プロローグ
傍から見た辻谷慶介は、どれだけ幸福そうに見えただろうか。だが、彼ほど自分の立場に苦しんだ者はいないかもしれない。
物心がついた時から…いや、生まれた時から降り注いでいたのかもしれない周りの大きな期待を背負いながら、一人になるとそれに耐え切れず、まるで逃げるようにゲームをやり込み始めたのはその事を自覚した時、小学五年生の時だ。MMOゲームも、現実でやっている事と同じ競争なのに、何故かそれにどんどんはまっていった。
当然、普段の生活にも変化が生じ、学業の成績にも影響が及ぶ。中学一年生の時には勉強に使っていた時間のほとんどがゲームの時間へと変わり、名門校でもトップクラスだった成績は中堅クラスへと落ち込んでいった。
さすがにその時は肝が冷えた。これはまずい。親に叱られ、ゲームを取り上げられてしまう。そして何よりも、親をがっかりさせてしまう。悲しませてしまう。
成績の上がり下がりで一喜一憂してくれてた親が、こんな大幅な成績の下降を知ればどんな反応をするだろう。それを考えると怖くなった。
だけど…結果的には、そんな心配はいらなかった。
父と母に呼ばれ、問われ、自分は正直に理由を話した。自分に向けられる期待がとてもつらかった事、いずれお父さんのような─────と周りの大人に言われるのが煩わしかった事、そんな時、今ではすっかりのめり込んだゲームを見つけた事。ゲームにのめり込んでいく内、勉学の時間は減ってそのせいで成績が下降したのだ、と。
言葉を進めていく内に、耳に蘇る大人たちの言葉。『いずれはお父さんの様に─────』、『お父さんの様な立派な─────』、『将来はお父さんと同じ─────』、お父さんお父さんお父さんお父さん。どれだけ頑張っても、周りから聞こえてくるのはその言葉ばかり。ただ唯一、自分の気持ちを露知らない父と母だけが素直に褒めてくれた。だから…、どれだけ言葉が重なり、鬱陶しく感じても、父という存在を嫌う事は出来なかった。
ずっと封じ込めてきた思いを全て吐いた。今になって思い返すと、まるで八つ当たりをするガキの様だった気もする。だけど、そんなどうしようもない自分を、両親は抱き締めてくれた。辛かったねと、気づいてあげられなくてゴメンと、優しく抱き締めてくれた。
それと父はこうも言ってくれた。『お前がしたい事をすればいい。あまりに度が過ぎない限りは何も言わん』と。『だがさすがに今回の成績に下がりようは見過ごせん。飽くまで今のお前の本分は学業だからな』とも言われたが…。当初心配していた、二人が悲しむ、という事はなかった。少し覚悟していた、ゲームを取り上げられるという事もなかった。
今では、勉強の時間とゲームの時間のバランスを取って過ごしている。前の様に成績をトップクラスに戻すこともできたし、試行を繰り返してその成績を維持できる勉強時間を確保している。まぁそれ以外はひたすら遊んでるのだが。
周りが何を言おうとも関係ない。ただひたすら父の様にとだけを考えていた自分はもういない。今では将来の目標もできて…、あの時、自分の抱いていた気持ちを曝け出して良かったと本当に感じている。
と、色々と吹っ切れて、新しい自分を始めておよそ一年経ったある日、父がある物を持ってきてくれた。
<ナーヴギア>
家庭用に作られたVRマシンの第一号で、正式な発売は明日という話だったが…。父曰く、知り合いに頼んだら特別に売ってくれたという。
さすがにそれは権力乱用ではと聞いてみたのだが、碌に取り合ってくれなかった。というより、図星過ぎて返事を返すことができなかったといった方が正しいかもしれない。
何はともあれ、俺は世界初のVRMMOゲーム、初回販売では一万人しか手に入れることができない、<ソードアート・オンライン>にログインする権利を得たのだ。…少し他の人に罪悪感が湧く方法ではあったが。
そして、今日。2022年11月6日、日曜日。俺は、ソードアート・オンライン、通称SAOが正式サービスを開始する時間、午後1時が訪れるのを待っていた。
「兄さん、ちょっと宿題で教えてほしい事があるんだけど」
「悪いが今、俺は忙しい。母さんか斎藤さんにでも聞け」
部屋の扉がノックされた直後、可愛らしいソプラノボイスが外部から中に届く。この声は、可愛い可愛い我が妹の声だ。いつもなら部屋に入れてその質問に答えているのだが…、今日だけは、この時間だけはダメだ。
現在の時間は12時52分。残り8分…正確には7分23秒後にSAOの正式サービスが始まるのだ。妹の…司が質問の答えに満足するまでに要する平均時間はおよそ十分。…ダメだ、ここは心を鬼にして司を追い返そう。それに、司も途中で答えるのを投げ出されるのは嫌だろう。これは司のためでもあるんだ。…え?少しくらい時間過ぎたっていいじゃないか?何を言ってるんだ?サービス開始時間ぴったりにログイン、これ、ゲーマーの基本よ?
