さくっと短めに。オチはありません。
お知らせ
まだ上陸はしていないものの日本列島に台風が接近し、南関東でもばちゃばちゃとバケツを引っくり返したような大雨が降り始めた、ある夏の朝。
警報でも出ていれば自宅待機になるのに、あいにく朝のニュースではこれといった情報は出ていかなかった。仕方がなく家を出る。
夏とは思えないほど外は寒かった。夏服の半袖シャツに雨合羽の上着を羽織っただけではまったく防寒にならない。それどころか、前合わせの隙間や合羽帽子の隙間から水はどんどん入り込み、下半身は雨対策をしていないため無防備に濡れ、体温が奪われていく。そんなの中、鳥肌を立てながら自転車をぎこばたと漕いで走る。
花見川のサイクリングロードは、強まりつつある風に木々が揺れ、折れた小枝がそこらじゅうに散っていた。どうやら利根川のほうの水量が増えているのか、印旛沼へと逆流した水を東京湾へ放水しようと、花見川の流れも黒々とした濁り水で荒れている。
こりゃ、本格的に天候も悪化しそうだ……。出来ることならばこのまま自宅へ向かってUターンしてえな、などと憂鬱な気分になりつつも、自転車のペダルを蹴る力は決して緩めない……というより、緩められない。
俺が通う千葉市立総武高校は、平日の朝6時までに千葉市または千葉市を含む地域に暴風警報、大雨・洪水・大雪などの特別警報が出ている場合、あるいは平日の朝7時までに京葉線・総武線各停・京成千葉線・京成バス・海浜バスのいずれかで天候不良による運休が発表されている場合に限って自宅待機、それが朝8時以降まで続くと自宅学習(臨時休校)となる決まりとなっている。ところが、俺が自宅を出た時点ではまだ警報が出ていなかったから、自己判断で自宅に留まってしまうと欠時扱いになってしまう。嫌でも行くしかないのだ。
悪天候や天災のときくらい、仕事や学校休もうぜ……。ほんと日本人マジ社畜。
我が国の腐り果てた〝勤勉〟文化に文句を内心でぶつくさ言いつつ、総武高につながる団地街の路地を突っ走った。
やがて見えてきた通用門から校内へと進み、普通棟昇降口下のピロティに中庭にと突き進んで、特別棟下のピロティで自転車から降りる。既に混み合った駐輪場へと押し込んでから、もと来た道を戻るようにして昇降口へと向った。
えっちらおっちらと外階段を登る。ちょうど最も生徒が多く登校する時間帯ということもあって、周囲はざわりざわめいていた。それをスルーしながら二階へとたどり着いて、ぐしょ濡れの靴を下駄箱に放り込む。上履きを濡らすのはさすがに抵抗があるので、くつ下のまま廊下へと進もうとしたところで、ふと、違和感。
ざわめきが、いつもよりも騒がしい。
周囲をぐるんと見回してみると、すぐ先の掲示板付近に人溜まりができていた。
男子に女子に、真面目系にチャラ&ビッチ系に、先輩に同級生に後輩に、その集団に入り交じる彼ら彼女らのタイプは一定しない。みな一様に雨に打たれてずぶ濡れで、スラックスの裾から水をぼたぼたと垂らしている男子もいれば、ブラジャーがはっきりと透けてしまっている女子もいる。誰もが今しがた学校についたばかりの様子だ。
はて、なんか重要な告知でもされているのかしら、と俺もその輪に近づいて集団の隙間から覗き見る。
掲示板の手前に、立て看板。黒と赤のマッキー太字で乱雑に殴り書かれたA3ほどの紙が、ばーんと大きく張り出されていた。
曰く、
お 知 ら せ
生徒部
8時01分、気象庁より千葉市全域に
大雨・洪水・暴風警報が発令されたため
本日は 自 宅 学 習 とする
なお既に登校した生徒は、屋外が危険なため
全ての警報の解除まで校内待機とし
10時以降も警報が解除されない場合は
所属クラスで課題を受けるものとする
