これでおわりです。
いつもと同じ、いろはすに甘い内容です。
夜の潮風に木々が揺れ、マンション街を葉擦れのざわめきが支配していた。
楽しいひとときは、あっという間に流れてしまった。
最後の花火が上がってからしばらくが経ち、二十一時を少し回ったところでパーティはお開き。まだまだ余韻に浸りたいところだったが、あまり遅くなってしまってもあれなのでこればかりは仕方がない。
後片付けとお勉強会を兼ねて、そのまま場の流れ的に雪ノ下の家でお泊まり会コースとなった由比ヶ浜と小町を残して、俺と戸塚、一色でタワーマンションを後にした。
夜の帳が下りた……なんて表現が似合わないほど、まだまだ幕張海浜公園や駅周辺には多くの人が残っていて騒がしい。口から流れ星をおろおろやってる酔っぱらいや狂ったように大声を上げているDQN(死後)までいる始末。ああいう人間にはなりたくないものだ。
「戸塚、変なの大量にいるから気をつけろよ」
「ありがと、八幡」
海浜幕張から電車だけで幕張や稲毛などの総武線沿線に出ようとすると、
稲毛あたりに住んでいるらしい戸塚もバスで帰るようだが、稲毛駅行きの終バスはもう出る時間。名残惜しいが、ものすごく名残惜しいが! 寂しい気持ちをぐっと堪えて大天使の乗ったバスを見送る。
くそ……。これからまた三週間くらい戸塚と会えないなんて……。
「わたしたちも帰りましょっか」
「ん、そうだな……」
いつまでもロータリーでぼけっとしていても仕方がない。
まだまだ楽しみたい気もするが、今日はこれにておしまい。きちんと切り替えていくことも必要だ。
「先輩も幕張までバスですか?」
「いや、歩きだな。バスもうねえし」
海浜幕張からJR幕張駅の北口まで結んでいる東洋バスは一〇分ほど前、京成幕張駅行きの京成バスはもっと早く一時間ほど前で終わり。早えんだよな終バス……。幕張本郷駅行きは幹線なのでかなり遅くまで走っているが、それだと一駅だけだが電車に乗り換える必要がある。
となれば、手段は徒歩だ。
幕張まではそれなりに歩くが、かといって二キロもない。二、三〇分ほどだし、夜風のおかげで昼間より涼しくなったしな。
「なるほど……。じゃあ、行きましょっか」
「おう。……おん?」
行きましょっかってお前電車でしょ……と思う間もなく、一色は数時間ぶりに俺の右腕を取ると自らの腕を絡め、更にゆっくりと指を絡める。
俗に恋人つなぎとか貝殻つなぎとか称する関係の深い恋人同士が一般的にやる行為を、一色は躊躇する素振りもなく俺と行う。
けれども俺と一色は恋人同士ではない。告白とかそういう手順だって踏んでない。実は未だに連絡先だって知らない。かといって、一色がこうしている意味がわからないほど俺は無神経じゃないし、拒絶する理由も意思もない。
ただ思うのは、俺でいいの? ってことくらいで。
「はー……。終わっちゃいましたね、パーティ」
幕張駅のほうへとつながる大通りをのんびりと歩きながら、名残惜しそうに一色が声をこぼす。祭りの終わりが寂しいのは俺だけではないのだ。
「なあ」
せっかく二人きりなのだから、さっき聞きそびれたことを今度こそ聞いておきたい。
聞きたいこと、知りたいこと、わかりたいこと。数えだしたらキリがないほどある。だからまずは、今聞けそうなことだけでも。
「結局、今日のあのパーティってお前の企画か?」
マンションに連れて行かれたときから、ずっと気になっていたことだ。
雪ノ下の家でパーティを開いてくれるというのなら、最初からそう言ってくれればよかったのに。花火を見に行こうなんて言葉で強引に連れ出さなくても。
