斯くして、一色いろはの日常は巡りゆく。   作:あきさん

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前回の後日談的な。


斯くして二人の夜は更けゆく。

  *  *  *

 

 もうすっかり通い妻だー、なんて胸の内でにやにやしつつ、わたしは今日もせんぱいのおうちで自習に励む。

 日頃からこつこつと積み重ねてきた成果だろうか。わからないことを聞く回数も、答えに詰まったせいで手が止まる時間の長さも、はっきりと自覚できるくらいには減ってきていて。

 進歩が目に見える形で表れるというのは、やっぱり嬉しい。

 ふと感じた自身の成長を喜びながら、黙々とペンを動かしていく。すると、あっという間に今日やる分の予習も昨日の復習も全て片付いた。

「あはっ、せんぱい、わたしの勝ちでーす!」

 一足先に勉強用のノートを閉じたのを見て、隣で数学の参考書と格闘していた恋人がぎょっと目を剥く。

「え、なに、もう終わったの? マジで?」

「ふっふーん」

 どやっと自信満々にピースするわたしとは対照的に、せんぱいは力なく首を前に垂らした。

 勉強という行為自体には、勝ち負けの要素なんてない。でも、今回はちょっと違ったりする。なぜなら、『どっちが先に予定していた自習範囲を終わらせられるか』、というルールを急遽わたしがブッ込んだせいだ。……まぁ、勝ったからといって特に何かあるわけじゃないんだけど。

「……まぁ、負けたからといって特に何かあるわけでもねぇし別にいいんだけどよ」

 直後、わたしの心の中とせんぱいの言葉がシンクロした。……なるほど、これが以心伝心。言葉どおり通じ合ってるというか繋がってるというか、そんな感じがしてなんか素敵! ちゃんと意味合ってるかわかんないけど!

「むふふー」

「なんだよ……」

「いーえ、なんでもっ!」

 このまま全力の甘えモードに突入したいところではあるが、せんぱいの勉強が終わるまでは我慢しなきゃ。……うん、これ以上は我慢しよう。ほら、我慢した後のご褒美って格別だし。それにわたしショートケーキの苺は最後までとっておく派だし。……や、前までは逆だったけど。とりあえず速攻で手をつけてたけど。

 なんてよくわからない言い訳をだらだら述べつつ、未だにつなぎたがろうとする手やうずうずと密着したがる身体を無理やり抑えた。

 そうして、手頃な読み物でも借りて時間をつぶそうと立ち上がった時――。

「……あっ」

「どした……え、マジでなんなの……」

 その場で突然ぽけっと棒立ちになったかと思えば、一歩も動かないまま、同じ位置にぺたんと座り直したわたし。傍から見なくても完全に奇行だ。でも今はそんなこと気にしてる場合じゃない!

 わたしはきらきらきらっと擬音がつきそうなくらい表情を明るくさせた後、ぱっと横を向く。

「そういえば、もうすぐ花火大会ですねっ!」

 最近までどたばたしっぱなしで、すっかり頭から抜け落ちていた。あれだけ楽しみにしていたというのに。とはいえ、こうやって誘うことができたし結果オーライだ。雑すぎる上にわざとらしさと回りくどさ全開だけど。

「……ん、そうだな」

 あ、これ、行けたら行くと同じ感じだ。一緒に行く相手がわたしなのは全然いいけど、人混みがめんどくさいから相槌だけ打って済ませて流そうとしてるパターンだ。

 普通の人ならここで誘うのを諦めたり会話自体を終わらせたりするんだろう。しかし、今現在せんぱいの目の前にいるのは彼女のわたしである。

「……そういえば、もうすぐ花火大会ですね!」

 わたしはきらきらきらっと擬音がつきそうなくらい華やいだ表情のまま、せんぱいの顔をひたすらじーっと見つめ続けた。……つまり、ただのごり押しなわけなんだけど。でも毎回毎回ばっちり効いちゃうんだよなー、これが。

