* * *
こうして二人と顔を合わせるのは、六月の、あの日以来か。あれからまだ二か月ほどしか経っていないにもかかわらず、何年も前の出来事だったようにすら感じてしまう。
ただ、事が事なだけに、再会を素直に喜ぶことができずにいて。また、目の前の二人もわたしたちと心境はそう変わらないみたいで。けど、ここであっさりさよならというのもなんだか憚られてしまって。
どうすればいい。
何を話したらいい。
どうしたらいい。
何を言ったらいい。
次第に重苦しく居心地の悪い気まずさが生まれ始め、横殴りの雨でずぶ濡れになった服のようにまとわりつく。誰も声を発せないことも相まって、まるでわたしたち四人だけが世界から取り残されてしまったかのような感覚に襲われる。
「……あ、えっと……久しぶり、だね」
そんな中、たどたどしくも口を開いた人物がいた。
「……はい、お久しぶりです、結衣先輩。雪ノ下先輩も」
「ええ……本当に久しぶり」
結衣先輩が紡ぎ出した声をきっかけに、ようやく長い膠着状態が解けた。様子をうかがっていたせんぱいも表情を和らげ、流れに続く。
「……お前らも、来てたんだな」
「息抜きにちょうどよかったから……」
雪ノ下先輩が理由を告げると、結衣先輩が隣で小さく頷き顔を綻ばす。
「こんなふうに遊んだりするの、これからあんまできなくなるしね。……もしかしたら今日が最後になっちゃうかもだし。だからゆきのんのこと、誘ったんだ」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
頭ではわかっていても。わかっているからこその痛み。
「……そうだな」
「うん、そうだ」
恋人が返したのは淡白な同意だったが、結衣先輩は困りもせず即座に同調した。しかしわずかに落ちた眉と笑みを保ったままの口元は、複雑な胸中を確かに物語っていて。
でも、なんでかな。ちぐはぐで今にも壊れてしまいそうなその笑顔が、わたしの瞳には、あの時よりもずっと大人びて映った。
すると、今度はかすかな吐息が漏れる音が耳に届いた。
「あなたたちと再びこうして話すのは久々なせいか、なんだか不思議な気分にもなるわね。……いえ、正確には、あなたたちが二人揃っている状況で……かしら」
声の主である雪ノ下先輩は、わたしが視線を移すと同時にそっと空を仰ぐ。その穏やかな表情は結衣先輩と変わらず、今すぐに泡となって消えてしまいそうなくらい儚くて。
けど、やっぱり。雪ノ下先輩の佇まいも優しげな瞳も、あの時よりもずっと大人びているように思えて仕方ない。
「……しばらく見ない間に、お二人とも、髪……ちょっと伸びましたね」
「いろはちゃんもね」
「あなたもね」
別に嫌味でもなんでもなかったのになぁ……。
ただ、その意地悪な二つの重なった声が、わたしの胸の内に衝動を呼び起こす波となった。
「……じゃ、あたしたちはそろそろいこっか」
「そうね……」
なんでそんなことをと聞かれれば、安心したからかも知れない。
なんでそんなことをと自分に問えば、そうしたいからとしか言えない。
「それじゃあ、また……」
二人にとっては、酷でしかないというのに。
わたしにとっては最高でも、二人にとっては最悪だというのに。
「……じゃ、またね」
でも。
「あの、結衣先輩、雪ノ下先輩」
それでも。
本当のお別れとなってしまう前に、わたしははっきりとした声で。
「お二人も一緒に、花火、見てくれませんか?」
「……はい?」
「えっ……」
誰よりも自分勝手で、誰よりもわがままな提案を口にして。
「は? いろは、お前、いきなり何言って……」
ほんと、自分でも突拍子がなさすぎると思う。
