリのついたスタイルの良い体つき。…うん、綺麗だ。
「…」
「「…っ!!」」
すっくと立ちあがるケイ。びくりと体を震わせるアスナとアルゴ。
アルゴはまるで立ちはだかる様にアスナの前に立って、ケイと向き合う。
「…」
だがケイはそんなアルゴを意に介さない。無言のまま振り返って、そこにあった壁にそっと両手を付ける。
「な、何ヲ…」
戸惑いを含んだアルゴの声が聞こえる。アスナとアルゴの視線を背に受けながら、ケイは天を仰いで────思い切り頭を壁に打ち付けた。
ガン!ガン!ガンガンガンガンガンガン!!
「え、あっ、何してるの!?」
「ちょっ、ケー坊!」
アスナとアルゴの声は無視。ひたすらに頭を壁に打ち付けるケイ。
ここは安全圏内。こんな事をしてもダメージを受ける事はないが、それでも衝撃はしっかりと伝わってくる。その証拠に、未だ頭を打ち続けるケイの意識が少しずつ遠ざかっていく。
そして、ケイの行動の狙いはそこにあった。
「お、おイ!そこら辺にしとかないト…!」
慌てた様子のアルゴの声は、ケイの耳には届かなかった。薄れていった意識が途切れ、ケイの身体はふらりと力を失い、床に倒れ込む。
「…あれ?」
次にケイが見た景色は、窓の外に広がる陽の光を受けた草原だった。
「スイッチ!」
虫型のMobにソードスキル、リーバーを叩き込んでから口を開いて声を上げるケイ。そしてケイは後方へと下がり、すれ違うように前へと躍り出るのはローブに身を包んだアスナ。
レイピアの基本ソードスキル<リニアー>がMobに炸裂し、HPバーが消えるとともにポリゴン片となって四散する。それを見届けたケイとアスナはそれぞれの獲物を鞘へ戻す。
すると二人の背後からパチパチパチ、と拍手の音が響いた。
「お見事。今のがスイッチを使った戦闘の流れだ」
拍手をして二人を称えながら歩み寄ってくるのは、もう一人のパーティーメンバーキリト。
「…なんだけどさ。お二人さん、どうかした?」
「え?…いや、どうもしないけど。そういやアスナ、何か俺と話すときぎこちなくない?」
「っ…、そんな事ないわ」
スイッチを取り入れた戦闘を見事にこなしたケイとアスナを称えたキリトだったが、不意にそんな事を問いかけてきた。ケイ自身、特に何とも思わなかったのだがアスナと話すときに感じた違和感を思い出す。
ケイが話しかける度、アスナがびくりと体を震わせるのだ。まるで何かに怯えるかのように。今も一瞬、体を震わせたように見えた。
「んー?…ていうかキリト、聞いてくれよ。俺さ、昨日の夜のこと全く覚えてないんだ」
「っ…」
「は?何だよ急に…」
唐突なケイの問いかけにキリトが訝し気な表情を浮かべる。
「いや、昨日俺、家に帰ってそれから…何してたんだ?…いや、マジで覚えてないんだ。そんな可哀想な人を見るような目を向けないでくれ」
「っ!…っ!」
「いやだってさ…」
「ホントなんだって…。なぁアスナ、何か知らない?」
「しししし、知らないわ」
「…そっかー」
ケイからすれば本気で悩んでいるのだがキリトはまともに相手してくれない。だからケイはアスナに問いの先を変えたのだが…、どうしてそんなにどもる。ケイは首を傾げながらもとりあえず引き下がる。
「まぁそんな事より、ドロップアイテムを確認してみな」
「そんな事…」
ケイが両腕を組んでうんうん唸る中、キリトがアスナに声を掛ける。アスナは目の前に浮かぶ獲得経験値と金、そしてドロップしたアイテムをキリトの言う通りに確認する。
