乱世を駆ける男   作:黄粋

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第五十六話

 俺と春蘭の模擬戦は太陽が傾く頃に終わった。

 俺は彼女の攻撃を一撃たりとも受ける事は無く、周囲から見れば余裕を持って相手をしていたように見えただろう。

 

 だが現実はそうではない。

 一撃でも当たっていれば俺は負けていた。

 春蘭の攻撃は一撃一撃が必殺の威力を持っている。

 受け流す度に腕の痺れでどうにかなりそうだった。

 どうにか無表情を取り繕っていたが、途中から受け流すのではなく避ける事に集中していなければ両腕はしばらく使い物にならなくなっていただろう。

 

 それに彼女の得物が模造刀、つまり太刀の形をした『鈍器』だったからこそ切り抜けられた場面も多々あった。

 実戦で対峙するともなればもちろん刃引きなどされていないだろう。

 そうなれば斬り捨てられていたと予想出来る局面があった。

 

 『模擬戦』という形式によって俺は命を救われていたんだ。

 深桜からもらった『変節棍』を使わずに戦った俺にとって、今回の戦いは『俺がまだまだ未熟である』という知る事が出来た大いに勉強になる結果と言える。

 こんな風に冷静に考えられるのは既に模擬戦が終わり、過熱し切っていた頭が冷えたからこそなのだが。

 

「本日は私の不躾なお願いを聞いていただき本当にありがとうございました!」

 

 九十度の深い一礼と共にお礼を言う春蘭。

 

「ああ。こちらも勉強になった。まだまだ先は長い。お互いこれからも精進するとしよう」

「はい!」

 

 本人の気質が愚直なまでに真っ直ぐである事も相まって、俺は目の前の子の事を内心では『先が楽しみ』と言うよりも『先が怖い子』だと思っている。

 もちろんそんな思考を察知されるほど表に出す事はないが。

 

 しかし思い返してみると俺は夏侯惇や甘寧、馬超や馬騰など色々と前世で名を馳せた武将と対する機会が多い。

 前世で知った歴史とのずれはどんどん増していき、知識がどこまで役に立つかはもはや未知数。

 だが武将として名を馳せた者たちは、その悉くがただの兵士とは一線を画する強さを持っているという事だけはほぼ間違いない。

 

 であれば彼女らよりも、いや三国で最も武に優れていたとされる『あの男』は一体どれほどの実力を持っているのか。

 ふとそんな事が気になった。

 あと個人的に性別がどちらなのかも。

 

 

 春蘭との白熱した模擬戦が終わり、彼女らの好意で夕餉を頂いた後。

 俺は話がしたいという華琳に呼ばれ、彼女の自室へ足を運んでいた。

 

 彼女は俺と話す前に陽菜とも『個人的な話』をしていたが。

 わざわざ一人ずつと対面して会話したいと願い出るその意図は読めない。

 

 しかし断る理由もなかったので俺は特に気負う事もなく勧められるままに椅子に座り、対面に腰掛けた彼女と見つめ合った。

 

「申し出を受けていただきありがとうございます」

「俺としてもここを出る前に聞いておきたいことがあったんだ。だから気にしないで良い」

 

 そんな会話から始まった一対一の談笑。

 話題は主に今日の模擬戦についてだ。

 彼女から見て、春蘭が為す術もなくやられたというのは、とても衝撃的だったのだという。

 

「私は春蘭が本気を出して負けた姿など見た事がありませんでした。私を相手にした時はどうしてもその真っ直ぐな私への忠義故にあの子が手加減をしてしまうので……秋蘭との訓練は気兼ねなくやってはいるようですが、そもそもあの二人は互いが相手の時に本気を出しておりませんから。兵士の中にそのような兵(つわもの)はおりませんし」

 

 ほうっとため息を零す華琳。

 出会った当初からまだ一日しか経っていないが、当初の緊張やこちらに対する過剰とも言える敬意は多少緩くなったようだ。

 聞いている言葉には適度な柔らかさがあり、俺に対して素直に言葉を返してくれているように見える。

 

「春蘭は今よりももっと強くなるだろう」

 

 いずれは俺を越えるかもしれない、という事は黙っておく。

 そう易々と抜かれるつもりはないという決意を己に課す為に。

 

