「すぅ…ふぅ~…」
203と書かれた扉の前で、紙袋を抱えたケイが大きく深呼吸をする。そして、何かの決意を秘めたような、そんな眼で目の前の扉を見据えて…コンコンと二回、扉をノックした。
「…誰?」
「お、俺です…。は…入ってよろしいでしょうか…?」
アスナがウィンドフルーレとの再会を果たした後、ケイは振り向かずにずっとアスナが落ち着くのを待っていた。そして、アイテムがストレージにしまわれていく音を聞きながら待っていた時だった。
『出てって』
ケイはその言葉に何も返さず、言う通りに部屋を出ていった。さすがにアスナの中でも複雑な気持ちだろう。愛する武器との再会の感動と、男に自身のアイテム全てをオブジェクト化された怨み。まあ、ケイはオブジェクト化されたアスナのアイテムをこれっぽっちも見てはいないのだが。
「…」
「あの、お夜食を買ってきましたので…、冷める前にいかがでしょうか?」
部屋の中から何の返事も返って来なかったため、今度は食べ物で釣ってみる。いや、さすがにこの言い方はどうかと思うが…、とりあえずアスナと話がしたかったため、どんな方法でもいいから部屋の中に入りたかったのだ。
「…入って」
「…ど、どうも」
部屋の中から許可を与える言葉が聞こえてくる。ケイは少し間を置いてからドアノブを捻り、扉を引いて開けて顔を覗かせる。
アスナは身を布団で包み、ベッドの縁から足を投げ出した体勢で座っていた。布団の中に見えるアスナの冷たい目がケイを射抜く。
「これ、この街の名物らしいぞ。名前はさしずめ、<タラン饅頭>といったところかな?」
部屋のテーブルに紙袋を置いて椅子に腰を下ろす。そして紙袋から饅頭を一つ取り出し、アスナの方に差し出すと、アスナはシュバッ、と素早くケイから饅頭をぶんどって包みを開けていく。
「…」
自業自得とはいえ、警戒されている事が微妙に胸に刺さる。まるで、出会ったばかりの時に逆戻りしたみたいだ。
(…ま、今は俺も食うとするかな。第二層は牛のモンスターが多いし、肉まんかな?)
ケイの分の饅頭を紙袋から取り出して包みを開ける。中から姿を現した熱々の饅頭を手に取り、すんすんと匂いを嗅ぐ。
「ひゃぁっ!!」
直後だった。ベッドに座っていたアスナが叫び声を上げた。ケイは驚き、アスナの方に振り向いて…僅かに頬を染めた。
「んんっ…」
「…」
アスナの顔に、何やら白くドロドロした液体がかかっている。さらにその液体はアスナの首元へ、そこから胸元へと流れ落ちており…、ぶっちゃけて色々とまずい絵面となっていた。
(く、クリームか!?何で肉まんじゃねぇんだ!ふざけんな運営!)
肉まんだと思っていたそれはまさかのクリームまんという。まるで詐欺の被害者にでもなったような気に陥るケイは、自分の手にある饅頭を見てからもう一度アスナの方を見る。
「んん~っ…」
「と、とにかく拭く物!拭く物…」
アスナはこれ以上クリームが垂れないようにするのに精いっぱいのようで、身動きが取れていない。ともかく、アスナの顔から流れ落ちているクリームを拭きとらなければ。ケイはウィンドウを呼び出し、ストレージの中にあるはずの<ハンカチ>を探す。
「んんっ…」
「…」
「んっ…」
「……」
「ん…」
(だぁあああああああああああああああああああ!!!!)
