秒速8キロメートル   作:テノト

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思い出の日々と僅かな願い

「ねえ(かける)くん、知ってる?秒速5センチメートルなんだって」

「うーん......。なんの速度だろう?」

 

 僕は明菜(あきな)の問いかけに答えることは出来なかった。

 春の暖かな陽気に包まれた街は桜色に染め上がっていて、行き交う人々の気持ちを心なしか高揚させていた。

 僕たちは桜の木の下に腰をかけて、互いに持ち寄ったおにぎりやおかず、お菓子に手をつけながら話していた。

 

「桜の花弁が落ちる速度、秒速5センチメートルなんだって」

「へぇ。それって遅いのかな?それとも早いのかな?」

「ピンと来ないよねぇ。こうやって、お花見してると凄くゆっくりして感じるけど、本当はもうすぐにさよならの時間になっちゃうもんね。それと同じ感じなのかな?」

「そうかもしれないね」

「うん、きっとそうだよ」

 

 明菜はそう言って勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

 自分の方が博識なんだと語るように。

 

「そういうのよく知ってるよね。やっぱり本で見たの?」

「うん。図書室にある小説に書いてあった。最後まで読めてないんだけどね」

「ふぅん」

 

 明菜に何か言い返せないかと、話題を振りながら僕は訳もなくムキに頭を捻っていた。

 ふと、一つ思い出したことがあった。

 

「そうだ。じゃあさ、秒速8キロメートルって知ってる?これはお父さんに聞いた話だから本当のことだよ」

「一秒で8キロってすごい速さだね。時速に直すとね、えっと…………、時速28,800キロメートルだから新幹線の何倍になるかな?」

「飛行機だって速くても900キロくらいだよ」

「あ、その顔はなんなの~?すっごい負けた気分!」

「へへへ、勝ったよ!」

 

 一体何に勝ったのだか。そうしてしたり顔を彼女に見せつける。

 頬を膨らます彼女の顔が可笑しくて、余計におどけて挑発した。

 すると彼女の何となく不機嫌そうだった顔がより鮮明に不機嫌さを訴えだして、それが可笑しくって、でももっと見ていたいとか考えてしまっている。

 結局そのままそっぽをむかれてしまったけど、チラチラとこちらに目線だけ送ってきている。きっと答えが聞きたいんだろう。

 

「早くおしえてよ!」

「これはね、宇宙ステーションが地球を回る速度なんだって。一日で6回地球をぐるっと回るほど速いらしいよ」

「そうなんだ!やっぱり翔くんは宇宙とか、そういうの詳しいね」

「お父さんがそういうことの仕事してるし、何より僕の夢は宇宙飛行士だからね」

 

 少々強い風が吹いて桜の花びらが散り、舞い上がり、僕らの目の前の光を遮る。

 美しい光景だった。でもなんだかその光景は僕に、止め処ない不安を感じさせた。まるで僕らに差していた未来の光を遮るように感じてしまった。

 そんな杞憂とも思える感傷に浸っている僕に彼女は声をかける。その声を聞くだけで僕は今に戻された。風は止んでいて、巻き上げられた桜ははらりはらりと秒速5メートルで落下している。

 

「夢がしっかり決まってるんだ。私なんて、自分が何をしたいのかも分からないんだよ?」

「いいじゃん。だってまだ大人まで何年もかかるんだからさ、ゆっくりいろいろ考えれば良いと思うよ」

「そうかな?」

「それにさ、明菜は頭が良いからどんな夢だって叶えられるって。僕はそう思ってるよ」

 

 それらの僕が吐き出した言葉たちは明菜にいう言葉ではなくて、自分自身に言い聞かせている言葉なんだと、この時の僕は自覚なんてしていないだろう。

 本当に情けの無い話だったが、父からは宇宙の知識だけでなく宇宙飛行士には僕がなれないであろうことも、事細かく教えてくれるリアリストだった。

 そんなリアルな教えに対しての反感の意思だったのだろうか。

 