「あの子にとって万の賞賛に勝るお言葉です。その言葉を励みにあの子はさらなる高みへ登り詰めてくれるでしょう」

 

 右腕とも言うべき少女が褒められた事が嬉しかったのだろう。

 華琳は年齢相応に微笑みながら、俺の言葉に応えた。

 

「偶にはそうやって気を抜いて笑うといい」

「!?」

 

 俺の言葉が予想外だったらしく、彼女はびくりと身体を震わせて表情を硬直させた。

 どうやら自身が笑っていた事実に気付いていなかったらしい。

 何かを確かめるように武器を握るにしては小さいその手で自身の顔を撫でている。

 

「肩の力を抜いて初めて見えてくるものもある。それに……生きている限り、ずっと気を張り詰めている事など出来はしない。どれほど人間離れしていても、な」

「……それは」

 

 俺の言葉に、華琳はなにやら不安げな表情を浮かべながら口ごもった。

 反論しようとしたにしては、その態度は弱々しい。

 

「強くあり続けようとし、行動できるのは立派な事だ。しかしそれだけでは駄目だ」

 

 目を閉じて思い出されるのは両親、祭や陽菜たち、部下たちの顔。

 さらに遡れば前世の道場に集まった仲間たちや門下生、軍にいた頃の同僚たちの姿が思い浮かんだ。

 

 前世でも今世でも、俺は多くの人に支えられて生きている。

 彼らになら俺は己の弱さを曝け出す事が出来る。

 

 しかしこの子は。

 強くあるが為に誰かに弱音を吐き出す事が出来ない。

 弱音を吐けるほどに親しい者たちがいると本人が理解しても尚。

 

「お前は己の中に全てを溜め込んでしまう。お前ならそれを一生背負い込んで生きていく事も出来てしまうかもしれないが……それはあまりにも辛く苦しい事だ」

 

 彼女は誇り高く、そして獰猛な野心を内に秘めている。

 まさに俺の知る『曹操』の気質を持っていると言っていいだろう。

 しかしだ。

 それでも今、俺の目の前にいる華琳は雪蓮嬢や蓮華嬢たちと同じ年頃の少女なのだ。

 

 彼女の生き方を否定する権利など誰にもない。

 だがその為に自身の内にある弱さ全てを否定する必要はないんじゃないのか?

 

 俺は子を持つ親として、一度人生を全うした一人の人間として、これが余計なお世話であり、己のエゴに過ぎないと理解していても彼女に言葉をかける事をやめられなかった。

 

「……」

 

 しばしの沈黙。

 華琳は言葉を選ぶように一度、ぬるくなってしまったお茶で唇を濡らしてから口を開いた。

 

「あなた方はなぜ、私などをそこまで親身に気遣われるのですか?」

 

 搾り出すような華琳の言葉は心の底からわからないという疑問の声だった。

 

「西平の馬氏と異なり、同盟を組んでいるわけでもない他領地の小娘。いずれ敵対する事も容易に想像できますでしょう? あなたがたは私の野心にすら気付いている節があります。それがどれだけ危険な物か、わかっていらっしゃっていても尚……なぜここまで私の身を案じてくださるのですか?」

 

 一度口をついた言葉を皮切りに、矢継ぎ早に問いを投げかける華琳。

 その必死な様子はまるで、見知らぬ場所で道に迷って泣くのを堪えている子供のように見えた。

 

「不敬も覚悟の上で言わせてもらおう。……俺にとって、いや俺たちにとってお前は領主である前に守るべき子供なんだよ。子供を助け、折れぬように支えるのは大人である俺にとって当たり前の事だ」

 

 華琳の息を呑む仕草が見える。

 

「無論、戦場で敵対してしまう時がくれば、こんな甘い事は言えなくなってしまうだろう。俺の手で支えた者を倒す事もあるかもしれない。支えた子供が俺の大切な物を奪う事もあるかもしれない。……建業が滅ぶ一因となる事もあるかもしれない」

 

 その事を想像すると怖くもなる。

 だがしかし、それでも。

 

「それでも。目の前で苦しむ子供を見てみぬ振りなど出来ない。そしてそれこそがお前を気遣う理由だ」

 