「木曜日、結衣先輩と会ったって言ったじゃないですか。実はあのとき、いろんなことをおしゃべりしたんですけど、流れで雪ノ下先輩と小町ちゃんも交えてぱーっとパーティしようって話になったんです。ちょうど花火大会もありましたから」
「じゃあ今日はアレか。雪ノ下の家でケーキ作ってから、学校まで俺を捕まえに来たってわけだ。生徒会っていうのは隠すための嘘で」
「ちょっとサプライズっぽい感じにしたかったんで……ごめんなさいです。けどほら、最初からバラしちゃったら意味ないですし」
ちょっとだけ申し訳なさそうに、俯き加減で目を伏して笑う。
「けど、木曜日まで知らずに先輩を待ちぼうけしてたのは本当ですよ? 先輩と会いたかったのも、お祝いしたかったっていうのも、二人で花火大会に行きたかったのも、デートが100点っていうのも。……そういうのは全部、嘘じゃありませんから」
日頃の振る舞いよりもずっと真剣に、遥か遠くどこまでもずっと繋がり続く道の先をしっかりと見据えて、一色は語った。
俺だって、それらが嘘でないことくらいわかる。今日一日、いや数時間ほどだが一緒に居て、常よりも濃密に接した中でまざまざと事実であることを見せつけられたのだから。一色いろはという女の子は真剣に俺のことを想ってくれていて、それはきっと俺が認識できている以上に深く強い。
過去のように人の好意を曲解して跳ね除けるようなことは、もうしない。相手を傷つけ、自分も傷つけ……、そんなのアホらしい。
「本当はもっと早く雪ノ下先輩の家に行く予定だったんです。けど、もうちょっとだけ、あと少しだけ、先輩のことを独り占めしておきたいなって思っちゃって。ちょっとだけのつもりだったんですけど、いつの間にか時間けっこう経っちゃってたんですよね」
「……それであん時、時計を見てあんなに驚いてたのか」
「はい。料理が全部できあがるころ、六時ちょっと過ぎくらいに先輩を連れて行くって段取りでしたから。一〇分くらいならいいかなーとか思って、三〇分くらいオーバーしちゃった感じです」
てへへっと舌を出して笑って見せて、じゃれつくように俺に擦り寄る。
そんな一色がとてつもないほどにかわいくて、嬉しくて、愛おしい。ここまで俺に感情を表してくれる人なんてこの子がはじめてだから、余計に愛くるしくて仕方がない。
単に俺がちょろいだけなのか、一色が魅力的すぎるだけなのか。
今日学校で会うまでは、別に強い恋愛感情を抱いていたわけじゃなかったはずなのに、今はもう惹かれて、心掴まれて、逃れられない。
元々俺は惚れやすい質だった。小学校の頃も、中学校の頃も、それで何度だって失敗してきた。だからもう二度と失敗しないようにと思って無理やり心が浮つかないように抑えつけてきた。なのに、一色は、簡単に俺の重石や蓋を取っ払ってしまった。取っ払われてしまったら、もう惚れることを防げない。
……たったの数時間で、すっかり俺の完敗、だな。
「今日はもう二人っきりにはなれないと思ってたんですけど、また二人っきりになっちゃいましたね」
かなり甘さの増した声音で、一色が囁いた。
元々の予定では、小町のお泊りはなかったはずだ。今朝はあいつは「今日友達と遊ぶから」的なことしか言ってなかったし、雪ノ下の家を尋ねる直前に一色が採点の話をしたのも、本来はあの場面で『デートは終わり』だったからだろうし。
いくつかの予定が変わって、たまたまこの状況が生まれたのだ。
「先輩。どうですか、こういう甘いの」
どこかしんみりとした雰囲気の中、恋人繋ぎで歩く、お祭り騒ぎの後の夜。
俺になんて絶対に訪れることがないと諦めていた、人並み以上の青春の情景。
今まさに俺は、その情景の中にいるのだ。
甘くて、とにかく甘くて、酸っぱくも辛くもなくて。ただここにあるのは、甘くてひたすらに激甘い、一色いろはの素敵な何か。
