「珍しいな。ここに君みたいなお客人が来るなんて」
そこはオペラやオーケストラの演奏会場を思わせる巨大な劇場だった。全てが青一色に染まった劇場の舞台の中央にはテーブルが置かれており、そこには一人の男が客席側に顔を向けて座っていた。いや、正確には女だと判断するには些か低い声で男と判断していた。なんせ男の顔には靄がかかっており、その容貌を判断することはできない。
「生者と会うなんて、いったいいつ振りなんだろうか。ここは本来契約を果たした者のみが訪れることができるはずなんだが、どうやら君は何の因果か迷い込んで来てしまったみたいだね。しかし、それもまた一興」
来訪者は戸惑わずにいられなかった。何故ならこんなところへ来た記憶が無い。そもそも自分は音楽や演劇の類に関心を全く抱いていないのだ。だから来る理由さえ持たない。
にもかかわらず、来訪者はここにいる。
「ようこそベルベットルームへ。ここは夢と現実、精神と物質の間にある場所。って、小難しいことを言っても仕方ないかな。まあゆっくりしていってくれ」
目の前の男は自分の言いたいことだけを一気にまくしたてると、今度は手元に置かれたカードの山をシャッフルし始めた。
「うん。早速だけど、君の運命を占わせてくれないかな」
なんだいきなり。それよりここはどこなんだ?
そんな不満を目の前の男にぶつけようとしてようやく気付いた。
声が出せない⁉︎
「ふふふ、そう邪険にしないでくれ。俺も久々に今を生きる人間と話が出来て嬉しいんだ」
何も喋っていないはずなのに男はまるで全て聞こえているかのように振舞っている。そんなはずはない。さっきから声を発することが叶わないのだから。
いや、声だけではない。自分がどうなっているのか周囲を確認しようと試みたが、手も、足も、口も動かない。そもそも今の自分は呼吸をしているのか?
「ここは心の海と繋がる、人の思いが流れ着く場所なんだ。君の魂は肉体から離れ、この場所へと辿り着いた。ここでは言葉という形で口にする必要は無い。ただ想うだけでいい。たったそれだけで君の思いが俺の中に伝わってくるよ」
戸惑う来訪者を尻目に、男はテーブルの上に並んだカードを一枚一枚めくっていく。その度に男は眉根を寄せて低く唸る。最初に出てきたのは時計の絵柄のカード。その下には『FORTUNE』の文字。
このカードには覚えがあった。実物は所有せずとも、誰しもが一度は目にした記憶はあるだろう。いわゆるタロットカードだ。
「……ふむ、どうやら君は近い内に特別な出会いを経験するようだ」
そして続けて表になる、炎を掲げる男、杖を構える楚々とした女性祭司、ハートマークの下で見つめ合う一組の男女の絵柄がそれぞれ描き込まれた三枚のカード。
「それは物語の中心に立つ『魔術師』、そしてその両側で寄り添う『女教皇』と『恋愛』……か。ずいぶんと素敵な出会いみたいだね」
配置したタロットカードを全て表にした男はにこやかに笑っていた。
「さあ、今日はこれでお別れだ。また会える日を楽しみにしているよ」
視界が白く染まっていく。同時に男の声も徐々に遠くなっている気がした。
「起きなさい天宮君。朝ごはん出来たわよ」
「はい!」
少年の記念すべき日は部屋中に響き渡る程の発声から始まった。その勢いでベッドから跳ね起きる。
「またあの夢……」
大量の段ボールに囲まれたベッドの上で、天宮 静流はポツリと呟く。あの奇妙な青い劇場ではなかった。カーテンから漏れる日光の心地良さを感じながら、視線を声の聞こえた扉の方へと向ける。
「……い、いきなりどうしたの?まあ、いいけど」
突然の大声に扉の向こうにいる少女が面食らっているようだが、夢の話をしたところで仕方ないだろう。それよりも待たせるのは悪いとベッドから身体を起こした。
覚醒を迎えたばかりでイマイチ働かない頭をポンポンと叩きながら意識を現実へと戻していく。しばらくして視界がクリアになった静流はおぼつかない足取りで自室のドアを開く。
その先にはブレザーとスカート姿の少女が待っていた。
「おはようございます絵里さん」
「おはよう」
二人は軽く挨拶だけ済ませるとリビングへ向かった。テーブルには三人分のトーストとオニオンスープ、そしてコーヒーが並べられてある。
「すいません絵里さん。昨日はなんだか寝付けなくて」