「……ん、そうだな」

 むっ、今日のせんぱいはやけに粘るなー。よし、ならここは……。

「そ・う・い・え・ば!」

「うおっ」

「もうすぐっ! 花火大会っ! ですねっ!」

 花火ですよ? 夏の一大イベントですよ? もちろん行きますよね? 行かないとか意味わかんないですよね? そう訴えるように腕ごと身体をがっくんがっくん揺さぶり続けていると、せんぱいは軽く開いた手をわたしに向けてふらふらとさせ始めた。顔の旗色や挙動から察するにどうやらギブアップらしい。

「わ、わかったからやめろ。行くから、ちゃんと行くから……」

 うーん、いい加減敗北を知りたい……。

「はぁ……ったく。毎回毎回強引すぎんだよ、お前……」

「それがわたしですから!」

「にしてももうちょっと言い方とかやり方とか他にあんだろ」

 悪びれる様子もなく腰に手を当てどやっと胸を張ったわたしに、せんぱいは呆れと諦観を詰め込めるだけ詰め込んだようなため息を吐く。うんうん、いつものいつもの。

 ……さてと。

 やることやったし約束もちゃんと取り付けたし、ちょっとだけどかまってもらえたし、今度こそおとなしくしてよーっと。で、せんぱいの勉強が終わった後にわたしいい子にしてましたアピールして、たっぷりご褒美をもらっちゃおーっと!

 内心で企みつつ、組んだ腕の上にほっぺたを乗せてテーブルに突っ伏した。そのまま恋人の横顔を眺めながら、わたしはむふーと満足げな息を漏らす。

 我慢することはあっても、自分に嘘をつくことだけはしなくなった結果。

 作り物なんかじゃない、心からの素直な表情を浮かべられるようになって。

 逃避という不純物のない心どおりの気持ちを、遠慮なく言葉で伝えられるようになって。

 そして、ありのままのわたし自身を。

 せんぱいになら、こうやって、いつだって――。

 

 しばらくすると、愛情たっぷりの視線に気づいたせんぱいが居心地悪そうに眉をひそめる。

「なんでそんなガン見してんの……やりづれぇから」

「いいじゃないですか。大好きな人の顔くらい見てたって」

「……余計やりづれぇ」

 それっきり、二人っきりの部屋の中に言葉はなく。

 代わりに、ぎこちなく動いては止まりを繰り返すペンを走らせる音と。

 わたしが上機嫌にハミングする声だけが響いていた。

 

  *  *  *

 

 際限なく汗が滲む昼の暑さも、茜色が混ざる頃にはだいぶ和らいでくる。生温かった風も、夕方という時間帯のおかげで今は少し心地よい。

 地平線の遥か向こうから延びる夕陽の光が建物や道行く人々に影を落とし、様々なシルエットを街のあちこちに作り出している。そんな風景の中を、新しく増えた二つの影が千葉の一角を進んでいく。

「久しぶりですね、こうやって帰り道を一緒に歩くの」

「いや、俺の帰り道はあっちだから」

 ちらりと後ろを振り返り、通ってきたばかりの道をせんぱいが視線で示す。

「もー、そういうのはいいですって。ほら、雰囲気大事ですよ、雰囲気」

「俺にそういうの期待すんな」

「まぁせんぱいの場合、雰囲気作るより壊すほうが得意ですもんねー」

「うるせぇ、ほっとけ」

「わひゃっ」

 楽しさのあまりついつい軽口を叩いたら、わしゃわしゃっと雑に頭を撫でくり回された。

「……せんぱいに傷物にされたぁ」

「相変わらず説得力皆無だな……」

 ひっそりとした住宅街に二種類の声色と足音を溶かしながら、わたしとせんぱいは駅までの距離を縮めていく。……そういえば、今と似たような雰囲気だった時が前にもあったっけ。確か進路で悩んでた時期くらいに。

 無性に懐かしくなったわたしは、いつもより少しだけ遠回りしたい気分になった。とんとんと弾んだ歩調のまま、立ち寄るのにちょうどよさげな場所は何かないかなーと辺りを見回してみる。すると、帰路から外れた道の先に公園らしき平地があることに気づく。

