「おっしゃあ!間に合ったぁ!」
本来なら底無しの深淵世界に落下してその短い生涯を終えるはずだった海未は、未だ自身の命が健在であることに戸惑っていた。恐怖のあまりに閉じていた瞼をゆっくりと開けていく。
「ファイトだよっ!海未ちゃん!」
「ほ、穂乃果⁉︎」
海未の命を辛うじて繋ぎ留めたのは穂乃果の右腕だった。九死に一生を得た彼女の代わりに、得物の弓が代わりとなって奈落の底へと飲み込まれていく。海未はその光景を呆然として見つめていた。
「しっかり捕まっててよ!今絶対に助けてあげるからね!」
ろくに体を鍛えてもいない少女の華奢な腕では、人一人を持ち上げることすら難しいだろう。現に、海未の腕は穂乃果の手からズルズルと滑り落ちつつある。しかし、穂乃果も決して離すまいと、身を乗り出しながら必死に腕が震えるのを耐えていたのだ。
「やめてください穂乃果!このままでは二人ともとも一緒に落ちてしまいます!」
だが、穂乃果は自分を犠牲にしようとする海未に対して、ぶんぶんと必死にかぶりを振った。
「や、やだよ!絶対……海未ちゃんを助けるんだから……!一緒にスクールアイドルやって……一緒に音ノ木坂を廃校から守るって……私決めたんだから!!」
「何をこんな時に馬鹿なこと……それこそ貴女まで死んだら意味が無いでしょ⁉︎手を離してください!そして、一刻も早くことりを連れて何処でもいいから逃げるんです!」
「嫌だ!」
穂乃果は断固として友の犠牲を認めなかった。理由は言うまでもない。友の死の上で生きながらえるなどまっぴらごめんだからだ。
「海未ちゃんも言ってたでしょ?穂乃果はワガママだって……そうだよ!私ワガママだもん!海未ちゃんと一緒じゃなきゃ嫌だ!海未ちゃんも助からなきゃ嫌だ!海未ちゃんとアイドルやれなきゃ嫌だ!」
「あ、あなたって子は!」
しかし、啖呵を切るように言い放った穂乃果ではあるのだが、表情は必死さのあまりに歪んでしまい、声も腕も力なく震わせている。やはり本音では腕の限界が近いのだろう。このままでは海未言う通り、2人一緒に暗闇の中に真っ逆さまだ。
しかし、それでもこの少女は決して諦めていなかった。
「ねえ海未ちゃん……勝負してみない?助かったら必ず一緒にスクールアイドル始めるって!どっちかでも欠けたら、穂乃果はすっぱりアイドル活動諦めるよ!」
突然の提案に面喰ったってしまった海未。あまり唐突ゆえ、穂乃果の真意図り損ねているようだった。
「か、賭け事って……そんな場合じゃ……」
「乗るの⁉︎乗らないの⁉︎どっちなの⁉︎」
声を張り上げる穂乃果の問いかけに、海未は俯いて顔を見せないまま何も答えない。
「……貴女は卑怯です」
永遠に等しい時間が流れたかと思われた頃、ようやく海未はゆっくりと顔を上げた。目元から雫を頬へと伝わせながら。
「私に選択肢なんて……最初からあるわけないじゃないですか!」
海未は泣きじゃくりながら笑っていた。クールな大和撫子という周囲からの評価を台無しにしてしまう程に顔をクシャクシャにしてしまっている。にも関わらず、その瞳は何処か澄み切っていて晴れやかだった。
「ここを出て、一緒にスクールアイドルを始めましょう!勿論ことりも一緒にです!」
もはや穂乃果と海未の二人は揃って迷いなどない。親友と共に歩めることを確信した穂乃果はにっこりと歯を見せながら笑った。
「ふふふ……決まりだね!」
「……っ!」
海未は幼少時代を回想していた。この顔をしている時は、いつも穂乃果が何かを成す時だ。
「悪いけど、穂乃果の勝ちだよ。海未ちゃん!」
不敵な笑みを浮かべる穂乃果。しかし、肝心の二人の手は今にも離れつつある。残酷な現実を前に、見るに耐えかねた海未は目を閉じてしまう。
そして、穂乃果の震える指先から、海未の感触が消えた。
「海未ちゃああああああああああんっ!!!!!」
二人の手が限界を迎えたその瞬間、吠える穂乃果から
「い、今のは……!」