「……甘すぎだな」
本当に甘い。甘やかされすぎて、バカになってしまいそうだ。
どちらか片方が甘えるのであれば、もう片方は甘やかす側の立場じゃなきゃバランスが取れない。これでは、お互い甘ったれだ。
……けど、それでもいいんじゃねえかなと、思いたくなる。
「けど、先輩は甘いほうがお好きですよね。マッ缶みたいな、すっごく甘ったるいのが」
いくら激甘のマッ缶を愛飲しているからって、同じものばかり毎日毎日飲み続ければさすがに休憩をはさみたくなるし、少しは苦いものも取りたくなる。
……それでも、マッ缶を好きじゃなくなることはない。
「ああ。マッ缶みたいなやつがな」
「それなら、いいじゃないですか。こういう甘いの」
すぐ近くで一色の美しい亜麻髪がさらりと揺れ、ふわっと甘い香りが漂う。
今日はもう何から何まで甘いものづくしで感覚が麻痺してしまいそうだ。なのにけれども、その狂うほどの甘さを俺の心は、確かに求め惹かれている。
手を繋いでいるだけで幸せで、声を聞くだけで愛おしくて、隣に並ぶだけで狂おしくて。なる。そんな青春じみた感情に、確かに囚われている。
心臓の鼓動がいつしか、常よりずっと高まっていた。
繋ぐ手に、汗を感じた。
じわりと染み出したのは俺か一色か、それとも互いか。
「他の誰かから見て……、わたしたちって、恋人っぽく見えますかね?」
夕方問われた言葉が、再び俺の耳へと投げかけられる。
さっきはどう答えたんだったか。ただぶっきらぼうに「わからん」とはぐらかしたんだったか。
人間の感情は、時間の経過とともに変わるものだ。さっきと今では違って当たり前で、きっと今とこの先でも違うことはある。なれど今は、今この瞬間だけであったとしても。
「お似合いかどうかはわからんけど、そう見えるんじゃねえの」
たぶん、知らんけど。
――という逃げの語尾はつけない。個人的な感情として、そうであってほしいから。
「なんですか、もしかしてそれ口説いてます?」
「……お前が聞いてきたんでしょ」
それはこっちの台詞だろう。
口説いてるとしたら、それは俺じゃなくて一色だ。
「やっぱ先輩、ノリ悪いですね」
「どうノれってっんだよ……」
つい短く溜息が漏れる。
いくらなんでも無茶振りが酷すぎるというもんだ。そんなに明るい茶目っ気がある性格をしていたら、こんなに狭い範囲で人間関係完結していないし。
「そこはあれです。ほら、不審な感じに視線をうろうろさせながら『それ以外、何だと思ってんだよ……』みたいな感じで~」
目を細めてぼそぼそと、一色は俺の仕草と口調をマネた。
それムカつくからやめろ。……あ、つまりいつも俺はこういう感じなんですね。ムカつくなぁ比企谷八幡。
「お前なぁ……」
文句でも言ってやろうかとも思ったが、かつて俺も本人の目の前で一色のモノマネをしたことがあったし、人のことは言えん。
半年以上越しに仕返ししてくるとか、なにげけっこう根に持ってんなこいつ。
感傷的な空気を壊すような突然の茶目っ気に、どうにも言葉にしづらいもやもやとした感情が心の中で渦を巻く。
「けど、ま。それは冗談としても」
ふっと小さく笑った一色は、表情をぐっと引き締める。
「今なら口説かれても、いつもみたいにごめんなさいしませんよ?」
どうしてこう、こいつはこんなに……。
「……いつもって、まず口説いたことなんて一度もないつもりなんだが」
「む……。それじゃ求めてた返しと違います。やりなおし」
やりなおしって……。
一体何をどうやりなおせというのか。もしかしてあれか? 本気で口説き文句でも言えって要求してんの? いや無理でしょ俺だぞ?
