開始コマンドを唱えた直後、始まったのは使用言語設定とキャラクターメイク。使用言語は当然日本語。キャラクターメイクは目や鼻の形や位置、瞳の色に肌の色、そして体系に性別を設定できる。目や鼻の形、肌の色に性別は特に変えなかった。瞳の色を少し赤めにしたのと、背の高さを少し…170cmに届かせる程度で終わらせた。残るはアバター名だが…、これはMMOでずっと使っていたものですぐに決定した。
「ケイ…と」
タッチパネルでアバター名、<ケイ>と入力する。慶介の介を抜かした程度の安直な決定だが、それなりに良い名前だと思うし、愛着もある。世界初のVRMMOだからといって、アバター名も一新しようとは思わない。
ケイと入力し、OKと書かれた枠をタップする。すると、慶介…ケイを囲んでいたパネルが全て消え、代わりに正面に出てきたのは<Welcome to Sword Art Online !>と書かれたパネル。
直後、ケイは虹色のリングに包まれ…光が消えていく。
「…ここが、仮想世界」
あまりの眩しさに閉じていた瞼を開けた時、ケイの視界に飛び込んできたのはさっきまでいた無機質な世界とは違っていた。ケイが立っていたのは街路樹に周りを囲まれた大きな広場。さらにその奥では西洋風の建物群が広がり、様々な容姿を持った人達が歩く賑やかな街並み。<はじまりの街 中央広場>ケイは目を輝かせながら、その光景に魅了されていた。
「…っと」
「おっ…と、悪ぃな」
だが、背後からの衝撃でケイは我に返る。手を上げてこちらに謝罪し、去っていくイケメンを見送ってからケイは自分がこれから何をすべきかを思い出す。
「まずはステータス…それにアイテム欄の開き方とか色々覚えとかないと…」
ケイは周りを見回し、ベンチを見つけるとそこに近寄って腰を下ろす。
「確か、こうやって…。お、出た」
呟きながら右手の人差し指と中指を真っ直ぐ揃えて掲げ、真下に振る。これが、メインメニュー・ウィンドウを呼び出すためのアクションなのだ。ケイが指を振るったと同時、鈴を鳴らすような効果音と共に、半透明なメニュー画面が現れる。
ステータス、アイテム、装備に設定。他にもまだあったが、基本的に使うのはこの四つだろう。自分のステータス確認にアイテム、装備変更に後は、ログアウトは設定欄にあるはず。
ケイはメインメニューを開くと真っ先にステータスを確認した。Lv、経験値、HP、筋力値、敏捷値が記されている。Lvは当然1。その他の数値も全て低い。
「レベルを上げてけば当然ステータスも上がる。後はそのステータスの振り方だけど…、まぁそこはレベル上がった時に考えるか。後はアイテム、と」
ケイはステータスを閉じてアイテム欄を開く。回復アイテム、装備アイテム、素材アイテム、キーアイテムと割り振られている。欄をタップしてアイテムを確認すると、初期に持っているアイテムは回復ポーション5個と装備アイテムのスモールソードと、カトラスいうアイテムだった。
「回復アイテム…。茅場さん、案外優しいとこあるじゃん」
回復ポーション×5という文字を見て、おかしそうに吹き出しながらケイは呟く。そしてスモールソードという欄をタップして詳細を見てみる。
「片手用直剣に、片手用曲刀…。刀、か…」
カトラスという名称をじぃっと眺める。手を顎に当て、考える素振りを見せて…ケイは決める。
「よし、この片手用曲刀…のスキルを上げていこう。決めたっ」
カトラスの欄をタップ、装備の欄をタップ、装備しますか?という問いかけの欄で、yesをタップしてケイはカトラスを装備する。
「…じゃあ、回復アイテムも支給されてることだし。フィールドに行ってみますかね!」
本当ならアイテムショップに行って回復アイテムを調達してからの予定だったのだが、何とも親切なお人のおかげでその手間が省けた。ケイは胸を躍らせ、無意識にフンフンと鼻歌を口ずさみながら飛び跳ねて歩き、最初にやって来たこの街、<はじまりの街>を出てフィールドへと足を踏み入れるのだった。
「よっ…と!」