以 上
おいいいいいいいいいいいいいいいいい! もっと早く警報出せよ気象庁!!(激怒)
いや、別に気象庁は悪くねえけど、だってなぁ……。
頑張って頭や下半身をずぶ濡れにしてまで学校に来てさぁ、やっぱ今日は自宅学習でーす、なんてなぁ……。
スラックスどころかボクサーパンツまでぐっちょぐちょなのに、これで椅子に座って授業を受けなきゃなんないわけで。まあ、昨日体操服を持って帰るの忘れたから、最悪それに着替えればいいわけだが。
気が滅入る。というか滅入るなんてレベルじゃない。
自己判断でサボりゃよかった。くそ。
周囲の連中も同じ気持ちのようで、各々が各々みな似たように文句をぶつくさ言いつつ、それぞれの教室へ向かって散っていく。
……しゃあない。
学校待機命令が出てしまっているのであれば、ここで踵を返すわけにもいかない。というかこの雨風の中、また自転車を漕いで家まで戻るっていうのも辛すぎる。
文句は山ほどあるがぐっと堪えて、しぶしぶながらに教室へ向かうことにした。こんなところにいても仕方がないのだ。
荒れた外の様子を窓から眺めながら、のたのたと歩く。
気分が乗らねえし、寒いし……。せめてタオルかなんかで身体を拭ければいいんだが、そういった類のものは持ってないしな。小さなハンカチならあるけど。
うー、寒い。風邪ひきそう。
ぶわっと身体に悪寒が走り、思わず身震いする。困ったもんだと思いながら、外側が濡れたカバンからハンカチを取り出して、せめて頭だけでもと生地を髪に当てがい拭う。
と――
「あ、先輩!」
背後から聞こえた甘ったるい声に、ぼんやりと振り向く。
「先輩も学校来ちゃってたんですね……」
俺や他の生徒たちと同様に登校しちゃった一色いろはが、疲れきったような顔色を浮かべていた。
「っていうかお前ひどいな。ずぶ濡れなんてレベルじゃないな……」
「あー、はい。モノレールの駅まで行く間に、風で傘がやられちゃって……」
「じゃあ、稲毛海岸の駅からここまで傘なしで?」
「です」
しゅんと肩を落とす一色の亜麻髪やシャツの袖、スカートの裾などからは、透明な雫がぽたりぽたりと滴り落ち、薄いスクールシャツはぴたりと肌に貼り付いて下着がくっきりと透けてしまっていた。その姿は蠱惑的であると同時に、ひどく痛々しく気の毒にも思えた。
この雨風の中を傘なしで歩いたら、こうなるのも当然だ。
「……ん」
ハンカチを突き出してやる。
カンタくんみたいなぶっきらぼうな態度になってしまって申し訳ない気持ちでいると、一色は俺を見て不思議そうに目を丸くした。
「ほれ、そのままだと風邪引くだろ。……俺の使用済みで悪いが、それでも構わんならせめて髪の毛くらい拭いとけ」
「……あ、はい、ありがとです」
おずおずと手を出してハンカチを受取り、ぎゅっぎゅっと頭へ押し付けるようにして一色は髪の水気を取り始めた。しかし、小さなハンカチ、それも既に俺が使って湿っているものでは焼け石に水とでもいうのか、大して意味をなさない。相変わらずシャツやスカートからは雫が垂れ続けている。
俺が風邪を引いたところで困る奴はいないだろうが、一色が風邪を引いて学校を休んでしまうようなことになると色々と困ったことになるかもしれない。
「なあ一色、お前、体操服とかって学校に置いてあるか?」
「いえ、今日は体育ないので……」
「……その、ちっとばかり汗臭いかもしれんが、俺の使うか?」
昨日の体育で使って、しかも持って帰るのを忘れた汗臭いかもしれない体操着を、よりによって後輩の女子に貸そうってのかよ……。我ながら呆れるわ。
ごめんね一色、でもあれだよね、言ってから『言わなきゃよかった!』って思うことって、よくあることだよね?
