何話か続きます。
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① こうして比企谷八幡の夏休みは再び過ぎてゆく。
夏休み。
地域や学校によってその期間に差はあるらしいが、首都圏の公立校ならば七月の海の日あたりから八月末頃まで、四十日前後の長期休暇として設定されていることが多いだろう。
長期休暇、というからには休んでなんぼだ。
そもそも夏休みという制度自体、もちろんお盆休みの帰省や家族旅行なども考慮しているだろうが、本来は猛暑対策という面が大きいものらしい。今でこそ学校へのエアコンやクーラーの設置が進んでいるが、かつてはそんな文明の利器など整備されていなかったから、当然ながら教室は蒸し風呂。そこで無理に授業をやったところで身につくものも身につかないし、熱中症などで倒れる生徒が出てしまう恐れもある。
最も暑い時期くらいは無理をせず、家庭や旅先でゆっくり身体を休める。これこそが夏休みというわけだ。
……ところが、この世はそう単純な仕組みでは動いていないようだ。
エアコンやクーラーの設置が進んだがゆえ、普段の授業を快適に受けることができるようになった一方で、「エアコンあるんだから夏休みいらなくね? いらないよね? 休み縮めて授業やろうぜ!」とかいう鬼畜な方針を打ち出す学校が増えてきているらしい。確か静岡だったか、夏休みを十日前後にする方向で動いている学校も出現していると聞く。なにそれ怖い、サラリーマンかよ……。
我らが千葉市立総武高校は今のところ、夏休みを大幅に短縮する計画はない。
が、ご多分に漏れず今年は授業時数の確保だとかで、二学期始業式が去年より五日ほど前倒しされちゃった上に、普通科三年に限ってクラスごとに毎週一回、我が三年A組ならば火曜または木曜、土曜のいずれかに登校して授業を受けなきゃならない『進学対策特別授業日』なるものが試験導入された。期間は大幅短縮されていないが、気持ち的には大幅減も同然である。
しかも、三年の多くは予備校の夏期講習に通っている。俺が受講している教科はちょうど火木に被っているので、自動的に特別授業は土曜日を選ばざるを得ないのだ。夏休みなのに。それでなくとも週末なのに。おかしい……こんなことは許されない……。
予備校は仕方がない。自分の意志で、必要だと思ったから参加しているのだから。けど、でもさぁ、こんなクソ暑い時期くらい、学校の授業はなしにしようぜ……。
「おい、比企谷。なにボケッとしてるんだ。98ページ10行目から読め」
「……うす」
……クソ、憂鬱だ!
× × ×
待ちに待った放課後がやってきた。
進学対策特別授業なるものは、ふだんの五〇分×7限授業と全く同じ時程で行われ、7限終了の一六時一〇分を迎えた時点で解散となる。辛いです……。
夏場の最終下校時間はそれなりに遅く設定されているので、このまま学校に残って文化系の部活や自習に励むって奴もいるだろう。が、既に引退している元運動部連中を含め、大多数の生徒は炎天下へ躍り出て帰宅の途に着くか、あるいは街へ繰り出して夜まで遊んでから帰るかのどちらかだ。
こと俺はといえば、居残って自習をするほど意識高くないし、遊んで帰るような親しい人間もいない。部活のほうも、国際教養科の雪ノ下は登校義務がないし、クラスの違う由比ヶ浜は授業が別の曜日なので、今日は出席しておらず開かれない。従って、このまま帰宅である。
まあ、もうすぐ夕めし時、そろそろ腹の虫も泣く頃だ。今日は小町も友達と遊ぶとかで外出しているから、家へ帰ったところで食事が用意されている保証はない。このクソ暑い空の下で寄り道なんてしたくもないが、ファミレスかファストフードくらいは立ち寄らねばなるまいか。
帰宅経路的に楽な稲毛で軽いものを食うか、それとも稲毛海岸か海浜幕張で美味そうなものを探してみるか。今日は自転車じゃないからいつも行ってる幕張の14号沿いサイゼには寄れないんだよなぁ。……とかなんとか考えながら昇降口へ向かっていると、進路上、昇降口の靴箱前に敵機視認。タリホー!