「……え、えっと」
「一色さん、あなた……自分が今何を言っているのかわかっているの?」
「はい」
でも、これでいいんだ。
「結衣先輩がさっき言ってたじゃないですか。こんなふうに遊んだりするの、もしかしたら今日が最後になっちゃうかもーって」
だって、わたしは。
「だから、この四人で……一緒に花火、見ておきたいなーって」
好意のベクトルは当然違うけど、雪ノ下先輩も、結衣先輩も、やっぱり好きだから。
それに、なによりも。
「……諦めろお前ら。こいつがこうなった時は、何言っても絶対に聞かん」
去っていく二人の背中をこのまま見送ってしまったら、こんな最低な方法をとる以上に、また間違えてしまう気がしたから。
水平線の向こうに太陽が落ち、少し先に臨める東京湾が濃い藍色に満ちた頃。いくつもの屋台が連なっている道を、雪ノ下先輩と結衣先輩を加えた四人でのろのろ進んでいく。……四人というよりは一組と一組か。
前方に見えてきたメイン会場は、気温が上昇しかねないほど人々の熱気が渦巻いている。隙間なく敷き詰められたビニールシート、あちこちからひっきりなしに聞こえてくる宴会じみた声に、同年代らしき男子女子の騒ぐ声。他には子供のはしゃぐ声だったり泣き声だったり、大人同士がごたごた揉めている声だったり。
それだけ大勢の人々がこの特別感を待ち望んでいたのだろう。そう考えれば、これだけやかましくなってしまうのも仕方ない。
どこか達観したような心境で、けど、好奇心も忘れずに立ち並ぶ出店の一つ一つをほーほーと眺めながら歩いていると。
「……ね、ねぇいろはちゃん、あたしとゆきのんいて……ほんとに、いいの?」
未だ戸惑いに揺れる言葉が、遠慮がちな響きと共に後方から飛んできた。
「だめなら誘いませんし、そもそもあそこで引き止めたりしませんよー」
「そ、それはそうだけど……う、うーん……」
振り向きざまに平然と迷いなく返したわたしを見て、腑に落ちないといった表情を浮かべつつも結衣先輩が言葉をしまう。そりゃそうだ、わたしが結衣先輩の立場でも絶対そうなる。何が悲しくて失恋相手と恋敵のデートに同行しなきゃいけないんだ……みたいな感じで。
とはいえ、お互いにばったり会ってしまった以上、どうせお互いこれまでどおりの気分じゃいられない。だったら、一緒に行動しようがしまいが同じだ。嫌な記憶というものは、一度こびりついてしまったら消えない。……や、結衣先輩はどう思ってるかはわかんないけど。
「今に始まったことではないけれど、本当に突拍子もないわよね、あなたって……」
「やだなー、それがわたしじゃないですかー」
「……はぁ」
「おい、なんで俺を見る。こいつはもとからこんな感じじゃねぇか」
「確かにそうだけれど、以前よりもますますろくでもない開き直り方をするようになったところは比企谷くんが原因でしょう? あなた、一色さんにものすごく甘いもの」
「……それを言われるとぐうの音も出ねぇ」
会話を繋いだだけのつもりだったのだが、すぐ隣と斜め後ろでなぜかわたしのディスり合戦へと発展している。おかしい、こんなはずじゃ。
「ちょっとせんぱい。そこで終わっちゃったらわたしがますますろくでもなくなったみたいじゃないですかー」
「いやお前、自分でもそれがわたしだ的なことこの前誇らしげに言ってただろ……」
「……それを言われるとぐうの音も出ません」
「あ、あはは……」
ちょくちょくどやっていたことが時間差でブーメランとなって戻ってきた。うーん、これが敗北の味というやつか……さすがに涙の味はしなかったけど、ちょっぴり苦い味だなぁ……。