「せーんぱいっ」

 恋人の肩を指でちょいちょい叩いて目配せすると。

「ん……ああ、あそこ行きたいのか」

「たまにくらいこういう日があってもいいかなーと思いまして」

「……そうだな。うし、行くか」

 あれ、珍しく乗り気だ……。もしかしたら明日雪が降るかもしれない。まだ夏なのに。

 らしくない返答にほへーと感嘆めいた声をあげると、不慣れな肯定が恥ずかしくなったのか、せんぱいの視線が慌てて空へと逃げる。

「……たまにはこんな日があってもいいと俺も思っただけだ」

「ふふっ、そういうことにしておいてあげます」

 

 すぐ近くの自販機へ飲み物を買いに行ったせんぱいを待つ間、デートのやり直しで中央公園を訪れた時のことを思い返す。

 見上げれば、夕映えの空を流れていく雲がある。あれから大した時間も経っていないはずなのにまるで違う風景のようにすら感じるのは、前よりわたしが大人になっている証拠なのかな。

 そんな感慨に浸りながら、脚をぱたぱたさせて暇をつぶしていると。

「ほれ」

「あ、おかえりなさい、せんぱい」

「おう。……これでよかったか?」

「もちですよ」

 ごちそうさまですと言い添えつつ、二つある飲み物のうちの一つを受け取る。それはもちろん、わたしの永久トレンドになったマッ缶だ。

「……お前もすっかりハマってんな」

「くせになりますよね、この甘さ。これがない人生なんて死にたくなるー……みたいなっ」

「だから人のセリフ取るんじゃねえっつの」

 手元にあるまったく同じ種類の缶を見合せ、お互い楽しげな笑いを漏らす。

「しっかしまぁ……人間どうなるかわからんもんだな、マジで」

「わたしと付き合ってることとか、ですか?」

「それもあるけど、他にもいろいろ……だな」

「……まぁ、いろいろありましたしね」

 付き合い始める前も、付き合い始めた後も、本当にいろいろ。

 でも、その一つ一つが繋がっているからこそ、わたしはここにいるんだ。紆余曲折の末にやっと実を結んでくれたからこそ、わたしは今、幸せのど真ん中を生きていられるんだ。

 だから――。

「……だからこそ、やっぱりわたしはせんぱいと出会えて……こうやって付き合うことができて、ほんとによかったなーって」

 缶を傾けるのを止め、恋人がこちらを横目で見やる。

 こんな些細な会話や他愛ないやりとりも、いつかは記憶の隅へ追いやられていってしまうけど。いつまでも、なんて絵空事は胸に抱いたまま、わたしもありふれた大人になってしまうのかもしれないけど。

 でも、それでも。

 わたしはずっと、この人のそばを歩いていきたい。この人の隣で、限りのある大切な時間を過ごしていきたい。あの時はこの時はと振り返るたび、せんぱいの顔や仕草が、温かさと優しさが、いつだってそこにあるから。

「……ありがとよ」

 どっちから、じゃなくて。驚くほど自然に、初めからそうだったみたいに。

 お互いが、お互いの指先にそっと近づいて、触れて。

 次第に絡まって、繋がって。最後には、ぎゅっと固く結ばれて。

 小さくもつれることはあっても、きっともうほどけたりはしない。もしまたほつれかけたなら、ちぎれて離れてしまう前により強く結び直せばいい。そうやって、二人で結び目を一つ、また一つと大きくしていけばいい。