触らぬ神に祟りなしとはよく言ったものだ。いや、この場合は藪をつついて蛇を出すのほうが近いか? まあどっちでもいいが、下手に関わるとろくなことがないってことだけは確かだろう。主に俺の安息が削られるという意味で。
ならば、よし。
気づかなかったふりをして、何食わぬ顔で横を通り抜けてさっさと帰ろう。気配を消し空気に紛れるぼっち固有スキルの発動だ。敵のレーダーに探知されないことにかけては、米軍最強のステルス戦闘機にだって劣らない。
「あ。せんぱーい!」
……あ、あれれー? おかしいぞー?
俺の高度な技術よりも、奴ののほうがずっと上手だったらしい。向こうもこっちの姿を認識して、瞬間、にやぁ~っと崩れる表情。
まさか、夏休みまで……エンカウントしちゃうなんて……。
「…………お疲れ。じゃ」
「って、なんで立ち去ろうとしてるんですか!」
雑に呟いて撤退を目論むも、上手くいくはずがない。
俺の態度を見て途端に頬を膨らませ不機嫌を露わにしたふぐはす……じゃなくていろはすが、とてぱたとこっちへ駆け寄って、逃さんとばかりにしがみついてくる。
半袖でむき出しの我が右腕に、同じく半袖むき出しな白い素肌がぎゅむっと絡みついた。その距離ゼロミリ。
一色の体温が直に伝わってくる密着度と、頬のチークに含まれるごく微量なラメのきらめきまでもが見えてしまうほどの距離に、心臓が跳ねる。
ち、近いから、甘くていい匂いするから……。あと何かむにむに当たってます押し付けられてます控えめなくせにやわらかい……。
あ、あざとい……。相変わらずあざとい。
いや、あざといというか、このボディタッチいくらなんでも過剰じゃないですかね。いつもより激しいですね君……。
「なんでって、今から帰るからだよ。開放しろ」
とりあえず近すぎるし、くっついてると暑いし、なんか通りがかりの連中からじろじろ見られてて恥ずかしい……。
「いやです。っていうか帰ろうとしてたのは見ればわかりますけど、ふつう仲良しな後輩の顔を見たらちょっとくらい会話しません?」
仲良しな後輩……か。
仲が良いっていう言葉は、ただの先輩後輩も含めるのか、それとも友達以上の間柄のことを指すのか、さっぱり俺にはわかりかねる。だが、一色からすれば、俺との間柄は『仲が良いもの』という認識らしい。
なんてことない発言のはずなのに、どうしてかむず痒い。
「……そんな一般的な対応なんて俺にはできんな」
「なに開き直ってんですか……」
一色は呆れたように眉を顰め、わざとらしく大げさに溜息を吐いて見せる。
次から次へところころ表情が変わる奴め……。だいたいからして、ぼっちにまともな対応を求めることが間違ってるんだよなぁ。
しかしまあ、とりあえず一色は俺に人並みの会話を求めているわけだ。ならまあ仕方がないし、てきとーに相手してやろう。
「つうか、お前なんで学校にいんの?」
とは思えども俺は、そこらのリア充のように色々な話題を即座に作り出してやりとりできるほどコミュ力高くない。なので、ふとした些細な疑問を口にしておく。
登校日は三年の普通科にのみ設定されているもので、従って一年や二年に登校義務はないのだ。なのになんで登校してんだこいつ。夏休みだぞ、休め。
「さっきまで生徒会だったんですよ」
投げた言葉に、一色は表情を和らげてそう返した。
「生徒会って、夏休みもやってんのか?」
「ですです。夏休みって運動部の対外試合や交流が多いシーズンじゃないですか。だから部活動とかPTAとの連絡や調整が色々とありますからね、ちょくちょく出てきてます。っていってもあれです。みなさんそれぞれ用事があるんで、今日はわたしだけですけど」
「そうか……。なんか大変そうだな」
思いの外うちの生徒会は、イベントシーズン以外でも忙しく働いているらしい。