なんてやりとりや自分への茶化しを交えながらも、アンテナだけは張り巡らせたまま歩く。だが当然、落ち着いて花火を見れそうな場所はとっくに先客で埋まっていて。
しかもこちらは四人だ。四人が全員並んで座れる都合のいい場所なんて、いくら見回しても都合よく空いてくれているわけがない。
「やー、混んでるねぇ。もうちょっと空いてればシート敷けそうなんだけどなぁ」
「いや、これじゃ敷けても全員座れないだろ……っと」
おまけに、背後から押し寄せてくる人の洪水が足を止めることを許してくれない。さらには、始まる直前の駆け込みで正面からも別の足並みがこちらへと向かってくる。つまり、追い風と向かい風の両方が吹いているという超めんどくさい板挟みの状況だ。
けど、人も時間も待ってはくれない。身勝手な予定変更に伴うツケの清算は一旦後回し。
「あ、すいませーん通りまーす」
「…………」
「失礼しまーす、ごめんなさーい」
「……っ、どうしてああいう連中はきちんと前を向いて歩けないのかしら。迷惑極まりないわ」
不規則で不揃いな人の波をそれぞれ自分なりのやり方で捌き、かいくぐり、多くの人が忙しなく往来する激流地帯を切り抜けていく。……なんだかコースを逆走してる気分だ。考え事が迷走するのはしょっちゅうだけど。
「確かこの先って……」
人気を避けるに避けて進んでいると、困惑と驚きが混ざった結衣先輩の呟きが聞こえてきた。その声に周囲を確認すれば、密度の薄れていった理由はそういうことかと把握する。
「あー……有料エリアのほうまで流れちゃってましたか……」
広場全体が木々に囲まれているせいで、花火を座って眺めるにはちょっと厳しめな場所。そこからさらに奥の、小高くなっている丘の部分にはロープの張られている一角がある。警備体制も万全で明らかに一線を引かれた区画は、チケットを買わないと入ることはできない特等席だ。
広く開放的な空間とは対照的に、狭く閉鎖的な空間。がやがや騒がしいエリアと、穏やかで優雅なムードすら漂うエリア。二つのエリアはロープを境にして、まるでビルの上層と下層に分けられているように雰囲気が変わっている。
もしあそこで花火を楽しめたら、きっと素敵なんだろうなぁ……。
身の丈に合わない上座をちょこっとだけ羨みつつ、わたしはくりんと首を傾げながら隣へ声を投げかける。
「……穴場的なの、ここらへんに何かないですかね?」
「そこで丸投げするのかよ……」
「や、一応、手がなくもないわけじゃないんですけど……」
ある種の貴賓席ともいえる高みと後ろの二人へちらり目配せをした後、わたしははーっと落胆めいた息を吐いた。極上の悪そうな間違えたにこやかないい笑顔を脳裏に浮かべながら。
「……たぶん来てますし。ただ、今は余計めんどくさいことにしかならないと思うので、やめておこうかなと」
「……確かに」
絶対わたしたちをからかうだけじゃ済まないというか、間違いなく二人にガチの飛び火するというか。……さすがにこれ以上振り回すのは申し訳なさすぎる。あの人、わたし以上に超振り回すだろうし。
だが、迫りくる開始時間という枷のせいで代案をゆっくり考えている猶予はない。警備の人に勘違いされても困るし、一旦動くことにしよう。
「とりあえず、手前をぐるっと一周してみますか。もしかしたらワンチャンあるかもですし」
「そうだね。もうちょっと探してみよっか」
「端のほうとかまだぎりぎり空いてるかもな。見づらくはなるだろうけど」
結果のわかりきっている代案ではあったが、他に手が浮かばないのはみんな同じらしい。それぞれ仕方なさそうな様子で首肯した。
「ゆきのん……?」
――ただ一人を除いて。
結衣先輩が心配そうに声をかけたところで、雪ノ下先輩がはっと顔を上げた。