 桂花を助けたときに俺は決めたのだ。

 相手の立場や立ち位置などに惑わされないと。

 

「……それはともすれば己を高く見積もった人間の傲慢な言葉になります」

「そうだな。だが、それでも……」

「それでも貴方はその在り方を続けると?」

「その通りだ。……俺は今この時も俺の言葉に悩んでいるお前を心配している」

 

 彼女の瞳が動揺に揺れ動いた。

 

「出会って数日も経っていない、さらに明後日にはここを発つ俺の言葉をどこまで信じるかはお前次第だ。身分違いの身の程知らずの戯言と切り捨てても構わない。だが……」

 

 そこで俺の言葉は途切れた。

 対面に座っていた華琳が俺の胸に抱きついてきたからだ。

 何事かと思ったが、それも一瞬。

 背に回った、この年の少女らしい小さな腕が震えていたから。

 俺はそっと彼女の肩に手を置いてされるがままにされる事にした。

 

「この密着状態なら短剣の一本もあれば貴方を殺せます」

「震える声で、する気もない事を言わなくて良い」

 

 見事なツインテールの髪を、そしてその頭を優しく撫でる。

 びくりと震えはしたものの彼女が嫌がる素振りはなかった。

 

「実の父すらも軟弱者と切り捨てた私が……誰かに甘える事など許されないと思っていました」

「それは違う。お前がそう結論付け、そうあり続けただけだ。案外、お前の父親はそんなお前を心配していたかもしれないぞ」

 

 ぼそぼそと告げられる言葉に答える。

 

「……私はあなたがた、建業といずれ対峙します。戦場で、相対する者として」

「覚悟の上と言ったはずだ。その時は全身全霊を持って迎え撃とう」

 

 背に回っていた彼女の手の力が緩む。

 

「だが今この時だけは、ただ大人に甘える子供でいればいい」

 

 緩みかけていた手が止まる。

 

「俺は曹孟徳ではない、ただ一人の少女である華琳を抱きしめているつもりだ」

 

「っ……くぅ」

 

 押し殺した声が顔を胸に押し付けていた彼女の口から漏れる。

 ただの少女が泣き止むまでの間、俺は彼女を黙って抱きしめ続けた。

 

 

 

 互いに今日の事は黙っておくとして俺は彼女の部屋を後にする。

 既に夜も更け、月が真上に昇っていた。

 そろそろ寝なければ明日に響くかもしれない。

 

 ぼんやりとそんな事を考えながら、俺たちに割り当てられた部屋へ向かう。

 その途中、物憂げな表情をした秋蘭を見つけた。

 

 いや見つけたというのは語弊がある。

 彼女は俺たちの部屋と華琳の部屋とを繋ぐ廊下で壁にもたれかかりながら、『誰か』を待っていたのだから。

 

「こんばんは、秋蘭」

 

 俺が声をかけると彼女は閉じていた目をゆるりと開き、俺に向かって深く一礼する。

 

「駆狼様、ご夜分遅くお疲れとは思いますが……すこしお時間をいただけますか?」

「わかった。どこかで腰を据えて話すとしよう」

 

 思い詰めた表情をする彼女の言葉に俺は即答する。

 

「あ、ありがとうございます。こちらへどうぞ」

 

 あまりにもあっさりと返答した俺に動揺しつつも、彼女は昼にも使っていた応接室へ先導を開始する。

 ほどなく部屋に着き、互いに向かい合って座る。

 その構図は先ほどまでの華琳の状態とまったく同じだ。

 

「私は自惚れていました」

 

 しばしの沈黙を経て、秋蘭は自嘲するように笑いながら口火を切った。

 

「華琳様と姉者。幼い頃より共に過ごしてきた二人の事なら知らぬ事はない、と。しかしそれは間違いだった」

 

 秋蘭は語り出す。

 

「華琳様が強くあろうとし、弱さを隠そうとしている事に私は気付いていました。しかし私はそれが華琳様のご意志ならばと見ぬ振りをしてきた」

 

 淡々と語る彼女の姿はまるで懺悔のようだった。

 