「慣れない土地に来たんだもの。誰だって最初はそうでしょうね。私も日本に来たばかりの頃はそうだったからわかるわ」
合間にコーヒーを少しずつ口に含みながらポニーテールの少女、絵里は言った。
「だけど、今日から学校が始まるのだからいつまでも四の五の言ってられないわよ。今日だけは遅めの登校で済むけど、明日からは通常の時間で家を出てもらうわ」
「はい、以後気をつけます」
そこで会話は途切れる。黙々とスープを口に運び続ける二人。スプーンが食器を突く音と、テレビに映ったアナウンサーによる淡々としたニュースの読み上げのみがBGMとなる。
『今日未明、千代田区内の高校に通う17歳の少女が、秋葉原駅内にて意識不明の状態で発見されました。警視庁は今回の事件も、都内各所で発生している謎の連続昏倒騒動と関係していると見ており……』
「……これってやっぱり……」
ニュースの内容は、多くの人々にとっては恐ろしいという印象はあれど、あくまで日常を揺るがすレベルではない些細な事件にしか映らないだろう。しかし、この二人のテレビを見る目は、『他人事』に対するそれではなかった。
「でしょうね。確証は無いけど。理事長もおそらくそうだろうと仰ってたわ」
そう言うと絵里は残っていたコーヒーを最後まで一気に飲み干した。
「四月に入ってから急に増えてますよね。だとしたら今すぐにでも僕達がやるべきことは……」
絵里はその問いは答えず、静かに口元をティッシュで拭いた。
「この件に関しては、明日理事長が出張から帰り次第話があるそうよ。あの人も今回は手をこまねいて見てられないってことね。それまでは焦らずに待機して……」
ギィィ
二人の会話に挟まるようなタイミングで、ドアがゆっくりと開いた。
「お姉ちゃん、おは……あ……」
絵里を小さくしたかのような容姿を持つ少女がリビングに現れる。戸惑うもう一人の同居人の登場に対し、静流は自分なりの微笑みで返した。
「やあ、亜里沙ちゃん。おはよう」
「お、おはようございます……」
パジャマ姿の少女、絵里の妹である亜里沙は静流が声を掛けた瞬間ビクッと震えたようだった。亜里沙は伏せ目がちに歩きながら、自分の朝食が並ぶ席に座った。
「亜里沙、私は生徒会の仕事があるからもう出るからね。朝食はあなたの分も用意してあるわ。家を出る時は戸締りお願い」
「あ、はい。お姉ちゃん」
「じゃあ天宮君。また学校で」
身だしなみを整えた絵里は早々と家を出て行った。取り残された亜里沙と静流は再び手元のスープを消費し始める。
「……」
しばらくは二人とも無言で朝食を突いていたが、この空気に耐えらえなくなった静流は口を開いた。
「亜里沙ちゃんは偉いね。もしかして片付けや戸締りはいつも自分でやってるの?」
「は、はい……お姉ちゃんはいつも忙しいので迷惑を掛けるわけには……いかない……ですから……」
「なるほどね」
最後の方は殆ど消え入るようなか細い声だった。結局、その後の会話は続かない。
先に食べ終えた静流は制服に着替えて身だしなみを整える。リビングに戻ってきた時には亜里沙も食べ終え、片付けを始めていた。
「僕も手伝うよ。まだ時間に余裕はあるし」
静流としては、決してやましい思いがあるわけではなく、少しでも警戒心を緩めて欲しい一心で提案したのだが、当の亜里沙から受けたのはより過剰な拒絶だった。
「いえ!け、結構です!亜里沙一人で大丈夫ですから!天宮さんは先に学校に行ってて下さい!」
そそくさとスープの容器を抱えて炊事場へと小走りで駆けて行く。流石にここまで警戒されていると何か粗相でもしていたのかと本気で悩まざるをえなかった。
「……うーん、伝達力でも足りないのかな?絵里さんに相談した方が良いかな?」
東京都千代田区の秋葉原、神保町に挟まれたこの下町地域には、戦前から続く古い街並が残っている。東京という最新のビル群が並ぶ大都会のイメージはそこに無く、映画のセットの如く古めかしい一軒家が所狭しと続くその光景は良くも悪くも時代から取り残された下町の風情に溢れているのだ。
「お台場の人工島とはずいぶんと違うな」
合理性からかけ離れた町の造りは道の狭さと階段の多さとなって通学を些か不便なものにしている。つい最近までモノレールや水平式エスカレーターといった最新の設備がいくつも整っていた環境にいた静流にとっては苦痛なはずだ。