曲刀を振るい、斬撃を入れるとイノシシ型のモンスターが輝き、ガラスの破片となって四散する。一時にログインし、十分ほどメインメニューの使い方を確認。それからずっと、ケイはフィールドで戦いまくっていた。
「おっ、またレベルアップだ」
現在の時間は5時40分。およそ五時間半全てをモンスターの戦闘に費やしていたケイのレベルは2上がり3となっていた。ひたすら剣を振るい、モンスターを倒し続けていたケイ。そんな事を続けていたケイは、ここであることに気付く。
「ありゃ…、街からずいぶん離れちまってるな」
最初はフィールドに出てすぐの所でポップするモンスターと戦っていたのだが、いずれそのポップが少なくなっていく。するとケイはポップが多い所を求めて移動する。そしてその場所のポップも少なくなっていく。するとケイは…の繰り返しの内、はじまりの街からどんどん離れた所まで行ってしまったのだ。
「…そろそろログアウトするか?いやでもちょっと試したいこともあるしな…」
今の時刻を確認して、ケイはどうするか考える。妹の司には6時に戻ると言っておいた。だが、今のケイにはどうしても試したいことがある。
<ソードスキル>
このSAOの世界には魔法がない代わりにソードスキルという無数の必殺技が設定されている。五時間半近くモンスターと戦闘していたケイだったが、ソードスキルを一度も成功させていなかったのだ。
「えっと?刀を斜めに振り下ろす…つったってな、そんなの何回もやってるっての…」
ケイは片手用曲刀の基本スキル、<リーバー>の説明を音読する。だが、斜めに振り下ろすだけならそんなのとっくにできているはず。
「何だ?何か他に特別な事をしなくちゃならんのか?」
ケイは思考に耽る。すると、そんなケイの目の前で光が迸る。その光は、モンスターがポップした時に出現する光だ。ケイは思考をやめてポップした三体のイノシシと対峙する。
「…今回はソードスキルの事も意識しながら戦ってみるか」
これまで、ただモンスターを倒す事ばかり考えていてソードスキルを成功させようとはほとんど考えていなかった。けど今回は、ソードスキルを発現させることを意識しながら戦ってみる事にする。
(剣を斜めに振り下ろす…)
ケイは曲刀を肩に担ぐようにして握り締め、こちらに突っ込んでくるイノシシを見据える。イノシシが突っ込んできたと同時、ケイもまた駆けだし…曲刀を振り下ろす。
「っ!?」
途端、これまで剣を振り下ろしてきた感覚とは全く違う何かがケイの全身を包み込む。自分の意志とは関係なく、体がモンスターに向かって動く。腕が、剣が、モンスターに向かって振り下ろされていく。
刃がオレンジ色の炎のようなライトエフェクトに包まれ、イノシシに強烈な一撃を与えた。
「プギぃー!」
「うおっ、と」
ケイの斬撃は先頭のイノシシに命中し、その衝撃か攻撃を受けたイノシシが立ち止まる。すると、先頭に続いて走っていたイノシシが立ち止まったイノシシに激突し、つんのめって立ち止まる。
ケイはその間に三匹のイノシシから距離を取って思考を整理する。
「もしかして…、今のがソードスキル?」
これまでの斬撃とは明らかに違う。あのライトエフェクトに包まれた斬撃が、ソードスキルなのだろうか。
「…だったら、もう一回」
ケイはもう一度曲刀を肩に担ぎ、ようやく体勢を立て直したイノシシ達に向かって駆け出していく。先頭のイノシシに向かって刃を振り下ろす。その斬撃は、先程と同じようにオレンジのライトエフェクトに包まれ、イノシシを切り裂く。
「プギィアァー!」
イノシシは悲鳴を上げながらその姿をガラスの破片へと変え、四散していく。
「プギー!」
「プギャー!」
「おっ…っ!」
一匹のイノシシを倒すと、残った二匹のイノシシがこちらにケイに向かって襲い掛かってきた。ケイは横にステップしようと足に力を込めたのだが…、硬直し、動けない。が、すぐにその硬直は解け、回避は間に合ったのだが…。
(何だ今の…。体が動かなかった?)
再び突っ込んできたイノシシ達から避け、そのお返しとばかりに一方のイノシシに刃を突き立ててやりながら考える。
(…まさか、ソードスキルを使った直後、僅かな間動けなくなる、とか?)
