斯くして、一色いろはの日常は巡りゆく。   作:あきさん

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どうしようもなく、比企谷八幡は一色いろはのわがままに弱い。

  *  *  *

 

 七月ももうじき終わり、新しく彩られた日常はやがて八月へ舞台を移す。青一色の空から降り注ぐ太陽の光は、本格的な夏がやってきたことを実感させてくれるくらいに強い。

 そんな中、わたしはというと。

「ほら、せんぱいっ! はやくはやく!」

「わかったからいちいち引っ張るな……。っつーか、暑いんだけど……」

 肌を焦がす日差しに負けないくらいのハイテンションで、千葉の街を二人並んで歩いていた。もっと正確には、せんぱいにぴったりと張り付きながら。やっぱり有限実行って大事だしね!

「夏が暑いなんて当たり前じゃないですかー?」

「いや、気温がじゃなくてだな……」

 きょとんと見上げた先から、お前が原因なんだが、と言いたげな視線が注がれてきた。

「やん、そんな見つめられたら照れちゃいますってー」

 わたしはそれを軽くスルーして、恋人の左腕をより強くぎゅっと抱きしめた。んふふー、離してあげなーい!

 春からずっと我慢していた、二人一緒のお出かけ。しかもわたしの甘えたがりを邪魔するものは何もない、とくれば、当然制御不能にもなってしまう。そのくらいには絶賛浮かれ中だ。

「はー、せんぱいの匂い~……」

「おい馬鹿やめろ、嗅ぐな」

「んー……」

「ねぇ、恥ずかしいから。ほら、みんな見てるから」

 がっしりホールドしてうっとりし続けるわたしを振りほどこうと、居心地悪そうにせんぱいが右へ左へ何度も身体をよじる。ふふん、それくらいじゃわたしは離れませんよ。

 逃がさないために、べったりぴっとりくっついて。

 それでも逃げようとして、余計にむぎゅっとくっつかれて。

 お互いに譲らない押し問答を、ひたすら繰り返すことしばし。

「あーもう、わかったよ……」

 一歩も引かないどころか引こうとすらしていないわたしに白旗を上げ、せんぱいが深々と諦めのため息を吐く。やっと観念してくれたらしい。うーん、敗北を知りたい……。

「えへへ……」

 昼間から、しかもこんな街中でなんて。ほんと、何やってんだろって、自分でも思ったり思わなかったり。

 でも、これでいいんだ。

 だって、これが今のわたしだから。

 なにより、昔のわたしが一番欲しかった幸せが。

 現在進行形で、今のわたしのすぐそばに、隣に。

 ちゃんと、あるんだから。

「マジで歩きづれぇ……」

 にへらにへらと幸福感に頬をだらしなくさせていると、歩き出したせんぱいの動きに釣られて腕ごと前に引っ張られた。ただそのなにげない流れが、姿勢が、わたしの心をどんどん高く舞い上がらせる。

 一種の合図、って言えばいいのかな。どうしてもだめって時は、せんぱいがぺしりとおでこを軽く叩いてくる。

 それがないってことは、つまり。

「……せんぱぁい」

「今度は何……」

「キスもしてほしいです」

「これ以上の死体蹴りはやめろ」

「あうっ」

 調子にのっておねだりしたら、今度はぺちんとばっちりNGをもらってしまった。くそー、せっかく毎日せんぱいのために頑張ってお手入れしてるのに……。

 とはいえ、せっかくの二人きりだ。これからまだまだチャンスはあるだろうし、やりすぎて怒られないようにじっくりじっくり……。で、いい雰囲気に持っていったらー……。

 あれやこれやとわたし得な展開や願望を画策していると、うわぁとせんぱいが両眉を寄せた。ひどいな、この人。

「なんかまたろくでもないこと考えてませんかねぇ……」

「さー? 何のことでしょう?」

 くりんと首を傾げ、すっとぼけたものの。

「毎回毎回、すぐ顔に出てんだよなぁ」

「……はっ!」

 指摘され、慌ててせんぱいの肩に顔を埋めて隠す。しかし、頭上からちくちくと刺さり続ける視線が完全に手遅れなことを物語っていた。……だめだこりゃ。

 おそるおそる瞳だけをちらりと覗かせ、白状するようにこもった声でもしょもしょ呟く。

「だって……我慢した分、いっぱいちゃいちゃしたいんですもん……」

 寂しかった、という感情を言外に込めて。最近は放置され気味だった分、余計に甘えたかった。

 それが伝わったのか、わたしを見つめるせんぱいの表情に呆れとは違う種類の色が浮かぶ。

「まぁ、確かに全然かまってやれなかったけどよ……」

「だったらー……」

 瞳をうるうるとさせたまま、じーっと目で訴える。今日くらいわたしをたっぷり甘やかせー!