「あー、すまん。今のなしな。配慮が足りんかった」
デリカシーのない発言を詫びつつ、さてどうしたもんかと考える。
しかし、一色はそれでもよかったらしく、ぐっと俺に一歩近づいてこんなことを言った。
「せ、せっかくなので貸してください! ……あ、いえ、その、ちょっと汗臭いくらいなら全然気にしないですし、このままだと風邪ひきそうでやばいので。シャツもすけすけで下着があれですし……」
いますぐ急いで着替えさせろと言わんばかりに、透けて見える薄桃色のブラジャーを強調するように胸を張って見せた。
そんな仕草に男の性がくすぐられるが、なんとか理性を保って一色から顔を背ける。
「じゃあ、どっか着替えられそうなところ……、生徒会室ででも待っとけ。持ってってやる」
「はい!」
軽くお辞儀をしてからとてぱたと職員室の方へと走っていく姿を見送った後、俺も止まっていた足をせかせか動かして教室へと向かった。
× × ×
ロッカーからシャツとハーフパンツだけごそごそと引っ張り出して、生徒会室を訪ねた。
扉をノックしてから立ち入ると、暖かな風を感じた。どうやら暖房でも入れているらしい。冷えた身体にはありがたい。
「ほれ、持ってきたぞ」
「ありがとうございます」
感謝しきりといった様子で、一色はあざとさ皆無の言葉を返した。
手早く渡すだけ渡してから、身体を反転させて生徒会室を出ようとする。
「あ、先輩、待ってください」
が、なぜかかかる制止の声。
「暖房入れたんで、ちょっとだけここでのんびりしていきません?」
「……それはありがたい提案だが、お前着替えるでしょ。とりあえず一回外出るから」
「そこでそっち向いててくれればいいですよ。廊下寒いですし」
「そ、そう……」
答える間もなく、背後からもぞもぞごそごそびちゃぴちゃと、水音の混じった布擦れの音が聞こえてくる。
……う、うん、これ真後ろで生着替え中ってことですよね。
意図せずちょっぴりドキドキなイベント発生中。いや嘘つきましためっちゃドキドキします困ります。
しばしして、音が停まる。着替えが終わったのかしらと思ったがそうではないらしく、すぐになにやら深呼吸をするような、あるいは匂いを嗅ぐような、すーっとした呼吸音。それが数回。
……ちょ、ちょっと一色さん? あなた一体何を嗅いでますのん?
「ふぅ……。ちょっぴり汗くちゃいですね……」
「やめろ嗅ぐな。ちゃんと汗臭いかもしれんって断り入れたからな、俺」
「まあこのくらいなら全然おっけーですよ」
「……あそ」
再びもぞもぞごそごそと音がして、やがて一色から着替え終わった旨の報告。
念のためにゆっくりと振り返る。
「えへへ、ちょっとぶかぶかですね」
少し恥ずかしそうに照れたような笑みを浮かべる、素足に体操服姿の超めちゃくちゃかわいい美少女が、そこにはいた。
俺は男子の中でもだいぶ痩せているほうだが、それでも男子と女子、しかも同世代女子と比較して華奢で幼い体格の一色とでは、かなりの差が生じるらしい。シャツもハーフパンツもだぼだぼに余っている。
あたかも、彼氏の体操着をパジャマ代わりにする年下彼女的なイメージになってしまっていて、色々とやばい。
「……制服と紺ハイ、そんなとこに放ってないでちゃんと干しとけ」
少しでも一色のことを意識してしまうと劣情が高ぶってしまう気がして、それが察されないよう当たり障りのなさそうな方向へと話題を誘導する。
「椅子の背もたれにかけておけば乾きますかね?」
「エアコンの風が当たりやすい場所に椅子移動させときゃ、なんとかいけるんでねえの」
「じゃあそうします」
生徒会室の真ん中あたりにガタガタと椅子を並べ、長机の上に脱ぎ散らかしていた制服をかける。
ちょこまかちょこまかと動くそんな一色の後ろ姿を見て、俺はどうにも妙な感覚に捕らわれていた。
小動物のようで微笑ましいような、幼い印象が可愛いような、それでいて大人びたところが蠱惑的なような……。
これがまさに一色いろはの持つ、一色いろはならではの魅力なのだろう。が、その魅力に魅せられてしまっていることが、なんかちょっとだけ、悔しくて歯がゆい。
……そんなことを思いながら、俺の体操服に身を包んだ一色をしばしの間ぼーっと眺めた。
(了)
仕事は仕方がないとしても、学校に関してはせめてもうちょっと悪天候への対応が柔軟になってほしいものですね……なんてちょっとだけ思います。無理は承知ですが。
次話はいろはす視点の短編SSになります。