「あ……ごめんなさい。少し考え事をしていて……」
「ほんとに? ……無理、してない?」
「大丈夫よ」
顔を覗き込んで尋ねる結衣先輩に大げさねと言い添えつつ、雪ノ下先輩が微笑む。くすりとした声と共に細めた瞳には、特定の人にしか見せない優しい色が灯っていて。
けど、次にしっかりと瞼が開かれた時には、諦観と覚悟が滲んだ表情へと切り替わる。
「……この際仕方ないでしょう。なんとかできないか、姉さんに聞いてみるわ」
続けて発せられた提案に、わたしは驚きに目を見開いてしまう。
そうして不意に落とされた雫は波紋を呼び、伝播していく。
「ちょ、ちょっと待ってゆきのん……それは……」
「雪ノ下、お前……」
「平気よ、ちゃんと自分で考えて決めたことだもの。それに……」
懐疑や悲痛さを孕んだ二人の問いかけに一切の迷いなく返すと、雪ノ下先輩は含ませたように一旦声を区切った。
そして、蚊帳の外にいるわたしへそのまま瞳の先を移したかと思うと。
「……私にだって、わがままを言いたくなる時くらいあるわ」
らしくない言葉を気恥かしげに呟きながら、雪ノ下先輩はすぐに視線を外した。誰かに似ているようで、誰とも似ていない表情は、わたしが初めて見た色で。
「……何か?」
思わずぽかんと口を開けたまま見つめていたら、いつもの声調へ戻しつつ雪ノ下先輩が不服そうに訴えてきた。
「あ、いえ……ちょっと意外だったので」
「う、うん……あたしもびっくりしちゃった……」
「……そんなに、意外、だった、かしら」
抱いた印象を率直に伝えたわたしと結衣先輩のダブルパンチに、雪ノ下先輩がしょぼんと肩を落とす。二方向からはさすがに傷ついてしまったらしい。
「す、すいません、つい……」
「わー! ご、ごめん! ゆきのんってそういうこと全然言わなかったからさ!」
「……別に、いいけれど」
うん、嘘だ。絶対気にしてる。超根に持ってる。
「やれやれ……」
騒がしい空気の中で唯一口を閉ざしていた隣の恋人が、わたしの隣で呆れたように脱力した。けど、表情は嬉しそうに緩んでいて。自然、わたしの口元も釣られて綻ぶ。
同感です、と。
心の中で懐かしさと嬉しさを消化していると、ひたすら謝り続ける結衣先輩に折れたらしく、小さなため息の音が響いた。
と、そこで入れ替わるようにざざっとノイズの音。開幕前の事前アナウンスだ。
「もうあまり時間はないようね……では、いいかしら?」
ぶら下げていた巾着から携帯を取り出し、最終確認とばかりに尋ねてくる雪ノ下先輩。
瞳を何度動かしてみても、四人がまとめて座れるスペースはやっぱり見つからない。また、他の二人も同じ結論に辿り着いたようで、ためらいがちではあったが、静かに首を縦に振った。
だから、わたしも。
「……もしもし、姉さん?」
気乗りはしないけど、そうするしかなかった。
* * *
定刻どおりに花火大会は開幕を迎え、あちこちから拍手の嵐が巻き起こる。
わたしたちが今いる場所は打ち上げ場所の正面に位置していて、周辺の草木に遮られることなく花火を眺められるポイントとなっている。まさにVIP席というやつだ。
「まさかこんな面白い組み合わせになっているとはねー。お姉さん、びっくりしちゃった」
……つまり、まぁ、そういうことである。
本来なら入ることすら許されないそのエリアの境界は、雪ノ下陽乃という人物を介したおかげであっけなく飛び越えることができた。自分の友人と一言告げただけで確認の一つもなく警備を下がらせてしまったり、自席とは別の椅子が新しく用意されていたりと、陽乃さんは他よりも優待されていることがうかがえる。
市長や関係各所のスピーチや祝辞がだらだらと続く中、陽乃さんに促され、全員が用意されていた椅子に腰掛けた。