だいたい、そもそも口説くも何もまだわかんねえよ。一色のことではなくて、俺自身のことがわかってない。なんかいいなーと思う感じとか、一緒にいて幸せな感じがするなーってところとか、それらは全部ただ単にこいつのかわいさや場の雰囲気に流されてるだけかもしれんのに。
「……ふん。このヘタレっ」
いつまでも黙り込んでいる俺を、一色は拗ねたように鼻を鳴らしてじっとりと冷たい視線で睨んだ。
「おい失礼だな、俺はそこいらのギャルゲ主人公みたいなヘタレ野郎じゃねえ。慎重を期しているんだよ。ただ、ちょっとばかり慎重になりすぎて、石橋を叩いて叩いて叩き過ぎて破壊してるだけだ」
「それじゃ意味ないじゃないですか!」
ほんとにそのとおりだ。安全を確かめるつもりでも叩きまくって壊してりゃ意味がない。その結果として、かつて実際に何度も女の子を悲しませてしまったのだから。
繰り返しちゃいけない、もう繰り返さない。なんて思っていても実際にはこれだ。
「ほんとに先輩はまったくもう……。ここまで女の子のほうから膳を据えてあげてるのに、なーんで踏み留まっちゃうんですかね。据え膳食わぬはなんとやらって言いますでしょ? 時には場に流されるってことも重要なんです。ポートタワーのてっぺんから飛び降りる勇気くらい持ってください」
「いや、あんな高いところから飛び降りたら死んじゃうから……。だいたい、場に流されて~なんて無責任でしょ」
「はいはい、わかりましたわかりました。先輩ですしねー、仕方がないから今日のところはこのくらいにしてあげます。もうそろそろ時間切れっぽいですし」
行く先に見えてきた国道14号との交差点を視線で指して、一色がやれやれと肩を竦める。
俺の家や幕張駅までもうすぐ。今日のさよならまでは、残りわずかな道程しかない。
「……なあ」
「なんです?」
「宿題として、持ち帰ってもいいか?」
掛ける言葉が思いつかず、どうにか絞り出して伝える。
今すぐここで何かを決めるとか場の雰囲気に流されるとか、そういう無責任なのはなしだ。ちゃんと自分の感情を考えて、知って、わからなきゃいけない。
だからこそ、考える時間が欲しい。ちゃんと一色と向き合っていきたいから。
「……いいですよ、それでも」
やがて差し掛かった交差点を渡りきったところで、一色は足を止めて、そっと優しく微笑んだ。
「だって、あの先輩をこれだけ意識させられたんですもーん。それだけでも今日は予想以上の大収穫です!」
俺の返答は求められていた返しとはかけ離れたものだったろう。
それでもこうして、してやったりと言わんばかりに口角を上げて、一色は心の底から満足そうにして見せるのだ。
「けど意識させるも何もお前、以前はここまで俺にべったりってわけでもなかったろ。どうして急に……」
元々ボディタッチが激しめというか、袖をつまんだり腕を掴んできたりするのはこいつのデフォだったけれども。
「いままでもけっこうじわじわ攻めてたつもりですよ。ちょっとずつボディタッチの回数とか密着度を増やしたりとか」
「……それはまあ、確かに」
普段の生徒会絡みでもそれなりにボディタッチ的なことはされてるし、いつぞやのデートのときもけっこう服やマフラーを触られた覚えがある。
が、それでも服の上からとか、手首を掴まれて引っ張られる程度だったが。
「あとは、先輩に気づかれないよう、制服にこっそりほーんのちょっぴりだけスイドリームス吹きかけておいたりとか」
「いや、なにしてくれちゃってんの」
それってあれかよ、サブリミナル効果ってやつかよ……。
「けど、うーん……ま。今日、こうやっていつもより激しくしてるのとか、パーティ企画したのとか、そこらへんは色々とあったんですよ。色々と」
「なんだそりゃ」
「女の子の秘密でーす」
これ以上は何も教えませーんとでも言いたげな素振りで話を切り上げで、一色は歩みを再開する。俺の腕をぐいっと引っ張って。
物語は俺の前だけで動いているわけではなくて、知らぬところでも大きく移ろっている。全てを知ることはできないし、知らないことはあってもいいのだ。
……超知りたいけどねその秘密!