「…剣?」
「そ。<ウィンドフルーレ>。店売りのアイアンレイピアよりも断然、俊敏性や正確さを重視する細剣使いには良い剣だよ」
「おー…。て、アスナ。お前今までずっと店売りの初期装備使ってたのか!?」
「そうだけど…」
アスナが新たな武器を手に入れたことに感心しながら、レイピアなら自分は使えないなと考えていたケイが我に返る。キリトが言った言葉で、アスナがずっと店で売っている初期装備のアイアンレイピアを使っていた事に気づく。
「そ、そんな装備でよくここまで来れたな…」
「ま、その初期装備でもプレイヤーの腕さえ良けリャ。ボスにも挑めるけどナー」
アスナの腕の凄まじさに恐ろしさすら感じながら驚愕するケイ。その時、三人から少し離れた所から声がかかる。
この場にいた最後の一人、アルゴだ。スイッチの練習に行くために集まった場所から、いつの間にやらついてきていたのだが…、何か気配遮断のスキルでも使っているのかと問い質したくなるくらい自然な流れでその場にいたことに驚いたものだ。
「────綺麗…」
「っ…」
美しい
その言葉しか頭の中で浮かばなかった。
ウィンドフルーレをオブジェクト化し、剣の切っ先を宙に掲げながら刃をそっと撫でるアスナ。その口から漏れた呟きは、アスナの立ち振る舞いに魅了されていたケイの耳には届かなかった。
「───コホン。後は街で強化だナー」
「っ」
呆けていたケイは、すぐ隣から響いたアルゴの咳によって我を取り戻す。アルゴはちらっ、と横目でケイを見遣った後、アスナに歩み寄りながら口を開く。
「迷宮区であれだけ暴れてたんダ。+4までの素材は十分だロ。腕のいい鍛冶師を紹介するヨ」
「あっ、ありがとうございます…っ。えっと、お代を…」
「あー、いらないヨ」
アルゴから次に何をすべきか、そしてそのすべきことをどこですればいいのかを教えてもらったアスナがお礼と共に情報量を出そうと指を振ろうとする。
すると、アルゴはそのアスナの行動を拒否した。
ケイとキリトのアルゴを見ていた目が丸くなる。
「むしろ礼を言うのはこっちの方サ。目立つことは避けたかったろう二…、ありがとウ」
アルゴがアスナに言った、目立つこと。それがあのボス攻略会議での諍いでアスナが起こした行動だというのはすぐにわかった。
確かに、ローブで容姿を覆い隠しているアスナが目立つことをしたがるとは思えない。けど、あそこでは行動を起こしてくれた。その事にアルゴはお礼を言った。
「…けど、情報料いらないなんて。こいつ、ニセ鼠じゃないか?」
「あぁ…。あのアルゴが報酬を取らないとは…。誰かの変装か?」
「お前等覚えてろヨ。明日、二人に関するいろんな情報が跋扈してるだろうからナ」
「「申し訳ありませんでした」」
情報料をとらないと言うアルゴを信じることができず思わず本音で語り合ったケイとキリトだが、直後のドスの利いたアルゴの呟きを聞いて即座に掌返し。その場にそれは見事な土下座を披露した。
「さて、街に行くとなると、ドロップ品で浮いた金で他の装備も充実するべきじゃないかナ?先生?」
「い、いや。スピード重視の細剣使いには過剰な防具は足枷になるんじゃないか?」
「ふむふむ、なるほド。だってさ!やったねアーちゃん、お金が余るよ!」
「おいバカやめろ」
「…」
街に戻る道を歩きながら、アルゴがキリトに問いかけその問いにキリトが答える。そして貴重な意見を貰ったアスナは無言のまますたすた歩いていく。