「でも、どういう風の吹き回し? 雪乃ちゃんがいまさらまたわたしに頼るなんてさ」
いろはちゃんならともかく、と付け足しつつ、陽乃さんは興味深そうな様子で左隣の雪ノ下先輩へ疑問を投げかけた。や、わたしならって。まぁ実際頼っちゃおっかなーって考えはしたけど。
「私も花火……見たくなったから」
それ以上深くは語らずに、雪ノ下先輩は頭上に広がる夜闇の海を仰ぐ。高々と上り浮かぶ月に照らされた横顔は、形のない、そこにある何かへ手を伸ばそうとしているみたいに思えて。
「……ふーん。ま、雪乃ちゃんがそうしたいんなら別にいいけど」
言外に仄めかしたものが伝わったらしく、関心を失ったように陽乃さんもふっと瞳を外す。かと思ったら、視線の行き先はそのままぐるりと右隣に座っているわたしのほうへ。
「それにどうせいろはすがまた何かやらかした結果なんだろうしね」
「その呼び方はやたらとムカついてくるのでやめてくれませんかね……」
「ありゃ、この呼び方気に入らなかったか。残念」
気に入らないというより、あれだ、全部戸部先輩が悪い。や、全然悪くはないんだけど。
「ていうか、なんでわたしがやらかした前提なんですか……おかしくありません?」
「お前の場合いつも何かしらやらかしてるから仕方ないな」
「いやいや、だから援護射撃の相手間違えてますって。せんぱいがわたしを背中から撃ってどうするんですか」
「むしろいつも背中から撃たれてるのは俺なんだよなぁ」
という具合に、すっかり当たり前となったやりとりを右隣に座っている恋人と続けていたら。
「……ほーんと、二人は相変わらず仲いいなぁ」
突然聞こえてきた蠱惑的な響きを持った声に、思わずびくりと肩が跳ねる。……いきなりさらっと黒い部分出してくるの、ほんとやめてくれないかなぁ。わたしだってまだ怖いんだから。
「……はるさん」
「ん? なぁに?」
「そういうことばっか言ってるからわたしにも疑われるんですよ」
肩をすくめつつ言うと陽乃さんはしばらく目をぱちくりとさせていたが、やがてこらえきれずにぷっと吹き出した。そしてわたしのおでこをちょんと軽く突っついた後、楽しげに笑う。
「いやーいろはちゃん、わたしにますます遠慮しなくなったねぇ」
そりゃ、まぁ、あれだけ散々いじられたり振り回されたりすれば嫌でも慣れるし。何度死にたくなったことか。
「え、えっと……仲いいんですね、いろはちゃんと」
左側最奥に座っている結衣先輩から、おそるおそるといった感じの声が飛んできた。
「そうだね。一緒にご飯食べたり相談に乗ったりするくらいには仲がいい、かな」
ね? と首を傾げ、にっこり笑顔で陽乃さんがわたしに同意を求めてくる。
実のところ、陽乃さんには感謝している。仲良くしてもらえているのもそうだし、誕生日の時のことも。ただ、それらの全てを口にするにはまだくすぐったくて。でも、そのくすぐったさは忘れてはいけないことで。
「……わたし的には不本意なんですけどねー」
「あ、ひどーい。そういうこと言っちゃうんだー」
だから、つい、減らず口を叩いてしまったけど。わたしが思っていることは、たぶん、ちゃんと伝わったと思う。だって、ほんのり赤く染まった頬を見た陽乃さんは、素直じゃないなぁと言いたげな顔をしていたから。
「……前から聞いてはいたけれど、本当に仲がいいのね、一色さんと」
「んー? 雪乃ちゃん、羨ましい?」
「いえ、別に……と、少し前の私なら言っていたかもしれないわね」
自嘲じみた笑いをくすり落とし、雪ノ下先輩が物悲しげな雰囲気を漂わせたまま声を連ねる。