遠くから穂乃果達を見守ることしかできずにいた真姫は、思わず目を見開いた。真姫から見える穂乃果から伸びた腕は、確かに存在はしているもののひどく朧げで、まるで霞のように虚ろな状態だった。しかし、それでもあわや奈落へと消えそうになっていたはずの海未をしっかりと掴まえている。まるで自身の無力に抗おうとする穂乃果の意思のあり方そのもののようだ。
「まだ、完全に目覚めていないからモヤみたいな中途半端な姿になってる?でも、もしあの先輩が自分の力を自覚出来たら……」
「でりゃああああああ!!!!!!」
真姫の中で思案が続く間に、謎の手によって一気に引き上げられた海未の体は宙を舞った。地上に帰還を果たした海未の体は勢いよく床に叩きつけられる。ひとしきりゴロゴロと転がった後、岩に衝突したおかげでようやく止まった。その光景は一応助け出した張本人の穂乃果が冷や汗を流してしまう程に凄まじいものだった。
「だ、大丈夫?海未ちゃん……」
海未は全身を砂埃まみれにしながらもゆっくりと立ち上がる。穂乃果は思わず変な声を漏らしてしまう。大和撫子と呼ばれるにふさわしい絹糸のような黒髪を持つ彼女だが、今はまるで階段に登場する怨霊のような有様になっているのだ。殺気を感じ取った穂乃果は、つい顔を引きつらせていた。
「ご、ごめーん!ちょっとだけ……いやあ、結構力入れすぎちゃったみた……」
いつものような説教を覚悟していた穂乃果に訪れたのは、平手打ちでも鉄拳制裁でもなかった。
「馬鹿!」
「おおっとお⁉︎」
代わりにぶつけられたのは、涙混じりの怒声と、鍛えられているとは思えない程に華奢な海未の体だった。絹のように滑らかな黒髪が穂乃果の鼻をそっとくすぐる。
「馬鹿馬鹿馬鹿!やっぱり貴女は正真正銘の大馬鹿者です!あんな無茶をして!」
穂乃果の胸に頭を埋めた海未は小さく嗚咽を漏らした。
「ワガママで……自分勝手で……向こう見ずで……そんな穂乃果が、私は大嫌い……」
でも、だけど、と前置きして海未は続けた。
「そして……そんな貴女が……私は大好きなんです……」
「海未ちゃん……」
海未のある種の告白を前に、穂乃果は静かに笑みをこぼした。恥ずかしさが今更ながら込み上げてきた海未は、涙声混じりながらも不機嫌そうに不満を漏らす。
「何がおかしいんですか……全然笑えませんよ……」
「海未ちゃん、私も一緒だよ」
穂乃果が自身の胸元に埋められた海未の後頭部に手を回し、そっと撫で始める。
「融通が利かなくて……頑固で……口うるさくて……そんな海未ちゃんが穂乃果大っ嫌いだった……」
一見すれば悪口にしか聞こえないはずだが、発せられる声音そのものは不思議と深い慈しみに満ちている。涙が止まらない幼馴染をそっと撫でる姿は聖母を思わせる。
「だけどね……そんな海未ちゃんが何故か大好きなんだよ」
「私と同じですね。ふふ……何故なのでしょう?こんな勝手気ままで無茶苦茶な人が何故かこんなにも愛おしいだなんて、私には全くわからないです」
なかなか止まらない涙を袖でごしごしと擦りながら、海未は困ったように首を傾げた。
親兄弟にも負けない程に長い時間を共に過ごし、お互いを誰よりも熟知しているはずなのに、ほんの些細な諍いで離れ離れになってしまう。いや、むしろ近すぎるからこそ、危うい距離感を作ってしまっていたのかもしれない。そんな強くも脆くも二人の絆は偶然に偶然が重なって引き裂かれてしまっていた。そして、理不尽な試練を乗り越えた末に、ようやく再び一つに結びついたのだ。
「海未ちゃん、こんなダメダメなところがいっぱいある穂乃果だけど、これからもずっと一緒にいてくれますか?」
「もちろんですよ。さっき言ったばかりじゃないですか。あなたが望むように、ずっと一緒にいましょう。一緒にアイドルをやりましょう」
離れてしまっていた距離を埋めるかのように、二人はより一層力強く抱きしめ合う。しかし、その時だった。
がんっ!