あの生徒会役員選挙事件すらなければ、リア充リア充してるこいつのこと、いまごろは親しい男友達とでも夏休みをたっぷり満喫していただろうに……。
その選挙で一色を推してしまった手前、どうにもバツの悪い反応しか返せない。
「ま、いちいち学校まで来なきゃいけないのは面倒いですけど、それは特別授業のある先輩だって同じですしね。それほど大変でもないですよ?」
「ほーん……」
「それに、生徒会室もすごく快適で、過ごしやすいですし」
「そういやお前、色々私物の快適グッズ置いてるもんな。冷蔵庫とかクッションとか」
一色生徒会の実働初日、戸部が模様替えの下働きとしてこきつかわれていたことがあったが、あの時に持ち込まれた私物はポスター類と冷蔵庫、ヒーターだけだった。ところが、以来いつの間にやら、もこもこラグ、炬燵、毛布、電気ケトル、お茶セット、大量買い置きのいろはす2リットルボトル、おやつ各種、簡易的なソファ、マカロンクッション……などなどと増えに増え続けている。
おいおい、生徒会室は一色の家かよ。自由にもほどがあるぞ生徒会本部。
「っていうか、あんなに私物持ち込んで教師とか事務から怒られないのか?」
「仕事さえちゃんとやれば、ぜんぜんおっけーだそうですよ」
「そ、そうか……」
T○KI○並みに発揮する環境適応力と、大人たちの甘すぎる対応に呆れ驚きいていると、突然なにやら一色がもぞもぞと身動ぎしだす。
砂糖菓子のように甘くアナスイが香り、素肌が擦りつき、柔らかいものが擦りつき……、やめてもう動かないで! これ以上男の子を刺激しないで! 前かがみになっちゃったらどうしてくれるの!?
「ところで先輩」
ポジションが定まったのかぴたりと動きを止めた一色は、さっきよりも低い姿勢から、何かを求めるような上目遣いで視線を送ってくる。
「……お、おん?」
その仕草や態度のせいか、それとも物理的な距離のせいか、女の子という存在の魅力を意識させられてしまって、ついたじろいでしまう。
「やっと、会えましたね。先輩」
その上さらに、まるで数年ぶりの再開を果たした恋人のごとき、ぐっときちゃう台詞まで加えて。
なんのつもりか知らんが、こういうのは恋人にやれ、恋人に。うっかり惚れちゃったらどうしてくれるんだよ……。責任取ってくれるならいいけどよ。
「……やっと?」
「出不精な先輩のことだから、特別授業受けるなら平日だろうなって思って昇降口で待ってたのに、火曜日も木曜日もぜんぜん現れないんですもん。二週間も無駄しちゃいましたよ」
「待ってたって、なにしちゃってんの……」
俺の知らないところで、俺を待ち続けていた物好きがここにいたらしい。
一体どういうことなの……。
「ほら、先輩ってもうすぐ誕生日じゃないですか」
「……なんで私が八月生まれだと知っているのかしら。まさかあなた、ストーカー?」
「は? なんですかそれ、雪ノ下先輩の真似ですか?」
じろりと、鋭くひと睨み。
う、うーん、これ去年由比ヶ浜の前でモノマネした時はウケたんだけどな。
「似てなかったか?」
「ドン引きです」
「そ、そう……」
おかしいなぁ。去年の今頃はあれだけ毎日、風呂に入るたび鏡に向かってモノマネ練習してたのに。すっかり鈍ってしまったらしい。
「ていうか、八月生まれっていうのは以前ちらっと耳にしてたんで。だから先輩を捕まえようと思って張ってたんですよ。そしたら一昨日、ちょうど帰り際の結衣先輩と会って、先輩の登校日は土曜ってことと誕生日の日付を教えてもらったんです。明々後日ですよね?」
「……まあ、そうだけど」
「せっかくですからお祝いしたいじゃないですか、誕生日」
つまりこいつ、そんなことのために毎回俺を出待ちしてたっつうのか……。