「私と姉さんじゃ、もう、絶対こうはならないもの。……それがやっぱり、羨ましいわ」
かつて聞いた、優しくもどこか仄暗い言葉。いまさらになって、その意味がやっと理解できた気がした。たとえ、含まれていた一部でしかないとしても。
「……そうだね。わたしも雪乃ちゃんも、お互い振る舞い方を変えるには遅すぎるし」
いじけたような口調で呟いた陽乃さんだったが、普段の明るさからは想像もつかないくらい、声は弱々しくて。
共通項、というわけじゃないけど。
再びうっすらとだけ見えた雪ノ下陽乃の本質に、たまらずせんぱいのほうへ瞳を流す。
「……なんだよ」
「はるさんもせんぱいと同じで大概だなーと……わひゃっ!」
こしょこしょと耳打ちした直後、背中を指先でつつりとなぞられた感触。
文句を言おうと振り向けば、口角を歪めた陽乃さんがわたしをじっと見つめていた。視線の温度だけが凄まじく冷たいあたり、見事に地雷を踏み抜いてしまったようだ。しかも特大級の。
――だめだよ。
人差し指をぴとりとわたしの唇に当てながら、陽乃さんが口の動きだけで手短にそう呟く。
はい! わかりました! わたし今何も言ってません!
瞼を大きく開いたままこくこくと何度か頷きを返すと、くすりとした声を残し、陽乃さんが指を離していく。正面にはもう、いつもどおりの朗らかな笑顔があるだけだ。
……あー怖かった。久々にぞくりとしちゃった。
恐怖を感じつつも心に余裕があるのは、たぶん、わたしが雪ノ下陽乃という人間を多少知ったからだと思う。といっても、全体の一割にすら満たないくらいなんだろうけど。
わたしがほっと胸を撫で下ろしたところでちょうど偉い人の挨拶が終わり、ついに一発目の花火が打ち上がろうとしていた。
「あ、始まるね」
結衣先輩の声とほぼ同時に音楽が流れ始め、一拍の後、ひゅるるるると光の蕾が夜空に向かって昇っていく。そして息つく間もなく花は開き、辺り一帯を明るくさせる。
赤、黄、オレンジの光はポートタワーにも映り込み、降り注ぐカラフルな花びらが鏡のような壁面をイルミネーションのように彩っていく。
「ほわぁ……」
「……おお」
「……綺麗ね」
「わー……」
轟音と炸裂音が途切れることなく響く。光が明滅するたび、あちこちからも歓声が湧き起こる。
普段はすれ違うどころか交わることすらもなかった人たちが、今は全員がまったく同じ景色を眺めていて。
誰もが、誰しもが、鮮やかな光の移り変わりを楽しんでいる。
けど、今日が終わってしまえば、きっと。
誰もが、誰しもが、何事もなかったかのように日常へと戻っていくのだろう。
それはやっぱり、少しだけ寂しく感じることで。
「……うん。来てよかった」
ちょっぴりセンチメンタルな気分に陥っていたら、火薬の匂いと一緒にかすかな呟きを風が運んできた。意識していなければ聞こえないはずの声量は、不思議と、鳴り止まない歓声の中でも確かな輪郭を持っていて。
そう感じたのはわたしだけでなく、この場にいる全員が同じだったらしい。四人分の視線が一斉に一人へと集まる。
「……あ」
自分が注目を浴びていることに気づき、発信原である結衣先輩がたははと困ったように笑う。
「や、やー、なんか、こうやってみんなで何かするのが懐かしくてさ……つい」
ごめん、忘れて、と。
そう付け加え、まるで失言だったかのように取り繕う結衣先輩にわたしはかぶりを振る。
「……忘れちゃったら、二人を誘った意味がないじゃないですか」
転じて、今度はわたしに四人分の視線が注がれる。光輪がスポットライトのように千葉の一角を照らす中、わたしは、たった一つの答えを。
「わたし、雪ノ下先輩と結衣先輩も、やっぱり好きですから」
「一色さん、あなた……」