しかし、新鮮な風景と心地良い春風が与える癒しはそんな不満を掻き消している。
「穂乃果ちゃん!急がないと遅刻しちゃうよ!」
「ま、待って二人共!もう、もう息が……切れ切れで……走るのもう無理……」
静流と同じデザインの青いブレザーを身に纏った三人の少女が前方の階段を駆け上っている。
「まったく……新学期が始まって早々に寝坊するだなんて呆れて物が言えませんよ。ほら、しっかりしてください」
向かっている方向も同じ。間違いなく静流や絵里と同じ『音ノ木坂学院高校』の生徒だろう。転校初日ゆえに通常より遅い時間での登校となっている静流と違い、在校生達は定められた時間が迫っているはずだ。他にもチラホラと同じ制服に袖を通した少女達を見かけるが、皆一様に駆け足気味である。
「ありがとう海未ちゃ……へばぁっ!」
三人組の中で一番後方にいた少女が階段を踏み外して派手に転倒した。
「ほ、穂乃果ちゃん!?」
「ちょ……大丈夫ですか!?」
「はいほーふだよ〜」
「ちっとも大丈夫じゃないでしょう。どうぞ、肩に捕まってください」
少し心配になったが、ちゃんと意識はあるようだ。それに他の二人が駆け寄って世話を焼いている。静流の出番は無いだろう。
「そっとしておこう……」
三人を尻目に静流は絵里から聞いていた通学路をマイペースに歩む。
事前に教えられていたルートを辿って目的地に到着した静流は思わず感嘆した。学校前の規則的に並んだ道路と桜並木の組み合わせはどこを切り取っても美しい光景で、思わず写真に収めたくなってしまう程だ。
「来たわね」
そして、桜並木が続いた先にある階段の前には知っている顔がいた。先に家を出た同居人の絢瀬 絵里だ。
「すいません。なんだかお待たせしちゃったみたいで」
「気にする必要は無いわ。別に遅れたわけでもないし、転入生に校内を案内するのも生徒会長である私の仕事なんだもの」
二人は共に歩み始める。階段を登った先にあるのはこれから静流通うことになる校舎。
「これは……」
正直驚いた。
校庭、講堂などの設備を含めても、規模は前にいた学校に及ばないかもしれないが、日本有数の財団が経営する新設校と比べるのは酷だろう。比較対象が『平凡な公立女子校』という立ち位置なら逆にこの学校を上回る所がそうあるだろうか?
「どうかしら?まあ、確かに、あなたが前にいたところに比べれば小さいかもしれないけど」
「いえ、ただその……近々廃校になるかもしれないと聞いていたから……」
古びたオンボロ校舎を想像していた静流は、絵里の前ながらつい動揺してしまう。
むしろ、これだけ立派な校舎を備えていながら、生徒が全く集まらず廃校の危機が迫っているというのが不思議でならなかった。
「もっとうらぶれてて、見すぼらしいと思ってた?正直ね」
絵里は仕方ないと言わんばかりに肩を竦める。
「あいにく我が音ノ木坂学院は私が、いえ、私達が誇るとても素敵な学校なのよ。生徒会長である私が何一つ恥じる点なんて無いくらいにね!」
後ろ姿ゆえに表情は確認できないが、正面からは笑顔を見れるであろう程の弾んだ声だ。絵里を何事にも冷淡でクールな少女だと思い込んでいた静流は、彼女の知らない一面に目を丸くした。
「ここが今日からあなたの学び舎になります」
先を歩んでいた少女は桜の花びらが舞い散る中で、ポニーテールを揺らしながら振り向いた。
「ようこそ、国立音ノ木坂学院高校へ。生徒会長として、新しい学友となるあなたが有意義な学生生活を送れることを祈っています」
絵里はニコリと微笑みながら手を差し伸べてくる。握手を求められているのはわかるが、静流にはどうにも彼女の雪のように白い手を握り返すのが躊躇われた。
「……なんだか視線が痛いです」
「仕方ないわよ。だって我が校初の男子生徒なんだもの。まあ、いずれは彼女達も慣れるでしょ」
そこまで言われて静流はようやく絵里の手を取り、握手を行った。
一段と視線の量とそれに込められた感情が強くなった気がした。
「さあ職員室に行きましょうか。今からあなたが編入するクラスの担任の先生が待っていらっしゃるわ」
自分に向けられる感情は好奇心が大半だとは思うが、その中にはチラホラ異物に対する拒絶心が混じっているような気がしてならなかった。