静かに続けられていた二人の時間は容易く破られた。豪快な破砕音が鳴り響き、盛大な砂埃が辺り一面を覆い隠してしまう程に舞った。
「ぐあっ!!!」
埃だらけになってしまった制服姿の少年が砂煙から飛び出す。いや、飛び出したというより、無理矢理弾き飛ばされたように見えた。続けて例の怪物が多数の足を蜘蛛のように動かして姿を現わす。穂乃果達はそのおぞましい光景に我が目を疑った。
あれだけ細切れになるまで引き裂いたというのに、粉々に砕いたというのに、穂乃果が海未を助け出すまでの僅かな時間で既に元の五体満足へと再生していたのだ。
黒い巨大な五指が少年を握り潰そうと広げられていく。
「くっ!」
危うく捕まりそうになったもののすぐさま刀で薙ぎ払い、なんとか退けることはできた。しかし、それでも今できたばかりの大きな傷跡があっという間に治っていく光景は、これ以上ない程に著しい絶望感を与えてくれる。
「やっぱり電撃も物理攻撃も効かないんじゃどうしようも……」
静流は頬にこびりついた砂埃を袖で拭い取った。その表情にもはや余裕は無い。海未はおろか、穂乃果の目から見ても、危機的状況なのがすぐに理解できていた。
涙を袖で拭いた海未はフラつく足で体を支えつつ、穂乃果を庇うかのように前へと出る。
「急いでことりを連れてここから逃げてください穂乃果!私は彼を助力して時間を稼ぎます!」
しかし、そんな風に決心を固めていた海未を穂乃果は睨んだ。
「海未ちゃん、一緒にアイドルやるっていう約束をもう破るつもり?もしそうなら、本気で怒るよ」
まさかの穂乃果が放つ鋭い眼光に圧倒され、海未は思わず息を飲んだ。普段は天真爛漫で、誰かを害したりしない彼女だけに、その落差は著しい。
本来は幼馴染グループの主導権を握っていると称しても過言ではないはずの海未が、まるで悪さが見つかった子どものようにたじろぎ、目を逸らさずにいられなかったのだ。
これも幼少時代からの常であった。有事の際、穂乃果と海未の力関係は容易に逆転してしまっていた。そして、今がまさにその時なのである。
「た、確かにそれはそうですが……」
「嘘つきな海未ちゃんは一番大嫌いだよ」
穂乃果らしかぬ、淡々としつつも怒気を滲ませた声音は彼女がいかに本気であるのかを物語っていた。思わず気圧されそうになる海未。しかし、それでも今だけは海未とて引くわけにはいかなかった。
「でも!今はしのごの言っている状況では……」
がちゃっ!
口論を始めた二人を制するかのように、派手な音が鳴り響く。どうやら何かが穂乃果達のすぐそばの岩に衝突したらしかった。二人の視線が『それ』に移る。その瞬間、海未は瞳を大きく見開く。
「これは西木野さん用の召喚器⁉︎」
海未はそれ拾い上げながら驚愕していた。ことり達が自分に向けて銃口を突きつけていた物と全く同じ形状の大型リボルバーだ。違いと言えば、グリップ部にギリシャ数字の3が刻まれている点だろう。
「なんとか届いたみたいね!」
声のした先には、銃の持ち主である赤毛の少女が手を振っていた。
「せんぱーい!」
「に、西木野さん⁉︎」
足を怪我したために動けずにいる真姫は二人が自分に気づいたことを察すると、口元をニヤリと吊り上げた。
「先輩!その銃で自分の頭を撃ち抜いてください!」
そう言って真姫は指で銃の形を作り、側頭部を撃ち抜くような真似をする。精巧な人形を思わせる整った顔立ちの真姫だとかなり様になっている。
「天宮先輩や園田先輩達のを見てたでしょ⁉︎大丈夫!それに弾は入ってません!」
その行為が意味する事をよく知る海未は唇をわなわなと震わせ、額から冷や汗を垂らした。