「いろはちゃん……」
遠まわしに語りかけるように、それでいて、まっすぐ一直線に伝えた。
すると、一人静かに花火を楽しんでいた陽乃さんがゆっくりと立ち上がる。たまらず引き止めようしたが、それはぱちりと片目を閉じた仕草に遮られてしまった。
「……姉さん?」
「ん? わたしのことは気にしなくていいよ。ちょっと残りのご挨拶に行ってくるだけだから」
何かあったら連絡ちょうだい、と言い残し、下駄の音を鳴らしながら陽乃さんは離れていく。心なしか機嫌のよさそうな背中にぺこりと会釈しつつ、わたしは胸の中だけでお礼を述べた。
「……お気をつけて」
陽乃さんの意図を察したのか、ぼそりと追うようにせんぱいが言葉を重ねた。
「き、気を遣ってくれたのかな……?」
「どうかしらね……昔から裏があったりしてわからない人だから……」
ぽっかりと一人分空いたスペースを漠然と見つめつつ、雪ノ下先輩が情感たっぷりにこぼす。ただ、その声はもう本人に届くことはなくて。
ちょうど花火の谷間に入ってしまったらしく、ふと周囲が暗くなる。あれだけ賑やかだった歓声もぴたりと止まり、静寂だけが空間を支配する。
やがて幕間めいた空白が終わり、再度花火が打ち上がった時。
「……けれど、今になって少しだけ……本当に少しだけ、姉さんのことがわかった気がするの」
花火の音や拍手の音、歓喜の声の中に小さな呟きが交じった。夜空からぱらぱらと落ちてくる光の粒に照らし出された横顔は、たくさんの感情を宿していて。
「それ、はるさんが聞いたら死ぬほど喜ぶと思いますよ、雪ノ下先輩」
「絶対に嫌」
うわー、強情だなぁ二人とも……わたしみたいに素直になったほうがいいと思うよ、うん。
以前の自分を棚に上げてやれやれと頷きつつ、そっと願う。
いつか、二人が――。
「まぁ、いんじゃねぇの、お互いゆっくりで」
わたしの密やかな願いを継ぐようにして、隣の恋人が呟くと。
「……そうね」
雪ノ下先輩はもう一度、煌びやかな光で埋め尽くされた頭上へ届くことのない言葉を贈った。
黒いスクリーンに映っていた残像と薄い煙は、ゆっくりと空の彼方へ流れていく。まるで霧が晴れていくかのように、跡形もなく、静かに消えていく。
「……やっぱり、難しいよね、そういうの」
プログラムの切り替わりに生じるその隙間を埋めるようにして、また別の声が届いた。
「言いたいこととか言わなきゃいけないことって、タイミング外すと、どうしてもさ……。言わなきゃ言わなきゃって思えば思うほど、ずるずる行っちゃうじゃん?」
ああ、それはすごくよくわかる。時間が経てば経つほど、切り出しづらくなってしまう。時間が経てば経つほど余計に口が重くなり、何かのきっかけでもない限りは、ずっともやもやした気持ちを抱えたままになってしまう。
「……あたしも、ずっとそうだったから。それで、気づいたら……こうなっちゃってた」
ときどき花火が照らし出したのは、諦めや失意といった感情が滲んだ微笑じゃなくて。
「でも、あんな後悔はもうしたくないんだ。だから……言うの。今、ちゃんと言っておくの」
自分に言い聞かせるようにして繰り返した後、不意に、結衣先輩が視線の行き先を変えた。確かな意思のある、前に進むための意志を灯した瞳がわたしを射抜く。
「……おめでとう、いろはちゃん。そのヘアピン……すっごく、似合ってる」
今、時間差で紡がれた祝福の言葉はとても眩しくて。
今、目の前にある心からの笑顔は、酷く綺麗で。
伝わってくる結衣先輩の本音は、相変わらず優しくて、温かくて。
そして、ちょっとどころか、めちゃくちゃくすぐったくて。
「いまさらそんなこと言うなんて……ずるいです……」