「……どうすりゃいい」

 お、珍しく効いた。おまけにせんぱいから聞いてきてくれるなんて、これ、もしかしなくても大チャンスだよね? 甘え放題ってことでいいんだよね?

 ……じゃあ、お言葉に甘えてー!

「んーっと……ハグ、キス、なでなで付き……それをセットで定期的にしてもらってー……」

「待て待て待て」

「なんですか、もう。まだ途中なのにー……」

「え……まだあんの? 多くない? 多すぎない?」

「これでもだいぶ削ったんですけど」

「……マジかよ」

 けろりと言い放ったわたしを見て、額を手で押さえながらせんぱいが苦悩の声をあげた。……好きな人といちゃいちゃしたいって思うの、そんなに変かなぁ。

 釈然としないせいで、うーんとしきりに頭を悩ませていると。

「一応聞くが……それって、場所関係なくなんだよな」

「もちですよ。わたしとせんぱいの超ラブラブっぷり、周りにいっぱい見せつけちゃいましょう」

「……オーケー、わかった」

「ほんとですかっ!? ではでは早速……」

「いや違う違う違う、そういう意味でのオーケーじゃねぇから!」

 うきうきとしながら瞼を閉じた瞬間、高速で強めの否定を入れられてしまった。おかしい、なんでだ、いいって言ったのに。

「とりあえず、埋め合わせについては後でゆっくり善処できるよう前向きに検討する方向で調整しとくわ」

 出た、先延ばし。でもその手には乗らないもん。我慢した分、今日は絶対に全力で甘えるんだ。

 わたしは抱きしめる腕の力をふっと弱め、頬をぷっくり膨らませながらそっぽを向く。ただ、絡めた腕は離さずそのままに。

「……せんぱいのばか」

 最後の仕上げに、つーんと拗ねた子供のように呟いた。……ほんとわがままだな、わたし。そのうち叱られちゃいそう。

 わかりつつも、自身の乙女回路に逆らえないあたりが悲しい。

「あー……その、いろは」

「……なんですか」

 困った様子でかける言葉を探し始めたせんぱいと、目を合わさずにぶーたれっぱなしのわたし。二人の間の無言は街の喧騒だけが埋めていて、さっきまでの華やぎが嘘のように止まっている。

 糖度の薄れた空白が続いた後、不意に、隣から息を吐き出す音が聞こえてきて。

「はぁ、しゃあねぇか……。いろいろ我慢させた俺も悪かったしな……」

「へ……?」

 直後耳に飛び込んできたらしくない言葉に、思わず顔の向きを戻す。すると、お互いの瞳同士がばっちりぶつかって――。

「でも今は、これで勘弁してくれ」

 ぼそりとした声と共に、おでこに柔らかい感触が伝わった。

「……はう」

 触れられたのは一瞬だったものの、それは確かにわたしが今日何回も求めた口付けで。……求めていた展開とはちょっと違ったけど、まぁいっか!

 ご機嫌ななめはどこへやら。優しい唇の余韻は、心の曇り空まで一瞬で吹き飛ばした。

「せんぱい、せんぱい、今のもう一回! 次はできればこっちに!」

「ねぇ話聞いてた? しかもハードル上がってんじゃねぇか」

「あうっ」

 勢いに任せてさらに濃く深い愛情をせがんだものの、二回目のぺちりをもらってしまった。流れ的にも雰囲気的にもいけると思ったのになー……。でもでも、ただじゃ終わらせないっ!

「じゃあ、さっきのをあと一回だけ……あと一回だけでいいですから!」

「絶対一回じゃ終わらんだろうが……ソースは今までのお前」

 食い下がっていたら、ばっさりな上にごもっともな指摘までされてしまった。あはー、見に覚えがありすぎて困っちゃう。むしろ見に覚えしかないまである。

「ぐぬぬ……」

「ほれ、もう行くぞ。さっきから周りの視線が痛い。ここからさっさと逃げたい」

「あっ、ちょっと、引っ張らないでくださいよー」

「人を散々引っ張っておいてどの口が言いやがる……」

 ちくりと刺す声に、てへりんっ、と内心でふざけつつ一歩遅れて続く。半ばわたしを引きずる形で先を行くせんぱいだが、歩調はかなり緩やかだ。表に出している雑な態度とは裏腹に、転んでしまわないようちゃんと配慮してくれているのだろう。

 えっへん、わたしの彼氏はとっても優しいんだぞ。素敵なんだぞ。……目はやばいけど!