「何でもはないよ。だって私、運動音痴なんだもん。すぐ学校休んじゃうし」

「うーん......。頭を使う仕事なら......、って揚げ足を取らないでよ!結構本気で言ってるんだから」

「あははは!分かってるよ。ありがとね翔くん。そうやって言ってくれるのは翔くんだけなんだよ?」

「そんなこともないでしょ?」

「そうなんだよ」

 

 そうやって取り留めのない会話を桜の木の下で、永遠にも感じる時間を過ごした。

 そうして帰宅を促す夕時のチャイムが鳴り響く。

 七つの子を聞きながら一緒に家へ帰る。公園からは明菜の家の方が近かったから、必然と別れるのは明菜の家の前だ。

 

「今日は楽しかったね」

「そうだね。もう春休みも最後だし、明日からはまた学校だよ」

「うん。これからもよろしくね」

 

 そういって明菜は家の戸を開けてその中へ入っていく。

 閉まっていく戸が急に止まり、隙間から明菜は頭だけを覗かせて一言僕に残した。

 

「来年も一緒にお花見しに行こうね!」

「うん!約束だよ。絶対しようね!」

 

 僕の返事なんて決まっていた。

 それに来年だけじゃなくて、何年経ったって僕は明菜とお花見に行くんだろう。そんなことを考えていた。

 そう。そう考えていたんだ。

 

 

 

 

 

 

 その日は例年より遅めの台風が過ぎていった後で、澄み切った秋の空にモミジやイチョウの葉がひらりらひらりと飛び交っていた。

 その日に僕は明菜に電話をかけていた。

 

「お父さんの仕事の都合で引っ越すことになったよ。もうしばらくは日本に帰ってこれないかも……。モスクワとヒューストンを行ったり来たり……だってさ」

 

 僕は気持ちでは淡々と事後報告のように告げるよう努めていたけれど、家の固定電話近くにある鏡は赤く腫れぼったい瞼の自分を映していた。

 きっと僕のこの声も上擦っているんだろうということも何となく悟った。

 

「そうなんだ……。もう、会えないの?寂しいな……」

 

 明菜の痛烈な孤独感を、彼女のその声色から僕は感じ取ってしまった。違う、自分が孤独を感じて彼女もそうであって欲しいと思ったんだ。

 生まれてこの方二人でいつも遊んでたし、学校でもべったりと離れない正しく親友だった。

 それでからかわれたりすることはあった。でもそれは恥ずかしいという感覚なんかよりも、二人だけが知っている僕たちの秘密基地を周りに言いふらされるような、踏み込まれたくなかった領域に不躾にも踏み込まれるような謎の不快感を感じていた。明菜はどうだかわからないけど、からかわれる度に眉間に皺を寄せて泣きそうな顔をして、ただ悔しそうに俯いていた。

 離れたくなかった。

 離れてしまうと、もう一生会えないような気がした。いや、そうじゃない。当たり前だった自分にとって確かな存在を削ぎ落とされるような気がしたんだ。それは、丁度窓の外で散っているモミジやイチョウの葉っぱのようだ。

 

「お父さんのISの研究が認められてさ、そんなお父さんを支えてあげたいんだ」

 

 ISとは、僕が5歳の頃に起きた『白騎士事件』で世界に現れ、篠ノ之博士によって公開されたいわゆるパワードスーツだ。

 あの事件以来、お父さんはISの存在が自分には重要なファクターであり欠けたピースを埋めるためのものだと信じて研究を重ねた。本当に小さかった僕が恐怖を覚えるほどに鬼気迫るものだった。

 だから、その研究が認められた今だからこそ支えてあげないといけない。じゃなければきっとお父さんは壊れてしまう。そう、強く感じた。

 

「ごめんね……。一緒に桜を見る約束、守れないよ……」

「仕方ないよ……。だって、私たちじゃどうにもできないもん……」

 

 それ以上の言葉を僕は出すことが出来なかった。寂しいと言ってくれた明菜に何か慰めや気の利いた言葉も思い浮かばなくて、そんな自分が情けなくて堪らなかった。でもグッと拳を強く握ることしかできなかった。

 なんて自分は無力なんだ。そう自分を責め立てることで少しだけ気が晴れた。でもそんなことで気が晴れてしまう自分に強い嫌悪を抱いた。

 そんな負の感情の堂々巡りを繰り返していると、明菜が高く声を上げた。

 