「しかし貴方の前で弱さを曝け出したあの方のお姿を見て、私は今までの己の判断を悔いております」

 

 今まで我慢してきた物が噴き出した彼女は、本当にただの少女のように泣きじゃくっていた。

 その姿にこの子は思うところがあったという事か。

 しかし、それを知っていると言う事は。

 

「見ていたのか?」

「申し訳ありません。駆狼様の事は信頼しておりましたが、様子が少し変だった華琳様が心配でいてもたってもいられず……」

「いや、それが当然だろう。気にしなくて良い。お前は臣下として主君を案じただけだ」

「寛大なお心に感謝いたします」

 

 話の続きを視線を促すと、彼女は静かに口を開いた。

 

「華琳様が陳留を治めるようになってから私は姉者が負けるところを見た事がありませんでした。負けた姉者があそこまでか弱くなる事を知りませんでした。そして貴方に叱咤激励をされた後に見せた苛烈さも……私は知りませんでした」

 

 昼間の模擬戦を思い出しているのだろうその様子に俺は口を挟まない。

 

「戦った後の……顔を腫らしながらも清々しく笑い貴方に礼を言う姉者の姿は痛々しいはずなのに今までにない魅力に溢れていた」

 

 春蘭は己の価値を高め、主へと捧げることを至上とする武官の鏡と言える気質を備えている。

 推測になるが俺と戦ったことで生まれたあの笑顔は、『これで私はさらに強くなる』という決意と『これでさらに華琳様のお力になる事が出来る』という喜びが混ざった物だ。

 

 俺も歴史の本でしか見た事はないが、戦国時代の武者などが近いのかもしれない。

 まぁここが戦国とさほど変わらない殺伐とした時代である以上、あの子のような人間は珍しくもないのかもしれないが。

 

「正直に言ってしまいます。私はお二人のまだ見ぬ一面を引き出した貴方に嫉妬しています」

 

 どこか澱んだ目で俺を見つめる秋蘭。

 その口から聞かされる言葉も、彼女の今の感情を表すように仄暗い響きを持っていた。

 しかし。

 

「そうか。安心した」

「っ!?」

 

 俺の返しが予想外だったのか、彼女は切れ長の瞳を見開いて声もなく驚いた。

 意味が分からない、とその目と表情が雄弁に語っている。

 

「お前は初めて会った時から努めて冷静であろうとしていたな? 華琳たちもそうだが、良い意味でお前は特に子供らしくなかった。だから安心したんだ。嫉妬するほどに俺たちに心を開いてくれた事に」

 

 言われて初めて気付いたのだろう。

 彼女の頬が瞬く間に赤く色づき、何かを堪えるように口元を抑えて、顔を背けられた。

 

「安心していい。お前が今持て余している感情は正常なものだ。そういった感情と折り合いをつけ乗り越えていくことでお前は今よりも先に進むことが出来る。ああ、何も一人で乗り越える必要はないぞ。難しいと思ったならば周りを頼れば良い。誰もがそうしていくものだからな」

「い、いえ、あの……私は別にそのような、その……」

 

 言いたい事はあるのに、先の言葉で頭が真っ白になって上手く言葉に出来なくなってしまったらしい。

 混乱の只中にある秋蘭のその様子が微笑ましく思えて、俺は思わず彼女の頭を撫でてしまった。

 

「あ、あの……」

「ゆっくり自分の中で整理していけば良い。その果てに俺が憎いと思ったのなら、その感情を俺にぶつけるといい。その時は決して逃げないと約束する。倒されてやるかは別だがな」

 

 優しく彼女の肩を叩き、俺は席を立つ。

 振り返る事もなく出て行ったが、呼び止められることはなかった。

 

 

 

 残された少女はしばらくの間、呆けていたがやがて気を取り直して自室へと戻っていった。

 その頬は未だ赤い。

 

 その心に宿った暖かさがなんであるか。

 主君たる少女に向けている物と似て非なるその感情を少女が理解するにはまだまだ時間がかかるのだろう。

 

 

 こうして彼らの陳留への寄り道は終わった。

 この会合が曹操たちにどのような影響を与えたか。

 それがわかるのは黄色い布を巻いた集団が大陸で暴れ出す頃の事である。

 


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