 わたしとせんぱいなら、そうすれば、大丈夫――。

「なぁ、いろは」

 大好きな温もりの感触にもぞもぞ指を動かしていると、恋人が不意にわたしを呼んだ。

「んー?」

「前は不思議でしょうがなかったのに、お前とこんなふうに過ごすのが……今じゃすっかり当たり前になっちまったな」

 狭めた瞼の奥は少し遠くを、けど、虚飾のない黒い瞳はすぐ近くのわたしを。二つの感情を灯しながら、せんぱいはふっと微笑む。

「……まぁ、当たり前のように人を平気で振り回すところは前から変わんねぇけど」

 続けて吐き出されたのは、他の人からすればただの皮肉でしかない言葉だった。

 でも、わたしにとっては違う。当てつけでしかない皮肉も、最大級の褒め言葉へと逆転する。

「だって、それでこそわたしですから!」

「……違いねぇな」

 目を閉じ軽くふんぞり返って誇らしげに笑うと、しょうがないやつだと言いたげな様子でせんぱいが肩をすくめた。

 変わった当たり前、変わらない当たり前。

 その二つの当たり前が、ずっとなくならないように。

 わたしがわたしでいられる最後まで、この幸せが夢から醒めないように。

「ねぇ、せんぱい」

「ん?」

「強引でむちゃくちゃなわたしを、これからも、末永くよろしくです」

 せんぱいが向き直った隙を狙い、わたしはちょっぴり腰を浮かせる。

 そうして、顔と顔の距離をさらに近づけたわたしは。

 かすかな接触音と同時に、抑えきれない愛情を込めた唇の花を咲かせた。

 

  *  *  *

 

 ベンチで二人寄り添いながら、わたしはこの小さな小さな空間を楽しむ。

 わたしがおねだりするように声を出せば、せんぱいはやれやれと呆れた顔をする。おしゃべりの合間にちびちびと飲み進めたコーヒー飲料は、もともとの味よりやっぱり甘ったるく感じて。

 けど、限りがある以上いずれその甘さも尽きてしまう。楽しい時間も心地よい雰囲気も、中身がなくなりつつある缶と共に。

 どんどん藍色が濃くなり始めた空を一度仰いだ後、せんぱいが一気に缶を呷った。

「暗くなってきたし、そろそろ帰るぞ」

「……そうですね」

 切なげなため息を吐きつつも、立ち上がったせんぱいに続く。帰りたくないなぁと缶を振ってみたものの、耳に聞こえたのは周りの環境音ばかり。

 仕方なく、しぶしぶゴミ箱へ空き缶を捨てると、からんと虚しい音が響いた。

 独りぼっちになってしまう帰り道は、毎回寂しくなる。明日になればまた会える、また甘えられるとわかってはいても、寂しいものは寂しい。だから、わたしという人間は本当にめんどくさい。

「……今日は家まで送っていくわ」

 しゅーんと落ち込むわたしを見かねてか、ぽりぽりと唇を掻きながらせんぱいが呟いた。そこはさっきまでわたしの唇がくっついていたところで。

「えへへ……今日のせんぱい、なんかすごく優しいです……」

「……たまにはな、たまには」

 自分を納得させるようにぶつくさ同じ言葉繰り返す恋人に、たまらず笑みが湧き出した。まったく、ほんと心配性なんだからー!

 センチメンタルなわたしはどこへやら。気づけば、せんぱいの腕にすりすりとほっぺたをこすりつけている自分がいた。やん、わたしったらほんとめんどくさ~い!

「こいつ……せっかく人が……」

 ご機嫌るんるんなわたしの横で、やらかしたとばかりに額を押さえるせんぱいがいた。ふっふーん、もっともっと甘やかしてくれてもいいんですよ?

「それじゃあ、行きましょーっ!」

「……へいへい」

 しんみりとした空気からいつもと変わらない調子へ戻ったわたしたちは、小さな公園を出て今度こそ駅前のロータリーを目指す。やがて視界の前方に改札が見えてきた時、わたしはほんのちょっとだけ歩く速度を落とした。

「いつもならここで……なんですけど、今日は違うんですよねー?」

「……おう」

 念のため確認してみると、どうやら本当に家まで送ってくれるらしい。絶対明日は雪だ。しかも大雪になる可能性まで出てきた。

 先延ばしにしただけでも、一緒にいる時間が増えたこと自体はどうしようもなく嬉しくて。二人一緒の帰り道は久々で、どこかノスタルジックで。

 改札を抜けてホームへと続く階段を下りていく途中、わたしは吐息交じりに口を開く。

「知ってると思いますけど、前にここで泣きそうになっちゃったんですよね、わたし」

「……そういや、そんなことも書いてあったな」

「あはっ、恥ずかしいです」

「ならなんで言ったんだよ……」

「懐かしくて……ですかね」

「……まぁ、わからんでもないが」

 こうして見ている景色も、辿っている記憶が同じでも。言葉は、形は、意味は、当時とは比べ物にならないくらいに違う。

 だとしたら、やっぱり――。

 