「引っ越しって、いつ?」

「来週の日曜日の飛行機でモスクワに行くんだ」

「じゃあさ、今週の日曜日にコスモスを見に行こうよ!」

 

 無理をしているのが手に取るように感じた。

 今にも泣きだしそうな声なのに、明るく振る舞って僕の感情を上へと向けてくれた。

 彼女のそんな優しさが、チクリチクリと僕の胸に小さな軛を打ち込んでいくのを感じた。

 

「ソメイヨシノじゃないけど、コスモスも秋の桜なんだから代わりにはなるよね。きっと」

「う、うん!なるよ!絶対なるって!」

「じゃあ、行こうね!」

 

 時間と場所をその場で決めて、二人で出かけることが決まった。

 

 

 

 

 

 

 少々遅咲きのコスモスを一緒に眺めながら、明菜が作ってくれた弁当を食べた。

 今日の為にお母さんから作り方を習ったらしい。

 一朝一夕の付け焼刃だから味に保証はない、なんて言いながら笑う明菜の弁当は、美味しかった。言葉には出来ないくらいに。

 そのあとは別れを切り出すのが怖くて堪らなかった。

 学校は転校の手続きで行かなくなるし、この数日で引っ越しの準備を完全に終わらせなくてはならないからだった。

 だから、きっと明菜とはもう会えなくなってしまうのだった。

 

「桜が見れてよかったね……」

「うん、よかった」

「もうこっちでやっておきたいことってない?」

「約束もこんな形だけど果たせたしね」

 

 嘘だ。

 こんな言葉、嘘なんだ。

 やっておきたいことなんてまだまだ沢山ある。

 ソメイヨシノを一緒に見たかった。夏には一緒に祭りに行って遊んで、冬には雪遊びだってしたい。

 一緒の中学に進んで、どんどん先に進むだろう勉強に必死に食い付いて。

 そうやっていつまでも一緒に楽しみや色々な感情を共有したかった。

 

「モスクワにヒューストンかぁ。すっごく遠いね。やっぱりもう会えないのかな?」

「分からないや……。日本に来るようなことがあれば絶対に会いに来るけど、分かんないから約束は出来ないよ」

「そっか……。そうだ!翔くんの夢って宇宙飛行士でしょ?ヒューストンならそういう勉強しやすいんじゃない?」

「そうだね。きっとお父さんの伝手で宇宙飛行士の人にも会えるかも。だから、夢には確実に近づくね」

「すごいじゃん!きっと翔くんの夢に神様が導いてくれているんだ!」

「そうなのかな?」

 

 僕はそんな導き要らない。神様ならわかるでしょ?僕の気持ちが。

 

 そんなの嫌だ!明菜と離れたくなんかない!

 

 そんな叫びが聞こえているはずだ。

 だけど、そんな叫びは意味もないし別れを辛くするだけだった。

 だから飲み込むしかないんだと弱い自分に精一杯言い聞かせた。

 そうすることでしか自分を保っていられなかったし、これから先のことへと進めなくなる気もしたからだ。

 日が傾いて、空が焼けて見える。

 公園内のスピーカーからは『赤とんぼ』が流れ出した。

 別れを告げる時が来たのだ。

 

「私はね、まだ翔くんにしてあげたいこと、一杯あるんだよ」

 

 僕だってそうだ。

 でも、今から一生会えるかも分からない様な僕のことをもう考えないでいて欲しかった。

 互いが辛くなるだけだから。

 

「私ね、言いたいことがあるの」

 

 やめてくれ。

 きっと、その先を聞いてしまうと自分が抑えられなくなってしまう。

 

 

 

「私、翔くんのことが…………大好きなの」

 

 

 

 聞いてしまった。

 

「色々考えたんだけどね、言うことにしたよ。これを言ったらお別れが余計に悲しくなるの……。でもね、言わなかったらきっと後悔するって思ったの。だから、言うことにしたの。だから、私のこの告白の返事をして欲しいな……」

 