アスナに続いて歩く形で街へと戻ってきたケイ達は、アルゴの案内で鍛冶屋に到着する。さっそくアスナは鍛冶師にウィンドフルーレを渡し、要求された素材も預けて強化を開始する。
「まいどあり!」
「おっ、成功したな」
このSAOでの武器強化は必ず成功するわけではなく、それも強化を続けるごとに失敗する確率が高くなっていく。それでも、この一層でできる強化回数のせいぜい四、五回程度ではその確率も八割程度までしか下がらないのだが。
「ウィンドフルーレ+4ダ。具合はドウ?」
「はい。だいぶ軽くなったし、ブレも収まりました」
アルゴの問いかけにアスナが剣を振りながら答える。そのアスナの傍にいた鍛冶師のNPCが『あぶないよ』と警告を続けているのが微妙に笑える。
「…ねぇ。これ、+5にはできないの?」
「…できないんですか?キリトさん」
すると武器の試し振りを終えたアスナがケイの方へと振り返って問いかけてくる。が、レイピアの事をケイが知るはずもなく、ケイはキリトの方へ振り向いて問いかけた。
「+5以降の素材は第二層でないと手に入らないんだ」
「…そう。なら、これが現状のベストということね」
キリトの返答を聞いたアスナはレイピアを鞘へと戻し、鍛冶師にお礼を言ってから振り返る。
「私、今日はちょっと買いたい物があるから。ここでお暇させてもらうわ」
「ん、そうか。なら、明日の十時にな」
「えぇ」
NPCの『またのおこしをー』というセリフを受けながら、アスナが鍛冶屋を去っていく。ケイ達も別に鍛冶屋に用があるわけでもないため、アスナが去ってからすぐに店を出る。
今日の連携の練習はそれまでにして、後は自由行動ということで解散になったのは店を出てからすぐのこと。
ケイとキリト、アルゴは互いに挨拶を交わしてからそれぞれ別の方向へと歩き出す。
そして、12月4日 日曜日
それはデスゲームが開始されてから、丁度四週目。初めてのボス戦が決行される日となった。
ケイは集合場所の劇場へと入り、レイピアの柄を触ってカチャカチャと音を鳴らすアスナへと歩み寄った。
「よっ、おはよう」
「…おはよう」
ケイは挨拶を交わして、アスナの隣で立ち止まって攻略メンバー全員が揃うのを待つ。
「…そういえばさ、昨日はあれから何してた?」
「あなたには関係ない」
「あ、そうですね。ごめんなさい」
アスナと挨拶を交わしてからずっと二人の間で流れる沈黙に耐え切れず、昨日解散した時にアスナが言っていた買い物の話題を掘り出すが、彼女はお気に召さなかったようで。間髪入れずに話題をぶった切られてしまった。
だがその直後、ふと視線を下ろしたケイの目にアスナのブーツが入った。そのブーツは、昨日まで彼女が履いていたブーツとは明らかにデザインが違っており、昨日アスナが買ったものは明らかだった。
「へぇ、良いチョイスじゃん」
「…」
「…?」
ケイはアスナが履いているブーツを褒めてから視線を上げて彼女の顔を見ると、何故かアスナの頬が僅かに赤らんでいた。その理由が分からず、首を傾げるケイ。
「た、ただのボス戦用の勝負装備よ!」
「…はい?」
さらにアスナが頬を染めたままスカートを押さえながら、まるで言い訳するようにはなった言葉にケイの疑問は深まっていく。
いや確かにそのブーツはボス戦に向けて縁起を担いだ買い物だったんだろうけど…、どうしてスカートを押さえるの?