× × ×
今度こそ、二人で過ごす時間はおしまいだ。
京成千葉線の線路を渡ればJR幕張駅は目と鼻の先。一色はここから総武線各停で帰ることになる。
タイミングよく電車でも通りかかってくれれば、踏切待ちのぶんだけ長く一緒にいられるわけだが、遮断器は跳ね上がったままで俺たちが立ち止まることもない。
「着いちゃい……ましたね」
「だな」
名残惜しさで歩速は遅くなり、狭く細い駅前道路を一歩一歩噛みしめるようにゆっくりゆっくりと進んでいく。
別にこれが今生の別れってわけでもないのに、どうしてこんなに心が寂しいのか。たった数時間でこんなになってしまうもんなのかしら人間って……。
繋ぐ右手を離したくないし、なんならこのまま家までお持ち帰りしたいところだが、そういうわけにもいくまい。
やがて道は終わり、行き止まりの小さな駅前転回場。目の前の階段を上がれば、もう改札口だ。
さて。
「ここまででいいですよ」
「そか」
「じゃあ、またですね」
「……ん」
言いつつも、手は離れない。
なにこれ……。これじゃあ、よく駅前の改札とかロータリーとかでいつまでも別れずいちゃいちゃいちゃいちゃやってるクソうざいリア充みたいじゃん。
俺が憎み忌んだ人種に、いつしか俺はなっていた。
「先輩、お手々離さなかったら帰れませんよ」
「いや、離そうとしないのはお前だろ」
「またまたぁ、先輩ですよぉ」
離すどころか、逆に力を増してにぎにぎしてるのは一色であって、俺じゃない。たぶんね。
とはいえ、いい加減離さないとこれ、電車が到着したら駅から出てくる客たちにすげえ視線で睨まれかねない。……さすがに自意識過剰か? けど、めちゃくちゃ恥ずかしいことしている自覚はたっぷりある。
「……よし、ならこうしよう」
そうなる前に、ひとつだけ、ちっぽけな勇気を振り絞ってみる。
「……はっ!? も、もしや、お……お持ち帰りですか!?」
「なわけねえだろ。普通に親いるし」
「つまり親いなかったらお持ち帰り……と」
「しないから」
っていうかその単語やめようね。色々考えちゃうと不自然な前傾姿勢にならざるを得なくなっちゃうから。むしろ君はお持ち帰りされたいの?
真面目な話をしようとしたのに茶化されて、せっかくの俺の勇気が……。
「……その、だな」
「はい」
「ほれ、俺ら、未だに連絡先とか、知らんだろ」
ぼっそぼっそな詰まった口ぶりが情けなくて恥ずかしいが、これが限界だった。
中学の頃はなぁ、一瞬目が合っただけの女子に告ったりとかもしてたのに。すげえ勇気あったんだなあの頃の俺。
「さよならするのが寂しくて、わたしの連絡先がほしいわけですね」
「いやそうじゃねえよ。半年以上関わってんのに知らんほうがおかしいし、なんか不便だろ」
素直に連絡先おせーてと言えば済むだけのことなのに、あれこれ理由をつけようとしてしまうのだから、この性格には我ながら困ったものだ。
けど、一色はくすっと笑って気にすることなく流してくれる。
「ま、とりまラインとメールと電話交換しましょ」
「……やりかたわかんないから、よろしく頼む」
「了解です」
どちらからともなく自然と手は離れて、互いにスマホを取り出す。
ぬくもりが消えてゆく手に寂しさはあるけど、不思議と充実した気持ちはある。……今日は右手洗わんとこ!
