Dies irae ~Unlimited desire~   作:ROGOSS

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さらば君よ

 今思い返してみると、それなりに裕福な家庭に産まれたのだろう。

幼いころは物に困ったことはなかった。

暖かい食事に安心できる寝床。

父と母は厳しくも優しい人物だった。兄は誰よりも優秀で将来を有望視されていたし、妹の私ともよく遊んでいてくれた。

当たり前のようにこの平和とこの日常が続くものだと、幼いながら私は思っていた。

だが……時代の流れというのは、時にどうしようもないほどの逆流となり襲い掛かってくる。

 1933年。

ナチス政権はユダヤ人に対する非人道的政策を始めた。いわゆるホロコーストと言われるものだ。

理由は諸説ある。

国内不況をユダヤ人がいるから、という理由にして国民をまとめるため。

ユダヤ人がイエス・キリストを殺したため。

どちらにせよ、私たちはその年から逃げるように生活をしなくてはいけなくなっていた。

迫害は年々悪化の一途をたどった。

父はげっそりと痩せ、母は笑顔を見せなくなり、兄の顔からは精気が消えていた。

幼い私は、何が起きているのかを完全に理解することができなかった。

 そして1943年。

私たち家族は、匿われていた家の家族に売られ強制収容所へと送られた。

今でも忘れることができない。

悲鳴と怒声の毎日だった。

私たち家族にもシャワー室へという名のガス室へ送られる日が来た。

私の運命はそこで大きく変わった。

理由は今でもわからない。

ただ、私だけ別の場所へ連れていかれたという事実だけがあった。

鞭をもったドイツ親衛隊員は私に問いかけた。

「このボタンを押したらお前だけは生かしてやろう。押さないのなら、お前の家族ごと皆殺しにしてやる」

 押せば家族全員がまた笑って暮らせた毎日に戻るのだと信じていた。

そうなりたかったし、まだ死にたくなかった。

それがどういうボタンなのかは薄々わかっていた。それでも、押さなければいけないという恐怖からくる義務感が私に迫っていた。

そして――

今でも脳裏にこびり付いたまま離れない。

シャワー室についた小窓から見た、苦悶の表情を悲痛な叫びを怒りの眼差し。

 私はなんてことを……!

気が付いた時には遅かった。

家族も仲間もみんな死んだ。私が殺した。

私の姿を親衛隊員は楽しそうに見ていた。

家族も死に、同族すら殺した私に帰る場所などなかった。

残された道はただ一つ。

敵でもあるナチスの犬になること。すなわち情報提供者(コラボレーター)になること。

 情報提供者(コラボレーター)になった私はありとあらゆる情報を渡した。

それなりに優秀だったと思う。

十代だった私は、あの悲鳴をあの表情を忘れたいがために必死だった。

だが戦況は芳しくなく、ついにベルリンへと連合軍は攻めてきた。

私は逃げた。

殺しておきながら、裏切っておきながら、欺いておきながら、たとえ後ろ指をさされようとも生きたかった。

だが、それすら私には叶わぬ願いだった。

戦火のベルリンの街を逃げ回っているとき、たまたま出くわした親衛隊員は私に向け発砲してきた。

何がおきたのかわからなかった。

 それでも胸からあふれ出る血を見た時、今まで犯してきた事の罰が下されたのだと理解した。

死にたくはなかった。

だけど、これで解放されると思った。

家族に会えるかはわからないけど会いたいと願った。

しかし、現実は私に夢すら見せてはくれなかった。

神は私を許さなかった。

私は結局、黒円卓という名の新しい飼い主のもとで飼われることになった。

みんなと生きたかった。

そう願っただけなのに何がいけなかったのだろう。

あの時、ボタンをもし押さなければ……私も家族と一緒に死んでいたら……

数十年間それだけを考え続けていた。

 

 

●○●○●

 

「さて……」

 

 クリストフはメガネの位置を片手で直しながら、目の前で倒れているシャーロット(かのじょ)を見た。

 

「殺さなかってのか? クリストフ」

 

「ベイ中尉。いかがされましたか?」

 

「いいや? お前がくだらない情をわかしたのかと思ってな」

 

「情? ふふ……私が情などという贅沢なものを持ち合わせていると?」

 

「……そうだな。余計なことを言ったよ」

 

「いや、気にしていませんよ」

 

「どうするんだよ、シャーロットは」

 

「彼女はそういう星のもとに生まれたのです。しっかり利用させていただきますよ」

 

「へっ! それはいい!」

 

 ベイの高笑いが教会内に響き渡った。


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