「……あ」

 電車が到着する旨のアナウンスが、わたしの意識を追想と予想から現実へ引き戻す。思わず名残惜しむような声を漏らすと、せんぱいが困った顔でがしがしと頭を掻く。

「んな残念そうにせんでも……お前、明日もこっち来るんだろうし」

「……や、そうじゃなくて」

 ううんとかぶりと振るわたしに、違うのかとせんぱいが返した時。ちょうどやってきた電車のライトが、わたしとせんぱいを一瞬だけ強く照らした。たとえ刹那の明かりだとしても、それはとても眩しくて、酷く綺麗で。

 あのお話だと、確か、夜中の十二時になった瞬間魔法が……みたいな内容だったっけ。けど、わたしたちは都合のいい魔法によって作られた関係じゃないから――。

「せんぱいと一緒なら、なんてことない帰り道もやっぱりこんな素敵に映るんだなーって」

 すっかり捻くれてしまった自分と、わたしを捻くれさせた張本人。

 その両方へくすりとした微笑みを向けながら、わたしは一人、そんなことを思った。

 

  *  *  *

 

 総武線に揺られること約十分、千葉駅到着のアナウンスが流れる。

 この電車を降りてモノレールに乗り換えれば、自宅の最寄り駅に着いてしまう。そこから少し歩けば、やがてわたしの家が見えてきてしまう。また明日を言わなければいけなくなってしまう。

「……着いちゃいましたね」

「帰りたくないみたいな言い回しすんなよ……」

「だって帰りたくないですもん」

 こういう時、一緒に住んでたらなー……。

 ぷーっと口先をとがらせていると、不意に、せんぱいが駅内の吊り時計をちらり見た。帰りの電車の確認かな……? でもせんぱいが乗る電車って反対だし……。

「……なぁ、お前時間まだ平気か?」

「ふぇ……?」

 困惑しているわたしの横から、やっぱりらしくない問いかけが飛んできた。

「俺も寄りたいところができた。……だから、いいか」

「あ、は、はい……わたしは大丈夫ですけど……」

 普段のわたしならあからさまに、やったー! 一緒にいれる時間が伸びたー! とほくほく笑顔になっていたところではあるが、別の部分が気になって仕方ない。

 書店にでも行きたいのかな……? しきりに首を傾げつつ促されるままに隣を歩いていくと、東口のほうから外へ抜けていくらしいことがわかった。

「何か新刊、出てましたっけ?」

「ああいや、今日はそっちに行くわけじゃないんだ」

 もしかしたらと尋ねてみたけど、やっぱり違うみたい。……今日のせんぱい、ほんと、一体どうしたんだろう。

「じゃあ寄りたいところって……?」

「もう着く」

「え、ええっと……」

 しかし返ってきたのは、噛み合っていない上に情報が足りなすぎる返答だった。

 千葉駅周辺は、行き交う人々の賑わいどおりあちこちに店がある。わたしが買い物やご飯に来た時も、あまりの多さにどこへ行こうか毎回悩むくらい。そのため、ショッピングやらグルメやらの脳内サーチをかけるだけ無駄なのはわかりきっていたからこそ聞いたわけで……。

「もー……相手がわたしだから全然オッケーですけど、何も言わずに女の子を連れ回すのはよくないですよー?」

「……買いたいものがあんだよ」

 むーっと食い下がるわたしに、せんぱいはさっきより少しだけ具体的な返答をした。ほう、買いたいもの……となると、一緒に夜ご飯という線は消えたなぁ。それはそれでちょっと残念。

 左手の指先を唇に添えながら候補を絞っていると、検索結果が出るより先に着いてしまったらしい。本当にすぐだった。

 目先には、どーんと構えるようにそびえ立つ大きな建物がある。それは、わたしもよく知る千葉そごう店だ。

「なるほど……」

「なんだよその妙に腹立つ顔……」

 面白さ半分意外さ半分といった表情でほーんと頷いたわたしが大層ご不満らしく、隣の恋人が眉間をぴくりと動かす。

「せんぱいもこういうところ、来るんだなーって」

「うるせぇ……ほれ、早く行くぞ」

「あっ、ちょっと、だから引っ張らないでくださいよー」

「だからどの口が言うんだっつの……」

 ほんのりと頬を赤らめたせんぱいは照れを誤魔化すように、にやけ顔が収まらないわたしは半ば引きずられる形で正面口から建物の中へと入っていく。一階は主に女の子をターゲットにしたフロアになっているので、向かうは当然左手にあるエレベーター。