「……そういうことなので、やっとです。二週間ぶりですね、先輩!」
「お、おう……」
心底嬉しそうな、満面の笑み。
全くあざとさや裏を感じさせない純粋な態度に、顔面がカッと熱くなる。
なんで一色がこんな態度を見せるのかわからないが、そんなことはどうでもいい。思わずうっかり惚れかかってしまっている俺がいて、心の邪念を慌てて振り払う。あぶないあぶない……。危うく落とされるかと。
「っていうわけでちょっと早いですけど、もし先輩このあとお暇なら、今からお誕生日会しましょう!」
「……別に祝いなんていらんけど」
「まーた先輩はそういうつまんないこと言う……」
一色はやれやれと首を振って、俺の腕に抱きついたまま肩を竦めるようなジェスチャーを見せる。
「いや、だってなぁ……。いままで誕生日なんて祝われたことねえし」
「……え、まじですか」
「マジだ」
小町の誕生日は家族で盛大に祝うんだが、俺の誕生日は特にこれといって何かパーティ的なことをやったり、プレゼントをもらったりした覚えがない。これが長男たるものの宿命か……。ほれ、お兄ちゃんなんだから我慢なさい!ってやつ。
さすがに小学生の頃まではケーキくらい食ったけどさ。けど母ちゃんが書いてくれたチョコレートプレートが『八番くんおたんじょうびおめでとう』だったんだよなぁ。誰だよはちばん。巾が足りないよ巾が。っていうか息子の名前間違えんなよ母ちゃん……。
「じゃあ、ほんとにいまままでパーティとかしたことなかったんですか? 去年、奉仕部とかで」
不思議そうに、一色はくりっと首を傾げる。
こいつがこれまでどういう交友関係を送ってきたのかは知らないが、一色にとって誕生日というものは、祝い祝われ盛大に騒いじゃったりするものなのだろう。実際、四月十六日の一色誕生日も、週末と被った都合で一日遅れだったが、奉仕部室でちょっとしたパーティを騒がしくやったし。
しかし世の中、盛大なパーティなんてしてもらったことのない人間のほうがずっと多い。たぶんだけど。
「特に何もねえよ。っつか、俺のような人間はお前らリア充とは住んでる世界が違うからな。自分の誕生日を誰かに祝ってもらうなんて文化は存在しない」
実のところを言えば去年の誕生日前、由比ヶ浜がパーティだの花火大会だのプールだの肝試しだのキャンプだのと、あれこれ提案してくれたことがあった。結局いずれも断ってしまったのだが。気恥ずかしかったし。
けれども由比ヶ浜も引かず、ならば普通のことをしよう的な流れにはなったものの、結局千葉村だの何だのと色々あって誕生日会的なことは開かれなかった。
「そう言いますけど、住んでる世界なんて案外違わないもんですよ」
「そう……か?」
「去年、結衣先輩の誕生日にみなさんでカラオケ行ったんですよね? 夏休みに合宿行ったりもしたって聞いたことありますし、クリスマス前にもディスティニー行きましたし、初詣もみなさんで行ったんですよね? けっこう、先輩もリア充してるじゃないですか」
……まあ、確かに行きましたねぇ。カラオケも合宿もディスティニーも初詣も。
経緯的に誕生日とは関係ないが、結局なんだかんだでキャンプっぽいことをしたし、脅かす側だったが肝試しもして、プールじゃないし俺は見ていただけだったが水遊びもして、花火大会にも行ったんだっけな。
もしかして、俺、リア充? いや、それはねえな。
「だからそんなつまんないこと気にしないで、ぱーっと遊びましょう!」
「つまんないことって……。けど、遊ぶったって何するんだ?」
「先輩、今日ってなんの日か知ってますか?」
「今日?」
突然の『クイズ! いろはす今日は何の日!』開催である。
今日って何かあったかしら。一昨々日ならパンツの日なんだけどな。八月二日はおぱんつの日!