ストレージを操作する中、時折聞こえてくるアスナのどこか色っぽい声。さらに追撃といわんばかりにごっくんと何かを呑みこむ音まで聞こえてくる始末。
これでは全く探し物に集中できないではないか。内心で絶叫するケイ。
いや、探すというか、持っているハンカチを取り出そうとしているだけなのだが。
「…」
ケイはちらりと横目でアスナの様子を見る。
アスナの顔にかかったクリームはさらに流れ落ちていた。アスナは天井を仰ぎ、手を顎の下に置くことでクリームが床に落ちないようにしている。そしてその手にもクリームがぽたり、ぽたりと落ちていて…。
思わずケイまで喉を鳴らしてしまう。
(いやいや、何やってんの俺。早くハンカチ探せよ)
心の中ではそう思っている。脳もそうしろと命令している。
だが…、体が動かない。そんな心とか脳でさえも超越する何かが、ケイを縛りつける。
ケイは開いたウィンドウの事を忘れ去ってしまったかのように、足を一歩二歩とアスナの方に踏み出す。別にどうこうしようという訳じゃない。ただ…これをハンカチで拭きとるというのがどうにも勿体ない気がしてならなかったのだ。
(…拭くだけだから。手で拭くだけだから。何もやらしいことをするつもりじゃないから)
まるで言い訳の様に心の中で並べる言葉の羅列。ケイ自身気付いていないが、彼の瞳孔は現実ではあり得ないほどグルグルと回っていた。
そしてそんな彼を引き戻したのは────部屋の外から聞こえてきたガタッ、という何かの物音だった。直後、ケイの索敵スキルが、この部屋の真ん前にプレイヤーがいることを報せる。
「は…、はわワ…」
扉を隔てて向こう側。そこには、<透視>スキルを使って部屋の中を覗く、アルゴが立っていた。
それに気づいたのは、今の様子を見られていたことに気付いて慌てて体をよろけさせ、がったんがったんと物音を立てながらテーブルや椅子を倒しているケイが扉を開けた後のことだった。
「そっカー。今日は災難だったネアーちゃん。おネーサンが来たからもう安心だヨー」
アスナが寝そべるベッドに腰を下ろしたアルゴが、アスナの頭をそっと撫でながらまるで拗ねる事もに言い聞かせるように言う。
ケイはアスナにオブジェクト化したハンカチを渡した後、アルゴを部屋に入れた。そして色々と危ない想像をしていたアルゴの誤解を解いた。解いたのは、いいんだが。またケイはアスナの心を傷つけてしまったようで、今、アスナはアルゴの傍らでケイに背中を向ける形で寝そべっている。
さらに、アスナはもぞもぞと体を寝かせたまま動かすと、アルゴの腰にしがみつく。直後、その様子を目を丸くしながら見ていたアルゴが、ケイに悪戯っぽい笑みを浮かべながら両手でVサインを送ってくる。
(…UZEEEEEEEEEEE)
いや、何度も言うが、完全に自業自得なのだが。…どうもこの光景を見てるとイライラしてならない。ケイはダムダムと右足で床を叩きながら不機嫌そうな表情を隠しもせず口を開いた。
「まぁいい。首尾はどうだった?」
「ン?何ガ?」
「ご自慢の隠蔽スキルで!尾行して来たんだろ!?」
「ははははハ!わかってるかラ、そんな怒るなっテ!」
怒ってなんかないし。
ぽつりと心の中で呟くケイは、今もムスッとした表情を浮かべていることを自覚していなかった。
「あの後、鍛冶師はすぐに店じまいしてこそこそ誰かと会ってたヨ」
「っ!相手は?」
アルゴの返答を聞き、ケイの顔が引き締まる。
「全身フーデッドマントに身を隠した四人組ダ」
「四人組…。本当に四人だったか?」
「間違いなく四人だったけど…、何か気になるのカ?」
「…いや、ただ予想が外れただけだ」
ケイは、頭の中で浮かべていた予想を一つ打ち消す。アルゴが見た人影の人数が四人なら、その可能性はあり得ない事になる。
「で、その後だけド…。何か受け渡そうとしてたみたいだったナ。ま、何かトラブルがあって慌ててタ」
「…その慌ててたってのは、八時の鐘の後じゃなかったか?」
「…あァ。その通りダ」
やはり…。ともかく、あの鍛冶師がどんな理由があってそんな事をしているかはわからないが、ある程度のからくりは読めた。後は…その手口の詳細だが。
「で、その後は三々五々。鍛冶屋君は安宿に直行。その後の収穫はなしダ」
どうやらアルゴでもそこからの情報は掴めなかったらしい。ともかく、ケイがある後に頼んだ依頼は一応の所はこれまでだ。
「ありがとう。報酬はそっちの言い値で構わない」
「いやいや、オイラだってここで引き下がるつもりはないよ。ケイ坊が頼んできた分の報酬は勿論もらうけど、こっからはオイラの意志で協力させてもらウ」
報酬を払い、これでアルゴの手は離れる…と考えていたケイだったが、アルゴは引き下がらないと口にする。一瞬、意外そうに目を丸くしたケイだったが今は心強い味方を得ることができたと一つ息を吐く。
「ただ、どうすル?」
いつもの、まるで面白いものを見れたと言わんばかりの光を浮かべた目ではない。もっと、何か、執念にも似た決意を浮かべた目でケイを見据えたアルゴが言う。
「一時的とはいえ、アーちゃんの武器が奪われたのは事実ダ。これ以上被害が大きくなる前に公表するべきじゃないカ?」