「で、お客様……な、何階へ行かれますかー?」

 ぷっくすくすと笑いを隠さないわたしにじとりとした視線を送りながら、せんぱいは口元を波打たせつつも無言で8Fのボタンを押した。 

 そこは確かロフトがメインのはず。……文房具を買うにしてはちょっと高すぎる気がする。でもせんぱい、雑貨やインテリアとか買うキャラじゃないしなー……小町ちゃんと一緒に来たならともかく。

 なんてことを考えているうちに、ぴんぽーんと音が鳴った。

「……あー、悪いけどここで待っててくれるか」

 エレベーターを降りてすぐ、つないでいた手を離して恋人がそんなことを言う。それがなんだかここで置いてけぼりにされる気がして、途端に胸がずきずきと痛み出す。

「え、わたしも……」

「いや、お前に見られてると……その、ちょっと」

「……置いてかないですよね?」

「何言ってんだお前……」

 不安げに瞳を揺らすわたしの頭に、せんぱいがぽんと手を置く。何度か忙しなく移した視線を戻すと、恋人はためらいがちに声を紡いだ。

「……お前に渡すもんなんだから、当たり前だろ」

「へ……?」

「すぐ戻る」

 言葉の意味を問う前に、せんぱいは店内のスペースへ向かってしまった。とっさにあっと伸ばした指先は空を切ったまま、そこで止まったまま。

 わたしに渡すものって、一体なんだろう……?

 疑問を反芻しながら手を引っ込めたわたしは、小さく息を吐きつつ壁に寄りかかった。そうして伸びたり屈んだりする恋人の姿をひたすら追いかける。

 

 ……あ、なんか店員さんに話しかけられた。

 もー、そこできょどっちゃだめですってばー。

 うわ、すっごいわたわたし始めた。やばっ、これわたし行ったほうがいいかも。

 ……お、こっち見た。なんか必死で説明してるっぽい。

 一応、手、振っといてあげよーっと。せんぱーい……みたいなっ。

 あはっ、今度は必死に店員さんが頭ぺこぺこさせてる。うんうん、よかったよかった。

 

 ときどき通りすがっていく人たちが、ころころ表情を変えるわたしへ興味深そうな眼差しを一方的に送りつけてくる。

 けど、それらが一切気にならないくらい、わたしは恋人の一挙一動に夢中になっていた。

 そして、同時に思う。

 こんなに一途だったんだなぁ、ほんとのわたしは……って。

 

