汜水関陥落。
反董卓連合に取って喜ばしい事のはずだが、砦を包み込む空気は悪い。
既に三日もの時間が過ぎているが、この空気は未だ無くならず今日も袁紹の金切り声が響き渡って昼夜を問わずとても騒々しい。
「まったく麗羽はいつまでも飽きもせず……」
袁紹の癇癪を嫌った曹操は奇襲を警戒するという名目で砦の外に陣を張っていた。
名門からの覚えを少しでも良くしようという諸侯たちが毎日侍って必死に宥めているものの、彼女の怒りは静まる様子を見せない。
今の袁紹を相手に何を話した所で聞き入れない事を曹操はその腐れ縁でよく知っていた。
故にまるで話が進まない彼女らの軍議とは名ばかりのやり取りを一歩引いて呆れながら眺める事に終始していた。
今日も軍議という名目で集まった面々の前で内通者を見つけ出して自分の元へ引きずり出してこいというばかりであった。
絵に描いたような狂乱ぷりはいっそ清々しいほどだが、それを宥める側であるところの配下たち、媚び売りに精を出す諸侯からすれば溜まった物ではない。
しかし袁紹の言動はともかく『内通者の存在』は自分たちの身の安全に関わる重大事項でもある。
各勢力も全力で当たっているだろう。
だがそれを他の諸侯に悟らせるのは愚行でしかない。
なにせ今は『反董卓』という旗の元でまとまってはいるが、この協力関係はとても限定的なものだ。
弱みになり、侮られる事に繋がりかねない内通者の調査など表沙汰にするはずもない。
調査は極秘裏に行われ、結果のみを袁紹に伝えるしかない。
とはいえ仮に自軍に内通者が見つかったとして、それを『素直に報告する者』はまずいないだろう。
繰り返す通り、弱みになるような事を敵になるかもしれない相手にわざわざ知らせる者などいないのだから。
曹操は袁紹の機嫌が浮き沈みの激しいものである事を知っている。
良くも悪くも深く物を考えず、勢いで押し通す袁紹は熱しやすく冷めやすい。
今回は未だかつて無い屈辱だっただろう事を考慮しても、一週間もすれば勝手に自己完結して気を取り直すというのが彼女の読みだ。
だからこそ曹操は袁紹の癇癪が終わるまでの間に連合内の地盤固めとさらに先を見据えて動く事にしている。
否、既に動き出していた。
「さて……」
曹操はお供に許緒を伴い、とある天幕へ向かっている。
彼女同様、砦の外で警戒に当たっていた公孫賛の陣だ。
無論、事前に話をする機会を求め、あちらが承諾している。
天幕の中には灯りに揺らめく人影が二つ。
外には武官が二人、出入り口を固めていた。
仏頂面の関羽と笑みを称えながら曹操の様子を窺っている趙雲だ。
「入ってもよいのかしら?」
「しばしお待ちを。伯珪殿、曹孟徳殿がいらっしゃいましたぞ」
趙雲が天幕内に声をかける。
外と内を隔てる垂れ幕が上げられる。
「わざわざご足労いただき感謝する。孟徳殿」
「こちらこそ誘いに応じてくれて感謝するわ。伯珪殿。許緒、貴方は外で待っていなさい」
「はーい!」
桃色の髪の女性、公孫賛自らの出迎えに曹操は眉一つ動かさず社交辞令を交わす。
彼女に促されるまま、曹操は許緒の元気の良い返事を背に天幕の中へ入っていった。
「曹操さん……」
天幕内には意気消沈した様子の劉備が所在なさげに座っていた。
「ずいぶんと弱っているわね。董卓連合に良いようにしてやられた事が堪えているのかしら?」
持ち込んだ瓢箪を横に置き、劉備の対面に座る。
彼女には特に意識したわけではなかったが、その言葉から圧を感じ取った少女は華奢な身体をびくりと震わせた。
劉備の煮え切らない、目に見えて迷っている様子に曹操は目を細める。
「(そういえばこの戦が始まる前から様子がおかしかったわね。黄巾党の乱の時の方が覇気があった)」
仮にも自分を相手に強かな交渉をして幾つもの黄巾党を撃破した人間と目の前の弱々しい姿が結び付かない。
少なからず目を掛けていた相手の有様に曹操は苛立ちを覚えるも、それを言葉にする事はなく公孫賛が座るのを待った。
「待たせたな。軽い物だが良ければ食べてくれ」
ほどなくつまみというには細やかな干し肉や乾物を皿に載せて持ってきた彼女が劉備と曹操の間に座る。
皿を囲んで円形に座った3人。
曹操が持ってきた酒が杯に注がれ、語らいの時間が始まった。
「このままだと反董卓連合は負けるわ」
「「ぶはっ!?」」
いきなり飛ばしてきた曹操の発言に劉備と公孫賛は口に含んだ酒を噴き出す。
そんな反応を想定していたのか、元凶はその辺にあった水樽の蓋で霧状の酒を防いでいた。
「はぁ……そんなに驚く事でもないでしょう? 汜水関の戦いを客観視すれば自ずと分かる事よ」
全ての事実を照らし合わせれば局所的には互角であったり、押し返せていた戦局はあった。
しかし全体を見れば反董卓連合は董卓連合に翻弄され続けて終わっている。
汜水関の占拠ですら、あちらが放棄したから手に入っただけに過ぎない。