 明菜はそう独白する。

 なんだ。僕の方がよっぽど臆病で弱い奴じゃないか。言ってしまうと別れが辛いから、僕は保身のために何も言わないことを選んでいた。

 クラスのいじめっ子から好きな人に関して囃し立てられた時、目に水を溜めて俯いていた時の明菜じゃないんだ。しっかり前を見て、強い自分を持っているんだ。

 

 

「僕も……。僕も明菜のことは大好きだよ!嫌だよ!離れたくないんだよ!大切なんだよ……!」

 

 僕は明菜に抱き着いて声を引きつらせて咽び泣きながら返事を返した。

 明菜も泣いているのが分かる。肩に冷たいものを感じたから。

 腕を回して力強く抱きしめると、明菜も負けじと強く力を籠めた。抓るように背中を捕まれたけど、その痛みが僕に何か大切な切片を刻み付けているように感じて心地よかった。

 

「私も離れたくないよ……。だけど仕方ないんだもん。嫌なのに、嫌なのに!」

「ごめん、ごめんね。僕は何も出来ないんだ……」

「うぅ……」

 

 二人の気持ちが重なった気がした。僕はそう思う。

 だけどこんなに悲しい気持ちで一つになるなんて、世の中は酷いものなんだ。喜びの気持ちでこうなれたら、どれだけ素晴らしいのだろう。

 そんなことばかり考えてしまって、これ以上先に進んで行けなくなってしまいたい、そんな衝動に駆られていた。

 けれども、そんなことをしてしまったら明菜の歩みも止めてしまうというある種の恐怖にも駆られた。

 ふと明菜は僕の背中に回した腕を外し、僕の顔を見た。身長差はそれほど大きくないし、互いに目線は同じ高さだ。

 同じ高さにある彼女の目が一層涙を溜めて、潤んだ瞳で僕の心を突き刺した。そして薄く目を瞑って唇を差し出した。

 この時の僕に迷いなんてなかった。驚きによる一瞬の静止を経て、彼女の問いに答えた。

 

 今、僕はきっと明菜の全てを手に入れたように感じた。僕も明菜にこの時だけでもと全てを差し出していた。

 でも、この明菜の全てを僕はどう扱えばいいのか、余りにも手に余る大きな存在で戸惑った。

 葉とともに日は落ちていく茜色の中で、僕は幸福に包まれていた。包まれていたかった……。

 幸福の後には戸惑い、不安、絶望。そんな感情に包まれて、自分の心はもう滅茶苦茶になっていた。

 

 永遠にも似た一瞬の出来事。未だに明菜の唇の感覚が残っている。それが無性に気恥ずかしくて、そんな情けないであろう顔を見せたくなくて明菜をひしと抱きしめた。お互いに火照っているのがよく分かった。

 明菜も僕に強く抱き着いて顔をこちらに向けようとはしなかった。同じことを考えているのだろうか。

 でも僕の中の心はこの時に強く堅牢で確実な意思を抱いた。

 

 例えどんなことが起きても、僕は明菜のことを好きでいるのだと。

 

 火照りが覚めた時に僕は重い口を開けて声を出した。ここで立ち止まらないために。

 

「僕、もう行くね……。さよなら明菜」

「うん……。いつでも私は翔くんのことを待ってるから!電話もメールも一杯するから!」

「僕もするよ!僕だって明菜のことは忘れないよ!何があっても!」

「ありがとう……。きっと、また会えるよ!それまで元気でね」

「うん、元気でね」

 

 思いを言葉に乗せてぶつけ合った。悔いが残らないように。

 

「翔くんなら、この先どんなことがあっても大丈夫だよ!だから、さよならっ!」

「…………!っ……うん、さよならっ!」

 

 そういうと、二人で背を向けて歩き出した。

 後ろから嗚咽交じりの泣き声が聞こえてくる。いや、僕が泣いてるだけかもしれない。

 それを振り払うように僕は走った。全力で走った。

 部屋に戻って僕は咽び泣いた。そして請うた。

 もう一度、どうかもう一度僕と明菜を引き合わせて欲しいと。

 

 僕らの思い出の花である桜とコスモスに、そう願った。

 

 

 







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