「…いや、ここは慎重にいこう。向こうもアスナの武器が取り返されてることに気が付いてるはず。もしかしたらここで大人しくなるかもしれない。…とりあえず、キリトにも協力を仰ごう。それで、あいつと一緒に話し合って方針を決める」
アルゴの問いかけに答えながらケイはウィンドウを開き、宛先をキリトに指定してメッセージを打つ。
「だけど、もしその武器を騙し取った奴らが…。その武器を永久に取り返すことのできない、例えば換金をしてたりしたら?そんな事をしていたら、プレイヤー達の怒りは頂点に達するナ」
「…そうなった場合、SAOには懲罰システムがない、か」
状況を整理するごとに、この事態がどれだけ大きなものなのかを思い知らされる。
しかし、ケイはこの事態の大きさをまだ計り切れていなかったことを直後に突きつけられる。
「いや…、あるんだヨ。一つだけ、懲罰システムとは到底呼べないが…、プレイヤー達の怒りを鎮めることができる唯一の手段ガ」
「そんなのがあるのか?このSAOには」
「…SAOだけじゃない。他のMMOにも普通にあるシステムさ」
アルゴの言葉を読み取ることができず、首を傾げるケイ。そして、ケイがメッセージの送信ボタンをタップした後、アルゴは言う。
「PK」
「っ!?」
「誰だって思い付く、唯一にして最大の処罰の方法サ。…そしてそれは、どれだけ大きな怒りもあっという間に鎮めてしまう…」
「バカなっ!」
アルゴの言葉が信じられず、ケイは椅子を倒して立ち上がってアルゴに詰め寄る。
「このSAOはただのゲームじゃないんだぞ!?それを知っていて、そんな事をする奴が…」
「いない…とも言えないだロ?」
「っ…」
容赦のない、アルゴの短い問いかけにケイの勢いは失われる。ケイは何かを言いかえそうと口を開くが、言い返す言葉が浮かばず口を閉じ、顔を俯かせてしまう。
「…何の話をしているの?」
その時、ベッド、アルゴの膝元で横たわっていたアスナが起き上がり、ケイとアルゴを見回しながら口を開いた。
「PK…て、何?」
「…プレイヤーキル。プレイヤーが他のプレイヤーを殺すことだ」
MMOプレイヤー同士の会話に着いていけなかったようで、アスナは一つの疑問を投げかけてきた。ケイは一つ、短く息を吐いてからそのアスナの問いかけに答える。
「そ…、それを…」
「あぁ…。もしかしたら、あの鍛冶屋が受けるかもしれない。その事を話してたんだ」
「っ…、でも、そんな事をしたらっ!」
アスナが再び口を開き、そして自身が口にしようとした言葉の恐ろしさを実感したかのように、ぶるりと体を震わせる。
「ひと…ごろし…」
SAOの中では、HP0になるという事は、この世界での死。そして現実での死を意味する。たとえゲームの中とはいえ、もしPKが起きればそれは、殺人と同義なのだ。
「だから、絶対に避けなきゃいけなイ。そのためにも、まずは真相を知らなくちゃナ」
「あぁ。強化詐欺の手口とその動機。盗られた武器の行方も…ん、キリトから返信だ」
アルゴと、それに続いてケイが続いて言う。すると、ケイの眼前でメッセージが着たことを報せるウィンドウが開く。
ケイはウィンドウを操作し、キリトからのメッセージを開いてその内容を確認する。
「…今日の所は何もできないだろうから、明日合流しよう、だと。後、俺から聞いた状況を整理して他にも何かヒントはないか考えてみるって」
「そうカ。キー坊がいれば百人力だナ」
アルゴに引き続き、キリトという強力な助っ人が加わる。ある程度の手掛かりは揃っている。あと一ピース。一ピースさえ残れば、真相が明らかになる。ケイは、そんな気がしていた。
「…私、あの人が好き好んで他の人の大事なものを盗むなんて、どうしても思えない」
すると、体を起き上がらせてベッドの上に座っていたアスナが顔を俯かせながらそう口にした。アルゴと一度目を合わせた後、ケイは口を開く。
「確かに気弱そうだったし、俺だってそういう奴には見えなかったけど。でも、あいつの罪だっていう事は動かしがたい事実だと思う」
ケイの言う通り、最早あの鍛冶師以外の仕業だというにはあまりにも状況証拠が残りすぎている。そしてそれは、アスナにだってわかってることだろう。
「それとも、何か情状酌量の余地があるって思うのか?」
「…うん」
ならば、と考えて口にした問いかけにアスナは頷く。
「私…、前に会ったことがある気がするの。もしかしたらだけど…、でも、あれは多分…」
どうも確信が持てていない様子のアスナだが、ふと顔をアルゴの方に向けたと思うとウィンドウを操作し始めた。
「アルゴさん、調査のついででいいの。これを調べてもらえないかしら」
そう言うアスナの掌にオブジェクト化されたのは、手のひらサイズの投擲用ナイフ。
「これが…どうかしたのか?」
ケイがアスナに問いかけるが、アスナは掌に載るナイフをじっと見つめたまま動かない。
この時、彼らは考えもしなかった。…いや、もしかしたらアスナだけは何となくその事を予期していたのかもしれない。だが、アスナを除くケイ達は全く考えていなかった。
このナイフが、思いも寄らない真相を導き出すことを、ケイ達は考えもしていなかった。