「お母さん、今買い物行ってる。それに斎藤さんは新しく入った人の教育してるし」
「え、また新しく雇ったのかよ父さん」
「…私の専属になる人よ」
「…へー」
ぶっちゃけどうでもいいや。父さんならそう酷い人を司の専属に選ぶはずないし。
「ていうことで、あと残ってるのは兄さんしかいないのよ。だから教えて」
「悪いな司、さっきも言ったが今俺は途轍もなく忙しいんだ」
「…ゲームにログインしたいだけでしょ?」
「時間ぴったりにという言葉を付け足せ」
扉に隔てられわからないが、司が呆れた表情をしているのは聞こえてくる声からよくわかる。聞こえてはこないが、多分大きなため息もついてるだろう。
「…わかった。でも、後で教えてよね」
「どうして俺に聞く前提なんでしょうか…」
自分で解けよ。考える努力しようよ。何で俺に聞くって固く決めてんだよ。
こっそり内心で呟く慶介。
でも、司が現在勉強してるのは中学生になってから習う内容だ。司の今の学年は小学五年生。どれだけ自分で考えてもよくわからないのかもしれない。そう考えると、喉の奥まで出かかった言葉を飲み込むことができる。
「兄さんはいつになったら戻ってくるの?」
「夕飯までには戻るつもり。大体…六時半くらいかな?」
「わかった。待ってる」
とん、とん、とん、と軽い足音が遠ざかっていく。どうやら司を納得させ、追い返すことができたようだ。これで心置きなくサービス開始時間を待つことができる。
それから、ベッドの上に寝転がりながら、SAOの開発者<茅場晶彦>に行ったインタビューの内容が書かれた雑誌を読みながらその時を待つ。
待つ。待つ。ひたすら、待つ。
「…よし」
慶介は横目で見た、時計が示す時刻を確認して雑誌を閉じる。そして無造作に勉強机の上に放り投げて、机のすぐ横にある棚の上に置かれたヘルメットとコードを取る。
そのヘルメットこそ、SAOへの招待状─────<ナーヴギア>だ。
ナーヴギアにコードを繋げ、そしてもう一方をルーターに繋げる。ベッドに体を横たわらせ、ナーヴギアを被り、安全ベルトもしっかり閉める。
仮想世界─────自分はそこで、どんな景色を見ることができるだろう。この手で、どこまで世界を切り開くことができるだろう。胸に思いを抱き、慶介は仮想世界へと誘う鍵となる言葉を口にした。
「リンク・スタート」
瞬間、現実の慶介の意識は闇へと落ち…代わりに、仮想世界へと入り込んでいく慶介の意識が目覚めていく。
ソードアート・オンライン。
天才学者、茅場晶彦が創り出した剣の世界へ─────