結局、ケイの疑問は晴れる事なく、その前にキリトが劇場に到着。続いて様々なパーティーも到着してボス部屋への大移動が始まった。目的地にたどり着くまでに何度か戦闘があったが、大きなトラブルも無く、アイテムの消費も少なく収めてボス部屋前へ辿り着くことができた。
ボス部屋の前で立ち止まると、それぞれのレイドに分かれて集まり、そしてディアベルが先頭に立ってボス戦に挑むプレイヤー達に声を掛ける。
「────俺からは以上だ。何か質問はあるか?」
ボスの装備やソードスキルの対処法などを改めて確認した後、ディアベルは何か質問はあるかと問いかけてくる。直後、一本の手があげられた。その手の主は、ケイの隣にいたキリト。
「どうぞ」
「一点だけ聞きたいことがある。ベータテスト時の…攻略本の情報と異なる状況が起きた時はどうする?ディアベル。リーダーのあんたから、撤退の指示が出ると考えていいか?」
ディアベルの許可を得てから質問したキリトに、周りのプレイヤーから視線が注がれる。その視線のほとんどが、キリトを嘲る物だった。
彼らはこう言いたいんだろう。この臆病者めと。
「相手にせんでええで、ディアベルはん。こいつらはあんさんの指揮ぶりを知らんからそんな杞憂が出てくるんや」
ディアベルがキリトの問いかけに答えようと口を開いた時、その前にキバオウがキリトに向かって言い放った。
他のほとんどのプレイヤー達もキバオウと同意見らしい。こくこくと頷く者までいる。
(これは…まずいかもな)
その様子を眺めていたケイが内心でぽつりと呟く。
彼らが抱いているのは、慢心。自分たちなら勝てるという自信ではない。どうせ何だかんだで勝てるだろうという慢心だ。
自信と慢心は違う。自信は勇気を生むが、慢心が生むのは油断だけだ。
「まぁまぁキバオウさん。人命が最優先なのはもちろんだ。でも事前のシミュレーションは完璧だから、誰も死なせやしないよ」
「…そうか」
だが、少なくともリーダーであるディアベルにはそんな慢心を抱いている様子は全くなかった。
リーダーの気持ちは周りにも伝染する。今はこんな状態でも、ボス戦が始まれば何かしらプレイヤー達の気持ちの変化もあるだろう。
そう考えたケイは一まず胸にこみ上がった不安を収める事にした。それに、ここで自分がその事を言えばもっとややこしくなり、ボス戦への士気が下がるかもしれない。
「俺だってこのレイドじゃなかったら不安だった。けど、このレイドだから絶対にボスを倒せるって言う確信がある」
たった今から、ボス戦が始まるのだとようやく実感が沸いてきたのだろう。誰もが緊張の面持ちを浮かべ始める。
そんなプレイヤー達に向かって、ディアベルは最後に短くこう言った。
「勝とうぜ。俺達で」
ディアベルが振り返り、ボス部屋の扉と向き合う。それを眺めながらケイは小さく唇を開き、そっ、と頭の中で浮かんだフレーズを口ずさむ。
「…何、急に」
「あ、聞こえてたか、ごめん」
「別にいいけど…、その歌、英語よね。どんな歌なの」
周りには聞こえないように注意したつもりだったが、すぐ傍らにいたアスナには聞こえていたらしい。小さな声でケイが口ずさんだ歌について問いかけられた。
「…大切な人の遺志を継いで、懸命に生きる人を描いた歌さ。何となく今の場面にぴったりな気がしない?」
「…そうね」
「うわ、どうでもよさそ…」
「実際、どうでもいいもの」
「なら何で聞いてきたんだよ…」
アスナから問いかけて来たのに、返答したらどうでもよさげに前を向いてしまった。しかも最後は無視されてしまった。
「二人共、もうおしゃべりしてる暇はないぜ」
「…はい」
挙句の果てにキリトに注意される始末。ケイは少々悲しさを抱きながら鞘から曲刀を取り出す。
「さぁ、行こうぜ」
ディアベルがボス部屋の扉を開く。そこから漏れる光が広がっていき────
開かれた扉の向こう、横幅十メートル、奥行きは三十メートルほどはあるだろうか、そんな広い部屋の一番奥に、そいつはいた。
立派な王座に腰を下ろした、巨大なコボルド型モンスター────<イルファング・ザ・コボルドロード>。
圧倒的な空気を纏ったボスコボルドは、プレイヤー達がボス部屋へと足を踏み入れた直後、ゆっくりと立ち上がったのだった。
次回からボス戦です。