ケイはソードスキルの使用直後、僅かな硬直時間が訪れると仮定する。
(もう一度試してみるか)
ケイは再びソードスキル<リーバー>を使い、イノシシに攻撃を仕掛ける。強力な斬撃は確実にイノシシに入り、攻撃を受けたイノシシは先程のものと同じように四散していく。そして残り一体となったイノシシ。
(…やっぱり動けない)
こちらに振り返ろうとしているイノシシに向かって駆けだそうとするケイだったが、やはり動けない。先程立てた仮定は、正しかったという事だろうか。
が、すぐに動けるようになったケイは残ったイノシシに向かって踏み込み、剣を振るう。今度はソードスキルと使うことなく、鮮やかにイノシシに斬撃を入れていく。
ついに、三体同時にポップしたイノシシを全滅させたケイは、傍にあった岩に腰を下ろして一息入れる。
「ふぅ…さすがにそろそろログアウトしなきゃ、司に口煩く言われちまう」
『時間は守りなさいっていつも言ってるでしょ!?』『兄さんはいつもいつも…』
そんな風に世話を焼く微笑ましい司を思い浮かべながら苦笑してしまうケイ。
…うん、早く戻ろう。
ケイはウィンドウを開き、設定をタップ。指をスライドさせてログアウト欄を探す。
「…あれ、ない」
が、ケイの目にはログアウトの五文字が入ってくることはなかった。
「違うとこか?」
ケイは他に、今まで触れなかった欄の中も探していく。そのおかげか、色々と後々役立ちそうなものやそうでないものを頭の中で振り分けていく。
「…ない」
そんな感じでログアウトの五文字を探していたケイだったが…、結論は、なかった。つまり、ログアウトはできな…
「いやいやいや、ないって何だ!?ログアウトだぞログアウト!あって当然の項目が何故ない!?帰れへん!帰れへんやないかい!」
あまりの動揺ぶりに関西弁を口にしてしまうケイ。が、ここで動揺したって一プレイヤーである自分にはどうする事も出来ない。それに、このアクシデントはとっくに他のプレイヤーが気づいて運営コールしているだろう。
「司にゃ悪いけど…、約束破らせてもらうか…」
戻ったら両手を腰に当てた司がぷりぷり怒ってくるんだろうなぁ、とか考えながらケイははじまりの街の方へと足を向ける。戦闘を続けすぎたせいで、さすがに疲労感を覚えてきた。
「街に戻って、休もう…。あ、お金貯まってるしアイテムの相場によっては買い物するかな」
運営が異常を直すまでの間、したいことを思い上げていくケイ。
ケイは少し早足気味に歩いてはじまりの街を目指す。
その時だった。
「なっ…、なんだ?」
突然、リンゴーン、リンゴーンという鐘のような音が辺りに鳴り響く。大ボリュームのサウンドに驚いたケイは思わず飛び上がってしまう。だが、驚くべきなのはこれだけではなかった。
「っ…、光!?」
未だ音が鳴り響く中、ケイの視界が薄い青色の光に包まれていく。その眩さに、腕で目を覆い、瞼を閉じてしまう。直後、不思議な浮遊感がケイの全身を包む。今まで感じた事のない、不慣れな感覚に包まれて…そのすぐ後には全身を包んでいたその感覚は消えていた。
いつの間にやら強烈な光も消えているようで、ケイは恐る恐る目を開ける。
「…ここは」
ケイの視界に飛び込んできたのは、周囲を囲む街路樹と西洋の建物群。そう、ログインして初めに立った場所、はじまりの街の中央広場だった。
ケイはぽかんとしながらも、見回して周りの様子を窺う冷静さだけは辛うじて保っていた。ケイの視界にはぎっしりとひしめく人波が。色とりどりの装備に髪、容姿が整った男女の群れ。ケイと同じ、SAOプレイヤーで間違いなさそうだ。
「何だ?どうなってるんだ?」
「これでログアウトできるのか?」
「早くしてくれよ」
一万人と思われる人達がそれぞれが抱く苛立ちを口にしている。
さっきの現象は…、強制転移?一体何のために?ログアウトができないという異常についての説明?
(いや、確かにそれは重要な事だし、俺達全員に説明しなきゃいけない事だ。だが…、どうして全員を一カ所に集めなければならない?)