「……マジでえらい目にあった」

 戻ってくるなり、はーっと盛大にため息を吐くせんぱい。

「わたしをほったらかしにするからですよ」

「悪かったよ……だから、ほれ」

 慣れないことはするもんじゃねぇなと言い足しつつ、せんぱいは黄色の手提げ袋をずいと差し出してきた。

「……開けても?」

「ん、まぁ」

 許可も得られたので袋の中を覗いてみると、この間せんぱいに贈ったばかりのノートとまったく同じデザインをしたノートが何冊も入っていた。

「……これって」

「まぁ……アレだ。こういうことに付き合うのもなんだかんだ悪くないっつーか……」

 ぱちぱちとまばたきばかりを繰り返すわたしの前で、歯切れの悪い言葉が繋がれていく。

「……要は、その……お前、……いや」

 どこにでもある、よくあるノートが。

 けど、わたしのための。わたしのためだけのノートが。

「……いろはのことを、俺はもっと知りたくなった。もっと理解したくなった」

 わたしの勝手な願いを象徴した、バカげた自己満足の日記が。

 保証なんてどこにもない、自分勝手を綴った夢物語が。

「だから……」

 平凡な日常や、わがままな幸せばかりを記録した宝物へと変わって。

 八月八日という特別な日を境に、わたしにしか渡せない特別な贈り物となって。

「……書いたらまた、読ませてくれ」

 今、目の前で。

 わたしの、大好きな人の手で。

 二人で共有する、二人だけの宝物へと生まれ変わって。

 そして、置いてけぼりだった理解がようやく追いついた瞬間。

「ちょっ……」

 ――わたしの瞳から頬へ、温かい滴がつつりと垂れた。

「ばかっ……ばかっ、ずるい、ばかっ、ばかばかばか……っ」

 思考が止まっていたことでせき止められていた感情の奔流が、わたしの左右の瞳からとめどなくこぼれ落ちていく。拙い言葉の雨が、勝手に口から抜け出ていく。

「んな泣くなよ……」

「せ、せんぱいの……ばかっ、ばか……っ、……ばか、ばかっ……ばかっ……」

「はいはい……ったく」

「……ばかっ、ばか……ばか……っ」

 

 その日、わたしは年甲斐もなく泣きじゃくった。人目も気にせず泣きじゃくり続けた。帰りたくない、離れたくないって。一緒にいたいって、そばにいてほしいって。

 顔をぐしゃぐしゃにしながら子供じみたことばかり言うのがやっとのわたしを、せんぱいは嫌な顔一つせずずっと撫で続けてくれた。抱きしめたままでいてくれた。

 でも、今は我慢するしかないから。いつか、毎日一緒に暮らせるようになる日までは。

 だから、声にならない声で。

 

 ――また、明日、です。

 別れ際に、そう告げることしかできなくて。

 

 涙で服もメイクもぐしゃぐしゃに崩れたまま家に帰ったわたしは、その日、久々にお母さんの胸で泣いた。みっともないくらいお母さんのエプロンをしわくちゃにして、わんわん子供みたいに大泣きした。

 それでも、お母さんは何も言わずにわたしの頭をずっと撫で続けてくれて。よしよしと子供をあやすように、わたしが泣きやむまで背中をぽんぽんと叩いたままでいてくれた。

 寂しさや悲しさが落ち着いた頃には、瞼が目も当てられないくらい腫れていて。でもお母さんはわたしが話し始めるまで、ずっと優しく包んでくれていて。

 あの時より、わたしがちょっと大人になった証拠なのかな。不思議と恋人のことを、大好きなせんぱいのことを話せた。

 一つ一つに対して、うんうんとお母さんは相槌を打ってくれて。だからわたしも、心の中を素直に打ち明けることができて。

 会いたい、寂しい、甘えたい。一緒にいたい、離れたくない、そばにいたい。バカみたいに同じことばかり、何度も、何度も伝えた。

 声が枯れ始めるまで繰り返した頃、お母さんはそっと呟く。

「……いろはは、その人のことがそんなに好きなのね」

 わたしは頷く。だって、本当に本気で大好きだから。

「じゃあ、いろはの気が向いた時にでも会わせてね」

 一瞬だけ、迷った。

 でも、すぐに振り払った。

 だって、ずっと二人でなんてバカげた夢を本気で追いかけられるくらいに。いつまでも、なんて絵空事が本当に現実になるって信じられるくらいに。

 わたしは、せんぱいが。

 大好きで大好きで、どうしようもないから。

「……うん」

 お母さんの胸に顔を埋めたまま、ちょっとだけ照れを残しつつ。

 小さく、小さく。

 

 ――わたしは、もう一度頷いた。

 

 

 

 

 




更新するまで一か月以上空いてしまいました、ごめんなさい。
ついに作中時間をリアルが抜いてしまった……。今年中に終わらせられるのかなこれ……。

さて、この場をお借りしまして。
コミケお疲れ様でした。売れるかな……と不安で仕方ありませんでしたが、結果はまさかの完売でした。メンバー全員びっくりでしたw

それに伴い、ちょっとしたお知らせを。
合同誌の再販についですが、活動報告に書いておきました。
欲しかったけど会場に行けなかった方々や売り切れで買えなかった方々がいらっしゃいましたらぜひぜひ。興味が湧いた方もぜひぜひ。

あまり長々と書くのも申し訳ないので、ここらへんで。
それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!

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