「その上、今や反董卓連合は内通者の存在で疑心暗鬼。正しく数が多いだけの烏合の衆と化した。恐らく虎牢関には最強の武人と名高い呂布も待ち構えているでしょう。攻め入った瞬間に出鼻を挫かれれば、いくら数が揃っていたところで士気なんて根こそぎ砕かれる。あとは適当に時間を稼がれて董卓側が決定打を放って投了ね」
あっという間に酒を乾しながら、どこか嬉しげ眼差しで彼女は自身の予想を告げる。
二人は返す言葉が見つからない。
曹操の話した未来予測が彼女らから見てもかなり現実的なものに思えていたからだ。
否定出来る要素が見当たらなかった。
「私たちがここでまごまごしている間にもあちらは着々と準備を進めているでしょう。時間もあちらの味方ね」
その言葉一つ一つの意味は分かる。
このままではまずいという焦燥感が劉備の中で強くなる。
しかし目の前の女傑が、この状況をまるで他人事のように言っている事が引っかかった。
仮にも董卓の悪政を糾すという目的で集まったというのに、このままでは目的も果たせずに終わってしまうというのに。
その思いが劉備の口から絞り出される。
「どうして曹操さんは……それだけの事が分かっていて動かないんですか?」
彼女の弱々しい言葉を問われた側は一笑に付した。
「動かない? 本当にそう見えているの? だとしたら今の貴方、本当に余裕がないのね」
挑戦的で傲慢な視線、柔らかく笑っているのにまるで刃を突き立てるような声だった。
「……いいか?」
言葉を続けようとした曹操を遮るように口を開いたのは公孫賛だ。
噴き出してしまった酒を処理してから、ずっと考え込んでいた彼女の目は静かなものだった。
曹操は面白そうに興味を彼女に移し、視線で先を話すよう促す。
「あちらが着々と進めている準備というのはこの戦争を終わらせる為のもの。この戦の発端である袁紹の大義名分を切り崩す準備という事で良いんだな?」
「ええ。少なくとも私はそう考えているわ」
そもそもこの戦は袁紹の『董卓が帝を操り、暴政を敷いている』という言いがかりが正当化された事で成り立っている。
大多数の勢力はそんな袁紹の勝ち馬に乗って『帝を救うために戦ったのだ』という実績を求めてここに集まったのだ。
例外はそれこそこの場の三人だけ。
曹操は袁紹を出し抜いて帝救出の手柄を得る為。
公孫賛は袁紹がやり過ぎないよう監視し、いざという時に止める為。
劉備は『董卓が帝を操り、暴政を敷いている』という言の真実を確かめる為。
「大陸中に流布された董卓の悪評。名門袁家の影響力を覆すとするなら、それは……」
公孫賛は一度言葉を飲み込むも、曹操が我が意を得たりという顔をしているのを確認し、眉間に皺を寄せながら結論を口にする。
「「帝その人による逃げようない状況での勅命」」
公孫賛と曹操の結論は一字一句違わず一致していた。
劉備は驚きに息を止めた。
「その流れになるという事は、だ。……これが実現した場合、反董卓連合こそ悪となる。曹操、お前は董卓、そしてそちらに付いた馬家、孫家が帝を連れ出す段取りを付けられる状況にある、あるいはその目処を立てられていると考えているんだな?」
少なくとも公孫賛と曹操は袁紹の大義名分が偽りだと言う事を確信している。
悪評が間違いである事が証明されれば、どちらが悪いとされるかなど火を見るより明らかだ。
「……貴方、私の結論と似た読みが元々出来ていたのね? そうでなければその問いかけは出来ないもの」
「まぁ可能性の一つとして、な。私だって汜水関での戦いについては何度も思い返したんだ。そうしているうちに『各所の戦いの全てが計算されたもので何かを待っているんじゃないか』って思ったんだ。なら『何を待っているんだ?』ってところを考えて、ってところだ」
誤魔化すように笑う公孫賛に今度こそ曹操は表に出して感心した。
「正直、侮っていたわ。私が思っていたよりもずっと頭が回るのね」
からかうような曹操の言に劉備は失礼だと思いながら心中で同様の感想を抱いていた。
同じ私塾に通った学友。
領地を持っても変わらぬ人柄で、自分たちを助けてくれた。
権謀術数に長けているという印象は彼女の中でまったくなかった。
友人が立派なのは知っていた。
けれど自分との差を改めて思い知らされた気がした。
「まぁ褒められたと思っておくよ。恥ずかしながら昔からこうだったわけでもないしな。今、領地を任せてる奴らの影響で色んな事を考えるようになったのさ」
失礼な物言いだったはずだが、公孫賛は苦笑いして言葉を返す。
「良い出会いがあったという事ね。深くは聞かないわ」
「そうしてくれ。話を戻そう」
公孫賛は笑みを消し、真剣な表情になる。
「私と劉備にここまで丁寧に状況を話した、お前の意図はなんだ? 曹操」
その問いかけに曹操は満面の笑みを浮かべて口を開いた。
これより一週間後。
反董卓連合は虎牢関へ進軍を開始。
両軍、様々な思惑を胸に戦いは虎牢関へと移る。