「前にも言ったじゃん。あたしだって、ずるいんだよって」
伝い落ちそうになる感情のかたまりをこらえるために、感情の奔流をせき止めるために、わたしはたまらず上を向く。
けど、次第に花火の光はぼやけていって。浴衣の袖口で何度拭っても、その滲みはちっとも視界から消えてくれなくて。代わりに、わたしの頭へ優しい温もりを持った手がぽんと置かれて。
「……っ、ありがとう、ございます……」
なんだか負けた気分だ。すごく、惨敗したみたいな気分だ。でも、通り過ぎていく涙の味や苦さの中には、確かな安心感や達成感もあって。
長い間つっかえていたわだかまりが、やっと全て、解けた。
そんな感覚に身を委ねつつ空へ瞳を固定させている間に、花火大会は粛々と進んでいく。
やがてフィナーレを飾る金色の雨が祝福するように降り注ぎ、盛大な拍手が贈られる中。ふと思い立ったわたしはそっと席を立つ。
そして――。
「……っ、ちょ、ちょっと」
「ひゃっ! ……な、なに?」
「結衣先輩も。雪……乃、先輩も」
非日常らしく、ちょっぴり特殊なスパイスを加えながら。
突然の愛情表現に慌てる二人を、後ろから強く、ぎゅっと抱き締めながら。
「お二人とも、受験、頑張ってくださいね」
もしかしたら、また、今日みたいな出来事が訪れるかもしれない。別離ではなく、今までと違う形で、再び交差するのかもしれない。
学校か、あるいは、別の場所か。それは、わたしにも、誰にもわからない。わかるとしたら、こんな気まぐれを起こした神様くらいだろう。
でも、わたしはやっぱり、雪ノ下先輩と結衣先輩が好きだから。
すれ違って、絡まり合って、引っかかって、つまずいて。
その結果として、二人と二人に別れてしまったけど。
もし、このまま本当のさよならを迎えてしまったら。これから先、すれ違うことも、絡まることも、引っかかることも、つまずくこともなくなってしまう。
やっぱりそれが、わたしにはどうしても嫌で。
前みたいに。もしくは、いつまでも。
そんな願いは結局どこまでいっても、わたしのバカげた綺麗事で、理想論で、絵空事で、夢物語でしかない。どれだけ突き詰めても、実現するには程遠い、自分勝手さを詰め込んだものでしかない。
文字にしても、記録にしても。また、この瞬間においてもそれは同じで。
「……うん、ありがと」
「……ありがとう」
でも。
「だから……」
それでも。
ちゃんと、伝わると信じて。
わざわざ言葉にしなくても、けど、こういう時こそ言葉にして。
――また、そのうち。
明けましておめでとうございます。
いやー、年内完結どころか年明けちゃいましたね。
遅筆にもほどがあるというか、本当に申し訳ないです。
という具合に引き続きぐだぐだガバガバな私ですが、お付き合いくださる方、本年も何卒宜しくお願い申し上げます。
挨拶はこれくらいにしまして、冬コミの話も少しだけ。
結果だけ言わせて頂きますと、無事完売でした。夏に引き続きびっくりです。
参加できなかったことは悔やまれましたが、サークルとしてはいい結果で年越しを迎えることができて感謝です。
そして、実際手に取って頂いた方、本当にありがとうございます。
以下、宣伝失礼致します。
夏に出させて頂いた「俺ガイルSSつ・め・あ・わ・せ」はとらのあな様にて委託を行っております。この場所にURLを張るのは憚られるので、会場で買えなかった方や来られなかった方、興味がある方や私の固定ツイートからぜひぜひ。
それ以外のツイートは大体頭のネジ飛んでるので、気にしないでくださいまし。
ではでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!