んでもって、確か一昨日がはちみつの日だったっけか? テレビでなんかそんなことを行っていたような気がする。その語呂合わせの流れでいけば、八月四日なら箸の日、八月五日なら箱の日……とかになるんだろうか。知らんけど。
「……いや、わからんな。今日ってなんちゃら記念日的なのあったっけか?」
「記念日とかじゃなくてですね、イベントですよイベント。どーん!って」
「どーん……?」
運動会的な? こんなクソ暑い時期にやるわけがない。絶対違うな。
どーん……、どーん……。どーんってなんだ?
あぁ、なるほど。その擬音で表すものにぴったりのイベントが、ひとつ脳裏に浮かんだ。
「花火か?」
「ですです、花火大会です。海浜幕張の!」
一色は嬉しそうに、ぱあっと表情を綻ばせた。
千葉市民が単に花火大会と言えば、それは例年千葉みなとの千葉ポートパークで開催されていた千葉市民花火大会を指すことがほとんどだろうと思う。今年は『幕張の浜』に会場が移り、幕張ビーチ花火フェスタとかいう愛称を冠して、より大規模に盛り上げて開催されることになった……とかなんとか、しばらく前にチバテレのニュースでやっていた。
「ほら、せっかくタイミングもちょうどいいことですしー、花火見ながらお祝いっ! 的な感じでー!」
なおも嬉しそうに語る一色には申し訳ないところではあるが、花火大会……。うーん、花火ねぇ……。
「あー……。なんつうか、あんまり気乗りはしないな」
「えー、なんでですかー?」
「いや、なんでって、クソ値段高い有料の観覧席なら別だろうけど、花火とか人すげえ来るだろ、無料エリアはどこもすげえ混むだろ、すげえ蒸し暑いだろ、しかも蚊とか虫とかもいっぱいいるだろ。そんなの行くわけないだろ?」
などと口にするが、そんなものは嘘だ。
……いや、人混みや暑さや虫が嫌なのは事実だが、気乗りしない本当の理由は別にある。
去年の花火大会――由比ヶ浜と二人で出かけた日。
あの当時はまだ移転前で千葉みなとだったが、会場に向かうべく乗った
人が多いお祭りであるがゆえ、由比ヶ浜との関係性があまりよろしくない女子グループとばったり鉢会ってしまって、イケてない男子たる俺と一緒にいることを理由に彼女は嘲笑われるはめになってしまった。すし詰めのごとき会場では見物するためのスペースを探し出すことすら困難で、けれども俺はどうしてやることもできなかった。会話だって、弾まなかった。
たまたま遭遇した雪ノ下さんが貴賓席こと特別観覧席へ招待してくれたから、結果的に最高の立地で夜空に咲く花々を見ることはできたけれども。しかし、そのときにあったやり取りは、俺と由比ヶ浜を相当に滅入らせるのには十分すぎるものだった。
あれがもし、付き合いはじめたばかりの高校生カップルのデートだったら、あっという間に破局を迎えてもおかしくない散々な内容だっただろう。
楽しかったかと問われれば、俺にとっても由比ヶ浜にとっても、決して肯定できるものではなかっただろうから。
つまるところ、正直な感情として、花火大会というものに良い記憶はこれっぽっちもなくて、むしろ若干トラウマにも近いものがある。せっかくこうして祝ってくれると言ってくれていいる女の子には申し訳ないが、去年のあの時のような思いはさせたくないし、そうなってしまうのが怖い。
「先輩?」
表情にでも出ていたのか、あるいは些細な機微から感じ取ったのか、一色は不安げな、あるいは寂しげな色を浮かべていた。
「あ、ああ……。まあ、なんだ。あまり人がいない穴場的な所でもあればな、花火見に行ってもいいんだけど……」