実弾が入っていないから問題ないわけがない。あの拳銃は一種の儀式礼具だ。あえて己を死に極限まで近づけて錯乱状態に精神を追い込み、生存本能を掻き立てることで無理矢理に闘争心を表へと引きずり出す装置。これを用いて少女が大人になる過程で辿る不安定期を利用して強制的に使用者をトランス状態へと陥らせる。理事長曰く、巫女が行う儀式の過程を一気に省いたお手軽な神憑り。だが、その危険性はお手軽から遥かに遠い。
徐々に慣れていく訓練を受けた自分達と違い、穂乃果はぶっつけ本番で行おうとしている。その悪影響はどれほどの物か知れたものではないのだ。海未としては大事な親友をそんな危険極まりない賭けに晒すなど、看過できるわけがなかった。
「西木野さん、何を言って……」
「わかった!ありがとう!やってみるよ!」
「穂乃果⁉︎」
相変わらずな天真爛漫な笑みと共に真姫に手を振り返す穂乃果の姿に、海未は思わず声を裏返させる。当の彼女はその危険性を全く認識していない。一から十まで説明したところで穂乃果では到底理解可能には思えないが、だからと言って見過ぎせるはずもなかった。
「やめてください!もしもそれを使ったら、貴女はもう普通の女の子じゃいられなくなるのですよ!」
だが、
「そうなんだ。じゃあ……」
親友の必死めいた制止を前にしても、穂乃果は軽やかな笑みを浮かべた。
「これで海未ちゃん達と一緒だね!」
今の穂乃果の表情はひどく穏やかだった。この少女が見せる一面としては珍しいものである。なおも力づくで穂乃果を止めようとしていたはずの海未は、自分でも意識しない内にその手を引っ込めていた。
「来て……」
少女は静かに黒い銃口を自身に突きつける。何も知らぬ者が見れば、自ら命を絶とうとする背徳的な行為。しかし、そうでありながら、その姿は穂乃果の澄み切った表情と合わせて、神に対して献身的に祈りを捧げる神聖な儀式に挑む修道者のように清らかで美しかった。
「お願い……もう1人の……私!」
覚悟を決めた穂乃果は、迷いなくトリガーを引いた。
「ペルソヌァァァァッ!!!!!」
穂乃果の魂からの叫びに呼応するかの如く、部屋全体が騒めき始めた。
<我はカリオペイア……>
穂乃果の体から湧き出た、溢れんばかりの輝かしい光を放つ粒子が辺り一帯を充満する。その潮流は生命の躍動のような力強さに溢れていた。この広間は決して狭いとは言えないにも関わらず、部屋の全てを包み込んでいくように激しく、静寂を打ち破る波紋のように広がっていく。
<我は汝……汝は我……>
光はやがて収束し、人の姿を形作る。その身に纏うは高貴なる白の装束。偉大なる太陽神に追随し、人々の抱える苦しみを癒さんと降誕した存在の名を冠するそれは穂乃果を守るかのように側に寄り添う。
<汝の友への想いが技芸の女神の長たる我を呼び起こしたのだ。さあ、奏でるがいい。心の海に封じられし黎明の旋律を。今こそ我らの力を見せつける時ぞ!>
今宵、新たな女神がここに誕生した。
〈魔術師・カリオペイア〉
音ノ木坂学院2年の高坂 穂乃果の専用ペルソナ。対応アルカナはMAGICIAN。白装束と赤いマフラーを纏う。原典のギリシャ神話で親子関係なためか、原作P3に登場したオルフェウスを彷彿させる見た目をしている。
火炎属性の攻撃魔法と物理攻撃に加え、回復と強化も可能と、非常にバリエーション豊かなスキルを所有する万能型。また、防御力は随一で非常にタフ。さらに運が最高レベルなために状態異常に強い耐性を持ち、攻撃がヒットすれば確実に痛恨の一撃(ゲーム的にはクリティカルヒット)を発生させる。ただし、本人の学力を反映しているためなのか、魔法攻撃力はあまり高くない模様。速度も平均レベル以下なため物理技の命中率にも難あり。弱点属性は疾風。
力・A
魔・C
耐・A
速・C
運・A
ギリシャ神話に登場する、ミューズの女神の一柱。カリオペイアはその中でもリーダー格として扱われており、他の姉妹達と比べても多くの伝承を残している。また、太陽神アポロンとの間に設けた息子に、冥界渡りの吟遊詩人として有名なオルフェウスがいる。