ログアウトの異常について、またはログアウトの異常修復の報告ならばわざわざプレイヤーを一カ所に集める必要はないはず。GMが、何らかの方法を用いてプレイヤー達にメッセージでも送れば済むはず。
(GMは茅場さんだぞ?こんな効率の悪い方法をとるとは思えない…)
茅場晶彦という男の性格を考え、ただログアウトの異常についての報告の可能性はないと判断するケイ。もしそれだけなのならば、先程考えたメッセージを送るという方法で済ませているはずだから。
「あっ…、上を見ろ!」
深く思考に耽っていたケイの耳に、不意に誰かの叫び声が届いた。ケイはその声に釣られて上を見上げる。そして、ケイの目は異様なものを捉えた。
二つの英文が表示されている。真っ赤なフォントで、<Warning><System Announcement>と書かれている。
その単語を呼んだほとんどの人達が、ようやく運営からのアナウンスがあるのかと思ったのだろう。だが、ケイだけは違った。鋭くした視線を変えず、ただじっと表示された英文を睨む。
直後、再び異様な光景が広がった。真っ赤なウィンドウの中心部から、まるで血の雫のような何かが滴り落ちる。その雫は地面に落下…することはなく、空中で落下が止まるとその形を変えていく。その光景を見ていたケイの目が、ゆっくりと見開かれていく。
現れたのは、全身をローブで包んだ巨大な人。だがそれもまたあまりに異様だった。ケイ達は下から見上げているからよくわかる。ローブの中…、つまり、その人の顔。それが、ない。ローブの中に広がるのは、闇のみ。
「あれ、GM?」
「何で顔ないの?」
ケイと同じように、周りのプレイヤー達も驚きに包まれていた。そこかしこから不安げなささやきが聞こえてくる。
『ようこそ、プレイヤーの諸君。私の世界へ』
その時だった。プレイヤー達の囁きを打ち消し、良く通る男の声が響き渡ったのは。
「茅場…さん?」
そして、ケイだけは即座にその声の主を特定する。間違いない、何度もこの声を聞いた事がある。
この声は、茅場晶彦のものだ。
『私の名は、茅場晶彦。今やこの世界をコントロールできる唯一の人間だ。プレイヤー諸君は、すでにログアウトボタンが消滅していることに気付いているだろうが…、それはゲームの不具合ではない。繰り返す、ログアウトボタンが消滅しているのは、ゲームの不具合ではない』
「っ!?」
『諸君は今後、この城の頂に辿り着くまでゲームから自発的にログアウトする事は出来ない』
ログアウトボタンがないのは不具合ではない?城の頂に辿り着くまでログアウトする事は出来ない?
その二つの言葉が、ケイの頭の中をぐるぐる回り、混乱に陥らせる。
つまり、茅場晶彦はこう言っているのだ。
プレイヤー達は、自分からログアウトする事は出来ないと。それは、ゲームの仕様なのだと。
だが、一つだけわからない。城、とは何なのだろうか。周りを見る限り、城のようなものは見当たらない。
『…また、外部の人間の手によるナーヴギアの停止、あるいは解除もあり得ない。しかしもし、それが試みられた場合────』
ケイの戸惑いを余所に、茅場晶彦は説明を続ける。
『ナーヴギアの信号素子が発する高出力マイクロウェーブが、脳を破壊し生命活動を停止させる』
僅かな間の後、放たれた言葉。
一瞬、息が止まったというのはたとえ言葉ではない。現実に、ケイだけでなくこの場にいる全員がそうだろう。息が止まった。
脳を破壊する、それは殺すと同義。つまり、茅場晶彦は人を殺す武器にもなる物を一万人もの人達に与えたという事になる…。
「バカな!」
思わずそう叫んでしまったケイ。
頭の中では、茅場晶彦の言葉は嘘ではないとわかっていた。確かにナーヴギアの中には巨大なバッテリセルが内蔵されている。それも、ナーヴギア全体の重さの三割の、だ。高出力のマイクロウェーブで脳を焼くというのは不可能ではない。そして、茅場晶彦ならばそれを実現させることができる。
だが…、理由がない。何故そんな事をするのか、わからない。
「俺が知ってる茅場さんは…!」
『具体的には、十分間の外部電源切断、二時間のネットワーク回線切断、ナーヴギアのロック又は破壊の試み。このいずれかが行われた場合、脳破壊シークエンスが実行される』
ケイが戸惑いに叫ぶ中、茅場晶彦は淡々と説明を続ける。
『この条件はすでに外部、当局やマスコミには通知している。…ちなみに、現時点でプレイヤーの親族や友人が警告を無視し、ナーヴギアの破壊を試みるなどの行為が行われている。その結果…、すでに213名のプレイヤーが、アインクラッド及び現実世界からも永久退場している』
「!?」
思わず、周りを見回してしまうケイ。
この中央広場にいるのは、一万人のプレイヤー全員だと思い込んでいた。だが、それは違ったというのか。
すでにこの世界から…、この世から…。200人を超える人達が…、死んだ?