 なんて周囲に自慢げな笑顔でひけらかしつつ、当初からの目的地である書店目指しぷらぷらついていく。

 思い出の場所は、もう、すぐそこだ。

 時間と共に関係が進めば、また新しい発見がある。わたしの知らないまた別の物語が、きっと見つかる。

 読書を始めたきっかけなんて、不純だらけのどうしようもない自己満足からだった。でも、今のわたしにとっては大事な根っこの部分で。胸の奥深くにしまい込んだ、欠けてはいけない大切な宝物の一つで。

 そして、なにより。

 本来交わるはずがなかった二人を、固く結びつけてくれたのは本の世界だった。

 だから。

「読んでみたくなる本、あるかなー」

 つい、そんな本音が口からこぼれた。

 

  *  *  *

 

 書店の中に入ると、本独特の紙の匂いが漂ってきた。以前なら全然馴染みのなかったこの空気はもう、昔から読書が趣味だったかのようにしっくりくる。

 四方八方にある本棚には雑誌や漫画、小説といった、様々なジャンルの本がぎゅうぎゅうと背差しで陳列されている。その下に平積みされているのは、新刊や今話題の人気作。

「先月出たのって、どんなのありましたっけ……」

「あー……なんだっけな。少なくともお前が好きそうなのはなかったと思うぞ」

「そうですか、残念です」

 確認しつつ、わたしは店内をぐんぐんと進む。かつてとは違い、足取りはふらつくことなく、お目当ての場所へ向かって一直線に。

 やがて、多種多様なイラストが目を惹くコーナーが視界の中を占めていく。わたしはそこで一旦足を止め、すぐ右隣へ意味ありげに視線を流す。

「……けど、実際に手にとってみたら読んでみたくなるかもしれませんね?」

「うるせぇほじくり返すな……。あとそのどや顔と疑問系やめろ」

「あはっ」

 つい茶化すように言ってしまったけど。

「でもわたし、確かにそうだなーって思いますよ。表紙とかタイトルからは想像できない内容だったり、意外なくらい面白かったり……」

 せんぱいの言うとおり、いざ読み始めたら朝まで夢中になっちゃってたとか。また、その受け売りが当てはまるのはもちろん本や読書についてだけじゃなくて。

「……それに、印象だけじゃわかんなかったこともありますしねー」

「だからその顔やめろ、鬱陶しい……」

 誇らしげに付け加えた一声に、せんぱいがぷいっと上半身を逸らした。ただ、かすかに覗く頬は若干の赤みを帯びていて。

「せんぱいのそういうところ、やっぱり可愛いです」

「変なこと言ってないでいいから本見ろ、本」

 当分の間はこっちを見ないつもりらしい。あーもうほんと可愛いなぁ。や、でもこれ以上はやめとこっと。やっぱり帰るとか言い出しそうなレベルで照れてるし。

 恋人とのやりとりはひとまず小休止。わたしは陳列されている新刊を見下ろしながら、ふむふむと頷いた。

「……さて、始めますか!」

「毎回毎回んな気合い入れんでも……」

「いいんですよ、これで!」

 さいですか、と諦めの息を吐いているせんぱいはさておき。

 わたしが本を探す時には、一つだけこだわりがある。今日も今日とて同様のスタイルで、最初はぱぱっと目で判断していく。といっても、イラストに惹かれる、雰囲気がよさげ、ストーリーが面白そう、みたいな感じの大雑把な仕分けだ。

 でも、大事なのはここから。一冊一冊ちゃんと手に取ってみて、ぴんとくるかどうかを確かめていく。や、まぁ、ただの直感頼りなだけなんだけど。

 しかし残念ながら、わたしの探究心をくすぐるものはなかなか見つからない。

「……うーん」

「ん、今回もなさそうか」

「ないっていうか、単純に弱いっていうか……」

 やっと芽吹いた恋心の補正が大きかったにしろ、あの時は心の奥底にまで簡単に至ったわけで。

「お前の場合、ただ単に選り好みしすぎてるだけな気もするけどな。難しく考えるほどのもんでもないだろ」

 違う。

 わたしは、素敵な本をただ見つけたいだけじゃない。ただ読みたいだけじゃない。

 言葉の勘違い、価値観のすれ違い。誰にでもある、よくある間違い。けど、今のわたしにならできることがある。もう、遠慮なく声にすることができる。

「……だって、共有したいんですもん」

 だから、素直な願望を、何一つ偽ることなくそのまま吐き出した。

「これからわたしもいっぱい本を読んで……お互い読んだ本を交換したりとか……。それで、好きな本とか面白かった本とかの、ここがよかったーとか、ここはいまいちだったー、みたいな感想も言い合ったりして……」