気乗りはしないが、かといってこんな表情を見せられてしまうと、無下にすることもできない。歯切れの悪い返事だけが口をついて出る。
それでも、一色はこんな情けない返しでも満足だったらしく、ころっと可愛らしい笑顔に戻った。
「じゃあ、こういう特等席ならどうですか?」
「特等席?」
「はい。例えばですね、特別協賛席みたいな場所と比較しちゃえば距離もちょっと離れてますけど、邪魔くさい観客がいない個室で、大きな窓から花火がきれいに見えて、エアコンも効いてて、お飲み物やお食事も存分に提供! 疲れちゃったらそのまま寝ちゃってもいい、そんな最高のロケーション! 汗を流したければお風呂もあります!」
提示されたものがあまりに好条件すぎて怖い。なにそれ天国かよ。
ざっと脳内をサーチしてみても、ロイヤルオークラかブルータワー、ザ・ニューヨーク、ナハリゾートといった、海浜幕張駅前に立地する高層建てのシティホテルくらいしか思い当たらん。
ん? ホテル? 花火大会の夜に男女がホテル……? 浴衣をそっとはだけて、俺をベッドに誘う一色……? はわわっ! らめですご主人さまっ! 赤ちゃんできちゃいますっ><!
「……お兄ちゃんは若い男女が二人でホテルで一夜を過ごすなんて許しません!」
「先輩お兄ちゃんじゃないですし、だいたいそんな大金もってないですしわたし」
「そりゃそうだ……」
高えもんな。花火が見やすい上階の客室なんて、一泊二日で一室4万だの8万だの12万だのするらしいし。まず高校生が気軽に用意できる金額じゃないし、仮に用意できたところで行かないけどね。恋人ならば別として。
「っていうか先輩、どんなことを想像したんですか?」
にやぁっと崩した表情で、一色は誂うように問うてくる。
おおかたこいつは、えっちぃことでも想像したんじゃないか――とか思っているのだろう。事実うっかり想像しちゃったが、正直にそんなことを伝える俺ではない。
「条件と立地的に、該当すんのなんて駅前のシティホテルくらいしかねえよなと思っただけだが」
「それだけですか?」
「それだけだが?」
「なら、なーんでそんなに頬っぺた真っ赤なんですかね~」
指摘され、慌てて顔を逸らす。
えっ、やだ、逸したら余計にバレバレじゃないか……。恥ずかしい……。
「ふふっ。先輩が恋人でもない後輩女子とえっちなことをするいけない想像をしちゃった件については、とりあえず置いておいてあげます」
「全然置いてないんだよなぁ……」
「けどまあ、さすがにシティホテルのスイートを用意するのは無理ですけど、人が少ないいい感じの穴場とか見つかるかもですし……。いっしょに、花火見に行きません?」
一色は俺を見つめ、欲するような声音でおねだりしてくる。
しばしどうするか頭を悩ませるが、こうやっておねだりされるとどうにも弱い。小町によって調教されてしまったクセなのか、あるいは一色の特技がすごいのか。
しばしの後、ついに根負けして若干不承不承っぽい態度でこう伝える。
「……わかったよ。けど、あまり人が多すぎるようなら早めに帰るからな」
「やったっ! へへ、そしたらほらほら、さっそく行きましょう行きましょう」
途端ににまにまっと崩れた笑みを浮かべた一色に、抱かれた腕をぐいぐい引っ張られて些か強引に歩かされる。
色々と思うところもあるが、祝ってくれるっていう部分は素直に嬉しい。
今日のところは、ちょっとくらいなら振り回されてやってもよかろう。
前編の2へ続きます。