それから、ケイはしばらくの間、呆然と茅場晶彦の説明を聞き流していた。何か言っていた気はするが、後になっても思い出すことはできなかった。
ただ、この言葉だけはよく耳の中に届いていた。
『諸君にとって、ソードアート・オンラインはもう一つの現実といっていい。諸君らのHPが0になった時、アバターはこの世界から永久に消滅する。そして…ナーヴギアは諸君らの脳を破壊する』
俯けていた顔を上げる。そこには、先程と変わらず気味の悪い巨大なローブが浮いている。
『諸君がこのゲームから解放される条件はただ一つ。このアインクラッドの頂点へ到達する事のみ。アインクラッドの最上部、第百層へと辿り着き、そこで待つ最終ボスを倒しゲームをクリアする事のみ。そうすれば、生き残った全プレイヤーが安全に現実世界へと解放されることを保証しよう』
「クリア…第百層だとぉ!?で、できるわきゃねぇだろうが!ベータじゃろくに上がれなかったって聞いたぞ!?」
茅場晶彦が言った、この城の頂に辿り着くまで。その意味がようやく呑みこめた。つまり、このSAOの世界…アインクラッドの頂を極めればそれはゲームクリアという事になるのだろう。
だが、その意味を理解した瞬間、どこかから男の叫び声が聞こえてくる。
(そうなの、か?)
ケイはベータテスターでもないし、周りにベータテスターだった知り合いがいたわけでもない。そのため知らなかったのだが…、ベータテストではゲームの進行が滞っていたらしい。
(でも、そんな事言ってられる場合じゃないだろ…!)
ケイだからこそ分かる。ここで茅場晶彦が言った事はすべて事実だ。HPが0になれば死ぬし、外部でナーヴギアが何らかの障害を受けても死ぬ。さすがに後者はどうにもならないが、前者だけなら…まだ何とかなる。
そして、ゲームから解放される条件────ゲームクリア。
(やってやる…)
元々、誰よりも先にこのゲームをクリアしてやろうと意気込んで仮想世界にやって来たケイ。その意気込みが、ここで役に立つ。誰よりも早く我を取り戻し、冷静さを取り戻す。
『それでは最後に、私から諸君らにプレゼントを贈らせてもらおう。それはアイテムストレージにすでに入っている。確認したまえ』
すっかり茅場晶彦の説明は終わったと思い込んでいたケイは、やや拍子抜けを受けながらもアイテムストレージを開き、中を確認する。
そこに入っていたのは、手鏡。
ケイは首を傾げながら手鏡をオブジェクト化させて手に乗せる。
掌に現れた手鏡は、本当に何の変哲もない手鏡だ。ケイはその手鏡を色々な角度から覗き込んで…
「なっ?」
鏡に映る自身のアバターの姿を目にした時、全身を白い光が包んだ。その光はほんの二、三秒程度ですぐに収まったが…、その短い間にケイの姿に大きな変化があった。
「…何だったんだ?」
光が収まったことを確認したケイは再び首を傾げながら手鏡を見る。
「…は?」
そして鏡に映った姿を見て、ケイは呆けた声を漏らした。
ケイは一度、鏡から一度視線を外し、もう一度確認する。だが、先程見た結果と変わらない結果がケイを混乱に陥れる。
「現実の…俺?」
鏡に映った姿は、何となく作ったあのアバターの姿ではなく、現実で過ごす辻谷慶介の姿があったのだ。
前髪はおとなしいスタイルで、後ろはやや伸ばしヘアゴムで括ってある。丸く、だが僅かに吊り上がった両目に日本人らしい茶色の瞳。それなりにがっしりとした男らしい体格のおかげで間違えられることはないのだが、その線の細い顔だけを見れば女性と思う者もいるかもしれない。
そんな、辻谷慶介の姿がそこにはあった。
しかし何故、この仮想世界に現実の姿を再現できたのだろうか。周りを見れば自分と同じような現象が起きていた事がよくわかる。あれだけ美男美女が揃っていた人波が、お世辞にも整っていない顔つきの者が増えているのだから。