 俯いた先、ちょうど真下。そこには、夜空に打ちあがる花火を見上げる男の子と女の子の姿。

 わたしは、イラストの中にいる二人をつつりと指先でなぞりながら。

「……そういうのも、わたし、もっともっと欲しいんです」

 間を空けて、ぽしょり呟いた。

「いろは……」

「わがままばっかり言う彼女でごめんなさい。でも、せんぱいと……せんぱいとなら……って、いつも思っちゃうんです。だんだん我慢できなくなって、どうしようもなくなっちゃうんです……」

 一緒に卓球をして、ご飯を食べて、カフェでだべったりとか。図書館や書店に寄った後は、二人並んで読書して、帰り道が寂しくなってつい電話しちゃったりとか。そんな思い出の中には、小さなやりとりが数えきれないくらいたくさん詰まっている。

 だからこそ。

 これからも一緒にいろいろな景色を見て、二人で写真を撮ったりして。小さなやりとりの中でお互いのことをたくさん話して、またより深く知って、ずっと一緒にいられるように理解して。そんな思い出を数えきれないくらい積み重ねて、わたしとせんぱいだけの宝物にしたい。

 願望を詰め込めるだけ詰め込んだ眼差しで、恋人の顔に瞳で縋りつく。ただ少しだけ、自嘲に近いはにかみを表情に交ぜて。

「んじゃ、それ買うか」

「……ふぇ?」

 いきなり話が飛んだ。そのせいで、思わず間抜けな声が口から漏れ出てしまった。

「あ、あの……そ、それってどれ……?」

「落ち着け」

「ひゃう」

 プチパニックを引き起こしているわたしの頭をぽんと軽く叩いた後、やれやれとせんぱいが別の方向に手を伸ばす。う、嬉しいけど叩いたら直るみたいな扱いはちょっと複雑……。

「ほれ」

 喜ぶべきかむくれるべきかの葛藤の最中、するりと胸のあたりに差し出されたのは、さっきまでわたしが指先を滑らせていた表紙の本だった。

「え、でもこれ……」

「最新刊があるならこの辺に一巻もあるだろ。ないならないで別の店に行けばいい」

 口にしようとした疑問は、せんぱいがしっかり継いでくれた。

 せんぱいが何を言いたいかなんて、すぐにわかってしまう。だって、自分なりに近くで見てきたから。今はまだ短い道のりでも、ちゃんと隣に寄り添って歩いてきたから。

「せんぱい……」

「……まぁ、なんだ。お前と一緒に読む本が一冊くらいあっても悪くねぇしな、俺も」

 捻くれてて、わかりづらいくせに。

 この人は誰よりも優しくて、なによりもあったかくて。

 いつも、なんだかんだ甘やかしてくれる。

 いつだって、最後にはわたしの全部を受け入れてくれる。

「それに前からちょっと興味あったんだよ、この作品。だから、あれだ、いい機会的な……」

 まったく、誰に言い訳してるんだか。

 右へ左へ視線をうろうろとさせ始めたせんぱいを見ていると、つくづく思う。

「……えへへっ。じゃあ、一緒に読みましょうねっ! 二人で……一緒にっ!」

 

 こんなどうしようもない人が。

 ――わたしは、どうしようもないくらい大好きなんだって。

 

 

 

 

 




ぜ、前回よりは早いし……(震え声)
これを投稿する時は、はるのんの誕生日ですね。おめでとう!(白目)
二回目も空気を読まずにかぶせていくスタイル。いやまぁただ単にネタが浮かばなかっただけなんですけどもね、はい。

以下、引き続き告知です。
夏コミ、『1日目東カ-33b』でございます!
私の参加作品タイトルは「人知れず、一色いろははその思いを芽吹かせる」となっております。再掲になりますが、私は一般のほうになります。

許可を頂いた上で、ツイッターのほうに表紙を上げさせてもらいました。
素敵なイラストとなっておりますので、ぜひぜひ!

長々と宣伝失礼致しました。
それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!

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