託したあいぽんは一色の手によって素早く操作されてゆく。あっという間にメールアドレスと電話番号が追加され、『ひきがやこまち』しか登録されていなかった無料通話&メッセージアプリにも『いっしき』が加わった。
「はい、お誕生日プレゼントです」
「あんがとさん」
冗談めかして言う一色から受け取った画面には、通話アプリの一色のプロフィール画面が表示されていた。
そこにある、プリ画を切り取ったらしいプロフ画まじまじと見る。かわいいなお前。
最高のプレゼントですありがとう。せっかくだから後で保存して、しばらく壁紙にでも設定おこう。……などとやましいことを考えてから。
「……じゃあ、帰りますね」
「ん……。気をつけろよ、夜道」
今日のさよならの言葉を交わす。
「交換したからには、いっぱいメッセ送っちゃいますからね」
「気が向いたら返すわ」
「期待しないでおきます」
名残惜しさのままに、ついつい会話を続けたくなってしまう。
そんな気持ちは振り払って。
「それじゃ、また、あとでです」
「また、あとでな」
最後にそうとだけ交わして、一色は俺に背を向け階段を上ってゆく。いつぞやと同じように、途中で一旦振り向いて小さく手を降って。そしてまた歩いて。
愛おしい華奢な背中が見えなくなるまで見送ってから、俺も自宅へ向かって歩き出す。
色々ありすぎて、今日は本当に疲れた。もうへとへとだ。
なのに、けれども、幸せで幸せで仕方がない。
素晴らしいパーティを企画してくれた親友たち。俺を落とそうと強引に責めてくるかわいい後輩。もう一生分の幸福を味わったんじゃないかってくらいで、感謝してもしきれない。
いや、感謝って言葉もおかしいか。親友が親友のためにやってくれたんなら、感謝ではなく……別に何かずっとふさわしい言葉があるのかもしれないが、なにせ経験するのが初めてだから上手く出てこない。誰か俺に語彙力くれ。
まあなんにせよ、今日のできごとは俺にとって一生忘れられない思い出になったことは間違いない。黒歴史とか嫌な思い出じゃなく、人に誇れる良い記憶として。
ならば。
後ろばかり見るのはもうやめて、きちんと前を――
「せんぱーい!」
「……は!?」
とてぱたと後ろから追いかけてくる足音と声に振り向く。
いや、あとでって言ったけどさ、メールとかのことじゃなかったのん……?
「なんか電車止まっちゃってるらしくて、いつ動くかもわからなくて帰れそうにないです」
困惑した様子の一色の背後、ホームのほうから駅員による運転見合わせの案内放送が聞こえてくる。曰く、運転再開の時刻は未定。
……マジで止まっちゃってるらしい。
「京成は?」
「本郷と幕張の間の踏切で異音がなんとかで、その影響で京成も止まっちゃってますね」
ちなみに、この駅から稲毛や千葉のほうへ行く路線バスは存在しない。
「……ってーと、つまり?」
「先輩のおうちへ行けたらいいなー、なんて……」
「…………いやダメだろ。ダメ。絶対ダメ」
意図せずお持ち帰りコースとかマジやばい。
どうしたもんかと思っても、もうすぐ一八歳未満の外出が咎められる時間。まさか一色を放っぽって帰るわけにもいかんし、歩いて雪ノ下の家まで戻らせるわけにもいかんし、割増料金のタクシー代なんて高校生じゃ厳しいし。
……しょうがないよね、緊急避難的な感じだもんね。決してこれはお持ち帰りじゃないから、誤解しないでよね!
「ったく……。こっちだ」
「はいっ!」
一色の左手をしっかり握って、我が家がある方向へと一歩一歩。
もういっそ今日はこの手を離さねえ、くらいの意思を持って。
……母ちゃんたちにはどう説明したものかと頭を悩ませつつ。
愛おしい存在になってしまった女の子と一緒に、ゆっくり歩いて我が家へ帰ろう。
了
この物語は八幡の一人称のみで進みますから、当然ながら八幡がいない場所で起きていることは描かれません。
けれども、八幡がいない場所や、2月から8月の間でも物語はずっと動いているわけですから、きっとそこで色々なやり取りがあったのでしょうね。いろはの言う「秘密」はきっとそれです。
三人娘たちはいったいどんなことを思って、どんなやりとりをしてきたのかなー、なんてことを考えながら書いていました。
(いまいち表現しきれていないのは、まさに力量不足で申し訳ないところですが)
……あと、「ヒキタニくんハピバ! うぇーい!」な彼をどっかで登場させようとしたけどやめました。ごめんよ戸部。っていうか誰だよ戸部。
さて、ここまでお付き合いいただきありがとうござました。
次話は以降は別の話(いろは生誕祭SSやその他短編各種)となります。