(そうか…、あれを見れば…)
顔を再現できた理由はすぐにわかった。ナーヴギアは顔全体をすっぽりと覆う形で成されていた。ならばプレイヤーの顔をスキャンし、仮想世界に再現することも可能だろう。
そして体格だが…、ケイの頭の中に浮かんだのはケイに対してだけにできる方法だ。他の者がこの方法で再現されたどうかは正直分からないし、むしろ可能性は低い。
(いや、今大事なのはそれじゃない)
首を横に振り、思考を切るケイ。その直後、再び茅場晶彦の声が響く。
『諸君は今、何故、と思っているだろう。だが、その疑問は今では意味を成さない。何故なら、私の目的はすでに達した。この状況こそが…私が創り出したかった世界なのだから』
彼ならば、とケイが立てていた予想は当たり、茅場晶彦は自分が何故こんな事をしたのかを説明し始めた。だが、その説明は到底普通の人ならば読み取る事は出来ず…、ケイも全くその意味が分からなかった。
『それでは、以上でソードアート・オンライン、正式サービスのチュートリアルを終了する。諸君らの健闘を祈る────』
その一言が、最後の一言となった。巨大なローブ姿がゆっくりと上昇していき、フードの先端からシステムアナウンスのメッセージに溶け込んでいくように消えていく。そしてローブ姿が消えた直後、当初現れた時の様にシステムアナウンスのメッセージも唐突に消えていった。
広場中に沈黙が流れる。すると、だんだんと…NPCが演奏するはじまりの街のBGMが、まるで遠くから近付いてくるように音量を大きくしながら流れてくる。
空中に浮かんでいた異様な光景はすでに消え、見えるのは暗くなり始めた、夕焼けに染まった空。
「ふ、ふざけるな!何だよコレ!?」
「嘘だろ!?嘘だって言ってくれよ!ここから出せよぉ!」
「この後約束があるのよ!こんなの困るわ!」
「嫌ぁ!返して!返してよぉ!!」
悲鳴が、怒号が、絶叫が広場中を包み込む。そんな中、ケイは何も言わず歩き始めた。
広場を出て、広場から聞こえてくる叫び声が小さくなる所まで来た時、足を止める。
「…ふざけるな」
この世界にログインした時、胸に抱いていた高揚感などすでにどこかへ消え去っていた。
ただ感じるのは、この世界を作り出した張本人に対する怒りのみ。
「ふざけるな!」
尊敬していた…。それなのに、裏切られた。本人からすれば裏切ったなどという自覚は全くないかもしれない。だが…、ケイは裏切られたという強い憤りを胸に抱いていた。
「何でこんな事を…!」
あんな説明ではわかるはずもない。あの人が何を思ってこんな事をしたのか、わかるはずがないじゃないか。
「…やってやる」
ぽつりと呟くケイ。
「ずっとあんたから仕掛けられた勝負に負け続けてきたけど…、これだけは負けられねぇ」
だらりと下げた両拳を強く握りしめる。
「たかが百層だ」
今まで経験してきたMMOの中には三百や四百にも及ぶダンジョンがあったではないか。それに比べれば…たかだか百だ。
「そうと決まれば…まずは情報収集だ。それに地図とかも手に入れなきゃな」
燃え上がる怒りを胸に抱いていたケイだったが、何の考えもなしにフィールドに出るという愚行はしなかった。HPが0になると死。その条件が、辛うじてケイに僅かな冷静さを残していた。
だが、どれだけ冷静になろうとも目的は絶対に変わらない。この世界の頂へ辿り着く。ゲームをクリアする。
「クリアして…、現実に帰ってやる」
小さく、だが強い決意を秘めた呟きは、その場にいるケイだけにしか届くことはなかった。
2022年11月6日 午後6時
それが、アインクラッドという天国と思われた世界が地獄へ変わった瞬間である。